November 28, 2011

「科学的思考」のレッスン

「科学的思考」のレッスン―学校で教えてくれないサイエンス (NHK出版新書)

著者からいただいた。ありがとうございます。

第一章から第六章までは科学哲学の紹介、第七章から終章にかけては科学技術社会論の紹介、という構成になっている。科学哲学的な内容としては、境界設定問題、科学的説明、検証理論などのオーソドックスなテーマを取り上げているのだが、「科学的思考」とは何かを考える、という問題設定の下に非常によく消化されていて、「無理に科学哲学にこじつけました」という感じはまったくない。特に、「科学的説明」という、科学哲学の定番の話題の中でもどちらかというと玄人好みの(言い換えれば哲学者以外にとってはどうでもいいような)話題をこの流れの中に自然に組み込んだ第三章は工夫が光る。第六章では「共通原因の原理」が(その言葉は使わずに)解説されているが(pp.187-188)、一般向けの新書にこの話題を放り込んで、しかも直観的にわからせるというのはたいしたものである。第六章全体が、科学哲学の入門書ではあまり取り上げない、実験の方法論や統計の読み方といった話題の解説になっていて、他の入門書を読んだ方にとっても一読の価値があると思う。
ここまでについては、科学史的な記述などちょっと疑問があるところもあるものの(後述)、科学哲学について最初に読む本として非常にお薦めできる内容になっていると思う。

第七章以降では「トランス・サイエンスの問題」を戸田山さんなりに定式化しなおしたのち(p.220)、この問題に社会として対処するには市民がある種の科学リテラシーを身につける必要がある、と論じて、第八章で10項目にわたって望ましいリテラシー(「デキル市民の科学リテラシー」)を列挙している。内容は、科学の不確実性やフレーミング問題について知ることなど、科学技術社会論的なリテラシーが主になっている。そして、終章で、単に文句を言う人としての「大衆」ではなく、社会的意思決定の主体である「市民」が増えていくことがこれからの日本にとって大事だ、とむすんでいる。
基本的な主張や望ましい社会のイメージはわたしと戸田山さんで非常に近いと思うのだが、そういう社会を実現するための方法として、「デキル市民になりましょう」と直接訴えかけるという発想はわたしにはあまりなかった。戸田山さんの言う意味での「デキル市民」はどちらかというと初等・中等教育や社会のシステム(裁判員のようにいやおうなく科学技術の関わる問題について判断をしなくてはならない場面があるような仕組みづくりをするなど)が時間をかけて養うべきものだろうと思う。あと、「デキル市民」としてのリテラシーは、わたしのイメージでは全人格的なものではなく、投票だとか社会的意思決定の主体とか、公人として振る舞う必要がでてきたときに第二の人格のようにしてあらわれてくれればよい、と思っている。戸田山さんの対比を使うなら、ふだんは「大衆」でも、ここぞというときに「市民」になってくれればそれでよい。そういう意味でも、わたしが書いたらだいぶトーンが違ってくると思う。

さて、主なところはそのくらいにして細かいつっこみをいくつか。
[以下の指摘のほとんどについて、二刷以降では修正されています。指摘を有効に活かしていただきありがとうございます。2012年9月8日付記]

pp.35-36 『アルマゲスト』という本の中で彼が編み出した仮説は、惑星はもう一つ別な小さな円を回り、その円が地球を回っているというものです。
→周転円説は『アルマゲスト』以前からあるので、プトレマイオスが『編み出した』わけではない。一般にはペルガのアポロニウスのアイデアとされている。

 p.36 結局『アルマゲスト』の中では、火星、木星、その他の惑星の動きを全てデータに合わせるために、なんと78個の周転円を使いました。
→78個の周転円というのは多すぎでは?『コペルニクス・天球回転論』(みすず書房、1993)の高橋憲一さんの解説では、合計43個と見積もられている(同書138-139ページ)。もちろん戸田山さんも何か参照してはいるだろうが、高橋さんの記述より信頼性の高いソースを使っているのだろうか。

p.37 こうして複雑になった天動説に対して「ゴチャゴチャして美しくない」と考えたのが15世紀末から16世紀にかけて活躍したコペルニクスでした。
→これはよく一般的な解説で目にする定番の解釈だが、前掲書の高橋解説などでは否定されている(同書176-179ページあたり)。コペルニクスの動機は「一様円運動」がエカント説で否定されてしまったことに対する反発だったというのが現在の定説だと思うのだがどうか。

