知への愛「思索・備忘録・箴言」

2019年05月15日




 本作は2012年に読了しているので、今回は約7年ぶりの再読ということになる。
 おぼろげに全体の雰囲気や印象に残ったところは記憶にのこっていたし、結構必死にになって齧りつくように読んだので案外と憶えてはいた。
 だが、今回は著者についてきちんと調べたので、手ごたえがまったく異なる印象になった。

 鶴見祐輔は政治家であり、第1次鳩山一郎内閣で厚生大臣を担当し、1957年には自民党総務。1958年には自民党相談役になった人物であるということを押さえて読んだということである。

 そこですぐに思ったのは、今の政治家よりレベルが遥かに高いなということであり、冒頭にある「序に変えて」に目を通したとき、すぐにそう思ったということである。すなわち、何のために本を読むのかをきちんと伝えんとしていたからであり、その理由の分析がじつに正鵠を得ていたからである。ここで詳しくは述べないが、鶴見が、人物伝、英雄伝を読む意味を語っている箇所だけは引用しておこうと思う。

 デモクラシーのこころは、すべての人が自由に平等にその個性を発揮するということだ。その個性を純真に勇敢に発揮した人々が、ことごとく英雄なのだ。すなわちデモクラシーは、すべての人を凡庸俗悪化するのことでなくして、すべての個人を英雄とすることだ。英雄的気魄をすべての男と女との胸中に燃え上がらすことが、ほんとうの民衆政治のこころだ。人類史中の輝ける時代は、ことごとく英雄的気魄がその民族多数の胸中に奔騰した時代であったのだ。
 
 最近の政治家の発言で、鶴見のようなことを演説したのを、わたしは聞いたことがない。
 口を開けば、制度やその運用に関する蘊蓄であり、かつまた他党への非難中傷であり、曖昧模糊とした愛国心などという語彙をつかっての扇動ばかりであった。
 鶴見のいうような「人間そのもの」を作らなければ、政治などたんなる「力の行使」、ともすれば「権威権力による暴力」でしかないのであるといった演説など、つゆと耳にした記憶がないのである。
 しかしそれは民衆の側にもいえることだ。そんな制度では駄目だ、その法案のここに問題がある云々、わたしを含めてそうだろが、いっぱしに批判や非難はできる。だが、真に人間、ようするに自己を作ろうとしている人はほとんど見かけないのである。
 しかしデモクラシーや民主主義が鶴見のいうように、人間の向上であり民衆が賢明になることを目指すものであるのだとしたら、現代の状況は危惧に値するのではないだろうか。

 民衆の一人一人が賢明になり、多くの人々が引きうけて考え、行動するようになれば、自ずからそうした集団的無意識を体現した一人の英雄が現れるということを、鶴見は端的に語っているといえるのだろう。
 そしてそうした典型の一人がナポレオンであったということである。


 欧州法典、欧州裁判所、欧州共通の貨幣、欧州画一の度量衝が必要なのだ。欧州全体を通じて同一の法律がおこなわれなければならんのだ。おれは欧州を一国にしたいのだ。親愛なる侯爵よ、これがおれを満たすたった一つの解決策なのだ。

 これはナポレオンの回想録にある言葉だ。現在では二つの大戦を経過し、国際連盟や国際連合、あるいはEC、EUをつうじて為ったもの(国際法、国際裁判所、ユーロ貨幣)もあるが、いまだ画一の度量衝というのはなし遂げられてはいない。また、面白いことにナポレオンの時代と同じように、現在もまた英国が欧州の統一に水を差しているのが興味深い。もちろんナポレオンの時代は統一こそ理想と考えられた時代で、カントの提唱した『永遠平和のために』にあるような論理(複数国家が存在したほうが競争心が芽生え、民主化や自由平等の観念が進捗するという思想)がなかったので、ジョン・ロック(政教分離、社会契約、抵抗権を提唱)、モンテスキュー(三権分立を提唱)、ヴォルテール(ルソーと同時代の自由主義者)、そしてルソー(ロックより進んだ、非宗教的な社会契約を提唱)たちが作りあげた、自由主義(理性主義)思想をナポレオンが標榜し、欧州統一の夢を描いたことを批評することはできない。
 そもそも、若い頃に貧窮のなかでルソーの書物を読み漁ったナポレオンなのであるから、こうしたことは当然の帰結といえるし、ルソーの著作も読まず解釈すらしていないような現代人であるなら、彼を批評するのもおこがましいことであろう。

