September 06, 2021

『はじめての動物倫理学』読書ノート

田上孝一さんの『はじめての動物倫理学』は、動物倫理の分野を概説するおそらく最初の新書であり、この分野の存在を多くの人に知らしめたという意味で、大変画期的な本だと思う。
 以下では主にわたしが同意できない点や疑問に思う点を中心に記述していくが、その前に本書の良いところをいくつかあげておこう。
 まず、全体として非常に読みやすい。ときどき「広く観念されている」(p.107)といった耳慣れない表現が出てきたりするものの、全般に難解な表現は極力避けられている。また、いろいろ留保をつけずに言い切る形で論述されているところが多いのも、立場が鮮明であるという意味で本書の美点である。動物の権利論がいろいろな問題をどうとらえるかについて、田上さんなりの一貫した視点を提供しているのも本書のよいところである。
 第一章の倫理学理論の整理はスタンダードな内容で(あとで細かいことをいくつか指摘させていただきはするが)概ね信頼できると思う。こうした理論的な背景と結びつけるところが学問としての動物倫理学の特色だと思うので、その点をきちんと実践されているところは好感が持てる。
 第二章で紹介されているソルトやゴンパーツ(田上さんは「ゴンペルツ」という表記をされており、実際兄弟のBenjamin Gompertzについては「ゴンペルツ」表記も多いようだが、調べた限り生まれながらのイギリス人なのでゴンパーツの方が発音としては近いはずだと思う)は動物倫理の先駆者としてこれまでほとんど紹介されてこなかった人々であり、彼らの思想がかなりの紙数を割いて紹介されている点は本書の特色である。
 第三章は集約的畜産業(本書ではCAFOという表現が使われている)や動物実験といった定番の話題だけでなく、人間と動物の関わりの問題をかなり広く取り上げており、特に動物性愛を動物倫理学のテーマとして取り上げている本は他にないのではないかと思う。この話題の広さも本書の売りの一つであろう。
 もう一つ本書の大きな特色は第六章でマルクス主義と動物倫理学の関係を考察しているところだろう。これも、海外では論文なども少しずつ出始めているようではあるが、国内でマルクス主義と動物倫理の関係が取り上げられるのはこれが初めてであろう。この点でも本書は特色が大きい。

 さて、以上のような美点はみとめつつも、わたしとしては本書を読んでいて納得のいかないことや疑問を持つことがいろいろあった。以下に列挙していく。この中には新書という形式であるがゆえに触れられなかったとか説明ができなかったという話題も多いだろう。それでもこうして文章化しておくことで田上さん本人にも、また田上さんの本を読む人にも、なにかの参考にしていただけるのではないかと思う。

(1)「動物倫理学の本来の目的」(p.85)
 田上さんの本書の前半における主な主張の一つは、動物倫理学には「本来の目的」や「当初の目的」(p.89)と呼べるものがあってそれは「「動物の権利」の擁護」だということである。この「本来の目的」というのはただ田上さんが個人的にそう思っているということではなく、シンガーが「動物倫理学が目指していた本来の目的を達成することができなかった」(p.85)と批判されているので、動物倫理学を実践する者すべてが目指すべき共有された目的らしい。しかし、その「本来の目的」や「当初の目的」なるものがどのように特定されたのかよくわからない。
 こういう疑問を持つ背景として、私自身が「動物倫理学」という言葉をどうとらえているかを先に説明した方が話が早いだろう。わたしの理解では、animal ethicsが分野の名前として使われるようになったのは比較的最近で、特に2003年のAnimal Ethics Readerというアンソロジーが大きなきっかけになったのではないかと思う。それまでは、応用倫理学の諸分野を列挙する中では、動物の話は環境倫理学の一部として扱われたり、animal liberation, animal issuesなどという言葉が使われていたりした。その後動物倫理学という言葉が分野名として使われるようになった背景としては、シンガーやレーガンだけでなく、徳倫理やケア倫理をはじめ動物についての多様なアプローチが登場し、個別の領域もかなり多様化しつつ議論が深まってきたことで一つの「分野」としての広がりが出てきたことがあると思う(Animal Ethics Readerはまさにそうした多様性を陳列するような本になっている)。そういういろいろなものを含みこむことで「分野」としての地位を得たという意味での動物倫理学の「本来の目的」を問われたら、わたしなら「動物と人間の関係について哲学的倫理学の知見を利用しながら考察すること」と答えるだろう。もちろんその動物倫理学の中で動物の権利を何らかの意味で認める立場が現状有力なのは確かだが、だからといって動物の権利を擁護するのが「本来の目的」だというのは、例えて言うなら、ソフトバンクホークスが強いからといって「プロ野球の本来の目的はソフトバンクホークスが日本一になることである」と主張するようなものだ、という気がする。
 さて、そういう視点で読んでいるわたしにとって、田上さんが「本来の目的」を導き出す道筋はとうてい納得がいかない。具体的には、田上さんがやっているのは初期の動物倫理の論者として動物の権利やそれに類する概念を使った論者たち、その中でも主にゴンパーツやソルトを紹介することである。彼らの先駆者としてニコルソンやローレンスの名前もあがっている(p.67)が、詳しく論じられてはいない。こうした人たちの主張の共通項として、「シンガーに先駆けた動物擁護者が押しなべて問題にしていた「動物の権利」の問題」(p.73)と言われたりしているわけである。
 たしかにゴンパーツは動物の利用そのものを否定する議論をし、ソルトは動物の権利という概念を著書の中心とした。ただ、ゴンパーツは特に権利という概念を使ってはいないし、ソルトのいう権利は現代の人権思想などで言われるような意味での権利とはかなり性格が異なる。こうした状況から「動物倫理学の本来の目的は「動物の権利」の擁護だ」という結論がどうやって導けるのか。たとえば考えられるのは「動物の人間による利用を全面禁止する論拠となるのは動物の権利論のみだから、動物の権利を認めるのが本来の目的なのだ」という議論だが、「権利論によらなければ動物の人間による利用を禁止できない」というのは全然自明ではない。それ以前にそもそもゴンパーツが動物の利用を全面禁止しようとしたことの方がリーズナブルでないという可能性もあって、その場合にはそのリーズナブルでない主張の論拠を探すことも「本来の目的」にはなりえないだろう。また、ソルトの「動物の権利」が現代的なある種の絶対性を備えた「権利」ではないからといって、現代的な権利論を擁護すべきだという結論も出てこないだろう。ソルトからすれば、時代的制約はともかくとして、自然権論なども考慮の対象とした上でスペンサー流の権利概念を採用しているわけで、それを「こっちの方がいいですよ」と否定されるのはソルトからすれば心外かもしれない。
 以上は、ニコルソン、ローレンス、ゴンパーツ、ソルトという流れが動物倫理学の嫡流であり、彼らの思想の中から動物倫理学の「本来の目的」「当初の目的」が読み取れるという田上さんの前提を受け入れたとしてもこうなるという話だが、そもそも彼らをそのように特別視する理由はあるだろうか。さきほどの引用で「押しなべて」と田上さんは言っていたが、それは田上さんが動物保護の活動をしていた多様な人々の中で「動物の権利」やそれに近い概念を使っていた人々をピックアップしているために「押しなべて」問題にしていたように見えるだけではないか。
 現代の動物倫理学の先駆者としては、有名どころではモンテーニュやショーペンハウアーなどもいるし、動物保護の運動に関わっていない人はノーカウントだというのなら、ゴンパーツ以外のRSPCAメンバーの思想などを調査することも可能だろう(ゴンパーツの立場が急進的すぎるのでRSPCAを半ば追い出されるような扱いをうけることになった経緯についてはターナー『動物への配慮』が詳しい)。いずれにせよ、ゴンパーツのように動物使用を全面禁止する主張は動物に配慮しようという運動全体の中では例外である。田上さんが代表者の一人として選ぶソルトですらそこまでは言っておらず、ニコルソンやローレンスについては私もよく知らないが、ターナーの『動物への配慮』での紹介を見る限りは人間による動物の利用を否定するほど強い動物の権利を主張していたわけではないようである。彼らを代表として選ぶのは、田上さんの問題関心からは自然だろうが、19世紀における動物倫理学の先駆者の姿を描き出すという観点からはバランスが悪いと言わざるをえない。

(2)「動物虐待」について
 田上さん自身あとがきで触れるように(p.249)、本書では第三章を中心に「動物虐待」という言葉が頻繁に用いられる。それも、「牛ははっきりと虐待的に育てられている」(p.121) ,「牛乳は〜動物虐待の産物」(p.127) ,「動物園はその本質からして動物虐待施設」(p.144)「水族館にいること自体が、これらの動物にとっては虐待なのである」(p.149)「競馬は〜やはり動物虐待といわざるをえない」(p.163)など、かなり強い口調で断定している箇所が目につく。それらの断定の中にはまあなるほどというものもあれば、「動物倫理学」という学問として虐待の話をしようとしているのであればもう少し考察が必要なのではないかと思われる面もある。
 動物虐待(cruelty to animals, abuse of animals)は19世紀以来動物保護の運動の中心となってきた概念であり、動物に対して直接強い苦痛や強いストレスを与えることを指してきた。ただ、日本と欧米の文脈の違いもあるだろうが、動物を殺すこと自体は必ずしも虐待とはとらえられず、むしろ安楽死によって動物の苦しみを回避することは(人間の安楽死の際の基準となるような激しい苦痛でなくとも)欧米の動物保護運動の中では推奨すらされてきた。それに対して、田上さんは動物を殺すこと自体が動物虐待となると考えているように見える。たとえば、121ページでは、肉用牛が健康を害することに加えて、体質が変わることや「自然寿命の一〇分の一前後の極端に若い年齢で処分されてしまう」ことも肉用牛の育て方が「はっきり虐待的」だと判断する材料となっているようだが、若い年齢で殺されることは(苦痛を伴わない形で行われるなら)それ自体として本当に虐待を構成するのか議論の余地があるだろう。126ページでも、卵鶏が産卵ペースが鈍化してきたところで殺処分されるという事実をもって「資本主義的経営と動物虐待は切っても切り離せない」、と、殺処分そのものを(その手法の如何を問わず)虐待と直結する書き方をしている。ここも、単に断定するのではなく、殺処分がどういう意味で虐待なのかを(虐待とはそもそも何かということに立ち返りながら)論じる必要があるのではないか。
 もう一つ、田上さんの「虐待」の判定に関して気になるのは、動物がどの程度苦痛やストレスを被っているかについての情報をほとんど参照せずに虐待だという断定を行っているように見える点である。たとえば121ページでは「薬漬け」であることが牛が虐待的に育てられていると判断する根拠の一つとして挙げられており、これは116ページでも紹介されている抗生物質の大量投与のことを指していると思われるが、それがわれわれが通常理解する意味での「虐待」とどうつながるかについて言及があるわけでもなく、「薬漬け」という言葉のネガティブなイメージだけで押し切ろうとしているように見える。あるいは144ページでは、「人里離れた地に住んでいる動物が人間の好奇の視線に間近に晒されれば苦痛を受けないはずはない。」とあるけれども、「はずはない」というのはただの思いこみを語っているようにも見えるのに、そこから動物園は「本質からして動物虐待施設」だという強い結論を導き出している。見物客の存在が動物に与える影響(visitor effect)については動物福祉学の研究対象であるが、確かにネガティブな効果を報告している研究が多いけれども、野生動物といえどもvisitor effectの方向には種差・個体差がかなりあり、積極的に見物客との交流を求める場合もあるというような研究もあるようである。
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6617010/
 おそらく田上さんはこうした研究の存在も踏まえた上で書いておられるのだろうが、動物園関係者が読んだなら、調べもしないで思い込みで語っているように聞こえる書き方であることも事実だと思う。

(3)「動物福祉」について
 もう一つ、田上さんの論述で気になるのが、動物福祉の取り組みについてのそっけない態度である。動物の権利運動が外からの運動として動物実験全廃や工場畜産全廃を主張してきたのに対し、動物福祉の取り組みは、むしろ中からの運動として、動物実験や工場畜産そのものを否定するのではなく、その中での3Rや5つの自由の実現に取り組んできた。特にEUでは、化粧品のための動物実験の全廃やニワトリのバタリーケージの廃止などの決定を実現してきた。動物の権利運動の観点からはそうした取組は不十分だと批判されたり、むしろ動物の消費量を増やしていると指摘されたり、単純に肯定はできないというのはよく分かる。しかし、田上さんの書きぶりからは、そうした動物福祉の取り組みがそもそも眼中にないかのように見えるところがある。
 たとえば47ページで、カントの動物観を紹介しつつ、田上さんは 「こうしたカントの考えは〜現代のわれわれにとって動物を扱う上で常識となっている動物福祉的な見方に通じるところが多く」と説明する。カントの動物の扱いについての議論は、あくまで動物虐待が人間のメンタリティに悪影響を及ぼすから、というものであることを田上さん自身も解説しているが(p.46)、現代の動物福祉の取り組みは、別に人間のメンタリティへの影響ではなく、動物自体を配慮の対象と認めた上で行われていると思う。動物福祉に取り組む多くの人にとって、カントと一緒あつかいされるのは大変不本意だろう。
 田上さんはここに続いて動物福祉的な見方という言葉を「動物を人間の手段として利用することを前提にしながらも、動物に対してできる限り思いやりのある扱いをするというもの」(p.47)と説明している。たしかに一般常識となっている動物の扱い方も、動物福祉の取り組みも動物利用を前提としつつ配慮も行うという限りにおいては共通点があるだろうが、あくまで人間のために配慮する人と動物そのもののために配慮する場合では求められる配慮の方向性も程度も異なってくるだろうし、だからこそ動物福祉の運動は動物実験や畜産のあり方についてかなり大きな変革を求める運動となってきた。田上さんは「実はこのような常識に、動物の側に立って異を唱えるのが、現代の動物倫理学の基本観点なのである」(pp.47-48)というが、動物福祉の活動をしている人たちも、動物の側にたって現状を変えようとしているはずである。「常識」の側に単純に立っているわけではない。
 このあと、106ページ以降でも動物福祉が話題となるが、そこでも「動物福祉的な取り組みは根本的に不十分」(p.107)とされる。ただ、根本的に不十分だという理由が動物倫理学が「動物をもっぱら人間のための手段として扱うことそれ自体が不正」という「前提を持つ」からだというのでは、動物福祉を推進する人たちは単純に対話を拒絶されているようにしか感じないだろう。前の(1)の論点とも関わるけれども、田上さんのように「動物倫理学」という言葉をとらえることで、動物倫理学という分野が非常に間口の狭い、対話可能性に乏しい分野となってしまうのを残念だと思う。(特に、わたしのイメージする「動物倫理学」は、普遍化可能性や限界事例からの議論などを用いて、動物が権利を持つということをただ前提とするのではなく積極的に議論してきた分野なので。)
 こうしてある意味動物福祉を軽視し、相手にしない田上さんの態度のために、田上さんの主張が動物福祉論との関係でどうなるのかがはっきりしないところが出てくる。たとえば、田上さんは、「つまり食肉生産は、現在のように大量消費に見合うだけの大量生産をする必要があるという社会的前提条件にあっては、〜等しく苦痛を感じるという生物としての性質から、どうしても動物虐待になってしまう」(p.123)という。ここで田上さんが指摘している工場畜産の動物倫理上の諸問題は動物福祉派によっても憂慮されている問題であり、EUを中心に少しずつ改善がはかられている。たとえば田上さんが繰り返し問題にする「薬漬け」にしても、抗生物質の投与を減らしたりゼロにしたりする取り組みが行われている。この動物福祉のとりくみのいきつくところは、規模としてはあまり縮小されず、値段はかなり高めになるけれども五つの自由については(現状との比較で)かなり保証された畜産業ということになりそうである。そうした「動物福祉的工場畜産」についても田上さんは「どうしても動物虐待になってしまう」と言うだろうか。その「動物虐待」はどう定義される「動物虐待」なのか(すでに上の(2)で取り上げたポイントだが)。あるいは、動物福祉に配慮した牛乳について「しかしそれらはおおむね非常に高価であり、一般的な需要に応えるものではない」(p.127)というが、需要に応えることと動物福祉を両立させるようなバランスをとろうとなされているいろいろな取り組み(残念ながら日本ではあまり進んでいないが)についてはどう評価するのか。


(4)その他細かい点について

以下は、その他の気になった点について、ページを追いながらメモしていく。

p.24 「倫理は基本的にはそれをすることが強制されることがなく、その実行が各人の選択に委ねられるが、法の場合には基本的にそれを為すのが前提であり〜」
もちろん純粋に倫理的な義務に対して法的な処罰は課せられないが、かといって「各人の選択に委ね」られているわけでもなく、道徳規範の多くは「やるべきこと」「やってはならないこと」という本人任せではない性格を持つだろう。田上さん自身もすぐ直後でカントの完全義務が24ページの説明に反していることを紹介している(p.25)が、カント倫理学のような代表的な倫理学体系を例外あつかいしないといけないような「倫理」と「法」の対比のしかたは妙ではないだろうか。

P.25 「本書の主張内容の多くは原則として、してもしなくてもいい選択的行為に関係している」
前項とも関わるが、田上さんはレーガン流の動物権利論を本書全体の理論的バックボーンとして使うのだが、レーガンはカントの倫理学を受け継いでいるので、レーガン的には「生の主体の尊重」は完全義務となるはずである。田上さんはレーガン流の権利の尊重は完全義務ではないと考えているのか、それとも完全義務だって法的に罰せられない以上は「選択的行為」だと考えているのか、どちらなのだろうか。

P.32 「善き意図をもって最大限努力しても、望ましい目的が実現されなければ徒労だとして、積極的に評価されることはない。」
功利主義の論理構成を説明する際には確かにこういう言い方をすることも多い。しかし、功利主義者が実際に言いそうなこととしては、善い意図を持って最大限努力する傾向を持つことは一般論として効用を増大させる傾向があるので、そうした傾向を推奨することは功利主義的に正当化できる、という言い方になるだろう。この32ページの記述で功利主義の紹介が終わってしまうと、だいぶ功利主義のイメージが偏ったものになってしまうように思う。

p.48 「カントは動物が物件であることの理由に動物には責任能力がないことを挙げている。これでは動物に限らず人間の子供も物件になってしまう」
田上さんも言うまでもなくご存知のように、カントの哲学とカント主義哲学は区別する必要があるが、ここは主語が「カント主義」ではなく「カント」になっているのでカント哲学の話をしているものと理解する。カントの場合には人間には魂があるが動物には魂がなく、人間の子供は魂を持つがゆえに責任能力も潜在的に持つけれどもまだ発現していないだけ(したがって物件ではない)、という捉え方が可能である。もちろん現代のカント主義哲学はカントの哲学からそうしたキリスト教形而上学を切り離すので、別の理屈を考える必要があるが、カント自身への批判としてはポイントがずれているように思う。

p.50「カント自身は苦しむ動物への配慮を訴えながら動物には自己意識がないといってみたりして、論理的な一貫性の欠如を感じさせた」
46ページの解説で田上さん自身正しくまとめているように、カントにとって動物に配慮する理由はそれが人間の心に及ぼす悪影響なので、実際に動物が苦しむかどうかは問題ではなく、人間にとって動物が苦しんでいるように見えさえすれば動物虐待を避ける理由になるはずである。同意するかどうかは別として、それはそれで一貫した考え方ではあると思う。

P.55 ここでは「動物特殊論」という言葉が使われているが、56ページでは「人間特殊論」や「人間特殊観」という言葉が出てくる。同じものだろうか?