p.37 エカントなんて余計な点は必要なくなり、周転円の数もずいぶん減らすことができた。
→エカントは点が余分だったのではなく、一様円運動が破られたことがポイントだったはず。「周転円」はなくなったかもしれないが円の数は高橋さんの計算で最終的に49個になっており、円の数ではとうてい単純になったとはいえない(同書 191ページ)。もちろん、「なぜ太陽と金星と水星はいつもだいたい同じ方向に見えるのか」というようなことを説明するための別の仮定などは必要なくなり、ある種の概念的単純性は増えているとはいえるだろう。

p.39 これこそ私たちが、プトレマイオスの天文学よりもニュートン力学のほうが良い理論だと判断する理由の一つなのです。
→その比較はさすがにプトレマイオスにアンフェアでは。周転円、離心円、エカントなどの工夫を導入することに追われて「新しい予言が出せなくなった」と言うのだが、プトレマイオス理論でも、新奇ではないにせよ、将来の惑星の位置についてこれらの工夫をしない理論とは異なる(しかもかなり精度の高い)予測をするわけで、それを成功させるなら十分よい理論と言ってよいのでは。
もう一回しつこく高橋さんの解説の受け売りをするなら、周転円は地球の自転公転を、離心円は楕円軌道を、エカントは面積速度一定の法則を、それぞれ近似するような役割を果たしている(同書 134ページ)。したがって、これらの工夫がうまくいったのはけっして偶然ではない。その意味でも、プトレマイオスが単にアドホックな修正をかさねていたと見るのは失礼ではないかと思われる。

p.42 これは、ある政治的な理由により日本では非常に影響力を持った説明で、
→ここは泊次郎さんの説への言及だと思うが、ここまで断言できるほど泊説は定説化しているのだろうか?本書の後半で紹介されている内部被曝をめぐる論争が科学論争だというのであれば(p.248やp.250あたり)、地向斜造山論対プレートテクトニクスもそれと同じくらいには科学論争としての性格があると思うのだが「政治的な理由」と切り捨ててしまってよいのか。

p.45 遺伝子の正体がDNAという高分子だということが分かったのは20世紀半ばでした。
→細かいつっこみだが、遺伝子とDNAがどういう関係にあるのかというのは生物学の哲学でけっこう議論がつづいている話題で、「正体」が正確に何か、というと、答えがわかれる。これは哲学者の間だけで意見が分かれるわけではなく、Paul Griffithらのアンケート調査で、生物学者の間でも「遺伝子」とDNAの対応づけについて意見が分かれるという結果が出ている。(グリフィスのウェブサイトに論文のPDFがある)
http://paul.representinggenes.org/webpdfs/Stotz.Griff.04.ConceptualiseGenes.pdf
まあ、それをふまえた上で、非常におおざっぱな意味で遺伝子の本体がなんらかの意味でDNA上にあるということはだれもが認めるだろうから、ここの本文の趣旨には問題がないと思われる。

p.46 そういう考え方が1929年に出て、それによって大陸移動説も復活してきます。
→この書き方だと、1929年に復活が始まったようにみえるが、一般には、むしろ1920年代に大陸移動説は英米ではほぼ否定され、1950年代までほんの数人の支持者しかいない状態で細々と続いていた、というのが定説になっていると思う。また、復活の原動力となったのは地球内部についての理論ではなく、その後で戸田山さんも引用する海洋底の探査だったというのも定説だと思う。もちろん、実はこの「それによって」は実は40年くらいあとの時期の話なのだ、と言えなくはないが。

p.60 この8つなり9の惑星の動きに次の法則があることをケプラーは発見しました。
→つっこむまでもないが、天王星よりむこうの惑星はケプラーの時代には見つかっていないのでこの記述は微妙にアナクロニズムである。もちろんケプラーの発見した法則があとから発見されたこれらの惑星(その後惑星でなくなったものも含めて)にも当てはまったという意味だと思うが。

p.67 地上の運動は、直線的に動いて、いつか止まるわけです。
→「ニュートンの時代までは」という書き出しでこういう言い方になっているが、もちろんガリレオは地上の運動が直線運動だともいつか止まるとも思っていなかった(地上の運動の基本は等速円運動だと思っていた)。まあ、めんどくさい例外なので大づかみに話すときにはガリレオ無視というのはありだと思うが、節全体の趣旨としてはガリレオやケプラーに対してニュートンがどう偉いかという話をしている箇所なのでちょっとひっかかる。