 ただ残念なことにナポレオンの場合、こうした思想は隅々まで知っていたのだが、当人に詩心がなく民衆の情緒に訴えかけるような弁論術を心得ていなかったのが珠に傷であり、彼の場合、政治的軍事的には天才であったのだが、民衆への演説や内外の政治外交においては、強圧と甘言――つまり「力(軍事力)」を背景にした脅し――を用いるやりかたしかできなかったのであり、それこそがナポレオン没落の原因だったといって過言はないだろう。
 もしもナポレオンがカエサルほど雄弁であったなら、欧州はまた違った歴史を記したかもしれなかったのだ。
 無論、歴史に if は存在しないのだが。
 またナポレオンはこうも言っている。

 悠久な人類史に基本的な法則を提示することが、人間の一番大きい仕事だということを悟るやつはいないのか。
 あのドイツの詩人ゲーテだけだな、話せるのは。これだけおおぜいの人間のいるなかで、人間らしい人間はあの男一人だ。あとはシーザーだ。アレキサンダーだ。ルソーとボルテールがいたら少しはおもしろい話ができたろうな。

 
 つまり、ナポレオンというのは徹底的に現実主義であり、政治や軍事といった俗事には精通していたが、ゲーテをはじめとする精神性の部分、弁論や情緒に訴える演説力、説得力には欠けていたのである。しかしすべての天賦の才を持つような人は極稀なのであるから、ナポレオンだってやはり凄かったのである。惜しむらくは、弁術の面で有為な人材を得られなかったのが、ナポレオンだったのだろう。
 無論そこには理由があり、彼が庶民出身であり、コルシカ訛りがあったり、文字も小学生のように下手であったという事実があり、そのために彼は政治軍事的には才能があったが、芸術や創造的なことは苦手だったし、あまり興味が持てなかったのが、その要因であるそうだ。もし彼が、ゲーテのような家柄、あるいはそうでなくとも、食うにも困る貧乏貴族ではなく、幼少期から高等教育を受けられる家に生れていたなら、これもまた歴史が変わっていたかもしれないのだ。シーザーは大貴族の出身。アレキサンダーの家庭教師はアリストテレスであったのだから、そういう点を考えてみても、真にパーフェクトに近い英雄なり偉人というのは、中産階級以上の出身であるという条件が必要であることも見えてくるのであろう。換言するなら、あらゆる人びとへの適切な教育こそ、社会を良くするし有為の人材を輩出するといえるのだろう。


 それに彼はほんとうの休息をしていない。人間の本当の休息は、宗教と家庭と芸術だ。その一つだに彼は持っていないではないか。永遠の実在に一身を委していっさいを忘れる宗教も、地上の純愛に陶酔して世界から解放される家庭も、一曲の神韻に世外の人となり、一幅の名画に登仙する芸術的歓喜も、また一抹の清香に酔い、一輪の野花に心おどる自然愛も、彼にはなかったのだ。

 人間というのは、どうしたって偏る存在である。殊更ナポレオンを責める気にはならない。逆に言えば彼の場合、現実に起こっていることへの分析や対処は誰にも負けなかったといえるのだから。前進! さあ仕事だ。何時間も討議したあと「諸君、まだ午前二時ではないか!」と言える健康で強靭な肉体と類まれな集中力と気分の切り替えの素早さは常人のとても及ぶ場所になかったのだから。