P.57 「人間と動物との連続性は〜DNAの二重らせん構造の解明によって、疑う余地のない形で客観化されている」
二重らせんという構造そのものの解明は別に人間と動物の連続性の証拠というわけではないと思うがどうだろうか。連続性を定量化するような証拠としてはどちらかといえばゲノム解析の結果の比較などの方が適切なように思う。

P.64「ビーガンは単に食生活の問題ではなく、動物を利用することによって動物を搾取しない思想と実践だと主張する者も少なくない。」
言葉の用法についての先取権のようなことをあまり強調するのも窮屈になりすぎてよくないのかもしれないが、この場合多い少ないの問題ではなく、ビーガンという言葉を発明したビーガン協会がもともとビーガンという言葉を動物の搾取全般を否定する思想として定義しているのだから、それが正しい用法だと言うべきなのではないか。
https://www.vegansociety.com/about-us/history

P.71 「なるほどこういう考えは有益ではあるが、言葉の正確な意味では権利論とはいえない」
今度は「ビーガン」という言葉の場合とは逆で、権利という概念は倫理学の歴史の中でさまざまに論じられてきた概念なので、現代的な権利論だけが権利という言葉を正しく使っているというのは無理があるだろう。功利主義者たちも女性の権利をはじめさまざまな権利の擁護者となってきたが、功利主義者にとって「権利」は功利の原理によって正当化される二次的なしくみの一つである。

P.71 「ならば端的に人間の権利と同じように主体としての動物の権利を訴えればよかった」
ソルトの時代は社会契約説は過去のものとなり、かといってロールズ以降の現代的契約説も登場していない時期なので、そもそも同時代に権利を絶対的なものとして捉える倫理学説が存在していなかったのではないだろうか。「人間の権利と同じように」イメージしてもあまり結果が変わらない可能性は高い。

P.72「この学問を本格的にスタートさせた人と本が疑問の余地がなく確定している」
シンガーが現代の動物倫理学の創始者だということに異論はないが、動物倫理学のスタート時点は75年の本よりも73年の同名の書評の方がふさわしいのではないか。75年の本の倫理学的なメッセージの部分は書評にすでにあらわれており、「種差別」の概念を有名にしたのも書評の方である。
ところで、シンガーを動物倫理学を本格的にスタートさせた人物だと認めるなら、シンガーが何を目的としていたかは動物倫理学の「本来の目的」を考える上でも尊重されるべきではないのか?

P.77 「ベンサムは自身の前言と矛盾するような屁理屈で肉食を正当化する」
ベンサムが動物の扱いについてあまり一貫した主張ができていないというのはそのとおりだろうと思うが、整合的に解釈しようという試みもあって、単純に屁理屈と切り捨ててしまえないのではないか。
https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/09608788.2018.1524746?journalCode=rbjh20
それ以前に、理屈の上での結論と眼の前の現実とのギャップをどう理解するかというのがまさに動物倫理学が格闘してきた問題だと思うので、その苦闘を「屁理屈」の一言で切り捨てるのは動物倫理学の理解の仕方が非常に一面的になってしまわないだろうか。

P.78「実験心理学者のリチャード・ライダー」
修士の学位は実験心理学でとったけれども、博士号は別分野で、「種差別」概念を提案したころの仕事は病院の臨床心理士(clinical psychologist)だったのでは(ウィキペディアと公式サイトの情報が完全には一致していないのでよくわからないところではあるが)。
https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_D._Ryder
http://www.62stockton.com/richard/index.html

P.80「苦しむことができるかどうかという論点を唯一の基準にして、倫理的行為の是非を判定している」
細かい区別のように聞こえるかもしれないが、「苦しむことができるかどうか」は倫理的配慮の対象になるための前提条件であって、それによって直接行為の是非が判定されるわけではない。行為の是非を判定する際には配慮の対象がどういう利害を持つか、それはどのくらいの大きさか、といったことが比較される。なので80-81ページにかけての「基準になるのは快苦の感覚であり、快楽を増大させて苦痛を減少させよという功利原則だ」というまとめは(70年代当時のシンガーの立場の紹介としては)あまりにベンサム寄りだと言わざるをえない。その後シンガーはもう少しベンサム流快楽功利主義に近い方向へ立場をシフトしていくので、現在のシンガーの立場の紹介としてはあまりはずれていないかもしれないが、それだとシンガーの議論の影響力がよくわからなくなってしまうようにも思う。

P.80 ここの「ある存在が〜」から始まるシンガーの引用はどこからの引用か明記されていない。新書なので出典の明示が十分に行えないという事情はわかるが、これだけ長文の直接引用はさすがに出典を明記する必要があるのではないか。

p.82 「種差別批判に基づく動物解放論を唱えたという限りで、彼は間違いなく現代動物倫理学の創始者なのである」
シンガーが現代動物倫理学の創始者だという評価には異論はないが、種差別批判に基づく動物解放論を唱えたという限りではライダーの方が先ということにならないだろうか。

P. 82 「シンガーの種差別批判はあくまで功利原則に基づいて、苦痛を感じる存在への平等な配慮を求めるものである」
シンガーの『実践の倫理』の第一章から第三章にかけての議論の戦略は、できるだけどんな倫理理論でも受け入れざるをえないような前提から動物への配慮を導き出すことだった。義務論であっても苦しみを感じる存在を苦しめるのがよくないことだというのは認めるし、道徳判断が普遍化可能でなくてはならないということも義務論者も認める共通前提である。種差別批判にはフルの功利主義は必要なく、この程度の義務論とも共有できる要素で十分だというのがシンガーの議論の強みになっているのだが、そこをちゃんと紹介してあげないのはシンガーに対してアンフェアだし、読者に対しても動物倫理学のイメージを歪めてしまうように思う。

P.83 「もちろん功利主義ならばこれに反対する理由はない。そういう奇妙な動物でも、苦痛を感じさせなければ何ら倫理的な問題が生じないからだ」
 ここでいう奇妙な動物は直前の「あらかじめ大脳を取り除いた動物をカプセルの中で植物のように育てる」という思考実験の例だと思われる。確かに大脳がなければ痛みだけでなくなんらの選好も持ち得ないので、功利主義の観点からは配慮の対象にはならない。功利主義の考え方の紹介としてはこういう言い方がされるのはしかたないが、実際の功利主義者はある規則が受け入れられることによって生じる二次的な効用なども考慮に入れるので、そういう観点から功利主義者にとってもそうした動物を育てることに反対する理由が発生する可能性はないわけではなく、「もちろん〜理由はない」と言い切るのもどうかと思う。
 その次の84ページで功利主義が「動物を操作して苦痛を感じさせなくさせて動物利用の永続化を正当化させる理論的根拠になってしまう」と言い換えている点については単純化しすぎのように思う。動物が痛みを感じないとしても何らかの選好を持つのであればその選好は選好功利主義の観点からは配慮の対象となる。「あらかじめ大脳を取り除いた動物」のような極端な例でなく「操作して苦痛を感じなくさせた」だけであれば功利主義でも配慮する範囲内となる可能性が高い。
 ところで、この箇所との関連でちょっと疑問に思ったのが権利主体であるための要件について田上さんがp.210で述べていることである。そこでは田上さんは権利の主体となりうるための「最低限の前提条件」として「能動的な感覚的存在」であることを挙げている。ということは、あらかじめ大脳を取り除いた動物は田上さんの立場においても権利主体たりえず、ここでシンガー批判として述べていることがそのまま田上さんの権利論にもあてはまるのではないか。

P.83 「動物の解放を求める人々は、文字通り動物の「自由」を求めるのではないか」
 似たような論点の繰り返しになるが、もし動物が自由を選好するのであれば、動物の自由もまた選好功利主義で配慮すべき事項となる。シンガーもこの時期選好功利主義者だったので、シンガーが自由を扱えないかのような書き方はシンガーに対してアンフェアだと思う。
 それは別として、もし動物が自由を選好するからという以外の理由で「動物の解放を求める人々」が動物の自由を求めるのだとしたら、その主張は一体どこから出てきたのかは気になる。「わたしは動物の自由を求めます」とただ主張するだけでは学問的な議論にはならない。そして、なぜ自由を求めるかの論拠まで考えたとき、本当にその論拠から「あらかじめ大脳を取り除いた動物」の自由も求めるという結論が導けるのかというのも考えておく必要があるように思う。

P.84 「厭わしい結論」「奇妙な悲しい動物」
大脳のない動物を育てるといった状況は現在のところまったくの思考実験でしかなく、われわれの直観というのはこういう現実に存在しない場面についてはまったくあてにならない(一例として、「試験管ベビー」は実用化されるまでは神をも恐れぬ生命への介入として批判する人が多々存在したが、体外受精が一般化した現在、そのように感じる人はほとんど存在しないだろう)。「奇妙な悲しい動物」といったレトリックはそういう直観にたよっているが、倫理学的な議論ではそれもまた検討の対象になるのではないか。

P.85「何らかの手段ではなくて、それ自体が目的となるような価値として権利を基礎づけた古典家」
これがカントのことだというのだが、カントの場合価値があるのは権利ではなく「人格」である。それは揚げ足取りにしても、カントにとって「権利」は中心概念ではなかったので、何の留保もなくカントが権利論者であったかのような書き方には違和感をおぼえる。

P.88 「カントの人格は、義務と権利をワンセットで実行できるような、ダイバーシティの著しく欠如した一面的な人間像でしかなかった。」
カントを弁護するならば、カントはわれわれがお互いを尊重しなくてはならないということをアプリオリな論証によって示そうとしていて、その論証(道徳判断が道徳判断の成立根拠である自律の能力を尊重しないなら自己否定的になってしまう、というような論証で、それ自体としては倫理学の歴史の中で繰り返し批判されてきた論証ではあるが)の構造上、自律的存在だけが目的自体として尊重されるという結論が導かれている。結論だけみて「一面的」と批判するのは簡単だが、カントが何をしようとしていたのかという背景を理解すれば、意味もなく一面的に見えた考え方にもある種の合理性や必然性があることが見えてくるのではないか。

P.88「このような「生の主体」であることを、レーガンはカントの人格の位置に置き換え、権利的存在の条件としたのだった」
ただ「わたしはこんなふうに置き換えました」と宣言するだけでは倫理学の議論にはならない。なぜそんなふうに置き換えていいのかを議論する必要があるだろうし、レーガンの立場の倫理学的評価はその議論の説得力の度合いに依存するはずである。前項で触れたように、カントの場合、尊重される対象が自律的存在であることにはある種の必然性があったわけだが、レーガンは「生の主体」の尊重についてせめてそれと同程度の必然性を示す議論が構築できるのだろうか。田上さんのまとめは、そういう根拠付けの面を切り捨てて、結論が動物倫理学の「本来の目的」にかなっているという点だけを強調してレーガンを持ち上げすぎているように思う。田上さんのまとめを見ていると、倫理学という分野が倫理という筋道をたてて論じるのが大変むずかしい話題について、それでもできるだけ筋道をたてて論じようとしてきた学問だということが見えにくくなってしまうのではないか。

P.90「無条件に人間を優先させるレーガンの弁明は、明らかに彼自身の動物権利論と整合的ではない」
レーガンのWorse-off principleを動物権利論と整合させることができるかできないかということでいえば、できなくはないだろう。法律であれば例外規定を設けるのはよくあることであるし、大原則に対して例外規定を設けたからといって体系全体が不整合になったりはしない。ただ、レーガンが他のところで使っている種差別批判と同構造の議論がworse-off principleにもあてはまるという意味では田上さんの言っていることはもっともである。
この箇所で気になっているのはもうちょっとメタな問題で、p.77でベンサムを「屁理屈」と一蹴したところでも触れたが、worse off principleのようなものを考案すること自体がシンガー、レーガンをはじめとした動物倫理学者たちが苦心してきた部分であり、そういう部分をただ全否定するのでは動物倫理学というものをとても一面的なものとして提示してしまうように思う。もちろんworse-off principle のようなテクニカルな話題を新書で取り上げるのは紙幅の関係から難しいというのであればまったくよく分かることなので、取り上げないこと自体は別にいいのだが、取り上げない理由にひっかかっているわけである。

P.91「このことが深刻な利害対立を人間と動物の間に引き起こすことは、もはやない」
ここでいう「このこと」とは「動物をもっぱら手段としてのみ見なして人間の都合のよいように扱ってはならない」と考えること、「動物に権利が認められること」である(p.91)。普通に考えればこれだけ動物を利用している今の社会で動物を手段としてのみ使うことをやめようということになったら当然人間の側に大きな不利益が生じると思われるが、田上さんは「動物を利用しないことによってもたらされる害は現在にあってはいずれも瑣末なものであり、真剣な考慮に値する重大なものではないから」(p.91)だと説明する。次のページでも動物の利用は「必要もないのに続けている習慣」(p.92)だとか、動物の権利には「現実的な困難はほとんど生じない」(p.93)といった表現が続く。現実世界において動物利用に多くのステークホルダーがいて、彼らにとっては動物の利用の停止が死活問題だという状況は田上さんの目には入っていないのだろうか。たとえば食肉産業にたずさわっている人からすれば、「明日から動物は利用できません」と言われたら生活が成り立たなくなり、倒産・破産の末に自殺するようなことになるかもしれないが、それも「瑣末」で「現実的な困難」ではないと田上さんは言うのだろうか。
 実は、93ページの補足説明を見ると、田上さんがここで言おうとしているのは、深刻な利害対立が起きないということではなく、功利主義なら解決可能だけれども権利論では解決できないような権利論特有の利害対立は起きない、ということのようである。だとすると、ここで田上さんが語るべきだったのは「利害対立」ではなく、「解消不能な権利の葛藤」だったように思う。そもそも権利論は功利主義と違って利害対立を直接扱うような理論ではなく、誰にどういう権利があるかを判定してやってもいいこととやってはいけないことの線引きをするタイプの理論なのだから。今のままでは、動物の権利論には深刻な利害対立も現実的な困難もないと言ってしまうことで、田上さんが現実から遊離した思想を展開しているように読まれてしまうように思う。

P.94「しかし彼らは自由それ自体を内在的な価値としてしっかりと哲学的に基礎付けられなかった」
すでに(1)で言ったことと重複するが、そもそもソルトら19世紀から20世紀初頭の先駆者たちは自由が内在的な価値だなどと主張しようと思っていなかったと思われる。やろうとも思っていなかったことができていないといって批判されるのは彼らにとっては心外なことではないだろうか。

P.95 「レーガンのように複雑な認識論を持ち出して権利主体を「生の主体」として基礎づける」
レーガンのこの部分の議論は認識論に分類されるのだろうか?

