小説・短編『ワルプルギス亭の足抜け屋』

2019年03月19日


【あらすじ】
ある田舎町にあるバー〈ワルプルギス〉の常連客に、足抜け屋を生業とする、やさぐれた男がいた。世間からは胡散臭く見られていたが、男と同郷の人たちは、けっして彼に冷淡ではなかった。だが、男は強い自意識とコンプレックスから、ある計画を実行することを決意する。故郷の人たちのために、故郷を捨てることを選んだ夜、愛惜の念を抱き、男は通いなれた〈ワルプルギス〉に足を運んだ。しかし、そこで思いもよらぬ事がおこったのだ……。 





       

 必ずやるって決めたんだ。
 耳障りな喧騒に目を覚ますと、俺はそう決断したことを、すぐに思いだした。酔いつぶれて突っ伏していたカウンターから、上体をあげて辺りを見まわした。
 行きなれた場末のバー〈ワルプルギス〉の店内は薄暗かった。
 そこでの俺の通称は、シェイマス・ルアだ。一部の連中は、俺が生まれながらに「J」が発音できないことを揶揄したのが、通称の由来だと言っている。確かに、それに間違いはない。俺はいまだに「J」が発音できないのだから。けれども、通称が気に入っていないわけでもない。俺がいつもかぶっている、赤いニット帽を目印にすれば、足抜け屋のシェイマス・ルアに、商談を持ちかけることは、それほど難しくなかったからだ。
 足抜け屋と聞くと、逃げ足が速いと思うのかもしれないが、勘違いしないでほしい。いや、逃げ足がはやいことは速いんだ、時には逃げざるを得ないことも起こるからだ。しかし、俺の商売は逃げることじゃない。この町やこの国で、にっちもさっちもいかなくなった奴の、逃亡の手助けをするのが、俺の生業だというわけさ。ただしそれには、幾分かの心付けが必要なことは言うまでもなかろう。
 頭のいい奴なら、シェイマス・ルアが、赤毛のジェイコブって意味であることに、気づくんだろう。ジェイコブっていうのは、旧約聖書に出てくる、預言者アブラハムの一人息子、イサクがもうけた二人の息子のうちの一人、ヤコブのことだ。ヤコブがどんな男かを知りたいなら、プロテスタントの連中でも聞けばいい。俺のように子どものころから教会に足を運んでいた奴なら、ヤコブがどんな男かは、常識みたいなものだし、俺はそんなことを、ご丁寧に教えてやる気はないのだから。もっとも教会に目もくれぬ連中は、ヤコブのことを、ジェームスとか、ジャックとか気儘に呼んでいるから、ヤコブのことなど知らないかもしれい。なにしろ最近の若い奴らは、俺が天使のような子どもだった頃のように、聖書なんて真面目に読みはしないんだから。
 それにしても今夜の〈ワルプルギス〉はやかましい。
 女店主のマッヂが、気前よく誰彼となく、酒をふるまっているせいなのだろう。マッヂは愛嬌のない女ではないし、顔やスタイルだって捨てたもんじゃないのだが、自分の愛称にやたらと拘泥しているのか、無銭ただ飲みさせてくれるときは、いつだってマルガリータなんだ。カクテルグラスの縁に塗りつけた塩は、砂を噛んでる気分になるし、グラスから透けて見える、半透明の白いあの色は、寒々しい気分を醸し出すから、俺は好きじゃないんだ。けれども、収穫祭ハロウィンが近いことに浮かれている連中は、そんな好き嫌いには無頓着らしい。
 マッヂが無銭酒をばらまくのは、酒言葉の「無言の愛」にあやかった表現だと言う奴もいるが、ひねくれ者の俺には、そういう風には見えなかった。マッヂとは幼馴染で、お互いにまだ毛も生えそろってない頃から、双子の姉弟みたいな間柄をつづけてきたんだ。だけど、一度や二度は押し倒しちまいたい誘惑に、負けそうになったこともある。実際、美味い酒と甘いムードという条件が整った、大学の卒業式の晩には、危うく理性を失いそうになったんだ。けれども、今でもマッヂを抱きたいかって聞かれたら、恐らく首を横に振るんだろう。幼馴染は幼馴染でこそ価値があるからだ。情愛を持ち寄ったがために、駄目になっちまった友達夫婦を、何組も見てきたせいで、きっとそう思うのだろう。
