May 03, 2024

井上太一『動物倫理の最前線』へのコメント

[2024年5月30日追記。
この記事に対する井上太一さんからの詳細な反論が公開されました。あわせて御覧ください。
]

井上さんは近年つぎつぎに動物倫理関連の著作を翻訳し注⽬されている翻訳家である。とりわけ、ナイバートやワディウェルなど、これまでの⽇本の動物倫理学の議論ではほぼ取り上げられてこなかった傾向の著作を翻訳されたことは学術的に⼤きな貢献となっている。
今回コメントする『動物倫理の最前線』では、そうした「批判的動物研究」(CAS)やフェミニズム系動物倫理の紹介を中⼼にしつつも、⼈間の解放と動物の解放を対⽴的にとらえるのではなく両⽴させる「総合的解放」の⽅向性が⽰されている。その議論の途上において、英⽶流の動物解放論も批判的な検討の俎上にあがっている。

動物をめぐる思想について論じると言っても、実践家である井上氏とわれわれ倫理学者ではいろいろ視点の違い、スタンスの違いがあるだろう。また、井上氏とわたしではそもそもの動物と人間の関係のあり方について立場や目的の違いもある。そうした違いを言語化しておくことは動物をめぐる議論を今後深めていく上でも大事になってくるだろう。
2022年の日本哲学会のワークショップで井上氏とご一緒したときに本書に少し言及したが、本全体についてのコメントはできていなかった。井上氏にもそのうちそうしたものを公開することをお約束していたのだが、1年半ごしでようやく公開に至った。
今回のコメントの一部はその際の提題からの転載であるが、多くは今回はじめて公開するものである。
「英米系動物倫理学における研究と実践」日本哲学会第2回秋季大会公募ワークショップ「動物倫理における理論と実践の関わり」提題、オンライン開催、2022年11月27日
 
第一章 動物たちの現状
「電気ショックはこの分野の動物実験者にとって最愛の友であるが、拷問手法はほかにもある。」p.52
「しかしこれらの実験は一つだけ、重要な真実を物語っている----マウスやラットには、自分の利益を犠牲にしてでも仲間を助ける強い共感が具わっている、しかし論文作成という利己的目標のためにその様子を嬉々として観察する実験者たちには、微塵の共感すらも見て取れない、という真実を。」p.54
 
これらの箇所に限らず、動物実験の研究者をはじめ動物に関わる人々を冷酷な拷問者のように形容する箇所はこの第一章を通して多く見られる。井上氏から見て彼らがそう見えるというのはよく分かるが、他方、わたしがそうした研究者たちと接して受ける印象は、彼らは普通に共感性に富んだ人々だということである。そうした共感性と動物に苦痛を与えたり命を奪ったりすることとの折り合いは、「冷酷だから」というのとはまた別の心理的なメカニズムによってつけているのだと思われるが、井上氏のように見てしまうことで、そうした側面への洞察を深める手がかりが失われてしまうように思う。
 
「これらに至ってはもはや人間社会の実益ともかけ離れた研究のための研究といってよい」p.54
井上氏は学術的な研究はあくまで実益のために行われなくてはならないと考えているのだろうか。知識の探究そのものに価値があるとは考えないのだろうか。もちろんそういう考え方はあるとはいえ、社会と学術の関係について少し素朴すぎる考え方のようにも見える。もちろん学術的な知識の探究に不可侵の価値があると単純に想定するのも逆方向に素朴な考え方で、さまざまな考え方の間で議論を戦わせつつ議論を深めていくべきテーマではあるが、井上氏のような言い方をすると議論を深めていく手がかりが失われてしまう。
 
「膨大な失敗例があるのに加え、異種移植の発想に多くの人々が拒否感を示しているにもかかわらず、研究者らはいまだにこの猟奇的技術の確立を諦めようとしない」p.56
新しい技術を「猟奇的」という言葉で否定することで、自分の感受性が受け付けないものを否定しているだけのように見られてしまう危険を井上氏は犯していると思う。
 
「動物実験は、ヒトと他の動物の解剖学的・生理学的な違い(種差)や、実験施設に存在する動物のストレス要因によって、研究結果が大きく左右されるため、ほとんどの場合、有益な結果を生み出せない。権威ある科学ジャーナルで六〇〇回以上引用された動物実験七六件を分析したレビューによれば、医療への応用に結びついた実験はわずか八件しかなかった」p.61
ここで引用されている論文(Hackham, D.G and Redelmeiner, D.A. (2006) "Translation of Research Evidence From Animals to Humans", JAMA 296(14),1727-1732.)を見てみたところ、76件のうち人間で実験結果が再現されたものという意味では28件(37%)が再現されたということであった。井上氏の紹介のしかたは、あえて一番小さい数字だけを見せて印象操作をしているようにも見えてしまう。
それとは別に、多く引用される実験ということは、おそらく生体の基礎的なメカニズムを明らかにする基礎研究よりの実験が多いのだと思われるが、単純に医薬品に応用されないのは当然のようにも思われる。
逆に、製薬会社が医薬品を開発する場合には、自前の動物実験で候補を探索することが多いと思われるので、そういう意味でもジャーナルに掲載される論文と実際に開発される医薬品の対応関係は薄くなりがちなのではないだろうか。
 
「最もヒトに近い種といわれるチンパンジーを使った実験九五件を調べたレビューによれば、ほぼ半数の四七件は後の論文で一度も引用されず、医療への応用に繋がりそうな研究で参照されたものは僅か一四件に過ぎなかった。」p.62
これももとの論文を見てみた。
Knight, A. (2007) The poor contribution of chimpanzee experiments to biomedical progress
Journal of Applied Animal Welfare Science. 10(4), 281-308.
対象となったのは1995年から2004年までの論文ということだが、この時期にはチンパンジーを使った研究は世界的にも非常に制限されるようになっていて、人間向けの医薬品開発のためにチンパンジーを使うことはそもそもまれだったのではないか。実際、内訳を見ても対象となった研究の大半が基礎研究系かチンパンジーも感染する感染症や寄生虫についての研究で、人間の医療への応用に直結しないのは研究の性格上当然のように思われる。これも小さな数字を意味を考えずに提示するという印象操作を行っているように見える。
動物実験の有用性を批判的に検討するのは大事なことであるが、実情にそぐわない的はずれな批判はかえって対話の糸口を閉ざしてしまいかねない。
 
「つまり、私たちが面しているのは、人助けのために動物を犠牲にすることは許されるか、という問いではなく、ほとんど人の役に立ちそうもない研究のために動物を犠牲にすることは許されるか、という問いである。動物倫理では、百歩譲って動物実験が有益だとしたらどう考えるかを問うが、現実には「有益な動物実験」など例外中の例外でしかない」p.62
有益な動物実験が例外中の例外だと井上氏が判定する根拠は、上に示したような、「動物実験についての論文の中で医学的な応用につながる(つながりそうな)ものの割合」である。その数値が小さく見えるような印象操作が行われている可能性を上でしたわけだが、それとは別に、この割合が「多い」か「少ない」かというのは、実はその数字だけ見ていてもわからないはずである。単純化して言えば、医薬品開発の目的で動物実験をして医薬品までたどり着いた場合とたどり着かなかった場合、医薬品開発の目的で動物実験以外の手法を用いて医薬品までたどりついいた場合とたどり着かなかった場合、という4つの場合を見比べることで、ようやく医薬品開発の目的で動物実験をしても医薬品までたどり着く比率が低い、という判断ができる。
 
「動物園や水族館は絶滅に瀕した動物たちを救い、その繁殖を助けていると謳うが、説得力はない。これらの施設で生まれた動物たちは自然界で生きていくすべを学べないのに加え、人間に慣れすぎているので、生息地への再導入は基本的に叶わない」p.64
ここで引用されているBBCのレポートを読んでみた。
Can captive animals ever truly return to the wild?
https://www.bbcearth.com/news/can-captive-animals-ever-truly-return-to-the-wild
確かに井上氏が言っているようなことも書いてはあるのだが、全体としては井上氏は著者の意図と逆の読み方をしているように見える。著者は前半ではオルカのケイコの事例などを挙げて、動物を自然に返せと安易に求める運動に対して、生息地への再導入は非常に難しいということを言っていて、後半では一旦は諦められてきた再導入が集団での導入などの新しいテクニックの導入によって可能になりつつあるという事例を紹介している。全体としては後半に力点があるといっていいだろう。
もちろん、書かれたものを読む際に、必ずしも著者の意図した読み方をしなくてはならないわけではないのだが、井上氏の読み取り方は、動物園関係者による再導入のための努力や工夫をよく検討もせずに全否定しているように見えてしまい、それは望ましくないのではないかと思う。たとえば、動物園関係者が動物倫理に興味を持って本書を読んだとしたときに、このような書き方がされることで、せっかく存在しえたはずの対話の糸口を断つことになるのではないか。
ついでに言えば、このレポートでは魚類、爬虫類、両生類については再導入はほとんど問題ないとも述べていて、「基本的に叶わない」はその意味でも(このレポートから読み取れることとしては)言い過ぎに見える。
 
「動物園や水族館での餌やり体験を楽しんだ人々は、野生動物に対しても餌を与えようとする。」p.66
それまで動物園・水族館の責任にするのはさすがに言いがかりなのではなかろうか。野良猫、野良犬、鳩へのえさやりなど、飼われていない動物に餌をあたえる行動の類型はもともと身の回りにありふれているように思う。
 
第二章 道徳哲学
 
「彼が着目するのは、人間以外の動物たちにも、利益を有する最低条件であるところの情感(sentience)、すなわち快苦を経験する能力が具わっている、という事実である」p.77
sentience は山内友三郎先生などは「有情」と訳していたが、その後の動物倫理の議論ではおおむね「有感性」と訳してきたと思う。「情感」はあまりに日本語としてこなれすぎていて、sentienceという日本語にもともとない概念が使われていることに気づかず読み飛ばしかねないので、あまり薦められないように思う。
 
「計算結果がどうあれ、善悪判断を導き出す過程で、加害者らの満足をそもそも勘定に含めるという発想が道徳理論として不穏である。健全な道徳理論は、ある種の満足を正当な理由によって考慮の対象から除外できなければならない。」p.83
これは確かに義務論者たちが功利主義に対して批判する際の論点の一つではあるのだが、「不穏」というのはどういう判断基準なのだろうか?著者にしかわからない判断基準で話がすすんでいるようにも見えてしまう。
 
「功利主義は結果のみを重視するため、結果が違えば人間と他の動物の別扱いを認めることにもなりかねない。かくして種差別は功利主義のもとに正当化される。原理的にはこれによって諸々の人間差別を擁護することも可能となるだろう」p.85
井上氏が第4章で称揚する「差異の倫理」にも似たようなことが言えてしまうのでは?差異の論理は「出会い」方が違えば人間と他の動物の別扱いを認める立場なのでは?
それはそれとして、功利主義からの答えを言うなら,別扱いがすべて種差別なのではなく、倫理的に正当化できないような別扱いが種差別になるのである。功利主義にとっては結果が違うというのは何よりの倫理的な正当化の根拠であり、したがって結果が違うから別扱いするというのは特に種差別ではない。
 