P.95「法律的な権利としての所有権に依拠して動物の権利を位置づけるべき」
24ページから25ページあたりで倫理と法を対比し、本書で論じるのは法ではなく倫理だ、という点が鮮明にされていたと思うが、そうすると法律の土俵で動物の権利を論じようとするフランシオンは本書の対象外になるのではないか?というか、倫理的な「動物の権利」論と法的な「動物の権利」論は同じものについて論じていると言っていいのだろうか。

P.97「この意味で、動物の権利論には現代文明そのもののあり方の再編成を求めることにもつながるような、ラディカルな変革を求める革命的な理論としての側面もある」
ここでいう「この意味」というのは、動物が法的な所有権の対象にならなくなる、というフランシオンの提案についてだが、動物の利用を廃止するということ自体はラディカルな変革ではないと田上さんは考えているのだろうか。

P.110 「倫理的な実践とは、基本的に、このような自明なものは指さない」
前後の説明を読むと、理由なく人を殺すべきではないというのは意識的努力を要しないから倫理的実践ではないというのだが、そうすると倫理原則が体にしみこんで自然に倫理的に振る舞えるようになればなるほどその人は倫理的実践をしなくなるというパラドクシカルなことにならないだろうか。

p.113 「こうした現代畜産の問題は多角的なのだが、これが深刻なのは、たとえ動物倫理の提起を一切受け入れることがないような人にとっても害悪になっているという点である」
この箇所以下で、現代畜産業の環境影響、公害、労働問題、パンデミックといった問題が取り上げられるのだが、動物倫理学の入門書としては、まず動物倫理学の観点からどう評価されるのかという話をするべきではなかったか。

p115「ザラではない」
よくある、という意味なら「ザラにある」では?

p.122 「これは人間でいえば丸々と太った幼児を殺しているようなもので、想像の一歩先にある奇怪な現実である。」
人間とニワトリでは成長のありかたも異なるし、「幼児を殺す」というあまり適切でないレトリックで生理的嫌悪感に訴えようとしているように見える。


p.124「これは肉が、動物の殺害という明白な悪を経なければ得られない」
動物の殺害が明白な悪だというのは別に共有された前提ではないと思う。ラクトオボベジタリアンになる理由も「明白な悪」だと思っているからだと限るわけではなく、人によってさまざまだろう。

p.126 「こうした動物の卵は毒があるとか明らかに有害とまではいえないだろうが、普通に考えて健康によいとは思えない。」
根拠もなくこういうことを言うのは関連する業界の人からは無責任な風評被害ととられるだろう。学問としてやるのなら、ネガティブなことを言うときには根拠をもって発言するということを気にかけてほしい。p.128でも「こうした牛乳も、毒ではないだろうが、健康にはよさそうではない」という書き方がされていて、同じ問題を感じる。


p.136 「動物実験推進者は反AI論者のように、あらかじめ原理的にコンピュータ検査には限界があると決め付けているように思われる。」
動物実験をコンピュータシミュレーションで代替する方向の研究がぜんぜん進んでいないということについての田上さんの感想だが、工学的なシミュレーションと比べると生体内のプロセスについてはわからないことが多く、シミュレーションの信頼性に疑念を持つのは自然な反応であるし、よくわからないままに代替をすすめよと言われても無責任に感じられるだろう。特に、人間を対象とした治験の前に毒性などを確かめたいという場合、できるだけ信頼性の高い情報がほしいわけで、「まだ信頼性は低いけどシミュレーションでいいことにしよう」とはならないだろう。どういう立場からこの問題を考えるかでだいぶ見え方が違う問題ではないかと思う。

p.139「そうしなければ文明生活それ自体が脅かされるような、そのような医薬品の開発、そのためのやむをえない犠牲というのが、動物倫理的に許容できる動物実験の最低条件である。」
最低条件のハードルをずいぶん上げているが、「文明生活それ自体が脅かされる」のような高いハードルを一律に設定する根拠は何なのだろうか。適当に高い値段をふっかけているように聞こえる。

p.144 「動物園内にいても苦痛を感じない動物は基本的に飼い馴らされた動物であり、その多くがさして珍しくもなくすでに人間社会内に溶け込んでいるため、動物園に展示する意味がない。」
野生動物にもいろいろいるわけで、行動範囲がもともと狭い動物や小型動物であれば、動物園にいること自体では苦痛を感じないこともあるのではないか。

p.149 「水族館にいること自体が、これらの動物にとっては虐待なのである。ましてやショーをやらせるなどもってのほかである。」
イルカが退屈している場合など、条件次第ではショーに参加することがストレスの低減になることもあると考えられるが、虐待という観点から本当に「もってのほか」という結論が導けるのか。

p.157 「人間側の伝統は動物にとってはどうでもいいことで、変更できるなら伝統を変更すべきだということになろう。」
こういう話をするのであれば、動物の権利と人間の権利を比較し、優先順位をつけるといった議論の枠組みが必要なのではないか。最終的に動物の権利に対して人間が文化を継承する権利が優越しないという結論が結局でそうではあるが、権利論をとるなら、その手続きを経ること自体が大事だと思う。

p.159「そもそもそこで農業を続ける必然性を問い返すべきだろう。... 場所を変えることは絶対にできないのだろうか。...基本的にそういう人の意思を尊重しないといけないが、倫理的に不適切なのは間違いない。」
先祖代々の土地であれ、獣害が生じるような土地で農業を続けるのは続ける方が悪いという主張なのだが、これも「倫理的に不適切なのは間違いない」とまで言えるのか。人間の方にも人間の権利はあり、適切な比較考量を経ずに人間の方が一方的に「倫理的に不適切」と言われてしまうのでは、特に獣害に直面している人は納得はしないだろう。

p.167「野生動物から生殖の権利を奪うのは不当だが、犬猫の場合はむしろ野放図に生殖させるに任せることが逆に危害になる可能性が高い」
ここでいう生殖の権利はどこから出てきたのか、また伴侶動物にはそもそも生殖の権利がないと考えるのか、生殖の権利は伴侶動物も持つがそれを上回る考慮要因があるということなのか、そのあたりが不明瞭。

p.168「いくら大切にされるからといって、隷属さられることが生存の基本条件になっていて、自然な生殖本能に委ねると不幸になり、去勢がむしろ幸せをもたらすような動物は、その最も根源的な生の次元においては生まれることそれ自体が不幸な存在だということになろう。」
動物自身は主観的に幸せに暮らしていたとしても、「隷属」だとか「去勢がむしろ幸せをもたらす」という理由で「生まれることそれ自体が不幸」だと判断するというのは大きなおせっかいではないのだろうか。というより、この箇所のロジックはよく言われる優生思想のロジックと非常によく似ていると思うのだが、田上さんはそのことをどのくらい自覚しているだろうか。同じような判断基準を人間にもあてはめる可能性はあるのだろうか。

p.170 very like
動詞のlikeを強めるのならlike very muchでは。very like ~ だと「まさに~みたい」という意味になるように思う。

p,174 「倫理学にはまた、その行為が広く普遍化すべきだという重要な含意がある。」
倫理学的な判断の中には、「〜すべし」「〜してはならない」のほかに「〜してもよい」もある。「してもよい」行為については別に「その行為が広く普遍化すべきだ」などという含意はない。ここで問題にしている動物性愛はこのカテゴリーに属するのでは。

p.181 「これは確かに偽善であり、理論的に間違っている」
欧米人が牛や豚を食べながら鯨肉食を批判する態度についての田上さんのコメントだが、牛や豚と鯨の間にはいろいろな違いがないわけではないので、どうして態度を変えるのか理由をきいてみないと「確かに偽善」とも「理論的に間違っている」ともいえないだろう。

p.181 「牛は神様が食べるために我々に授けて下さったのに対して鯨はそうではない。鯨は食べるための動物ではない。だから食べてはいけないのだ、という理屈である。」
わたしの知るかぎり、主要な反捕鯨団体はこういう理屈で捕鯨に反対しているわけではない。そもそも反捕鯨団体の多くは環境系団体なので、食べることではなく鯨を捕獲することの環境影響について反対している。

p.184 「これが欧米社会の主流を成す伝統的な世界観であり、そして欧米人がこれまで行ってきた動物及び環境に対する振る舞いは、まさにこの図式通りに、ただただ主人である自らの欲望を叶えるために隷属させる下僕であるかのように勝手気ままに扱うというやり方だった。」
この考え方ではたとえば動物保護運動が19世紀以降の欧米の主流の価値観の一部を形成してきたことが説明できないと思うし、どのくらい本気なのか、とおもって読んでいると、次のページで「しかし、こうした話は本当なのだろうか?」(p.185)と著者自身が疑念を呈する。自分自身の立場ではないステロタイプな見方を紹介しているのであれば、もうちょっとそのことがわかりやすい書き方をしてほしい。


p.187 「文字通りに受け止めると、屠るのではないため血が流されることのない自然死した動物の肉を食べろといっていることになる」
大洪水のあとに肉食を許可する発言を神が行っている箇所についての田上さんのコメントだが、「文字通りに」読むなら、「また、あなたたちの命である〜」以下はもう肉食とは関係ない話をしていて、その前の「血を含んだまま食べてはならない」が肉食に関する規制だという読み方になるのではないか。そうすると当然自然死した動物の肉は血を含んだままなので食べてはいけない。もちろん、いきなり話題を変えるのは不自然だからと裏の意味を読むことは可能かもしれない。

p.211「こうした権利の本質から、キャリコットのような全体論は不適切だということが分かる」
権利論は価値体系の全体ではなく一部なのだから、生態系が全体として「権利」を持たないとしても、別の根拠に基づいて価値を持つという可能性は排除されていないのではないか。もし、権利に限定せず、感覚を持たない存在は内在的な価値を持ち得ないという主張をするのなら、語るべきは「権利の本質」ではなく「価値の本質」なのかもしれない。

p213 「実際、間引きが必要になるのは人間が下手に介入してその土地の生態系のもともとのバランスを崩してしまったことが大半である。ならばそうした介入以前の状態に現状復帰させることをまずは考えるべきだろう」
わたしもそれほど保全生態学に詳しいわけではないが、生態系のバランスはいろいろな理由でくずれるので、「原状復帰」(といっても日本に原生自然はほぼ存在しないので「原状」がどうだったかほとんど分からないはずだが)すれば個体数管理が必要なくなるというのは発想として素朴にすぎるのではないか。

p.218「ディープ・エコロジーの基本原理を成すプラットフォームは、演繹的な構造をしている。最初の命題が正しいのならば、論理必然的に以下の命題も正しいという形になっているわけだ。」
プラットフォームの8原則は適切な前提を付け足せば前のものから次のものが導き出せるのかもしれないが、他の命題をたさずに論理的に導出できるようなものでもないだろう。その意味で、「最初の命題が正しいのならば、論理必然的に以下の命題も正しい」というのは言いすぎである。生命圏にとって多様性が本質ではないということは論理的に不可能ではないし、生命圏の持つ内在的価値は人間の権利に対して優越するほど優先順位の高い価値ではないというのも論理的に不可能ではないし、人間以外の生命が繁栄する上で人口減少が必要ないというのも論理的に不可能ではない。

p228 「自然的存在としての人間」
ここ以下のマルクスと環境倫理の接合の議論(235ページあたりまで)はそれ自体としては興味深いが、それが動物倫理学とどう関係するのかよくわからない。資本主義はよくない、という結論だけ必要だったのか?環境倫理において資本主義が批判されるポイントと動物倫理において資本主義が批判されるポイントは互いにあまり関係ないのでは?

p.230 「唯物論とは、世界というものが精神的な原理と物質的な原理の二側面より構成されると想定した上で、物質的な原理が基本であると考える哲学説である。」
そもそも精神的原理なるものが幻想だと考える立場は唯物論ではないのだろうか?

p.231 「人間はその本性上、自然破壊者としての側面を有せざるをえないのである。」
ここでは本性上自然破壊者だと言っているが、234ページでは「必要の限度を超えた過度の自然加工」が「もはや破壊力」だと言われていて、逆に言えば「持続可能な自然加工」の枠内で労働を行うのも十分可能であるような書き方がされている。人間は本性上自然破壊者なのか、それとも自然を破壊しないレベルで労働するのが本来の姿なのか、どちらなのか。それともこの2つの箇所で言っていることは関係ないのか。

p.235 「人間同士にあって真実にアソシエーティヴな関係を築けたような個々人の意識に、動物が奴隷の位置にあってはならない。」
この「ならない」はどこから導き出されてきたのか。田上さんの提案には、カントに対するレーガンの提案と似たようなものを感じる。カントはある種の内的必然性があって配慮の対象を自律的存在に限定していたわけだが、レーガンはその必然性を無視して配慮の対象を拡張した。マルクスも独自の労働観があって、そこから一種の必然性をもってその意味の労働ができる存在のアソシエーションを構想しているのだと思うが、田上さんが考えるように動物に拡張することでアソシエーションの内的必然性が薄れてしまうのではないか。

p.241「人間本来の歴史の創出である生産力はもはや諸個人にとって自立したものではなくなり、アソシエートした諸個人によって完全にコントロールされている。」
資本主義以後の世界が描写されている箇所だが、これはかつて共産主義国であまりうまくいかなかった計画経済のようなものをイメージすればよいのか?あまり明るい未来に聞こえないのだが。



iseda503 at 18:06|PermalinkComments(0)

August 02, 2021

大塚淳『統計学を哲学する』を読む

昨年出版された大塚淳『統計学を哲学する』は、日本人の統計学の哲学者によるはじめての「統計学の哲学の本」である。こうした科学哲学の先端の領域になかなか日本の研究者が切り込めて来なかった中で、ついにこうした本が出版されるようになったことは大変慶賀すべきことだと思う。さらに言えば、本書は決してただの解説書ではなく、大塚さんの独自のアイデアに溢れた、統計学の哲学の研究書である。特に、ベイズ主義と古典統計をそれぞれ内在主義と外在主義の認識論になぞらえて認識論的含意を取り出そうとするあたりは、他の追随を許さない独自の議論が多く展開されている。本書は今後日本で統計学の哲学について議論する際に常に出発点となることだろう。
本書は非哲学者も含めて広いリーダーシップを獲得したようだが、それについては懸念もある。本書の特に第二章や第三章が著者独自の研究としての側面が強いことを理解せずに、統計学の哲学の定説が述べられていると思って読む人がいると、統計学の哲学という分野の全体像について偏ったイメージを持ちかねないと思う。そういう部分も含め、読みながら疑問に思った点、自分の考えとはだいぶ隔たっていると思った点などを以下に整理したい。以下を読む際に念頭においてほしいのは、統計学の哲学の専門家は大塚さんの側で、わたしは科学哲学のいろいろなことを研究するなかの一つとしてベイズ主義も研究している、半分専門外のような立ち位置だということである。


p.17
「これに噛み付いたのが、実証主義の親玉である物理学者エルンスト・マッハである。」
マッハが直接ボルツマンに論戦をいどんだことはあったでしょうか?マッハの『力学史』はボルツマンが実在論に関する哲学的な議論をするようになるより前に書かれたものです。

P.19
「ピアソンは自らの科学方法論を、いみじくも「科学の文法(the grammer of science)」と名付け出版した(Pearson 1892)。」
この科学方法論は直前の文脈でいうと記述統計のことだと思いますがが、1892年の初版には記述統計に関する記述はまったくないので、ピアソンが記述統計を科学の文法と呼んだというのはアナクロニズムだと思います。1911年の第三版にいたってようやく記述統計に関する章が一章追加されますが、それをもってピアソンが「科学の文法」という言葉を記述統計を指すように言葉の意味を変えた、というのも無理があるように思います。

p.20
「実証主義は科学の土台を直接観測されたもののみに切り詰め、経験に還元されない概念を非科学的・形而上学的なものとして退けた。しかしこの禁欲さによって得られた確実性には、大きな代償が伴う。なかでもとりわけ大きな代償は、すでにヒュームによって指摘されていた。帰納推論の不可能性である。」
コント、ミル、マッハ、ピアソンら19世紀の実証主義者たちは帰納的推論そのものは否定していなかったかと思います。彼らのイメージする現象的法則は、観察可能なものについては人間が見ていないところもカバーするような法則です。それともここで言っているのは実証主義をつきつめれば帰納的推論を否定せざるをえないはずだ、という趣旨なのでしょうか?

p.21
「推測統計はヒュームが自然の斉一性と呼んだこの仮定を確率モデル(probability model)として定式化した上で、帰納推論を数学的に精緻化する。」
このあと、p.33では、「IID条件はヒュームが自然の斉一性と呼んだものの具体的な内実を与える」ともあります。しかし、ヒュームの考える自然の斉一性は全称命題で表現できるような法則性で、非確率的なプロセスを念頭においていたのではないかと思います。それと推測統計における確率モデルを同一視するのはヒュームをあまりに現代的に捉えすぎるアナクロニズムのようにも見えます。

p.22
「いわばそれはデータとモデルの二元論であり、前者のみを「科学的実在」として認める実証主義に対して、より豊かな存在論を措定することで、ヒュームの問題に対処しようとするのである。」
ここでも実証主義として19世紀的実証主義者をイメージしているのであれば、データのみを科学的実在として認める、というのは実証主義者たちの記述として不正確です。現象的法則は「措定」されています。また、ここでいうヒュームの問題というのがヒュームの帰納の問題なのであれば、モデルをいわば勝手に「措定」することがヒュームに対して何の答えになると想定しているのかわかりません。ヒュームの議論のポイントは帰納的推論は循環的正当化しかできてないですよね、ということであり、ヒューム主義者は「はいはい、確率モデルね、そのモデルを想定することをどう正当化するの?あー、やっぱり循環してますね。そんなんで正当化と認めていいの?」というような答えを返すことになるでしょう。

P.31
「ある確率変数が持つ分布を特徴付ける値を、その期待値(expected value)という。」
このあとで母平均と母分散が例としてあがっていますが、母分散を期待値と呼ぶのは一般的なのでしょうか?そういう用語法があるとしても、あえてこの用語法を採用する理由は何なのでしょう。

