August 30, 2019

過剰診断となるスクリーニングはヘルシンキ宣言に違反するか?

(2019年9月2日追記:過剰診断関係の記述が不正確だというご指摘をうけ、その部分を修正しました)
阪大の菊地誠さんが「福島の甲状腺検査は即刻中止すべきだ」と題する論考を上下にわけて2019年6月に『論座』に公開された。
(上)https://webronza.asahi.com/national/articles/2019062000003.html
(下)https://webronza.asahi.com/national/articles/2019062000004.html

ここで菊池さんは「甲状腺検査が医学研究倫理に反しており、受診者の人権を侵害している」と主張する。具体的にどの倫理に違反し、どういう人権を侵害しているかについての説明にあたるのは、(上)の後半だと思われるそこでは、ヘルシンキ宣言の第8項が引用され、「ヘルシンキ宣言の精神に則るなら、そのような検査は許されない。なにしろ甲状腺検査には受診者個人にとっての利益がなく、あとで説明する過剰診断に代表される害があるだけなのだから。」と述べられている。この主張は、(下)でも、「被験者個々人に利益のない検査を疫学目的で続けることは倫理的に許されない。」という言い方で繰り返されている。
この論考はいろいろな観点からの検討が可能であるし、実際インターネット上でもいろいろな議論が行われているが、倫理学を専門の一つとする人間として目をひいたのは、菊池さんがわれわれ倫理学者にとっても馴染み深いヘルシンキ宣言を持ち出して「人権侵害」という強い結論を導いている点である。では、菊池さんの議論の倫理学的な部分はどのくらいきちんと立論できているだろうか。

菊池さんの推論の(わたしなりの)まとめ
菊池さんの「研究倫理違反」「人権侵害」という結論に至る推論をわたしなりにまとめ直すと以下のようになる。

1 現在福島県で行われている甲状腺検査は過剰診断となっている。
   1' ここでいう過剰診断とは、死ぬまで悪さをしない、発症しなかったはずのがんを見つけてしまうことを言う。(修正しました)
2 この甲状腺調査によって甲状腺がんであるという診断を受けた人にとって、診断をうけること自体が長期的な不安をはじめとする大きな不利益となっている
 2' 診断に基づいて治療を行えば、合併症のリスクなどでさらに大きな不利益を被る上に、早期治療で余命が伸びるというエビデンスも特にない(1より)
  2'' 甲状腺調査による受診者本人への利益はない(明示的に述べてるわけではないが、安心などの利益はあくまで親の利益でしかないという趣旨のことが述べられている)
3  甲状腺調査には「被曝影響の有無」を知るという疫学調査としての側面もある
   3'  それどころか、受診者の利益が理由とならない以上、甲状腺調査を継続する主要な目的は疫学調査だと考えざるをえない
4 2, 2', 2'', 3'を総合すると、現在福島県で行われている甲状腺検査では被験者個々人に利益のない検査が疫学目的で続けられていることになる
5 ヘルシンキ宣言では、新しい知識を得るという研究の目的は「個々の被験者の権利および利益に優先することがあってはならない」と定めている。
 5' したがって、「被験者個々人に利益のない検査を疫学目的で続けること」はヘルシンキ宣言に違反している。
6 4と5'より、現在福島県で行われている甲状腺検査はヘルシンキ宣言に違反しているという意味で研究倫理違反であり、人権侵害である。

この推論に対して、用語法(「過剰診断」をどうとらえるか)や事実関係(子供についても過剰診断なのかなど)についてネット上でいろいろ議論が広がっているが、それには踏み込まない。ここで検討したいのは、はたしてこの筋道の議論によって、今回のスクリーニングがヘルシンキ宣言違反であるという結論がちゃんと導けているかということである。つまり、以下の議論では、1と1'については菊池さんの前提を受け入れるものとする(今回の原稿の目的ではないけれども、私自身も、現在私が理解している範囲でいえば、「過剰診断」という言葉のスタンダードな意味において、福島の甲状腺検査で過剰診断が生じている、ということ自体は事実だろうと思う)。その上で、以下(A)(B)(C)の三点の検討をしたい。

(A)ヘルシンキ宣言は被験者個々人に利益のない検査を禁じているか?

まず、上記の5'が妥当かどうか、特に5から導けるかどうかを検討したい。
菊池さんが依拠する該当のヘルシンキ宣言の条文を確認しよう。これは「一般原則」の項目の中に含まれている。

第8条 医学研究の主な目的は新しい知識を得ることであるが、この目標は個々の被験者の権利および利益に優先することがあってはならない。

英語の原文はこちら
https://www.wma.net/policies-post/wma-declaration-of-helsinki-ethical-principles-for-medical-research-involving-human-subjects/
8.  While the primary purpose of medical research is to generate new knowledge, this goal can never take precedence over the rights and interests of individual research subjects.

菊池さんはこの条文から直接「被験者個々人に利益のない」実験の禁止が導けると考えているようだが、わたしにはとてもそうは見えない。そもそも'take precedence~'というのは抽象的な表現であり、何をしたらtake prededenceしたことになるのか明確ではない。
実は、被験者の利益と知識の獲得の関係については、別の条項でより具体的な規定が与えられている。ヘルシンキ宣言第16条は「人間を対象とする医学研究は、その目的の重要性(the importance of the objectve)が被験者のリスクおよび負担を上まわる(outweighs)場合に限り行うことができる。」となっており、これは第8条の内容の一部を具体化させたものだと考えられる。
これを踏まえて読み返すなら、第8条は被験者に直接の利益のない研究をすること自体を禁じたものではなく、あくまでそうした負担と研究目的の重要性などの他の要因を比較考量した上で判断すべきだという趣旨であり、そのバランスを失することがtake precedence~だということになるだろう。実際、治験と呼ばれるものの大半は、効くかどうかもわからず副作用があるかもしれない薬物を投与するわけだし、治験のデザインによっては被験者がプラセボ群にわりあてられることもある。したがって、一般論として治験は治験参加者に何の治療上の利益も約束できない方が普通である(だからこそインフォームドコンセントが重要になる)。「被験者個々人に利益がない」研究をヘルシンキ宣言が全般的に禁止しているというのは宣言全体の読解として無理がある。
では、甲状腺調査が3や3'でいうような研究を目的とした疫学調査だとした場合に、第16条違反には該当するだろうか?これは「被曝影響の有無」について知ることがどのくらいの「重要性」を持つかという見積もりに依存する。菊池さんも言うように、国連科学委員会(UNSCEAR)の報告書などを基礎とするなら、被曝影響はあっても非常に小さいことが予測されるので、その意味では「重要性」は低いという判断はありえなくはない。しかし、被曝影響が調査の中で検出されたという結論が仮に出るならばその社会的影響はかなり大きいであろうし、被曝の影響のありかた一般についての認識が変わることもなくはないだろう。その意味での「重要性」がある、という議論は十分立ちそうである。すくなくとも、菊池さんの考える第8条違反のように、簡単に白黒がつく問題とはならない。

(B) 福島県の甲状腺検査はヘルシンキ宣言の対象となるか

つぎに検討したいのは、3と3'のところである。ここの論がうまく立っていなければ、そもそもヘルシンキ宣言を福島の甲状腺検査にあてはめた結果を見るまでもなく、あてはめること自体が不適当となる。
人を対象とした研究の倫理上重要な区分として、使っているデータが一次的なデータなのか、二次的なデータなのか、という区別がある。研究のためにデータを集めることと、何か他の目的のために集められたデータをもとに研究を行うことは、傍目には違いがわかりにくいかもしれないが、研究倫理上はまったく異なる扱いになる。後者はカテゴリーとしては「既存データの二次利用」に分類され、直接の被験者はいなくなるし、さまざまな被験者保護のルールも適用されない。
さて、現在話題となっている甲状腺検査の場合、公式に述べられている目的は明らかに研究ではない。
「福島県では、チェルノブイリに比べて放射性ヨウ素の被ばく線量が低く、放射線の影響は考えにくいとされていますが、子どもたちの甲状腺の状態を把握し、健康を長期に見守ることを目的に甲状腺検査を実施しています。」
https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/kenkocyosa-kojyosen.html
これを額面どおり受け取るなら、この調査の研究パートは、福島県が子どもたちの「健康を長期的に見守る」ために行っている事業で得られたデータを二次利用しているのであり、研究者対被験者という関係がそもそも成り立っていないことになる。3が言えても3’は言えないということになる。
菊池さんもこれを踏まえた上で、甲状腺検査評価部会の元部会長の発言を引用し、また受診率の低下が問題視されているといったことを指摘して、「現実には被曝影響の有無を知ることが目的化してしまっていると言わざるを得ない」と述べる。つまり、名目上は研究目的の調査ではないが実質的に研究目的の調査になっているというわけである。
しかし、このような告発を行うには、菊池さんの挙げる証拠は非常に弱い。個人的な見解と断った上での発言は調査そのものの目的について評価する材料としては不適当であろうし、そもそも子どもたちに被曝の影響が出ているかどうかを知りたいと思うのも受診率の低下を問題視するのも「健康を長期的に見守る」という目的と特にそぐわないわけではない。こうした告発をするのであれば、菊池さんが示すべきは、「健康を長期的に見守る」という目的と矛盾したりそぐわなかったりする検査が行われているということだと思われる。そうした追加の論点がないかぎりは、3’のような判断は受け入れがたいだろう。