 我執の強い、激しい性格の人間は、この世のなかで仕事も仕遂げるかわりに、自分自身の欠点を認めることのできないのがつねである。しかるに彼が平然として自己の最後の舞台の失敗であることを自認し、かつその理由を他人になすりつけないで、いさぎよく自己の肩上にになったところは、古代ギリシャの哲人のごとき仙味がある。

 ナポレオンはセント・ヘレナでの幽囚の身となってから、1812年ロシア戦役やワーテルローの戦いなど、あるいはまた、政治的な失策についてすべて自己批判し、失敗を失敗として認めている。実に稀にみる自己批判眼の持ち主といっていい。しかし、唯一失敗を認めなかったことがあり、それが皇帝への即位だったそうだ。
 貧窮のなかに育ち、家族を養わなければならなかった。二度と再び家族に貧窮を味合わせたくない。そういう気持ちから兄弟姉妹や親類を国王や皇后にした。しかし、彼ナポレオンの志はその特権階級や世襲主義といった悪弊を社会から取り払うことではなかったのか……。そうした封建社会や階級社会からの脱皮――共和制と民主主義という自由と平等の実現――こそ彼の志ではなかったのか。
 こういうところに自己矛盾があったのである。幼年期に作りあげられた、どうしようもなく捨てようのない執着がナポレオンにもあったのである。

 しかし、彼を皇帝とするか否かの国民投票の結果にだって責任はあっただろう。
 賛成357万2329票。反対2579票。
 つまり、あの当時はまだ民主主義というものがどういうものかを、民衆自身が理解できていなかったのである。だが、そうしたことを現代のわれわれが非難できるものかどうか……われわれは未だに、民主主義というものを理解していないのではないだろうか。


 最後の幕の印象で第一幕の記憶は見物の脳裏から消えるものだ。しかしながら、永久に消滅しないものは、わが輩のつくった法典だ。わが輩の内閣の会議議事録だ。わが輩と大臣とのあいだにとりかわした書翰だ。

 人生で何かを残していきたいとは、誰もが一度は考えることであろう。では何を残していくのが最良か? まず間違いなく思想であり、かつまたその思想を明文化したものであろう。ナポレオンの場合、政治家であったのだから法典を残し、議事録を残すことが使命であったというのは、実に正鵠なことである。
 どこぞの政府のように、議事録は捨てましたとか、改竄しておきながら悪びれもせずにいるなど、もってのほかであるし、そんなことを許している時点で、民主主義のなんたるかを知らない政治家と国民であるといえるのだろう。
 まあこんなことは、マックス・ウェーバーも当たりまえのように言っていることである。
 ちなみに、ナポレオン法典は現在でもフランス民法典として残っているし、使われているものだ。
 他にもナポレオン時代(人名が時代に使われているのは彼以外にいない)に培われたものとしては、ある種の悪徳政治家の見本のようなフーシェが残した警察組織の基礎などもある。
 日本の警察もフーシェの理念をもとに組織されたものであるそうだ。
 
 こうしたことから、警察というものの根本は、権力を維持するための秘密組織であることが窺えるわけである。



 フランス革命があったのは今から約200年ほど前だが、人命の軽さは驚きに値した。すぐ殺す。すぐギロチン。すぐ銃殺。人命のなんと軽いこと……と恐れ入った。
 大砲を盗んで蜂起した市民が弾丸がないことに気づき、バスチーユ監獄を襲う。そうした民衆の中には多くの女性も含まれていた。「やっちまえ!」――阿鼻叫喚の地獄。監獄を警備していたスイス人傭兵などを血祭りにあげて、槍の先に切り音とした首を刺して行進!!