P.45
「さて、以上の議論から示唆されること、それは分布族は統計学において自然種の役割を果たす、ということである。本書ではこれを確率種と呼ぼう。」
本書は大塚さんのオリジナリティにあふれた提案が多く含まれていて、これもその一つです。ただ、主張内容には単純に同意はできないとおもいます。分布族はあまりにわれわれが世界を記述する道具としての統計学に依存しすぎていて、世界の中に自然に存在する分類群という「自然種」の本来の意味と離れすぎているようにおもいます。大塚さんは「異なった科学は異なった仕方で世界を分節化する」(p.46)のだから、分布族がわれわれの選択に依存するから自然種でないことにはならないと考えているようです。しかし、異なった科学が異なる分節の仕方をするといっても、その分節の仕方が世界の側にもとからある区分を利用したものでないなら、その分節を自然種と呼ぶのは言葉の意味からも適切ではないのではないでしょうか。この話は次のコメントにつづきます。

p.48
「ここでは自然種をめぐる種々の哲学的議論には立ち入らない」
ここの注を見ると、大塚さんは世界の側に存在しない理論的措定物を自然種と呼ぶのも問題がないと考えているようですが、それだったら目に見えない実在を「思惟の経済」として認めた19世紀型実証主義と存在論的にはほとんど違わないことになりそうです。この箇所に続けて「実証主義の旗手であったマッハやピアソンが「非科学的」として排斥しようとしていたのは、まさにこのように現象の背後に存在物を認める実在論的な考え方であった」(ibid.)と言っていますが、注で言っているような意味で認めるのなら「実在論的」でもないし、これらの実証主義者が排斥するような考え方でもなくなります。注と本文の主張がちぐはぐになっていないでしょうか。

p.57
「前述したように、ベイズ統計では、仮説についての信念の度合いを、得られたデータを証拠として更新していくことで帰納推論を行う。」
ベイズ統計に関する教科書の多くにこれに類する記述があるのは知っていますが、哲学者が書く文章としてはもう少し慎重さがほしいように思います。
わたしが知る限り、ベイズ統計が実用的に用いられるほとんどの場面において、事前確率として用いられる値は、哲学者が言う意味での「信念の度合い」というよりは、「頻度についての主観的な見積もり」として解釈した方が自然です。大塚さんのいう意味論(p.51)のレベルでいえば、頻度についての見積もりを確率と呼ぶ場合、「確率」と呼ばれているのはあくまで頻度であり、確率の哲学でいえば頻度説側に属すると思います。
大塚さんが解説のために使う、壺がAかBか分からない(p.58)という例も、毎週どちらかの壺が使われるがどちらか分からないという設定なので、「頻度についての主観的な見積もり」として頻度説的に解釈可能です。
もちろん、大塚さんのこだわりとして、哲学的ベイズ主義(主観的確率説)にのっとらないものはベイズ統計と呼ばないということなのかもしれません。しかし、あくまで「頻度についての主観的見積もり」についてベイズ統計の手法を用い、頻度としての解釈の余地のないものは扱わない、という態度もまったく整合的で、ベイズ統計の定義においてその可能性を排除するような書き方はまずいのではないでしょうか。

p.60
「この場合パラメータ(あたりの確率)は0から1までのいかなる数値でもありえるので、実数無限個の仮説があることになる」
さすがに壺とくじという状況設定を守る限りはせいぜい可算無限個までではないでしょうか。
それは別としても、ベイズ統計が信念の度合いとしての確率を扱うとして、実無限個の仮説を同時に処理するとしたら、それに対応した実無限個の信念の度合いをわれわれは心的状態として持つのでしょうか。

p.67
「ここでの「信念」を「仮説」に置き換えれば、これは単に上のような日常的な例だけでなく、科学的探究にも共通する課題であるということがわかる。」
信念と仮説はそう簡単に「置き換え」できるものでしょうか。信念があてずっぽうで困るのと同じ意味で仮説はあてずっぽうでは困るでしょうか。
分析認識論と統計の哲学というこれまでほとんど没交渉だった2つの領域を橋渡ししようというのは本書の大変野心的な取り組みですが、野心的であるがゆえに急ぎすぎないのも大事なのではないかと思います。

p.69
「ベイズ主義は内在主義と類似した正当化概念を有し、また同様の困難を抱えているということを示すこと、そしてそれによってベイズ統計の認識論的な側面を浮かび上がらせることが主眼である。」
ここではベイズ主義とベイズ統計を使い分けているのでしょうか?いるのだとしたらどのような使い分けを意図しているのでしょう。
それはそれとして、「内在主義と類似した正当化概念を有し」というのはベイズ主義の特徴づけとしては狭すぎると思います。大塚さんも64-65ページで紹介するように、ベイズ主義というのは推論規則についての立場であって演繹論理と類似した位置を占める、という捉え方も哲学的ベイズ主義の中で根強い考え方です。その場合、ベイズ主義者は導かれた結論の正当性にはコミットしません(前提がリーズナブルなものでなければ、どんなに推論規則がよくても結論もリーズナブルなものにならないのは演繹論理と同じ)。

p.73
「内在主義的認識論としてのベイズ主義にもこれとまさに同様の困難が生じうる」
ここで言っている困難とは、信念の正当化が無限に遡行していく遡行問題のことです。「内在主義的認識論としてのベイズ主義」というのがベイズ主義全般が内在主義的認識論だという趣旨なら、その特徴づけはせますぎると思うというのはすでに触れた通りです。
それはそれとして、認識論でいうところの遡行問題にベイズ主義が悩まされるのかというとあまりそうは思えません。大塚さんの捉え方に対する疑問は次の項目で触れるとして、先に私自身の考えを述べるなら、ベイズ主義の遡行問題への答えは基本的には基礎づけ主義的になるだろうと思います。P(h|e)を次の計算のためのP(h)として使うというベイズ更新の大前提として、証拠eが得られたということは議論の余地がないということが受け入れられる必要があります(eについて疑いがある場合はジェフリー条件化が必要になります)。この意味で、更新に用いられる個々の証拠は経験主義系の基礎付け主義において感覚所与が果たしていたのと同じような役割を果たしていると考えることができます。もちろん、これは、経験主義系の基礎付け主義と同種の問題をベイズ主義も抱え込むということでもありますが、それは遡行問題がとけないというのとはまた別の話です。ベイズ主義を経験主義的な認識論として捉える場合、各ステップで世界から証拠を得ながら更新していくというところにこそ知識の源泉があり、確率演算はむしろ付け足しなのだというところを見逃すと、非常に本末転倒したベイズ主義理解に陥ってしまうのではないかと思います。


p.76
「確かに、このようにデータを蓄積していくプロセスは「遡行」というよりも「進行」と見る方がより直感にそぐうかもしれない。しかしそれは単に見方の問題に過ぎない。無限回の推論の蓄積により真理に到達できるということは、逆から見れば、そのように得られた結論はそれまでの無限回の推論過程によって正当化されると考えることもできるからだ」
ここでは大塚さんはベイズ更新を無限回繰り返すことで最初の事前分布が「洗い流し」されるのが正当化の無限遡行問題と似ている、という趣旨の発言をしています。さらに、つづく箇所では出発点となる事前分布の信頼性をもとめる考え方を基礎付け主義になぞらえています。
非常に面白い着眼点だとは思うのですが、このアナロジーもまったく同意できない部分です。まず、古典的な哲学でいうところの「無限」と「無際限」の区別がここでは重要な違いになるかと思います。同じ無限遡行といっても、古典的な遡行問題における無限は「いつまでさかのぼっても切りがない」という無際限の遡行の問題であるのに対し、洗い流しにおいて必要なのは「有限でない」という意味における「無限」です。無限の性格が異なります。
それ以上にアナロジーが成り立たないと思うのは、母集団分布に近づいていくプロセスは、すべてのステップにおいて新たな証拠を得ながら進んでいくという点です。世界との対応関係を生んでいるのは無限のステップそのものではなく、ステップごとに得られる証拠が世界の側から来ているということかと思います。だから、ステップをかさねるごとに、最初の事前確率の重要性がどんどん下がっていくわけです。これは古典的な認識論における遡行問題とは大きくことなります。認識論で想定されている問題設定では、正当化する側の命題に正当化される側の命題の全体重が乗っているために、正当化の連鎖の出発点が崩れたらすべてが崩れ落ちるような構造になっています。


p.80
「「起こりやすさ」は基準となる参照クラス(reference class)に依存し、どの参照クラスが適切かは必ずしも明らかではないのである」
経験ベイズ主義の難点、という文脈ですが、頻度主義者がこの問題にどのような解決を行うにせよ、経験ベイズ主義者はそれに乗っかればよいのでは。経験ベイズ主義者は頻度主義者と本気のけんかはできない、という意味合いであればそのとおりですが。

p.81
「しかしそうした推論、およびそれに基づき事前分布を瀬底する経験ベイズの根拠は、ベイズ統計自体の中には存しないのである。」
たしかに、直前に出てくる「ベイズ的な確率付置の整合性」(valuationなら付値だと思いますが大塚さんは「付置」を一貫して使っています)だけが「ベイズ統計自体」の中にある正当化の根拠だと考えるなら、ここでいう「主要原理」の根拠はないということになるでしょう。しかし、ベイズ主義には他にもいろいろ使えるリソースはあるのではないでしょうか?たとえばダッチブック論証では「必ず負けるような賭けを受け入れるのは不合理だ」という「正当化」が使われます。それと同じような感じで、客観的な頻度が分かっているのにそれと異なる信念の度合いを持つと、長い目で見て必ず損をすることになる、というような「主要原理」の正当化は可能ではないでしょうか。

p.81
「実のところ、この問題は、内在主義的な基礎付け主義全般が直面する問題でもある。」
大塚さんはここの記述で、経験ベイズが主要原理を正当化しようといういう問題が、伝統的認識論における「所与の神話」の問題と同種の問題だという認識をしめしています。しかし、わたしにはこの両者の問題が似ているようには見えません。主要原理は客観的な頻度と主観的な信念の度合いを一致させるべしという原理ですが、大塚さんのまとめでは、どのように一致させるべきかについて疑義があるわけではなく、なぜ一致させるのかが問題となっているだけです。それに対し、所与の神話というのは、感覚所与という非命題的な経験とそれを報告していることになっている命題を一致させるべきであることについては疑義があるわけではないけれども、そもそもどう対応するのかが不明だということが問題になっているわけです。所与の神話がほぼ解決不可能な原理的な問題であるのに対し、主要原理の方は、主要原理そのものを受け入れることができれば大塚さんが指摘する問題は解決します。経験ベイズがかかえる問題の深刻さをだいぶ誤認させる並列のしかたではないかと思います。
その上で、もしセラーズの所与の神話批判を真に受けるなら、ベイズだろうと古典だろうと統計的手法そのものが不可能になるだろうと思います(われわれの「見たもの」と「20回の試行で6回表が出た」などという言語的な報告を対応付けることができないなら、仮説を保持することも棄却することもできません)。

p.82
「我々はベイズ統計が拠って立つ「信念間の関係性」という枠組みの外に足を踏み出す必要がある。」
むしろ大塚さんがその窮屈な枠組みにベイズ主義を押し込めているように私には見えます。


p.83
「実はその場合でも、ある弱い前提さえおけば、ベイズ流の更新プロセスは最終的に真理へと到達しうる、ということが示されうる」
わたしの理解では、少なくともどの証拠がどの仮説にとって有利か、つまり尤度の大小関係についての認識は正しくないと真理には到達しないはずです。仮説も証拠も無数にあることを考えるとこれはあまり弱い前提とはいえないと思います(ここで引かれているEarmanの該当箇所を見ると、たしかに大塚さんが書いたようなことを言っているようなのですが、話が難しくてよくわかりませんでした。もし解説の補足が可能であればお願いしたいと思います。)

p.86
「科学哲学者のオットー・ノイラートは、科学的探究のこうしたあり方を「テセウスの船」の比喩によって表した」
ノイラートの船がテセウスの船の故事にヒントを得ているのはたしかにそうでしょうが、思考実験の内容も目的も違うので、テセウスの船とノイラートの船は区別した方がいいと思います。(テセウスの船の思考実験はすべての部品が入れ替わるところにポイントがあり、陸上で修理してもかまわないのに対し、ノイラートの船は置き換えるのは一部の部品でも構わないけれども航海をしながら部品を取り替えていくところにポイントがある。)ここはまだしもとしても、p.88の「「テセウスの船」に乗り込んだ全体論的なベイズ主義者の関心は」というところはさすがに「ノイラートの船」じゃないかと思います。

p.87
「しかしモデルチェックを重視するゲルマンらの見方と、それに対応する全体論的な認識論は、こうした基礎付け主義的な認識論とは一線を画する。というのは、そこにおいてはもはや、推論の全体の責任を一手に引き受けるような「基礎的信念」は存在しないからだ。」
モデルをデータに照らしてチェックするのなら、データは基礎的信念の役割を果たしていると思います。コントラストを誇張しすぎだと思います。


p.90
「そこには主観的なモデルの仮定と客観的現実をどのように一致させるかという古くからの哲学的難問が現れているのである」
結局この章の結論がどうなったかよくわからないのですが、全体論的に捉えることによって主観的なモデルの仮定と客観的現実の一致の問題は解決の方向に向かうのでしょうか?一般には、全体論は内的な調和さえ得られればどんな解も許容するので、客観的現実なるものとの一致は絶望的になると思うのですが、大塚さんの記述だと全般的に全体論を推しているように見えます。客観的現実との一致を重視することと全体論を推すことの整合性は大塚さんの中ではどうなっているのでしょう。

p.96
「頻度主義では一般に「仮説の確率」という概念が意味をなさない」
確率の哲学における頻度主義の話でしたら、仮説の対象となっている事象がそれ自体頻度主義的な意味の確率を持つ場合も多いので「一般に」ではないと思います。壺がランダムに選ばれる状況で「今日の壺はAだ」とか「わたしはcovid-19に罹患している」とかの仮説は頻度主義でも「仮説の確率」を与えることができます。
統計の哲学における頻度主義(古典統計学など)は仮説に確率を与えませんが、それはむしろ統計の哲学における頻度主義を頻度主義と呼ばない理由になるかもしれません。次項につづきます。

P.97
「したがって、頻度主義的な確率解釈をとる古典統計学では、ベイズ統計のように、データに基づいて確率モデルに関する仮説の確率/信念の度合いを更新していくというような手続きは意味をなさない、とうことになる。頻度主義的な確率の意味論は、全く異なった認識論を要請する。」
これが確率の哲学の歴史で繰り返しのべられてきたテーゼであることは承知の上であえて異議を申し立てます。前項で述べたようにベイズ主義者が「仮説」とみなすものの中にも(確率の哲学の意味での)頻度主義的な確率を与えうるものは数多くあります。したがって、(確率の哲学における)頻度主義を採用したとしても、その種の仮説のみを相手にすることにして「頻度についての主観的な見積もり」に対してベイズ更新の手続きを採用することは可能です。というより、確率についての哲学的論争に無頓着な多くの人がベイズ統計を利用する際に行っているのはまさにこういうことではないかと思います。

p.97
「仮説検定の基本的なアイデアは、ポパーの反証主義の考え方に近いところがある」
この節の記述からは、むしろ全然似ていないということにもなりそうです。大塚さんは「そしてひとたび仮説からの予測が蓋然的になると、上述の後件否定の論証を適用することはできなくなる」(pp.98-99)と述べて、蓋然的な予測については反証主義の基礎となる否定式が適用できないということだけを述べています。
古典統計学を反証主義によせて解釈する解釈の仕方はデボラ・メイヨーなどが以前から行っていますが、本書のこのあとの記述を見ると、大塚さんの古典統計学解釈はむしろポパーが批判した帰納主義によせた解釈となっているように思います。そういうことをふまえても、この節のこの「反証主義の考え方に近いところがある」という書き出しは読者を混乱させそうに思います。


p.106
図3.3の事例ですが、x=10という結果が出た場合、H0を帰無仮説にとればH0が棄却されて対立仮説H1を受け入れることになるけれども、H1の方を帰無仮説にとったなら今度はH1が棄却されて逆にH0を受け入れることになります。サンプルサイズを大きくすれば誤りの可能性が減るということを説明するための事例としてはちょっと奇妙な事例になってしまっているように思います。対立仮説が離散的に1つだけ与えられていてサンプルサイズにかかわらず固定されているという状況が現実的ではないのではないでしょうか。

p.114
「歴史的にはノージックの追跡理論は、信頼性主義とは別様の知識の定義について独立に提案されたものだ。しかし我々は上の二つの反事実条件を、「信頼できるプロセス」の条件として読み替えることも可能である」
ゴールドマン流の信頼性主義とノージックの追跡理論の大きな違いは信頼性主義が信頼性について確率的な捉え方をしているのに対し、追跡理論には少なくとも表面的には確率の要素が見当たらないというところかと思います。両者を統合するというのであれば、ゴールドマン流の信頼性概念にある確率の概念をどうするのかをもうちょっと明示した方がいいのではないでしょうか。

p.115
「これまで長々と外在主義的な正当化概念にこだわってきたのは他でもない。これがまさに古典統計の検定によって仮説が「正当化される」とする我々の直観をうまく救ってくれるように思われるからだ。」
さきほども触れましたが、仮説が正当化されるというのはポパーが批判した帰納主義的な発想で、この直観を救おうとしている時点で、p.97で言っていたような、仮説検定を反証主義になぞらえるような捉え方を大塚さんは否定しているということかと思います。
メイヨーらの標準的な解釈では、古典統計では個々の結論が正当化されるわけではなく、「この方法論に従っていたら計算上長い目で見て第一種の誤りの比率がコントロールされ、第二種の誤りの比率もあまり大きくならないことが期待される」という形で、検定プロセスが長期的なパフォーマンスによって正当化されるのではないかと思います。個々の仮説が正当化の対象だという捉え方は大塚さんが古典統計を分析認識論に引きつけて解釈しようとしたために出てきた考え方で、古典統計に内在的なものではないのではないでしょうか。

p.115
「サイズとは、対立仮説H1が偽であるときそれをどれくらいの確率で見抜ける(帰無仮説H0を棄却しない)かを表したものだった。」
ここでサイズと呼んでいるのは1-αのことだと思いますが、1-αには特に名前はついていないように思います。名前がついていないのは理由がないことではなく、1-αにはここで言うような意味合いを与えるのが難しいからだと思います。ネイマン=ピアソン流の検定ではたしかに対立仮説を設定しますが、特定の対立仮説が唯一の可能性で他はありえない、というような含意まではないと思います。そのため、対立仮説H1が偽であっても、H0が正しいという可能性だけでなく、実は対立仮説として設定されなかったH2,H3,H4...が正しいという可能性もあるわけです。そのため、「H1が偽であるとき」は特定の分布と結びつけることが難しいと思います。次に出てくる「もし仮にH1が真でなかったとしたら、T はH1を受け入れなかっただろう」も、1-αが大きいとしても言えないと思います。H1が真でない場合のうちにはH1と微妙に違うH2が正しいという可能性もあり、その場合には1-αはまったく関係してきません。

p.115
「(1)もし仮にH1が真でなかったとしたら、TはH1を受け入れなかっただろう。
...
(2)もし仮にH1が真だったとしたら、TはH1を受け入れただろう。」
追跡理論との類似性を強調するためにこうした書き方になっているのだと思いますが、この「だろう」が本質的に確率的な判断であるということがかえってわかりにくくなり、推論の本質を見誤らせるのではないかと思います。
(2)については、もう一点、あたかも統計的検定において検出力がきちんと特定されコントロールされているかのような印象を与える書き方になっているところも気になります。もちろん、実際に得られたサンプルから検出力がどの程度だったのかを推定することはできますが、一般論としては、対立仮説として具体的に何を設定するのが適当なのかは事前にはわからず、検出力の値も確定はできないのではないでしょうか。p.106の図を見たときもちょっと感じたのですが、大塚さんはナイマン=ピアソン流検定における対立仮説という「仮に設定されているもの」をあまりに実体的に、しかも特定の一つに固定されて他の可能性はないものとして捉えすぎなのではないでしょうか。

p.119
「つまり言ってしまえば頻度主義とは現実世界ではなく、むしろ可能世界のあり方を探る統計学なのだ」
そういう解釈もあると思いますが、もう一つの考え方としては、そうした可能世界意味論的な部分はあくまで計算の都合上出てくる虚構で、その方法論に従い続けることで現実世界において長い目で見て望ましい結果を得ることに主眼がある、という捉え方もあろうかと思います。

