ストリート・ロックの時代

 はじまりは1975年。ブルース・スプリングスティーンが「明日なき暴走」で打ち出した「STREET」の匂いのする”都会(まち)ロック”。当時の日本のレコード会社は「ストリート・ロック」、「ストリート・ロックンロール」などと銘打っていた。  スプリングスティーンと歩調を合わせるかのように、ビリー・ジョエル、トム・ぺティなど都会を歌う才能あふれるロッカーが次々と現れたのがこの時代だ。  また、この頃、映画の世界ではロバート・デ・ニーロやスタローン、日本ではショーケン、松田優作など「都会型アンチ・ヒーロー」が現れ、それとストリート・ロックの世界観は完全にシンクロしていた。  日本では80年代に入ると、佐野元春、浜田省吾、尾崎豊などがストリート・ロックのスタイルを颯爽とまといブレイクを果たした。  ワイルドで、でもほのかにロマンティックで、愚直で、でも粋な、ロックンロール。また、”陽のあたらない場所”にいる若者が都会の真夜中に一瞬だけ夢を見る、という”儚いヒロイズム”を内包している音楽。それがストリート・ロック。 (筆者:堀克巳 from VOZ Records) X(旧Twitter)https://twitter.com/horikatsumi

 
 ブルース・スプリングスティーンについて熱く語る人はたくさんいるが、彼の影響を受けた作品が驚くほど数多く作られたあの時代の”現象”について語る人が誰もいないことに疑問を感じて(ちょっと憤りもしながら)、この「ストリート・ロックの時代」というブログを書いた。

 長い間ほとんど更新していなかったのは、正直もう書き尽くしたと言う気持ちになっていたからだけど、ただ、2021年11月にまさに”究極のストリート・ロック”作品がリリースされていながら取り上げていなかったので、それをご紹介してこのブログの最終回にさせていただきます。
 
 スプリングスティーン・ファンにはお馴染みの”ノー・ニュークス・コンサート”だ。
 ノー・ニュークス(No Nukes)とは、1979年3月のスリーマイル島の原発事故をきっかけに、原子力の危険性を訴え、反核を掲げるミュージシャンの団体「MUSE」が開催した慈善コンサートで1979年9月19から23日にNYマディソン・スクエア・ガーデンで開催された。

 スプリングスティーンは9月21日、22日の2日間出演しトリを務めている。
 彼がまさに30歳の誕生日を迎えようとするタイミングでのパフォーマンスだ。年齢的にも体力がまだあり、音楽の完成度も高まってきているとてもいい時期だったのではないだろうか。

 1978年に「闇に吠える街」のツアーを行った彼は、少しオフを取った後「ザ・リバー」のレコーディングに入っている、予想よりレコーディングが長びいたため、それを一度中断してこのコンサートに参加することに決めたらしい。

 今では、政治的な問題にしっかりコミットすることで知られている彼だが、実は初めてそういうアクションを起こしたのがこのライヴだった。それまでにミュージシャンが公に政治的な発言をすることに慎重だった彼は、このライヴでも、原発に関する発言はせずあくまでも演奏に徹するという条件で出演依頼を受けたと言われている。

 なんといってもこの作品の目玉は、DVDの収録されたライヴ映像だ。

 彼のYouTubeには多くのライヴ映像がアップされているが、その中でも1978年の「闇に吠える街」ツアーと1980年の「ザ・リバー」ツアーの動画がやはり飛び抜けてカッコいい。発散されるエネルギーも、キレの良さも破格だ。

 そういう意味でもノー・ニュークスは1979年だから最高の時期で、彼自身もこのライヴについてはバンドのキャリアのピークの一つと言い切っている。
(ちなみに、1979年は、ジョン・キャファティ率いるビーヴァー・ブラウン・バンド、この当時は単にビーヴァー・ブラウンというバンド名だったようだが、スプリングスティーンの地元であるアズベリーパークのライヴハウスでよくライヴをやっていたらしく、そのステージにスプリングスティーンはちょくちょくゲスト出演していたようだ。それもぜひ観てみたかった、、、)

 しばらくライヴ・パフォーマンスから遠ざかっていたので充電もできていたのだろうし、ライヴの持ち時間が一時間半という通常のステージの半分なので、よりエネルギーを集中させることができたのかもしれない。本当に彼の猛烈なエネルギーに圧倒される。

 
 僕はまだ中学生だった1979年にFM雑誌の中の目立たないモノクロのニュース記事で、スプリングスティーンのライヴ写真(うち2枚はクラレンス・クレモンズと絡んでキメているもの)を見て、一目惚れして大ファンになった。どんな音楽をやっているかも知らずに、だ。その写真を切り取って壁に貼って2,3ヶ月の間ただただ眺めていた(その後お小遣いを貯めて「闇に吠える街」を買ってやっとどんな音楽なのかを知った)。
 スプリングスティーンのついては、僕は音楽以前にその”ビジュアル”のファンだったのだ。そんな人は後にも先にも彼だけだ。