 だけど幸運なことに、いまだ友達夫婦をつづけている奴らがいることも確かだ。
 〈ワルプルギス〉につめかけた雑多な人群れのなかで言うなら、ヴァガリー夫妻がそれだ。魔女の仮装をして、店の真ん中に腰を据え、顔見知りを見つけると、挨拶とばかりに「悪戯か、お菓子かトリック・オア・トリート!」と奇声をあげて、はしゃいでいるのが、ヴァガリーの女房ウィムジーだ。
 俺はその「悪戯か、お菓子か!」という声を聞くたびに緊張を覚えて、ヴァガリーの女房のほうを盗み見ていたんだが、その理由は、必ずやると決めたはずなのに、心中深くでは、「やる、やらない」を決めかねていることを、見透かされてるような気がしたからなんだ。
 俺は本当に「やるのか、やらないか」を自分に問いなおしながら、着ているジャケットのポケットに手を入れて、そこにきちんと納まっているリコモンを、震える指先で確かめた。だが、ウィムジーは俺のなかで決意が揺れ動いていることなど、まるで気づかぬ様子で、
「なんだいシェイマス、そんなしけた顔をしてさァ。明日は収穫祭なんだし、今夜のマッヂが見せてる景気のよさは、そうあるもんじゃないんだよ。もうちょっと楽しそうな顔をしなさいよ」と言った。
「それとも何かい、柄にもなく、今年もおんなの穫り入れに失敗したことでも気にしてるのかい、いい加減に年貢を納めて、マッヂのいいひとになっちまいなよ」
 酒の勢いもあったのだろうが、どうやら俺は、図々しく思ったことを口にするウィムジーに、嘲弄にされているらしかった。
「なんならあたいが、あんたの健康と、あんたがマッヂに告白できる男になれるようにって、祈ってやってもいいんだよ。さあグラスを持って」
 俺は仕方なくグラスを掲げた。
「乾杯!」
 そのあとウィムジーは豪快に馬鹿笑いしやがったんだ。
 無性に腹が立った。彼女のふざけた態度にはもちろんのこと、ヴァガリーの女房が無頓着な軽口を叩けるほど、存分に酒をふるまったマッヂにも、無性に腹が立った。いやむしろ、マッヂへの怒りのほうが激しかったかもしれない。心中に異様な緊張を抱えていなかったなら、俺はきっと、いきなれた便所に飛び込んで、その床を洗うデッキブラシを引っ掴んできて、マッヂとウィムジーのことを殴り倒していたことだろう。
 俺はなんとか激情を抑えようとして、カウンター越しに立ち働いている、女給仕のミーナに話しかけた。
「あんたはワイン党だったっけ?」
「いいえ、普段はあんまり飲まないんですけど、今日はなんとなくです」
「みんながあの調子じゃ、安心して飲めないってわかけか? もっとも俺は、あんたが酔っぱらったのを見たことがないんだがね」
 彼女は、はにかみながら赤ワインをひとくち口に含むと、それをテーブルに戻して、布巾を手にしてグラスを磨きだした。ミーナは美人とは言えなかったが、かといって見られない顔というわけでない。言うなれば、人を不愉快にさせない、不思議な雰囲気のある表情をいつも浮かべているんだ。彼女の仕草は、淑やかと言いきれるほど上品ではないが、だからといって、田舎娘がもつ土臭さがあるわけでもない。とにかく、こんな町に留まっているべき器量の女ではないんだ。なぜ、こんなうらぶれたバーで働いているのかと思わせる、結構いい女なんだ。あえて言うなら、どこまでもつづく丘陵の草原で、犬を連れながら山羊や仔牛を追う、牧歌的な清爽せいそうさが似合うのだと言えるんだろう。
 だから、ミーナが壁にかかった時計の針が、十二時を刻むのと合わせるように、グラスのワインを飲みほして、
「どうやら時間のようですね」
 と言い、赤いとんがり帽子を頭に乗せたのを見たときには、俺は目を点にして驚いたのだが、彼女がそのあと口ずさんだ、呪文とも詩とも掛け声ともいえない言葉を耳にしたときには、正真正銘の驚きのあまり、椅子から転げ落ちたんだ。

