July 16, 2020

生物学者は「自然主義的誤謬」概念をどう使ってきたか

最近発表された人間行動進化学会の声明の中で、「自然主義的誤謬」という哲学由来の概念が使われていた。

そこでは、自然主義的誤謬が、「「自然の状態」を「あるべき状態だ」もしくは「望ましい状態だ」とする自然主義的誤謬と呼ばれる「間違い」」という言い方で紹介されている。これを倫理学者が聞いたなら「いや、自然主義的誤謬はそういう意味じゃないんだけどなあ」と言いたくなるところであろう。しかし、進化生物学者と「自然主義的誤謬」という概念の付き合いはかなり長く、それなりの経緯がある。本稿の目的はとりあえずその経緯を追うことで、「自然主義的誤謬」という概念の適切な用法とはなんだろうかということを考えることである。

最初に断っておくが、本稿はいかなる意味でも体系的なサーベイとはなっていない。どちらかといえば、目立つ事例いくつかをつまみ食いしたような形になっている。ただ、そうしたつまみぐいからだけでも、状況の複雑さは読み取ってもらえるのではないかと思う。

1 倫理学者の「自然主義的誤謬」
生物学者が「自然主義的誤謬」をどう理解してきたかをたどる前に、簡単に倫理学においてこの概念がどう使われてきたかを確認する(解説としては伊勢田2008の第二章など参照)。

1-1 メタ倫理学における区別
「自然主義的誤謬」は元来メタ倫理学と呼ばれる分野で使われてきた概念である。G.E.ムーアの『倫理学原理』は、メタ倫理学という分野そのものの出発点となった書籍であると同時に、「自然主義的誤謬」という言葉のもともとの典拠でもある(Moore 1903, p.10)。

It may be true that all things which are good are also something else, just as it is true that all things which are yellow produce a certain kind of vibration in the light. And it is a fact, that Ethics aims at discovering what are those other properties belonging to all things which are good. But far too many philosophers have thought that when they named those other properties they were actually defining good; that those properties, in fact, were simply not 'other,' but absolutely and entirely the same with goodness. This view I propose to call the 'naturalistic fallacy' and of it I shall now endeavour to dispose. (善であるようなすべてのものが同時に他の何かでもあるというのは---黄色いものすべてがある種の光の振動を生むというのが真であるのと同様に---真であるかもしれない。そして、事実として、倫理学は善であるものすべてが持つそうした他の性質を発見することを目的としている。しかし、あまりに多くの哲学者が、そうした他の性質を名指したときに、自分たちが実際に善を定義していると---すなわち、これらの性質は、ただ「他の」性質であるというだけでなく、絶対的に、全面的に、善さと同一であると---考えてきた。この見解を「自然主義的誤謬」と呼ぶことを私は提案し、これを処分することを以下で試みる。)[強調原文]

この自然主義的誤謬は「自然主義的倫理」と「形而上学的倫理」に共通の過ちとされる(p.39)。

It should be observed that the fallacy, by which I define 'Metaphysical Ethics,' is the same in kind; and I give it but one name, the naturalistic fallacy.(わたしが「形而上学的倫理」をそれによって定義した誤謬は、[「自然主義的倫理」が犯している誤謬と]種類において同一であることが分かるだろう。わたしはこの誤謬にただ一つの名前、自然主義的誤謬という名前を与える)

これが過ちだということを主張する上でムーアが使うのが「未決論法」、つまり「善とはXか?」という疑問文形式にしたとき、その問いが未決である(有意味な問いになる)ということは、善とXは概念的に同一ではない、という論法である。ちなみにムーア自身は「自然主義的倫理」における「自然的」というのは「自然科学や心理学の対象である」「時間の中にある」などの意味であるという説明のしかたもする(p.39)ので、「ムーアにとって自然主義とは善を何か他のもので定義することだ」という整理は間違いである。ただし、ムーアの議論をうけたメタ倫理学の議論では、自然主義という言葉自体を自然主義的誤謬によせて、善と何か他のものを定義により同一視する立場を指す言葉として使うことがある(Hare 1952, ch.5)。なぜこの誤謬をムーアが「自然主義的」と呼んだのかは謎だが、「(ムーアの意味での)自然主義者がよくやる誤謬」くらいのつもりだったのかもしれない。

この誤謬と「「である」から「べきである」は導出できない」というヒュームのテーゼは、倫理学の議論では密接な関係はあるけれども内容的には別ものとしてあつかわれてきた(e.g. Hare 1952, ch.2)。なお、「ヒュームのテーゼ」はヒューム自身がその形で述べたものではないのでこのテーゼをヒュームの名前と結びつけるのは厳密には誤りなのだが、その話まで始めるとややこしいのでここでは定着した「ヒュームのテーゼ」という呼び方を使う。

もし自然主義的誤謬が誤謬でなく、善を何かの事実関係で定義できるのであれば、ヒュームのテーゼを乗り越える一つの方法になる。ただし、「善」と「べき」の関係についてのなんらかの付帯的な条件が必要になるし、「善はXである」という定義文は「である」文の一種なのかといった問題も少し発生するので、単純に乗り越えられると言い切れるわけではない。実際、ムーア自身は「Xは善である」という命題を直観によって真偽を判別できる特殊なタイプの事実命題だと考えていたので、自然主義的誤謬が誤謬かどうかというのは事実と価値の二分法とはあまり関係がない。他方、自然主義的誤謬がたしかに誤謬であったとしても、他のルートで「である」から「べきである」を導き出すことは可能かもしれない。つまり、いくつかの付帯条件のもとで、自然主義的誤謬が本当に誤謬であることはヒュームのテーゼが成り立つことの必要条件ではあるが十分条件ではない。

こうした論理的な関係からも両者が同一ではないことはメタ倫理学者にとっては当然のこととして議論がなされてきた。

1-2 ヒュームのテーゼによせる用法
メタ倫理学を専門とする研究者たちは、以上のように、意識的にヒュームのテーゼと自然主義的誤謬を関連はするが別の主張として扱ってきたが、哲学者による使い方としては、必ずしもそういう区別が守られてきたわけではない。

たとえば、アンソニー・フルーの『進化倫理学』における「自然主義的誤謬」の扱いは興味ぶかい(Flew 1968)。フルーはヒュームのテーゼについての論文などもあるが、無神論をめぐる研究を中心に分析哲学の広い領域で研究をしており、とくにメタ倫理学に特化した研究者というわけではない。『進化倫理学』の自然主義的誤謬についての箇所はあとで出てくるカプランの『社会生物学論争』にも転載されており、生物学者の「自然主義的誤謬」理解にも影響している可能性がある(Caplan 1978, pp. 142-162)。「自然主義的誤謬そのもの」(naturalistic fallacy as such)と題した節で、フルーは以下のように言う(Flew 1967,p.38)。

The label 'Naturalistic Fallacy' derives from G.E. Moore's Principia Ethica (1903). It is an apt label, since one very typical way of committing this fallacy is by offering some supposedly neutral descriptive statement about what is allegedly natural as if it could by itself entail some conclusion about what is in some way commendable. Yet Moore's own account is so wrapped  up in various unfortunate assumptions that ---all other reasons apart---it is wise to begin from the now much-quoted passage from Hume, noting by the way that Principia Ethica neither quotes nor mentions this earlier classical authority. (「自然主義的誤謬」というラベルはG.E.ムーアの『倫理学原理』(1903)に由来するものである。これは適切なラベルである。というのも、この誤謬を犯す非常に典型的なしかたは、自然なことだとされる何かについてのなんらかの中立的な記述的言明とされるものを提示して、あたかもその言明だけからなんらかの意味で推奨されるものについての帰結が導き出せるかのようにいうというやり方だからである。しかし、ムーア自身の説明にはさまざまな不幸な仮定がまとわりついているので、他の理由を別としても、ヒュームの頻繁に引用される一節から話をはじめる方が賢明である---『倫理学原理』が、先行するこの古典的な権威を引用もしていなければ言及もしていないことは念頭におきつつではあるが。)

「不幸な仮定」について、フルーは、少しあとで、自然主義的誤謬が論理の問題というよりは心理の問題として提示されていること、「自然主義的倫理」と「形而上学的倫理」の両方が「自然主義的誤謬」を犯していることになっていること、ムーアが「善」を自然な物体が持つ非自然的な性質と捉えていることなどを挙げている(pp. 45-46)。つまり、「自然主義的誤謬」という語をムーアの特殊な立場と結びつけると、せっかくの概念の使い勝手が悪くなるということである。

ではフルーは自然主義的誤謬をどう捉えているかというと、それはこの本の序文にあらわれる (p.3。なお、この序文の部分はカプランのアンソロジーには転載されていない)。そこでは、哲学者が進化倫理学を相手にしない理由として、「彼らが自然主義的誤謬と呼ぶもの」を犯しているとあやまって考えるからだ、と言い、誤謬の内容を「その核心は、中有率な事実としてどうであるか、どうであったか、どうであるだろうかのみについて述べる前提から、どうあるべきか、どうあるべきだったかについての結論を演繹しようとする努力である」(the nerve of this is an attempt to deduce a conclusion about what ought to be, or ought to have been, from premises stating only what in neutral fact is the case, or what has been or what will be.) と説明する[強調原文]。ここでは、フルーは自然主義的誤謬をヒュームのテーゼ違反として読者に提示している。

このように見ると、フルーは、ムーアがこの概念をどう定式化しているかは理解した上で、ムーアの定式化はいろいろ余分な尾ひれがついていると考え、ある意味おせっかいに、より本質をとらえた(とフルーが考える)解釈を提案しているように読める。

フルーの意図については推測の面もあるものの、一つはっきりしているのは、哲学者であっても自然主義的誤謬をムーアの用法に忠実に使うとは限らないということである。これは、「自然主義的誤謬」の正しい用法は何かを考える上でも気にかけるべき点だろう。

さて、以上のような倫理学における用法を確認した上で、では生物学者たちはどのようにこの概念を使ってきたかを追いかけることとしよう。


2 ウォディントンの「自然主義的誤謬」の理解
生物学者に「自然主義的誤謬」の概念を広めたのはおそらくC.H.ウォディントンではないかと思われる。ウォディントンは遺伝的同化の概念を提案したことなどで知られる発生生物学者だが、ジュリアン・ハックスレーと並んで20世紀前半に進化論の倫理問題への応用を唱導した生物学者としても知られている。ウォディントンのこの問題についての主著の一つ『エチカル・アニマル』では「いわゆる『自然主義的誤謬』」(The 'naturalistic fallacy')と題する章を設けて、この問題についての自分の立場を表明している。

この章の冒頭付近で、問題の誤謬についてウォディントンは以下のように述べる。(Waddington 1960, p.50)

It will perhaps be best to begin by a discussion of the main argument which philosophers commonly bring against any example of what is called a scientific theory of ethics. The argument is that all such theories are based on an attempt to define the good in terms of  some other type of concept, such as the satisfaction of desire or pleasure and pain; such an attempt is defined as naturalism and is refuted as a fallacy. (倫理学の科学的理論と呼ばれるもののいかなる事例に対しても哲学者たちが共通して持ち出す主要な議論を論じることから始めるのがおそらくもっともよいだろう。この議論はそうした理論はすべて善を何か他のタイプの概念---欲求の充足や快苦など---で定義する試みに基礎をおいている。そうした試みは自然主義と定義され、誤謬として拒絶される)

善を他の概念で定義する誤謬というのは、まさにムーアが定式化したとおりの自然主義的誤謬であり、ウォディントンが倫理学系の議論をきちんとフォローしている様子が伺える(「自然主義」との関係が若干ムーアの提示のしかたと異なっているが)。なお、上の引用では「自然主義的誤謬」というそのものズバリの言葉は使われていないが、数ページ後に登場する。(p.53)

"To a theory which attempted to discover a criterion for judging between ethical systems the refutation of the naturalistic fallacy would be largely beside the point" (倫理的諸体系の間で判断を下すための基準を発見しようと努力する理論にとっては、自然主義的誤謬の拒絶はかなり的外れである)

その間に「自然主義的誤謬」という語は用いられていないので、丁寧に言葉の意味を確認しながら読む読者であれば、最初の引用の内容をもって「自然主義的誤謬」という概念を理解することになったであろう。

ここまでのところは、自然主義的誤謬という概念がムーアの意味から逸脱して使われる理由はなさそうに見えるが、ウォディントンの記述の仕方には誤解をさそう面もある。ウォディントンは最初の引用文で「誤謬として拒絶される」と書いたすぐ後に、「この拒絶はヒュームに起源を持つ」(ibid.) と述べて、ヒュームのテーゼを紹介している。そして、そのあとでこう述べる。(p.51)

This argument has been very widely adopted by modern philosophers, particularly the intuitionists who derive from G.E. Moore. Hume's thesis, that one cannot logically pass from 'is' to 'ought', reappears in the statement that it is impossible to define the good in terms of anything.(この[ヒュームの]議論は近代の哲学者たちに広く採用され、特にG.E.ムーア以来の直観主義者たちがそうである。ヒュームのテーゼ、すなわち「である」から「べきである」に論理的に移行することはできない、というテーゼは、善を他のなにものによっても定義することは不可能である、という言明の中に再登場する。)

この箇所は、ウォディントンがヒュームのテーゼとムーアの自然主義的誤謬の内容をそれぞれ倫理学者が言う意味で理解していたことを示す一方、再登場(reappear)という表現からは、彼が倫理学者が考える以上に両者を密接なものとして捉えていたことも示唆される。この記述のしかたであれば、読者が(とくに丁寧に読んでいるわけでないなら)、自然主義的誤謬とヒュームのテーゼは同一であり、ヒュームのテーゼのことも自然主義的誤謬と呼ぶ、と解釈するのも無理のないところである。

