小説・短編『世界――SYNCHRONICITY』

2019年02月18日

 こんな夢を見た。それが夢だったのかと訊かれたなら、「まず間違いない」とは言えない。
 母が脳梗塞で倒れたのはもう随分むかしのことで、何年前のことかはっきりと思い出せないからだ。兆候がなかったのではない。しかし母は、僕が幼少の頃からたびたび片頭痛を起こし寝込んでいたし、片頬を奇異に歪めて笑うことも度々あったからだ。年老いてくれば、うまく手指に力がはいらなくて、茶碗を掴みそこねたり、箸をとり落としたりするものだ。襖の敷居にある段差や、体の傾きに鈍感になって、よろけたりつまづいたりするのもいたって普通のことであろう。しかし、時をへて考えてみると、それらの症状のいくつかは、脳梗塞の兆候であったことは間違いなかったのだ。
 春らしからぬ、すこし肌寒い日のこと。
 空は晴れ、大気は乾燥していたが、心には奇妙な湿りけがじとじとと居座っていた。庭先へとつうじる開けはなたれた窓からは、ナンテンの木がそよ風をうけ、柔らかい葉にみあうように陽光を照りかえしていた。夏になれば、目を凝らさなければ気づけない可憐な花を咲かせる。黄色い雄蕊おしべを守りつつむように小さな白い花びらを開かせる。秋になれば目にも鮮やかな赤い実をたわわにつけて、枝をしならせる。春うららからつづく自然の営み、季節の巡りという連想に、兇兆を見ることなど誰にできるというのだろうか。しかし、心にどっかと居座ったじとじとした奇妙な湿りけこそ、その兇兆だったのだ。
「なあお前、あのな、あの子とのことなんだけどね、――」
 母は仕事場にしている部屋にやってきて、椅子に腰かけると、おもむろに話しだした。その声は、少しおっとりしたファゴットのようで、聞きなれて馴染んだ声音と口調だった。すぐにそれが数か月先に予定されている僕の結婚式のことだと察した。彼女は振り向きもせずにくぐもった声で相槌をうつ、息子の背中を譜面台のようにして、ファゴットを鳴らしつづけた。奏でられた室内楽二重奏はどう贔屓目にしても、美しい楽曲とはいえなかった。ひととおり母の思いを理解しえた僕は、深呼吸したあと振りかえろうとした。
 そのとき、恐怖をそそるような不協和が全身に轟いたのだ。空気を切り裂くような金切り声、悪魔が演奏するパイプオルガンのごとき擦過音。つづいて起こったのは立っていられないほど激しい大地の震動、そのあとに、鼓膜を破って頭を破裂させるような圧迫感と火傷するような熱さ。またそのあとに、あたりの視界を奪う濛々とした噴煙と、頭上から降りかかってくる無数の尖鋭な瓦礫だった。振り返った僕が眼にしたのは、椅子もろとも倒れて痙攣しながら、顔に青と黒のまだらを浮きあがらせて口から赤い血を流している母だった。そのとき僕が耳にしたアンバランスは、心に起こった戦慄だったのか、本当に耳にしたり全身で感じたことだったのか、あるいは母が感じた恐懼と慄然なのか、どれだったのか自信をもって言うことができないのだ。
 遠く近く鳴るサイレンの叫び、意識を錯乱させるように回る灯火、赤と白の車にあるドアが荒々しく開いて閉まる。春には不似合いな焼け尽くほどの日差し。埃っぽく汚れたタイヤがたてる耳鳴り、見知らぬ誰かの声、街の喧騒、過ぎ去る風景は斜線を引いたように流れ去る。汗と塵埃にまみれた不快な肌触り。口のなかは砂を噛んでいて、喉も唇も乾ききっているのに、それでいて全身の血が湧きたっている不気味さ。いいようのない感情に襲われて、着ていたパーカーのフードをすっぽりと被り、膝を抱えてうずくまっていたいのに、同時に怒りと悲しみに衝かれ、救いを求めて両手を突き出して走らずにはいられない。そのときにあった感覚はそういうものだった。
 すぐに救急搬送して早急に手術を受けられたことは幸運なことだった。それゆえに後遺症も残らず、ナンテンの花に蕾がほころびはじめたころ、母は庭先に座ってくつろげるまで回復していた。花が咲くであろう六月の結婚式にもどうやら出席できそうだった。
「なあお前、あのな、式に着る服のことなんだけどね、――」
 母との二重奏はかつてないほど美しい調和ハーモニーを奏でていた。僕たちは結婚後、母と同居することに決めていたので、リビングやダイニングで三重奏を演じることもそう遠い日ではなかった。序章はぎこちなく、ときどきは調子を外すのだろう。緊張もあれば、安堵もあるように、嬰や変のある楽章をへだてて、緩徐楽章アダージョのような完全性をきっと生みだすのだろう。
「あの服なら、伊歩菜いぶながクリーニングに出してくれてるよ、だから心配しなくて平気だよ」
「そうか、ありがとうって言っといてね、お前は頼りにならないとこあるけど、あの子がやってくれるなら安心だ」
 母は純真に微笑んでいた。