p.122
「以上の問題を考えるにあたって重要なのは、古典統計が本来的に外在主義的な認識論だということを再確認することである。... 頻度主義における正当化が外在主義的であるということは、その真理促進性が、同様の仕方で、検定プロセスの外的条件に本質的に依存するということを意味している」
再確認するということは、p.115あたりの議論で古典統計が本来的に外在主義的な認識論だということが確認されたと大塚さんとしては考えているということでしょうか?そういう捉え方もあるなというくらいならわからなくもないですが、「本来的」というほどのことが何か示されたでしょうか。
わたしの意見を言わせてもらうなら、ベイズ統計と古典統計のどちらかが特に内在主義的でどちらかが特に外在主義的ということはないと思います。科学的な論文を書く際にこれらの統計的手法を用いるなら、理想的にはなぜその方法をとるのかを論文を書いている本人が説明できなければならないという意味ではベイズ統計も古典統計も内在主義的です(というか、原理的には科学の方法論は内在主義的でしかありえないとおもいます)。
ただ、実際には単なるユーザーとして統計を利用しているような場合、本人はなぜその手法をとるのかを説明できないことも多いと思います。これは視覚プロセスがなぜ信頼できるかを説明できない人が視覚的信念を信じる場合とアナロジーが成り立つので、外材主義的に捉えることもできます(ただ、私自身は以前からこうした認知的分業に基づく状況は「非個人主義的内在主義」と捉えて内在主義側に含めるべきだと考えています)。これもベイズ統計であれ古典統計であれ状況は同じだと思います。
最後に、方法の真理促進性が論文を書いている本人にコントロールできない外的な要因によって左右されるという点ですが、ベイズ統計も同じことがいえます。出発点として選んだ事前確率(頻度についての主観的な見積もり)が客観的な頻度から遠くなければ少ない試行で客観的な頻度に十分近づくことも可能だし、まったく見当外れな事前確率をえらべばもっと時間がかかるでしょうが、その一致度の高さは本人にはアクセスできない情報であることが多いでしょう。こういう意味では結果の信頼性が外的条件に左右されるのはベイズ統計も同じだと言えないでしょうか。

p.123
「であるとすれば、検定結果のみ、p値のみによって仮説の成否を判断するのは、頻度主義の正当化概念を根本的に誤解していることになろう。」
言っていることの趣旨にはまったく賛成で、検定を行うための前提がきちんと満たされているかどうかを確認するのは大事です。ただ、そういうチェックを論文を書いたり読んだりする本人がするべきだというのが認識論上の区分でいえば非常に内在主義的な発想だというのは大塚さんは認識しているでしょうか。もし、論文を書く本人は「p値のみによって仮説の成否を判断」してもいいけれどもその判断の正当性を評価する人(誰?)は前提条件もチェックするべきだ、という主張をされようとしているのであれば、それは統計学の方法論的アドバイスとして大変無責任なことを言っているようにきこえます(が外在主義認識論とはまさにそういうものです)。

p.124
「一方で頻度主義においては、尤度は推論の最終決定権を持つわけではない。」
言いたいことは古典統計では停止規則が判断に関わるという次の話なのだと思いますが、文字面だけを見れば誤解を招くことを言っていると思います。ベイズ主義においても尤度主義においても「推論の最終決定権」を尤度が持つわけではないと思います。ベイズ主義なら事前確率と尤度を全体として評価するし、尤度主義者はあくまで証拠の強さの話をしているだけで推論の最終決定権を尤度に持たせようなどという話はしていないと言うでしょう。

p.126
「これに対し、尤度原理を満たすベイズ推論では、データがどちらの結論を支持するかは、どの停止規則を採用するかに拠らず一意的に定まる。」
ベイズ主義者たちがこういう主張をしてきたのは知っていますが、わたしとしては以前から納得のいかないところです。証拠として「この停止規則の下で試行を行って20回目に6回目の表が出た」をとることは(ベイズ統計はともかく)少なくとも哲学的ベイズ主義の下では特に禁じられていないし、その方がよりよく仮説の信憑性を評価できるはずだと思います。大塚さんはどう思いますか。

P.195
「たとえば新薬開発では、このRCTによって効果が認められた薬のみが認可され、市場に出回ることができる。」
原則はそうですが、患者数が非常に少ない場合や対照群を設定すること自体が非人道的だと判断された場合など、RCTデザインになっていない第三相試験でも新薬が認可されることはあります。

p.202
「むしろ不可解なのは、この合流点ないしその結果がZに含まれると、この経路が開いてしまうということだろう。これは単に「ブロック」ということの形式的定義だと思って納得してほしい。」
形式的定義だと言われても、この「経路が開く」ということが何かわからないと、結局わかったようなわからないような状態で置き去りにされてしまいます。ちょっとあとで「経路が開いていしまうため、それらを含めてはいけない」(p.208)などと言われてもなぜいけないのか腑に落ちないことになります。





iseda503 at 01:42|PermalinkComments(1)

June 07, 2021

佐藤直樹『科学哲学へのいざない』

佐藤直樹さんの『科学哲学へのいざない』について少し書きたい。

佐藤さん(以下「著者」とする)は実験生物学者でありながらも、哲学系の学会のワークショップに登壇されたり、マラテール『生命起源論の科学哲学』の翻訳を手掛けられるなど、科学哲学的な問題意識を強く持ち、科学哲学と関わりを作ってこられた研究者である。その著者による科学哲学へのいざないということで、科学哲学の側からも注目すべき書籍であると思う。

本書は少し変わった成り立ちの本である。著者はサミール・オカーシャの『科学哲学』を教材としつつ、独自の資料で補足しながら授業を行っていたとのことである。そうした授業の内容に、さらに加筆して書籍としてまとめたのが本書である。そのため、全体としてオカーシャの教科書に対するコメンタリのようにも読める本となっている。

本全体のトーンはオカーシャの教科書にかかれているような科学哲学に対する著者の不満や提案を表明するものとなっている。それは科学哲学への期待の裏返しであり、著者は「科学哲学がしっかりすれば、技術に関してはもちろん、科学の進め方にも影響を与えることができるのではないかという希望を持っている」(p.9)という。それと同時に、著者は科学についての「動的な視点」を独自な視点として打ち出し、実験生物学の研究の進め方を階層的なネットワークとしてモデル化するなど、本書には著者独自の生物学の哲学という面もある。著者の議論の核となる、「科学そのものを動的な活動ととらえ、科学知識を未来に向けて開かれた知識と考える」(p.297)という著者の科学観は科学哲学者の多くも共感する考え方であろうと思われる。

本書の読みどころの一つは著者の研究領域からの豊富な事例である。真核細胞の脂質顆粒が葉緑体に含まれることがあるかどうかについてどういうアプローチで実験を行ったかというエピソード(pp.95-98)や酵素をめぐる研究の歴史的経緯(pp.155-183)、氷はなぜ滑るかという問題(pp.183-186)などが取り上げられている。専門外の哲学者がまとめるととんでもない思い違いがあったりしがちなので、その分野の専門の方から哲学的な議論をするための素材としてこうしたものを提供していただけるのは大変ありがたい。

科学を常に変化していくものとして動的に捉えることに反対する科学哲学者はほとんどいないだろう。にもかかわらず、著者はこの考え方が「これまでの科学哲学で採用されてこなかった見方」(p.297)と思っているという。科学哲学者のイメージする「動的」とか「未来に開かれた」ということとまた少し違うことを念頭においているのかもしれないが、もしかしたらオカーシャの教科書の記述の内容からそのように考えたのかもしれない。科学の発展のモデル化は、オカーシャの教科書ではクーン以外の立場はあまり紹介されていない(そしてあとで紹介するように著者はクーンのモデルをまったく評価していない)。いわゆる境界設定問題においてはラカトシュやサガードなど、科学の動的な部分を科学の必要条件に組み込む立場もあるが、残念ながらオカーシャはポパー以外の立場はあまり紹介していない。そのほかの、科学における推論の正当化をめぐる議論や科学的説明の概念分析をめぐる議論は、正当化や概念分析という問題の性格上、あまり科学の動的な面は関わってこない。科学の動的な側面について科学哲学者が何を考えているかということに著者が関心があるのであれば、オカーシャの教科書を主な情報源としたのは不幸だったかもしれない。

著者自身の提案する階層的なネットワークのモデルは、ノードを矢印で結ぶネットワーク図が多層的に重なり、そのネットワークを充実させていく(著者の言い方でいえば「人間が自然界を見る際の網目を少しでも細かくしていく」p.131)という科学のイメージである(pp.122-131)。これは Craver and Darden のIn Search of Mechanisms (2013)を思い起こさせる。クレーバーらはメカニズムの概念分析をした論文(Machamer et al 2000)の共著者たちだが、この本ではそのイメージを発展させた科学の方法論や科学の進歩のモデルを提示している。最初スケッチにとどまるメカニズムのイメージがだんだん詳細になっていくという考え方や、メカニズムを階層的にとらえる視点など、著者のこだわるポイントも取り込まれている。目立つ違いとしては、著者が高位のネットワークをより基本的な原理ととらえ、より下位のネットワークはそのノードを「例化」しているととらえる点である(p.127)。これに対し、クレーバーらのイメージは、科学哲学における伝統的な階層的な世界像を基盤にしており、生物学的メカニズムの高次の記述は低次の記述と同じプロセスの別の記述であって、例化を必要とするような抽象的な原理とは考えられていないだろう。あえて例化という概念を持ち込んだのは著者が実験生物学の方法論を物理学の方法論と統合しようと試みた結果のようであるが、そうした統合が可能なのか、可能として実り多いものになるのかというのはもう少し慎重に考えるべきかとは思う。今後著者と科学哲学者の間で意見交換をすすめていくべき論点だろう。

このように、科学哲学者にとっても検討すべき点が多々ある本書ではあるが、科学哲学の入門書としてとらえたとき、個々の科学哲学者が何を主張しているのか、そもそもどういう問題について論じているかなど、科学哲学の基本事項についての記載にいろいろ疑問がある。そうした点を中心に、本書を読みながら書いていったメモを以下に公開する。疑問点として書いてある部分も、批判というよりは、さらなる対話のための手がかりとして読んでいただければ幸いである。


第2章

「旧来の科学哲学はみな物理系の科学、それも中学レベルのだれにでもわかる現象を例にとって説明してきた」(p.39)
たしかにオカーシャの本で使われている事例は物理系の事例が多いかもしれない。この本は、入門書という性格上、論争の出発点から順々に説明する必要があり、そしてそうした出発点においては多くの論争が単純化しやすい事例を使って議論を行ってきたわけである。ただ、「旧来の科学哲学はみな」と言ってしまうと、そうした出発点からはじまっていろいろな事例を使いながら発展してきた1980年代以降の科学哲学がすっぽりぬけおちてしまう。
また、1970年代ぐらいまでの科学哲学が物理系の科学をメインにするといっても、相対性理論や量子力学など「中学レベルのだれにでもわかる現象」でないものも中心的なテーマになってきたことは無視しないでほしいところである。ポパーが一般相対性理論を念頭におきながら反証主義を構築したことはオカーシャ経由で本書でも紹介されている(p.40)。


「『探究の論理』を発表し、反証可能falsifiableな仮説が優れた仮説であり、正当な科学はこうした仮説で構成されるべきだと考えた」(p.40)
『探究の論理』では反証可能性は科学的であることの必要条件であり、優れているか劣っているかという比較の問題ではない。ただ、ポパーは反証可能な仮説の中でも反証可能性が高いものと反証可能性が低いものはあり、その中では反証可能性が高いものほど優れた仮説だ、という趣旨のことは述べている。ここの解説はその両方がまざったようなまとめ方になっている。

「科学では、仮説は絶対的に誤りだったり正しかったりするわけではなく、さまざまな検証を経ながら、少しずつ改良していくものである。ポパーは理論的な科学のことを主に考えていて、実験科学者の営みを理解していなかったのではないだろうか。」(p.41)
最近よく「主語が大きい」という言い方を耳にするが、要するに過剰な一般化のことであろう。それでいえば、ポパーが過剰な一般化を行っているという指摘はいいのだが、それを批判する著者の側も実験科学に特に当てはまる特徴について話したいのであれば「科学では」という不用意な一般化を含意する表現は避けるべきではないか。
また、科学においては理論がうまく当てはまらい例を見つけながら改良をかさねていくというのはまさにポパーの立場であり、ここだけ見るなら、著者とポパーの立場は言葉遣いの点で食い違っているだけのようにも見える。

「仮説が検証できなければ元の理論が誤りだとすると、天気予報などはどうなるのか」(p.41)
ここで著者が「検証できなければ」という表現で何を想定しているかが曖昧だが、哲学者がいうように「正しいことを確かめる」とか「その仮説に対して有利な証拠を得る」という意味だとすると、その意味で「検証できなければ」誤りだとみなすというのはポパーの考えではない。というより、そもそもポパーが『探究の論理』で扱っているのはある仮説が科学に分類されるための必要条件であって、正しいか誤りかは別の問題である(というより、あらゆる仮説は誤りを含んでいるのでそれを明らかにしてもっといい仮説を提案するというのが科学の方法だ、というのがポパー的な考え方である)。

「翌日の予報が当たらないと、気象学の理論が誤りだというのだろうか」(p.41)
これは前の文の直後に並べられていて、著者としては同じことを言い換えたつもりなのかもしれない。しかし、「予報があたらない」のはポパーにとっては「反証」であり、「検証できない」のとはまったく意味合いが違う(もちろん、検証できないことが即反証を意味するような場面もあるだろうが、天気予報は果たしてそうだろうか?)いずれにせよ、天気予報のような統計的な予測においては何が反例とみなしうるかがはっきりせずポパーの枠組みでうまく扱えないというのはそのとおりであり、これはポパーの反証主義に対して従来からある批判のポイントの一つである。ただ、著者はこれを理論科学か実験科学かという対比に由来する問題だととらえているようであり、ポパーを批判する論点としてのポイントがずれているようにも思える。

「逆に、オカルトの悪魔払いのようなものでも、結構当たることがある。(中略)その場合、オカルトの「理論」は正しいのだろうか。」(p.42)
肯定的な事例は普遍的な理論の正しさを示すことができないが、否定的な証拠は理論が誤っていることを示すことはできる、という検証と反証の非対称性が『探究の論理』における反証主義の論拠の一つとなっている。なので、ポパーの問題意識の説明としてはこの記述はわかるのだが、この箇所は著者がポパー批判をしている文脈なので読んでいて混乱する。著者はポパーが批判している考え方をポパー自身の立場だと誤解しているのか、それともポパー批判は前段落までで断りもなく別の話題に移行したのか。

「AIを用いて得られた知識は科学知識とは言えない。内部で何が起きているのか、誰も分からないからである。反証もできない。」(p.42)
ここもポパーに対する批判の続きなのか、話が変わったのか、つながりがよくわからない。ここで著者が問題にしている『探究の論理』が書かれた1934年にはもちろんAIはまだ影も形もないので、ポパーもAIによって得られた知識が科学に分類されるかどうかを論じているわけではない。ポパーがはっきり論じていない論点をポパーへの批判として出しているのだとするとよくわからない。
それはともかく、ここでの論点そのものは著者の科学観として評価の対象とはなりうる。しかし、AIによって得られる知識と一口にいってもいろいろあるだろうし、その中にはある程度根拠の追えるものもあれば、人間に理解可能な形で根拠を述べることができないものもあるだろう。他の手段で確認のしようがないものもあるだろうが、普通の科学理論と同程度には反証可能なものも多数含まれるだろう。たとえばAIがビッグデータを使って導いた因果的な仮説は条件を変えて実験をするといったやり方で反証されうるだろう。内部で何がおきているか分からないものは科学ではない、というのは著者が本書で繰り返し主張する点だが、どの程度ブラックボックスになっていたら科学と認めないかによって、医学、薬学、脳神経科学、心理学など、普通に問題なく科学と認められているものの多くが著者のいう科学から除外される可能性がある。まったくのブラックボックスでないならいいということであればAIにおけるディープラーニングにしてもまったくのブラックボックスというわけではないのでAIを仲間外れにする理由も乏しくなる。

「AIを使っているから科学的と標榜する人がいれば、それこそ偽科学である」(p.43)
AIを使ったからといって科学になるわけではなく、いくらでも誤用や乱用がありうるという意味ではここは著者の言うとおりだが、ポパーの言う反証可能性という基準との関係は結局どうなるのか、もう少しポパーへの批判をしているという文脈にあわせた補足がほしいところではある。

「しかし、科学を未来に向けた真理追求の運動と捉えれば、今ある科学知識の欠陥をあげつらって宗教やオカルトを擁護する行為が無意味なものになると思う。こうした動的な見方を主張する科学哲学者は見かけない。科学哲学では、どちらかといえば、科学の論理は固定的で、決まったデータに対して、確実な論理を当てはめて絶対的真理を得るというように見える。是非こうした殻をやぶって、柔軟な思考をしてもらいたいと思う。」(p.47)
「科学を未来に向けた真理追求の運動と捉え」るのは、まさにポパーの立場なので、著者がポパーのちゃんとした解説書にたどりつかなかったのは大変残念なことである。動的な見方を主張する科学哲学者としては、ポパーの他、パース、クーン、ラカトシュ、ファイヤアーベント、サガード、パトナム、ハッキング、ラウダン、キッチャー、ハル、ロンジーノなどがぱっと思い浮かぶ。ただ、そうした動的な見方と、「科学の論理は固定的で」という考え方は必ずしも矛盾しないはずである。つねに新しい仮説や新しいデータが生成される中でも、仮説の評価の手続きが一定しているということはありえないことではない。



第3章

「一般に科学哲学の教科書類では、推論が科学において果たす役割を明確化しないまま、科学が推論でできているかのように、推論の説明がはじまるが、」(p.50)
これについては、たしかにオカーシャの本も、他の教科書も、あまり予備的な説明をせずに科学的推論はどういう推論かという話を始めているというのは著者が指摘するとおりである。そのあたりを省略するのは、科学にどういう営みが含まれるにせよ、得られたデータから仮説や理論の正しさやもっともらしさについて何らかの結論を導き出すという営みは少なくとも含まれるし、そこではなんらかの推論がなされているはずだ、というのは当然の前提として共有されていると思うからであろう。