そのあとでも、ウォディントンは「自然主義的誤謬の拒絶を受け入れる用意が自分にあるかどうか確信がない」(p.54)と述べたあとでヒュームのテーゼとムーアの主張のそれぞれについて、どうして全面的に賛同できないかを説明している。ここだけ読むなら、自然主義的誤謬とはヒュームのテーゼとムーアの議論の総称だと著者も理解しているように読めてしまう。

ところで、ウォディントンは自然主義的誤謬を誤謬として批判する考え方に対してどういう態度をとっていただろうか。「自然主義的誤謬」という語が直接登場するp.53からの引用箇所からもわかるように、ウォディントンは、自分がやろうとしているのは個々の道徳的判断を進化論から導くことではなく、ひとまとまりのものとしての倫理体系の選択基準を導くことなのだから、自然主義的誤謬にはあたらない、と考えていた。もう少しまとまった記述が、この自然主義的誤謬についての章の最後にある。(Waddington 1960, p.59)

I argue that if we investigate by normal scientific methods the way in which the existence of ethical beliefs is involved in the causal nexus of the world's happenings, we shall be forced to conclude that the function of ethicizing is to mediate the progress of human evolution, a progress which now takes place mainly in the social and psychological sphere. We shall also find that this progress, in the world as a whole, exhibits a direction which is as well or ill defined as the concept of physiological health. Putting these two points together we can define a criterion which does not depend for its validity on any recognition by a pre-existing ethical belief. (もしわれわれが、倫理的信念が存在するあり方がどのように世界の出来事の因果的連関の中に組み込まれているかを通常の科学の方法で調査するなら、われわれは「倫理する」ethicizingことの機能は人類進化の進歩----この進歩は現在では主に社会的・心理的領域で生じている----を媒介することだと結論せざるをえなくなるだろう。われわれはまた、この進歩は、世界全体としては、生理的健康の概念としてどうにか定義されるような方向を示しているということも見出すであろう。これらの2つの論点をあわせるなら、われわれは、その妥当性について、先行して存在する倫理的信念を認識することに依存しないような規準を定義できるだろう。)

こうした記述からすると、ウォディントンは、倫理的な体系そのものの選択を文化進化などまで含めた進化への寄与という観点から行うなら、自然主義的誤謬にならない、と考えていたようである。倫理学者としては、彼のいう「生理的健康」が何であれ、それが望ましいという価値判断を前提とせずには「生理的健康」に寄与するような倫理的体系が望ましいという結論はでない(したがって「先行して存在する倫理的信念」から自由になれるわけではない)、ということは指摘することができるだろう(フルーも『進化倫理学』の中でウォディントンをとりあげ、同様の指摘をしている。Flew 1967, p.51)。ただ、これはヒュームのテーゼへの違反であって、ムーアの意味での自然主義的誤謬ではない。「善とは生理的健康に寄与することである」というのを定義として持ち込むのでなければ、ムーアの意味での自然主義的誤謬は確かに回避されている。

以上の整理から言えるのは、「自然主義的誤謬」という言葉の用例史におけるウォディントンの扱いはなかなかやっかいだということである。細かく見れば、ウォディントンが自然主義的誤謬について書いていることは特に間違っていない(「再登場」は、漠然とした言葉なので、好意的にみれば、ヒュームのテーゼと自然主義的誤謬のもっとゆるやかな関係を意図していると読むことも不可能ではない)。しかし、ウォディントンの書きぶりが自然主義的誤謬とヒュームのテーゼを同一視する読み方に誘導したというのも事実のように思われる。

3 シンプソンの「自然主義的誤謬」の用法

ウォディントンの『エチカル・アニマル』のあとで「自然主義的誤謬」の概念に言及した生物学者として目立つのはG.G.シンプソンである。シンプソンは古生物学の立場からいわゆる「進化総合説」の成立に貢献した生物学者である。シンプソンは1965年にアメリカ心理学会の年次大会で招待講演を行い、それが「自然主義的倫理と社会科学」というタイトルでAmerican Psychologist誌に掲載された(Simpson 1966)。この論文はシンプソンの論集『生物学と人間』に「生物学と倫理」と改題して再録されている(Simpson 1969。経緯に関する説明はp.164)。この論文の中でシンプソンは「自然主義的誤謬」の概念に言及しているのだが、これに関する箇所は特に変更されていないので、『生物学と人間』の側を参照しながらシンプソンの記述を確認する。

シンプソンが「自然主義的誤謬」という言葉に触れているのはまず以下の箇所である。文脈としては、「自然主義的な倫理」という概念が非常に多様であるということを述べている箇所の一部である(Simpson 1969, pp.131-132)。

The naturalistic fallacy has a long history, generally dated from Hume in the eighteenth century. He pointed out that it is not logical to pass from "is" or "is not" to "ought" or "ought not". Another way of putting it is that description is not prescription. That really seems obvious enough, and the fallacy has been exposed so many times that another refutation is not necessary here. Yet the conviction that this is a fallacy is sometimes applied too broadly, and again what is truly fallacious sometimes slips by in more subtle ways. It is undoubtedly illogical to conclude that what is therefore ought to be. It is, however, equally illogical to make that  the basis for a further conclusion that decision as to what ought to be cannot be based on consideration of what is --- in other words, that naturalistic ethics are impossible. (自然主義的誤謬は長い歴史を持ち、一般に18世紀のヒュームまでさかのぼるとされる。彼は「である」「ではない」から「べきである」「べきでない」へと移行するのは論理的ではないと指摘した。別の言い方をすれば、記述は指令ではない。これは十分に明白であり、この誤謬はあまりにも何度も暴かれてきたので、ここでもう一度論駁する必要はない。しかし、これが誤謬であるという確信はときにあまりに広く応用されてしまい、どこに本当の誤謬があるのかということがもっと微妙なしかたで見逃されてしまうこともある。疑いもなく、あることが事実であるがゆえにそうあるべきである、と結論するのは非論理的である。しかしながら、そのことを根拠として、さらなる結論として、どうあるべきかということについての決定は何が事実かということについての考慮に基礎をおくことはできない---つまり自然主義的倫理は不可能である---ということを導くなら、これも同様に非論理的である。)[強調原文]

非常に注意深く読むと、この箇所でシンプソンは「自然主義的誤謬とは」という形では自然主義的誤謬の中身を説明していない。背景についてよく知っている人ならば、ここでシンプソンがいう「あまりに何度も暴かれてきた」(has been exposed so many time)中の一つにムーアの議論があり、自然主義的誤謬というのはもともとその議論と結びついたものであることを思い起こすであろうし、それと矛盾することをシンプソンが述べているわけではない。しかし、普通によめば、自然主義的誤謬というのは「「である」「ではない」から「べきである」「べきでない」へと移行するのは論理的ではない」というところで指摘されている論理的誤謬のことだと解釈するであろう。

実はこの論文の批判対象の一つがウォディントンの『エチカル・アニマル』なので、シンプソンはまちがいなく『エチカル・アニマル』における自然主義的誤謬の説明を読んでいるはずである。両者の記述を読み比べると、ヒューム以来長い歴史があって何度も同趣旨の指摘が繰り返されてきた、というのはウォディントンによる解説を下敷きにしているようにも見える。そういう目で見るならば、ウォディントンがあたかも自然主義的誤謬という語がヒュームとムーアの議論両方にあてはまるかのような書き方をしたのをうけて、シンプソンはヒュームの方だけを紹介した、というようにも解釈できる。

同じ論文の他の箇所では、シンプソンは「自然主義的誤謬」という表現を別の用法で使っている。(p.146)

 If ethics could be reduced to ethicizing, authority acceptance, and nothing else, then such discussions as this would be a mockery. Unless we reject naturalism entirely, that would have us firmly impaled on the naturalistic fallacy that what is ought to be. There is really no point in discussing ethics, indeed one might say that the concept of ethics is meaningless, unless the following conditions exist: (a) There are alternative modes of action; (b) man is capable of judging the alternatives in ethical terms; and (c)he is free to choose what he judges to be ethically good. (もし倫理が「倫理する」こと、権威の受容に還元可能で、それ以上のものでないのなら、このような論議は徒労であろう。われわれが自然主義を全面的に拒否するのでないかぎり、そうしたこと[倫理の還元]は事実そうであるものはそうあるべきだという自然主義的誤謬にわれわれをしっかり繋ぎ止めることになるだろう。以下のような条件が成り立つのでないかぎり、倫理を論じるのは意味がないし、実際、倫理という概念は無意味なものとなるだろう。その条件とは(a) 行為の選択肢がある(b)人間はそれらの選択肢を倫理的な観点から判断できる(c)人間は倫理的に善いと判断したものを自由に選ぶことができる。)

ここでいう「倫理する」や「権威の受容」はウォディントンの説への言及である。ウォディントンは進化の過程で人類が倫理する能力を身に着けてきた、と論じ、その中心となるのが「権威受容者」(authority acceptor)としての能力だと考えた(Waddington 1960, p.29; cf. Simpson 1969, pp.133-134)。シンプソンはここまでの箇所で、進化から生じるものにはいいものも悪いものもあるので、結局別の価値基準から取捨選択する必要がある、と論じてきているのだが、ここで自然主義的誤謬という概念を使って興味深いひねりを加えている。もしウォディントンの言うようにわれわれが権威の受容というメンタリティに完全に支配されているのであれば、「である」と別の「べきである」など存在し得ないので、「事実そうであるものはそうあるべきだ」"what is ought to be"という自然主義的誤謬に繋ぎ止められる(impaled)というのである。ここでシンプソンは、自然主義的誤謬を、ヒュームのテーゼ違反をベースとしながらも、より広く、ある種の現状肯定の考え方としてとらえているように見える。(細かいことを言うと、ヒュームのテーゼはwhat is からwhat ought to be を導出することを禁止するものである。"What is ought to be."と一文にまとめられてしまえばそこには導出はなく、したがってヒュームのテーゼ違反もない。現状肯定の価値判断が前提なく述べられているだけである。ただ、"What is ought to be."が一般に成立することが認められるならこれを手がかりとしてwhat is からwhat ought to beを導出できるので、両者は無関係でもない。)ムーアの言う意味での自然主義的誤謬は、善と同一視する「別のもの」次第で現状肯定にも現状否定にもなりうるので、ムーアとはかなり方向性として異なる用法になっているといえるだろう。さらに、この引用の後半にはシンプソンの独自の考え方が見て取れる。自然主義的倫理を救うには、われわれが選択の自由を持つということを自然主義の枠内で認める必要がある、という考え方である。シンプソンの考える自然主義は、倫理を超自然的なものと結び付けないというかなりゆるやかな意味合いであり、この意味では現代のほとんどの倫理学者が自然主義者だということになるだろう。

シンプソンは他の箇所でも「自然主義的誤謬」という言葉を何度か用いているが、そのいずれにおいてもムーアの名前やムーアの議論への言及はない。ウォディントンにおいてはまだムーアのもともとの用法との繋がりはぎりぎり保たれていたが、シンプソンの議論においてはその最後の繋がりも断ち切られてしまっているように見える。

4 社会生物学論争と「自然主義的誤謬」の使われ方

ウォディントンやシンプソンの本が出版されたころは、倫理に興味のある一部の生物学者が進化と倫理の関係について考えている程度であった。しかし、シンプソンの本の6年後にまきおこった『社会生物学』をめぐる論争では、多くの生物学者が生物学と社会や倫理との関わりを考えることとなった。「自然主義的誤謬」という語はこの論争の中で繰り返し用いられ、生物学者が倫理問題について考えるときの定番の用語の一つとして定着していった。社会生物学論争そのものはよく知られているのでここであらためて紹介することはしない。ここではその文脈で「自然主義的誤謬」がどういう意味で使われたかを確認するにとどめる。

4-1 メイナードスミスの場合
発見できたかぎり、この論争の文脈で「自然主義的誤謬」という語が使われたかなり最初の方の用例は、ジョン・メイナード=スミスによるものである。メイナード=スミスはゲーム理論的進化論でよく知られているが、社会生物学についても積極的に発言している。彼は1975年8月のNew Scientist 誌上での『社会生物学』への書評の中で「自然主義的誤謬」という語を使っている(Maynard-Smith 1975)。

Where I part company is with his apparent belief that if we fully understand the nature of these selective forces, this would enable us to settle ethical questions. This seems to me to commit the "naturalistic fallacy" of supposing that one can deduce what one ought to do solely from a knowledge of what is the case. (わたしが彼[ウィルソン]とたもとを分かつのは、彼が、見たところ、もしこうした自然選択の力の本質を完全に理解したなら、それによって倫理的な問いに決着がつくと信じているように見える点である。これは、わたしには、何が事実であるかということについての知識だけから、われわれが何をなすべきかを演繹できると想定する「自然主義的誤謬」を犯して売るように見える。)

ここでメイナード=スミスは、特に何かの文献を参照するわけでもなく「自然主義的誤謬」をヒュームのテーゼと同一視しており、彼にとってはこれが自然な用例であったことが伺える。彼がこの言葉を使った背景は、1976年4月のNew Scientist誌に寄せた文章からうかがえる。こちらの文章で彼はウォディントンとウィルソンを比較しているが、その中でも「自然主義的誤謬」の概念に触れている(Maynard Smith 1976, p.121)。

The first response of philosophers to this argument was to say that Waddington was guilty of the "naturalistic fallacy", first pointed out by Hume in the eighteenth century. In step (iv) , he had deduced what ought to be the case from what is the case, and this, Hume argued, cannot be done.(この議論に対する哲学者の最初の反応は、ウォディントンは、ヒュームが18世紀に最初に指摘した「自然主義的誤謬」を犯している、と言うことであった。ステップ(iv)において、彼は何が事実かということからどうあるべきかということを演繹しており、これは、ヒュームが論じるところによれば、やってはならないことである。)