「一生を台無しにされる動物たちの苦しみは百万の人々の喜びよりも大きい、と言い張ることは可能である。が、その主張には何らの根拠もない。功利主義の道徳計算は個々人の恣意性に委ねられる部分が大きいため、ほとんどの場合、行為の善悪について誰もが納得できる結論を示せない。」pp.85-86
功利計算が誰がやっても簡単に同じ答えが出るようなものではないというのはまったくそのとおりで、これも功利主義への定番の批判である。それに対する功利主義からの定番の答えは、功利主義は少なくとも合意に至る道筋を示しているという意味でまだ義務論系の理論よりましだというものである。義務論系の個々の理論はそれぞれ明確な判断基準をもつかもしれないが、どの理論を採用するかは個々人の直観、恣意的な判断に委ねられてしまうように見える。異なる直観を持つ人どうしの間では何の調停の手がかりもない。
 
「以後、動物の権利論とはもっぱらレーガンが唱えた権利論(the rights view)の枠組み、ならびにそれを原型として形づくられた思想的立場を指すこととなる。」p.86
動物の権利の概念を主に使ってきた動物の権利運動団体の人たちがシンガーよりもレーガンを自分たちの思想的立場の根拠として用いてきたということはないと思うがどうだろうか。もちろん理屈としては権利論から動物の権利について論じてきたのはレーガンの方なので、動物の権利運動団体にもレーガンを理論的基礎に据えてほしいところではあるが、現実はそうはなっていないのではないか。井上氏自身も「運動におよぼした影響をみると、レーガンの理論はその高度に複雑な構成ゆえに、一見明快なシンガーの理論ほど活動家のあいだに浸透しなかったきらいがある。」(p.97)と述べており、この86ページの認識があまり共有されていないことを井上氏自身も認めてはいるようである。
 
「尊重原理は内在的価値を具える者への危害を戒めるのに加え、そのような不正の犠牲者たちを助ける義務をも私たちに課す。これはそもそも倫理学説の基本であって、いやしくもそれらの理論が妥当性を得るには、不正を差し控える義務と不正の犠牲者を助ける義務、この双方を認めなければならない。」pp.89-90
たしかにわれわれはそういう直観を持つだろうが、それが「そもそも倫理学説の基本」というのは何に由来するのだろうか?勝手に自分の考えに都合のいい「基本」を設定して倫理学説の選別を行っていないだろうか。
 
「したがって生の主体といえるか否か見解の分かれる動物---人間の胎児なども含む---については予防原則をとり、権利主体と過程して扱うのが妥当である。」p.93
予防原則は環境政策でよく用いられるが、哲学的な吟味に耐えるかどうかはまた別問題である。予防原則の無制限な使用は自己矛盾をきたすといった批判もある。井上氏はもちろん予防原則を無制限に用いてよいと考えているわけではないだろうが、ではどういう条件下なら適用してよいと考えるのか、そのあたりを明示せずにいきなり予防原則を持ち出して、「妥当である」と断定されても読者としては検討のしようがなくて困る。
 
「限られた知見をもとに一部の動物を生の主体の範疇から除外し、その制度的利用に門戸を開けば、人間は必ず生の主体である動物たちをも利用しようと企む。動物は資源である、道具である、という認識を根絶し去るには、生の主体か否かにかかわらず、いかなる動物の利用も残してはならない」p.93
ここで井上氏が使っているのは「滑りやすい坂道の議論」のバリエーションだと思うが、これもむやみに使えば詭弁にもなる論法である。この場合はまだ実現していない状況における人々の反応について井上氏が想像したことが根拠になっていて、あまり正当な論法になっているとは言い難いと思う。
 
「レーガンに誤りがあったとすれば、それはこの答える価値のない問いにあえて答えようとしてしまったことだろう。(中略)誰が初めにこうした問いを思い付いたのかは知らないが、そこには何とかして俎上に載っている道徳理論から不条理な結論を引き出してやろうという悪意しか存在しない。そしてその悪意を生む根源は、当の道徳理論をしりぞけて現状を肯定したいという欲望、より率直にいえば、肉食を続けたいという欲望である。」pp.95-96
他の点については井上氏のような考え方もありうることも認めつつ私の考えを述べているが、ここについては井上氏は明確に議論の文脈を見誤っていると思う。ここで「こうした問い」と呼ばれているのは救命艇で人間か犬かどちらかを突き落とさなければ全員死ぬという状況についての思考実験を指す。レーガンはこの思考実験を処理するために最悪回避原理(どうしても選ばざるをえないときは動物より⼈間が優先される)を提案するが、これが動物の権利論の側からは非常に評判が悪い。そこで井上氏のこのコメントになるわけである。
しかし、20世紀後半の規範倫理学の歴史を少し勉強すればわかるように、レーガンが取り上げた思考実験はまったく例外的なものでないどころか、功利主義対義務論の論争の際にはほぼほぼこれと同類の思考実験ばかりが⾏われていることに気づくはずである。近年よく⽬にするトロッコ問題もこの時期に考案されたものである。
こうした思考実験を繰り返す理由は、別に悪意ではなく、倫理理論について合理的に議論するための重要な⼿段として普遍化可能性テストをパスするかどうかという基準が使われてきたためである。また、ありえない極限的な選択状況を構築するのは、そうやって状況を純
化することで直観をより純粋に問うことができるためである。物理実験で調べたい影響以外の影響を排除した実験状況を設定するのと意図としては同じということになる。
 
「レーガンの登場によって動物の権利は哲学・倫理学領域の一大争点となった。(中略)かのピーター・シンガーを含む数多くの哲学者が権利論への批判を寄せる一方、レーガンもそれを粘り強く受けて立つことで、厳しい検証に耐えうる権利論の理論的強度を示した。動物擁護が「感情論」の一言で知識人らにしりぞけられていた時代に比べ、この状況は目を見張るべき躍進である」p.97
ここは、反動物解放論との論争と、「ピーター・シンガーを含む」という言い方で表現している動物解放論内部での論争を区別する必要があるだろう。反動物解放論との論争においては、シンガーとレーガンは十分に動物解放論の「理論的強度」を示してきたといっていいだろう(反動物解放論側の論者たちはシンガーらとの論争の結果自説を撤回しているが、これは哲学的論争では非常に例外的なことである)。他方、シンガーとの対比においては、レーガンの「生の主体」基準は、それを仮定すれば(レーガンにとって)いい塩梅の結論が出るという以上の正当化がなされていない。これは、なぜ自律に道徳的価値があるのかについて独立のアーギュメントをカントがまがりなりにも提示していたことや、なぜ有感生物だけが利害の主体たりうるかについて功利主義者が独立のアーギュメントをまがりなりにも持っていることと比べたとき、レーガンの立場の理論的な弱さとしてカウントせざるをえない部分である。レーガンが常にシンガーとセットで語られ、まとめて「有感主義」として扱われるのは、シンガーに対して優越する部分があまりないという同業者の評価を反映したものではないかと思う。
 
「新福祉主義は動物解放がすぐには達成されないとの認識から、「今いる動物たち」を助ける応急処置としての福祉改革を進める。が、この発想は大きな見落としを犯している。去勢措置での麻酔使用や狭い檻の撤廃など、動物利用における福祉的配慮の導入を呼びかけたところで、企業や政府がその声に耳を傾ける保証はなく、よしんば耳を傾けたとしても、いうところの福祉的配慮が社則や法律によって義務化され、動物の扱いに反映されるのは何年も先になる。実際には鶏のバタリーケージや豚の妊娠ストールを地域レベルで規制するだけでも容易ではない。新福祉主義の政策は「今いる動物たち」の応急処置にはならないのである。」pp.101-102
ここはフランシオンの1996年の著書Rain Without Thunderを紹介している箇所であるが、井上氏はこの主張を特に批判していない。確かに動物福祉政策の実現は「何年も先」にはなったし、今もって「容易ではない」こともまったくその通りではあるものの、この20年あまりでEUを中心にここに書かれている福祉改革の多くが制度化されてきている。その今の観点からみて、井上氏はやはり新福祉主義が「「今いる動物たち」の応急処置にはならない」という判断に同意するのだろうか。
 
「とすると逆に、苦しみさえ抑えれば、動物を手段として扱い殺すことに問題はない、という結論になる。手段化そのもの、殺しそのものの加害性を問わず、ただそこに含まれる苦しみのみを問うというのであれば、その思想は古典的な動物福祉の考え方に限りなく近づく。」pp.105-106
この文全体で述べていることには特に異論はないが、「手段化そのもの、殺しそのものの加害性」という表現が、手段化や殺しが加害であるということは自明の前提だというニュアンスを含むのであれば、それは必ずしも共有された前提ではない、ということも付け加えておきたい。「加害」(harm)は危害原理などとも連動する概念であり、加害の範囲をむやみに広げることは自由主義そのものを脅かすことになる(不愉快という理由で他人の行動を規制できるようになるなど)。
 
「他方、誰もが認める道徳的直観とは、人間はみな単なるモノとして扱われてはならない、という確信である」p.108
それが現代の民主主義社会で議論をするときに共有された出発点となることは同意するのだが、倫理理論から独立したデータのようなものとして扱われることには慎重になるべきだと思う。これはもともとはカント主義の立場であって、その発想が人権教育に導入されることで誰もが共有するようになったものであり、その意味ではこの直観をカント主義系の理論の根拠づけに使うのは既成事実による正当化のような面がある。
 
「新福祉主義の改革努力と単一争点の活動は動物の権利運動の有効な手段とならない。では代わりに何をすればよいのか。フランシオンは脱搾取(ビーガニズム)の実践と、創意に富む非暴力的な脱搾取の啓蒙活動こそが私たちのなすべきことだと提言する。」p.113
「社会の変革を企てる者は、先に人々の意識改革を促さねばならない。講演、執筆、動画配信、アート、フェア、デモンストレーションなど、啓蒙の手法は一様ではない。しかし最も素朴でありながら最も重要なのは、身近な人々の啓蒙だとフランシオンはいう。脱搾取派の一人ひとりが、友人や同僚や家族と会話を重ね、着実に脱搾取の輪を広げていく。そうして新たに脱搾取派となった人々が、さらに自身の身近な人々を変えていく。このプロセスの積み重ねが、遠回りなようで最大の効果を生む。」p.114
フランシオンの実践的な提言を紹介している箇所であるが、啓蒙による意識改革が一番だというフランシオンの考えに対して、井上氏のスタンスがよくわからないのが気になるところである。あとの引用で見るように第三章で井上氏は社会構造を視野に入れた変革運動の重要性を説いているように見えるが、フランシオンはその視点からは批判の対象となるのではないか。また、実際に政治にはたらきかけて動物利用に対する様々な規制強化を実現してきた新福祉主義者からすれば、啓蒙と意識改革の方がまだましだと言うのはとうてい承服できないところだろうが、井上氏はその点についてもフランシオン側に賛同するのだろうか。
 
「動物福祉をめぐっては一定の役割を認める立場や、改良すれば動物解放のための有効な戦略たりうるとする立場もあり、いまだ論争が続いているものの、現在は福祉改革の限界を指摘する声が強まっている。」p.116
それはどこで「声」をきくかによるのでは。アニマルライツ原理主義的な立場からは動物福祉政策への不満が蓄積していることは井上氏が指摘するとおりだが、ここでいう新福祉主義の立場からは理想通りとはいかないもののそれでも着実な前進を遂げているという肯定的な評価が可能な状況なのでは。
「ただしレーガンは自身の議論でカントを援用せず、代わりに執念的ともいえる概念の分析と論理の累積によって動物の道徳的権利を導き出す。」p.119
分析系の倫理学者の平均的な仕事のしかたと比べて、レーガンがとりわけ「執念的ともいえる概念の分析と論理の累積」を行っているわけではないと思う。
 
「本章で解説したシンガー、レーガン、フランシオンの哲学は、動物倫理のほぼあらゆる議論で参照される、外すわけにはいかない基礎理論の位置を占める。三名の道徳哲学者によって、この後の動物擁護論を支える大きな土台が整えられた。」p.120
細かいようだがフランシオンは法哲学者であって道徳哲学者ではないように思う。
 
第三章 社会学
 
「シンガーもレーガンも、メディアや教育機関が種差別を助長していることについて著作の中で触れている。しかし彼らは政治経済体制そのものの暴力性に切り込まず、もっぱら個々人の生活刷新や倫理的判断に種差別克服の期待を寄せるにとどまってしまう。」p.122
ここではシンガーとレーガンだけ名指しされているが、p.114で引用されていたフランシオンの廃絶主義の行動方針も似たようなものなのでは?
 