「個物に関する何らかの記述を、その個物か別の個物に関する何らかの記述と結びつけるときに、一般的な法則を使った推論が必要になる」(p.51)
科学哲学では「法則」という言葉はけっこう気を使うテクニカルタームであり、宇宙のどこでも成り立つという普遍性やただの偶然ではないという必然性などの性質を伴うものを法則と呼ぶ。そこまで至らないものについては「一般化」generalizationとか「規則性」regularityとかといった別の表現がある。「一般的な法則を使った推論が必要」と言い切るのを見ると、そうした哲学の用語法のニュアンスを感じながら言葉を使っていただいているのかちょっと不安になる。

「論理学で正しいことは「トートロジー」(同語反復)でしかなく、経験的に証明されるものではないと、ヴィトゲンシュタインを引用しながら、この教科書(...)でも明言している。その意味では、経験科学と論理学は何の関係もないとさえ言える。」(p.52)
「その意味では」と限定をつけているにしても、そもそも論理学というのはトートロジーを探す学問というわけでもないので、トートロジーが経験的探究の対象にならないからといって論理学と経験科学に関係がないというのは乱暴だと思う。もうすこし根が深そうなポイントとして、著者は論理学が推論の規則を扱うというイメージをそもそも持っていないのかもしれない。

「一般的な推論に対応する論理式が前件肯定(modus ponens)で、「((P⊃Q)∧P)⊃Q」と表す。(中略)繰り返すが、この論理式が表すのは単なる一つの値で、それも、P、Qの真偽に関わらず、つねに真なだけなので、日常語として考えるような「PならばQであるときに、Pなので、Qである」という文章ではない」(p.53)
ここだけでなく、論理学についての著者の記述全般において、複数の命題の間の関係であるところの推論と、その推論と演繹定理を介して結び付けられる論理式との区別が曖昧なのが大変気になる。前件肯定という名前は、このトートロジーの名称でもあるが、それ以前に「PならばQ」と「P」から「Q」を導き出す推論を指す名称である。同名の推論の方は「ならば」という言葉の意味に注意は必要であるものの、著者が書いた日常語による文章と大きく異ることを言っているわけではない。このくだりは、書いてある範囲では嘘は書いていないにしても、論理学が何をする学問かということや、論理学の有用性についてかなり読者をミスリードする内容になっているように思われる。

「つまり論理式そのものの形式だけでは真偽は決まらないことがある」(p.55)
これはこの文の内容自体はまったくそのとおりなのだが、量化子や議論領域について説明したあとで書かれており、論理式が一般に真偽が定まらないという性格が量化と関係したものであるかのように誤解される可能性もあるように思う。

「Pを満たすxが存在するとして、Pα⊃Qが成り立つとき、Qが成り立つ。ただしQはα(特定の条件を満たす個別の項をアルファで表している)を含まないものとする(存在例化)。」(p.55)
一般的には∃xP(x)であるときに新しい記号αを導入してPαとしてよいというのが存在例化なのでは。ここで紹介されている推論は存在例化そのものというより存在例化を使って導かれる派生的な推論規則のように見える。

「いくつかの重要な示唆が得られたことをまとめておきたい。まず、ふつうの(古典的)論理学には時間や順序、因果関係が含まれないこと、そして述語論理の項(...)には議論領域があるとことである。」(p.56)
このまとめは大変妥当なものだが、だとすればなおさら、この本筋のメッセージと関係のないトートロジーや論理式についての記述の多くはむしろない方がよかったのではないか。

「演繹は一般的命題から個別的命題を導き出し、帰納は個別的命題から一般的命題を生み出す推論ということができる」(p.57)
帰納と演繹という対になる言葉は19世紀中頃まではたしかにこのように使われていたが、現在の論理学で演繹といえば「前提がすべて正しければ結論も必ず正しくなるような推論」である。オカーシャの教科書もこの定義を採用している。19世紀後半から20世紀前半に記号論理学が発達し、一般から個別という推論以外にもいろいろな推論が妥当な推論たりうることがわかってきたところで、論理学者や科学哲学者の間で演繹という言葉の定義の見直しが行われた。この変遷については以下のブログ記事でまとめたあと、『科学哲学の源流をたどる』でも少し解説した。
http://blog.livedoor.jp/iseda503/archives/1840017.html
念の為に付け加えれば、著者は「もう少し広く、上で紹介したような論理学で必ず正しいと証明された推論を一般的に演繹と呼ぶこともある」(p.57)と追記していて、こちらは現代の用法と(オカーシャ自身の用法とも)一致している。ただ、これでは簡単すぎて、現在ではこの用法の方が主流であることが読者には伝わらないだろう。

「こうした推論は本当に科学の推論として役立つのだろうか。どうして科学哲学者はこんな例を議論するのだろうか。」(p.59)
「ネコはネズミを追いかける」とか「太陽は東から昇る」といった結論を出す枚挙的帰納法の定番の例についての疑問として著者はこう書かれている。これはもっともな疑問だと思う。科学哲学者からの定番の答えとしては、もっと現実に近い事例はさまざまな要素が複雑にからみあってしまって問題の本質がどこにあるかわかりにくくなってしまうので、推論そのものに注意を集中するためにこういうオモチャのような事例を使うのだ、ということになるだろう。観察したものから観察していないものへの一般化がこれほど問題がないように見える事例においてすら問題を含むことがわかったなら、もっと現実的で複雑な事例においてはなおさら問題が大きいはずだ、ということになるだろう。

「時間的斉一性以外に、空間的な斉一性もあるかもしれない。一般相対性理論が語るように空間がゆがんでいれば、「ここ」と「そこ」で起きることは同じにはならないかもしれないからだ。」(pp.59-60)
ヒュームの解説に入る前の自然の斉一性という概念の紹介で書かれていることだが、単一の理論で記述できるのであれば、ヒューム的な意味では十分斉一性がある。一般相対性理論が正しければ空間的な斉一性が成り立たないかのように言うのは斉一性の概念についての理解をミスリードする可能性がある。

「ヒューム自身は、因果関係についても懐疑的で、それでもわれわれが未来の予測ができることについて、心理学的な考察で切り抜けようとした」(pp.60-61)
ヒュームの議論のどの部分を指してのことなのかわからないが、「未来の予測ができる」かできないかといえば、そもそも予測はできない、というのがヒュームの帰納批判から導かれる答えのように思われる。

「わたしからの注意としては、こういうすべてを覆すような大議論はたいていどこかがおかしい。」(p.61)
このあたりにも科学者と哲学者の話がかみあわなくなる一因はありそうに思う。ヒュームの議論のような大上段の議論など当然間違っていると思っている人と検討してみないとわからないと思っている人では着眼点は当然違ってくるだろう。


「この問題は確かに期限付きでしか保証されず、ヒュームは正しいと言ってもよさそうに見える」(p.62)
太陽が燃え尽きたら「明日からも毎朝東から日が昇る」というのは保証されない、という文脈での記述だが、このように認めることで、逆にヒュームの意図を誤解させるように思われる。ヒュームは自然の斉一性が成り立たなくなる具体的な場合をいろいろ考えて自然の斉一性の想定には根拠がないと主張しているわけではなく、そもそも帰納的推論を正当化するのに自然の斉一性を持ち出すのは循環論法になっている、というところに眼目がある。だから、太陽が燃え尽きたときに東から日が昇らなくなるとしても、そのことによってヒュームが正しかったとか正しくなかったとか判断することは意味がない。すくなくともヒュームを批判的に検討するという文脈ではヒュームが何を言っているかは正確に伝わるように気を使ってほしい。


「毎日本当に日の出を観察すれば、太陽が出てくる位置はずれていく。(中略)この表現[「明日からも毎朝東から日が昇る」]を多用する哲学者たちは、おそらく本当に毎日の日の出をみたことがないのだろう。」(p.62)
そうやって話を複雑に精密にすることはできるけれども、その方向での精密化はヒュームが提起した問題とまったく関係してこないので、哲学者たちはあまり力をそそいで来なかった、ということだと思う。このコメント自体、何が大事な論点かについての感覚が著者と哲学者たちとで大きく違っていることの一つの現れだと思う。

「依然として、これは帰納的推定ではあるが、全く知識なしに考える推定とは異なる。(中略)ヒュームの疑いは原理的なもの、限定的なものにとどまる」(p.61)
オカーシャの教科書でも使われている、同じパックの他の卵がすべて腐っていたことから残りの卵も腐っているだろうと推論する帰納の例について、現実の品質管理ではそんな雑な推論はしない、と分析している文脈である。ヒュームの疑いがこの事例について原理的なものである、というのはまったく同意だが、「原理的なもの、限定的なものにとどまる」という言い方には哲学者としては首をかしげることになるだろう。ある推定の手法に原理的に問題があると言うのであれば、それはその手法が全否定されると言っているようなものであり、限定的なものではありえない。
また、ヒュームは「全く知識なしに考える推定」の話をしているわけではなく、むしろ過去の同様の事例についての知識を参照するのは前提となっている。そうして得た規則性(ここでは過去の卵の品質についての期待値や分散などが例として挙げられている)は、しかし、あくまですべて「すでに経験したこと」の範囲内にあり、「まだ経験していないこと」である明日の卵にどうしてそれを適用していいのか、をヒュームは問題にしているのである。このヒュームの疑いがどこでどうして「限定的なもの」になるのだろうか。


「現実世界や生命世界では、さまざまな周辺状況からのフィードバックなどが複雑に絡んでいるため、それぞれの事象が独立にはならず、明日のことは完全には分からないかもしれないが、全く何が起きるか分からない状況でもないことがわかる」(p.65)
われわれがこれまでに経験してきたことの記述としてはまったくそのとおりであるが、ヒュームが言っているのは、それを未来へも投影する推論が循環論法になっているのではないかということである。ヒュームだったらこんなふうに言うだろう。「これまではたしかに「明日のこと」について「全く何が起きるか分からない状況でもない」ということが確認されてきましたね。では、その確認されたことを(過去の出来事どうしの関係としての「昨日」と「明日」ではなく)「今」とまだ見ぬ「明日」についてもあてはめていいのでしょうか。そのあてはめのためには、これまで経験してきたこととまだ見ぬ明日の出来事が似ているという「自然の斉一性」を前提する必要がありますが、その前提はどうやって正当化されるのですか。」

「ヒュームのように、安直に自然の斉一性を疑うことには、根本的な疑問がある。まず、実践的な行動原理としては、斉一性を前提としなければ、どんな行動も起こせない。議論を机上の空論だけに限定するのなら、斉一性を疑うのは自由だが、実質的には意味をなさない。」(pp.65-66)
「安直に」疑っているというのはヒュームもひどい言われようだが、その点は感じ方はひとそれぞれだろう。しかし、斉一性を認めずに行動などできないという点についてはヒュームも同意することである(『人間本性論』の第一篇第四部第一節など)。ではヒュームはなぜ自然の斉一性を検討の対象にするのだろうか。他にやりかたがないからといって正当化されることにはならないからだ、というのがヒュームの答えだろう。わたしなりにパラフレーズするなら、泥棒をしないと生きていけいないような状況に追い込まれた人は何を言っても泥棒をして生活するだろうが、だからといって泥棒が違法行為でなくなるわけではない。こうした哲学的議論は、われわれの置かれている状況を正しく理解することを目的としていると考えられるが、生物学者はそうして正しい理解を達成することにはあまり興味がないのだろうか。

「斉一性を否定するにしても、二通りのものが考えられる。つまり、大きな断絶があると考えるか、徐々に変化していくと考えるかである」(p.66)
自然の斉一性を経由した帰納の正当化が循環論法になっている、というヒュームの主張にとって、この2つの意味での自然の斉一性の否定の区別はほとんど何の影響もおよぼさないと思う。著者が言うように、徐々に変化するのであれば将来についての方針は立てやすいだろうが、過去に徐々に変化してきたからといって、その「徐々に変化していく」という性質をまだ見ぬ明日にあてはめていいのかどうかはヒュームにとっては明らかではない(自然の斉一性を前提とせずにその推論を正当化できないのではないか、という疑問がある)。

「そこまで斉一性を疑うのであれば、ヒュームの疑いそのものの前提にも疑問がある。(中略)明日何が起きるか分からないなどと疑う以前に、過去の実験のそれぞれは別の実験だと主張するならば、そもそも帰納的推論などというものは存在しえないことになる。」(pp.66-67)
この批判は、ヒュームの議論の置かれている文脈に関する誤解に基づくかもしれない。ヒュームは帰納的推論が正当化できるという人たちに反論しているわけで、反論を意味のあるものにするために、過去の事柄については規則性が見いだされているということを前提として受け入れている。それを受け入れても、その規則性を未来に投影できるという考えに循環論法にならないような根拠がないということをヒュームは主張しているわけである。その前提を否定するのならヒュームが反論するまでもなく帰納的推論は成立しないことになるので、ヒュームとしては特に困らない。

「統計学が標本集団のランダム性(これも一種の斉一性かもしれない)を前提にしているという批判はあるかもしれないが、基本的にはふつうの意味での自然の斉一性は前提になっていないと見てよいだろう。」(p.67)
著者は、少し前の記述ではヒュームのいう自然の斉一性が「われわれが過去に経験のない事例はわれわれが過去に経験のあるものと似ているに違いない」という主張であるということを正しく引用しているが(p.60)、ここでいう「普通の意味での自然の斉一性」はそれとまったく異なるもの(一様性とか単純性と呼んだ方がよさそうなもの)を指しているように見える。ヒュームの議論を批判的に検討しようというときにはとりあえずその議論内の用法にそって議論するべきではないのか。

「この帰納の論理はどこかおかしくないだろうか。特定のキノコをベニテングダケと同定するにはすでにたくさんの指標を使っている。(中略)その場合、「すべてのベニテングダケは毒をもつ」という命題は帰納的に得られるものではなく、クラスタリングの指標の一部を構成しているのである。」(p.70)
ここで著者は興味ぶかい議論を展開している。ベニテングダケというクラスタリングが事前に存在していてそのメンバーがみな毒を持つことがあとから確かめられる、というわけではなく、そもそも毒を持たないものはベニテングダケとしてクラスタリングされないから「すべてのベニテングダケは毒を持つ」のだというのである。この議論はクワイン的な検証のホーリズムを思い起こさせる。もちろん、その考え方で片がつく場合もあるだろうが、科学的な知識を行動の指針や将来の予測に使いたいのであれば、クラスタリングのみに終始することはできないはずである。「眼の前にあるこの物体を食べても大丈夫だろうか」を考えるときに、キノコ学が「もしこれに毒があればベニテングダケに分類されるし、なければベニテングダケに分類されない」という以上のことが言えないのだったら「キノコ学は何の役に立つの?」と言われてしまうだろう。

「実際に観察できた範囲で結論を出す限り、帰納は間違いではない」(p.72)
これを言いたいがために著者はわざと演繹と帰納の古い定義を用いたのかもしれない。実際に観察した範囲に限定した一般化を行うのは、前提が正しければ結論も必ず正しいので、現代の意味ではむしろ演繹的推論にあたる。
演繹と帰納という言葉の使い方はともかくとして、ヒュームはもともとすでに経験したものからまだ経験していないものへの推論はどうやって正当化されるかという問題を論じているので、これでヒュームに対する答えになると思うというのは単に話題をそらしているだけのように見える。

「しかし、本当に得体の知れない対象の測定をする場合なら、実際に測定した範囲でしか定式化はできない。その場合、帰納でも正しい結論を与えることになり、ヒュームの問題は起きない。」(p.73)
実際に測定した範囲の中の話だけをするのなら正当化が問題にならないというのはヒュームも同意するだろうが、これはヒュームの問題が起きないというよりは、そもそもヒュームが問題としていた状況設定ではない、と言うべきだろう。

「しかし、同じことをやっても同じにならないならば、何かを推論するとか、合理的な判断をするとか、そういうこと自体成り立たない。同じことを同じ前提で議論しても、昨日と今日では違う結論を出しても構わないのだろうか。それでは人格の統一性もなくなってしまう。」(p.73)
ヒュームは演繹的な推論については何も否定していないし、それに基づく合理的な判断が可能であることも否定していない。すでに経験した範囲内で推論することについても何も問題はない。合理的判断自体が成り立たないとか、昨日と今日では違う結論になるとか、人格の統一性がなくなるとか、一体何の話をしているのかヒュームとしてはとまどうことだろう。

「この節のまとめとしては、定義域や議論領域を考えれば、帰納の問題は基本的には解消できると思われる。これは、あまり議論されることのない解決策であるが、素直に考えればこれでよいのではないだろうか。」(p.74)
定義域や議論領域というのは、議論の範囲を観察したものに限るという意味合いである(p.72)。もし、科学の役割をすでに見たものの整理に限定してしまおうというのであれば、そして、将来の予測とか、行動の指針とか、まだ見ぬものもふくめた宇宙全体の姿を解き明かすといった目標を放棄してもいいというのであれば、この解決策でいいのかもしれない。しかし、この問題を論じてきた哲学者たちは、それはヒュームの挑戦をかわすための代償としては大きすぎる犠牲だと感じてきた。だからこそ、この解決策は「あまり議論されることのない解決策」となってきたわけである。

「確かに自然の斉一性は保証されないのだが、おそらく、それ以上に、正確に同じ実験を再現すること自体が難しく、実際問題として、自然の斉一性は最初に疑う問題にはならないのである。」(p.76)
ここでも「自然の斉一性」という概念が、ヒュームの議論に関わる意味(すでに経験したものとまだ経験していないものの類似性という意味)ではなく、多様性の否定のような意味で使われているようである。そこに注意した上で言えば、ここで著者が行っている観察は興味深い。

「このように、本当に科学知識を得る過程を考えれば、ヒュームの問題はあてはまらないことになるように思える。物事を固定的に考えて、手持ちのデータを使って帰納的に得られた結論をもとに、未来を予測しようと思うから自然の斉一性が問題になるのである。」(p.76)
もし、ここでいう「科学知識」が、実際に行われた実験の条件を整理することで尽きるというのであれば、たしかにそこにヒュームの問題はあてはまらないだろう。しかし、そうやって整理した結果、暫定的にであれ、「この種の植物の葉は、このような条件で育てると発根する」という結論を出した場合、その結論は暗黙のうちに、まだ実際に葉を育てる実験をしていない個体も含めたその種の植物の葉全体についての結論となっている。そこにはすでに経験したものからまだ経験していないものへの一般化が含まれており、ヒュームの問題はあてはまるはずである。その結論が暫定的で常に変わっていくからといって、ヒュームの問題が生じないわけではない。もしかしたら著者は、科学知識にヒュームの問題は当てはまらないという論点にこだわって、「いや、生物学の対象は実際に実験・観察した個体だけであり、実際に実験・観察していないその他大勢の個体については生物学は何も語らない」と言うのかもしれない。もしそうだとして、それは生物学者の一般的な認識だろうか?