ここでいうstep ivというのはメイナード=スミスによるウォディントンのまとめへの言及で、ウォディントンの議論を4項目にまとめたうち、"any particular set of ethical beliefs can be judged according to how far they further this general evolutionary direction"という項目を指している。自然主義的誤謬の内容として書かれているのは75年の書評とほぼ同じ文言であり、内容的にはヒュームのテーゼにあたる。いずれにせよ、こちらの文章から伺えるのはメイナード=スミスが社会生物学論争に関連した発言をする上でウォディントンの『エチカル・アニマル』を意識していたということであり、自然主義的誤謬を内容的にヒュームのテーゼと結びつけるのも、おそらくウォディントンの記述を踏まえてのことなのだろうと推測される。ちなみに、メイナード=スミスはウォディントンにかなり共感的な立場を表明している。

4-2 ウィルソンの場合
『社会生物学』の著者であり、社会生物学論争の一方の代表者であるE.O.ウィルソンも「自然主義的誤謬」についての自己の見解を述べている。以下は、まずNew York Times Magazineへの1975年10月の寄稿の中の一部として書かれ、その後New York Review of Books に『社会生物学』への批判が掲載された際の反論の文章にも自己引用された文章である (Wilson 1975a; Wilson 1975b)。ちなみに、1976年にNew Scientistに寄稿した文章の中でもほとんど同趣旨のことを若干字句を変えて述べた段落があり、本人もそうとう気に入っていたことが伺える(Wilson 1976, p.345)。

さて、その一節の内容を見ることにしよう。初出のNew York Times Magazineでは、これは、さまざまな種における性的役割分担の例を挙げて人類の性的役割分担が遺伝的な側面を持つ可能性を示唆した直後の文章であり、エッセイの最後の二段落にあたる(Wilson 1975a, p.50)。

The moment has arrived to stress that there is a dangerous trap in sociobiology, one which can be avoided only by constant vigilance. The trap is the naturalistic fallacy of ethics, which uncritically concludes that what is, should be. The 'what is' in human nature is to a large extent the heritage of a Pleistocene hunter-gatherer existence. When any genetic bias is demonstrated, it cannot be used to justify a continuing practice in present and future societies. (中略)Genetic biases can be trespassed, passions averted or redirected, and ethics altered; and the human genius for making contract can continue to be applied to achieve healthier and freer society. Yet the mind is not infinitely malleable. Human sociobiology should be pursued and its findings weighed as the best means we have of tracing the evolutionary history of the mind. In the difficult journey ahead, during which our ultimate guide must be our deepest and, at present, least understood feelings, surely we cannot afford an ignorance of history.(ここに至って、社会生物学には不断の用心によってしか避けることができない危険な罠があることを強調すべきである。その罠とは倫理における自然主義的誤謬、すなわち、無批判に「事実そうであるものはそうあるべきだ」(what is, should be)と結論することである。人間本性における「そうであるもの」はかなりの部分まで更新世の狩猟採集生活の名残である。いかなる遺伝的バイアスが証明されたとしても、それは現在と将来の社会において継続的な実践を行うことを正当化するために使うことはできない。(中略)遺伝的バイアスは乗り越えることができ、感情は防いだり方向を変えたりでき、倫理は変えられる。そして人間が契約を発明する才能は、より健康でより自由な社会を達成するために今後も適用していくことができる。しかし、人間の心は無限に可塑的だというわけではない。人間社会生物学の研究は続けられるべきであり、その知見は心というものの進化史をたどる上で我々が持つ最善の手段として尊重されるべきである。この先の困難な旅において、われわれの究極的な指針となるべきはわれわれのもっとも深く、そして今のところもっともよくわかっていない感情である以上、間違いなく、われわれは歴史について無知でいていいというわけにはいかない。)

上の引用で「(中略)」としている箇所では、遺伝的バイアスが望ましくない具体例として、戦争をする傾向や子供をできるだけ多く生む傾向が、狩猟採集生活では適応的だったが現在ではむしろ破滅的であるということが挙げられている。

New York Review of Books 側での記述によれば、ウィルソンはこの原稿を8月にNew York Times Magazineに送ったとのことである。同月のメイナード=スミスの書評で「自然主義的誤謬」が使われているのを見て自らも使った可能性もあるが、そのあたりの前後関係や因果関係は当然ながらよくわからない。ちなみに、メイナード=スミスは1976年のNew Scientistの文章の中で、ウィルソンが「あるものが進化で生じたからという理由でそれが正しいと結論する議論を拒絶するということをはっきり述べた」として書評での非難をとりさげている(Maynard Smith 1976, p.122)。おそらくここで紹介したウィルソンの一節を自分へのリプライととらえてのことであろう。

ともあれ、この一節からは、ウィルソンはシンプソンと似たように、無批判な現状肯定として自然主義的誤謬を理解していることが分かる。自然主義的誤謬を「そうである」から「そうあるべきだ」を導きだす、という導出の形式ではなく、「事実そうであるものはそうあるべきだ」what is, should beと一文にまとめてしまうのはシンプソンの書き方(what is ought to be)を参照にしたのかもしれない。主張内容としてもウィルソンがここで述べていることはシンプソンに近い。われわれは進化によって獲得したメンタリティを意志の力で乗り越えることができるが、そのためにもそのメンタリティを生物学を使って理解しなくてはならない、というわけである。

ただ、ウィルソンが実際問題として生物学から規範を導き出すことに慎重だったかというとそこはあやしい。『社会生物学』ではウィルソンはそのあたりについて慎重だが、1978年の『人間の本性について』では、遺伝子の存続や遺伝子プールの多様性の保持や普遍的人権といった価値目標が社会生物学から導けると考えていて、まさにウィルソン自身が言う意味での「自然主義的誤謬」を犯しているように見える(Wilson 1978)。

4-3 用語の定着

メイナード=スミスやウィルソンら著名な生物学者が「自然主義的誤謬」という概念を使ったこと、とりわけ社会生物学論争の一方の当事者であるウィルソンが自説を弁護する文章の中で繰り返しこの概念を使ったことは、この概念を生物学者たちの間で定着させる上で大きな役割を果たしたであろう。

社会生物学論争に関連したさまざまな文書をまとめたカプランの『社会生物学論争』では、「自然主義的誤謬」が他の論者によっても使われるようになっていった様子を垣間見ることができる(Caplan 1978)。

この論文集の索引からたどると、ウィルソンのあと、B.D.デイヴィス、ニコラス・ウェイド、ルース・マッターン、ジョゼフ・アルパーら、などの文書で「自然主義的誤謬」という語が使われている(Davis 1976; Wade 1976; Mattern 1978; Alper et. al. 1978)。ウェイドとアルパーらはウィルソンの上記の記述を引用する形で「自然主義的誤謬」という言葉を導入している。デイヴィスは特に典拠などを引くわけでなく、自然主義的誤謬の内容としてヒュームのテーゼを提示している。マッターンは哲学者らしく哲学系の関連書籍を参考資料として挙げているのだが、興味深いのはそこでハドソンのIs-Ought Questionというヒュームのテーゼに関するアンソロジーを挙げ、「倫理的主張を事実的主張から導出することが可能なのかという問題」(whether it is ever possible to derive ethical claims from factual ones) とまとめているのである。つまり哲学における自然主義的誤謬という用語やヒュームのテーゼについての論争などを知った上で、あえて自然主義的誤謬をヒュームのテーゼによせて解釈しているわけである。

こうして多様な著者がこの概念を使う様子を見ると、社会生物学論争の中で、自然主義的誤謬という概念はヒュームのテーゼ違反を指す言葉として定着した(しかも哲学をバックグラウンドとする参加者もその用法に従った)と言ってよさそうである。カプランのアンソロジー自体もその定着に一役買ったかもしれない。このアンソロジーは上述のようにフルーの『進化倫理学』からの抜粋も含んでおり、社会生物学論争について知るために本書を手にとった読者はフルーの解説をとおして自然主義的誤謬という概念を理解することになる。それはすでに見たようにヒュームのテーゼに寄せた解釈である。


5 自然主義的誤謬の適切な用法とは

本稿において、自然主義的誤謬をヒュームのテーゼ違反として理解する解釈や、単なる現状肯定の価値判断を指すという解釈について「誤解」や「誤用」という表現は避けてきた。倫理学者が生物学者と意見交換をする際、生物学者が「自然主義的誤謬」をこれらの意味で使ったなら、倫理学者側としては「それは誤用ですよ」と言いたくなるところである。わたし自身も以前にはそういう言い方をしたことがある。ただ、本稿で見てきたような使い方の歴史を見ると、話はそう簡単ではない。

生物学者たちの間で、自然主義的誤謬という概念は半世紀にわたって意味やニュアンスの変化を伴いながら使われてきた。ウォディントンは自然主義的誤謬という概念が元来ムーアによる善の定義についてのものであることを認識していたが、ムーアの議論とヒュームのテーゼを総称する名前として「自然主義的誤謬」を使っていた。シンプソンの記述は、おそらくウォディントンを受けたものだとは思われるが、ムーアの議論の方が抜け落ちて、結果として自然主義的誤謬をヒュームのテーゼ違反として提示することになった。シンプソンはまた、「自然主義的誤謬」という概念を何度か使う中で、推論の要素を落として単なる現状肯定の主張になってしまった形の表現もしていた。こうした先行する議論をさらに受けて、社会生物学論争におけるメイナード=スミスやウィルソンは、ある種の共有知識として、自然主義的誤謬の概念をほとんど説明なく使っている。そこではヒュームのテーゼ違反や現状肯定判断としてこの概念が使われている。多くの生物学者が参加した論争においてこの概念がこのように使われたことで、自然主義的誤謬はこうした意味の用語として定着することになった。この来歴を踏まえるなら、冒頭の人間行動進化学会の声明における「自然主義的誤謬」も、現状肯定判断としての解釈のバリエーションであることが見て取れる(「自然」という言葉に生物学よりのニュアンスを強く与えている点がひねりとなっているが)。また、この40年については、あまり意味の変遷が起きていないことも伺えるだろう。このように定着した用法は、もはや誤用ではなく別の用法としての地位を認めるという判断も十分可能だと思われる。私自身、以前に行った発表で、メタ倫理学におけるもとの用法を「自然主義的誤謬α」、生物学者たちがよく行うヒュームのテーゼ違反としての用法を「自然主義的誤謬β」と呼ぶことを提案した(伊勢田2019)。

もしも生物学者たちが「ムーアの自然主義的誤謬」としてヒュームのテーゼ違反を紹介していたとしたら、これはムーア解釈として誤っている、という言い方は可能だっただろう。しかし、よくも悪くも、シンプソンもメイナード=スミスもウィルソンもまったくムーアに言及せずにこの概念を使っている。ムーアを解釈しているわけではなく、ムーアが使ったのと同じ概念を別のしかたで使っているだけだ、という言い方は可能である。

最初の方で紹介したフルーの用例は、こうした当初の用法からのずれが、単なる不注意ではなく、意図的にずらした面もあることを示している。フルーのムーアの捉え方が正当かどうかは別として、ムーアの用語法がわかりにくいのは確かであり、せっかくの概念をより有効に使いたいというのは別の用法を提案する理由としてもっともなものであろう。生物学者たちの用法(特にある程度哲学者の議論を踏まえた初期のウォディントンやシンプソンの用法)も、フルーの提案を直接うけたものかどうかは別として、改善のための提案という面がある可能性はある。「ヒュームのテーゼ」という名前からは、「である」から「べきである」を導き出すのが誤謬だという内容は連想しにくく、むしろ「自然主義的誤謬」と呼ぶ方が「自然」だというのは、まあわからなくはない(そういう場合はすでに確定した意味を持つ用語の流用ではなく別の用語を作るべきだと思うが)。マッターンの「自然主義的誤謬」概念への態度(哲学における議論の流れを把握した上であえてヒュームのテーゼ違反として解釈する)もその流れで理解することは可能である。生物学者たちの用法にそうした改善案としての側面があるのなら、判断すべきは誤用かどうかではなく、改善案としてリーズナブルかどうかということだろう。

さて、では「自然主義的誤謬」をヒュームのテーゼ違反や現状肯定の価値判断の意味で使うことはリーズナブルなのだろうか。実はわたしは正直あまりリーズナブルではないと思う。

一つには、用語のもたらす混乱の問題がある。倫理学者と話をするときに、言葉の用法で必ずひとくさりこうした議論が必要になるというのは、それ自体あまり好ましいことではないと思われる。また、自然主義という言葉は「自然主義的誤謬」という連語以外の場面でも非常に多様な場面で多様な意味で用いられていて、その面からも誤解を招かずにはおかない。

しかし、第二に、もっと重要なこととして、この「自然主義的誤謬」という用語については、それ以上に、論じたいことと用語との間にずれが生じてしまっているように見える。冒頭の人間行動進化学会の声明を見返して気づくのは、「自然の状態」という、シンプソンやウィルソンなどの「自然主義的誤謬」の定式化に直接登場しない要素が付け加わっていることである。これは決して偶然ではなく、生物学者にとってずっと問題になってきたのは、ヒュームのテーゼで言うような、「である」一般ではなく、人間の生物学的な本性などの「自然」であった。むしろ、「である」一般を対象とするヒュームのテーゼ違反として「自然主義的誤謬」を解釈することで、その意味での「自然」が宙にういてしまっている。