「いうところのエコテロリズムは、違法行為を伴ったとしてもせいぜい施設の部分的破壊や資料の持ち出しをするに過ぎず、対人暴力の使用は固く禁じるため、これまでに一度の殺傷事件も起こしたことがない。これを9・11の同時攻撃などと同じく「テロリズム」に分類するのは草の根運動の脅威を誇張する行為か、真正のテロリズムを軽視する行為かのどちらかである」p.169
そういう言い方をしてしまうと井上氏が非合法活動を容認しているように聞こえるし、動物擁護論の側がそういう言い方をすることが戦略的に非常にまずいという認識はあるだろうか?
 
「このように、「エコテロリズム」の実態は警察のスパイによる工作が相当の部分を占める」p.170
「相当の部分を占める」と断言できるような統計的な裏付けはあるのだろうか。
 
「現代の動物擁護運動は、他のあらゆる社会正義にもまして、個人の倫理的行動を促すことに重点を置いてきたといわれる。実際、運動の土台をなす動物倫理学の理論は、シンガー以降、種差別を個人の偏見ないし不合理な思考とみなし、それらが寄り集まって動物搾取を生むと想定してきた。」p.172
シンガーやレーガンの著作における実践的な部分が個人の行動変革に終始しているという点ではまったくおっしゃるとおりではあるが、それは倫理学がそもそも不正義がどのように生まれるかという機序について考察する学問ではなく、「われわれは何をなすべきか」を一人称的に問う学問であるという分野そのものの性格に由来するように思われる。つまり、動物搾取がどのように生まれるかについてそもそも何か想定してきたわけではないのではないか。
 
第四章 ポスト人間主義
 
「振り返ってみれば、人間は自由な自律的主体であるという主張は、人々がそのような主体性を発揮できない状況に置かれていればこそ価値があった。不自由と束縛が支配する世にあって、人間の自由・自律を謳う思想は現状批判の役割を担いうる。不穏なのは批判であったはずの思想が権威主義的な教義(ドグマ)へと変わることである」p.181
「価値があった」と過去形で書かれているということは、今では人間は自由な自律的主体性を発揮できる世の中になっていると井上氏は認識しているということだろうか?もちろんカントの時代と比べて実現されたことは多いが、人類についても自由と自律の実現への道はいまだ道半ばというのが妥当なところではないだろうか。もちろん、カント的な思想が動物を切り捨てる方向に働いてきたというこの箇所全体の指摘そのものはもっともなのだが、その主張をするために作らずともよい敵を作っているように見える。
 
「ドグマ化した人間主義は、理想の人間モデルを打ち立てることで、様々な条件により自由や自律性を発揮できない人々、理性を行使できない人々など、膨大な「他者」を切り捨てる結果となった。できあがったのは心身ともに健常なエリートの成人男性を頂点とし、人ならぬ動物を底辺とする序列秩序である。人間性が動物性の否定という形をとる以上、人間主義は人間中心主義にならざるを得ない。」p.182
ここで人間主義と訳していることばの原語はヒューマニズムだと思うが、「ヒューマニズム」を掲げる思想の多くは、むしろ「心身ともに健常なエリートの成人男性を頂点」とすることに異議を唱える立場にあるのではないか。具体的に誰の思想を念頭においているのか。
 
「哲学者のマシュー・カラーコによれば人間中心主義とは生物種としてのホモ・サピエンスを優位に置く思想ではなく、「支配的文化によって十全かつ正当に人間とみなされた者たちに使える権力関係・権力システムの総体」を指す。」p.182
では生物種としてのホモ・サピエンスを優位に置く思想はなんと呼べばよいのだろうか?少なくとも環境倫理学ではこの意味で人間中心主義という言葉を定義して使っているので、それを否定されても困ってしまう。もちろん、明示的な定義と思想の実体的な内容にずれがあるということが言いたいのだろうが、この言い方はそれを生産的に伝える言い方にはなっていない。
井上氏としては単にカラーコの思想を紹介しているだけで自分はコミットしていないということかもしれないが、こういう威勢はいいが話を混乱させる物言いをむやみに引用すると、井上氏自身が議論の混乱に加担することにもなる。
 
「霊長類から昆虫類、脊索動物から節足動物に至る無数の動物たちは、西洋哲学の言説では「動物」という一語のもとにまとめられ、あたかも「動物性それ自体」とでもいうべき何かしらの本質を共有する単一集団のように扱われる。」p.185
大陸系の哲学で「人間」と対立するような意味で「動物」を使う傾向が未だにあることはわたしも気になっていたので、指摘の趣旨には賛同するのだが、その場合に想定される「動物」は哺乳類・鳥類までで、節足動物等々まで含める「動物」概念はどちらかというと生物学由来なのでは。もちろん同じ「動物」という言葉が使われることで議論が混乱しているのは間違いないのだが。
 
「人間主体に排他的な尊厳を認める道徳理論が、動物への暴力を容認してきた思想的な土台であるとするなら、動物倫理学は本来、それに代わる新たな枠組みの構築を使命としなければならない。が、古典的な動物解放論や動物の権利論は、人間主義を揺るがすことなく、それに部分的な修正を施すに終始してきた。」p.203
この「本来」もどこからきた「本来」なのか。単に井上氏がやりたいこと、井上氏がめざす方向にそれ以上の意味があるかのように見せるために「本来」という言葉を使っているだけではないのか。
わたしがいろいろなところで言ってきたのは、動物解放論の強みはその保守性にあるということである。人々がすでに受け入れていることから帰結することしか主張しないからこそ、結論を受け入れざるをえないという強制力が発生する。「ラディカル」な思想は「なるほど、で、なんであなたの言う事聞かないといけないの?」と反応されてしまえば現実を変える力を持たなくなってしまう。もちろん井上氏はこの問題についてまったく違う捉え方をしているだろうし、だからこそこの箇所のような言い方になるのであろう。
 
「しかし自由や自律を主体の本質とみる価値体系は相変わらずで、古くからの特権者が最もそのような主体性を発揮しやすい社会条件も変わっていない。(中略)結果、周縁化された人々は今なお、人間主義の主体モデル---健常者中心的かつ肉食男根ロゴス中心的な人間像---に同化することを余儀なくされている」pp.205-206
「余儀なくされている」と言うと、本人にとっても不本意なことを強制されるというニュアンスがつくが、それは多くの人にとって余計なお世話ではないだろうか。「健常者中心的かつ肉食男根ロゴス中心的な人間像」への「同化」とここで呼ばれているものは、実質的には自由や自律を求める運動などである。それを「余儀なくされている」と思わない人たち(つまり余儀なくされて望んでいるのではなく自分自身の気持ちとして自由や自律を求める「古くからの特権者」ならざる人々)にとってはこうした分析は余計なお世話ということになるだろう。

「人間主義における人間は常に一定の存在様式を保ち、変化することがない。人間は歴史を超える本質によって、動物・自然・物質・環境・等々から峻別され、安定したカテゴリーとして存在する。なぜというに、くだんの人間本質はそれ自体が、世界からの独立ないし「超越」を示唆する性質だからである。」pp.207-208
大陸系の形而上学だといまだにそんな感じなのかもしれないが、英米系の哲学でそこまで「人間」を超越的にとらえている立場は思いつかない。
 
「各々がどのような他者と関わり、どのような変化を周囲に及ぼし、どのような作用を世界から受けるかは定式化できないので、関係の内なる個は、みな唯一独自の存在として現れる。したがって本当であれば、「豚が人間を変えた」というような記述は不適当であり、人間と関わる個々の豚たちも、豚の影響を受ける個々の人間も、違う経験を生きている。実在するのはその場その時に存在する「この豚」や「あの豚」のみであって、「豚」という抽象的な集合体ではない。」pp.210-211
表現が難しいところだろうが、「この豚」「あの豚」と「豚」であるという点を取り出してカテゴライズする限りは「唯一独自の存在」として扱えていないのでは。
 
「他者の欲求と可能性を察し、その実現を支えること、あるいは妨げないことが、ポスト人間主義の倫理における基軸といえるだろう」p.214
特に議論もなくかなり具体的な規範的主張が突然出てきているので面食らう。直前のマコーマックからの引用が根拠となっているのだろうか?マコーマックはどのようにこの主張を根拠づけているのだろうか?
 