  のこぎり草とヘンルーダ、
  そして赤い帽子にかけて、
  イングランドへ、それ急げ!

 椅子に座りなおした俺は、わが目を疑った。
 ミーナが手にしていたワイングラスを空中に放り投げると、そいつはたちまち白鳥になり、彼女を乗せて浮きあがり、まっしぐらにバーの入口の扉を、飛びぬけていったんだ。さらには、ヴァガリーも、その女房のウィムジーも、ミーナに遅れるなとばかりに、それぞれ鵞鳥ガチョウやらカモに乗って、飛び出してゆく。そうして、それでは私の番ですねという顔をして遂にはマッヂまでが、手にしていたカクテルグラスを、投げあげようとしたから、俺は慌てて、
「ちょっと待て!」
 といって彼女の手からグラスをひったくり、カウンターの上に置いていた赤いニット帽を掴んでから、グラスを宙に放り投げた。不思議なことだが、あとは勝手に進んだ。俺の口から自然に言葉が流れ出したんだ。

  のこぎり草とヘンルーダ、
  そして赤い帽子にかけて、
  イングランドへ、それ急げ!

 すぐにマッヂが俺につづいてくるのがわかった。哀れなことに、彼女がまたがっていたのは、翼あるものではなく、箒でもなく、あの便所掃除用のデッキブラシだったんだ。愉快な気分だった。ウィムジーと乾杯しながら、マッヂに無性に腹を立てたときに味わった鬱憤がたちまち消し飛んでいった。それでも可笑しさは止まらなくて、俺はカモメのうえで抱腹絶倒した。
 だが夜空の旅は油断ならなかった。濃紺の天上いっぱいに散らばる星々のすべてが、流れ星になったかに見える猛スピードで飛翔していたのだから。
 ミーナを先駆けとした一行は、野を超え、山を越え、湖や湿原を遥かに見おろして、意志のある突風のように突き進み、古びた城が見えてくると、スピードを落とした。そうして城内に潜り込める場所を探すために、高度を下げていった。ミーナはもちろん、ヴァガリーもウィムジーも、そしてマッヂも城にある開いた扉を見出すと、そいつをさっさとくぐり抜けていったが、俺にはそんな器用な芸当が出来るとは思えなかった。案の定、開いた扉を見出すことが出来なかった俺は、凄まじいスピードで樫の木でできた扉に、頭から突っ込んで、木っ端微塵になることを覚悟のうえで急降下したんだが、不思議にも俺と俺を乗せた鴎は、一瞬にして蟻のように小さく縮んで、見事に鍵穴を通り抜けたんだ。


       