こうした、生物学的な「自然さ」から規範を導き出す議論には、別の名前がある。「自然さからの議論」(argument from naturalness)というものである。これは、あることが「自然」であることを論拠として「そうあるべきだ」と結論する議論であるが、この「自然」をどう解釈してもあまりにも直観に反する事例が多く発生するので、一種の誤謬推論とみなされている(伊勢田2008の第二章などでこれをとりあげている)。この概念を使ったほうが、よほど論じたいことの本質をとらえた議論になるように思う。
ということで、本稿の結論としては以下のようになる。「自然主義的誤謬」という概念の使用の歴史と定着の度合いからいえば、生物学者による用法は誤用とはいえない。しかし、用法としてあまり好ましくない面があるので、できれば「自然さからの議論」など、問題の本質にそった、混乱のおそれの少ない用語法を使った方がいいのではないだろうか。


文献

Alper, J., Beckwith, J and Miller, L.G. (1978) "Sociobiology is a political issue" in Caplan ed. 1978, pp. 476-488.
Caplan, A. L. ed.(1978) The Sociobiology Debate. Harper and Row.
Davis, B.D. (1976) "A middle course between irrelevance and scientism" Hastings Center Report. reprinted in Caplan ed. 1978, 315-318
Flew, A. (1967) Evolutionary Ethics. Macmillan.
Hare, R.M. (1952) The Language of Morals. Oxford University Press.
Mattern, Ruth (1978) "Altruism, ethics, and sociobiology" in Caplan 1978, pp. 462-475.
Maynard-Smith, John (1975) "Survival through suicide" New Scientist vol. 67 no. 964, pp.496-497.
Maynard-Smith, John (1976) "Ethics and human evolution," New Scientist vol.70 no.996, 120-123.
Moore, G.E. (1903) Principia Ethica. Cambridge University Press.(ムーア『倫理学原理』深谷昭三訳、三和書房 1973。訳文は邦訳によらず新たに訳し直した)
Simpson, G.G. (1966) "Naturalistic ethics and the social science," American Psychologist 21, pp. 27-36.
Simpson, G.G. (1969) Biology and Man. Harcourt, Brace & World.
Waddington, C.H. (1960) The Ethical Animal. The University of Chicago Press. (ウォディントン『エチカル・アニマル: 危機を超える生命の倫理』内田美恵ほか訳、工作舎 1980。訳文は邦訳によらず新たに訳し直した。)本稿においては原著は1975年のMidway Reprint版を参照した。
Wade, Nicholas (1976) "Sociobiology: troubled birth for new discipline," Science 191, 1151-1155. reprinted in Caplan ed. 1978, 325-332.
Wilson, E.O. (1975a) "Human Decency is Animal," The New York Times Magazine, Oct. 12, 1975, pp.38-50.
Wilson, E.O. (1975b) "For sociobiology" New York Review of Books, December 11, 1975.
https://www.nybooks.com/articles/1975/12/11/for-sociobiology/
Wilson, E.O. (1976)"Sociobiology: a new approach to understanding the basis of human nature," New Scientist vol.70, no. 1000, pp.342-345.
Wilson E.O. (1978) On Human Nature. Harvard University Press.

伊勢田哲治(2008)『動物からの倫理学入門』名古屋大学出版会
伊勢田哲治(2019) 「科学的な内容の議論における「文脈の分業」の必要性」日本動物行動学会第38会大会 ラウンドテーブルD「行動生態学のアウトリーチにおける“炎上”を考える」発表、大阪市立大学にて、2019年11月24日






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June 17, 2020

井上さんの書評へのお答え

翻訳家の井上太一さんが『マンガで学ぶ動物倫理』の書評を公開された。

井上太一さんは動物擁護運動(わたしは包括的な名称として「動物保護運動」を使っていますが、ここでは井上さんの表現をお借りします)関連の書籍の気鋭の翻訳家であり、私も井上さんの訳された本はいくつも参照させていただき、勉強させていただいている。そうした方にわれわれの本を評していただけるのは大変ありがたいことである。
以下、井上さんが批判的なコメントをされている箇所にしぼってお返事を書きたいと思う。

動物実験をめぐる本書の説明は、あたかも国内外における動物実験の規制が、実験業者によって積極的に進められてきたかのような印象を与える。

19世紀から20世紀初頭のフランセス・コビーらの動物実験反対運動は当時の動物擁護運動の主流になることができず、運動として停滞したというのがわたしの認識です。ラッセルとバーチ以前についての記述はそれをもとにしています。ラッセルとバーチの動物実験に関する研究や書籍はそうした外からの圧力が空白になっている時期に行われていて、それを実験者側の自主的な運動として記述しないのはむしろ実験者の側に対してアンフェアです。「ようやく動物実験の規制が進められだしたのは、ヘンリー・スピラをはじめとする卓越した活動家たちの努力が社会の問題意識を喚起した後のことであり」とありますが、ラッセルとバーチの3つのRがスピラの活動より前に提案されているということを井上さんはどう捉えるのですか。
もちろんそれがすぐに動物実験業界の具体的な規制にならなかったというのはそのとおりですが、そのこと自体「直後にはほとんどインパクトがなかった」「動物の権利運動が登場して状況が変」わったとしてわたしの解説に書いてあります(42ページ)。もっと書けということなのでしょうが、そこは井上さんとわたしのバランスのとり方の違いだと思います。

これらは日本の科学業界が動物福祉を徹底している、との誤解(致命的な誤解!)を初学者に与えかねない。

この論点は書き方が難しいところです。井上さんもご存知のとおり、動物実験をする研究者の側では、日本では各動物実験機関が内容的に欧米と同等の動物実験指針を設けていてきちんと運営されているので、法律レベルで細部を規定する必要はないのだ、という見解の方が多くいます。(そういう方に対して「でも動物実験委員会に外部の委員は入っていませんよね」と言っても、外部委員の重要性というものについて認識を一致させるのはなかなか大変です。)そういう人からすれば、井上さんがここで書かれているようなことだけ書けば、「日本の科学業界が動物福祉についての規制を行っていないという致命的誤解を初学者に与えかねない」と感じるでしょう。ここは、対立する2つの立場の方たちが認識のすりあわせを始めることすらまだできていない領域だと思います。そこに踏み込むのはこの短い解説では避けざるをえませんでした。

私見では、これは絶対に実験業者が勝つ論理となっている。

これも、動物実験を実施する側と批判する側で、状況がぜんぜん異なって見える箇所だと思います。わたしとしては両方の視点を往復しながら書こうとした箇所ではありますが、たしかに実験者側の視点からの記述が多めになっているかもしれません。ただ、こうした記述をしている意図は、実験者側を弁護するというよりは、彼らからは状況がこんなふうに見えているのだ、ということを踏まえて、批判する側にもより建設的な対話のきっかけをつかんでもらえないかという願いからです。井上さんから「勝手な不信を口実」にしていると見えるものは、実験者側からは、彼らが直接・間接に見聞きしたことへの自然な反応と感じられています(というのがわたしが動物実験をされる方たちと話した印象です)。そのギャップはすぐには埋まらないでしょうが、もしギャップを埋めようと思うなら、まずギャップがあることが共有されなくてはなりません。
「実験業者が勝つ論理となっている」という井上さんの感想は、このくだりを書いた意図が井上さんに伝わっていないということで、大変残念だと思います。そもそも勝ち負けに直接つながる話をしているつもりはありません。

「動物実験廃止運動団体も含めたステークホルダーとの会合を定期的にもち、その結果として動物実験廃止を決定している」(p.54)という。これだけを読むと、あたかも資生堂が率先して動物実験の廃止に取り組み、動物団体に意見を求めてきたという印象を受けるに違いない。(中略)動物実験の廃止を達成したのは草の根の市民である。それを資生堂の自主的な努力のように思わせる記述は、不正と闘ってきた人々の貢献を歴史から葬ることになるだろう。

この一文からそういう印象を受けるでしょうか。私自身はだれかがこういうことを書いていたら「資生堂のような大手がそういうことをするとはいろいろあったんだな」と思うだろうと思います。わたしはもしかしたら読者のそうしたことへのリテラシーを高く見積もりすぎなのかもしれません。
いずれにせよ、私自身が積極的に「資生堂が率先して動物実験の廃止に取り組んだ」という記述をしているわけでもないのに、その書いていないことを読み取って、そのことについて「不正と闘ってきた人々の貢献を歴史から葬る」ときつい言葉で反応するのは、わたしには少し難癖のように見えます。

私には施設の内情暴露や実験者の告発がなぜ「過激」なのか分からない。

確かに本文と注の対応関係がちぐはぐになってはいると思います。「過激な活動」というのなら、むしろ動物解放戦線の名前で行われる放火や施設爆破を例に挙げるべきでしたね。ただ、そういう明確な破壊活動については調べても背後関係がよくわからないところがあって、事例としては避けて話を進めてしまいました。

その同じ施設の職員らによる動物の扱い――拘束、監禁、打撃、切断、強制水泳、毒物注射、疾病誘発、放射線照射、電気ショック、ギロチン――は何と形容すればよいのか。

批判する側からは意味のない拷問のように見えるものが、実験者の側からはまったく違って見えています。井上さんの立場からそのようにおっしゃるのはわかりますが、その言い方で語りはじめたとき、動物実験について建設的な対話をするのはとても困難になると思います。最終的には動物実験反対運動から動物実験がそう見えているということを動物実験者の側に腑に落ちてもらいたいわけですが、それをちゃんと聞いてもらうというのはとてもデリケートな作業です。

なお、活動家が施設から奪った動物を逃がすという記述は誤解を招く。動物は良心的な里親に保護されるのであって、無責任に野に放たれるのではない。

そうですね。では「動物を逃がす」を「動物を盗む」と言い換えましょうか。主観的には保護の活動でも法律的には窃盗です。

動物園の起源を考える場合は、王侯貴族が植民地や征服地の珍しい動物を蒐集品として囲い込んだ私有動物園(menagerie)の歴史までさかのぼらねばならないと思われる。

動物園にそうした前史があるのはたしかにそのとおりですね。ただ、もちろんそれはzooと名付けられた時点で、意識的にそうした前史と一線を画す形で「動物園」が構想されたということでもあります。井上さんの言うような側面を強調するならば、今度は動物園の側からは「王様の趣味と一緒にされるのは迷惑」という反応がかえってくるでしょう。

私見では、本書の記述はなるべく中立的であることに努めながらも、結果としては動物産業に好意的となっている印象がある。おそらく動物倫理に「中立的」な記述はありえない。

おっしゃるとおり、動物倫理に限らず、倫理問題において「中立的」な記述は、それ自体が一つの立場とならざるをえないと思います。そして、井上さんから本書を見たとき、「動物産業にずいぶん好意的だな」という印象をもたれるのはそれは自然なことだと思います。そしてまた、動物実験をされる側からは、この本は動物実験反対運動にずいぶん好意的だと見えていると思います。そうしたいろいろな視点を意識しながらわたしが選んだバランスがここだったということです。

両論併記という形で、搾取肯定派の主張と搾取否定派の主張を同列に並べ、どちらも同程度に妥当でありうることを示唆すれば、それは結果として搾取の容認となる。

そもそも動物実験を「搾取」と捉えるべきかということについて、動物実験反対運動の側とそれ以外の世間一般との間で大きなずれがあります。これもまた、井上さんからは当然そう見えるだろうし、世間の多くの人からはまったく違って見えるところだと思います。
ただ、本書でやろうとしていることの理解ということになると思いますが、「どちらも同程度に妥当であることを示唆」しているつもりはありません。対立する主張の妥当性を比較検討する前に、それらの主張がどういう文脈で、どういうふうにその問題を見ることから行われている主張なのかということを理解する必要があります。動物実験反対運動側が動物実験をどう捉えているかは、すでにさまざまな書籍があり、比較的容易に知ることができます。他方、実験者の側から問題がどう見えているかは、実験者たち自身がほとんど語らないこともあって、外部の人間にはよくわかりません。本書で主にやろうとしているのは、そうした見えにくい立場もふくめていろいろな「見え方」を共有することです。


したがって私が願うのは、本書を読んで動物を取り巻く倫理問題を知った人々が、今度は明確に動物擁護の視点から書かれた書籍へと進んでほしいということ、そして、動物倫理に関し日本で唯一無二の知識を持つ本書の著者・伊勢田氏が、そのような動物擁護論のテキストを編んでほしいということである。

動物倫理については若手の研究者の方たちが育っていて、その方たちの方がよほど動物倫理の現状についてはよく知っていると思います。わたしが「唯一無二の知識を持つ」というのは過大評価です。

こうして井上さんにフランクにコメントをいただけたのはとてもありがたいことだと思います。井上さんとわたしでは、このやりとりからも分かるように立場も問題の捉え方もかなり違うのですが、対話も、そして一致できるところがある場合には協力も可能な範囲内での「ずれ」ではないかと思っています。今後もお付き合いいただければ幸いです。





iseda503 at 13:07|PermalinkComments(2)

March 03, 2020

『〈現在〉という謎』の感想

編者の森田さんよりご恵贈いただいた。

 最近はいただいた本でもなかなか読む時間がとれず、お礼もままならないことが多い。しかし、本書については著者の一人である谷村さんが追加の論考「一物理学者が観た哲学」を公開され、著者間でかなりの行き違いが生じているらしいことがわかった。哲学者と科学者の対話は私にとっても大きな関心事であるので、本書を通読して感想を述べさせていただこうと思った。
 そういう経緯であるので、以下の感想は谷村さんのノートに触発されて書き始めたものである(ずいぶん時間がかかってしまったが)。しかし、今回の感想は『〈現在〉という謎』の本に限定して書いており、谷村さんのノートの内容や、谷村さんのノートにさらに反応していろいろな人が書いたものは念頭においていない。谷村さんのノートではわたしのことも言及していただいていたので、それについてはまたあらためてお返事を書こうと思う。