 で、この作品でまさにその当時の、彼の動く映像を40年以上経って初めて見たわけだから。ただもう泣くしかなかった(笑。
(ライヴの最後の方でスプリングスティーン、ジャクソン・ブラウン、トム・ペティがステージ上に並ぶ光景を見て、また胸が熱くなった)

 現在のロック界屈指の偉人になってしまった彼だから、今ではみんな彼の音楽性や歌詞についてしか語らない。でも、この時代の彼はそれまでになかった”新しいかっこよさ”を、ビジュアルやアクションでもすごいインパクトと共に示したのだということを忘れてほしくない。

 それは同時代のロバート・デ・ニーロやスタローン、日本ではショーケンや松田優作にも通じる、”ワル”でやり場のないエネルギーを暴発させる、新たなヒーロー像だった。
 彼の場合はE.STREET BANDが彼のキャラを一段と際立たせてくれる。このライヴでのバンドの面々のビジュアルもバッチリだ。こんな若いイタリアン・マフィア(?)みたいな見てくれのバンドは、他にはいなかったのだ(今もいないがw)。


 
 このライヴが大変な評判になったおかげで、彼は翌年のアルバム「ザ・リバー」で大成功を収めることになるわけだから、”ストリートロックの時代”が大きな発火点だったことになる。

 結論を言えば、”ストリート・ロック”とは何かと聞かれたら、この映像を見てもらえばいい。
 
 というわけで、長い間ご愛読ありがというございました!



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2021-11-19

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 ストリート・ロックからの成長

 ”ストリート・ロックの時代”が終わったことを宣言したアルバムとして、以前に僕はスプリングスティーンの「BORN IN THE U.S.A」をあげた。
 それじゃあ日本でそれにあたる作品はなんだろうと考えた時に、浜田省吾の「J・BOY」が頭に浮かび、勝手に腑に落ちた(苦笑。

 誰かに”ストリート・ロック”とは何か?と聞かれたら

<都会で孤独に生きる若者を主人公としたリアルでかつロマンティックなロックンロール>

 と僕は説明する。

 歌の主人公と聴き手の”視点”が一致することにより、聴き手も主人公になったかのような少しヒロイックな高揚した気分になる、というのが<ストリート・ロック>の大きな特徴だ。

 やがて、その視点は成長とともに、ストリートを超えて、世の中を俯瞰してゆくようになる。
 それは年齢的にナチュラルなことでもあるし、ソングライターとしての進歩でもある。それに加えて、スプリングスティーンも浜省も商業的に成功し、たくさんのオーディエンスを獲得したことで”見えてきた景色”が変わったという側面も必ずやあったと思う。路上で燻っている若者の歌だけをずっと歌っているわけにはいかない、と。

 浜省は、『J-BOY』について、前作『DOWN BY THE MAINSTREET』の主人公が成長した姿を描きたかったと語っている。『DOWN BY THE MAINSTREET』は彼の中では最もストリート・ロックに近い作品だ。

 アレンジこそ、リトル・スティーヴンの「真夜中の疾走」のニュアンスがあるが、歌詞は世界情勢を客観的な視点に徹している「NEW STYLE WAR」でアルバムが始まるのが象徴的だ。

「個人がおかれている、例えばドラマであるならばタイトル・バックにロングで引いた舞台設定、カメラがずーっとズーム・インしていくような歌だと思うのね。舞台で言うならセットなんですよね」
             (ロッキンオン・ジャパン)

 映画的に俯瞰した視点から始まっているのだ。

 もう一つ『J-BOY』の大きな特徴は「19のままさ 」「遠くへ - 1973年・春・20才」「路地裏の少年 」という彼が若い頃に書いた曲を入れていると言うことだ。

 映画で言えば回顧のシーンであり、アルバムに時間的な奥行きが生み出される効果がある。

 <俯瞰した視点>と<時間的な奥行き>を獲得した『J-BOY』は、その表現を都会のリアルタイムに徹しているストリート・ロックの範疇を大きく超えてしまったのだ。まさにストリートロックから<成長した>作品だったのだ。

 また、浜省は『J-BOY』制作の当初からエンジニアをジャクソンブラウンの「Hold Out」や「愛の使者」のエンジニアで共同プロデューサーのグレッグ・ラダーニを希望して起用している(ちなみに長渕剛の作品でもストリートロック感が強い2作「HOLD YOUR LAST CHANCE」(1984)と「HUNGRY」(1985)のエンジニアも彼がやっている)。

 これはもちろん彼の好みであるわけだが、スプリングスティーのようにニューヨークのサウンドではなく、LAの音のほうが彼の音楽にはしっくりくるという自覚もあったのだろう。


 ちなみに、日本ストリート・ロックのもう一人の雄、佐野元春は1984年に「VISITORS」、1986年に「Cafe Bohemia」をリリース。”ストリートから生まれる音楽”には固執しながらも、「VISITORS」ではヒップホップ、「Cafe Bohemia」では当時ロンドンで流行している、ソウル、ジャズ、スカなどを取り入れている。
 サウンドとしてのストリート・ロックも旬が過ぎてしまったことをいち早く気づいていたのだろう。



J.BOY
浜田省吾
SME
2021-06-23








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