 それから数日後、結婚式の日がやってきた。
 白いタキシードの僕、白いウエディングドレスの伊歩菜。そして少し場違いな感じがしなくもない黄色い礼服を来た母は、祝福してくれる人たちに囲まれていた。それはまるで、庭先に咲き誇ったナンテンの花を愛でるようだった。秋になれば三人で暮らす生活にも慣れ、赤い実がたわわに実るような笑いに溢れた日になることを思い描くことができた。式次第はとどこおりなく進み、やがて僕たちは母を真ん中に、手に手を取りあって退場ということになった。誰の顔にも笑顔があった。テーブルを彩った百花繚乱の酒や料理は水気を失って、いささか萎れているようにも見えたが、そこにはいかなる不安もなかったのだ。そのはずだったのだ。
 しかし兇報は突然にやってきたのだ。
 また僕のなかで、あの凄まじい感覚――恐懼と慄然――が起こったのだ。ガラスをひっ掻くような風切り音、閃光と灼熱、大地が割れるような揺れと大音響、衝撃波。そして視覚を奪うように吹きあがった粉塵、積み重ねた岩が次々に崩れるようなドラムロールのごとき鳴動。
 母がまた卒倒したのだ。それは脳梗塞の再発のように見えた。あの青と黒のまだらが母の顔に浮かび上がっていたからだ。
「母さん!」
 僕の呼びかけと伊歩菜が絶叫を発しながら倒れかかる母を抱きとめたのは、ほとんど同時だった。
  何も考えることができないまま、僕は床に倒れている母を両腕に抱き上げた。
「先生……先生に……大平先生に……」
 意識を失いかけながら母は力なくそう囁いた。
 それは緊急手術をしてくれた執刀医の名前だった。
 僕はありもしないパーカーのフードをひっかぶって絶叫したかった。怒りと悲しみの気持ちを声を限りに叫びたかった。喉も潰れよとばかりに叫びたかった。そして実際僕は叫んだのだ。いやそれが僕だったのかはわからない。わからないのだ。もはや僕は僕でなく、地球という世界になってしまったのだろう。
「イムラァ! イブナトゥ! シャクス、マ、ユセァイドニー! セネディー! セネディー、イブナトゥ!」
 黒いヘジャブの隙間から目に映ったのは、全身埃にまみれて、涙を流しながらわたしを見上げて震えている幼い男の子だった。わたしはその少年が今日五歳になったばかりの息子、アルドであることにはたと気がついた。埃に全身を洗わていても、青く澄んだ瞳、愛らしい濃い睫毛でそれが息子だとわかったのだ。そうだ、わたしたちはアルドの誕生日を祝う贈り物を選ぶために街にやってきたのだ。そして腕に抱いているのは、病気がちで半年前に手術をうけ、ようやく健康を享受できるようになってきた娘のイブナだったのだ。イナブもわたしの両腕も血まみれだった。愛する娘の腕はなかば千切れかかり、ぶらぶらと揺れていた。心臓の鼓動にあわせたように流れ出る鮮血の温もりがヘジャブを濡らしているのがわかった。わたしはこの惨状が夢であることを願った。しかし、これが現実であることを知っていた。黒い服が赤い血で染まってゆくのがわかるのだから。
「痛い……痛いよ……母さん……」
 イブナが掠れた声で囁くのを聞いたのだから。
 わたしは夢であれよと思いながら、アルドを顧みて、イブナを抱きかかえたまま立ち上がった。
「イムラァ! イブナトゥ! シャクス、マ、ユセァイドニー! セネディー! セネディー、イブナトゥ!」
 叫びながらわたしは瓦礫のなかに止まっている車をめざして駆けだした。
「シャクス、マ、ユセァイドニー! セネディー、イブナトゥ!」
 これが夢であったならどんなにか良かっただろう。しかしわたしは、この惨禍が現実であることを知っていたのだ。とめどなく涙が頬をつたうのを感じるのだから。アルドの小さな手が血塗られたヘジャブを必死に掴んでいるのを感じるのだから。そしてわたしの耳にはイブナの消え入りそうな呼吸音が聞こえるのだから。
「アッラー、アッラー! アッラー、ハックバル!」
 それはイブナの命が絶望的だと悟ったかのように口をついてでた言葉だった。
「イムラァ、イブナトゥ、セネディー、イブナトゥ!」
 そしてまたわたしはそう叫ばずにもいられなかったのだ。
 ――そして僕は……それが夢であることを祈っているのだ。膝をついて祈りつづけているのだ。僕が僕でなく、わたしや僕たちの世界になったあの日から。何かを信じることが出来なくなったあの日から。
 しかし、それでも確実に言えることはある。僕の住む家の庭さきに、今、ナンテンが赤い実をたわわにしているのだけは、夢ではないのだ。

―完―


実際に見た夢にもとづく創作。

ipsilon at 00:23コメント(0) 
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