(C) 検査後の治療から生じる帰結は検査をした者の責任となるか

2' は菊池さんの議論の中で、倫理学的にも興味深い問題を提起している。
菊池さんは検査の結果甲状腺がんであるという診断を受けた人が治療を受けたとき、生死にかかわるようなプラスの効果がなく合併症リスクなどのマイナスしかないことを、検査そのものへの反論の中で使っている(修正しました)。というよりも、そうした無益な治療が行われてしまうことが反対する論拠のかなりの部分を占めているように見える(2の不利益として菊池さんがこの文章の中で言及するものは非常に漠然としており、単独ではこんな強い結論につながるようにみえない)。
これは、ある視点からみれば大変奇妙なことである。というのも、治療の際には別途治療のためのインフォームド・コンセントが取られるわけで、そこであらためて本人ないし家族が同意して行われる治療について、その前段階の検査を行った人(つまり治療に関するインフォームド・コンセントにはそもそも関与もしていない人)が責任を問われるというのはまったく言いがかりのように見えるからである。他方、別の見方をすればこの主張はそれほど奇妙でもなくなる。因果関係としては、たしかに、検査をうけた結果甲状腺がんだと診断されたなら、現在のさまざまな社会環境の中では診断内容に応じて(菊池さんも言及するようなガイドラインにもとづき)治療の方針を医師から提示されるだろうし、そのように提示されたら患者側がそれを拒絶することは難しい。したがって、検査と治療を受けることにまつわる不利益の間には強い因果的なつながりがあり、そうした強い因果的つながりによって生じた帰結に対して、検査実施者も責任があるはずだ、ということになる。
これは、倫理学でいえば、権利-義務論的思考と功利主義的思考の違いとしてよく指摘される考え方の違いが現れたものだと思われる。権利ー義務論的思考では、だれにどういう権利があり、だれにどういう義務が発生するのかをベースとして、その権利義務関係に基づいて考えたときにある人に義務不履行などの落ち度があるかどうかで責任の有無が判断される(倫理学では、義務論的思考のこの特徴を「行為者相対的」などと呼ぶ)。つまり同じ害でも、「誰に落ち度のある害なのか」(あるいは誰にも落ち度のない害なのか)が大事なのである。他方、功利主義的思考では、自分の行為の帰結全般がその行為の評価に使われ、自分の選択がある望ましくない帰結を引き起こしたのなら、直接その帰結に関わる行為をした人が別にいても、自分も責任の一端を背負うことになる(この特徴は「行為者中立的」と呼ばれる)。
例を使って言うと、ある人が告白されて相手を振ってしまった結果、その相手は自暴自棄になって犯罪を犯してしまったとする。行為者相対的な思考でいえば「告白されて断る」という行為には何の落ち度もなく、振った人には犯罪について何の責任もない。他方、行為者中立的思考でいえば、もし振った結果自暴自棄になって犯罪しそうだということが十分予見できていたのなら、それでも振ったその人には、その犯罪に対して功利主義的な意味での責任の一端がある。
同様にして、行為者相対的な倫理の視点からいえば、検査に関わる人の責任は、検査の際にインフォームド・コンセントをとるべき範囲とおおむねかさなるだろう。そして、治療によって生じる不利益は治療についての意思決定に直接関わった人のみに責任があることになるだろう。後者の行為者中立的な倫理の観点からいえば、その不利益が生じる因果的なプロセスにかかわったすべての人に、寄与の度合いに応じた責任があることになるだろう。
では、ヘルシンキ宣言の解釈としてはどちらの思考法で読むのが妥当だろうか。実は、ヘルシンキ宣言は権利の尊重と健康や福利の増進の両方の併記を繰り返しており、両方の思考の枠組みを併用しているというのが妥当な解釈だと思われる。そして、ヘルシンキ宣言の功利主義的な側面の読み方としては、検査後の治療にともなって生じる健康や福利の上の不利益について検査実施者も宣言違反として咎められうる、というのはありうる解釈だと思う。
ただし、菊池さんのように、そこからもう一歩すすんで「人権侵害」だと言うためには、今度は権利ー義務論的側面の中で考える必要がある。しかし、すでに見たように、その権利ー義務関係は治療のためのインフォームド・コンセントがとられたところで一旦リセットされると解釈できる。さらにさかのぼって検査実施者によって治療の帰結に関わる不利益をめぐる人権侵害が行われたと主張するのは難しいだろう。
以上の考察は、2で言うような検査自体から生じる不利益にはあてはまらない。検査をうけてがんだと判明することからどのような不利益が生じうるかについて十分な情報が与えられず、その結果検査に同意してしまったというような場合、行為者相対的な視点から言っても検査の実施者の側に落ち度があり、人権侵害が行われたと主張することが可能だろう。

まとめ
以上3点について検討した結論としては、1や1’を認めたとしても、そこからこの検査がヘルシンキ宣言違反や人権侵害という結論を導き出すまでのプロセスは現状では問題が多く、受け入れがたいということになる。議論をより説得力のあるものにするには、依拠する条文を8条ではなく16条にして「目的の重要性」を論じること、より明確に「健康を長期的に見守る」という公式の目的と矛盾することが行われれているという証拠を出すこと、そして、「人権侵害」と強く言いたいのなら、治療ではなく検査結果そのものから生じる不利益をより強調し、それについて十分なインフォームド・コンセントが行われていないことを議論の中心に据えることなどが考えられる。






iseda503 at 16:20|PermalinkComments(7)

March 27, 2019

蝶名林亮『倫理学は科学になれるのか』に以前つけたコメント

佐藤さんの『メタ倫理学入門』へのコメントをまとめていて、そういえば蝶名林さんの『倫理学は科学になれるのか』にもコメントをつけたのを思い出した。以下は2017年3月11日に開催された京都生命倫理研究会での『倫理学は科学になれるのか』合評会の資料として書いたものである。当日のリプライを聞いて取り下げた点などもあった気がするが、それはさすがにもうわからなくなっているので資料として作成したものをそのまま転載する。

1 大きな事項
1-1 総合的倫理自然主義は魅力的か?(pp.29-32)

内的適合と外的適合の2つをよりよく満たす立場だから総合的倫理自然主義が魅力的だ、と著者は言うが、疑問がある。

適合と訳すとなにか整合性のような要請に聞こえるが、原語はaccommodationなので、どういう要素を取り込んでいるか、どういう要素に自分をあわせていっているか、という問題。何をaccommodateするかは選択の余地があるはずで、何か強い正当化の基準になるとは考えにくい。

内容的には、「哲学的自然主義との適合性を外的適合の重要な要素であると見なした場合」(p.29)は総合的倫理自然主義が魅力的だというが、哲学的自然主義は根本的に哲学というものを勘違いしているという立場からは逆のことが言えるわけで、何か中立的な判断基準になるとはとても思えない。

内的適合(常識的な道徳についての考えをaccommodateできる)という点で総合的倫理自然主義は優れていると(p.31)いうが、なぜかこの論点で定番の話題である道徳判断と動機付けの内的連関の話には触れない。この論点を考えるなら表出主義と自然主義はどちらも部分的にしか常識的な道徳についての考えを取り込むことができず痛み分け、というのが教科書的な(そして妥当な)まとめかたであろう。

1-2含意という言葉の用法と、経験的性質としての自然的性質について

34ページに「含意」という言葉が使われ、このあとその言葉は本書を通じて大量に用いられる。しかしこの含意という言葉は何を想定しているのだろうか?一般の分析系の哲学書ではimplicationの訳として使うことが多いが、蝶名林氏は明らかに論理的implicationではないものに含意という言葉を多用しているように見える。

34ページのMとNからMNが含意される、という点については、おそらく43ページの<<経験的性質としての自然的性質>>を補えばNからMNが導けるということなのだろう。厳密にいえば<<経験的性質としての自然的性質>>を道徳的性質にあてはめたとしても「MNならばN」までしか言えないのでこれを補ってもNからMNは論理的には導出はできないがそこまで固いことは言わないことにしよう。

ただ、<<経験的性質としての自然的性質>>自体がかなり極端な主張に見える。「知ることができる」という表現の「知る」や「できる」にどういう意味をもたせるかにもよるが、調べるには小さすぎるもの、大きすぎるもの、大昔のこと、遠い将来のことなど、自然世界に属しながらも経験的手法で真偽を知ることができないことは多い。そういうものを全部「自然的性質」から排除すると大変狭い現象主義に陥ることになる。逆に、カント的定言命法がアプリオリな真だとしても、個々の事例において定言命法に従った行為が行われているかどうかはけっこう経験的に調べることができるが、<<経験的性質としての自然的性質>>の考え方だとカント的定言命法も自然的性質ということになるのか?

1-3 基礎的な道徳的命題と派生的な道徳的命題は区別しなくていいのか?p.45

「Nが主張していることは、道徳的性質に関する総合的命題は少なくとも経験的証拠によって反証され得るものである、という主張であるということになる」

一応確認だが、Nが主張しているのは「道徳的性質に関するすべての総合的命題は少なくとも経験的証拠によって反証され得るものである」ということなのか?(46ページの方は「すべての」が入っている)
というのも、反自然主義者も、もっとも基礎的な道徳命題以外は経験的証拠によって反証されうることを認めるだろうから(さきほどの定言命法の例)。

ここはほんの一例で、本書を通して、自然主義か反自然主義かという話をする際に基礎的な道徳的命題と派生的な道徳的命題の区別があまり意識されていないように見えることが大変気になる。以下の1-15でこの問題をもう一度とりあげる。

1-4 説明をモデル化するのでないアプローチ(pp.61-62)

ヘンペルのモデルへの対案として、メカニズムの提示、包括性、単純性などの基準を使って最も適切な説明を探すという考え方を提示しているが、これはレベルの違うものを比べる誤りを行っているように思われる。たとえば、何が最も包括的な説明か、を比べるには、まず何が説明の名に値するかが決定されなくてはならず、ヘンペルのモデルや「科学的説明」論争におけるヘンペルへの対案はまさにそれに答えようとしているわけである。単純性についても同じことで、もっとも単純な説明を探す前に、そもそもどれとどれが説明をなしているかの判断が必要である。

「メカニズム的説明」は「yがxのメカニズムになっていたらyはxを説明する」といった形でヘンペルへの対案となりうるが、説明の理論として狭すぎる(明らかにメカニズム的でないものもわれわれは説明と呼ぶ)のと、結局メカニズムの個々のステップになんらかの被覆法則モデル的な裏付けが必要だという疑いがあるのとで、ヘンペルへの対案というよりは実際には補完物という感じである。

単純性については、上記の問題(何をもって説明と呼ぶかが決まらないのにどの説明がより単純かなどという話はできない)に加えて、そもそもこれを良い説明の条件とすることへの疑いがある。確かに物理学や化学では複雑な現象の背後に単純な法則性を見出すという手法で大きな成果が得られてきたが、生物学、心理学、社会科学などの領域では、むしろ最初に作られた単純な第一近似にさまざまな例外条項が付け加わっていくことで理論が進歩していく(つまり第一近似を得たあとはむしろ複雑な説明の方が正しい説明となっていく)傾向があるように思われる(シンプルなメンデルの法則から出発しながら、今ではもはや原型をとどめないほど複雑になっている遺伝学などを考えてみるとよい)。

1-5 説明テーゼをメタ倫理学者はみんな受け入れるのか (pp.63-65)

蝶名林氏は、マッキーやネーゲルを例にとって、非実在論者も説明テーゼ(ある性質がわれわれの経験する現象の最良の説明に欠かせないという説明的利点を持つならその性質は「存在論的権利」を持つというテーゼ、p.58)を積極的に否定する理由はない、と主張する。

マッキーの場合、最善の説明に道徳的性質が登場しないから道徳的性質は存在しない、と主張していて、蝶名林氏はこれが強い説明テーゼになっているとまとめている(p.65)が、おそらくマッキーの議論はそこには依存していない。それについて知るだけで動機づけられるような奇妙な性質が存在するとは考えにくい、という、もっと積極的に道徳的性質の存在を否定する議論をマッキーは持っているからである。