「旧来の倫理学説では特定の人間的能力を持つかどうかが生命の道徳的地位を決める尺度とされたが、差異の倫理における他者はそのような能力を持っていなくてもよい。「私たち」から懸け離れた全く異質な存在者も、私たちの生き方に反省を迫ることは考えられる。したがってこのアプローチは理論上、あらゆる生命を配慮の射程に含めることができ、旧理論に付きまとっていた線引き、ないし生政治的排除の問題を解消しうる」p.214
「各動物、各植物、各微生物、等々の差異を鑑みれば、それぞれの扱いが異なってくるのは当然であり、むしろ異なっていなければならない。他者の数、出会いの数だけ倫理があるとはそのことを意味する。(中略)植物の利用はよいのか、などの質問は通常、「動物も植物も同じ生命である、ゆえにどちらを食べようと道徳的な違いはない」という開き直りの姿勢に発するが、この思考はまさに質的差異の平板化であり、右の倫理枠組みとは正反対の位置を占める」pp.215-216
このあたりが差異の倫理の井上氏自身の独自のアレンジということになると思うが、結局動物倫理の議論の中で検討されながらも整合的に展開することが困難な立場として放棄された選択肢のバリエーションのようにも見える。
線引きをしないとなれば、当然「植物はどうするの」という問いに答える必要が発生する(通常の動物倫理がこの問いを無視できるのは「有感主義」という形で線を引くからである)。しかし、「他者の数、出会いの数だけ倫理がある」と倫理の多様性を持ち出してこの問いを回避しようとすると、今度は「じゃあこの人間とこの豚の扱いが異なってくるのも当然だと言ってよいわけだな」という反応が返ってくるだろう。つまり、こうした個別主義の倫理は、せっかく権利論が獲得しようとしているものを根底から掘り崩してしまいかねない。
「ラディカル」な立場からは有感主義は古臭く見えるかもしれないが、必然性があってこのような理論構成になっているということをまずは理解してほしいところである。
 
「差異の倫理は全ての生命に開かれ、全ての生命を別様に扱う。よって、脱搾取(ビーガン)派が動物と植物の扱いに差を設けることには何の問題もない。」p. 216
前の箇所と同じことだが、人間中心主義者がこれを受けて、「よって人間中心主義者が人間と動物の扱いに差を設けることには何の問題もない」と言ったらどう答えるのか。
 
「私たちは、人間に近いから動物のことが分かるのではなく、みずからが動物であるから他の動物のことを察せられるのである。」p.217
他の動物は「みずからが動物であるから」といって他の動物のことを察せられたりしないように思うが。
 
「抑圧的な秩序を根本から改めるには、他者を「人間」の地位に引き上げるのではなく、特定の人間モデルに合わせた社会の成り立ちそのものを問い、覆す必要がある。そのためには私たちが「人間」の外へ追いやられた他者の視点から既成秩序を見つめ直すことが求められる。」p.219
「人間中心の体制を見直すために必要なのは、そのような類型が作られる以前に存する生身の動物たち、異質な他者たる動物の視点である」p.220
「生身の動物」の視点を仮にとることができたとしたら、その視点は少なくとも人間的な倫理や道徳や互いの権利に縛られない視点ということになりそうだが、これは倫理も道徳も権利も人間中心的な秩序の産物として放棄してしまえという立場なのだろうか。
 
第五章 フェミニズム
 
「客観的態度という名のもと、残酷さに慣れることを求める今日の科学は、まさに男性の社会条件を土台とする父権的事業といってよい。」p.269
「父権制社会は力で物事を解決する思考に染まっているため、暴力が問題を引き起こした時には、暴力の上塗りで対処することを考える。飼い貶した動物に害をなすという理由で狼を滅ぼし、そのせいで鹿が増えすぎるとなったら今度は鹿を撃ち殺し、よその土地から再び狼を持ち込もうと考えるなどは典型である。(中略)いずれにおいても問題の根本原因は放置されたまま、ただ殺しに殺しを重ねて事態を好転させることがめざされている。こうした事業はしばしば、感情論に流されない科学的管理法などと称せられるが、くだんの「科学的」という形容詞は「暴力的」の婉曲語となっている。」pp.269-270
「科学的管理法」がさまざまな手法を組み合わせて生態系のバランスを維持しようとしていることを井上氏が無視してこのようなただのレッテル貼りでしかない決めつけを行う意図がよくわからない。科学者にまじめに相手にしてほしくないのだろうか。
 
「富裕国が排出する温室効果ガスで地球が温まれば、ガスの排出を減らすのではなく、大量の二酸化硫黄を空に撒いて太陽光を跳ね返すということを考える(こうした地球改変を気候工学という)。」p.270
IPCCが提案する温暖化対策の主な手法は今でも排出量削減だと思うが、井上氏は一体だれの話をしているのか。
 
「これは公式にしたがって問題を解く数学や自然科学の思考様式に近い。しかるべき行為を検討するに当たっては感情を排し、客観的・論理的な態度で道徳原則にしたがわなければならない。結果、哲学者マーガレット・アーバン・ウォーカーがいうように、道徳行為の主体は「裁判官、管理者、官僚、あるいはゲーム達人」のモデルに似通ってくる。「これらの地位や仕事が、西洋社会の中で歴史的に男性のものとされてきた役割・職務・活動を象徴する」ことを思えば、従来の倫理学説がことごとく男性の視点から構築されていることは明らかだろう。」p.298
ここはウォーカーを引用しながら語っている箇所ではあるし、またフェミニズムの運動の中でこれに類する発言が繰り返し行われてきたのは確かなのだが、こうした明快な切り捨て方は危険ではないか。というのも、「公式にしたがって問題を解く」ことや「感情を排し、客観的・論理的な態度で道徳原則にしたが」うこと、「裁判官、管理者、官僚、あるいはゲーム達人」の思考法が「男性の視点」だと言いっきってしまうと、暗に、女性は感情を排して客観的・論理的に考えることができない、あるいは少なくとも男性より苦手で、裁判官・管理者・官僚などに向かないという含意を持ってしまいかねないからである。客観的・論理的な思考法への批判と、そうした思考を求められるとされる職業のジェンダーバランスに対する批判はもっと注意深く分けた方がよいのではないか。
 
「男性中心的観点への批判を通して新たに生まれた倫理枠組みの一つに、寄り添いの倫理(ethics of care)がある。これは均質な個人モデルに立脚する従来の道徳理論と違い、具体的な生きた人間同士の関係に着目して倫理的行為を考えるアプローチであり、二〇世紀後期に発足して以降、動物倫理学にも応用されて大きな影響力を持つに至った。」p.299
ケアの倫理を「寄り添いの倫理」と訳すのは面白い提案だが、ケアという言葉の持つ積極的な相互作用の側面が抜け落ちてしまうようにも感じる。それはともかくとして、近年のケアの倫理では「ケア」を「女性」をあまり強く結びつけすぎることの危険性を意識して、性別と切り離して立論することが多くなっていると思う。ケアの倫理の歴史的背景の説明としては「男性中心的観点への批判」という側面を強調せざるをえないのかもしれないが、ケアの倫理が脱却しようとしている出発点に引き戻そうとしているようにも見えてしまう。
 
「ブライアン・ルークが指摘するように、多くの活動家は動物搾取の実態に率直な嫌悪や義憤を覚えるのであって、そこにみられる不合理に憤るのではない。(中略)同じく、アンドレ・コラードも動物搾取に関し、「私たちは全身でそれに反応する。自分の感情を正当化する必要すら感じずに怒りを燃やすことができる」と語る。」p.305
倫理判断に感情が重要であるという主張はもちろん現在のスタンダードな考え方でもあり、そこに反対するわけではないのだが、表現の仕方には気を配る必要があるのではないか。ここで引用したような箇所は、容易に「ほらみろ、やっぱり動物擁護論は感情論じゃないか」という反応を引き出してしまいかねないと思う。
 
「古典的な道徳理論も気づかれにくい形で主観に頼っている。レーガンは内在的価値の持ち主を単なる手段として扱ってはならないと説く。それは各々の者をその持ち分に見合うように扱うのが正義の原則だからである。が、その原則は道徳的直観と名付けられた感情なしには打ち立てられない。(中略)フランシオンは⼈間奴隷制が許されないという直観をもとに動物の権利を導き出すが、くだんの直観が⼈々に共有された感情的判断であることは⼀⽬瞭然である。他方、功利主義における利益の比較衡量も主観的・感情的判断そのものであり、ゆえに道徳問題への答は功利主義者のあいだでもしばしば一致しない。道徳哲学者らが好んで用いる限界事例の議論も人々の感情を拠り所とする。」p.307
まず一点として、道徳的直観が感情の要素を全く含まないということはないだろうが、かといってわれわれはまだ「道徳的直観と名付けられた感情」と言い切ってしまえるほど道徳的直観のことをよく知っているわけではない。
それはともかくとしても、シンガーやレーガンの議論のベースとなってきた英⽶流倫理学の観点からは、むしろ「道徳直観も感情だから」という理由で⽂脈依存性の⾼い感情が議論の基礎として⽤いられることに逆に危惧を感じる。シンガーやレーガンは誰もが受け⼊れざるをえない前提から出発することで逃げ場を奪い、動物への配慮が必要だと多くの⼈を説得してきた。それにくらべて、いくらでも「操作」が可能な感情を⼿がかりにしようとしても、「わたし別にそんなふうには感じないから」と逃げられてしまうのがおちということにならないだろうか。
これは、前に進んでいるようで逆に後退してしまっていないだろうか。
 
「感情が十人十色なのは事実であっても、他者の苦しみに対する共感のような基本的感情はあらゆる人々が共有するのであり、無情さや冷酷さは社会的に構築されている部分が大きい。たとえば動物虐待を忌み嫌う感情は世界中の人々にみられ、だからこそ動物搾取を行う者は様々な手法でその感情を抑え込もうとする。」p.308
井上氏は共感は人間が本来持っているもので、無情さや冷酷さは社会的に構築された人工的なものだ、という考えなのだろうか。それが井上氏の人間観だと言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、私にはそんな非対称性があるようには思えない。苦しみへの共感も冷酷さもどちらも生得的な面と社会的環境によって醸成される面の両面をもつのではないか。
それはそうと、これは、従来の動物解放論が感情に依拠しない立論をしようとすることへの批判の一つとして挙げられているのだが、人間の間で共感性が広く見られるというのは功利主義の出発点となっている観察でもあり、それが功利主義も含めた従来理論への批判になりうるというのは奇妙である。
 
 
「関連することであるが、感情否定は暴力の元凶である。人々が憐れみや思いやりを捨て去った時、他者への横暴が始まる」p.308
これも、前の引用に続いて、古典的動物解放論が感情に依拠しない立論をしようとすることの「大きな見落とし」(p.306)を指摘しようという趣旨の箇所だが、井上氏はシンガーやレーガンが人々に憐れみや思いやりを捨て去れと言っていると理解しているのだろうか?言っていないことに反論するのはわら人形論法ではないのだろうか?
 