 廊下の石造りの壁にそって、備えつけられた燭台に炎が灯されていたから、辺りの様子はぼんやりと見えたが、天井が高いらしく、光はそこまで届かず、頭上はまっ黒い影に塗りつぶされていた。空気はほんのりと黴臭く、どこからか、賑やかだがくぐもった人声が幽かに届いてくる。まだ目は闇に慣れていなかったが、さっきまで啜っていた、マルガリータの塩味とほろ酔い気分もあってか、あるいは人恋しさからか、俺は衝動的に音のするほうへと歩きだしていた。どこをどう辿ったのか、わからなかったが、人声は階下から響いてきたので、俺は階段を見つけるたびに、とんとんと駆け下りた。そうして、明りが煌々と灯っている部屋に足を踏み入れた。
「遅かったじゃない、シェイマス。まあそんなことはいいわ。駆けつけ三杯、まずは乾杯よ」
 呆気にとらわれたまま、俺はウィムジーが差しだした、葡萄酒が波うっているジョッキを受けとっていた。
「家のひとは酒が弱くて、飲みっぷりに豪快さがないんだもの」
「また乾杯するのかよ」
「あら、今夜はこれでもどうかなと思って、といってワインを持っていらしたのは、シェイマスさんですよ」
 確かにそうだった。俺はあれを必ずやるんだって決めたとたん、阿呆でろくでなしばかりの顔馴染の連中に、妙な愛惜を憶えて、その夜、差し入れの酒瓶をミーナに手渡したのだ。
「そんなことはいいじゃない、酒はたんまりあるんだし」
 ウィムジーは、いつでもどこでも変わらない。物を深く考えないんだ。
 そして、マッヂは上機嫌そのもの、ジョッキ片手に両腕を開いて、踊るようにくるくると回りながら、歓呼していたのだから。
 ウィムジーの亭主、ヴァガリーは何も言わなかったが、酔いがまわったまっ赤な顔をして、へらへらと笑っていた。
「それでは、皆さんの健康と友情を祝って、乾杯!」
「乾杯!」
 ミーナの音頭にあわせてジョッキを掲げて、ワインを口元に運ぼうとしたとき、驚くべきことが起こった。はずむような叫びをあげたマッヂが、笑いをたたえた顔で、ジョッキのワインを俺の顔めがけて、ぶちまけたんだ。
 一瞬、なにが起こったのかわからなかったが、すぐに顔を拭って目を開けると、笑い声をあげながら、慌てて逃げだすマッヂの背中が目に飛びこんできた。その姿があまりにも滑稽で、怒るより先に仕返ししてやろうと思った。もちろん、マッヂは俺からのワインの返礼を避けることはできなかった。俺もマッヂも下着まで酒浸しになったし、周りの連中も手ひどい被害を蒙ったんだ。
 そこには、ぶちまけるような悪ふざけをしたって、ちょっとやそっとでは、無くならないくらい大量の酒があった。
 だから、それからというもの、樽を転がすような、飲めや歌えやの大狂宴になったんだ。ウィムジーは言うに及ばず、ミーナは、これまで見せたこともないようなご機嫌顔で、頬を火照らせていたし、ヴァガリーは魔女のとんがり帽子をかぶせられて、樽をコンガのように鳴らし、宴に楽の喜びを添え、俺とマッヂは手をとりあって、足がもつれてすっ転ぶまで、踊りまくったんだ。
 俺はそれまで、百万の言葉を用いてでも、思いを理解してもらうことや、百万回働きかけてでも、事を成就させることに、価値があると信じてきた。だが、そんなものより、気の置けない連中と酒を酌み交わすことのほうが、よほど捨てがたいのかもしれない、頭の中でガンガン打たれる鐘の音と、幼馴染の顔がぐるぐる回る光景と、海を漂う水母クラゲのようになった体をもてあましながら、朦朧としてつくづく思ったのは、そういうことだった。


       