それ以上に、ここでは考察されていないが、非認知主義者には、説明テーゼを否定はしないまでも警戒する理由があるだろう。非認知主義者からすれば道徳的性質を使って何かを説明するという考え方自体が意味不明であるが、そんな意味不明なことを思いつく実在論者のことだから、何を最善の説明と見なすかなどわかったものではない。科学的実在論論争でも、観察不可能なものへの最善の説明への推論を拒否するのは反実在論側の基本戦略であり、メタ倫理学における非認知主義者はそれを踏襲して有利になることはあっても困ることは何もない。

1-6 モーガンのスタージョンへの反論とそれへの再反論(pp.79-80, 218-224)

モーガン(Morgan 2006)のポイントは、道徳的価値の実在論を説明力で擁護するなら、同じことがありとあらゆる価値についてできてしまうということ。道徳的価値がわれわれの動機構造に影響することで社会的効果を生むなら、非道徳的価値(モーガンの例はニーチェ的な高貴さという価値)もわれわれの動機構造に影響するし、社会的効果を生むだろう、という話。79-80ページの蝶名林氏による紹介は、スタージョンの例に引きつけたせいもあるだろうけれども、だいぶ蝶名林氏の解釈が入っているように思われる。「つまり、フランスの支配層も自己中心的であるべきではない、という結論が出されなければ、自然主義による道徳的実在論の擁護は失敗しているように見える」(p.80)とモーガンの主張をまとめるが、モーガンはこの論文でそんなことを主張しているようには見えない。むしろ、自然主義者の多くが外在主義者でもある以上、道徳的価値は望ましいが高貴さという価値は望ましくない、みたいなやり方で区別することはできないはずだよね、道徳的価値だけが実在すると言いたいのだったらそれはうまくいかないよ、というのがモーガンのポイントだと思われる。


蝶名林氏のモーガンへの批判の方はかなり無茶なものになっている。蝶名林氏自身が「サンプル理論」として提示した理論の中に登場する「福利」の概念を持ち出し、それと相性がわるいからという理由でモーガンが非道徳的価値を使って行う説明がもっともらしくないと言う。蝶名林氏のサンプル理論はモーガンが当然前提としなくてはならないほど2006年には有名だったのだろうか?仮にそうだったとしても、当然非道徳的価値は蝶名林氏が言うような(道徳的な意味での)福利とは全然別の背景理論を伴って主張されることになるだろう(モーガンが例として使うのはニーチェ哲学なのでニーチェ哲学のさまざまな要素が背景理論として働くことになると思われる)。


1-7 ボイドの科学的実在論における背景理論とは何か(pp.90-91)

蝶名林氏はボイドの道徳実在論のバックグラウンドとしてまずボイドの科学的実在論を紹介するが、それがどうもポイントがきちんと押さえられていないように思われる。90-91ページにおいて科学における背景理論が理論構築に使われる、という部分を紹介しているのだが、具体的にどんな背景理論を使ってどんな理論構築を行っている場面を想定しているのかまったく伝わってこない。

ボイドの科学的実在論においては、背景理論というのはかなり具体的に、実験器具などを組み立てる際に使われる理論が想定されている。電子顕微鏡はさまざまな研究に使われるが、電子顕微鏡という装置は電子が波としての性質を持つことを利用している。そして、電子顕微鏡を使って得たデータに基いて構築した理論が大きな成功を収めるならば、電子は本当に波としての性質を持つとしか考えられない、というのがボイドの議論である。一般に言われる「奇跡論法」とはかなり違う入り組んだ論証をしているのだが、あまり科学哲学の教科書等で紹介されていないので分かりにくいかもしれない(そういえばメリーランド大学にいたころにマイケル・デヴィット先生の科学的実在論の授業に出席していたが、実在論者のデヴィット先生も、「科学的実在論がこんなデリケートな議論に依存しているとはとても思えない」とボイドの路線には批判的だった)。

このあとこの本では「背景理論」という言葉がかなり自由に(恣意的に)使われるのだが、そんな状態になってしまった一因はそもそもボイドがどういう論証をしていたかを理解していなかったことにあるのではないだろうか?それとも、蝶名林氏はボイドの議論はよくわかった上で、科学における実験装置にあたるようなものや、実験装置を作るために必要な理論にあたるものが見当たらないので、わざとぼかしたのだろうか?

ところで、90ページの背景理論に関する箇所の冒頭で「決定不全性の問題に応えるために」と蝶名林氏は述べるのだが、普通は背景理論を視野に入れると決定不全は大きくなる(予想と異なる結果が出た時に修正の対象になるパーツが増えるから)。ここの記述を見ても、蝶名林氏が、ボイドは決定不全の問題に背景理論を使ってどう答えたと思ったのかは読み取れないが、どのように解釈して「決定不全性の問題に応えるために」と書いたのだろうか。

1-8 規範理論に何が含まれるか(p.99ff)

蝶名林氏は、規範理論が記述的な側面を持つ、と言ったあとでその記述的側面の例として、「嘘をつくというタイプの行為には悪さを帰属させることができる」(p.99)というのが記述的だと言う。これはメタ倫理学で伝統的に使われてきた「記述的側面」の用法とはまったく異なるし、非認知主義はそもそもこれを記述とは認めない。

次に規範的主張を説明するための情報源が含まれるというが、そこでその説明は「非因果的説明」であると蝶名林氏はいう。しかし、それこそその人のメタ倫理上の立場次第では規範的主張に与えられる説明は因果的説明でもいいはずである。

氏は次に、そうした情報源を含まない規範理論は「自説が提示する道徳的主張を正当化する手段を持たない」と言うが、この主張も疑わしい。そもそも規範理論がその意味で自足的でなくてはならない義理はない(外部から正当化が与えられてもいいはず)。また、規範的な主張の体系をさかのぼっていけば、どこかしらで何の正当化もない主張を受け入れざるをえない(これは規範的主張にかぎらず、たとえば経験的な主張の体系でも「観察に由来する信念はおおむね信頼できる」のような主張を無根拠に受け入れざるをえない)。

101ページでは、規範的理論の例が挙げられているが、そこで説明の例となっているのは「誰にとっても理性的に拒絶できない」かどうかという基準である。この基準を正当化ぬきに受け入れていいのなら、元の規範的主張を正当化ぬきに受け入れてなぜいけないのか、という疑問や、この基準は「自明に悪いものは悪い」「他人に危害を加えることは自明に悪い」みたいな「説明」と何か違うのだろうか、という疑問が生じる。

総じて、規範的理論に何が必要かということについての蝶名林氏の考えは穴だらけのように見える。

1-9 道徳的実在論と科学実在論のアナロジー(p.102, p.108, p.117)

蝶名林氏はボイドの紹介をしつつ、道徳的実在論と科学的実在論の間には十分なアナロジーがあるというボイドの主張をおおむね受け入れているように見える。しかし、その際に挙げられる類似性のポイントには、本当に科学的実在論論争を理解しているのだろうかと首をかしげるものが含まれている。

具体的には、道徳的理論構築にも科学理論構築にも反省的均衡が使われるとか(p.102)、道徳的判断の形成にも観察の理論負荷性に類する特徴があるとか(p.108)、デュエム=クワインテーゼが成り立つとか(p.117)ということが、両者の類似性として挙げられている。しかし、この3つのポイントは、どれも科学的実在論にとって不利な特徴である。反省的均衡は均衡点が複数ありうるし、観察の理論負荷性は観察が理論を独立にテストする能力を疑わせるし、デュエム=クワインテーゼは互いに存在論的に矛盾する複数の理論が経験と整合するという主張で、現在われわれが受け入れている理論を信じる理由があるかどうか深刻な疑いを投げかけることになる。つまり、道徳理論と科学理論がともにこれらの特徴を持つということは、道徳理論も科学理論と同じく実在論的に解釈できるということではなく、科学理論も道徳理論と同じく実在論的な解釈に疑義が有るということを示す証拠になってしまっているのである。

1-10 規範理論に対する背景理論の恣意性(p.108)

すでに1-7で指摘したように、蝶名林氏はボイドが科学理論に対する背景理論としてどういうものを想定しているか非常に漠然とした説明しか与えていない。ボイドは道徳理論についてはそもそも自分では何が背景理論に当たるか説明しておらず、蝶名林氏が推測でその部分を補っている。

しかし、101ページで提示されている規範理論の構成要素と、108ページで与えられている背景理論の間に、何か本質的な部分で大きな違いがあるように見えず、なぜそれを全体として一つの規範理論としないのか理解できない。悪い言い方をすれば、ただ背景理論と照らし合わせているという形をつくるために、区別する必要のないものの間で「規範理論」と「背景理論」を分けているように見える。

1-11 ボイドの規範理論の背景理論は最善の説明か? p.111

「もしボイドの規範理論が経験的信頼性を有しており、かつ、その理論構築の仮定[過程?]に背景理論の想定が見られた場合、この2つの特徴を説明するものは何か。この問いへの自然な答えは、この理論を支える背景理論が少なくとも近似的に真であると想定することだろう」

しかし、道徳的善さが存在しなくてもそうした経験的信頼性が生じうるというのは本当に「一種の奇跡を想定」(ibid.)しなくてはいけないだろうか?蝶名林氏は本当にこの議論を細部まで埋めて具体的に考えてみたのだろうか。同じ観察的事実を説明できる他の仮説をいろいろ想像してみただろうか。

電子が存在しないと考えるとなぜ電子顕微鏡を通して得られた像が他のやり方で得た証拠ときれいに一致するのか、説明が非常に難しいが、それと同じことが「道徳的善さ」について本当に起きているだろうか。

1-12 動機内在説へのボイドの応答 p.113-115

自然主義への定番の反論として、道徳判断には動機が内在的に関連しているという常識的見解との齟齬がある。ボイドは(蝶名林氏のまとめによれば)自分や他人の福利について正しく知識を得るためには同情心という能力が必要であり、その同情心が動機づけにもなる、と論じている。

蝶名林氏はこの戦略について論評していないが、逆にいえばある程度説得的だと考えているのだろうか?しかし、同情心がなければ自他の福利の状態について知識が得られないというのも疑わしい(優秀なサディストはどんなときに他人が苦しむかを知り尽くした上であえて相手を苦しめるだろう)し、かりにその部分が正しかったとしても、福利の状態と直接関係しないような道徳判断も動機と内在的な関係を持つという常識的見解とはあいかわらず大きな齟齬がある。

1-13 サンプル理論は実在論的に解釈できるか (第五章)

第五章は、蝶名林氏の考えるサンプル理論に対して理論論証が適用される、本書の核となる章である。しかし、この章での論証は残念ながらとうていまじめに道徳的性質の実在性について考えて組み立てられているようには見えない。