「ドノバンは生命科学の再編が必要であると論じる。実験を中心とするこれまでの科学は、対象を縛り付けて科学者の問いに答えさせる尋問の論理に則っていた。これに対し、新しい科学は研究対象とする生命自身の自由な語りを書き留めるものでなくてはならない。」p.310
「なくてはならない」という強い規範がどこから出てくるのかよくわからない。それはそれとして、これは、野生動物の純粋な観察研究以外のすべての生命科学研究を廃止せよという主張なのだろうか。もしそうだとしたら、その態度は、実験的な生命科学が明らかにしてきた膨大な知見や、そしてそれに基づく医学・農学等によって達成されてきた多くの進歩、回避されてきた多くの苦しみをあまりにも軽く見すぎではないだろうか。
もちろん、実験的な生命科学が動物の搾取とこれまで不可分な関係にあったことは間違いないので、あらゆる搾取から脱しようという立場からはこれまでの実験的生命科学の達成を手放しで肯定的に評価できないのは理解できる。しかし、脱搾取の考えが実験的生命科学そのものを不可能にするような思想なのだとすれば、なぜそうまでして脱搾取しなくてはいけないのか、とその理念の方に疑念を持たれてしまうだろう。


とりあえず今回のコメントは以上である。最初にも述べたように、これは倫理学者と実践家の違い、立場の違いなどをこえて議論を深めていくための一歩として書いたものである。このコメントが今後の対話のための一助となればと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 



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April 28, 2024

ヒュームの法則はどこからきたか

以前のエントリーでヒュームの帰納の問題の再発見を扱ったが、それと同じ時期に再発見(というよりは再構成)されてヒュームに帰せられるようになった考え方がある。それがメタ倫理学で「ヒュームの法則」と呼ばれる定式である。これは、「「である」から「べきである」は導出できない」といった形で表現される事が多い。ヒュームの帰納の問題は(わかりにくくはあるものの)少なくともヒューム自身の書いたものに典拠を見出すことができるが、実は「ヒュームの法則」はヒューム自身が述べていることとずれている。ではヒュームは何を主張しているか、というのはヒューム解釈の重要な問題だが、ここではそれを取り上げるわけではない。本稿の関心は、ヒュームによるものでないならヒュームの法則と呼ばれるものはどこから来たのかである。
 
1ヒューム自身が述べていること
 
まず、ヒュームがこの法則にあたる主張をしたとされる有名な段落をみてみよう(部分的に引用されることも多いがここでは段落全体を紹介する)。箇所は『人間本性論』第3巻第1部第1節である(Hume 1739-1740)。(訳文はヒューム『人間本性論 第3巻 道徳について』伊勢俊彦・石川徹・中釜浩一訳、法政大学出版局、2012年)
 
”I cannot forbear adding to these reasonings an observation, which may, perhaps, be found of some importance. In every system of morality, which I have hitherto met with, I have always remark’d, that the author proceeds for some time in the ordinary way of reasoning, and establishes the being of a God, or makes observations concerning human affairs; when of a sudden I am surpriz’d to find, that instead of the usual copulations of propositions, is, and is not, I meet with no proposition that is not connected with an ought, or an ought not. This change is imperceptible; but is, however, of the last consequence. For as this ought, or ought not, expresses some new relation or affirmation, ’tis necessary that it shou’d be observ’d and explain’d; and at the same time that a reason should be given, for what seems altogether inconceivable, how this new relation can be a deduction from others, which are entirely different from it. But as authors do not commonly use this precaution, I shall presume to recommend it to the readers; and am persuaded, that this small attention wou’d subvert all the vulgar systems of morality, and let us see, that the distinction of vice and virtue is not founded merely on the relations of objects, nor is perceiv’d by reason.”
 
「私は以上の論究に付け加えて一言述べずにはいられない。それがいくらかの重要性を持っていることは、たぶん認められるであろう。これまで出会ったあらゆる道徳の体系で、私はいつも次のことに気がついた。著者はしばらくの間通常の推理の仕方で論を進め、神の存在を結論として立て、あるいは人間の間の事柄について所見を述べる。すると突然、驚いたことに、「である」(is)や「でない」(is not)という命題の普通の繋辞に代わって、私が出会う命題は、どれも、「べきである」(ought)や「べきでない」(ought not)という語を繋辞とするものばかりになるのである。この変化は目につかないが、きわめて重大である。この「べきである」や「べきでない」という語は、新しい関係ないし断定を表すのだから、その関係ないし断定がはっきりと記され、説明される必要があり、同時に、この新しい関係がそれとは別の、まったく種類の異なる関係からの演繹であり得るとは、およそ考えられないと思われるのだが、いかにしてそうであり得るのか理由が挙げられる必要があるからである。しかし著者たちは、通常、前もってそうすることを怠っているので、私が読者にそれを薦める役を引き受けよう。そして、このわずかな注意によって、すべての通俗的な道徳の体系が覆され、悪徳と徳の区別は、単に対象の関係に基づいているのではなく、理性によって見てとられるのではないことが示される。そう私は確信する。」(邦訳22-23ページ)
 
以下、この箇所に何度も言及することになるので、この段落に「段落A」という名前をつけておこう。
素直に読むならば、段落Aではヒュームは「である」から「べき」を導出することはできないとまでは言っていない。そうした演繹は「およそ考えられないと思われる」こと(what seems altogether inconceivable)ではあるが、他方でそういう導出をするなら説明や理由を述べよというわけだから、少なくとも言葉の上では説明や理由が与えられる余地を認めているはずである。ヒュームの法則を導くには、この箇所を「やれるものならやってみろよ、そんなことできるわけないけどな」と反語的に読む必要があるだろうが、それはやはり読み込みすぎというものだろう。
というわけで、ヒュームの法則はヒュームが明示的に述べた「法則」ではない。ではそれはどこからやってきたのか。
 
2 グリーンの解釈
 
「ヒュームの帰納の問題」について見たときにも述べたように、『人間本性論』の現代における再評価はグリーンとグロースの注釈付きのヒューム著作集が出版されたとき以降とされる。問題の箇所は第二巻に収録されており、第二巻にはその内容に対応したイントロダクションがつけられている(Hume 1874, ただし今回直接参照できたのは1878年のnew edition)。
このイントロダクションで、段落Aについては以下のような形で言及されている。
 
We have still, however, to explain how Hume himself completes the assimilation of the moral to the natural; how, on the supposition that the 'good' can only mean the 'pleasant,’ he accounts for the apparent distinction between moral and other good, for the intrusion of the 'ought and ought not’ of ethical propositions upon the 'is and is not' of truth concerning nature.*  Here again he is faithful to his role as the expander and expurgator of Locke. With Locke, it will be remembered, the distinction of moral good lay in the channel through which the pleasure, that constitutes it, is derived. (p.54, section 49。アステリスクをつけた箇所にヒュームの本文の段落Aを参照させる注がつくとともに、段落A側にもここを参照させる注がついており、相互参照するようになっている)。
 
ここを見ると、グリーンはヒュームの法則を導き出すのとは真逆の意味に段落Aを解釈していることが分かる。すなわち、「善い」が「快い」しか意味しないという想定のもとで、道徳的な善を他の善からどう区別するか説明する、つまり倫理的命題の「べきである」「べきでない」が自然の真理についての「である」「でない」の上にどうやって侵入してくるかを説明する、という(通俗的な道徳の体系がスルーしている)任務をヒューム自身が引き受けている(そしてロック流の回答を与えている)と読むわけである。
この解釈の妥当性はともかくとして、段落Aをヒュームの法則に近いニュアンスで読むこと自体、自明ではないということは確認できるだろう。
 
3 「自然主義的誤謬」とヒュームへの言及の欠如
ヒュームの法則はメタ倫理学の教科書的な記述の中でムーアの「自然主義的誤謬」とセットで紹介されることが多い。自然主義的誤謬とは、本来定義できないものであるはずの善を何らかの性質で定義しようとする誤謬のことである。いわゆるヒュームの法則と無関係ではないが、関係としてはややこしい。ではムーア自身はヒュームについてどう言っているだろうか。この疑問を持ってムーアの『倫理学原理』(Moore 1903)を開いてみると、この関連でまったくヒュームへの言及がない(段落Aへの言及に限らず)ことが分かる。
ムーアとならんでメタ倫理学における直観主義の論者として知られるプリチャードはどうだろうか。彼は代表的な論文である「道徳哲学は誤ちに基礎をおいているのか」で事実判断と価値判断の関係を論じているが、ここでは特にヒュームの名前を挙げていない(Prichard 1912)。
プリチャードがヒュームに言及するのはかなりあとの「道徳的義務」という論文である(Prichard 1937)。これはプリチャードが完成させることのなかった著書の草稿であり、没後出版された論文集に収録されている(Prichard 1949)。興味深いことに、ここでプリチャードは段落Aをまるまる引用しているが、その受け取り方はかなり後の論者たちと異なる(Prichard 1949, pp.89-90)。まず、引用の前にプリチャードは「ヒュームが「べき」という言い方を使いながら以下のように言うとき、彼が表現しているのはただ、「道徳的義務とはなにか」という問いに答えることの必要性である(only expressing the necessity of answering the question "What is moral obligation?")」(Prichard 1949, p.89)。そして、ヒュームの問いは「『Xはこれこれをするべきだ』という形式の言明と『Xはこれこれをしている』という形式の言明を区別するのは何か」だとまとめる(p,89)。ただし、プリチャードはヒュームがただ問を立てているわけではなく、ある種の答えを排除していることも認める。「この問いに対しては、ひとつの答えは即座に排除できる。その答えとは、ヒュームが「べし」や「べきでない」についてなんらかの新しい関係を、つまり「である」や「ではない」が含意するものとは異なる何らかの関係を、表現しているものとして言及するときに含意されているものである。」(p.92)これは一見いわゆる「ヒュームの法則」の話をしているように見えるが、プリチャードは「である」から「べし」を導出できるかどうかという導出関係についての話をしているわけではなく、「である」であらわされる関係と「べし」であらわされる関係の区別という分類についての話である。
 
4 フランケナとウィリアムズの言及
では誰がヒュームの法則に言及しているのか。ヒュームが「ヒュームの法則」にあたる主張をしているという解釈をしている文献のうち、比較的古くてよく知られているのはW.K.フランケナの「自然主義的誤謬」という論文(Frankena 1939)であろう。この論文はムーアが「自然主義的誤謬」ということばを形而上学的性質で定義する場合にも適用していることを指摘し、「定義主義的誤謬」(definist fallacy)と呼ぶことを提案している。自然主義的誤謬についての論文集などには必ず収録される代表的な論文である。
さて、この論文の中で、フランケナは以下のように言う。(Frankena 1939, p.466)
「自然主義的誤謬の概念は「べき」と「である」、価値と事実、規範的なものと記述的なものの二分法(bifurcation between the 'ought' and the 'is', between value and fact, be4tween the normative and the descriptive)の概念と結び付けられてきた。たとえば、D.Cウィリアムズは「である」から「べき」を導出する試みは自然主義的誤謬として譴責するのが適当(appropriate to chastise)だと考えた道徳家もいた、と述べている。(中略)ヒュームはこの二分法を彼の『人間本性論』の中で支持(affirm)している。」
この箇所に続いてフランケナは段落Aを引用している。なお、中略をした箇所ではシジウィック(H. Sidgwick)とソーレイ(W.R.Sorley)がこの二分法の支持者として名前が上がっているが、具体的な著作や主張内容に踏み込んではいない。
ここだけであれば、フランケナはヒュームが漠然と「二分法」(bifurcation)をaffirmした、としか言っていない。しかし、それに続く箇所では以下のようにも述べる。(p.467)
 
Hume's point is that ethical conclusions cannot be drawn validly from premises which are non-ethical. But when the intuitionists affirm the bifurcation of the 'ought' and the 'is', they mean more than that ethical propositions cannot be deduced from on-ethical ones. For this difficulty in the vulgar systems of morality could be remedied, as we shall see by the introduction of definitions of ethical notions in non-ethical terms. They mean, further, that such definitions of ethical notions in non-ethical terms are impossible."
「ヒュームの論点は、非倫理的な前提から妥当な推論で倫理的な結論を導き出すことはできないということである。しかし、直観主義者が「べき」と「である」の二分法を肯定するとき、かれらは倫理的命題が非倫理的命題から演繹できないという以上のことを意味している。というのも、通俗的な道徳的な体系においてはこの困難は倫理的概念の非倫理的用語での定義を導入することで取り除くことができうるからである。彼らはさらに、倫理的概念の非倫理的用語でのそうした定義は不可能であるということも意図している。」
 