 本書のテーマとなっているのは形而上学よりの「時間の哲学」で、これと別に科学哲学の一分野としては相対論を前提として時空の存在論などを検討する「時空の哲学」がある。この2つの分野は大変相性が悪いので、哲学の外の人を巻き込む前に、哲学を専門とする同士で認識のすりあわせなどやってはどうかとは以前から思ってはいた。しかし、国内に時空の哲学の専門家がほとんどいないこともあって、今回の企画はいきなり時間の哲学を物理学者にぶつける形になったようである。その「ワンクッション」がなかったことが、谷村さんがノートを書かざるをえないような行き違いの原因になったのかもしれないとは思う。
 それはともかく、本書は各章の独立性が高いので、それぞれの章について以下感想を述べていく。

第1章 物理学における時間ーー力学・熱力学・相対論・量子論の時間

 物理学における時間と一口にいっても、物理学の中のそれぞれの分野で「時間」というものの現れ方、使われ方は多様である。谷村さんは非常に手際よく、力学、熱力学、相対論(特殊、一般)、量子論のそれぞれで時間がどのように扱われるかを紹介していく。それに続いて、「現在だけが存在する」という現在主義という立場は相対論的な時間の捉え方からすれば意味不明であるという率直な感想が述べられている。谷村さんの立場からすればそれはそうだろう。

 佐金さんの谷村さんへのコメントは、現在主義の主張内容をできるだけ簡潔に正確にまとめようという趣旨の文章としては非常によく書けていると思う。しかし、谷村さんに向けたコメントとしては努力の方向性を間違えているように思われる。佐金さんが「小さな誤解の可能性」(p.33) という論点が、おそらく単なる誤解ではなく、もっとも説明を要する部分だろうと思われる。特殊相対論の観点からは絶対的同時性など意味不明だというのが谷村さんが強調している論点であるし、左金さんもそういう批判の存在はよく知っているはずで、以前の著書『時間にとって十全なこの世界』では特殊相対論を使った批判に現在主義がどう答えるかということをかなりの紙幅を使って論じている。そこでの議論を谷村さんむけにカスタマイズして使えば、もう少し、話がどう噛み合っていないのかについての相互理解が深まったのではないか。
 ただ、佐金さんの著書の方でも、科学理論とはまったく独立な主張として絶対的同時性が存在する余地があるというところが着地点になっていて、これだけでは当然谷村さんは納得しないだろう。その同時性はどういう同時性なのか、どういう根拠からその意味での絶対的な同時性が存在すると推測するのか、われわれの日常的な感覚が根拠なのだったらそれは錯覚ではないとどうして言えるのか、といったあたりについての積極的な説明を試みる必要はあるだろう。
 わたしの理解では、現在主義をはじめとする非永久主義的な時間論をささえる体験は、谷村さんが推測するような「わたしは今ここにいる」という感覚ではなく、どちらかというと「時間はいやおうなく流れていく」という感覚ではないかと思う(そもそもこの分野の出発点となったマクタガートの時間論も、この「流れる時間」が物理学に出てくる時間とあまりに相性が悪いことを指摘するものだった)。そういう切り口ででも応答していれば、だいぶ谷村さんの反応も違ったのではないか。
 あと、これは佐金さん自身のスタンスではないことは承知した上での感想だが、現在主義者の中にはネオローレンツ主義を標榜して、相対論と経験的に同値だが絶対時間の存在の余地があるような物理理論を模索している人たちもいることは紹介してもよかったのではないかと思う。

 もう一つ、佐金さんが説明すればよかったと思うことが、五感と理論の優先順位の問題である。物理学の立場からいえば、さまざまなやり方で繰り返し検証され、技術的な応用にも成功している物理理論は何よりも確実なものであり、五感から得られる情報がそれと食い違うというならおかしいのは五感の方だ、ということになるかもしれない(谷村さんがこのまとめ方に同意するかどうかはご本人にうかがう必要があるが)。
 それに対し、哲学的な認識論では、われわれは五感を通してしか世界について知ることができず(五感に加えて「理性」やら「直観」やらが世界についての知識を与えるかという問題はもちろんあるがそれをとりあえずおくならば)、五感を通して見えるもの(現象)からどうやってその背後の世界についての知識を得るのか、われわれはどうやって世界について知っていると言いうるのかが問題となってきた。デカルトのデーモンはまさにそうした問題構成になっている(われわれが五感を通して得る情報がすべてデーモンの与える幻覚のようなものかもしれないという可能性をわれわれは排除できるのか)。
 この伝統的な認識論の観点からいえば、どんなによく検証された科学理論も、最終的にはその確実さの根拠をわれわれの五感の確実さに頼っている(実験そのものは精巧な実験装置で行われるにしても、その結果をわれわれが取り入れて理論の取捨選択に用いるためにはどこかで五感を経由する必要がある)。こうした伝統的な認識論の枠組みで考える者にとっては、物理理論は五感を通してわれわれが得た情報に基づいて受容された二次的な存在だという感覚があると思われる。すると、物理理論の教えるところと五感から得られる情報が食い違っても、どちらも究極的には五感に依拠しているわけだからどちらを採用するかはまた別の問題、というようなスタンスも出てくるだろう。
 これは実質的な事実関係についての食い違いではないだろうが、話が噛み合わなくなる理由としては十分だろう。

 谷村さんのリプライを読むと、佐金さんのコメントがコミュニケーションとしてまったくうまくいっていないことを感じさせられる。谷村さんのリプライのかなりの部分が、佐金さんが主張していないこと(そして、「こういうことを主張しているわけではないですよ」と明示的に述べていること)や、佐金さんもすでに認めていることについての立論で占められている。
 もう少し具体的にいうと、第5節で谷村さんが解説している絶対的同時性の相対論的な不可能性についての解説は、佐金さんもほぼそのまま受け入れるだろう。物理学の中でニュートン力学的な絶対時間が否定されていることは佐金さんも重々承知しているからこそ、「現在主義のテーゼは絶対空間や絶対時間といったニュートン流の考え方を前提としていない」ので「仮に後者[古典物理学]が否定されたとしても前者[現在主義から帰結する絶対的同時性]の妥当性に影響しない」(p.33)と断っているのである。
 第7節は、「絶対的同時性は物理的方法では絶対に検出できない」(p.51)ことを言葉を尽くして説明しているが、佐金さんはこれにも別に反対はしていない。谷村さんがそこで引用する「絶対的同時性が存在しないことまで証明されたわけではない」という佐金さんの主張には、検出可能性についての言及はなにもない。佐金さんが物理学的な方法で検出不可能なものとしての絶対的同時性について語っているという可能性はこの節でちょっとだけ考慮されているが、谷村さんにとってあまりに不可解な態度だったせいか、簡単に却下されてしまっている(これは佐金さんのコメントがちゃんとそこに焦点をあてていないのが悪いと思う)。
 第8節で「めいっぱい好意的」に解釈された現在主義は、主観的に感じる「いま」を根拠としたもので、佐金さんが明示的に現在主義はそういう主観的な現在の話をしているのではないと言っている(谷村さんもリプライの最初の方でそこを引用している)のに、なぜこれが「好意的」な解釈として出てきてしまったのだろうか。その原因の一つは、やっぱり佐金さんが谷村さんが現在主義を理解する手がかりとできるような素材をほとんど与えてくれていないことではないかと思う。物理的な方法で検証できず、主観的な「今」とも関係のない絶対的同時性なんてものの存在になんでそんなに自信を持てるのか、そこの自信の源を見せてくれないから、谷村さんは自分にわかる範囲で現在主義を再構成しようとせざるをえないわけである。

 谷村さんのリプライの中でちゃんと話が噛み合っている箇所は、結局、「「絶対的同時性」という言葉を虚しく発しているだけである。科学の埒外だとおっしゃるなら、その通り、絶対的同時性は、まさしく科学の埒外の問題であり、物理学者がとやかくいうのは無粋であった」(p.48)という箇所と、「そのような、観測不可能な絶対的同時性であれば、あっても無害だし、まさに形而上学的絶対的同時性と呼ぶのがふさわしいし、この世界とは無関係だと私は思う」(p.52)という箇所など、数箇所だと思う。佐金さんがこれらの谷村さんの感想にどう答えるかは私には分からない。でも、現在主義は実験や観測には原理的にかからないような世界の基本的なありかたについての立場なので、「この世界とは無関係」ではないだろう。そして、こういう話題を物理学者にふった哲学者側の意図としては、「物理学者は実験で確かめられないような「科学の埒外」の問題に本当に興味ないんですか?」ということについて一緒に議論したかったのだと思われる。そして、そこに話をうまく誘導できていないのはどちらかといえば哲学者側の責任だろう。

 こんなふうにコミュニケーション不全がおきる一つの理由として、お互いどれだけ意識しているか分からないが、「意図せざる挑発の連鎖」みたいなものが対話を難しくしている面もあるだろう。現在主義が前提とする「現在」の概念が「ひどく近視眼的な、前近代的な思い込み」だとか「粗雑・素朴な概念」だとかという谷村さんの感想(p.25)は谷村さんの立場からは、誰かを挑発するつもりでもなく素直な感想を述べられただけだと思うが、およそ素朴とはかけ離れたテクニカルな議論の果てに現在主義を主張している佐金さんにとっては「こいつ挑発してきたな」と感じるには十分だっただろうし、佐金さんの文章があまりフレンドリーなトーンでないのもそのあたりに原因があるかもしれない。
そして、佐金さんは別に谷村さんを挑発しようとしてコメントを書いているようではないのだが、谷村さんから見たら挑発的に見えるかもしれない箇所がそこここにある。たとえば絶対的同時性が「科学の埒外」だと繰り返し述べている点については、科学の限界を科学者でもないものが勝手に決めているようにも見える(結局谷村さんも絶対的同時性が科学の埒外であるという結論には言葉の上では同意しているのだが、こちらは字面の上では同じ言葉であっても「科学のまないたにのらない哲学者の妄想」みたいな逆の否定的ニュアンスがあるようにもきこえる)。
 それ以上にたぶん谷村さんを刺激したのが、道具主義をめぐる佐金さんのコメント(道具主義の「コスト」、「道具主義の暴走」、「悪しき実用主義」などいずれもP.36)である。正直なところ、谷村さんと同じく、わたしも佐金さんがここで何を心配し、何を暴走だととらえ、何に「一言」おそれながら述べているのか、よく分からない。佐金さんの心配が先走りすぎていて地に足がついていないように私にも見える。ただ、「物理学者は本当にそのコストを理解しているのだろうか」という言い方をしているために谷村さんは自分あてに書いていると解釈したようだが、文脈からいえばこの物理学者はマーミン個人を指していると思う。佐金さんとしては、自分の道具主義的時間論が物理学の捉え方としてかなり極端であることを自覚しているために、なまじマーミンのようなちゃんとした物理学者がそれと同じようなことを主張すると、「こんなクレージーな哲学者の考えにそんな気軽に賛同しちゃっていいの?」と心配になるというわけである。また、科学的実在論への「一言」は、哲学の一つの立場としての科学的実在論にあてたものだから、ここ以下は物理学者はまったく関係ない。たぶんそうした文章のニュアンスや宛先がまったく谷村さんに伝わらず、物理学者全員に対して上から目線の決めつけをしておせっかいな忠告をしているように読まれてしまっている。これはかなりの部分まで誤読だと思うけれども、そう誤読させるようなトーンが佐金さんの文章全体にあって、それが「意図せざる挑発」を生んでいるのかもしれないと思う。
 谷村さんのリプライはかなり激烈な調子で書かれている(とわたしには受け取れる)が、これはさすがに意図した挑発だろう。しかし、それは谷村さんの側から見れば「売られた喧嘩を買っている」のだろうと思う(そして佐金さんの立場からすれば、喧嘩を先に売ったのは谷村さんの方だということになる)。

 もう一点、注意しておいた方がいいと思ったのが、永久主義の理解の仕方である。谷村さんは「永久主義における存在の概念が「観測の仕方に依存せずに客観的にあるはずだ」という素朴な存在概念であれば、永久主義は間違っていると私は思う」(p.41)という。谷村さんが間違っていると述べている主張は、(わたしが理解する意味での)永久主義が主張しようとしていることではないと思う。量子力学的な重ね合わせなどの理由である時点tにおいてある物理量の値が確定していないのであれば、「tにおいてその物理量の値は確定していない」ということが確定した永遠の事実として成り立っている、というのが永久主義の主張である。こうまとめた上での永久主義には谷村さんは同意されるのではないかと思うのだがどうだろうか。
 ただ、谷村さんの言い方の中には、実際永久主義に同意していないように聞こえる箇所もある。たとえば、谷村さんは「現象は、いつどの段階で取り消し不可能な事象として確定するのか」(p.26)という問いをたて、暫定的な答えとして、「不確定な量子システムが、古典的システムすなわち古典的測定器と接触して、不可逆に痕跡・記録を残すことによって、現象はじわじわと既定事項になっていくのかもしれない」(p.27)とのべる。別の箇所では谷村さんは「未来の出来事は確定せず」(p.41)といった言い方もしている。
 この「じわじわと既定事項になっていく」という言い方は、「変化」というものがあることを前提としたものいいに聞こえる。「さっき」が「現在」だったときには未確定だったけれども、「いま」の「現在」においては確定している、というように変化をとらえる場合、この「現在」がどのようにかして時間軸上を動いているわけで、この動いている「現在」こそが特権的な現在(この本の表記法では〈現在〉)だということになる。「未来の出来事は確定せず」といのも、もしこの世界についての客観的な主張であるとするならば(つまり、これがある時点における観察者の無知についての主張でないのなら)特権的な現在を前提とする。未来の時点t2のことが確定していないというのはあくまでそれよりも過去にある時点t1の視点から言えることであって、t2よりもあとのt3の時点からはt2の出来事は確定しているはずである。したがってこの世界においてt2で何が起きるかが「まだ確定していない」という主張が(t1におけるローカルな無知としてでなく、世界についての事実として)客観的なものとして成り立つのなら、それはt3よりもt1の視点の方が何らかの意味で優位であるということを含意する。
 他方、永久主義の観点からいえば、ある時空点において「現象が確定していない」という状況が成り立ち、その近傍の別の時空点で「現象が確定している」という状況が成り立っていて、両者が並んでいるという以上のことではない。道路沿いにラーメン屋とカレー屋が並んでいても「ラーメン屋がカレー屋に変化した」と言わないのと同じことで、時間軸沿いに「確定していない状態」と「確定している状態」が並んでいても、(永久主義的な観点からは)「確定していない状態が確定している状態に変化した」と言うのは不適切である。t1とt2の関係についても、空間との比喩でいえば、地点p1から見通せない地点p2に何があるかp1から見てわからなくても、「p2に何があるかは確定していない」という言い方は(われわれの無知についての主張としてでなければ)しないだろう。
 ちなみに、脱線になるが、私自身が暫定的に採用したいと思うのは「多世界」永久主義である。これは、この宇宙は過去から未来にわたってずっと重ね合わせの状態で存在していて、時間がたったように見えるのも「今」が特別な「今」に見えるのも重ね合わせが収縮して物理量が確定した値をとったように見えるのもすべてわれわれの心がそう見せているだけだという立場である。多世界バージョンの永久主義をとるメリットは、「波束の収縮」といういかにも「変化」らしい変化をこの世界に持ち込まずにすむ点にある。あらゆる時点において、観測が行われようが行われまいが、重ね合わあさった物理量は重ね合わさったままである。この場合、説明されるべき謎は物理学の側ではなく認知科学の側にある。「なぜ我々は単なる時間軸上の並列を変化として経験するのか」「なぜわれわれは重ね合わさった物理量を確定した値として経験するのか」を説明すればいいと考えるわけである。