まず、サンプル理論の主な経験的含意が130ページで与えられる。不要な要素をとりのぞいて骨組みだけ残すなら、蝶名林氏が言っているのは「正しくないものはXという性質を持つ」と「Yは正しくない」の二つの前提から「YはXという性質を持つ」という結論が導き出せて、XとYの組み合わせによってはこれが経験的探究の対象になる、ということである。蝶名林氏はこうした経験的含意を持つのは帰結主義的理論や、少なくとも自然主義的理論の特徴だと考えているようだが(6.1節参照)、この骨組みを見れば明らかなように、正しさについてのおよそあらゆる理論についてこの意味での経験的含意を導き出すことができる。逆に、「YはXという性質を持つ」という形の経験的言明が与えられれば、簡単に「価値Pを持つものはXという性質を持つ」と「Yは価値Pを持つ」という二つの命題からなる、経験的信頼性を持つ「規範理論」が生成できる。こんなお手軽な経験的信頼性が価値Pの実在性に何かの証拠になるとはおよそ考えられない。

次に蝶名林氏は「福利理論」なるものを導入する。なぜかその<<福利理論>>という命題(p.131)の中では福利という言葉が登場しないのに、その後説明が与えられた概念であるかのように「福利」という概念が使われる。それはいいとしても、この福利理論の経験的信頼性についても130ページと同様の構造の経験的含意が提示される(p.132)。前と同じく、こんなお手軽な経験的信頼性は「福利」という価値の実在性について何の証拠にもならない。

福利理論にさらなる経験的含意を与えるために、<<主観的幸福と福利>>というさらなる命題が付け加えられる。ここもつっこむべきポイントが多くて困ってしまう。この命題は福利の増進が主観的幸福の増進と比例する、という非常に強い主張をしているのだが、その根拠となるような強い議論はどこにも与えられていない。また、福利については主観説と客観説があるわけだが、客観説のことは考慮していないように見える。もう一つ、<<主観的幸福と福利>>でいう福利はわれわれの常識的概念としての福利を指しているのだと思われるが、これが蝶名林氏のサンプル理論で導入した「福利」(ちゃんと定義をあたえていないので導入したといえないのかもしれないが)と同じものを指す保証はどこにあるのか?同じ言葉で呼ばれる別のものならもちろん整合性は問われない。いや、そうではない、まさに<<主観的幸福と福利>>でいう意味で「福利」という言葉を使っているのだ、というのであれば、逆にそこから出発すべきだったのではないか?最後に、「Xは福利である」という命題と<<主観的幸福と福利>>から、「Xの増進は主観的幸福の増進と比例する」という経験的含意が導けたとして、この事実が確認されることは福利なる価値が実在することに対して何の証拠にもならないのは、前の二つの例とまったくかわらない(「Xの増進はYの増進と比例する」という形の任意の経験命題から、同工異曲の価値の理論が無限に生成できる)。

すこし飛んで、138ページでは、ここまでで見たような規範理論の経験的信頼性が、その理論を作るプロセスとしての広い反省的均衡の方法(方法自体は128ページで与えられている)の経験的信頼性をも与える、と主張されている。しかし、仮に規範的理論が何らかの経験的信頼性を持っていたとして、それが反省的均衡という、制約の少ない手法の信頼性につながるとは思えない。(例え話になるが、ある占い師が「あなたの年齢を占いであててみせよう」と言い、水晶玉を覗き込みながら「25歳?」「ちがいます」「30歳?」「ちがいます」などのやりとりを経て、「35歳?」「そのとおり」と、正解に達したとしよう。われわれはこの占い師が水晶玉を覗き込むことで年齢を当てることができる、と考えるだろうか?均衡に達するまで何度でも手直しするという反省的均衡の方法はこれと実際のところあまりかわらない。)

1-14 帰結主義的理論の理論構築のイメージ p.140ff

広い反省的均衡の方法を使って具体的にどう規範理論が構築されるかというのをサンプル理論を使って説明してくれているのだが、まずそもそもここで扱っているのは理論構築というより理論改訂ではないかという疑問がある。何もないところから理論を組み立てるような作業は反省的均衡のプロセスで行うことができるのだろうか?できないのなら反省的均衡の方法を理論構築の方法と呼ぶのは景品表示法違反ではないのか。

広い反省的均衡の構成要素となる背景理論としてはここでは「公正な対応が人間の福利の増進に貢献する」という想定(p.143)が挙げられる。これが131ページでいうところの「実質的な福利に関する考え」のひとつとして含まれない理由がよくわからない。やはり形だけ広い反省的均衡の形式をつくるために、恣意的に規範理論と背景理論を分割しているのではないかという疑いが残る。

その問題は別としても、結論として「もし想定されている背景理論が近似的にすら真でないにもかかわらず、経験的信頼性を持つ提案がなされているとしたら、理論修正の成功に関して奇跡にうったえて説明するしかなくなるだろう」(p.145)というが、本当にいろいろな説明の可能性を考えてみただろうか?141~143ページあたりでとりあげている「復讐を禁止する」という例についていえば、「善」だとか「正」だとかという概念を実在的にとらえなくとも、何が福利を増進するかについてのわれわれの経験をもとに福利を増進するような提案をしました、というもっと単純な説明がある。

1-15 義務論と理論論証 (6.1節、6.2節)

蝶名林氏は、非自然主義的な義務論は道徳的知識がアプリオリに得られるという認識論をとるために、第五章で自身が提示したような理論論証にはむかないと考えているようである。しかし、まず、非自然主義的義務論は基礎的な道徳的知識(たとえば定言命法そのもの)については反証不能だと思うだろうが、派生的な道徳的知識(たとえば自殺は定言命法に反する、という主張)については反証可能だと考えることは十分ありうる。その意味では、まったく問題なく第五章で提示されたサンプルモデルの経験的含意と同じ経験的含意を持つ(たとえば、「われわれは自殺という行為の格率が普遍法則となることを意思することができない」かどうかは自殺というものについての経験的な事実に依存する、など)。
ともあれ、蝶名林氏は6.2では自然主義的な義務論を考える、という作業に入るのだが、これも謎といえば謎である。もし、非自然主義的な義務論が理論論証の前提(理1)(p.94)に対する反例なのだとすれば、反例とならないタイプの義務論が他にあります、ということを示すのは何の役に立つのか。「すべてのカラスは黒い」という主張に対し、オーストラリアで白いカラスが発見されたとしよう。ここで「それは置いておいて、オーストラリアには黒いカラスもいますよ」ということをいくら示したところで白いカラスの方が反例になっているということには何の影響もない。それと同じことが6.2で行われているように見える。

その6.2節では、明らかな非自然主義的な方法を想定していない義務論としてカムの立場が紹介される。しかし、単に「明らか」ではないというだけで、カムの立場でも個々の要素を吟味していけば結局直観やアプリオリな認識に頼らざるをえないのではないだろうか。たとえば、道徳原理を評価するものさしとして「示された道徳原理は適切な価値観、人間観、人間関係のあり方を表現しているものなのか」(p.159)という基準が与えられるが、このものさし自体はどこから出てきたのか。直観的に把握したのではないのか。また、このものさしに実質を与えるべき適切な価値観等々もまた直観的に把握される必要があるのではないか。そこについて何も言っていないから明らかな非自然主義ではない、というのは、さすがに安易であるように思う。

逆に、「アプリオリな知識だと言ってないから明らかな非自然主義ではない」という理屈が通るなら、別にカムの理論など参照するまでもなく、ロスの理論から「道徳規範はself-evidentである」という主張だけ取り除いてかんがえれば十分だったのではないか。

1-16 進化論と合理性 p.211

蝶名林氏は、自然選択の産物であるわれわれはしょせん道徳的真理を認識する能力など持ち得ない、という「進化論的反論」に対して、われわれは自然選択の悪影響を合理的な思考によって取り除くことができる、という路線で応答できると考えているようである。しかし、人間の理性的能力についての神秘主義でも採用しないかぎり、理性まで含めてわれわれは進化と自然選択の産物だと考えざるをえないだろう。なぜそんな理性に自然選択の限界を越えるような力が付与されることがありうるのだろうか。



2 感想レベルの事項

p.8 スティーブンソンはここで言う意味での情緒主義?
確かに教科書にはそう書いてあるが、たぶんそれは教科書の方に問題がある。スティーブンソンは『倫理と言語』では「○○はよい」という文は「わたしは○○を是認する」という意味だと言うし、それ自体は真偽が問えるので、たぶん現在の分類では記述主義的な主観主義。ただ、その字義通りの意味の他に、道徳的発話は説得という発話媒介行為も行うというのがスティーブンソンのアイデア。


p.22 フットの議論は認識論的?
フットが言っているのは道徳語の使い方の規則には記述的な面があるということなので、認識論的というより意味論的なのでは?

p.43
水についての実験や観察などを通し、実際に水がこれらの原子の組み合わせでできていることを知ることができる
水についての実験や観察だけから原子論にたどり着くのはほとんど無理。電気分解や「酸素」という気体と「水素」という気体の反応で水ができるという実験的事実はいろいろなミクロ構造と両立可能。

p.53
「親和性」というのは何なのか。含意とは違うのか。

p.60「ヘンペルはxがyを説明するとは、補助仮説と共に、xからyを演繹的推論によって導き出すことができるということだと考えていた(Hempel 1965)」
1965年の本に即して考えるなら、ヘンペルにとって推論が演繹的であることは必ずしも説明の要件ではない。いわゆるISモデル(帰納的-統計的モデル)というものも認めている。

p.93 「ボイドは自然主義的な観点から考えると因果性に関するヒューム主義は問題のあるものであり〜と考えていることになる」
当然ながら反実在論者はこの(科学者たちの用法に従うという意味での)自然主義はあまり重視しないのだが、科学者たちに実際に「あなたは因果関係という言葉で何を意味していますか」ときいたら、特定のタイプの統計的規則性があるという以上のことは言っていない、という答えが返ってくることも多い。物理学者は因果という言葉を光円錐の内側にあるという以上の意味では使わない、と言われたこともある。

p.135
規則帰結主義は、われわれが規則を受け入れることができるという経験的含意を持つというが、こういう箇所ではimplication とpresuppositionを分けた方がいいのではないか。

p.136
蝶名林氏は規則の受け入れと良心の共有は同じことだと考えているのだろうか?
ここでは良心を感情の傾向性ととらえているが、ほとんどの義務論者や規則帰結主義者は、規則の受け入れを感情と結びつけられるのを不本意だと思うだろう。これらの倫理学者たちは規則の受け入れを理性と意志の作用としてとらえてきたのではないだろうか。蝶名林氏は徳倫理学や最近の道徳心理学に影響されすぎているのではないだろうか。

p.202
中立テーゼをヘアが主張しているというが、もちろんヘアも時期によって違うわけで、後期のヘアがメタ倫理学上の立場から功利主義が導けると思っていたのは蝶名林氏もおそらくよく知っているだろう。

p.205
選好主観説が容認し難い規範理論につながるから拒否される、という考えを肯定的に紹介しているが、これはさすがに言いがかりで、選好の衝突をどう解消するべきかについての道徳原理(p.204)がそもそもおかしいと言うべきだろう。