ヒュームの段落Aでの論点がこのように否定的に整理されるというのは自明ではないというのはすでに紹介したとおりで、フランケナの独自解釈である可能性がある。ムーアらの直観主義者らの主張とヒュームの法則(とのちに呼ばれるようになるもの)の関係がこの段階ですでに明示されているのも目を引くが、それはまた別の話になるのでここではこれ以上立ち入らない。

では、ここで引用されているD.C.ウィリアムズは何を主張しているのだろうか。なお、ドナルド.C.ウィリアムズはどちらかといえば認識論や形而上学における貢献で知られる哲学者であり、ここで言及されているメタ倫理学の論文はむしろウィリアムズの仕事としては例外ということになる(ウィリアムズについてはSEPに独立の項目がある)。
さて、フランケナが引用しているのはウィリアムズの1933年の「純粋な約定としての倫理」という論文である(Williams 1933)。
この論文の中でウィリアムズは、義務や命法の分析がこれらのものの本質を取り逃がしてしまう、という。それは「義務というものの強制力(sanction)や本当の義務性(real obligatoriness)は、明らかのその記述可能な内容とは別の次元に存する(lies apparently in another dimension)からである。この理由により、善さが定義不可能な質だと想定するのは特に容易である。」。(p.402)
これに続けてウィリアムズは以下のように述べる。
 
It seems appropriate also to chastise as 'the naturalistic fallacy' the attempt to derive the Ought from the Is, for the Ought and the Is seem to be citizens of different realms of being. (ibid.)
「そしてまた、「である」から「べき」を導出する試みは「自然主義的誤謬」として譴責するのが適当であるように見える。というのも「べき」と「である」は存在の異なる領分の住人であるように見えるからである。」
 
フランケナのまとめに反し、ここではウィリアムズは特に誰かの道徳家の説としてこれを紹介しているわけではなく、自分自身の見解としてこれを述べている。これに類する見解を述べている論者としてこの箇所の注で名前が上がるのはW.M. アーバン(W.M.Urban)の『倫理学の基礎』(1930)である(同じ注でイートン(Eaton) のGeneral Logic の名前も上がっているが、こちらは倫理に限定しないもっと一般的な論理的な論点についての参照である)。しかし、アーバンが引用されている箇所(Urban 1930, pp.240-241)で述べているのは義務の概念と価値の概念の間に内的な連関があるということであって、「である」との関係について述べているわけではない。
いずれにせよ、「ヒュームの法則」との関連で注目すべきは、ここで実質的にヒュームの法則に相当する主張が述べられていること、そしてそれがとくにヒュームとは結び付けられていないことである。
今回調べた範囲内で、メタ倫理学側の文献においてもヒューム解釈側の文献においても、フランケナやウィリアムズより早い時点でのヒュームの法則への言及は発見することができなかった。ということは、暫定的な結論としては、「ヒュームの法則」は実は「ウィリアムズの法則」と呼ぶのが正しく、ウィリアムズの主張を知ったフランケナが半ば強引にウィリアムズの主張をヒュームの段落Aと結びつけたためにヒュームが実質的にこの法則を主張していたという誤解が広まった、という仮説がたてられる。もちろんこの種の仮説は簡単に覆るのが常なので、あくまで暫定的なものとして扱ってほしい。
 
5 ヒュームの法則の定着
フランケナの1939年の論文は非常に影響力の大きい論文であったので、ヒュームの法則とよばれる内容をヒュームと結びつけるのがフランケナの独創であるかないかにかかわらず、その結びつけを広める上でフランケナが大きな役割を果たしたのはまちがいないだろう。
 
5-1 ヒュームの法則の命名
では、「ヒュームの法則」という呼び名はいつごろから広まったのだろうか。アラスデア・マッキンタイアによれば「ヒュームの法則」という表現はヘアが1955年の「普遍化可能性」という論文で最初に使ったということである(MacIntyre 1959)。時期的にもマッキンタイアの論考はヘアの論文とそれほど離れておらず、この記述には一定の信憑性があると見ていいだろう。
この論文でのヘアの記述を確認する(Hare 1955; Hare 1972, p.20)。指摘されている箇所ではもはやヒュームが何を述べたかといったことは省略されており、自分がどういう人間かということから「わたしはいつもこれこれをすべきだ」といった言明を演繹するのが「ヒュームの法則への違反ということになってしまうだろう」(this would be to offend against Hume's Law)とのみ書かれて、注に『人間本性論』の節番号が与えられている。
 
5-2  プライアの場合
ヒュームの法則が定着していくのは、ヘアによる命名の前後だと考えられる。以下、当時のいくつかの言及の事例を見ていこう。
まず、1940年代においてすらヒュームの法則がメタ倫理学の常識ではなかった例として、プライアの『論理学と倫理の基礎』(Prior 1949)を取り上げたい。
これはムーアの自然主義的誤謬の概念をひとつの中心として事実と規範の論理的関係について考察した本であるが、ここでの話題との関係で興味深いのは「自然主義的誤謬:その反駁の歴史」(the naturalistic fallacy: the history of its refutation)と題する章(Prior 1949 pp. 95-107)である。ここでは自然主義的誤謬と似たようなアイデアを考えていた哲学者の名前がいろいろ上がっている。直近ではシジウィックがかなり似たアイデアを述べていたことが指摘される。さかのぼるとハチソン、シャフツベリー、プライス、ウェイトリーらの名前があがる。現代の目からみて目立つのは、ここにヒュームの名前がないことである。
プライアがヒュームに言及し、段落Aを引用するのは本書の別の箇所においてである (Prior 1949, pp.31-34)。この箇所の冒頭でプライアは「ヒュームの道徳哲学の中でハチソンに遡れないものはほとんど、あるいはまったくないが、ヒュームにおいてそうした点はより明確に先鋭になっている。」(p.31)。つまり、ヒュームにオリジナリティを認めないがゆえに歴史をまとめる中では名前があがらなかったのである。ここでプライアは段落Aを引用する。しかし、それは倫理的合理主義への批判の試みとしての引用であり、倫理的合理主義批判としては「決定的でない」(inconsequent)だと評する。リードがヒュームに答えていうように、ヒュームが求めているのは「べし」や「べきでない」を説明するかまたは非倫理的命題から演繹することだが、そもそも倫理的な第一原理は自明なのでそうした説明要求は不適当だ、という応答が可能だからである。(pp.33-34)つまり、プライアはこの箇所をそもそもヒュームの法則について述べた箇所だと認識していないということである。
 
5-3 ハンプシャーの場合
ハンプシャーの「道徳哲学における誤謬」(Hampshire 1949)はフランケナ以外でヒュームの法則に言及したかなり早い例である。
ハンプシャーは以下のように述べる。「ヒュームは道徳的判断が事実問題についての議論に基礎をおくことを決して否定しなかった。彼はただ、そうした議論が論理的に決定的、ないし演繹的な議論ではないということを示しただけである」(Hampshire 1949, p.466, n.1)。
この書きぶりは、ハンプシャーがグリーン流の解釈とフランケナ流の解釈の間で何とか折衷的な見解をとろうとした結果のようにも見える。しかし、実際問題として、ヒュームは「そうした議論が論理的に決定的、ないし演繹的な議論ではない」とまでは言っておらず、折衷的な読み方でもフランケナの読み方にかなり引きずられていると言っていいのではないだろうか。
 
5-4ヘアの場合
R.M.ヘアの『道徳の言語』(Hare 1952)は現代でもしばしばメタ倫理学における指令主義を提唱した著作として参照される古典である。ヘアはまず、論理的な規則として「少なくとも1つの命法を含まない前提の集合からは命法的結論を妥当に導出することはできない」という規則を明示する(Hare 1952, p.28)。ヒュームの名前はこれと関連して登場する。
「また、この論理的な規則の内に、一連の「である」命題から「べし」命題を演繹することの不可能性についてのヒュームの有名な観察の基礎が見出される。この観察について、彼は、「通俗的な道徳体系をすべて覆すであろう」と正しく述べており、これは彼の時代にすでに登場していたものには限定されない。」
『道徳の言語』もまたメタ倫理学において大きな影響力を有した本であるため、フランケナの記述とあわせ、本書でのヒュームの取り上げ方が現在まで影響を及ぼしている可能性は高い。
 
5-5 ノーウェル=スミスの場合
P.H.ノーウェル=スミスの『倫理学』(Nowell-Smith 1957)は現代では言及されることも少ないが、代表的なメタ倫理学の論考として同時代的に影響力の大きかった本である。
段落Aを引用したあとで、ノーウェル=スミスは以下のように続ける。
「現代の用語法に自由に翻訳するならば、ヒュームが言おうとしているのは以下のことである(what Hume means is this) 。あらゆる道徳体系においてわれわれは価値の判断や命令ではないような事実についてのなんらかの言明から始める。そこには道徳語は含まれていない。それらは神についての言明や人間本性---つまり人類が何であるか、そして何を実際にするか---についての言明である。われわれはそこで、こうしたことがそうであるから、われわれはある仕方で行為するべきだ、と言われる。つまり、実践的な問いへの答えが事実についての言明から演繹されるか、他のなんらかの仕方で導出されているのである。これは不当な推論でなくてはならない(this must be illegitimate reasoning)、というのもある議論の結論は前提に含まれていないものは何も含むことはできず、この前提の中には「べき」はまったくないからである。」(Nowell-Smith 1957 p.33)
ノーウェル=スミスの「自由な翻訳」はたしかに途中までは「翻訳」の範囲内であるが、最後の部分で「不当な推論」と言い始めたところでまったくヒュームが言っていない領域に足を踏み入れている。
 
こうしてみると、1939年のフランケナの論文でのヒューム解釈はすぐに定着したわけではなく、50年代にヘアやノーウェル=スミスといった影響力のある哲学者の著作を通して広まり、定着した、という見方も可能なように思われる。そうだとすると、「ヒュームがヒュームの法則を述べた」という「常識」の歴史は意外に浅いということになりそうである。そして、ヒュームの法則は実は「ウィリアムズの法則」と呼ぶのが適当かもしれない、というのが暫定的な結論である。
 
References
 
Frankena, W.K. (1939) "The naturalistic fallacy" Mind 48, 464-477.
Hampshire, S. (1949) "Fallacies in moral philosophy" Mind 58, 466-482.
Hare, R.M. (1952) The Language of Morals. Clarendon Press.
Hare, R.M.(1954-55)" Universalisability" Proceedings of the Aristotelian Society New Series 55, 295-312. reprinted in Hare 1972
Hare, R.M. (1972) Essays on the Moral Concepts. University of California Press.
Hume, D. (1739-1740) A Treatise on Human Nature; Being an Attempt to Introduce the Experimental Method of Reasoning into Moral Subjects.
---(1874) A Treatise on Human Nature; Being an Attempt to Introduce the Experimental Method of Reasoning into Moral Subjects; and, Dialogues concerning natural religion. in Two Volumes, volume 2. Edited by T.H. Green and T.H. Grose. Longman, Green and Co.
https://archive.org/details/atreatiseonhuma03grosgoog/
MacIntyre, A.C. (1959)"Hume on 'Is' and 'Ought'" The Philosophical Review 68, 451-468.
Moore, G.E. (1903) Principia Ethica. Cambridge University Press.
Nowell-Smith, P.H. (1957) Ethics. Blackwell.
Prichard, H.A. (1912) "Does moral philosophy rest on a mistake?" Mind 21, 21-37
-- (1937) "Moral obligation" (manuscript) published in Prichard 1949.
--(1949) Moral Obligation: Essays and Lectures. Clarendon Press.
Prior, A.N. (1949) Logic and the Basis of Ethics. Clarendon Press.
Urban, W.M. (1930) Fundamentals of Ethics. Allen and Unwin.
Williams, D.C. (1933) "Ethics as pure postulate" Philosophical Review 42, 399-411.
 