p.79 現行の科学全体が描こうとしている絵の中に居場所のない「現象」、これまでに描いた絵のどの要素ともつながらない現象を扱うことを自らのアイデンティティとしている限り、超心理学は科学の仲間入りをすることができません。
→もちろん科学者の中にそういう態度をとる人がいるのは間違いないが、中立的な立場からの一般論として「仲間入りをすることができません」と断言するのは言い過ぎではないだろうか。実際、超心理学協会(PA)はAAASにも所属しているわけで、超心理学と主流の科学の間には完全に仲間はずれともいえない微妙な距離が保たれているというのがわたしの認識である。

p.117 検証という語は、本来はこのように、仮説の正しさを確かめることを意味しますが、最近では、とくにマスメディアを中心として、ずいぶん拡大解釈されています。
→「本来」という言葉をどう解釈するかにもよるが、時期的な先後関係でいえば、科学哲学的な「検証」よりも、「現場検証」などの司法用語の方が先だと思われる。ためしに近代デジタルライブラリで「検証」という言葉を検索してみると、明治時代の用例として、足尾銅山鉱毒事件の「検証調書」(明治34年)やら明治32年の刑事訴訟法の解説書やらがヒットする。現代のメディアでの用法は、法律用語からの拡大解釈だとはいえるかもしれないが、少なくとも科学哲学用語からの拡大解釈ではないだろう。

pp.244-2250 ECRRについての記述
この箇所で戸田山さんはECRRのICRP批判をかなり詳しく紹介している。特にストロンチウムの内部被曝をICRPが過小評価しているという議論について「まっとうな論争」「科学的な論争」(p.248)という評価をしている。そのちょっとあとでは、ECRRのモデルの特徴について「広島・長崎の原爆だけではなくて、その後に起きたチェルノブイリ、セラフィールドという二つの事件を踏まえて、モデルを作り変えなければいけないと言っている」「現実を説明するためのモデルという役割に重きを置いている」(pp.249-250)と、非常に目的にかなったモデルになっているという評価をしているように見える。
ECRRについてはインターネット上をみまわしても、非常に肯定的なものから非常に否定的なものまでさまざまな情報が錯綜していて、専門外の人間が公平に評価するというのはむずかしいと思う(専門家は専門家で利害関係があって判断が難しいかもしれない)。どの情報源にどのくらい重みを与えるかによってだいぶECRRの主張の信憑性や科学性について意見が分かれるだろう。従って以下はわたし個人の情報の重み付けによる感想でしかないわけだが、それを断った上で、ECRRがどのくらい科学的にまともかということについて、わたしの持っている印象と戸田山さんの印象はかなり違うと思う。
比較的肯定的なこちらの記事や
http://smc-japan.org/?p=1941
大変否定的な今中さんの見解
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/seminar/100/seminar/No99/imanaka041215m.pdf
などを勘案して最大公約数をとると、ECRRの主張がセラフィールドなどで白血病が多発しているというデータにもとづいているのは確かだが、その先の内部被曝のモデルについては出発点になった相関データとは関係のない推測の積み重ねだ、というあたりが妥当な評価なのではないだろうか。「まっとうな論争」というにはあまりにもECRR側が徒手空拳すぎるように見えるのだが。
というようなことを書こうと思っていたら、セラフィールド周辺で白血病が増えているという統計データ自体が間違っているという批判論文もあるのだそうだ。素人がこういう領域にくびつっこんで怪我をせずに帰るのはほんとうに難しいと思う。この話題について最近出た記事へのリンク(もちろん本書を執筆した時点で戸田山さんがこれらの記事を見れたわけではないので、あくまで参考として)。
ガーディアンの記者のブログ
http://www.guardian.co.uk/environment/georgemonbiot/2011/nov/22/christopher-busby-nuclear-green-party
片瀬さんによる日本語でのまとめ
http://d.hatena.ne.jp/warbler/20111123/1322056385
戸田山さんも、現在進行中の話題について安易に判断を下して痛い目にあったりしないことを切に祈る。





iseda503 at 15:50│Comments(4)TrackBack(0)

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この記事へのコメント

1. Posted by masudako   November 30, 2011 00:23
プレートテクトニクスの件、わたしは泊さんの本を読んでいないのですが、熊沢峰夫さんの話などを参考にすると、日本では確かに地学団体研究会あるいはその他のマルクス主義系イデオロギーがじゃまをした面はあったのだろうと思います。

