前歴隠し警官に応募

厳しい訓練、闘争精神培う

 進撃してくる日本軍を初めて見たのは植民地軍司令部のあったバンドンの西部郊外のチマイだった。民家の外で休憩していた。何世紀も我々を支配してきたオランダ軍を追い払い自信に満ちた日本兵はいかにもこわそうな顔をしていた。

 この時、私には二つの選択があった。一つは日本軍の収容所入り、一つは逃げることである。私は日本軍に捕まらないよう植民地軍の制服を脱ぎ拾て、友人と故郷の中部ジャワに戻った。が、私はマラリアにかかり、六力月ほど寝込んでしまった。

 その間に日本軍はまたたくまにジャワ全土を占領、ジョクジャカルタにも日本警察が設立され軍政は着々整えられていった。仕事もなく途方にくれていた私の目に飛び込んできたのが警官の募集広告である。

 前歴がばれたら、と心配しながら思い切って応募するとすぐ採用された。四二年十一月だ。配属は日本人署長の補佐役(当番)である。署長は私に、態度も含め採用試験の成績が一番良かったと話した。軍隊生活を経験したおかげだが、それはもちろん黙っていた。

 日本語の勉強を始めてまもなく署長から日本軍が組織し始めた現地人軍隊、郷土防衛軍(PETA)への入隊を勧められた。五百人の応募者から私ともう一人が選ばれ、訓練施設のあるボゴールに送られた。半世紀後の九五年十一月、私はここでアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議を主催した。

 PETAでの訓練は想像を絶していた。朝五時半から夜遅くまで軍事教練、理論、精神教育が統き、最前線の司令官となる小団長(小隊長)には特に厳しかった。伸間の一人がたるんでいると全員が夜中まで正座をさせられた。

 相僕もやった。五回勝つまでやめられず、きゃしゃだった私はつらい思いをした。「駆けろ、駆けろ」。朝の走行訓練での指導官の掛け声は耳に残っている。私が当時を語る時の用語はいまだに日本語である。

 PETAで直接世話になった土屋競大尉とは大統領就任後の日本初訪問の時も含め二度お目にかかった。静岡県在住と聞いている。上官の柳川宗成大尉(故人)も厳しい軍人精神の持ち主だったが、彼らには我々への気持ちを感じた。PETA出身者の多くが独立闘争の中核となり、後に政権中枢を担う。

 だが、私の日本軍への気持ちは次第に変わっていった。アジアの兄貴分として独立を助けてくれると思い、我々の多くは日本軍を歓迎した。それなのに多くの兵士の行いは我々が受け入れ難くなっていったからだ。農村から食糧が徴発され、人々はビルマ戦線などへ強制的に労務者として送られ、何十万人が祖国へ戻ってこなかった。

 四四年十二月、東ジャワのブリタルでは日本軍に反乱を起こしたPETAのインドネシア人隊長が処刑された。日本軍に批判的になっていた私にも憲兵の監視がついた。私を知る日本人将校がかばってくれたが、私が与えられた任務はブリタルの反乱部隊の立て直しだった。 PETAでたたき込まれた闘争精神、愛国精神抜きには、我々は再植民地化のため攻めてきたオランダを撃退できなかったと私は思う。その意味で日本軍に感謝している。

 しかし、私の実感では日本軍のインドネシア占領は「アジアの解放」ではなく日本自身のためだった。我々が日本軍へ協力したのは独立のためである。四五年八月十五日、日本が連合国軍に降伏した時も私はそれを知らずブリタル郊外で兵隊の訓練任務を遂行していた。

(インドネシア大統領)