 ベルサイユ宮殿になだれ込んだ民衆もそんな感じだったそうだ。夫人が手にした槍先には生首が突き刺さっていたとか……。当時はキリスト教権威が絶頂期にあり、政治家や貴族と結びついていたので、キリスト教なんかぶっ壊せ! 教会なんていらねー! 破壊しちまえ! と最近火事になったノートルダム寺院なんかも、破壊の限りを尽くされたのだそうだ。血生臭い歌詞の国家をもつフランスは、本当に血生臭い歴史のある国だと改めて実感した。日本だって似たようなものだが。
 極限状態にまで窮するまえに手を打たないと民衆の暴動は恐ろしいものになるという見本ともいえるのだろう。ジャコバン派につくのか、それとも王党派か、あるいはジロンド派か、あらゆる階層が右往左往するのを見て、外国が軍事的に干渉し介入してくる。もう滅茶苦茶だ。暴動、略奪なんでもあり。誰だって、貧窮しない程度に平和に暮らしたいだけだったろうに……。
 正直、そんな時代のフランスに生れなくてよかったなぁ……と思ったのである。パリの街で大砲ぶっぱなすとかどんだけ治安悪かったんだよ……と。そう考えると、ナポレオンが無血クデーターに成功したことがどれだけ偉大かは理解できるだろう。しかしその後、約20年間で490万人もの戦死傷者を出したから、あんまり褒められたものではないが……。だが第二次世界大戦になると、死傷者は5000万〜8000万人なのだから。人類の阿呆さ加減がよくわかる。人類の人命に対する感覚がよくわかる。
 しかしそういう時代を生き抜いた人たちが作りあげたものの上に今わたしがあるのだとも思った。
 複雑な気持ちになる読書体験だったのである。

 ともあれ政治は俗事。俗物のすること。
 金を欲しがる輩には金をばらまき、野望をもつ輩には地位や権威や特権を与えて手なずける。そういう世界であるということだ。この世界で最も俗物が行なう俗事が政治であり軍事であることがはっきりわかる読書でもあった。
 政治家である鶴見が、そういうことを自覚していたというのは、実に立派なことであり、現代では見られない政治家気質であるのだろう。政治家を先生呼ばわりしたり、政治に夢中になってあれこれ批判していい気になるのも、所詮は俗事である。
 そんなことをするより、自己を鍛えて人間的向上を目指すほうがよほど良いということになるだろう。

ipsilon at 02:50コメント(0) 

2019年05月09日





 若くて夢と希望に燃えている人には「希望はある」といって応援してあげればいい。
 だけれども、そうやって頑張っていたのに、何もかもが上手くいかなくなり絶望的な気持ちになった人には、きちんと教えてあげればいい。
 この世界は「一切皆苦」であるし、絶望するしかないと、生れた瞬間から一瞬一瞬死へと前進してゆく絶望でしかないのが生きるということであると。しかし、しかしだ、そのことを知っていること、一切皆苦であり絶望的ななかで生きて行くしかないし、今生きているというその厳然たる事実を知ることが「希望」なんだと教えてあげればいいんだ。
 難しいことかもしれないが、それが真理だ。そういう希望と絶望の関係を知っている人を、仏教では「目覚めた人」というのだろう。

ipsilon at 03:03コメント(0) 

2019年05月03日



 もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい。

 中村元もいっているが、仏教とは尽きるところ、この二点だけである。
 なんともシンプルだが、そのシンプルなものをややこしくしてしまった後世の弟子とは何だったのだろうか。

 『マハーバリニッバーナスッタンタ』は『スッタニッパータ』のような初期仏典と比較すると、すでにブッダの神格化がはじまっていたことは容易に読みとれる。だが、それ以外にも仏教にある思想が多く語られていて興味深い。
 初期仏典が主に出家者に対しての説法であるのに対して、この『マハーバリニッバーナスッタンタ』は、ほとんど在家信者に対して教えを説く旅であること。あるいはまた、当時のバラモン階級、あるいはカースト制に対しての批判的精神が強く見られることがその特徴であろう。

 今でいう高級娼婦の遊女アンバパーリーといった女性や、鍛冶工チュンダというカースト的にいえば、差別される階級の人々にも、ブッダはなんの差別もなく法を説いているのである。この平等観(その根底には自由を求める精神性)や階級制度に対するカウンターは実に見事で、決して色褪せない考え方であろう。