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April 18, 2024

演繹と帰納についてのノートの補足(その2)

元記事
補足その1

今回は主に1930年から1950年までの論理学教科書、科学方法論書等で「演繹」と「帰納」がどう使われているかを確認していこう。この話題の最初のエントリーで紹介したように、現代よく使われる「前提がすべて真なら結論も必ず真になる」という意味で演繹を使う事例は1930年のスーザン・ステビングの本や1934年のコーエン&ネーゲルの本などに見られる。しかし、彼らのオリジナリティや影響の範囲を評価するにはその前後の他の著作も確認する必要がある。また、帰納については彼らの本では演繹と対応する形で再定式化されていないので、帰納の再定式化がどう進んだか知る上でももう少し用例を探る必要がある。

1 C.I.ルイス『記号論理学総説』1918年

主に30年以降といいながら、最初にとりあげるのは前回言及できていなかったC.I.ルイスの1910年代の本である。
C.I. ルイスの1918年の『記号論理学総説』(Lewis, C.I. A survey of symbolic logic. University of California  Press, 1918)はライプニッツやブール以来の記号を使った論理学の歴史を概観するとともに「厳密含意」の概念を提示した著作として知られる。(本人はこの本での定式化を失敗と考えており、後の再版からは厳密含意についての章が削除されている。)
https://archive.org/details/asurveyofsymboli00lewiuoft/

演繹的方法は数学の特徴の一つとして名前があがる。

The most convenient method which the human mind has so far devised for exhibiting principles of exact procedure is the one which we call, in general terms, mathematical. The important characteristics of this form are: (1) the use of ideograms instead of the phonograms of ordinary language; (2) the deductive method — which may here be taken to mean simply that the greater portion of the subject matter is derived from a relatively few principles by operations which are "exact"; and (3) the use of variables having a definite range of significance. (p.2)

つまり、ある分野を構成する多数の命題が少数の原理から厳密な(exact)操作で導出されていることを演繹と呼んでいる。今であればこれはむしろ公理的方法などと呼ぶだろう。原理からの導出、という点では古い演繹の定式化を思わせるし、「厳密な操作」の部分をさらに説明すれば現代の定式化に近くなるだろう。

帰納という言葉は、本書ではほとんど「数学的帰納法」という形でしか触れられていない。ただ、その中で以下のような表現があることは注目される。

By use of this and certain other concepts, the method of "mathematical induction" can be demonstrated to be completely deductive. (p.277)

数学的帰納法は完全に演繹的だと考えているということは、演繹を一般から個別への推論という意味では捉えていないことになる。


2 ジェフリーズ『科学的推論』1931年

ハロルド・ジェフリーズは地球物理学者だが確率論についての著作も多く、科学哲学においてはベイズ主義科学哲学の草分け的存在でもある。1931年の『科学的推論』は科学哲学者としてのジェフリーズの代表的な著作である。
Jeffreys H. (1931) Scientific Inference. Cambridge University Press.
https://archive.org/details/scientificinfere029500mbp/

本書冒頭で演繹と帰納の定式化については以下のように明確に述べられている。
The fundamental difference between the two methods of approach is that in the former, where the major premiss is known a priori, we always proceed from the general to the particular; in the latter we get the major premiss itself by asserting as a general proposition what was previously known only in particular instances. The former method is deduction, the latter induction. (p.5)

一般から個別へと推論するのが演繹、個別から一般へと推論するのが帰納、という古典的な両者の定式化が踏襲されているのがわかるが、演繹においては前提が「アプリオリに知られる」という条件が追加されているのが目を引く。
19世紀の議論で演繹にこの条件が付加されることは少なく(というより、演繹の大前提そのものが帰納によって得られるというミルらの議論が幅をきかせていた)、もう一つ前の世代のデカルトの演繹的方法などを思わせる。

3 ポパー『探求の論理』1934年
次にカール・ポパーの用例を確認しておこう。よく知られるようにポパーは帰納主義を否定して「演繹主義」の方法論を唱えたが、1934年の時点における演繹主義はどの意味の「演繹」をする主義だったのだろうか?
以下、英語は1959年の英訳版(Logic of Scientific Discovery, Hutchinson and Co.)を参照し、ドイツ語のテキストは1966年の第二版(主テキストは初版と同じで英訳版で補われた補注や補遺を反映したもの)を参考にしている(Logik der Forschung: zweite, erweiterte Aufglage. Mohr, 1966)。
演繹主義(deductivism, deductivismus)の中心的な考えとなるのが理論の演繹的テスト(deductive testing of theories, Die deduktive Uberprufung der Theorien)であるが、その基本的な説明は以下のようになっている。

From a new idea, put up tentatively, and not yet justified in any way--- an anticipation, a hypothesis, a theoretical system, or what you will--conclusions are drawn by means of logical deduction. (p7. section 3)
このあとの説明も合わせると、これは仮説から単称命題を導出し、それが正しいかどうかを確かめるという方法で、今で言うところの仮説演繹法に近い考え方である。これは普遍から個別という意味での演繹と解釈しても、論理的な導出と解釈しても意味がとおってしまうので、どちらともつかない。しかも、「論理的演繹を使って」(auf logisch-deduktivem Weg)とあるのがやっかいで、「演繹」そのものは一般から個別という意味だが、論理的演繹は結論が必然性を持つような導出を指すというニュアンスで「論理的演繹」という表現を使っている可能性もある。『探究の論理』を通して仮説からの演繹が持つ論理的な性質が強調されているという点からは現代的な意味で演繹を使っていると解釈するのが自然ではあるのだが、はっきりはしない。

もう一箇所、演繹という言葉が使われる重要な箇所として「因果的説明」の定式化をしている箇所がある。
To give a causal explanation of an event means to deduce a statement which describes it, using as premises of the deduction one or more universal laws, together with certain singular statements, the initial conditions. (p.59, section 12)
(ドイツ語版は Einen Vorgang "kausal erklaren" heist, einen Satz, der ihn beschreribt, aus Gezetzen und Randbedingungen deductiv ableiten.で、趣旨は同じだが少し簡略である)

ここは(因果的)説明とは法則と条件から演繹することだという説明の定式化が行われており、後のヘンペルのD-Nモデルの基本となる考え方をヘンペルに先駆けて提示している箇所となっている。ここも「演繹」という言葉は一般から個別という意味にも結論を必然的にするという意味にもとれる。法則だけでなく初期条件に言及している点は後者の解釈を思わせるが、本当に後者の意味で「演繹」するには初期条件だけでなく補助仮説群を補う必要があるので、それに言及していないのは前者の意味を思わせる。

帰納についてはポパーの記述は明確である。
it is usual to call an inference 'inductive' if it passes from singular statements (sometimes also called 'particular' statements), such as accounts of the results of observations or experiments, to universal statements, such as hypotheses or theories. (p.27 section 1)

ドイツ語でも同趣旨のことが述べられている。つまり、ポパーは「帰納」を個別から普遍という推論のことだと考えた上で、ヒュームに基づいて帰納的推論は正当化されないという議論を行っていたことがわかる。前回のエントリーで確認したように、ヒューム自身は帰納という言葉を使わずに蓋然的推論全般にあてはまる問題を論じていたわけだが、「ヒュームの帰納の問題」として問題が定式化される過程で、議論の対象が一旦狭くなったことになる。しかしその後帰納という言葉自体を蓋然的推論全般を指す用法も広まり、結局ヒュームの本来の意図に近い形に議論のスコープが変わっていったわけである。


4 ランガー『記号論理学入門』1937年
スザンヌ・ランガーは後に『シンボルの哲学』などを著しアメリカにおける記号論や美学の代表的な哲学者となるが、学位取得前後は論理学や言語哲学を研究していた。本書はそのころの著作ということになる。

Langer, S.K. (1937) An Introduction to Symbolic Logic. Allen and Unwin.
https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.523033/

本書における演繹と帰納の捉え方は同時代の他の論理学教科書類と比べてもちょっと独特である。
まず、演繹という言葉の意味については以下のように言う。

The process of reasoning from one truth-value to another among propositions is known as deduction. (p.76)

一つの命題の真理値から他の命題の真理値へと推論するのが演繹だ、という演繹という言葉の導入のしかたは他ではあまり見かけない。ただ、言わんとするところは現代的な定式化と同じことなのかもしれない。
演繹的体系と帰納的体系の対比の仕方はさらに独特である。

A system wherein a small number of propositions, known from outside information to be true, implies the truth or falsity of all other elementary propositions, is called a deductive system.
A system wherein all truth-values must be separately assigned by pure assumption or outside information is an inductive system.
A system wherein some truth-values may be deduced, but others neither imply anything nor are implied, is a mixed system. (p.80)

公理系とそこから導出される定理の集合で作られるのが演繹的体系、各自論理的に独立な命題群が帰納的体系、中間が混合的体系というわけである。演繹的体系の方は上記のルイスのイメージとも近いが、帰納的体系のイメージはどこからきたかよくわからない。「少数の命題」というあいまいな表現の捉え方次第では、帰納的体系の独立の命題をすべて公理扱いしてしまえば演繹的体系に変換できてしまうようにも思える。
本稿の目的との関係で興味深いのは以下の記述である。

The importance of valid deduction, and its connection with truth, lies in the fact that if the premises are true then the conclusion is true. A true theorem invalidly deduced has no guarantee. A false premise does not affect the truth value of its consequences at all. But a true premise and a valid deduction always yield a true theorem. (p.202)

つまり、前の引用で見たような演繹の定式化とは別に、前提が真ならば結論も真となるということが演繹的推論の重要な特徴であることはランガーも認識していたわけである。これもまた一種の過渡的な形態とはいえそうである。


5デューイ『論理学:探究の理論』1938年

ジョン・デューイにはクリティカル・シンキングや論理学についての著作も多い。本書はさまざまなタイプの「探究」を統一的に扱おうというデューイならではの構想を展開した本。

Dewey, J. (1938) Logic: The Theory of Inquiry. Holt and Co.