3 誤植等
ちゃんとした出版社から出ている本としては誤植(らしきもの)が多い印象。別に誤植チェックをしながら読んだわけではないのにけっこう気になる誤植があった。

p.v 下から3行目 第4章までを →第4章までが ?
p.25 下から7行目 道徳語の意味に関する積極的な提案できる →日本語が不自由?
p.27 15行目 主張がする → 主張をする ?
p.70 下から3行目 様相的事実(model fact) →様相的事実(modal fact) ?
p.79 12行目 (7.5)で詳しく論じる→(8.5)で詳しく論じる?
p.79 注11 2行目 Copp 2012 →文献表にない?
p.90 最後の行 ある実験で試験管の中に一筋の煙が〜 → 陽子の検出を化学実験で使うような試験管でやる?
p.136 最後の行 持たれるがある→?
p.149 12行目 ,△硫椎柔が高まる→ ,? 
p.170  9行目 あるものかど → ???
p.218 下から12行目 ここで試みた悲観的帰納法への反論が本書で試みた理論論証の擁護が未完成であることが分かってくる。→日本語が不自由?






iseda503 at 10:53|PermalinkComments(0)

March 25, 2019

『メタ倫理学入門』へのコメント

佐藤岳詩『メタ倫理学入門』はメタ倫理学に特化した入門書である。メタ倫理学の100年あまりの歴史の中で議論されてきたさまざまなテーマや、そのそれぞれのテーマについてのさまざまな立場が手際よく整理され、紹介されている。ときどき挟まれるフローチャート形式の分類図も読者にとっておおきな助けになる。分野外の人にとってなかなかアクセスしにくかったメタ倫理学という分野の全体像を広く紹介したという意味で、本書の価値は非常に大きい。

本書の独自性は、話題の配置にもある。メタ倫理学の歴史は言語の分析からヒューム的心理学の是非や道徳形而上学へと議論の領域を拡大してきたが、本書はそれを逆にして、道徳形而上学から話をはじめる。それはおそらく、善や悪があるかないかという問題設定の方が、道徳語は何かを記述するかしないかという問題設定よりわかりやすいだろう、という判断からだと思われる。確かにこのやり方で議論することで見通しがよくなるという読者もいるであろうから、そこはオリジナリティとして評価したいところである。

私自身、2018年度にこの本をつかって授業をしてみたのだが、いろいろな立場を次々に紹介していくときにはこの本は便利である。ただ、授業のためにこの本を読んでいくと、いろいろ疑問点や気になる点についてのメモがたまってきた。

流し読みする分にはあまり気にならないが、授業のために読んでみて気になるのが、異なる章に登場する概念どうしの関係がどうなっているか不明瞭なところが多いことである。たとえば第二章で倫理について「客観主義」と「主観主義」という区別が導入されるのだが、このあとで紹介されるさまざまな立場と、「客観主義」「主観主義」という区分の関係ははっきりとは説明されていない。「客観主義」と「実在論」を同一視するような書き方は随所でなされているが、同じものの別の名前なのか、同じ考え方の別の側面なのか、それとも厳密には違うのかといったことがわからない。以下の細かいコメントで、それ以外の気になった箇所についても触れていく。

次の本書全体にかかわる疑問は、本書でのさまざまな立場の呈示の順序が本当に最適なのかということについてである。具体的には、メタ倫理学の議論のかなりの部分が非認知主義の議論を念頭においてなされてきた(肯定にせよ否定にせよ)のに対し、本書では非認知主義が後半に入るまで紹介されない。その結果、前半に登場するさまざまな立場(たとえばマッキーの錯誤理論における奇妙さからの論証)が何を言っているかわかりにくくなっているように思われる。これはそういうものだと思って読めばあまり気にならないのかもしれない。

次に、本書の分類の図式についてだが、著者の考え方では、いわゆる非認知主義系の立場は、道徳的事実は存在しないという道徳非実在論には含まれないということらしい。たしかに多くの非認知主義者(エイヤー流の情動主義は除いて)が道徳判断に記述的側面があることを認めるので、実在論か非実在論かという分類にのりにくいのは確かだが、道徳語を使った判断が全体として事実判断かどうかという問いには否定的に答えるわけだから、非実在論に分類するべきではないかと思う。著者が非実在論から非認知主義系の立場を排除した結果、錯誤理論が非実在論の代表となって本書の冒頭で紹介されることになったわけだが、それはそれでとてもバランスが悪い気がする。

入門書としての本書のもう一つの問題点として、紹介されているのがどの文献かたどるのが難しいことを挙げておきたい。もちろん、入門書において、読みやすさを重視して文献注をへらすことはよくあることである。しかし、入門書はまったくの素人の方だけが読むものではなく、少し分野の違う同業者なども参照するものである。また、記述の正確さに疑義があるときに、チェックするためにも出典表示は必要になる。記述に興味をもったときに原典をたどる手段は入門書でも巻末文献案内などの形で保証しておくべきだろう。

もう一つ、本書の問題なのかわたしの授業のやり方の問題なのかわからないが、授業の中で気づいたことに触れておきたい。メタ倫理学のさまざまな立場を道徳語の具体的な用例にあてはめて分析せよ、というレポートを学生にやってもらったのだが、そのときに多くあったのが、「この人のこの「善い」は実在論だが、こちらの人のこの「邪悪だ」は反実在論」みたいな答え方だった。つまり、メタ倫理学のさまざまな立場が、道徳語や道徳的性質全般についての主張としてではなく、個々の発話や事例に個別に適用されるものと解釈されてしまった。なぜそう思わせてしまったのかを振り返ると、一つは本書のフローチャートがそういう印象を与えているのかもしれないと思い当たった。つまり、フローチャートというのは同じチャートをいろいろな人が繰り返し利用するという使い方が普通なので、フローチャート形式になっているのを見ると、自然と個別の事例をこのチャートに通すのだと思わせてしまっているかもしれない。(他方、学生のこの反応は、そもそもメタ倫理学の論争は道徳全般について同じ答えが出ると想定して議論している点でおかしいという、分野自体へのメタ的な疑問があらわれていると受け止めるべきかもしれない。)

以下もう少し細かい点について、ページを追って見ていく。単なる感想レベルから、本文を修正したり補足したりした方がいいのではないかと思うレベルのものまでいろいろある。比較的重大だとわたしが思う項目はページ番号の前に*をつけている。また、ここで利用したのは初版なので、その後の版で修正が入ったものもあるかもしれない。

第二章
この章で主観主義という言葉が導入されるのだが、「主観主義」はメタ倫理学においては伝統的に「Xは善い」を「私はXを是認する」という事実命題と同義だと考える立場を指す言葉として使われてきた。そろそろそういう古臭い用語法は一掃してもいい時期かもしれないが、メタ倫理学に関連する多くの古典的文献で使われているのは事実なので、なんらかの注意書きがあってもよかったかもしれない。

39ページ注16 「主観主義も客観主義も主体と客体を明確に区別した上である種の「観点」からしか道徳を考えていないとして、そうした観点のもう一歩外側で道徳を捉えようとする考え方もある」というが、これは具体的にはどの立場?view from nowhere のこと?それならばむしろ客観主義に分類されるはず。[これは主観主義者側の言い分なのでコメントとしては不適当だと思い直しました。削除します。2019年3月28日]

44ページの普遍主義者の反論1−2 この反論の内容は、「事実として道徳が違っても、相対主義は擁護できない」というものだが、ここはまだ「事実レベルの相対主義」の項(41-46ページ)の中なので、この「相対主義」は「事実として道徳が違う」という主張をささないとおかしい。しかし内容は規範レベルの相対主義についての内容になってしまっている。

*50ページの普遍主義者の反論2-3 「相対主義は矛盾をかかえている」と反論を整理しているが、論理的な矛盾に陥るというのは相対主義のパラドックスを構成するいくつかのルートの一つにすぎない。「自分の主張も相対的だと認めるために主張をまじめに聞いてもらえなくなる」というルートでは論理的矛盾はないが相対主義が無力化されることになる。

52ページ 相対主義者の主張3−1 「相対主義の主張も相対的である」。ここは「メタレベルの相対主義」について紹介している項なので、この項に出てくる「相対主義」はすべてメタレベルの相対主義を指しているものと解釈したいところだが、明らかにそうなっていない。前後の文脈からいって、「相対主義の主張も相対的である」は「規範レベルの相対主義の主張も相対的である」でないとおかしい。

*53ページ 相対主義者の主張3−2 この主張はまず「相対主義は二階の主張である」と整理されたあとで、「すべての道徳的主張は相対的なものであるから、誰でも自分の規準に沿って好きなように行動してよい」というのが道徳的な主張ではなく道徳的主張についてなされるメタ的な主張である、というのがこの種の相対主義者の主張だと解説されている。ただ、文字通りにとれば、「すべての〜行動してよい」は何か特定の立場をとるまでもなく、文の内容自体によって二階の主張になっているので、これがメタ的な主張だというのがメタレベル相対主義者の主張だ、と言われても首をかしげる。「相対主義者が主張しているのは「すべての〜行動してよい」というメタ的な主張なのだ」という言い方ならこの問題は生じない。

第三章
63ページ ここで「実在論は客観主義と相性がよく、非実在論は主観主義と相性がよい」と説明されたあとで、マッキーの錯誤理論が非実在論の代表として取り上げられる流れになるのだが、とするとマッキーは主観主義者ということになるのだろうか?道徳的事実というものがあるとすればわれわれと独立にきまっているはずだ、と考えるという意味でマッキーはむしろ客観主義者ではないのか。

70ページ マッキーの「奇妙さからの論証」をここで紹介していて、それ自体は当然ここでやるべきことではあるのだが、背景がわかりにくい。つまり、そもそも認知主義と非認知主義の論争の中で「動機づけの力を持つことと事実判断であるということは両立しない」ということが共通了解となってきたという背景状況があってはじめて、その両方を持つらしき道徳判断が「奇妙」だという話になる。それをすっとばしてここの説明を先に読んでも読者はピンとこないのではないだろうか。(71ページあたりである程度説明はされているのだがこれで背景状況が伝わるだろうか。)