 ブッダ晩年に起こった、提婆達多による教団分裂も、在家信者にも手厚く教えを説こうとしたブッダの寛容さが理解できなかった提婆達多の、仏教は出家教団だけでやっていけばよいという、階級主義にあったのだから。

 一つ大きな疑問が湧いた部分もある。
 ブッダが完全な涅槃にはいるときの瞑想の段階の推移がそれである。それが以下の節である。



 端的に言うと、第一禅→二禅、三禅とすすみ、第八禅(非想非非想処定)にはいり、次に第九禅の「受想滅処定」にはいり、また順をおって、八禅、七禅、六禅と降り、第一禅までおりて、また第四禅まで起って、そこで涅槃に入るという部分だ。

 しかしこうしたものは、あくまでもブッダの最期を看取った側の視点であることには注意がいるだろう。つまり、最後に第四禅に入って涅槃に達したというのは、生身の人間が死んだと覚知できるのは第四禅によるという意味になるのだろう。
 したがって、仏教における最高の禅定は第九禅「受想滅処定」であると考えられているわけであろう。

 そしてこの第九禅「受想滅処定」こそ、ショーペンハウァーの言っている、見るもの(主観あるいは主体)と見られるもの(客観あるいは客体)が合一した意識状態であるのだ。また別の言い方をするなら、これこそが変性意識状態なのである。また換言するなら、熟睡して顕在意識がない状態、あるいは臨死体験や薬物による酩酊状態がこの意識状態であるといって過言はないだろう。したがって、顕在意識があって瞑想によって到達できるのは、第八禅「非想非非想処定」だということになろう。
 つまりそうした表現は、ブッダは神でも超人でもなく、人間として生まれて人間として死んだということを明確にするためであったのだろう。
 実際、唯識学派はそういうことを顧みて八識を説いたのだが、のちに天台や日蓮によって、顕在意識状態にあっても九識(つまり「受想滅処定」)に到達できると言われはじめ、より仏教やブッダが神格化されたといえるのである。

 だがもちろん、第八禅のような瞑想状態は、本人だけにしか覚知できないものであるから、最後に第四禅に戻ってというように、見ている側からの推知によればという表現をとっているのだろう。

 ともあれ、『マハーバリニッバーナスッタンタ』では、生きているときに到達できる涅槃と、死して到達できる完全な涅槃の二つがきちんと書かれており、後の大乗仏教ではそれら二つの涅槃を統合した思想、「無住処涅槃」という思想を導き出せる内容がすでにこの時点で現れていることも注目に値することである。
 ただし、大乗仏教の場合、先述したように生の涅槃と死の涅槃を同一視する無茶苦茶な論理にしてしまったゆえに、涅槃の理解を困難にしてしまった面があるといえるだろう。
 生きているときに到達できない、完全な涅槃(死の哲学)を教法に持ち込むことは、形而上学のことはなるだけ語らないというブッダの思想を踏みにじっているといえるだろう。

 一日一章、六日で六章、本文よりもボリュームのある注釈は読みたいところだけ拾い読みするなら、誰でも一週間あれば読めてしまう、ありがたい経典である。
 興味のあるかたは、手に取ってみてはいかがだろうか。

ipsilon at 19:45コメント(0) 


 本来の仏教における供養にはいかなるものであったかが語られる節。
 供養とはすなわち、尊者や賢者や開祖を敬い、そうした人々に物品を奉ずるものではない。ましてや、教団に金品を献納することでもない。正しい供養とは、尊師や賢者や開祖から教わった正しい仏道を歩む実践行である、ということが供養であると端的に説かれている。
 また正しく仏道を歩む者(出家修行者)は、葬儀にかかずらな、そうした儀礼や祭儀は在家信徒に任せなさいというのが、本来のブッダの教えである。