 そうして俺は意識を失ったのだが、気がついてみると、やけに窮屈な感じがした。それもそのはず、俺は後手に縛られ、両足も縛られて、床に転がされていたのだから。
「ようやく目を覚ましたな」
 俺は声の主を確かめようと、首をねじりあげた。そうして見たのは、絢爛豪華な衣装を着て、肘掛けに凭れながら頬杖をつき、頭には冠を戴き、えらく不機嫌そうな顔で、俺を睨みつけている男だった。どうやらここの城主であるらしい。
「その方、何の目的があって、この城に潜りこんで来たのじゃ。事情を説明せい」
 請われるままに、俺は事の始終を省くことなく語ったのだが、もとより王が信じるはずもない。
 大狂宴のくだりになると、王様は大口をあけてゲラゲラ笑い、もっと詳しく語れとまで命じた。だがやっぱり俺のいう事を信じない。そうしてどんどん雲行きが怪しくなった。
「この嘘つきめが! すべて出鱈目じゃ。予を久しぶりに噴飯させた功は認めるが、そちはそれ以上に罪深い。なにしろ予の酒蔵を空にしたのだからな。したがってそちを、死刑に処す!」
 中世にあった宗教裁判のようじゃないか。そんなやり口は卑怯だ。おい、弁護士を呼ばせてくれと叫びたかったし、判決に不服を申し立てて上告してやりかったし、金を積んででも陪審員を買収してやりかったが、もちろん、どうにもしようがなかった。俺は黙って、ねじりあげた首をもとに戻しただけだった。
「さっさとこの酒臭い男を連れていって、首をちょんぎってしまえ」
 王はそう言ってケタケタと笑いやがったんだ。
 こうして俺は縄目をうけたまま、荷車に乗せられて処刑場まで運ばれることになった。
 城外に引き出される途中、廊下を運ばれながら聞かされたのは、それでも王は減刑してくれたという、ありがたいお話しだった。つまり、平民の場合、死刑は絞首刑だと決まっているのだが、王を噴飯するほど愉しませたということで、俺を貴族として扱い、断首刑に減じてくれたんだそうな。そうして、絞首刑であろうと断首刑であろうと、どちらであったとしても、ご丁寧に古来からつづく、晒し者にされるときの約束事は守られ、俺の胸と背中には「極悪なわたしは、御城主様の酒を一滴も残らず飲みほした、大悪人であり、大泥棒であります」と書かれた札が垂らされたのだ。ふっと閉じた瞼の裏に、悲しみの道を、十字架を背負ってゴルゴダの丘へと歩く、イエス様の姿が浮かんだ。そして、手足に釘を打つ非情な槌音を聞いたような気がした。つぎには、磔にされた者の足もとに積まれた薪に、火が点じられるのが見え、つぎには、首に縄をかけられた男の立つ台が、どけられるのが見えた。俺は思わず身震いした。これまで数えられないくらいの男と女が、理不尽に残酷に殺されていったということが、実感として胸に湧きあがってきたんだ。けれども、イエス様をはじめとする人びとと比べれば、俺はまだましかもしれない。断頭台の露と消えるとしても、彼らのように苦しまないで死ねるのだから、と思ってはみたものの、やっぱり辛かったし、そんなことは、なんの慰めにもなりはしなかった。
 そのとき、野次馬根性でつき従ってくる、群衆のなかにいた女が、何か叫んでいるのを耳にした。
「ばかな男だね、盗むならもっとましなものを盗めばいいものを!」
 カチンときて、俺は目を開けて、声のした方に首をひねって言いかえした。
「だったら何を盗めばよかったって言うんだ」
 声のした辺りに目を向け、俺はそれらしい女を探した。
「たとえば……たとえばだね……」
 俺と同い年くらいに見えた女は、しばらく口ごもっていた。
「好きな女の心とか、そういうものを盗めばよかったんだよ!」
 懐かしい響きだった。女は俺と同じように「J」が発音できない喋り方だったんだ。
「そうだな、今度生まれてくるときは、必ずそうするさ。今度生まれて来れるとしたらな……」