第2章 時間の問題と現代物理

 ここの筒井さんの解説は、物理学の予備知識のない人むけのレクチャーとしては不親切ではないかと思うところもあるが、解説されている内容は標準的なことがらだと思うし、示唆にも富む。時間の矢をエントロピーによって説明しようという考え方への批判(ローカルにはエントロピーが増大しないこともあるし、エントロピーが極大化しても局所的な変化は起こりうる)は、もっともな指摘である。

 小山さんのコメントともかさなるが、筒井さんが「時間が逆行する」というときに何を想定しているのかがもうひとつクリアではない。小山さんへの返答にある「状態変化が我々が実際に観察する変化とは逆の方向に変化する場合」(p.92)という表現でも、その逆の方向の変化がいつどういうときにおきることについて論じているのかがクリアではない。時間の矢についての問題設定のところでは「時間軸の方向には移動の方向と速度が固定されていて自由に移動できない」(p.74)のはなぜか、という形で問題がたてられていて、方向が固定されているということの言い換えとして「現在から過去にさかのぼることはできず」という言い方もされている。だとすると、ここで言う逆行は、一度経験した過去へ(テープを巻き戻すように)戻るという経験をすることを指すのだと思われる。
 それに続いて検討されるのは、運動方程式やシュレーディンガー方程式が時間反転させても成立するということで、「時間順行状態が存在するなら、その逆行状態も(周囲の環境が許せば)かならず存在する」(p.76)ことをもって時間の矢の問題についてこれらの方程式の観点から答えるのは困難だと筒井さんは言うのであるが、この議論はよくわからない(別にこれを筒井さんが言い出したわけではなく、時間の矢について話すときに運動方程式の時間反転対称性などを持ち出すのが定番だというのは承知した上で、ここでは筒井さんが書かれているので、筒井さんへのコメントとして以前からの疑問を書かせてもらっている)。
 そもそも、逆行状態が「かならず存在する」というが、どこにどういう形で「存在する」のか。この宇宙の中に必ず存在するのか(本当にそんなことが言えるのか)、物理的に可能なプロセスがすべてカバーされるような可能世界の集合を想定したときにそのどこかに存在するのか。このいずれかであったとしても、テープを巻き戻すような体験としての「時間の逆行」をわれわれが経験することにはならない。適切な場所、適切な時点ではじまらないとそれは「時間の逆行」としては経験されないだろうけれどもそういう適切な場所に「存在する」ことが「かならず」とはさすがに言えないのではないだろうか。
 もう少し一般論として考えても、この意味での逆行が生じるかどうかと基礎方程式が時間対称的な形式かどうかというのはそんなに直接的に結びついていないように思われる。この意味での逆行を経験するということは、たとえばある方向に等速直線運動をしていた物体が突然逆方向に運動の向きを変える(符号だけ逆の同じ運動を逆向きに行う)ということだと思うが、外力なしにそんなことがおきないのは運動方程式によって保証されていて、それには運動方程式が時間対称的かどうかということはあまり関係しない。あるいは、状況をうまく設定すれば、ある時点tを境にしてその前とあとがまったく対称になる系をつくることができるかもしれないし、それがニュートン物理学の範囲内で可能であるということは運動方程式の時間対称性からいえそうではある。そういう系を見たときにわれわれは「時間が逆行している」と言いたい気持ちになるかもしれないが、よく考えればその系にとってすらも時間が逆行しているわけではなく、時間が逆行しているような気がするようにうまく系を組み立てただけだと判断するだろう。
 こういうナイーブな問いかけをすると、「いや、時間の逆行とはそういうことではなく、見ているわれわれも含めて逆行するから、突然運動が逆向きに進むという経験を誰かがするわけではないのだ」という返事が返ってくるかもしれない。その意味で「逆行」の話をしているのだとすると、今度は「時間軸の方向には移動の方向と速度が固定されていて自由に移動できない」という解くべき謎が本当に成立しているかどうかが問題になるだろう。この意味での時間の流れについては仮に移動の方向や速度が一定していなくても、われわれはそれを経験できないわけだから、もしかしたら「方向と速度が固定されている」と思い込んでいるだけかもしれない。

 時間対称的な量子力学は、時間や因果についてどのくらいラディカルな解釈を要する事柄なのか、筒井さんの説明を読んでもよくわからない(小山さんのコメントもまさにそこのよくわからなさを中心的に述べているが)。わたしが理解する限りでは、量子力学的プロセスは確率的であるがために初状態と終状態の組み合わせはかなりの任意性があり、その組み合わせ方次第で中間の状態の確率分布をかなり絞り込むことができる、ということなのだろうか。そうだとすると、量子力学的プロセスを時間対称的に記述できるのは、条件付き確率の計算が時間や因果の向きにしばられないのと似たようなことなのではないだろうかとも思える(科学哲学でよく使われる例でいうと、あるフリスビーがフリスビー製造機AとBのうちAの方で作られたということを条件としてそのフリスビーが不良品である確率を求めることもできるし、あるフリスビーが不良品であるということを条件にしてそのフリスビーがフリスビー製造機Aで作られた確率を求めることもできる。もちろん、量子力学的な確率がフリスビーの事例のような通常の確率現象と同種の現象だという意図ではない)。量子力学の時間対称的な形式というのがこれに類することなのであれば、そこから時間の向きについてのラディカルな結論を導こうとするのは気が早いし、小山さんのコメントにあるように逆向き因果と結びつけるのも気が早いかもしれない。
 このあたりについては、やはり筒井さんと小山さんの間でもう何往復かしながら、時間対称的な形式の含意にせまってほしいところではあった。一往復にとどめる本書のフォーマットがむしろ残念に思われる。

第3章 現代物理学における「いま」

 物理学者側がメインに執筆した章の中では細谷さんの章が一番理解が難しかった。
 100ページで検証公理という概念が出てくるが、よくわからない。細谷さんの言い方では、「じつは、第3法則が物体の質量(比)を求める実験的手段を与え、第2法則の検証が可能になります」ということで、この性質を持つことをもって第三法則を検証公理と呼んでいるものと思われる。しかし、ニュートン力学の第三法則は別に第二法則を検証するために加えられたわけではなく、第三法則がなければ相互作用の関わるさまざまな現象を正しく記述できないからだと思っていたのだが違うのだろうか。また、検証ということでいえば、質量が既知であれば第3法則の正しさを第2法則を使って検証することもできるわけで両者の関係がそれほど非対称的だとも思えないのだがどうなのだろうか。

 細谷さんの話の中心となっているのがマクスウェルの悪魔やシラード・エンジンを使った考察で、これが時間の問題と結びついているという趣旨だと思うが、どのような結びつきを想定しているのかが今ひとつよくわからない。これらの話題をあつかっている104-109ページあたりで時間の概念に直接触れているのは108ページで、そこでは「物理学以前の常識として、過去は記録にすぎなく未来は不確定で、その分水嶺にあるのが現在」と過去・現在・未来を整理したあとで、シラード・エンジンでメモリをリセットした直後にその状態を記録したところを「現在」とした場合、前のステップが確定していて次のステップが確定していないのは「直観通り」(p.108)になっているのだという。しかし、これが仮に「直観通り」だとして、そこから何か言えることがあるのかどうか、わたしにはよくわからない。同じシラードエンジンの中でも、別のステップをとれば前のステップが不確定で次のステップが確定している、というような箇所もあるわけであるし、そもそも一定の状態を繰り返すように作られたエンジンに時間についての直観をあてはめることにあまり意味があるようにも思えない。

 小山さんのコメントは、細谷さんの質問にとてもがんばって返答されようとしている。物理学の哲学を(もっといえば狭い意味での科学哲学すら)専門とされない小山さんにこれを答えさせるのはかなり無茶振りだったと思うが、それでもポイントをおさえたコメントになっていると思う。
 なお、わたしが答えるなら
(1)物理学を公理化するときに「検証公理」は必要か?
 公理系そのものの中に検証の手段を入れる必要はないが、経験的な理論であるならどこかで観察可能な量との結びつきが与えられる必要がある。論理実証主義の伝統では「辞書」などと呼ばれるものがこれに相当する。
(2)物理学の記述を「操作的」「演繹的」に分類することは妥当か?
 これは「記述」の意味によると思うが、116ページの説明を読む限り、カルノーサイクルなどの具体的なモデルを設定してその性質を証明するアプローチと、公理系などの抽象的な表現から証明を行うアプローチを指すようである。それならば、それはまあどちらもあるでしょう、ということになると思う。しかし、その両方を組み合わせたアプローチも、どちらともつかないアプローチもあるであろうから、「分類」の基準として使うとなると話が違ってくるのではないだろうか。なお、細谷さんのリプライの中では操作主義の話をされているが、116ページで説明されている操作的方法と、哲学説としての操作主義はあまり関係がないように思う。
(3) 測定者、あるいはマクスウェルの悪魔は自然界のどこにいるのか?この問い自体が間違っているのか?
 これは申し訳ないが質問の意味がよくわからない。孤立系におけるエントロピーの減少をわれわれが観察したという例がないのなら、「マクスウェルの悪魔はいない」でいいと思うのだが。
(4)確率の意味はなにか?
 量子力学的確率についての質問であれば、わたしは無知解釈は無理だろうと思っているが、その先はまだいろいろな可能性の間で論争が行われている状態であり、今のところだれも確たる答えを持っていないのではないかと思う。

第4章 客観的現在と心身相関の同時性

 青山さんの論考は、「スーバーヴィーニエンス」という概念の通常の定義に時間についての規定が盛り込まれない点をついて、脳状態にスーバーヴィーンするというだけではクオリアがどの時点で生じるかまったく制約されなくなる(ある物理状態が意識状態を生み出すために「一万年もの時間を要する」という「奇妙な可能性」p.130の余地が生じる)という可能性を指摘している。その指摘自体は意表をつかれたしクレバーな論考だと思う。
 しかし、主張内容に説得力があるかというとそれはまた別問題である。通常、心脳同一説は単に心的状態が脳状態にスーパーヴィーンするとだけ主張しているわけではなく、心的状態が脳というものの持つ一つの性質であるというもっと実質的な主張とセットにしていると思う。その関係は、物理的には紙と絵の具のあつまりであるものが「柴犬の絵である」という性質を持つというのと似ている。ある物理的対象がある性質を持つ場合、時間的にその対象が存在しないところでその性質が成立するというのはどういう状況を想定しているのか想像するのも非常に難しい(紙と絵の具が消滅した一万年後に、その紙と絵の具が「柴犬の絵である」という性質だけがどこかで成立している、と言われても何を言われているかよくわからず困惑する)。つまり、心脳同一説に対して青山さんの言う「奇妙な可能性」を想定するのは想像がかなり困難だと思う。
 青山さんは、谷村さんへのリプライなどから推測するに、こういうコメントへは「クオリアが脳の持つ性質だというのはどういうことなのかわからない」と答えるのだろう。確かにそれは意識のハードプロブレムとも直結していて今のところ解決の緒が見えていない問題である。ただ、だからといって心脳同一説論者が、クオリアは脳と時間・空間的に独立に存在しうる別個の何かだ、と主張するようには思えない(それではそもそも心脳同一説を放棄しているようにさえ聞こえる)。クオリアも脳の持つ性質は性質だという基本線の中で答えられる範囲で答えようとするだろう。だとすると、青山さんのクレバーな議論は、誰も主張していない立場(心と脳の関係についてスーバーヴィーニエンスのみを主張する立場)に対してしか発動しないという意味で大変残念な主張になっているように思う。

 谷村さんのコメントは、青山さんのテキストを逐一引用しながらわからない点や同意でいない点を詳しく述べられていて、とても誠実な対話の努力をされていると思う。ただ、言葉遣いがきついせいでここでも谷村さんのコメントが喧嘩腰にうけとられ、それに青山さんが喧嘩腰で答えた、というような面はあるのかもしれない。それにしても、青山さんのリプライは、谷村さんに向けて書かれているようには見えない。むしろ、谷村さんのコメントを出発点にして、ある程度哲学の予備知識のあるオーディエンス向けにメタ的に対立軸を分析してみせているように見える。もちろんそれもやればよいけれども、谷村さんに通じる言葉で、谷村さんの出した疑問に答える、という面も必要だったのではないか。