本書の第21章 (Scientific Method: Induction and Deduction)で帰納と演繹がテーマとして取り上げられる。

The conception of induction as a procedure that goes from particulars to the general and of deduction as the reverse movement has its origin in the Aristotelian formulation (p.420)
このようにデューイは伝統的な個別から一般、一般から個別の推論という帰納と演繹の定式化を確認する。
しかし、演繹はそこにはとどまらない意味を持つことも指摘する。

Mathematical discourse is now the outstanding exemplar of deductive demonstration; but (1) no mathematician would regard it as logically important to reduce a chain of related mathematical propositions to the syllogistic form, nor would he suppose that such reduction added anything to the force of his demonstrations; and (2) such deductions do not necessarily proceed from the more general to the less general even with respect to conceptions; while (3) as has already been shown (and, indeed as is generally acknowledged), it is impossible to proceed directly from a universal proposition to one about an existential particular or singular.... So much, in general, for the irrelevancy of the Aristotelian conception of deduction to modern scientific practice. (p.421)

つまり、数学は演繹的論証の典型例であるにもかかわらず、一般的な命題から個別命題へという推論のパターンをとるわけでもないし、そもそも普遍命題のみから個別のことについての命題が直接導出できるわけでもない、というわけである。
帰納については、現代科学における「帰納」も個別から一般へという推論と呼ぶことはできるが、その類似性は言葉の上のものであり (there exists a verbal similarity, p.422)、その言語的形式の中でそれぞれの語の意味は異なっている(the sense of every term in the verbal formula is different, p.424)とデューイは言う。
では、デューイは演繹と帰納(特に演繹)をどう捉え直すのか。この章を最後まで呼んでもあまり明確な定式化はなされていない。例えば以下のような箇所はある。

"This consideration is, in effect, a warning in advance of the impossibility of making a sharp division between "induction" as the operation by which existential generalizations are established, and "deduction" as the operation concerned with the relations of universal propositions in discourse. As far as physical inquiry, at least, is concerned, induction and deduction must be so interpreted that they will be seen to be cooperative phases of the same ultimate operations" (p.427)

科学的探究の中で行われるさまざまな命題間の操作の中に「帰納」とラベリングされるものや「演繹」とラベリングされるものがある、というイメージのようである。本書におけるデューイの演繹と帰納のイメージはこれ以上は具体化されていない。


6 ベネット&ベイリス『形式論理 現代的入門』1939年
Bennett, A.A. and Baylis, C.A.(1939) Formal Logic. A Modern Introduction. Prentice-Hall, 1939

本書は記号論理学の入門書。著者たちについてはあまり詳しいことはわからない。確率と帰納についてそれぞれ一章を設けており、前の世代の論理学入門書のフレーバーも残している。
ベネットとベイリスは本書の冒頭でさまざまな推論の例を挙げ、妥当かどうかにかかわらず推論のタイプに応じて2つに分類する。

"In sets I, III, IV, VI, VII, and VIII, the final statement is proposed as a conclusion which must be true if the earlier statements of the set which serve as premises are true. Sets of this kind are called deductive arguments. When they are valid, as in the case of I, III, and VII, the conclusion is validly deduced from the premises; in each case the truth of the premises necessitates the truth of conclusion." (pp.5-6)

これらの推論においては「最後の言明は、前提としての役割を果たすその前の諸言明が真であるならば真でなければならない結論として提案されている」そしてそれを「演繹的議論」と呼ぶ、と明確に述べられている。

それに比べると、それと異なるもう一つのカテゴリーの推論についての説明はまわりくどい。
"In sets II, V, IX, and X, the last statement in each set is again justified by the earlier statements in that set, but in these cases two things should be noted....the conclusion is a statement of probability....in these arguments, ... the probability asserted in the conclusion is relative to the premises. That is, the conclusion is correct on the evidence of the premises; if other relevant evidence were to be included among the premises, the probability stated by the conclusion might be quite wrong....." (pp.6-7)

つまり、このカテゴリーの特徴として、(1)議論の結論が蓋然性についての言明となっている。(挙げてある事例の中では"have a better chance"とか"probably" "it is probable that "といった表現が結論で用いられている)(2)別の関連する証拠を前提に加えると蓋然性についての結論が覆ることがある、という2点が挙げられている。

"Arguments of the type of those in group (C) are variously called inductive, empirical, or probable arguments. We refer to them as empirical probability arguments. Such arguments are valid if the premises justify precisely the degree of probability asserted in the conclusion. Otherwise they are invalid."p.7

実はベネットとベイリスはもう一つ別のカテゴリーの議論も「タイプB」として分類している。それは、かたよりのないサイコロについての前提から、「5の数字の書かれた面が上になる確率は1/6である」という結論を導き出すような推論である。これは所与の前提と矛盾しないような他の前提を加えても結論が変わらないという点で「グループC」と異なり、「ア・プリオリな確率的議論」a priori probability argumentと名付けられる。
まとめると、本書は演繹と帰納に限って言えば、ほぼ現代の用法に近いかたちで両者を定式化している。特に、非演繹的・蓋然的推論全般を「帰納」と呼ぶ帰納の用法は、今回検討した中では本書における用例がもっとも古いものとなる。ステビングやコーエン&ネーゲルは帰納については古い用法を残しているので、そこからさらに一歩進んでいるとも言えるだろう。ただ、確率的推論の扱いに困って第三のタイプとして独立させていたり、整理しきれていない部分も残っている。

7 ブラック『批判的思考』1946年
マックス・ブラックは第二次大戦後の代表的な分析哲学者の一人であるが、彼の『批判的思考』は論理学の教科書として成功したようで、すぐに第二版が出版されている。
Black, M. (1946) Critical Thinking. Prentice-Hall.

本書では演繹を以下のように定式化する。
An inference which purports to be conclusive is said to be deductive; and such an inference is known as deduction. (p.15)

では決定的(conclusive)とはどういうことか。直前に説明がある。

This inference... is conclusive. For anybody who understands the words used can see without appeal to any information except that given in the reasons that the conclusion is justified. If the reasons were true, it would be impossible for the conclusion not to be true. (p.15)

この最後のところに、「前提が真ならば結論が真でないということが不可能である」というおなじみの定式化が登場している。つまり、若干まわりくどいが、実質的に現代の定番の演繹の定式化が採用されているわけである。

帰納についてはどうか。

The process by which we pass from evidence concerning some members of a certain class of objects to an assertion concerning all members of that class, is known as induction. To speak more precisely, we shall mean by an induction a process of reasoning in which a proposition of the form all P are Q is asserted on the basis of a number of propositions having the form this P is Q and that P is Q and that other P is Q, etc.  (p.276)

このあとで「帰納と演繹の違い」という節タイトルが掲げられ、この意味での帰納が演繹の条件を満たさないことが説明される(pp.276-278)。それはいいとして、ブラックは古典的な帰納の定義にそって、いわゆる枚挙的帰納のみを帰納という言葉の適用範囲とするという選択をしていることが注目される。ただし、記号論理学の発展を踏まえた表現法が用いられており、形式としてはアップデートがなされている。


8 ライヘンバッハ『記号倫理学の諸要素』1947年

ハンス・ライヘンバッハも論理学の入門的な本を書いている。
Reichenbach, H. (1947) Elements of Symbolic Logic. Macmillan co., 1947

演繹と帰納については非常に明瞭な定式化が行われている。ただし、帰納についてはこの本では取り上げていないので言葉としてはここで出てくるだけである。

Rules of derivations are of two kinds. The first lead from true propositions to true propositions; they are called rules of deduction. The part of logic that hey establish is called deductive logic. The second sort of rules lead from true propositions to propositions that are maintained only as posits, i.e. as substitutes for true propositions where truth is not knowable and is replaced by a probability; they are the rules of induction. The part of logic that includes inductive rules is called inductive logic; it comprises both deductive and inductive derivations and deals with the theory of indirect evidence. (pp.16-17)

真なる命題から真なる命題への推論が演繹、真なる命題から確率と置き換え可能な命題への推論が帰納、というわけである。言わんとするところは現代的な定式化と同じなのだろうが、現代的な定式化を知らない人にとっては趣旨が伝わりにくく、ちょっとかゆいところに手が届いていない感じはある。

9カルナップ『確率の論理的基礎』1950年

ルドルフ・カルナップの『確率の論理的基礎』はカルナップ流の客観的確率の概念や帰納論理を展開した本としてよく知られており、現在でもこれらの話題を論じる際によく言及される。

Carnap, R. (1950) Logical Foundations of Probability. The University of Chicago Press.

本書において、演繹論理と帰納論理はそれぞれかなりテクニカルな体系として展開されているのだが、概念の規定そのものは完結である。まず本文では、

Deductive logic may be regarded as the theory of the relation of logical consequences, and inductive logic as the theory of another concept which is likewise objective and logical, viz. probability1, or degree of confirmation. (p.43)

とある。ちなみにカルナップは本書で確率概念を「確率1」probability1と「確率2」probability2にわけ、一般的な相対頻度としての確率は確率2、カルナップの考える論理的な確証の度合いとしての確率は確率1と呼ばれる。帰納はこの意味での確率に関わるというわけである。演繹の方は「論理的帰結」に関わるというが、それだけではよくわからない。
本書の最後にはグロッサリーもつけられており、そこにも演繹的推論と帰納的推論の項がある。

deductive inference: inference based upon L-implication. (p.579)
inductive inference: an inference which is nondeductive, nondemonstrative/ determination of the degree of confirmationc(h,e) (in particular, when e L-implies neither h nor ~h) p.580

これらに登場するL含意(L-implication)については別に項目がある。

i L-implies j: i logically implies j; j follows logically from i/ the range of i is contained in that of j. p.580

つまりL-含意は「論理的含意」ということだが、では論理的含意とはなにか。これは本文に戻る必要がある。

The concept of L-implication is meant as an explicatum for necessary implication, logical implication, entailment, the converse of logical consequnce or logical deducibility. It seems that this explicandum is meant as that relation which connects i and j (or the corresponding propositions) if it is impossible that i is true but j is not, in other words, if j holds in every possible case in which i holds. (p.83)

これらの記述を総合すると、結局、演繹的推論とは前提が正しいけれども結論が間違いということがありえないような推論を指し、帰納的推論とはそれ以外の推論、特に確率や確証度の概念で規定されるような推論を指すということになる。
いろいろな箇所の記述を比較しないといけないという意味ではわかりにくいが、カルナップが現代的な演繹と帰納の定義を明確に採用していることがわかる。


10 まとめ

こうしてみると、ステビングやコーエン&ネーゲルの演繹の再定式化が30年代初頭にあったあともジェフリーズ、ポパー、ランガー、デューイなどの30年代の著作ではまだ新しい定式化に収束していない様子がうかがえる。それに対して30年代末のベネット&ベイリスから40年代のブラック、ライヘンバッハ、カルナップなどと見ていくと、演繹の定式化については表現の仕方にばらつきはあっても内容的には現代的な定式化に収束していっているような傾向が見える。
他方、帰納については、ベネット&ベイリスやカルナップのように「非演繹的推論全般」という形で演繹と帰納の対比を維持するという方向性も明確に出てきた一方で、ブラックのように古典的な定義にそった「枚挙的帰納法」に限定するという考え方もある。ここでは50年代以降の書籍は検討していないが、この2つのスタンスはその後も科学哲学の入門書類で併存しているようである。





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