 女は誰かに似ていた。だけど、もうそんなものは見たくなくて、俺はまた目を閉じた。なぜって、その女の顔は故郷ふるさとと、俺と同じように「J」が発音できないマッヂを思い出させたからだ。それはただ、心中にあった悲壮感を一層深め、俺はここでたった一人、誰にも知られることなく死んでゆくのか、という気持ちを強めさせるだけだったからだ。
 こんなことになるなら、たとえ断られるのが分かっていても、マッヂに気持ちを伝えておけばよかったと、心底自分を情けなく思ったとき、俺の頬に涙がつたい落ちた。
「なんで泣くのよ。あなた男の子でしょ。少しくらいあたしに馬鹿にされたからって、泣くことないじゃない」
 耳の底で、まだ子どもだった頃のマッヂが言った。
 クソ女め! こんなときまでお前は俺に勇敢であれと言うのかと、腹が立った。だけどあの時のマッヂは、そのあと何か言ったんだ。
「あのね、お父さんとお母さんが言ってたの、そういう風に。男の子は人前で泣くもんじゃないって。まして女の子の前で泣くなんてもってのほかだって。でもあたし違うと思うんだ。男の子だって泣きたいときってあるでしょ」
「だったらどうしろっていうんだ」
 俺は涙声で聞きかえしたはずだ。
「これあげる」
 マッヂは自分のかぶっていた、毛糸の赤い帽子を照れくさそうに、差し出した。
「でもね、大人のいう事は間違ってないかもしれない。だから、泣きそうになったら、その帽子で顔を覆ってバレないようにすればいいのよ」
 俺は黙ってその帽子を受けとって、涙を拭った。
 そんなことを思い出したからか、俺の胸に勇気が湧きあがったんだ。最期くらい泣きべそをかかないで、笑って死んでやるさ、と。だけど、その為にはあの赤い帽子がいると思ったんだ。
 そうこうしているうちに、俺は断頭台の前に座らされていた。
「最期に言い残したいことはあるか?」
 執行人が俺を見下ろしながら言った。
「言いたいことは山ほどあるし、やりたいことも山ほどある、それに頼みたいこともあるんだ――」
「見苦しいぞ。最期に適えられるのは、言いたいこと、やりたいこと、頼みたいことのうちのどれか一つだ」
「なら逃がしてくれ」
「それは駄目だ」
「嘘つき!」
「確かに私は、頼みを一つ聞いてやるとはいったが、それを叶えてやるとは言っていないぞ」
「屁理屈だ! それなら俺が酒蔵に置き忘れてきた、赤い帽子をかぶって死なせてくれ」
 執行人は傍らにいた男を呼んで、俺の頼みをそいつに言い伝えた。
「少し待っていろ。いま帽子を取りにいかせたから」
 そのあいだ、俺はイエス様のことを考えていた。
 あのイエス様だって、十字架の上で心が揺れたんだ。はじめは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのですか」と嘆き、つぎに「父よ、私の霊を御手に委ねます」と叫び、最期の最期に「成しとげられた」と言ったんだ。そう思えたとき、俺の心は雲一つない大空のように、晴れ晴れとして勇気凛々になった。
 そのとき、男が帽子を手にして戻ってくるのが見えた。そして、俺はその帽子を執行人にかぶせられた。
「もう一度聞く。最期に言い残したいことはあるか?」
 俺は顔をあげた。目の前には処刑の見物に集まり、固唾を飲んで見つめている群衆がいた。思い出のなかのマッヂ、イエス様、そして赤い帽子をかぶった俺には、もう何も恐いものはなかった。そして、一つ演説でもぶってやろうと決めたんだ。
「俺の両親は、俺をとても大切に育ててくれたし、両親はいつも優しくしてくれた。俺の友だちも、みんないい奴ばかりだったし、そいつらも俺を大事にして優しくしてくれた――」
 そこまで言ったとき、俺は全身に異様な力が漲ってくるのを感じた。縄なんて簡単に引き千切れるくらいに力が漲ってくるのを感じたんだ。そして、不思議なことに、俺の口から勝手に言葉が流れ出したんだ。
「のこぎり草とヘンルーダ……」
 すると、俺は本当に縄を引き千切って、打ち上げ花火のように、天空へとすっ飛びあがったんだ。それで、運よく飛んでいた鴎の背に着地すると、俺はまっしぐらに故郷の町を目指したんだ。