 もう少し細かく谷村さんのコメントと青山さんのリプライについていくつか気づいたことや気になったことを書いておきたい。
 谷村さんは「心的な出来事と物的な出来事の同時性の承認はいかにしてなされるのかという問い」は「心的な出来事は物的な出来事ではないとみなす心身二元論の立場からしか発せられない問いである」(p.145)とコメントし、青山さんはそれに対し、「拙論では、クオリアの唯物論化を試みる諸説の存在を見据えた上で、その隙を突くような問題提起がなされている」(p.165)のだから、二元論の立場からしか出ない問いではない、と答えている。わたしはここについては谷村さんの方に分があると思う。「クオリアの唯物論化」をしている(つまり、クオリアを脳という物質的存在の持つ一つの性質と捉える)のに、その物質的基盤と時間・空間的にクオリアが切り離されうるという考え方のほうが説明を要するだろう。ただ、この点はもう少し友好的な対話モードでやればおもしろい論点に発展する可能性があるのに、こういう言い合いになって残念だと思う。
 谷村さんは、コメントの中で、「物理的にまったく同一の状態であるが意識状態の異なっているものが存在しうる」という考え方に強く反発している(p.146)。そこは谷村さんの考えなのでそれでよいのだが、その論点にこだわると青山さんがここで提案した問題とは話がずれてしまう(スーバーヴィーニエンスが成立しているかどうかは青山さんは問題にしていない)。「問いの共有」がなされていないと青山さんが感じる理由の一つはそれかもしれない。しかし、全く未知の分野にやってきて他流試合をしている谷村さんに対してどこが話のツボなのかを自分で読み取れというのも無理な話であり、ここはホームで戦っている青山さんの方がうまく誘導するべき部分ではなかったのだろうか。

 谷村さんは、1万年後の意識という思考実験について、「青山氏がそういう想像をなさっても私はかまわないが、「十分に想像可能である」という普遍的な言い方はしてほしくない。」(p.147)と言う。ここは、「可能」とか「必然」という言葉を使う際に、どういう様相を哲学者が想定するのかについて認識が共有されていない。青山さんはこの点で谷村さんと自分で前提が共有できていないことを認識しながら、「下記文献にゆずる」(p.164)とだけ書いて説明を省いている。これは谷村さんと話をしようという態度とはいえないだろう。哲学者が一番よく使う様相は論理的可能性や論理的必然性で、この場合、明白な矛盾を含まないものはすべて「可能」だし、否定すると矛盾を生じるものだけが「必然的」である。もちろんそれと別に「物理的可能性」などの別の様相があることも哲学者は認識しているが、そういう制限された意味で「可能」を使うときはむしろそのことを断るだろう。そういう分野間のカルチャーの違いに注意をうながすようなリプライがあれば、このやりとりもそれなりに意味があっただろうと思うのだが。

 150ページで谷村さんはスーバーヴィーニエンスを一階述語論理の論理式に書き直している。これは青山さんが柏端さんから引用したものを式にしたものだが、柏端さんの定式化にある「必然的に」という様相が谷村さんの式では落ちている。つまり、スーバーヴィーニエンスというのは、単に現実世界において「Bで見分けられないものはAでも見分けられない」と主張するわけではなく、現実と違うことがおきる可能世界まで考慮しても、Bで見分けられないものはAでも見分けられない、というのがスーパーヴィーニエンスの考え方である。ただ、この様相をどう定式化するかというのはやっかいでいろいろな立場がある。いずれにせよ、哲学的な議論におけるスーパーヴィーニエンスの概念は「単なる関数関係」(p.151)が想定されているわけではない。

 158ページで谷村さんはマーミンの文章を解釈して、4次元時空図を現実と混同してはいけないというのは「地図帳が現実世界ではないのと同類のことだ」という言い方を自分ならする、とまとめている。もし地図帳と現実世界の関係であるなら、4次元時空図は世界の構造(のある側面)はとらえてるということになるだろう。しかし、谷村さんが引用したマーミンの文章はもっと道具主義的に四次元時空図を解釈しているように読めるので、やはり谷村さんとマーミンの間ではこの問題について温度差があるのではないかとおもう。

 谷村さんは、青山さんが「4次元時空の内容は次第に決定されていく」(p.139)と考えたときに「現在」の概念が必要になると述べた箇所をとらえて、「壮大な天体現象や高速に近い速さで動く物体や量子的現象を視野に入れるなら、《4次元時空の内容は次第に決定されていく》という時空観や、《決定部分/未決定部分の境界》という現在観は、偏狭なイメージであたと言わざるをえない。」(p.160)といい、その数行あとでは「宇宙のことも原子のことも知らなかった人間の言葉の範囲で無理やり世界を解釈しようとしているように見える」(p.161)とかなりきつい言い方をしている。
 しかし、この決めつけはちょっと青山さんがかわいそうではないかと思う。まず、「4次元時空」という言い方をしている時点で、青山さんは相対論的な同時性の問題は踏まえた上で話している、というシグナルを発している。「次第に」決定されていく、という言い方は、おそらく素朴な絶対時間は前提としていない、というニュアンスであろうし、もしかしたら量子力学的な非決定な領域もあることを念頭においているかもしれない(谷村さん自身の「じわじわと既定事項になっていく」(p.27)という言い方も同じようなことを言おうとしているのではないか?)。そういうものをすべて踏まえたとしても、もし永久主義をとらず、この世界に真の意味で変化というものがあると考えるなら(つまり、単に未決定な状態と決定された状態が時間軸上で横並びになっているというのでなく、未決定なものが決定するということが何らかの意味で実際にこの世界の中で起きていると考えるのなら)その変化が起きる点としての「現在」を想定せざるをえないだろう、というのが青山さんがここで言おうとしていることだと思う。
 時間の哲学でどういうことが論じられてきたかについての予備知識なく139ページの短い記述だけからこうした意図を読み取るというのは難しいとは思うが、少なくともシグナルは発しているので、そこを谷村さんがうまく捉えていれば、ここももう少し友好的で有意義なやりとりになりえたかもしれない。
 その同じ箇所であるが、谷村さんは以下のように言う。「むしろ私が哲学者に期待するのは、新しい物理学や新しいテクノロジーが垣間見せてくれる世界を適切に捉える新しい言語や概念体系を作ってくれることである。いまの哲学者がやっていることは、その真逆で、宇宙のことも原子のことも知らなかった人間の言葉の範囲で無理やり世界を解釈しようとしているように見える」(pp.160-161)。ここは青山さんの話をしていたはずなのに、「いまの哲学者」とずいぶん批判の対象が広くなっている。「いまの哲学者」の中には、量子力学の解釈問題や時空の哲学(この本で取り上げられている時間論とはかなり独立に、相対論的時空について考察する領域)に参入してまさに谷村さんが求めるような仕事をしている人たちもいる。谷村さん自身そういう哲学者と交流もあるはずなのに、なぜこういう言い方になってしまうのだろうとは思う。

 青山さんのリプライの方だが、139ページで「クオリア」という語の使用を避けるといいながら、163ページでは「「クオリア」という語の方を使っていこう」と方針転換しているのは、やはりもう少し説明が必要だろう。おそらく、クオリアという言葉を使わなかったために谷村さんが機能主義的な心的状態の話だと勘違いした、だからクオリアを使うことにした、という趣旨なのだと思うが、あまりそこがうまく説明できていない。それ以上に、谷村さんが機能主義的な心理的機能の話をしているというのは青山さんの勝手な決めつけのように見える。
 青山さんは谷村さんが「質感」をはじめ主観的体験の話をしているのを認識しながら、「現象的な質感そのものについての物理的状態の例は挙げられていない」(p.163)ことをもって、谷村さんがクオリアの話をしていないという結論に達しているようである。しかし、そういう例を挙げろというのはないものねだりであるということは青山さんも当然わかっているであろう。意識のハードプロブレムは言うまでもなく、その手前の、質感と対応する脳のプロセスの同定さえも、まだこれからの脳神経科学の発展を待たなくてはならない。青山さんが谷村さんは機能主義的な心理的機能の話をしていると決めつけてちゃんと検討しようとしなかったことが、このやりとりを不幸なものにしていると思う。

第5章 時間に「始まり」はあるかーー哲学的探究

 この章も、生産的な異分野交流になりえたものが不幸なすれ違いに終わっている残念な章だと思う。そもそも、森田さんのリプライを読むまで、森田さんが自分自身では静的時間論をとりながら(p.197)動的時間論の帰結について考察している、ということが最初の森田さんの文章からは読み取れなかった。普通によめば森田さんはここのメインの文章で動的時間論を支持し、そこから世界にはじまりがあるという結論を導いているようによめる。森田さんが前提にコミットしているかいないかでこの文章の読み方は全然かわってくると思う。
 さて、森田さんのメインの文章ではいくつか面白い議論を紹介しているが、紹介されている範囲内では面白いだけでうまくいっていないということについて、わたしも谷村さんに同意する(うまくいっていない理由については少しずれるかもしれない)。もしかしたら動的時間論に特有の何らかの前提を付け足せば妥当な議論になるのかもしれないが、現状はそうなっていない。
 まず、176-177ページの円周率を数える男の例であるが、「無限の過去から円周率を毎日1桁ずつ数える」という想定自体が意味がよくわからない。最初の「3」を数えた日が特定の日付なら無限の過去からではないし、どの特定の日においても最初の「3」を数えていないのなら、円周率を数え始めることができないのだから「円周率を毎日1桁ずつ数える」という行為がそもそも行われていないという帰結を含意するように思われる。森田さんは当然この疑問に気づいていて「だが、この疑問は、まさに「時間が経過する」という概念と「無限の過去が存在する」という概念の相容れなさを示しているのではないか」(pp.176-177)と言う。しかし、あとの説明を読んでもそれとこれとは別問題としか思えない。そもそも、円周率を数える男は、時空内の存在なので、動的時間論をとろうが静的時間論をとろうが、時空上のある線上に沿ってある数列を発話している存在として記述されることにはかわりがない。そういう男についての思考実験が動的時間論でいうところの「時間が経過する」という考え方に特有の問題を引き起こすとは考えにくい。
 思考実験の前提が成り立たないということを別としても、この思考実験の無限の扱い方は変だと思う。いや、むしろ無限というものがあまりに変な存在なので森田さんがそれを扱い切れていないというべきだろうか。たとえば、「現在までに無限の時間が経過しているのだから、その男は現在において「私はいま円周率の最後の桁を数え終えた。それは2である」と主張できるだろう」(p.176)と森田さんは言う。しかし、無限の時間があればどんな無限数列も数え終わることができるというわけではもちろんない。無限集合のもつ性質として真部分集合も無限集合でありうる(整数の数も偶数の数も素数の数もすべて無限だが偶数や素数は整数の真部分集合である)。つまり、現在までに無限の時間が経過して無限の数の数字を読み上げてきたとしても、それとこのあとさらに無限の数の読み上げるべき数字があるということとなんら矛盾しない。また、おそらく同趣旨のこととして、「無限の過程が完了するのは不可能」(p.177)とも森田さんは言っているが、無限の時間があるとき、時点と過程内の点の対応づけが適切になされるなら、無限の過程が完了するのは可能である。これに限らず、無限を扱うときに大事なのは対応付けだと思うのだが、なぜか森田さんはその話に踏み込まない。
 と、コメントした上で思うのだが、おそらく森田さんの頭の中には動的時間論に特有の「変化」についての何らかの前提があり、その前提が無限の過去を許容しないのだと思われる(「変化は始まりを持つ」とか、「変化は時間をさかのぼって割り付けたりできない」とか)。そこを言語化してもらうと、もう少し生産的な会話ができるように思う。
 森田さんが紹介するもう一つの議論が円環時間の不可能性の議論である(pp.178-180)。ここの議論は単純な論点先取のように見える。「ある一つの時点が〈現在〉でありかつ過去であり未来であることは不可能」(p.178)と森田さんは言うが、まさにそれが可能だというのが動的円環時間だと思うので、それが不可能だということは別途(円環時間に対して論点先取しない形で)論証する必要があるだろう。ここでもまた、動的時間論に特有の前提(だと森田さんが思っているもの)がおそらく暗黙の前提としてあるのだと思うが、それを言語化し明示してもらわないと、本当にただの論点先取にしか見えない。
 円環時間では因果関係についての直観が成り立たない、という議論(179ページ)もあまり説得力を感じない。ここで挙げられている因果性についての直観はいずれも直線時間を念頭において考えられた直観であり、これらの直観を肯定する人が円環時間に対してどういう態度をとるかは一概には言えないだろう。もしかしたら、人々は「実は時間は円環でした」と言われたときに、これらの直観の方を取り消す方を選ぶかもしれないし、円環時間上の十分短い時間切片上で成り立つ直観として言い直すかもしれない(「円環時間上に十分短い切片をとるならば、その切片上では因果関係は非対称性、推移性、非再帰性を満たす」というように)。こうしたあやふやな直観にあまり依拠するのはどうかと思う。

 谷村さんのコメントと森田さんのリプライについては、第4章と同じようなことが起きていると思う。谷村さんが森田さんの文章に細かく沿いながら感想をのべて、話がかみあわない原因をさぐる態度を見せているのに対し、森田さんのリプライはギャップを埋める手がかりをあまり与えてくれておらず、会話が成立していない。もちろん、谷村さんのコメントの中には「わかってないな」と思うところもいろいろあったのだろうが、そこに丁寧に反応することでずいぶん相互理解が深まったと思うのだがどうだろうか。