「連続性を認めないのは、現実の世界を扱う自然科学にはふさわしくない。少なくとも、科学的理論形成が不可能になる。」(p.77)
ここでいう連続性とは「Xがごくわずか違ったときにYがとんでもない値をとることがない」(P.77)ということに関わる連続性のようである。文字通りにうけとると、相転移のような現象は自然科学にはふさわしくないし、相転移のような現象について科学理論形成は不可能だと言っているように聞こえる。もちろん著者の意図はそういうことではないのだろうが、少し不用意なものいいのように見える。

「議論領域の全体で予め試験して安全性を確認しておけば、原理的には安心して使える製品ができることになる」(p.78)
製品の試験のような問題について論理的にあらゆる可能性を試し尽くすことが可能だといった発想は大変危険だと思う。そんなことはできないということを前提に試験の計画を立てるべきだろう。それは別としても、製品の安全性試験は販売前に行うのに対し、製品の使用は販売後に行うことだから、販売前の製品のふるまいと販売後の製品のふるまいが似ているという想定ぬきには製品の試験は意味をなさない。こうした実際的な問題においてはヒュームの帰納の問題があてはまらないということは非常に考えにくい。

「帰納の問題は技術に関しては、本質的に存在しないように思う」(p.78)
上記のコメント参照。帰納の問題を無視するという選択をすることはもちろん可能だが、だからといって帰納の問題が存在しなくなるわけではない。

「単に一番よさそうな理論を探すのではなく、そこにさらに実験や理論の検討が加わったものが、本当の科学的推論なのである。科学哲学での推論の問題では、こうした現実の科学のプロセスに対する考慮が足らず、形式的な演繹、帰納などの説明で終始するのが残念である」(p.81)
こうした指摘は科学哲学側からは大変ありがたいことで、「お前の推論のモデルにはこの要素が欠けている」と指摘していただくことで、より豊かなモデルを構築していくことができる。ただ、一方でそうして現実に近い豊かなモデルを作るという仕事も科学哲学の仕事だけれども、「じゃあこの推論はどういう意味で正当化されているのか」「もっとましな別の推論の形式があるのではないか」などと考えるのも哲学者の仕事で、それについて考えるにはあまり事例は複雑になりすぎない方がいい。オカーシャの教科書の第二章で紹介されているのは主にこの後者についての議論だということを念頭において読んでいただければと思う。

「彼は、ビーグル号での観察結果を説明する理論として自然選択を考えた」(p.81)
ダーウィンはアイデア帳が現存していることもあって科学史の定番の研究対象となっている。その知見からすると、ビーグル号の航海と自然選択の着想の間にはかなり時間的な開きがあり、その間にダーウィンはいろいろな知見を収集するなかで進化論のアイデアを育てていったことがわかっている。ビーグル号での観察と自然選択説を直結する書き方はそのあたりをかなり短絡してしまっているように思う。

「森田(2010)には、論理ではないが有用な推論として、アナロジー(類推)も挙げられている。これも帰納の一種と考える場合もある。しかし、述べられていることを読む限り、現実に科学で使われているとは思えない。」(p.82)
すぐ直前で、ダーウィンが人為選択をモデルとして自然選択の着想に至ったということを著者は書いているが、これなどは類推の例ではないのだろうか。

「「昔はよかったがこれからが心配だ」というお決まりの台詞は、過去も未来も曖昧なのに、合理的な話ではない。「もはや科学的議論の段階は終わった。行動の時だ。」こんな言葉を信じられるだろうか。これも偽科学というべきだろう。」(p.84)
これは「気候の温暖化」について、この50年くらいより前のことは分からない、ということを述べたあとで書かれているので、要するに地球が温暖化してきていると断定する気候科学は偽科学だと言っているのであろう。もちろん、遠い過去や未来のことを直接観察できるわけではないという意味では、気候科学は直接観察できる範囲を超えたものを扱っている。ただ、そうした拡張はどんな科学にも多かれ少なかれ存在するわけで、気候科学のみの問題ではない。過去の気候については気候科学はとぼしい情報源からできる限り多くの情報を引き出す努力を重ねてきており、「曖昧」「合理的な話ではない」と切って捨てる前に、何がどこまでわかっているのか、きちんと検討する必要があるのではないか。

「論理的にも、「温暖化ガスが増えれば地球の温度は上がる。地球の温度は上がっている。」から「温暖化ガスが地球の温度上昇の原因だ」を導くのは後件肯定の誤謬である。IBEなら多くの他の要因を考えなければならないはずだ。だから「温暖化ガスの放出を止めれば地球の温度は戻る」というのも論理的には誤謬である。」(pp.84-85)
もしこうした推論をする人がいるならまあそれは誤謬でいいのだろうが、ここを読む読者は現実の気候科学がこうした粗雑な推論にもとづいて温暖化対策を提言していると誤解するかもしれない。IPCCの報告書を見ればわかるように温暖化が人為的な原因によるものだと結論する上では当然「多くの他の要因」が検討されてきている。温暖化対策の効果についてもIPCCの報告書はこんな雑な主張をしているわけではない。ただでさえ温暖化懐疑論言説が流布する状況で、理系の研究者のこうした問題についての発言は影響力があるのだということを自覚していただければと思う。

「医学におけるRCTは最終的に薬剤開発ができてから社会に受け入れてもらうための試験であり、最初にその薬剤を見つけ出す段階の話ではない」(p.86)
因果関係を推論するためにRCTがよく使われるとオカーシャが述べていることをうけての記述なのだが、これではRCTを行う前に薬剤の効果は確立されていて、ただ、納得してもらうために必要でもないRCTをやっているのだというように聞こえる。しかし実際にはRCTをしてみると差が出なかったために薬剤の開発が中止になるというのはよくあることで、その場合は、予備的な研究の段階で効果があるように見えたのはさまざまな交絡要因のせいだった、ということになるだろう。RCTはもちろん万能ではないが、「効果があるかもしれない」から「効果がある」に向かって進むための大きな一歩だとはやはり言えるのではないだろうか。

「森田(2010)にはもう少し詳しい因果関係の考察がある。それによると、原因を特定する理論として、反事実条件文、結果に対する影響、マーク伝達理論、保存量伝達理論、介入理論などさまざまな理論が挙げられている。」(p.86)
この中には「原因を特定する」ためのものではなく「因果の概念分析をする」ことを目的としたものも含まれている(反事実条件文、マーク伝達理論、保存量伝達理論などはそうだろう)ように思われる。それぞれの理論の目指すところを正しく理解してないと正しい批判的検討もできない。

「いずれにしても、過去の実験結果に基づいて知識を定式化するわけなので、未来のことは、基本物理定数が突然変わるなど、何が起きても不思議はなく、本当はわからないのかもしれない。しかし科学理論はそこまで保証するものではないと考えてしまってもよい。(中略)未来の行動指針が客観的科学知識からは得られないというのは、ある意味当然のことである。」(p.88)
ここまでヒュームの問題提起に対して「どこかおかしい」「限定的」「あてはまらない」など著者は否定的なことをずっと述べてきたのだが、この箇所ではヒュームの主な結論をそのまま受け入れているように見える。ヒュームの主な結論を認めるにせよ否定するにせよ、どちらかではっきりしてほしい。

「Pnew(T)=P(T)/P(e) 」(p.90)
ベイズ主義の紹介だが、事例として使っているのが尤度が1になる特殊な場合で、ベイズの定理の式もそれにあわせた簡単な形になっている。実際にベイズの定理を利用する場合には尤度比が仮説の検証において重要な役割を果たすので、この事例は簡略化のための特別な形だということについて付言があってもよかったかもしれない。

「明日雨が降る確率といって気象情報で紹介される50%や20%という数字は、同じ気象条件が与えられる場合が100回あったとして実際に雨になる場合がx回あるだろうというものなのか、(中略)あるいは、予報官が雨が降ると信じる度合いの強さなのか、さまざまな解釈がありうる」(p.92)
気象情報に登場する確率は明確に頻度確率として定義されている。
https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/faq/faq4.html#5
さまざまな解釈がありうるものの例としてはあまり適当ではない。


「おそらく、ヒュームの問題に対して意味のある解答を与えられそうな確率概念は、最後の「信念の度合い」、つまり確率の一番古い意味合いなのではないだろうか。」(p.92)
オカーシャの教科書で、そうした主観的確率概念はヒュームの問題に対して無力であるということが解説されている(邦訳44ページ)オカーシャの解説は、ヒュームの問題が客観的な正当化を求める問題なのに、主観的にこういう確率を与えましたというのでは何の答えにもならない、という趣旨のものである。当然著者はここも読んだ上でこのように記述しているのだと思うが、オカーシャの指摘についてはどう思うのだろうか。

「科学哲学では、演繹、帰納、アブダクションくらいしか推論の種類としては挙げられないが、科学の実際の場面を考えると、別のタイプの科学的推論もあるのではないだろうか」(p.93)
そこでいう別のタイプの推論というのが、木星に衛星があるということから、惑星には衛星が存在する場合がある、ということを導く推論なのだが、これは現代的な意味では演繹の一種である(演繹を古い意味で解釈しているために見逃されたのだと思う)。あるいは、その推論から他の惑星にも衛星があるかもしれない、ということまで導き出すならこれは類推であるが、類推については著者は「現実に科学で使われているとは思えない」(p.82)とすでに却下してしまっていた。再検討が必要なのではないだろうか。

「一方で、こうした特称命題は、反証するのが非常に困難である」(p.95)
ここで著者が話題にしている特称命題とは、一般的なパターンにあわないような個別の事例についての命題(「或るネコはネズミをとらない」など)であるが、すでに具体例(ネズミをとらないネコのたま、など)が知られていて、そこから存在汎化で存在命題を作ることが想定されている。そうした手順で得られた存在命題が反証できないのは当然で、「非常に困難」もなにもないのではないだろうか。この一文に続いて著者自身の研究からの実例の紹介があり、これは大変興味深いが、特称命題を反証している事例ではなく、特称命題の根拠になった画像データに対して別の解釈を提示した例となっている。反証という切り口で考えるとかえってわかりにくいように思う。

「つねに検証を続けながら、少しずつ未来に向かって進むという科学のあり方、つまり動的な科学のあり方を科学哲学が真剣に検討する必要がある」(p.100)
これについてはすでに触れた。科学的推論がどのように正当化されるのか、という問題群と、科学者は実際どう推論しているのかをモデル化する、という問題群はお互い関係しながらも別個の問題群で、後者についてはほとんどの科学哲学者がまさに動的な見方を採用しているし、前者についてもポパーのモデルは動的である。オカーシャが科学哲学のどの部分を紹介しているのか、ということにもう少し注意をはらっていただければよかったのではないかと思う。

第4章

「私から見ると、これはなにか問題設定がおかしいようにも思う。もしも旗竿の長さの理由を知りたいのなら、影の長さを測ったりしないからである。」(p.105)
「避妊薬が説明にならないのは当然で、問題設定がさすがに場違いな気がするが、これもこの分野ではよく使われる例のようである。」(p.105)
科学的説明論争というのが一体何を目的としているのか、外からはわかりにくいので、「問題設定がおかしいのではないか」という感想が出るのはこれはいたしかたないと思う。旗竿の例も避妊薬の例もヘンペルのモデルに対する反例としてのみ意味があるので、ヘンペルのモデルの検討に興味がなければ問題設定がおかしく見えるのは無理もない。また、両方の例についてそもそも説明にならないに決まっているということを感想として書かれているが、その点について議論の余地がないからこそ概念分析における反例として機能するわけである。反例を用いて概念分析をすすめるという作業そのものが理解されていない可能性があるかもしれない。

「試験問題の問題文の書き方から判断して出題意図がわかる学生がよい成績をとるというのと似ている」(p.106)
科学的説明において関連性が重要だ、というのをこのように説明しているのだが、あまり適切な比喩ではないように思う。避妊薬の事例で避妊薬が関連性がないのは、仮にその男性が避妊薬を飲んでいなかったとしても結果にはまったく変化がないだろうからであって、だからこそ説明の因果説などの対案が出てくることになる。「もし避妊薬を飲まなかったら」という反事実条件法をどう処理するかはやっかいな問題だが、少なくとも質問した人の意図はあまり関係がない。著者はつづけて「これを講義で説明したところ、よく分かってもらえる学生とそうでない学生がいた」と書いてあるのだが、この比喩でよく分かった気になった学生の方が、本当に関連性という概念を理解したかどうかむしろ心配である。

「科学哲学における議論が、科学の現場を無視したものになっていることが、本当の問題のように思われる」(p.107)
科学的説明論争については正直この感想にわたしもそれなりに共感する。ただ、あえて擁護するならば、科学者は実際にどのようにして説明をしているのか、ということへの関心と、科学的説明という概念はそもそもどのように理解するべきか、という問題関心はお互いに関連しながらも別ものであり、後者についての研究が前者への答えにならないから意味がない、というものではないと思う。ついでにいえば、科学者が実際にどのように説明をしているか、と問う前に、そもそも科学者は「説明」という概念をあまり使わないように思う。これも科学の現場と科学的説明論争の間に距離があるように感じる一因かもしれない。

「影の長さや旗竿の長さについて、それらが観測者とは独立した実在であり、それらには独自の存在理由があるとすると、たしかに非対称性の問題が生ずるようになってしまう。一方で、すべては見かけ、あるいは認識の問題だと考えるのなら、非対称性の問題は解消するのではないだろうか。現実には、問題には既知の要素と未知の要素があり、既知の要素は実体として確かに存在するが、未知の要素は認識の領域にあるように思われる」(p.108)
科学哲学の科学的説明の問題がどういう問題なのかが共有されていないように思われる。被説明項が説明を要するのはそれが既知のことがらだからである。「なぜ影の長さは4メートルなのか」という問いは影の長さが4メートルであるということが共有されていなければ問いとして意味をなさない。また、説明項の側も、基本的には実際に成り立っているものでないと説明にならない(本当は旗竿の高さが5メートルあるのなら、「旗竿の高さが3メートルだから」というのはそもそも説明項の候補にすらならない)。もし「既知の要素は実体として確かに存在する」というのなら、科学的説明において「すべては見かけ、あるいは認識の問題」ということはない。
もちろん科学哲学の問題設定に興味がないというのならしかたがないが、「なぜ」とか「〜だから」といった説明に関わる発話がある種の前提条件を持つというのは哲学者が勝手に作ったしばりというわけでもないのではないだろうか?


「予測はまだ存在しないものについて、または、未知のものについて行うもので、既存のものについて行うものではない。(中略)ちなみに講義では、多くの学生諸君から、予測と推定の違いが分からないという質問が寄せられた。予測は、分からない未来のことについてもっともらしい答えを推論すること、推定は、単に、何らかの理由で答えが伏せられているか分からないことについて答えを推論することである。予測の「予」は「あらかじめ」なので、未来について考えている。多くの学生諸君は、どちらも「想像する」くらいに思っているのかもしれない」(p.109)
中略した前とあとは別の段落だが、同じページ内の記述である。中略の前では予測は「未知のもの」についても行うと言っているのに、あとの方では、予測の意味を「未来のこと」に限定している。学生の理解力を嘆いておられるが、説明の方が一貫していなかったために学生が混乱したという可能性はないだろうか。ついでに言えば、日本語の「予測」にしても英語のpredictionにしても、時間的に未来でないものにも実際問題として使われる。科学方法論の観点からいえば、仮説から導き出される個別命題が過去のことだろうと未来のことだろうとやることは同じなので、こだわることにあまり意味が感じられていないのだと思われる。

「私はもともと実験科学者なので、こういうディテールが気になる。この問題がどれだけ現実的なものなのかを疑ってしまう。科学哲学では、誰でもわかる例を使って、科学ではなく、論理の部分に集中して議論することが一般的である。そのため、このような問題が使われるのだろう。いかに問題を簡略化していると言っても、多くの科学哲学者がこのような机上の空論で議論していることは残念である。そもそもヘンペルの問題は問題なのだろうか。」(p.111)
旗竿の事例はいろいろ現実的ではない、ということを具体的に考察したあとこのようにまとめられていて、こういう事例を科学哲学者が議論しているのを見て違和感をおぼえるというのはおっしゃるとおりだろうと思う。

「ヒュームもそうだが、経験主義者は因果関係を虚構fictionと見なし、説明におけるその役割を認めなかった。」(p.112)
細かいことをいえば、ヒュームの場合、因果とは観察される規則性以上のものではないという規則性説をとっているというのが一般的な解釈であり、因果関係を虚構と見なした、というのはちょっと不正確ではないか。

「ちなみに、多くの若者には虚構という意味が伝わらないようだ。(中略)教育実習生の先生に「虚とはどういう意味ですか」と質問されて、「うそのことです」と答えて、「それは違うでしょう」と言われたことを覚えている。虚構とは、「うそ」ではなく、実在するかどうか分からないが、仮に考えた議論の枠組みを指している。」(pp.112-113)
この説明で「意味が伝わらない」と思われた学生の方たちはちょっとかわいそうかなと思う。「うそ」という言葉に「相手を騙す」というような意味を読み込むならたしかに「虚構」は「うそ」ではないが、「事実と違う」という意味では「うそ」と言っても間違いではないだろう(念の為に国語辞典類も見てみたが、そういうところでも「虚構」の語釈には「事実でない」などの表現が出てくる)。「実在するかどうか分からないが仮に考えた議論の枠組み」を指す言葉としては「措定」などの別の言葉の方がいいのではないか。