71ページ注12 心に影響を与えるが「動機づけの力」を持つわけではないものの例として「ホラー映画」が挙げられ、ホラー映画の影響力が「動機づけの力」と解釈できない理由として「怖がる人と怖がらない人がいる」からだと説明されている。しかし、事実として道徳判断(らしきもの)に影響をうけない(らしい)人は存在する(サイコパス、育児に疲れた母親、無気力状態などが事例として使われる)。もし「怖がらない人がいる」ことでホラー映画の怖さについての内在主義が論駁されるなら、道徳判断の内在主義も同様に簡単に論駁できることになってしまう。もちろん、まさにそういう理由で内在主義を論駁しようとする人たちもいるのだが、そうでない人たちもいる。そういう論争の焦点が「ホラー映画」の例を使うことでかえってわかりにくくなってしまう。

76ページ 錯誤理論を紹介したあとで、道徳全廃主義、道徳的虚構主義、道徳保存主義の立場が順次紹介されていくが、錯誤理論とこれらの立場の論理的な関係がどうなっているのかが分かりにくい。これらの立場は(奇妙さからの論証に依拠する立場としての)錯誤理論を前提としているのだろうか、それとも錯誤理論でなくてもどんなタイプの非実在論でもよいのだろうか。その辺をあいまいにした結果、87ページのフローチャートではこれら3つの立場は錯誤理論より上位概念となる「道徳非実在論」から派生する形になっていて、錯誤理論がフローチャートに表現できなくなってしまっている。

78ページ 道徳全廃主義への反論として、「普通に考えて、その「よりよく」というのはまさに「道徳的により善く」「道徳的によりマシに」を意味しているのではないだろうか」と著者は言う。しかしこれはあまりよい反論とは思えない。自愛の思慮(prudence)をはじめとする非道徳的な合理的判断が存在することは倫理学者が伝統的に認めてきたところである。

第四章
95ページ 「他方、自然主義を採用しない場合、倫理や道徳はすぐに根拠の怪しい精神的なものや、実体のよくわからないもやっとしたものでなんとなく語られてしまうことになる。」 この箇所は「素朴な自然主義」ないし「意味論的自然主義」の解説をしている箇所だが、ここで引用した文の「自然主義」を素朴な自然主義と解釈するとかなり乱暴な主張になってしまう。この段落全体としても、自然主義の利点は道徳とは何かを科学の手法で明らかにすることだ、という趣旨になっているが、それは素朴な自然主義よりはむしろあとで出てくるコーネルリアリズムなどの特徴ではないだろうか(素朴な自然主義であれば、「身の回りのありふれたもの」と同一視するという選択肢も十分ありうる)。

103ページ あらゆる自然主義が死守しなければならない主張として「道徳的性質は自然的なものによって説明が可能だと応答する」という言い方がされているが、「Xは善か」がある自然的なXについて閉じた問いになることと、善がXで「説明可能」であるということは別問題ではないか。特に、素朴な自然主義においては、両者の関係は意味の上での同一性であって特に説明項対被説明項という関係にはならない。

104ページ ゾンビパターン 還元主義的自然主義においては道徳的性質は〈ウィルスに罹患してゾンビになった人間も、その経緯を説明されれば人間の一種だとわかる〉というのと同じような意味で自然的性質だとわかるのだ、というのだが、とても分かりにくいしポイントがずれたたとえのように思う。そもそもゾンビの基本形はウィルス罹患型ではないので、古典的なゾンビ映画しか知らない人にはたとえが通じない。それ以上に、還元主義は道徳的性質がなんらかの意味で自然的性質全体の中でも「変わった動き方をする」性質だとは必ずしも主張する必要がない。もちろんそういう主張をしてもいいが、還元主義のエッセンシャルな部分ではない(それは著者自身のこのあとの紹介からも明らかである)。「ゾンビパターン」という言い方は還元主義の主張の力点について誤った印象を与えかねないと思う。

104ページ ここから分析的還元主義の紹介がはじまるが、分析的還元主義と、前節でとりあげた「意味論的自然主義」ないし「素朴な自然主義」の関係はどうなっているのか。分析的還元主義の定義のしかた次第では意味論的自然主義は分析的還元主義の一種だということになりそうだが、ここの記述ではそこの関係が明確化されていない。

105ページ 前のコメントとも関連するが、「たとえば一つのやり方は以下のようなものである」という導入に続いて、分析的還元主義の方法論として3段階の方法が紹介されているけれども、この「たとえば」はどういう意味での一例なのか。「用例をあつめてその用例の中での機能を明らかにする」という方法そのものが分析的還元主義のいろいろあるやり方の一つなのか、それとも「用例をあつめて機能を明らかにする」というのは分析的還元主義の本質的な部分で、その実施の方法にいろいろあるという意味での「たとえば」なのか。分析的還元主義の項を全体として読んでも、用例分析という手法が分析的還元主義の一例なのか、分析的還元主義全体に共通する特徴なのかなのかは結局はっきりしない。

107ページ 「仮にその両者〔特定の記述と「邪悪」という価値語〕を結びつけて使うことが正しいとしても、なぜその結びつきは正しいのか、ということを説明できない限り、私たちの日常的な道徳を説明する理論としては不十分と言わざるをえないのではないだろうか。」 ここは、まず、「正しい」というのがどういうタイプの価値判断の話をしているのか説明がないことでわかりにくくなっている。素直に考えれば「用語法として」正しいか、という話なのだろうか?そうすると「なぜその結びつきは正しいか」という問いは非常に奇妙な問いになる(「なぜこの生物種に属する生き物を「ネコ」と呼ぶのが正しいのか」と聞かれても「日本語ではそういうことになっているから」以外に答えようがないだろう)。それともこの「正しい」はそれ自体道徳的な正しさの話なのだろうか?だとすると、道徳語そのものの意味の話をしているときにその外側で道徳的判断が行われるというのはよくわからない。

*109ページ 「ここでいう分析的判断とは、主語の中に述語で表現される概念が最初から含まれているような判断で」 「分析的」を定義するのにいまさらカントでもないような気がする(単純な主語-述語の形をとらない分析命題もあるであろうし)。さらにいえば、106ページでは「ここで分析的というのは、もっぱら言葉の意味の分析から、両者〔道徳的概念と自然的な概念〕の関係が明らかになるという意味である」と説明されていて、どっちが正しいのか混乱する。

110ページ 「〔総合的な判断〕の真偽を確かめるためには、何らかの手段によって実際に調査し、確かめるしかない」 前項でいまさらカントでもないだろうとは言ったものの、カントの枠組みで話をするのなら総合的な判断とアポステリオリな判断は概念的に区別しておいた方がいいのではないか。

*110ページ 「特に倫理学において「分析」という言葉は特殊な意味で使われており、あくまで言葉や概念の意味を考えることだけを指す」 この「分析」をanalyticの意味でうけとめてもanalysisの意味でうけとめても、「言葉や概念の意味を考えることだけを指す」という説明は不正確だと思う。analyticであれば、「言葉や概念の意味のみによって真」というところまでいかないと説明として不適切であるし、analysisであれば別に分析の対象は言葉や概念と限定されているわけではない(でなければ「概念分析」という表現が冗長表現になってしまう)。

110ページ 「他方、調査は実際に見たり聞いたりして調べることを指す」 分析的還元主義の典型例として出てきたのが用例調査という手法(「調査」という言い方はしていないにせよ)だったのに、ここでは分析と調査が対立するものとして扱われていて、丁寧に読んでいる読者は混乱するだろう。

113ページ 総合的還元主義の問題点がここからいくつか挙げられるが、〈道徳的なものと同一な自然的なものを経験的な探究で探すといっても、分析的還元主義のところで出てきたような「用例の収集」以外に、そもそもどんな「経験的な探究」をすればいいのかさっぱりイメージがわかない〉というのは挙げてもよいのではないか。

113ページ注17 「たまたまこの世界では両者は同じことを意味するだけなんじゃないの」 意味論的自然主義へのありうる反論としてこれが言われているが、これはどういう疑いなのかがよくわからない。ある生物種を「ネコ」と日本語で呼ぶのはたしかに「たまたまこの世界では」そうなっているだけかもしれないが、だからといってこの世界で日本語でしゃべるときに、その生物種に属しているということと「ネコ」であることが同義だという主張がおびやかされるとも考えられない。

114ページ「つまり、実際に現実の世界で道徳的概念が占める位置を探求し、ある程度まとまったところで、ではこういう定義でどうでしょう、という形で、規範倫理学の理論を呈示する。納得してもらえたところは残し、そうでないところは修正する。」規範倫理学理論を呈示してしまうと、人々は実質的な道徳的直観を使ってそれを受け入れるかどうか決めることになるように思うが、それはもうメタ倫理学ではなく規範倫理学をやっていることになってしまうのでは。さらに言えば、明けの明星と宵の明星が同一かどうかという問いが人々の直観では決まらないのと同様、総合的還元主義という考え方を真剣にうけとめるなら道徳的なものと自然的なものが同一かどうか判断するのに人々の意見を聞くというのはあまり意味をなさないのでは。

115ページ 還元主義がゾンビパターンであるのに対し、非還元主義はエルフパターンないし悪霊パターンだと説明されるのだが、これもわかりやすいとは言いにくい。エルフはエルフでそれ以上説明のしようがない、という独立存在型非還元主義の説明はまあこの3つの比喩の中では比較的わかりやすい。しかし、スーバーヴィーニエンス型の非還元主義を悪霊が取り付くのに例えるのはかえってミスリーディングではないだろうか。悪霊は取り付いた相手が本来しないようなことをさせるのが特徴なので、まさにスーパーヴィーンしないのが悪霊だという気がするのだがどうだろう。

118ページ 「邪悪さ」が現に存在するというのがわれわれが「ヒトラーは邪悪だ」という判断をすることの最善の説明を与えるのだ、というコーネルリアリズムの考え方を解説している箇所だが、ここで「対抗仮説」(進化の結果われわれはある種の人を見たとき「邪悪だ」と判断するようになっただけである)に対する「反論」があまりにも説得力がなく感じられる。「もしヒトラーが本当に邪悪でなければ、私たちはそのような判断をしない」というのは、対抗仮説への答えとしては単なる論点先取に見える。また、「同じような人を見ても常に自動的に同じ判断が引き起こされるわけではない」というのは、進化仮説が主張していないことを勝手に読み込んで反論しているように見える。(「進化の結果身につけた」からといって自動的で強制的な反応だということにはならない。推論能力も計算能力も進化の結果身につけたものには違いないだろうが自動的に作動するわけでもないし間違わないわけでもない)。私自身はコーネルリアリズムを支持しないが、さすがにこんなやぶれかぶれの「反論」をするような立場として紹介するのはアンフェアなのではないかと感じる。

119ページ 「道徳的性質は自然的性質によって構成される、あるいは道徳的性質は自然的性質に付随するという仕方で、実在している」 ボイドのHPC(ホメオスタティック性質クラスター。「安定して一緒にあることが多い性質の集合」くらいの意味)の考え方を紹介するのならここだと思うのだが、紹介する必要はなかったのだろうか?「構成」というのがどういうことなのかこの書き方で伝わるのだろうか?同じページの少しあとで「道徳的性質はその時々の自然的な素材によってその都度、構成される」という説明があるが、これではほとんど説明になっていない。