しかしわたしは、そういう特殊条件がなくても、日本の地質学者がプレート論を受け入れにくかったのは蓋然性があったと思います。まず地球物理と地質学の違いがあります。原因から出発するか結果から出発するかの違いもありますし、解こうとする問題の違いもあります。さらに日本はプレート論によれば沈みこみ帯に位置します。そこで地層がどんな形をとるべきかはプレート論だけでは決まらず、付加体論を構築する時間がかかったのです。むしろ、沈みこみ帯でないヨーロッパや北アメリカ東岸にいる地質学者が困難を見落として安易にプレート論を受け入れてしまったというべきかもしれないと思います。

地団研の反プレート論は地向斜論だけでなく、牛来(ごらい)正夫さんの地球膨張説(「地球の進化・膨張する地球」という本が1978年に出た)もありました。

11月19日駒場での中山茂さんの講演でも出てきたのですが、地団研は老害を排するとして役員は30歳台までなどというやや極端なルールを決めたのですが、リーダーの井尻正二さんがそれを破って神格化されたボスになってしまったのが失敗だったのだと思います。

しかし、地団研は第四紀学に関しては(野尻湖の件はやや宗教化したかもしれませんが、関東ロームの構造解明などでは)モード1的に成功したと思いますし、地下水汚染の指摘についてはモード2的(中山茂「転換期の科学観」の用語でサービス科学的)意義があったと思います。もっとも地下水の件は柴崎達雄さんという個人によるところが大きいかもしれません。
2. Posted by masudako   November 30, 2011 00:32
ところで、ちょっと申し上げにくいことですが、バズビー基金ならぬアサザ基金についてです。たいへん否定的な山室さんの見解などを勘案してみると、アサザが自生していた限られた場所での経験が、湖岸全般に拡大適用されてしまっているのではないでしょうか。拡大適用の是非は、なるべく近代科学的に検討すべきであり、この場合、それはできるのではないでしょうか。

アサザの例が不適切でも、問題解決のためにローカルな知識を使うのが適当なことがあるという伊勢田さんの主張はもっともだと思います。ただし、古くから伝わっていることはローカルな知識の正しさを保証するものではなく、暫定的妥当性の根拠になるだけです。

さらに言えば、近代科学者も、近代科学的方法論にきちんと乗った判断ができない場合は、科学者コミュニティの伝統あるいは個人の経験に頼ることが多いと思います。そういう判断は、近代科学的知ではなく、いわば科学者のローカル知だと自覚して使うべきだと思います。

ぜひ、アサザの例を使わない、ローカル知の意義の解説をお願いいたします。
3. Posted by iseda   November 30, 2011 14:50
>masudako様

どうもご意見ありがとうございます。
地団研のプレートテクトニクスへの抵抗には単に政治的な理由だけでなくご指摘のような実質的な論点もあった、というのは泊さんの本でも紹介されています。イデオロギー的な面がなかったとして日本の地質学者たちがどういう選択をしたかというのは想像するしかないので難しいですね。

2つ目の書き込みのアサザ基金についてですが、問題となっている2000年の再生事業は、基本的にはアサザがもともと自生していた場所に対して行われているはずです。問題は、拡大適用とはまた別の理由で発生しているのだと思います。
「なるべく近代科学的に検討すべき」というのは、「目的にかなう範囲でもっとも信頼のできる手法を使う」という意味でおっしゃっているのであればその通りだと思います。それは当該の文章の中にも書いたとおりです。
こういう問題について、いろいろな事例を使って考えるべきだ、というのはまったくその通りだと思います。ただ、アサザの例が不適切だという評価には同意しません。このままでは霞ヶ浦のアサザが絶滅するかもしれないという情報に接し、緊急に対策をしようという状況で、当時利用可能な最善の方法として実績のあるNPOのノウハウが利用されたわけです。その判断自体は十分正当化可能だと思います。
4. Posted by masudako   January 14, 2012 20:05
(現在)2番のコメントの「バズビー基金ならぬアサザ基金」と書いたところを訂正し、ごろ合わせは成り立たなくなりますが、「バズビー基金」を「ECRR」と変更します。
「バズビー基金」は複数あるようですが、英語略称CBFCFというライアン(Ryan)という人が中心となったものは、デマゴーグであり、募金詐欺である疑いもあるようです。わたしはアサザ基金をそんなものと同じなかまとみなすつもりはありませんでした。

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