 そして、この第五章・22節において、とても重要なことが語られている。
 すなわち、ブッダは仏教も説いていないし、仏法も説いてないということである。
 ブッダが説いたのは教えでもなく、法でもなく、「道」である、と。つまり、ブッダが説いたのはニルバーナに到るための実践的な方法だけである、と。
 しかし、後世の弟子がそのことを理解できず、ブッダが教えや法を説いたと誤解して伝えられてきたがゆえに、大乗仏教のような「本尊」であるとか、「教義」であるとか、なにか究極の神みたいなものを法だとか言い出してしまったのである。仏教とはこのような教えであり、仏法とはこのような法であると歪曲され、本来、仏道である実践法をであったものが、宗教に仕立て上げられたのである。

 したがって、ブッダの残したことばを正しく理解するなら、それは「仏(=修行完成者への)道」であり、究極は「八正道」なのである。
 南無阿弥陀如来がどうのとか、南無妙法蓮華経がどうとかいうのであれば、それは仏道を行くものではないということだ。

 八正道――これに仏道(修行)のすべてがあるのである。
 また、ここでいわれている「正」とは、己の煩悩が消えていく方向性のことであり、言うなれば「無(非)我」や「無心」の境地を目指すことである。その対極にあって、仏道からみて忌避すべきは「自我」であり「我執」であり「執着」であり「欲望」、つまり煩悩である。

 また、この「スバッダの帰依」で語られているとおり、「誰それがどうの」とか「誰それの言ってることがあっている」とか「誰それの思想は間違っている」といったことを考えるのは一切おやめなさい、あなたはただ、己自身が仏道、すなわち八正道を正しく実践して歩むことだけを考えなさいということも、非常に重要な示唆といえる。
 それが出来ないから、世の中は他人の批判・批評・非難に満ちあふれているのである。

 したがって、我はブッダのことばを奉ずる(仏教者ではなく、仏教徒でもなく、仏法者でもなく)仏道者なりと思うなら、まずは他人への批判や非難をやめるべきであろう。
 己が正しい仏道を歩んでいる姿を、偶然に誰かが見たとき、そこに歓喜(=アーナンダ)があり、話をすることで、それ以上に歓喜が自然に起こることが、仏道であるから。
 己が正しい仏道を歩んでいることを、無理に誰かに見せる必要もないのである。

 わたしなどであっても、ちょっと前から自分に言い聞かせている言葉がある。
「ふつうにしてればいいんだよ」というのがそれだ。
 無理して良いことをしているのを他人に見せようとすることは、虚栄心であり、また恣意的であり、下手をすればただの自己、、認証欲求であることを、わたしなりに知悉したつもりだからだ。わたしは、わたしが、だからわたしが、などと言ってばかりいるようでは、それはまともに仏道を歩めていないのである。
 「正」とは「我執」から離れる方向性なのであるから、こうした思考であるべきなのは当然といえよう。

 ふつうにしていればいい――、簡単そうで案外と難しいのだが。

ipsilon at 04:02コメント(0) 

2019年05月02日



 第一章から読んできて、最も重要だと思えた部分が、この第四章・十五節である。
 経典にこれこれこう書いてあるからといって、それが真実であると考えてはならない、また排斥すべきでもない、ブッダが説いたであろう、法、戒律、教え、実践法などと照らし合わせて、それが正しいのか間違っているのかを、自分の頭で考えること、、、、、、、、、、が仏道修行である、と。

 誰それの残した文献には決して間違いがないとか、ブッダが説き、経典に残されているものは全て御金言であるから、何一つ間違っていないなどと考えてはいけないということである。「無疑曰信」だとかわたしなどは教えられて、ある時期までそう思いこんでいた愚か者だったが、ある時期にその妄信を破ってきた経験があるだけに、第四章にあるこの教えには強く共感した。