*119ページ 「「ヒトラーはユダヤ人を虐殺した」「ヒトラーは障碍者を差別した」などの事実の羅列」 「虐殺」や「差別」は二次的評価語であり、そういう言葉を使って述べられることが単なる「事実の羅列」だというのは二次的評価語に対して鈍感すぎるのではないか。

119ページ注24 道徳的性質がその都度自然的性質によって構成される、という考え方をとる理由の一つとして「多重実現」が挙げられているが、「同じ機能がいろいろなやり方で実現できる」というのと、「同じ概念でくくられるさまざまな事例の間に単純な共通項がない」というのはだいぶ状況として違うので、「多重実現」という言葉を出すのはかえってミスリーディングではないのだろうか。

*121ページ 「非還元主義的な立場は、結局、道徳的なものを自然的なものとは区別されるものとして残そうとする点でどっちつかずである。」 非還元主義に対するありうる反論の一つとしてこういう考え方が紹介されているのだが、この批判はかえって読者を混乱させると思う。非還元主義的自然主義者は道徳的なものも自然的なものの一種だと考えるわけだから、「自然的なものとは区別される」と考えているというのは言いがかりになる。ここで言うべきは、「道徳的な自然的なものを非道徳的な自然的なものと区別されるものとして残そうとする」というようなことだったのではないか。

124ページ「しかし、これは自然主義の客観主義としての基本的な主張、すなわち客観的に正しいことが(たとえ暫定的にであれ)一つに定まるという考え方と矛盾する」 双子地球の思考実験を使って自然主義が相対主義につながってしまうという議論をしている箇所だが、素直に自然主義的に考えると、他の文化である単語がわれわれの文化における「善」とは違うものを指している言葉なら、そもそもその言葉を(たとえ発音がzenであっても)われわれの言語に訳すときに「善」と訳さないだけなのではないだろうか。この事例の使い方にちょっと混乱があるように思われる。

第五章
130ページ ここから非自然主義のいくつかの立場の紹介がはじまるが、この流れで読んできた読者からは、「非自然主義も還元主義と非還元主義に分かれないのか」といった疑問が生じるのではないだろうか。そういう目で見ると神命説は分析的還元主義的非自然主義とも分類できそうな気がする。それはともかくとしても、自然主義の分類のしかたと非自然主義の分類のしかたがまったく異なる観点によってなされることについて何か説明があってもいいような気はする。

130ページ 「つまり、私たちが考えていることや欲求などとは独立に、物事の正不正、道徳的な真理が決まる。そのため、神命説は実在論の一種であるとされる。」 89ページの実在論の定義は「道徳的な性質や事実」が「世界の側」で決まっており「実際に存在する」という考え方だったはずだが、神命説はその条件を満たすのだろうか?われわれの考えや欲求と独立しているというだけであれば第二章で導入した「客観主義」というカテゴリーもあるわけだが、むしろそのカテゴリーに分類するべきではないのか。それとも客観主義と実在論は同じことを指すのか。

131ページ ここから神命説の問題点がいろいろ列挙されるが、やはりまずは「開かれた問い」論法のえじきになるということを指摘するべきではないのか。もちろん131ページ以降で紹介されているエウテュプロン問題を扱うことで間接的に「開かれた問い」論法も扱ったことになる、という考え方もできるが、メタ倫理学に詳しくない読者はそこまでは読み取れないだろう。

*135ページ 「そのため、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて流行した論理実証主義という考え方において、宗教的な事柄を言い表す文章は、その真偽を検証することができない以上、真理に関わる事実を伝える本当の命題とは言えないとされた。」まず、「論理」実証主義は19世紀末には存在しない(マッハ流実証主義と混同している?)。19世紀末の実証主義ではいわゆる意味の検証理論は一般的ではないので、宗教的命題が「本当の命題」ではない、という言い方はしない。1920年代の本来の意味の論理実証主義の主なターゲットは形而上学で、宗教的命題や倫理的命題はあまり話題にならない。例外的にA.J.Ayerがこうした命題の扱いに踏み込んでいるが、それを「論理実証主義」全体の主張とみなすのはいきすぎ。ついでにもう一ついえば、意味の検証理論にもとづく批判はある種の自然主義以外のほとんどのメタ倫理学説にあてはまるので、神命説だけが特にこの批判のえじきになるような書き方はミスリーディングだと思う。

*138ページ 「そもそも検証不可能なものは真理を扱えないという彼らの考え方そのものが実験によっては検証できないじゃないか、という冗談のような悪夢はさておき」 論理実証主義への批判を紹介している箇所だが、「冗談のような悪夢」とは何のことなのか?この疑問への定番の答えは、意味の検証理論自体は「事実命題」ではなく「提案」なので意味の検証理論の対象にならない、というようなものだと思うが、それは「冗談のような悪夢」なのだろうか?「冗談のような悪夢」という表現をすることで論理実証主義が自己論駁的なまま放置されているような印象を読者に与えていないだろうか。

139ページ 「そして善は私たちの心の中にだけあるのではなく、また自然的な何かと関係しているわけではない、何か独特(sui generis)なものである」 いわゆる直観主義の考え方を紹介した箇所だが、これだと115ページで紹介された「エルフパターン」の自然主義と何が違うのかよくわからない。他の自然的性質とかかわらない独自な自然的性質である、ということと、他の自然的性質とかかわらない独自な非自然的性質である、というのは言い方が違うだけで同じことではないのだろうか。こういう疑問が生じるのは「エルフパターン」の具体例が挙がっていないせいもある。

*153ページ注27 「一つの概念が最初もっているとされていた意味や含意をそぎ落としたり、当てはまる対象を減らしたりしてスリムにしていく考え方」 「デフレ主義」の説明だが、一般論としては、意味や含意をそぎ落とせば、当てはまる対象は増えるはずで、この二つは逆向きのベクトルではないだろうか。「赤いリンゴ」から「赤い」をそぎ落として「リンゴ」だけ残せばそれまで範囲外だった赤くないリンゴがその概念の対象に含まれてくる。デフレ主義の典型例においても、概念をミニマルにした結果、当てはまる対象は増えるのが普通だと思う。

第六章
163ページ 「さらに、第三章で見た錯誤理論とは違って、道徳の実在を前提するような言説が常に誤った認知に基づく、誤ったものであるなどとは考えなくてすむ」 準実在論の説明であるが、道徳が単なる投影ではなく客観的にあると思っている人は準実在論の立場からも一種の錯誤に陥っていると言わざるをえないのではないのだろうか?

166ページ 「しかし、投影説に基づく準実在論では、この適合の向きが逆になってしまう」 適合の向き(世界と自分の考えがずれたときどちらがどちらにあわせるか)を逆にすることは投影説の意図する解釈ではないと思う。一旦善悪の基準が投影されてしまえば、あとはその基準によればあるものが善なのか悪なのかといったことは世界の側で決まるし、われわれの考えが世界の側とずれるなら、われわれの側が世界にあわせなくてはならない。

172ページ「道徳的価値が実在してしまっているなら、後は私たちはそれを一方的に受けとるしかないからだ」感受性理論への批判の文脈で、道徳的価値が世界の側に最初からあるのなら感受性によって左右されなくなってしまう、という批判を紹介している箇所だが、この「一方的に受けとる」というのが感受性理論に対する批判になっているのかどうかよくわからない。感受性理論の立場からは道徳的価値を感受性によって「一方的に受けとる」と何が困るのか?

173ページ 「近年の言語学の発展によって、私たちの思考がいかに言語によって縛られているか、ということが明らかになってきているが、」この箇所には特に注などついていないが、どういうタイプの言語学を想定しているのだろうか?サピア=ウォーフ仮説?

173ページ注8 ここで通常と違う意味で「自然主義的誤謬」という言葉を使うと注意書きしてあるのだが、ただでさえ混乱している「自然主義的誤謬」をめぐる状況をさらに混乱させるようなことはしない方がいいと思う。

180ページ 「これは、近年では新感情主義と呼ばれる、私たちの道徳的な営みを様々な道徳的感情の側面から捉えなおそうという考え方につながっている。」 ここは手続き的実在論の導入部だが、見逃しでなければ本書で新感情主義についての解説はここでしかなされていないと思う。新感情主義と対立する立場を紹介するセクションの冒頭で軽く流すには、新感情主義はメタ倫理学にとって大きな話題だと思うのだが。また、著者は新感情主義と投影説や感受性理論が結びつくように書いているが、ハイト、グリーンら典型的な新感情主義者たちはむしろ反実在論寄りだと思う。

184ページ 投影説と手続き的実在論の対比を説明する文脈でスキャンロンの「拒否不可能性の原則」が紹介されているが、スキャンロンの立場がどう分類されるのかが述べられていない。「態度」ではなく「適切な手続き」に道徳の重みがかかっているというのが手続き的実在論だというが、理にかなった考え方をする人たちが拒否するかしないか、というスキャンロンの考え方は、「態度」と「手続き」の両方の要素があるようにもきこえる。だとするとスキャンロンは投影説と手続き的実在論のさらに中間的な存在として紹介されているのだろうか?