       

 レースのカーテンを通して、窓から差しこむ光の眩しさで目が覚めたとき、酷い頭痛がしていた。宿酔ふつかよいのせいだった。
 奇妙な夢を見たようだが、あれはすべて現実のはずだと思った。俺はベッドを抜けだし台所へ行くと、抽斗ひきだしから頭痛薬を取りだしてそれを飲んだ。それから紅茶を淹れて、新聞を手にした。
 おかしな記事があった。
 ――イングランド王は、以前から懸念され、多くの市民や様々な団体、また一部の教会組織から提言されていた法律改正の要請をうけ、刑法の改正に踏み切った。その内容は、今後一切の死刑執行を全面的に停止するものである。王が死刑の停止を決めた理由は今のところ不明だが、詳細を知る情報筋によると、死刑執行に抗議するような奇蹟が起こったことが、その理由であると囁かれている――
 新聞の日付は1799年10月31日だった。
 壁にかかった日めくりカレンダーに目をやると、日付は2019年10月30日だった。つまり収穫祭の前日だ。毎朝カレンダーを千切るのは習慣のひとつだったし、昨夜カンレダーに触れた記憶は俺にはなかった。
 信じられない思いで、〈ワルプルギス〉に行ったときに着ていたジャケットのポケットを探った。硬く冷たい手触りを伝えてくるリモコンがあった。再び新聞を掴んで確かめた。日付は18世紀のままだった。記事もちゃんと変わらずあった。俺はもう一度ポケットからリモコンを取りだすと、裏蓋を外して電池を取りだし、燃えないゴミ用の箱にリモコンを投げこんだ。

 こうしてシェイマス・ルアと呼ばれる男は、足抜け屋から足抜けして、作家になったのだ。
 つまり、俺は爆弾テロの犯人や、そういう犯罪の容疑者にならずに済んだのだ。そんな俺が確信をもって言えることは、芸術には素晴らしい力があるということだ。百万の言葉を絶叫し、百万の行動であれこれ示威しようが、抱えこんだ怒りは消せないし、そういうやり方は、暴力的な連中を引き寄せ、自暴自棄になったり、集団で他人を傷つけるようになるのだから。
 だが芸術のもつ力は違う。嘘だと思うなら、作家になったつもりで、何か書いてみるといい。とうてい満たされないと思い込んでいる気持ちを、お伽噺にして物語るんだ。喜劇だっていい、悲劇だっていい、風刺劇だっていい、叙事詩だって抒情詩だっていい、まずはやってみることだ。なぜって人間は、昔からそうやって苦悩や悲嘆を、笑い飛ばしてきたからだ。
 その証拠をお見せしよう。

  のこぎり草とヘンルーダ、
  そして赤い帽子にかけて、
  イングランドへ、それ急げ!

 のこぎり草の花言葉は「勇敢、戦い」、ヘンルーダの花言葉は「軽蔑、悔恨」、そして赤い帽子には「無事に故郷に帰るための必需品」という意味が込められている。
 今でも俺は、「J」が発音できないことを馬鹿にされると、この憎たらしいイングランド野郎めが、ぶち殺してやろうか! と思うことがある。だけどそういう気持ちを、あいつらの酒蔵にある酒を、一滴残らず飲み干してやる物語にして馬鹿笑いすれば、案外、気が晴れてしまうのが人間というものなんだ。そして、感受性の鋭い人なら、俺と俺の故郷の人たちが味い、また味わっている痛みを感じとって、同情ではない涙を流してくれるだろう。隠喩を読みとってもらえないからって、嘆く必要はない。物語を読み終えたあと、ああ面白かったと言ってもらえれば、それでいいのだ。なぜって、人を楽しい気持ちにさせるのは、嬉しいことなのだから。
 もっとも、俺を作家にさせたのは、長年の怒りなんかじゃない。俺の足抜け屋になってくれた一人の女のおかげなんだ。
 それは誰かって? ヤボなことを聞くもんじゃない。
「ねえ、あなたー、紅茶を淹れたから、休憩がてら、こっちに来て飲まない?」
 ほら、マッヂが俺を呼んでいる――。

 読者諸兄、それではまた次の物語で、お会いしましょう。

――完――

アイルランド民謡『ミンストレル・ボーイ――The Minstrel Boy

参考文献(原典):
ちくま文庫、W・B・イエイツ編『ケルト幻想物語「魔女の遠出」』



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