 言うなれば、経典にだって間違いがあると説かれた経典が、この第四章・第十五節なわけである。


 余談だが、以前記事にした『スッタニッパータ』のように、詳細に記事にするつもりがなかったので、第一章については触れていないが、この『マハーバリニッバーナスッタンタ』の内容を要約するなら、「ブッダ亡きあと、いかにして正しい教えを維持し、教団を清らかに維持していくための“戒律”が語られている経典」といって過言はないだろう。
 したがって第一章では、このようにされている組織は衰亡することがないという観点の内容からはじまり、しばらくはそのような内容について、詳細に語られてゆく。
 ただし、戒律といっても一口に考えてよいものではないことには注意が必要である。
 すなわち、戒律とは本来「戒」と「律」に別けられ、「戒」とは修行にあって、個人的な行い(心のなかで思うことも含めて)を法に照らし、己が仏道から外れていないかを確認する推知であり、「律」とは、自他の関係性にあって起こる問題に対して、正しく法に則って対処しているかを、当事者たちが推知することである。

 したがって、己だけが法にしたがっているだけでは、清らかな修行者とは言えないし、他人との関係だけにしか目を向けないでいることも清らかな修行者とはいえず、自他双方に対して、清らかであることを目指すことが「戒律」を守るということになるのである。
 もちろん究極的には、他者との関係を律するのは己であるのだから、結局のところ仏教とは「自灯明・法灯明(諸行無常という法に照らして、己のこれから取るべき行為は適っているかを、自分の頭で考える)」という自分自身に生きるということになるのである。大事なのは法に照らして「正しいかどうか」ではなく「適っているか」であるといって過言はないだろう。

 仏教用語にもとづいて戒律を語るなら――
 三学、三宝、四念処、四聖諦、四神足、七覚支などと分類できるが、これらの内容を最も端的かつ漏れなくまとめたものが「ハ正道」といえるという見方をしておけば、そう大きな問題はないだろう。
 ともあれ、『マハーバリニッバーナスッタンタ』という経典は、そのような、ブッダ亡きあと、正しく仏教が伝授されるのに必要な戒律、心構え、ものの見方、考え方といった内容が沢山、繰り返し書かれているということである。

  施す者の功徳はすぐれたる。
  心を整えれば怨みはない。
  善き人は悪事から離れ、
  欲を滅して煩悩から放たれた。


 誤解すべきではないのは、功徳というのが物質的、および関係性における利益や損得ではないということである。また施しとは、己が自分自身に対してするものであり、他者に対してできるものではないという部分である。
 経典にはこうある――「精神統一は、大きな果報をもたらし、 大いなる功徳がある。精神統一とともに、修養された智慧は、偉大な果報をもたらし、大いなる功徳がある」と。
 精神統一とは瞑想でいうところの「止」――、一点集中(没頭あるいは忘我の境地である)。
 忘我、すなわち無我とか非我の境地にあって見出した叡智、すなわち自他に境はないし、すべてそこに同時に存在しているのだから、あれが無くて困るとか、あれが有ると嫌だといった相対的な価値が全て失われ、あらゆるものがそこに合一されてあるので、そもそも対比するということができない絶対的な安穏を覚知すること(瞑想でいう観)が、「功徳」なのである。あいつが嫌いとかそいつは馬鹿とかいった、そもそも、あいつとかそいつが存在しないのは、すべてが一つに合一されているからなのだが、まあ、人間の顕在意識や理性や悟性、あるいは感性においては辿りつけないからこそ、ふつうそういう世界があることを信じられないのであるし、理解できないのである。だからそいうものを多くの人は、スピリチュアルだとか神秘体験だとかいって、馬鹿にするのだ。
 したがって、功徳とは、無(正しくは非)我になったときに感じる宇宙との一体感であり、絶対的な安穏である。
 現世における、ちんけな願い事が叶ったという微小な喜びとは比較にならないものであるのだ。

 んー、体感してみたい!! ちょっとそれっぽい感覚は味わったことがあるのだが……。
 というか、それを感じるために、今のわたしは努力し、生きているだけなのである。

ipsilon at 03:43コメント(0) 
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