「私は科学における説明のあり方として、〈なぜ〉疑問から出発するのは正しいのだろうか、という疑問を持つ。(中略)最初から「なぜ」という疑問を掲げて、その解答が導ければすばらしいが、普通はそんなことはできない。また、「なぜ」よりも「どのように」の方が普通ではないだろうか。」(pp.118-119)
ここも大変共感する部分である。科学的説明論争は科学との関連性よりもパズルとしての興味に引きずられて特殊な袋小路に入っていってしまった感があると思う。ただ、科学において主にあつかわれるのが「どのように」だというのが正しいとしても「科学において〈なぜ〉疑問に答えが出される場合、それはどういう構造を持つか」というのは無意味な問いになるわけではない。

「形の上でパターンを作ることができても、そのモデルが真理であるかどうかは、もっと別の実験的研究の結果によって支持される必要がある。そうした意味では、モデルとシミュレーションは、人に訴える力は大きいかもしれないが、「便利な虚構」という面も強い」(p.122)
ここは、「さて、シミュレーションがうまく現象を再現できたとして、そのことは、現象の説明になるのだろうか」(p.121)という問いをうけた論述の最後の部分なのだが、結局現象の説明になっていると著者が考えているのかいないのかよくわからない。科学哲学におけるシミュレーションにまつわる議論ではwhyに答える説明と別にhow possibly(いかに可能か)に答える説明というものも想定される。そうした説明の類型を著者が認めるかどうかは聞いてみたいところではある。

「私が考える科学研究の進め方は〈なぜ〉疑問に真っ向から立ち向かって答えを導き出すようなやり方ではなく、現実の世界にあるさまざまな因果の連鎖の中から、一部を抜き出して、その中間過程を解明するというものである。」(p.123)
ここからこの章の終わりにかけて、著者の独自の方法論が展開される。冒頭でも触れたように、これは興味深く、本書の読みどころの一つでもある。ただ、ここで解説されている方法論はあくまで実験的な生物学の方法論であり、他の領域にどれだけ拡張できるのかは要検討だろう。著者もそのことは十分自覚しているように思えるのだが、それでも「私が考える科学研究の進め方」というように科学一般にあてはまるかのような言い方をしてしまうのは不用意のようにも思える(もちろん、科学哲学の論文の多くで同様の不用意な物言いがなされており、そこは同罪なわけであるが)。

「これは裏と呼ばれる論理操作であり、論理学では必ずしも裏は成り立たないが、現実の科学研究の場では、表と裏の両方が成り立たなければ、その因果関係が成り立つとは認められない」(p.125)
言いたいことはわかるが、ある条件がある場合とない場合の両方を調べるのは、「論理操作」ではないだろうと思う。また、逆・裏などの論理的操作の対象となる命題はあまり確率的関係を扱わないので、裏という概念を持ち出すことで、かえって論理学に強い学生が誤解するかもしれない。

「つまり、科学研究は、〈なぜ〉疑問に答える説明をするのが役割ではなく、人間が自然界を見る際の網目を少しでも細かくしていくことなのである。ではなぜ、科学哲学では〈なぜ〉疑問ばかり議論あれてきたのか。それは、一般人に説明しやすいからだったのかもしれない。」(p.131)
著者はたしかに「なぜ」というよりは「いかにして」に答えるタイプの研究のモデルを提示しており、それはもっともらしいモデルではあるのだが、そこから科学研究全般について「なぜ」疑問に答えるのが「役割でなく」と積極的に言えるとも思えない。著者自身、第六章で科学の研究の例を考察する際に、その一つとして「氷はなぜ滑るのかという問題」(p.183)を挙げているが、これは「〈なぜ〉疑問に答える説明」ではないのだろうか。
ただ、科学哲学者が「なぜ」疑問を重視するのが「一般人に説明しやすいから」というのは当たらずとも遠からずのようにも思う。科学的説明論争は科学哲学の諸テーマの中でもとりわけ業界内で閉じた論争なので、一般人への説明を意識するとは思えない。しかし、自らが研究者でないという意味で一般人に近い立場のヘンペルを始めとした科学哲学者にとって、科学理論の存在意義は現象を(なぜ疑問に答えるという意味で)答えることで、世界の理解を助けることだというのは自然な理解であってきたと思う。

「私が上に述べた網目を細かくするモデルと似た考え方かもしれないが、私は「網目を細かくする」プロセスそのものが科学研究の活動であると考える。できあがったモデルを示すことではない。科学哲学における議論はいつも、すでに分かっている論理関係や事実関係を前提として、それをどう説明するかという技術論に陥っている」(p.132)
これは著者が自分の立場とMachamer et al 2000のメカニズムの概念分析を比べて違いだと思うところを述べている箇所だが、そもそもマカマーらの論文は、科学研究の活動とはどういうものかを明らかにしようとしたものではなく、メカニズムの概念を分析して明確化しようという趣旨のものである。できあがったモデルを使って例示が行われているのは、それが科学活動の本来の姿だと思っているからではないだろう。また、マカマーらの論文でもメカニズム図式 (mechanism schemata)やメカニズムスケッチ(mechanism sketch)の概念は言及されており、それにそって、研究がどのように進むかについても簡単に著者らのイメージが述べられている(冒頭に紹介したIn Search of Mechanismsでその部分が大きく膨らませられている)。せっかくマカマーらの論文を読んでいただいたのに、科学の本当の姿を捉えていないというネガティブな印象だけが残ったのだとすればそれは大変残念なことだと思う。

第5章

「私から見ると、これ[観察できないものについての科学理論は近似的に正しいという考え方]はごまかしでしかないように思える。つまり、科学理論は厳密な整合性の上に築かれているので、近似的に正しいということはありえない。」(p.138)
近似的に真という概念を正確に定式化しようとするといろいろ困難があるのは事実で、著者はそういうことを念頭においているのかもしれない。ただ、科学的実在論論争で「近似的に真」というのは、例えば「原子」の特徴づけはドルトン以降現代に至るまで何度も変更されてきていて、その意味では以前の理論には現代から見て偽の要素もあるけれども、重要な部分において物質の組成などにおける原子の役割を正しく記述してきた、というようなことを念頭においているのだが、そういうことはありえないと著者は考えているのか、近似的な真というのを別の意味でとらえているのか、どうなのだろうか。

「このことが示すのは、物理学で使われる式は、その支持基盤となる実体が何であっても成り立つということであり、これは哲学者も含め多くの人々が理解していない点である。」(p.139)
当然ながらある「実体」が「支持基盤」となるにはその式を実現するような性質をその「実体」が持ち得るのでなくてはならないから、「何であっても」ということはないと思うのだがどうだろうか。それはともかく、ここで著者が言っているのが、われわれが実在性を確信できるのは式であらわされる構造が成り立っているということだけであって、その構造を何が作っているかについては分からない、という立場であれば、科学哲学では構造実在論と呼ばれる立場の一種のように聞こえる。

「フロギストンはマイナスの酸素とみなすことができる。そもそも、フロギストンにせよ酸素にせよ、何らかの「元素」が結合したり離れたりすることによって燃焼という化学反応を説明するというやり方自体が、当時は新しかったのであり、その際にフロギストンが失われると考えるか、酸素が結合すると考えるかは、もともと同等だったはずである。(中略)フロギストン説を誤りとみなすのは、酸素の役割を提唱したラボアジェの立場であり、後のわれわれの立場ではないと思う。」(p.139)
著者が個人的にフロギストンを「マイナスの酸素」と解釈するのはある意味著者の勝手ではあるが、実際にはフロギストン説のいうフロギストンは、単に酸素がないという以上の実体を持つ存在と考えられており、だからこそフロギストン説は間違いだというのが当時から現在に至る常識となっているのではないかと思う。「後のわれわれの立場ではないと思う」と著者の立場の共有を求められても困る人が多いのではないか。あと、細かいが、フロギストン説の歴史の中でどの「当時」を指しているのだろうか。よくフロギストン説の創始者とされるシュタールのバージョンでは、フロギストンは「火の原理」ともよばれており、単純に今の元素のイメージでフロギストンをとらえていいかどうかは議論の余地があるだろう。

「放射能の場合、検出限界以下のものは「ない」という他ないが、一般人はそれでは安心できなかった」(pp.140-141)
検出限界以下は検出限界以下であって、「ない」というのとは違うというのがむしろ科学におけるスタンダードな態度ではないだろうか。もちろん、科学コミュニケーションの問題として、その状態をあえて「ない」と言い切るという選択はありうるが、それはまたちょっと違うさまざまな要因を考慮に入れた上で可能になる判断だろう。

「オカーシャの本では、化石の実在性は間違いないと実在論者も反実在論者も認めているようなことが書かれている。科学史を正しく理解すればそんな話にはならない」(p.142)
化石を化石として認識するには古生物学が必要で、化石もまた理論負荷的な概念なのだ、というのが著者がいいたいことのようである。オカーシャがこの話を持ち出している文脈(邦訳74ページ)を確認すると、古生物学が扱う範囲はすべて観察可能な対象なので、「真なる記述」と「観察可能な範囲についての記述」は一致する、という文脈である。オカーシャのさらに下敷きになっているファン=フラーセンの議論に従えば、「化石を見る」ことと「化石としてみる」ことは区別して考えるべきで、「化石として」見ることができなくても「化石を見る」ことができればその対象は観察可能に分類される。その意味での「観察可能性の話をしているということを踏まえても著者は「そんな話にならない」と言うだろうか。

「私自身は、上述のように、観察可能という概念自体が曖昧なものなので、観察可能ということ自体によって、ものの実在が証明されるものではないと思う。その意味では、オカーシャの本における実在論と反実在論の扱いが観察可能性に収斂しているのは適切ではないだろう」(p.143)
実際の論争が、特に1980年代においてこのテーマを中心に行われたということからすれば、論争史を紹介する教科書としてはまったく不適切ではないと思う。

「現実には太陽は時間とともに燃え尽きていき、約50億年後には冷たくなるらしい。そうした変化するものを指して太陽と呼ぶのだろうか」(p.149)
こういう対象について語るには、対象が持つ性質とある程度切り離して指示が成立するような意味の理論、指示の理論が必要である。1970年代にクリプキやパトナムが作った新しい意味の理論と呼ばれるものはこういう問題意識に答える面も持つだろう。

「知識の獲得につれて、電子の実在性も次第に増していったと考えるのがよいのではないだろうか」(p.150)
電子についてよく知るようになるとともに、電子が実在するということについてわれわれが持つ確信が増していった、という意味ではそのとおりだろうが、それを「電子の実在性が増す」と表現するのは、少なくとも実在論論争の話をしている文脈では適当ではないのではないか。電子という概念を人間が思いつく前は電子は存在していなかったのだろうか。


「結局のところ、「非常に便利な虚構」は「実在」とどこが違うのだろう。われわれにはその区別はできないのであるから、どう考えてもよいのではないだろうか。」(p.151)
要するに、著者は科学的実在論論争には興味がない、ということだと思う。もちろん多くの人にとってどうでもいい論争であるのは実際そうだろうが、コメントするからには興味はもってほしい気はする。科学的実在論論争では、実在にコミットするかどうかで、新規な状況へその理論を応用する際の態度が違うのか違わないかといったことが論点となってきた。

第7章

「私としては、通常の科学研究には、さまざまな帰結を検証するところだけではなく、多様な仮説をアブダクションで生成するところも含まれると考える。そうなると、これはクーンが考える通常科学とは異なるのかもしれない。(中略)クーンは本来の科学研究を正確に捉えていなかったのではないかと思う」(p.194)
クーンの『科学革命の構造』で挙げられる通常科学の例(第三章で挙げられるいろいろな実験のタイプなど)を見る限り、仮説の生成がクーンのいう通常科学の範囲内にないなどということはない。むしろ、パラダイムが空白のままに残した部分を埋めるという謎解きの要素があるからこそ「パズル解決」になぞらえられているのだと思う。ただ、そうした仮説形成のやり方も含めてお手本が「パラダイム」として与えられていて、それにそって研究が進められるのだ、というのがクーンの通常科学のイメージだろう。

「オカーシャによれば、こうした相対主義には問題がある。「真理はパラダイムと相対的である」という言明は「私は嘘つきだ」というのと同様、真偽どちらとも言えないからである。」(p.196)
この場合は真だと考えると自己論駁的になってしまうが偽だと考えても特に問題はないので、嘘つきパラドックスとは構造が異なる。


「フロギストン説自体、原子・分子で化学反応を理解するという新たな科学のやり方を実践したものであり」(p.197)
ドルトンの近代的な原子論も分子の概念も19世紀に入って提案されたものであり、この著者の記述は文字通りにとればただのアナクロニズムになっている。

「ダーウィンの進化論でも、進化という概念自体はラマルクの発案である。ダーウィンが示したのは、自然選択が進化の説明になりうるということであり、しかし、遺伝子に基づかない説明は何も証明したことにならなかったはずである」(pp.97-198)
ラマルクの進化のモデルは共通先祖説型ではなく、「分岐」を眼目とするダーウィン流の進化論とは同じ「進化論」といっても似て非なるものである。『種の起源』の大半は生物が分岐してきたことを示すさまざまな証拠の提示にあてられている。ダーウィンが正確にいって何を証明したのかというのは科学哲学でも長らく論じられてきた話題だが、少なくとも遺伝の理論が間違っていたから何も証明できていない、というのはあまりにダーウィンの功績を軽視しすぎではないかと思う。

「パラダイムという理論を優先し、実験データをおろそかにするという、普通の科学者ではありえない考え方をクーンが考えた背景には、こうした理由があったようである。」(p.199)
『科学革命の構造』で、クーンは、実験データを科学者がおろそかにするなどとは言っていない。実験データと受け入れられた理論の食い違いをどちらも否定せずに解消したいからこそそこにパズル解決という問題が発生するわけである。また、おろそかにするつもりがなくとも、パラダイムにそって考えるがゆえに見逃しが生じるというのが観察の理論負荷性であり、それについてはたとえば天王星が何度も観測されながら、思い込みのために惑星として認識されなかった、というような具体的な例が挙げられている。著者がクーンをあまり好きではないのはわかるが、否定的な決めつけがすぎるように思う。

「クーンがはじめに学んだ物理学、特に応用的な物理学ならば、確かに答えがあるかもしれない。多くの物理学者がすべての自然科学の問題が物理学で溶けると思っているのも同じかもしれない。しかし、現実世界を相手にする一般的自然科学では、答えがあるとは限らない。」(p.200)
クーンが『構造』で科学研究をパズルになぞらえたからといって、必ず答えがあると考えていたわけではない(確かに、通常科学では答えが出るはずだという確信をもって問題に挑戦するという趣旨のことは『構造』の第4章などで書かれているが、それは研究をするからには当然成果を出すつもりでやっているという以上のことではないのではないか)。実際、とけないパズルが蓄積していくからこそパラダイムは危機を迎えることになるとクーンは考えている。
また、ここでの記述からすると、著者はどうも物理学は現実世界を相手にもしていないし「一般的」な自然科学でもないと考えているようであるが、物理学者はこれを読んでどう思うだろうか。

「Galisonの考えでは、クーンの理論は15~17世紀の科学や20世紀初めの量子論の歴史の分析に限定され、それを一般化するのは無理だということである」(p.201)
意図的ではないかもしれないが、Galisonの原文にあたると「15~17世紀」ではなく「1930年代や40年代の物理学と17,18,19世紀の科学」となっている(Galison 2016 p.66。公開されているPDFでも確認できるが一応刊本も同じ表現になっていることを確認した)。
https://galison.scholar.harvard.edu/files/andrewhsmith/files/galison_practice_all_the_way_down.pdf
18から19世紀は近代科学の形成期であり、そこにあてはまらない近代科学の分析はたしかに問題があるだろうが、ギャリソンもそこまで言っているわけではない。また、ギャリソンはクーンの分析が一般化できない、というよりは、大規模化した近年の科学を分析するツールが欠けている、という形でまとめている。著者の紹介のしかたは、ギャリソンのクーン評価の伝え方としてあまりフェアではないのではないか。

「生物学では教科書自体がどんどん新しくなるので、教育の仕方もかなり違う。その分野の代表的な教科書があって、ずっと長く使い続けられるというクーンのパラダイム概念は、おそらく物理学の一部の分野に限られたことだったのだろう。」(p.209)
もちろんクーンも文字通りに同じ教科書が使われつづけると言っているわけではなく、同じ発想に基づく教育が再生産されるというイメージだと思う。分子生物学のように同じ教科書が増補・改訂を繰り返しながらアップデートされつづけていく領域は、むしろクーンの考える通常科学の典型的な姿ではないかと思う。

「これを見ると、科学社会学が対象としている研究領域がある程度明確になる。あくまでも、大枠としての社会が、その時代の科学をどのように支え、あるいは規制し、科学という社会的活動をどのように形作るのかということがテーマである。」(p.213)
マートン派の科学社会学に限っても、大枠としての社会があまり関係ない研究は多いと思う。その後のエジンバラ学派やパリ学派になると、さらに問題設定は異なってくる。

第8章

「オカーシャの教科書では、生物の分類が階層構造をなしている理由を説明する2つの学派が紹介されている」(p.219)
分岐学と表型学は「階層構造をなしている理由を説明する」ことを目的とした学派ではなく、生物分類の正しい原理についての2つの学派だと思う(オカーシャもそう説明している)。

「昔流に、表型学がマクロな形質を比較していれば、分岐学とは異なる分類が得られるかもしれないが、同じ形質を評価するならば、本質的には表型学と分岐学は同じ結論になるのではないだろうか。」(p.223)
確かに分子時計が斉一的に働いて、分岐してからの時間的な距離と遺伝子やタンパク質の類似性の距離が比例関係に立つのならば、表型学と分岐学の分類が一致することは多くなるだろう。しかし、分子時計の進み方は世代交代の速さなどさまざまな要因で変化するので、単純に類似性が高い方が分岐の歴史上も近いとは言えなくなるのではないか。



iseda503 at 18:08|PermalinkComments(0)