*184ページ「手続き的実在論とは、最小限の実在論に類するものであって」これは著者の誤認ではないか?「ある対象の持つ実在性を最小限まで切り詰める」のと「実在の概念の内容を最小限まで切り詰める」のは似て非なる行為であって、ベクトルとしてはむしろ逆になる。手続き的実在論は、道徳を理性や手続きと不可分に結びつけることで、むしろかなりヘビーな形而上学な主張を持ち込んでいるように見える。

185ページ 「酔った勢いで記入されて提出された婚姻届」が手続きが適正なら中身も善いものになるという考え方への反論として出されているが、手続き的実在論のいう「手続き」は理性を働かせることが大前提となっているので、「酔った勢い」を持ち出すのはアナロジーとしても不適切だと思う。

*186ページ 「他方、「あなたは〜を生涯愛すると誓いますか」という問いは、ただの意思確認であり、それにyesと答えることが実際に結婚を成立させるわけではない」 法的にはそうかもしれないが、キリスト教会的にはまさにこの問答こそが婚姻を成立させる構成的手続きの重要な一部なので、例がよくないと思う。

187ページ 反省的均衡の説明が行われているが、「均衡」というのが何をどうすることなのか一言も説明されていないので、知らない読者にはまったく意味がわからないと思う。

188ページ 道徳的事実が存在するかどうかについて議論する必要はないという静寂主義の代表者としてヘアの名前が挙がるが、ヘア自身は普遍的指令主義者でどちらかといえば非実在論であり、議論する必要がないという立場をとっているとは考えにくい。また、ここで引用されているヘアの論文"’Nothing Matters’"は、実在論か非実在論かではなく客観主義か主観主義かという対比をテーマにしているので、その意味でもこの箇所はヘアの考え方についてミスリードを行っていると思う。

*189ページ「こうした考え方は、多かれ少なかれ、虚構主義や手続き的実在論の底流で共有されているものであり」 「こうした考え方」がどこからどこまでを指すのか不明確だが、いずれにせよ、道徳的価値について「存在しない」という考え方にコミットする虚構主義などの立場や「われわれの手続きによって構成されたものとして存在する」という手続き的実在論の立場は、「存在するかしないか決める必要がない」という考え方とはまったく問題の解決の方向性が異なる。考え方を共有していると説明されるとかえって混乱すると思う。

190ページ 反本質主義が、「そもそもそのような重みをもった本質など、真理には存在しない」「どんなことであれ真理であるというだけで偉い、ということはない」という立場だと整理されているが、普通は本質を持つのは「真理」ではなく事物だとされていることを踏まえて、事物の持つさまざまな性質の中で「本質」と呼ばれるような特権的性質はないという考え方を反本質主義というのではないだろうか。

193ページ 静寂主義の問題点として、以下3点が挙げられるのだが、1つめが〈あるものが実在するかどうかでそれに対する動機づけは変わる〉ということ、2つめが〈あるものが実在するかどうかでそれにまつわる行為の仕方もかわる〉ということだとされている。しかし、それらの項について詳しく述べてある箇所で説明されている内容はあるものが実在すると*思う*かどうかが動機づけや行為に影響するということであって、話がずれてしまっている。もちろん、静寂主義に対する批判が的外れだという趣旨でこういう反論を紹介しているのであればそれでいいのだが、あとの方を読んでもそういう切り返し方をしているわけではない。

194ページ 「しかし、そうするとプラグマティズムは「誰も享受するものがいないなら、美しい風景は善くも悪くもない」という実質的な主張を行っていることになる。」 確かにある種のプラグマティズムにはこういう批判があてはまるだろうが、静寂主義そのものには当てはまらないだろう。ある種のプラグマティズムにこのような批判が可能だということは、逆に、本節のように静寂主義とプラグマティズムを密接に関係した立場と捉えるのは不適切だということを示してはいないだろうか。

第七章
201ページ表1 非実在論や主観主義は、この表の中で、道徳的な問いに対して、「道徳的真理も実在しない」したがって「答えも実在しない」と考える立場として整理されている。しかし、答えが実在するというのはどういう意味なのか表でも本文でもあまり説明されていない。うっかりすると「道徳的問いには答えがない」という立場だという誤解を与えるかもしれない。(実際には、「客観的な答え」や「唯一の答え」がないというだけで、非実在論をとっても道徳的問いに答えはありうる。)

212ページ ここからスティーブンソン型の情緒主義の解説がはじまるが、意味論と語用論の区別を導入していないためにエイヤーとスティーブンソンの立場の本質的な違いが見えにくくなっている。エイヤーがもっぱら文そのものの意味のレベル(意味論)で話していたのに対し、スティーブンソンが説得について述べているのはもっぱら文の使われ方のレベル(語用論)。「意味の使用説」などの極端な意味の理論をとらないかぎり、この二つは区別される。

*214ページ 「説得的定義とは、相手を説得するという道徳判断の目的を果たすために話者によって持ち出される設定、共通了解、前提のことである」 これはわたしの知っている説得的定義という言葉の使い方と全く異なっているのだが出典はなんだろうか?たとえばスティーブンソン自身の「説得的定義」という論文では、「『説得的』定義とは、なじみのある語に、その情動的意味を実質的に変えずに、新しい概念的意味を付与するような定義のことである」(Stevenson 1938, p.331)と説明されていて、これが標準的な用法だと思う(「民主主義」という肯定的な情動的意味を持つ言葉をある体制にあてはめることでその体制をいいものと思わせようとするなど)。215ページのラーメンの例もこの通常の意味での説得的定義とどう関係しているのかよくわからない。

228ページ 「とはいえ、そうすると別の問題も生じる」 道徳判断には非指令的用法がある、とヘアが認める、ということを前段落で紹介し、その帰結として指令的要素と記述的要素が区別できなくなるという問題が生じる、というつながりになっているのだが、どうしてそういう話の流れになるかよくわからない。非指令的用法の存在を認めようが認めまいが指令的要素と記述的要素を区別しにくい「濃い概念」の成立しやすさにはまったく関係ないように思うのだが、著者にはどういうつながりが見えているのだろうか。

*229ページ 「そもそも情緒主義は基本的にはあくまで、道徳的な真理を観察によって確かめることはできないとする立場である。したがって、明確に非実在論をとるというよりも、彼らは道徳的真理の不可知論、静寂主義的な主張を行うことが多い」上の総括的なコメントでも触れたが、著者は非認知主義を道徳非実在論には分類しないのだが、ここに至って、非認知主義の実在論についての立場は不可知論だと著者考えていることが明らかになる。しかし、道徳判断の情緒的意味や指令的意味の部分について、非認知主義者たちが不可知論をとるというのはまったく意味をなさない。感情の表明や説得や命令は真か偽かわからないのではなく、そもそも真か偽かと問うことが不適当な対象である。また、道徳的判断の記述的意味の部分については彼らは不可知論をとる必要はまったくない(記述的意味の多くは簡単に確かめられる内容なので)。このように考えると、非認知主義者が不可知論をとるという解釈は、非認知主義という考え方を根本的に誤解しているように見える。

*230ページ 「エイヤーやヘアは言語の意味をその使用から考える後期ウィトゲンシュタインや、言語行為論の大家であるJ.L.オースティンの影響を強く受けているが」 エイヤーが情緒主義の考え方を提唱したのは1936年の本の中だが、どうやってあとの時代の後期ウィトゲンシュタインやオースティンの言語行為論の影響をうけることが可能なのか?ヘアについても、オースティンはともかく後期ウィトゲンシュタインの直接の影響はあまり強くないのではないか?

235ページ ギバードの規範表出主義をまとめて、「自分はしかじかのものをよいと評価するようなルールを受け入れているよ、ということを表出し、相手も同じルールを受け入れてほしいと訴えかけるのが、道徳判断である」という整理をしている。しかしこの後半は規範表出主義を説得型情緒主義にひきつけすぎではないだろうか。

第八章
243ページ注1 「たとえば、道徳判断は何も認知しておらず、ただ自分の主観的な考えを記述しているだけのものと考えれば、非認知主義的な記述主義はありうる」 ぱっと見たところ、ここで想定されている立場は伝統的なメタ倫理学で「主観主義」と呼ばれてきた立場のように見えるが、そうであれば伝統的区分でいえば認知主義に属する。話者は自分が思っていることに特権的アクセスがあるから判断の真偽が問題になりにくいだけで、実際間違うことはありうる(本当は自分が是認していない対象について、自分は是認していると思いこんで「善い」と言ってしまう、など)。

*269ページ 「信念と欲求は、その中身に命題的な態度を含むかどうかにおいて異なっている。」「欲求は「A」を私はしたい、のようなものであり、命題の形で表せるような内容を持たない」 ある事態の成立についての欲求は命題的態度として分析されるし、英語の構文的にもdesireはthat節を目的語にとる。というのは分析哲学における常識的な考え方だと思うが、ここで紹介しているのは何か別の文脈の話なのだろうか。

276ページ図8 この図はフローチャート形式に向かないさまざまな選択肢の関係を無理にフローチャート形式で書こうとしたために意味不明な図になっていると思う。表出主義かつ外在主義というのが意味をなさないとか、外在主義はヒューム主義を前提とする、といった立場間の関係がこの図では見えてこないし、〈欲求と信念は別物ではあるが信念も単独で行為の理由となりうる〉というタイプの反ヒューム主義が排除されてしまっている。

第九章
282ページ 著者は、道徳の理由を考える前に、「「道徳的に」の適用条件は何だろうか」と問いかけ、「狭い道徳」(他人に関わることに限定した道徳)と「広い道徳」(自分の生き方全般にかかわることとしての道徳)を区別する。しかし、道徳とは何かがそんな簡単に決まるのならこの本のこれまでの議論は何だったのか?また、普遍化可能性など、メタ倫理学者の多くが受け入れてきた道徳判断の条件はどうなるのか?

283ページ 「暴露論証」に(debunking theory)と英語が補ってあるがdebunking argument では?

284ページ ここから、ニヒリストは道徳を否定しているのではなく別の道徳を提示しているだけである、という批判を紹介している。しかし、普通に考えて、「わたしは力があるので利己的に振る舞います」と宣言しているだけなら、別の道徳の提示にはならないように思われる。286ページでは「形式性条件」を満たすかどうかで道徳かどうかを判定するという考え方を持ち出し、恣意的に道徳性の範囲を狭めるのはまずい、という論を展開しているが、なんらかの普遍化可能性を持つという条件を「形式」の中に含めるなら、個人的な利害は明らかにその条件を満たさない。むしろ普遍化可能性を道徳の条件から外す方が恣意的に見えるがどうだろうか。

*286ページ 「非実在論は第三章で取り上げた際にも述べたように、実際には道徳全廃主義と虚構主義に分かれる」第三章の議論の振り返りとして不正確(保存主義がなぜか無視されている)。また、非認知主義系の立場が非実在論に分類されないためここでも無視されているが、多くの非認知主義系の立場では道徳判断とわれわれの行為が直接結びつくので、ここで言うような道徳否定論にはつながらない。

*294ページ 「本書で扱ってきたような実在論者たちは、道徳が道具的価値しかもたないことなど認めないだろう。彼らの考えでは、道徳とはまさに常にそこにリアルなものとして実在し、いつでも私たちの行動を統制するものである。」これは実在論についての一般論としては明らかに誤りだと思う。外在主義系の実在論者ならば、善悪はわれわれの行為とは無関係であり、たまたま道徳的に行為したいという欲求を持っている人が道徳的に行為するものなので、その欲求を現に持っていない人は道徳的に行為しなくてもいいことになるはずである。実在論者でこの箇所に書いてあるようなことを受け入れるのは反ヒューム主義者だけではないだろうか。

*298ページ 「バスで高齢者に席を譲らないだけで「人として」間違っているというのでは、世の中の多くの人は人として終わっているということになってしまうだろう。」 まがりなりにもメタ倫理学の定番の教科書をめざす本でこういう読者を操作するような議論を展開するのはどうかと思う。「人として終わる」とは何を意味するのか。「人として間違っている」ことと「人として終わっている」ことの間にはどういう関係があるのか。仮にこれらのことが明確であったとしても、「人として終わる」というのが記述的にどういう意味であれ、「終わる」は強い情動的意味を持つ言葉であるので、冷静な議論の際には避けた方がいい。



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