小説・短編『行くでもなく待つでもない』

2019年02月24日

「もっと積極的に行くんだよ。今のお前の状況なら、死にもの狂いでやるくらいじゃなきゃ駄目なんだよ」
 その人が、がなり続けるのを耳にしながら思った。僕のワーカーホリックぶりを見ぬいた審美眼には感心する。だけど、こっちの都合も考えずにどんどん仕事を投げつけ、何日徹夜したって追いつかない。そういう環境が嫌になったから、実際、道端で膝から崩れそうになったことが一度や二度ではなかったから、僕はあなたから自由になる道を選んだんだ。
「お前さ、自分でやろうと思ったなら徹して自分でやるんだよ。ふざけんじゃねーぞ、てめーこの野郎、馬鹿野郎めが!」
 前社長、つまり以前に僕が勤めていた会社の代表は、そう怒鳴って席を蹴った。そのときの僕は驚くくらい冷静だった。取り乱すこともなく、ただその会社のあるマンションの一室という狭い部屋から、恩讐を引き連れて世間という広い世界に戻っただけだ。
 なぜ冷静だったのかって。決まっている。会話のなかで社長の狡猾さを見抜いていたからだ。
「俺も独立したあとやったけどさ」
 その一言を聞き逃さなかったのだ。
 渋谷まで歩いて10分。歩度にあわせて流れゆく繁華街は喧騒に満ちていた。老若男女、行きかう人々は多種雑多だった。見慣れていたはずなのに、目に入ってくるものがなぜか新鮮に見えた。フリーランサーになる前は余裕がなくて、行き交う人など目に映っていなかったのだ。
「俺も独立したあとやったけどさ」
 僕は社長がいった一言を反芻しながら、それに渋谷の街で陽気に騒ぐ若者を重ねあわせ、思わず笑いだしたくなった。
 月に数千万円もの売り上げがあったのに、数万円の仕事を奪われたからって、あんなに怒るものなのか。きっと社長はなにか他のことで虫のいどころが悪かったのだろう。確かに、雇われ人から自由人になろうとしたのは僕の積極性からだ。だから、フリーになってからも、お客になりそうな人たちのところに行って何度も頭だって下げてきた。もちろんそれは、会社にいたときに担当していたお客ではなかったのだ。
 渋谷駅のホームにつくと、列車が軽やかな音を立てながらやってきた。ドアが開いてアナウンスの声がした。
「京王井之頭線、東急東横線は乗り換えです――」
 そうだ事実は違うのだ。奪ったのではない。乗り換えたのだ。お客が取引先を乗り換えただけなのだ。お客が行きたいところに行くのに乗り換えるなんて当たり前のことだ。すべてが自分の思いどおりになるわけじゃない。僕はそれきり、そのことを考えるのやめた。