 もう少し細かい点についていくらか感想を述べる。
 まず、時間の経過の実在という問題設定について谷村さんは以下のように述べる。「時間の経過そのものの存在を疑う(時間経過は幻想だと思う)ことの意味が私にはわからない。時間の経過は実在しないと信じる人は、自分が生まれ、育ち、毎日生きて、やがて死ぬという変化はすべて錯覚・幻想だと信じて生きているのだろうか?」(p.184)。すでに何度か述べたが、永久主義者は、それは本来の意味での「変化」ではなく、時間軸上に横並びした諸状態にすぎないと考える。その意味で、永久主義者にとって自分の人生を「変化」ととらえるのは錯覚だが、それぞれの時点に自分がどういう状態にあったかということまでも錯覚として否定するわけではない。森田さんも194-196ページあたりで基本的には同趣旨のリプライをしていると思う。ただ、その中で「そう捉える方が自然」とか「この変化の定義は私たちの直観的な変化という言葉の定義に反する」とかという言い方で、永久主義と両立するような意味での「変化」の用法を切り捨てているのは気になる。実際、谷村さんは187-188ページあたりのコメントを見るかぎり、永久主義的と両立するような意味での「変化」の用法を認めていると思われる。言語直観を共有していない相手に動的時間論の動機づけを説明するのであれば、動的な意味での「変化」のイメージをささえる経験などについてもう少し掘り下げる必要があったのではないだろうか。

 「形而上学的に深い重要な差異」という表現について、そうした差異の存在が「絶対的現在の存在」の必要十分条件だ、という箇所が「論理は飛躍している」と谷村さんはコメントしている(p.185)。しかしここは何かを論証しているわけではなく、言葉の使い方の説明をしているだけだと思う。「形而上学的に深い差異」というのをこういう意味で使います、と宣言するのに論理の飛躍もなにもない。ということを森田さんは言えばよかったと思うのだが、森田さんのリプライ(p.196)を見ると、森田さんはそもそも自分の172ページあたりの記述がそれ自体で何らかの論証をしていると読まれているということに気づいていないように見える。結果として、不毛な行き違いが深まるだけになってしまっている。

 谷村さんは、現在主義等々の動的時間論について、「相対論は全宇宙を覆う客観的な「現在のフロントライン」の存在を否定している」ということをもって、これら動的時間論は「相対論を度外視した、空想の時空についての議論」と断じている(p.186)。わたしも同じような理由で静的時間論を採用する立場なので(そして森田さんもおそらくそうなので)結論には異議はないのだが、動的時間論側にももう少し頑張る余地はあるようには思う。動的時間論が救おうとしているのは、「時間が流れている」という感覚や「その時間の流れにそって世界の側でものごとが変化している」という感覚なので、「現在のフロントライン」みたいなものを想定せずにそれらの感覚を救うことができるのであればそちらを採用することも可能だろう。一つの可能性は「〈現在〉はそれぞれの慣性系で勝手に動いていて、グローバルに同期していたりしないので「フロントライン」みたいなものもない」というような考え方かとは思う。

 188ページで谷村さんはスウィンバーンの議論を「Aならば(BまたはBではない)」という形式だとまとめているが、ちょっと違うのではないか。わたしの理解ではこれは「BまたはBではない」「BならばA」「BでないならばA」の3つの前提からAを導く推論で、推論自体は演繹的に妥当だと思う。ただ、「BでないならばA」が成り立っていない(T-εに白鳥がいないという事態は、そもそもT-εという時点が存在しない場合も成り立つから)ので結論も導けない、ということだと思う。森田さんの解説もまさにそういう話をしていておかしくないと思うのだが、谷村さんは~PsとP~sの区別がよくわからないと言う(p.189)。過去そのものが存在しないような場合に~Psは成り立ってもP~sは成り立たない(「イギリスに国王がいる」が偽であるのと「イギリスにおいて「国王がいる」は偽という状態が成り立っている」は主張内容が異なっていて、前者はイギリスという国がなくても成立する)。ここについては森田さんのリプライ(p.200)もそういう趣旨で、ここは森田さんに特に異論はない。
 谷村さんの円周率を数える男の例や円環時間についてのコメントはまあわたしも概ね同意する。「時間論と無限集合とを結びつけるやり方が詭弁論法になっていた」(p.191)というのはきつい言い方だが、少なくとも今提示されている形での森田さんの議論はそう言われてもしかたない形になっているのでそうじゃないというなら説明する責任は森田さんの側にあると思う。しかし、200-201ページにかけての森田さんのリプライでは、いくつか文献を挙げるだけで、谷村さんの疑問と真っ向から取り組んでいるようにはみえない。今やりとりをしているのは谷村さんと森田さんなのだから、「文献を読め」ではなく、谷村さんの疑問に森田さん自身の言葉で答えるべきであろう。
 おそらく、森田さんとしては「時間論と無限集合とを結びつけるやり方が詭弁論法([括弧内略])であるとしても、それはむしろ「時間が経過するという概念と、無限の過去が存在するという概念の、相容れなさを示している」からだというのが私の主張であり、それを否定できているとは思えない。」(p.201)という箇所で十分答えたつもりなのだと思われる。しかし、谷村さんだけでなく、わたしからみても、この2つの話(円周率読み上げの思考実験の話と「時間が経過するという概念」と無限時間の相容れなさの話)がどうつながっているかよくわからない。ここで説明の要請をつっぱねるのは対話を求める態度ではないだろうし、もしかしたらとても生産的な対話になるかもしれないものの糸口をみすみす見送っているように思う。

 森田さんのリプライの方で、「形而上学的主張とは基本的に必然的な主張であることを目指す」といい、その必然的な主張とは「どのような可能世界であっても成り立つ主張」という意味だと解説されている(p.198)。森田さんはこれはあくまで異論もありうる自分自身のスタンスだと言っているが、それにしても形而上学的主張の範囲を狭くとりすぎではないか。というか、そもそも時間論についての互いに両立しないいろいろな立場も、個々には論理的矛盾を含むわけではない(相対論と矛盾するかもしれないが、相対論は別に論理的真理というわけではない)ので、互いに「どのような可能世界でも成り立つ」わけではない。ということは、お互いの言っていることに論理矛盾がないことを確認できた時点でそれは形而上学の問題ではなくなってしまうのだろうか。これに限らず、「どのような可能世界であっても成り立つ」、つまり論理的なトートロジーでなければ形而上学的主張にならないというのであれば、むしろ形而上学の問題として残るテーマの方が少なくなるのではないだろうか。
 森田さんは「なお、3,4,6から8の疑念を出していただいたことは、ある意味で本書がうまくいっていることを示しているように私には思えた」と言う(p.199)。もし、森田さんがそれらの疑念から異分野コミュニケーションの難しさをすくい取り、谷村さんにフィードバックしていたらたしかにそうであろう。しかし、谷村さんの疑問をきちんと拾い上げずに「うまくいった」と哲学者の側だけで総括するのでは、谷村さんの側から「本当は物理学者と対話する気はなく、ただ哲学者が議論するための手がかりとして物理学者のコメントを利用したのか」と思われてもしかたないだろう。

第6章 「スケールに固有」なものとしての時間経験と心の諸問題ーーベルクソン〈意識の遅延テーゼ〉から
第7章 非可逆的な時間は実在するのか?ーーベルクソンとプリゴジンの時間論の検討

 これらの章はベルクソンの時間についての議論を取り上げていて、筒井さんのコメントも両方にまとめて行われているのでまとめて扱う。
 わたしはまったくベルクソンのことはわからないので、平井さんと三宅さんのお二人の議論のベルクソン解釈としての面については特に私がいうことはない。
 平井さんの紹介するベルクソンの議論で、われわれの認識の対象となる出来事の側にも、認識する脳のプロセスの側にもいろいろな時間スケール(解像度や持続時間)があるというのはまあそうだろうと思う。認識する側とされる側の時間スケールが一致していないと認識が成立しないというのもまあ納得である。
 しかし、そうした脳神経科学的な言葉で十分語れるような話題から、意識や自由についての洞察が得られるというところでわたしはまったく話についていけなくなる。意識を成立させる脳のプロセスがある時間スケールを持つからといって「「心の発生」という難問は、世界のうちに、どのようにしてそのような規模の時間スケールと時間構造性をもつシステムが成立することになったか、という形で可視的に立て直すことができる」(p.215)となぜ言えるのだろうか。「心」がある時間スケールを持つからといって、その時間スケールを持つことが「心」にとって本質的な特徴だともかぎらないし、特に重要な特徴だとも限らない。同じ時間スケールを持つがどうみても「心」でないものもあるかもしれない。まあベルクソンがそういう考察をすっとばして時間スケールと心の発生を結びつけているのならベルクソン解釈者としてそれを尊重せざるをえないのかもしれないが、もう少し批判的であってもいいのではないかと思う。
 「注意」についての箇所(pp.218-219)も、情報処理システムとしての脳における情報の選別の問題としての「注意」と、意識現象としての「意識的な注意」の話がごっちゃになっているように見える。心についての難問は後者だが、脳神経科学的な考察から出てくるのはせいぜい前者までだろう。
 決定論と自由についての考察では、リベットの実験について「スケールのすれ違いがあることを見落としていることについては、もはや多言を要しないだろう」と平井さんは言う(p.219)。しかしリベットの実験に関わる2つのプロセス(意識的な意思決定のプロセスと準備電位から実際の体の動きまでの脳神経科学的なプロセス)はどちらもミリ秒単位で計測されており、解像度という意味でのスケールが違うようには見えない。意図を汲んで読むならば、意識的な時間経過は物理時間ではなく頭の中で再構成された時間経過なので比較しても意味がない、ということが言いたいのだと思うが、それであれば、そのずれを「スケールのすれ違い」とまとめるのはベルクソンに引きずられてポイントがずれてしまっているようにきこえる。
 三宅さんの論考はベルクソンの時間の非可逆性についての主張をプリゴジンが批判的に継承しているという趣旨だと理解した。ただ、具体的にどの点が継承されているのかはよくわからない。時間の非可逆性をエントロピーの増大と結びつけるというアイデアは共通しているようだが、これはこの二人だけではなくいろいろな人が論じていて、共通点がそこに限られるのならあまりこの二人の共通点としてクローズアップする意味はないようにも思える。
 ベルクソンはせっかくまとめていただいたがやはり何を言っているのかよくわからない。「物質は過去の痕跡がないのに対し意識では過去が記憶として流入する」(p.230)というが、意識が記憶を保持できるのは脳という物質が過去の痕跡をニューロンの結合という形で保持しているからではないのか。現在と過去の間に本性的差異があるので顕在化の方向はあっても潜在化の方向はないという時間の非対称性が生じる(p.230)というが、現在が顕在で過去が潜在なら、現在が過去になっていくのはむしろ潜在化なのではないか。秩序生成と秩序崩壊の両方が非可逆的プロセスだという(p.231)が、これらは逆向きのプロセスなので、両方起きるのなら両方組み合わせれば可逆的なプロセスになるのではないか。以上のような疑問が生じるのは、おそらくわたしがベルクソンがどういう文脈の話をしているのか理解していないせいだとは思う。
 三宅さんによれば、プリゴジンのアイデアは、時間の不可逆性を決定論的カオスのマクロな性質と結びつけるということらしい。確かに、未来が予測不可能になる理由の一つはわれわれが予測したいと思う対象の多くが複雑系だからだというのはあるので、ある種の非対称性の根拠をカオスと結びつけたくなるのはわかる。ただ、素朴な疑問としては、カオスは前向きにも後ろ向きにもカオスなので、ある時点の状態から一定の距離のある未来の状況を予測できないのと同じくらい、その時点から一定の距離のある過去の状況を予測(過去の事なので予測は変だが)することもできないはずである。つまり、カオスという性質そのものはあまり時間的指向性を持たないのではないだろうか。
「 パイこね変換」についてのプリゴジンの議論の紹介もよくわからなかった。パイこねのプロセスが時間反転した瞬間にエントロピーの値が低い値へジャンプするということらしい(「図の時間反転の瞬間t=2のエントロピーは瞬間的に減少していることがわかる」p.235)のだが、どういうエントロピーの定義の下でそうなるのかよくわからない。時間反転したその瞬間には全体に対する粒子の分布の様子そのものは(縦横が反転するだけで)同じはずなので、エントロピーも変わらないのではないだろうか?こういう疑問に答えを得るにはもちろんプリゴジンを読めばよいのだろうが。
 筒井さんと平井さん、三宅さんのコメントとリプライの応酬については筒井さんが明確化のための質問をいろいろされて、平井さんと三宅さんはそれにきちんと答えられていると思う。ベルクソンのように具体的な描像が欠けていると物理学でモデル化するのに適さない(p.246)と筒井さんが言うのはもっともであるが、生産的な対話を続けていけば両側から少しずつよせていってなにかしら物理学でモデル化できるようなものは生み出せるのかもしれない。

第8章 時間論はなぜ「いま」の実在の問題となるのかーーインド仏教の視点から

 この章については勉強になりましたという以上の感想はない。インド哲学についてはわたしもまったく予備知識がなく、佐々木さんの解説でインド哲学の諸学派において時間についてさまざまな見解が取られてきたことを知り、勉強となった。佐金さんのコメントにあるように、それらの立場を西洋哲学のいろいろな立場と比定したくなるが、背景の違うものを単純に同一視するのは危険なのであまり勇み足はしない方がよいであろう。

 以上全体としてみると、本書は異分野間の交流の場としてそれなりには機能していると思う。谷村さんがあとでノートを公開したということを知らずに読めば、谷村さんと佐金さん、青山さん、森田さんの応酬も、行き違いはありつつもそれなりにお互いに収穫があったようにも読める。しかし、谷村さんに大きな不満を残してしまったということからさかのぼって考えれば、もう少し対話をみのり多いものにする工夫があれば、と思わずにはいられない。




iseda503 at 15:39|PermalinkComments(0)