「とにかく待ってちょうだい。今はお金がないんだ。財布の中も見せるからさ。わかってちょうだい」
 一つではなく、幾つもの仕事を依頼してくれる顧客をもてることは嬉しことだ。信頼に応えようと良質な仕事をしてきた自信もあった。だけれども、フリーになってからというもの、金払いの悪い客には随分と泣かされた。財布の中まで見せてそう言われれば、あまり強硬な態度にも出られない。
「わかりました。じゃあ今日とはいいません。その代わり、何時幾らくらい払えるかだけはっきりしてください。それを聞くまでは帰りませんよ」
 事務の女性が給してくれた珈琲が、やたらと苦かった。図々しいとは思ったが、「すいません砂糖、もう一袋もらえますか」と頼んだ。 
「あれの支払いが……で、それからあの仕入は……月末だから、それで……」
 お客は指を折って天井を見上げながら、ぼそぼそ喋りつづけている。あくまでもはっきり返答したくないのだ。僕は置かれた砂糖の包装を破いて、躊躇することなくカップに注ぎ込んだ。それから濃琥珀色をゆっくり掻き回した。まるで自分の心を鎮めようとするかのように。
「何も僕はあなたを脅迫してるわけじゃないんですよ。何時幾らくらい払えるかだけはっきりしてくださいと言ってるんです。あのですね、それだって口約束ですよ。それが守れないことだってあるでしょう。でもですよ、日時がはっきりしないと予定が立てられないんですよ。それがはっきりすれば、僕だってどうにかこうにかやりくりすることだってできますでしょ? 何が何でも約束した日に払えって言ってるわけじゃないんですよ」
「それはそうだよねェ。だけどほら、うちは従業員の入れ替わりも激しいから、用意するお給料がどれくらいかも予想もできないしね……それにほら……何しろうちは水商売だからさァ……」
 ごくりと珈琲を飲んだあと、口から離してカップの中を覗くと、陶器の白い底が見えた。もう一杯を飲み終えるまで待つなんて意地でも避けたかった。苦くて不味い珈琲をもう一杯飲むことを想像しただけで胃が痛くなった。
「わかりました、もういいですよ。今頼まれてるのを納品する予定がありますから、とりあえずその時に幾らかでも払えるならそうしてください。それでは失礼します」
 僕は席を立った。
「珈琲、ごちそうさまでした」
 扉へと向かう間にすれ違った事務の女性にそういって部屋を出た。
 昼日中の新宿の街は閑散としていた。平日の日中はそういうものなのだ。眠らない夜の街、新宿であるのだから当然とも思えた。
 小腹が空いているのを感じた僕は、よく知った道を辿ってコンビニへと足を向けた。着いてみるとガラス張りの店前には、標識に繋がれた犬がいた。両前足に頭を乗せている。どうやら主人を待っているようだ。
「ブルータス、お前もか!」
 胸のなかで犬に向かって叫んだ。僕はその犬をしばらく眺めていたくなって煙草に火をつけた。犬にしてみれば予定など知らせてもらえないし、知ることも出来ない。「いい子にして、ちょっと待っててね」ぐらいの声はかけてもらえるだろうが、主人をいつまで待てばいいのかわからないのだ。ただ信じて待つ――。僕は犬の健気さに打たれて、慰められた気がした。と同時に人間社会の寂しさを感じながら、煙草をもみ消したのだった。

 そんなこんなな日が何年もつづいて、僕は病気になった。身も心も疲れ果ててしまい、壊れてしまったのだ。それからというもの、街を歩くスピードが極端に落ちた。何事もスローにするのが僕にとって救いのように思えたからだ。ゆっくり見て、耳をそばだて、じっくり触れて、しっかり噛んで、味わい尽くして、ゆっくり考える。世間からすれば、その緩慢さは兎の世界に迷い込んだ亀に見えたことだろう。もしかすると牛人間に見えたかもしれない。だけれども、見捨てず傍にいてくれた人もいた。彼女だ。
 ある日、僕の携帯が鳴った。
「水族館でも言ってみない? 何かの気晴らしにでもなるかもよ」
「そうだね、じゃあ頑張るよ」
 電話を切ったあと支度をして僕は待ち合わせ場所へと向かった。ゆらゆらとバスに揺られ、彼女とランデブーして、今度はぐらぐらと電車に揺られ、水族館に着いた。
「ねえ見て、一匹が向きを変えるとみんな付いていくよ、凄いね」
「不思議だね、なんで追いかけるんだろうか」
 生半可に受け答えしながら、僕が見ていたのは魚ではなかった。水槽に写りこんだキラキラと輝く彼女の真剣な眼差しだった。なんでこんなにも真っすぐにものを見られるんだろうか。彼女だからではなく、誰だって何かを夢中になって見ているときの瞳というのは美しいものだ。けれども、面と向き合って見つめ合うのはどうも気がひける。なんとなく恐れを感じる場合が多い。なぜなのだろう?
「この魚、こっち見てる。真正面からだと魚って薄っぺらいし、不細工だけど可愛いよね」
「すっとんきょうすぎるだろー。ぽかん口してさ、鰭もなんだかだらしない」
 僕には、魚がどこを見てるのかがわからなかった。人間とは目がついている位置も違うし、水やガラスのスクリーンを通していたからだろう。だから恐くなかった。平気だった。でもなぜなのだろう? 人間同士の間にある「いま目が合った」という感覚になぜ人は動揺するのだろうか?
 僕は水族館の薄暗さが、一層はっきりと写りこませる彼女の瞳を何度も盗み見しながら順路を進んでゆき、出口までずっと、澄んだ瞳だけがもつ美しさに浸っていた。
 だが、そんな彼女とも別れる日がやってきた。別れはあっけなかった。多分、わからなかったのだ。僕が感じていた安らぎを、彼女は理解できなかったのだろう。だがそういう僕だって、水族館で知ったなんともいえない安らぎの正体を理解していたわけではなかったのだ。

 そうしてある意味で僕は、孤独に似た自由を手に入れた。手に入れたくてそうしたわけではなかったが。だけれども、そういう偶然とも必然ともいえない出来事の連続が、僕にあることを気づかせたといえる。
 僕が通いなれたスーパーには出来た店員さんがいる。その人はいつもお客の顔を見るのだ。特定のお客だけにそうするのではない。どの人にでもそうなのだ。今どきの世知辛く忙しい世間で生きるにしては、珍しい人といえる。
 その店員さんがレジにいるときは安心できるのだ。そして僕はその理由が突然わかったのだ。
 視線が合うのは恋しあえる脈があるとかそんなことではない。必要なときに必要なだけアイコンタクトする。それはどちらか一方が見ようと思ったから視線が合うのではなく、また一方が見られることを望んでそうなるのでもないのだ。
「あと煙草、39番を二つください」
 僕は伝わりやすいように、指を二本立てて見せた。
 すると店員さんは、僕の指先を見て確認した。
「39番を二つですね」
 ちゃんと伝わったかを知りたくて僕は店員さんの表情を見た。
「銘柄はこちらで間違いありませんか?」
 店員さんは、自分が間違ってないことを僕の表情から読んだ。
「はい、大丈夫です」
 僕と店員さんはチラっと目線が合う。
 これがけっこうな苦労をして僕が見つけ出した、素敵な瞬間なのだ。
 言葉は確かに便利だ。話している内容だけあればそれですむ。別に相手の顔を見る必要もない。けれども伝えたいことを違えないようにお互いの意思を確認しようと思うなら、視線を合わせないまでも表情を読みあうのは気持ちがいいのだ。
 もしもまだ僕が彼女と別れていなくて、大喧嘩をしたとしたらどうだろうか。
「ごめんね、私が悪かった、ほんとにごめんね」
「いやいや、俺も悪かった、すまないと思っている」
 そう言葉を交わせたとしても、お互いの本当の気持ちはわからない。視線を合わせたとき本当の気持ちがわかるのだ。視線をあわせられないのなら、どちらかが許せていないかったり、悪いと思っていないという本心を露呈させることなのだから。互いの中に羞恥と容赦があるなら、戸惑うことなく視線を合わせられるはずなのだ。
 一生のあいだに、そういう一瞬を何時間経験できるのかはわからない。しかし、行くでもなく待つでもない視線の交流、どちらからともいえない心の共感を少しでも多く持てればいいなと思うのだ。文字だけのやりとりやSNSでは決して知りえない心地よい刹那があるのだから。

――完――



【おまけ】
拙作と比べるべくもないくらい「行くでもなく待つでもなく」という中道態を表現している作品を見つけた。
だけでなく、その作品はゲーテの思い描いていた芸術創造論もからめ、さらに芸術をうむ時代性までにも言及しているという巧緻さ。
あまりにも見事なので、拙作の恥の上塗りにしかならないが、完璧といえる作品を是非味わって欲しいので、紹介しておくのだ。
幸田露伴『鵞鳥

ガラーリ
 格子こうしの開あく音がした。茶の間に居た細君は、誰かしらんと思ったらしく、つと立上って物の隙からちょっと窺ったが、それがいつも今頃帰るはずの夫だったと解ると、すぐとそのままに出て、
「お帰りなさいまし。」
と、ぞんざいに挨拶して迎むかえた。


書き出しの上手いこと上手いこと……。
しかしまァ中道態であることは意識してしまうと意味がないという難しさがあるわけだ。
視線を合したほうがいいかなと思って暮らしたらあかん。あくまでも自然にしている、ふつうにしているというのが鍵なのだから、それをまた自然に伝えることは困難なのだ。
そしてこの『鵞鳥』は、それを書き出しですでに伝えているという恐ろしさ。
「いつも」「そのまま」とね。いつもその時間に帰ってくるのが夫、普段と変わらず迎えるのが妻。
互いが自然体でふつうにしてるのが鍵だと、たった三行で伝える妙技。
溜息しか出ません……。

ipsilon at 01:07コメント(0) 
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