「フォードの内部メモ」をめぐる資料戸田山和久『科学的実在論を擁護する』書評

February 25, 2016

「動物愛護」という概念の成立と「動物愛護」的倫理

今書いている原稿で昔書いたものを参照しようとして、実はその原稿を一度も発表したことがないことに気づいた。今更なのでブログに掲載することにする。

なお、以下の記述の背景となる、戦前日本の動物愛護運動全般についての情報は以下のサイトを参照。 http://tiseda.sakura.ne.jp/TokyoSPCA/index.html


「動物愛護」という概念の成立と「動物愛護」的倫理




現在日本で動物に対する配慮をあらわすもっとも一般的な言葉は「動物愛護」であると思われる。西洋の運動でこれと同レベルの総称的な言葉を探すなら、prevention of cruelty to animals (動物虐待防止), protection of animals(動物保護) animal welfare(動物福祉), animal well-being(動物福利)などが挙げられるが、「動物愛護」に正確に対応するものはないように感じられる。一体どのようにしてこの概念は成立したのだろうか。

「動物愛護」が一つのまとまったフレーズとして成立したのは、明治41年に動物虐待防止会が動物愛護会と改名したことに由来すると一般的に考えられている。しかし、文献を細かく追うと、事情はもう少し複雑であることがわかる。
 
1 明治期における「愛護」概念の用例と意味
 
「愛護」という言葉自体は古くから存在する。大修館の『大漢和辞典』では『願氏家訓』や『宋史』での用例を挙げている (4巻1125ページ)。「愛護」の意味を辞書でひくと、小学館の『国語大辞典』では「かわいがってたいせつにすること。この上もなくたいせつにすること」とし、大修館の『大漢和辞典』では「大事に守る。大切に保護する」と説明している。

明治期の文献からも「愛護」という言葉の用例をいくつかひろうことができる。もっとも、「読売新聞」のデータベースでの検索では、動物愛護会成立以前に「愛護」という語の用例を発見することはでき ず、それほど一般的な表現ではなかった可能性も高い(読売新聞が創刊当初「小新聞」として平易な表現を中心としていたことも関係しているかもしれない)。 以下に用例をいくつか示す。
 
「産土(ウヂ)神々はその諸処を分掌し産土子人民を愛護したまう父母の神と心得、仕え奉るべき事」岩崎田実也『国教一斑』明治19(1886)年
「致命の傷を負うて隊長を愛護す」小塚貞直編『軍紀一班』明治31(1898)年 (本文中では「護る」と言い換えられている)
「学用品を愛護せしむるの訓練に励むべきこと」根岸貫『小学校実験管理談』明治35 (1902)年、東洋社(教科書に落書きをしたりそろばんを壊したりしないように教育せよ、といった文脈で「学用品の愛護」という表現が使われている。)
 
動物に関して愛護という言葉を使っている例も、動物愛護会が「動物愛護」という言葉を使う前に存在する。武田千代三郎の『新農家』(1903)という農家の心得を述べた本では、「鳥獣の愛護」という項(pp.207-218)で動物虐待防止会の活動を紹介し、海外では行き過ぎの例もある、という紹介のあとで、家畜や野鳥を愛護するようにとよびかける。

「ここに鳥獣を愛護せよと述べましたことにつきましては(中略)自己(おのれ)が飼っております牛馬は(中略)人間よりももう一層労って使って遣らなければならぬと云うことを述べて置きたいのでございます」(p.213)
「害虫類を退治てくれまする鳥の如きものも同様に愛護せねばなりません」(p.215)
 
近代デジタルライブラリ等での検索で他の初期の用例が見当たらないので、これはこの著者による独創的な表現である可能性がある。この『新農家』を動物虐待防止会のメンバーが読んだかどうかは分からないが、時期的に可能性はある。
 
2 動物虐待防止会初期の活動における「動物保護」

動物虐待防止会関係の書籍においては、初期においては「動物保護」という表現は見られるが「動物愛護」は見られない。他方「動物保護」は広井自身をはじめいろいろな人によってつかわれる表現であった。
 
広井辰太郎(1899)「動物保護論」『中央公論』明治32年12月号
広井辰太郎(1900)「動物保護要義」『六合雑誌』237号
無署名(1900)「動物の保護」『禅宗』63号
龍山学人(1901)「動物保護と宗教家」『太陽』第7巻9号(広井によれば龍山学人は荻野仲三郎のペンネームとのこと。広井ほか1942における広井辰太郎の発言参照)
 
動物虐待防止会が発足当初に発行していた機関紙『あはれみ』においても「動物保護」は数多く使われているが、「動物愛護」という連語の形での用例はなく、「軍馬愛護」(第3号、明治37(1904)年4月、p.5) 「動物を愛護せざるべからざる」(第3号 、明治37(1904)年4月、p.6)といった用例が散見されるのみである。
動物に関して愛護という言葉を使うのに違和感はなかったが、特に会の趣旨を表現した表現というわけでもなかったことが見て取れる。
 
3 「動物保護」「動物虐待防止」から「動物愛護」へ
 
では、動物愛護という連語表現はどのようにして動物愛護会で使われるようになったのだろうか。実は、動物虐待防止会本体の改名に先んじて、付設された少年団体が「少年動物愛護会」という名前で発足している(無署名1906)。『児童研究』に掲載された趣意書において、少年動物愛護会は「動物虐待防止会の別働隊」と位置づけられ、「少年少女の間に博愛の心を養い、人道をおしひろめるために、動物をいぢめることを防ぐのを目的とする」(p.47)と されている。ただ、この趣意書の中でも組織の名前以外に「愛護」という言葉はあらわれない。この会の発起人は山県悌三郎の子息で動物虐待防止会の会務を 担っていた山県文夫である。発起人であることから考えて、「動物愛護」という言葉自体、山県文夫が導入したと推測される。ただ、文夫自身が書名入りで書い たものは見つかっておらず、彼の意図などについて知ることはできない。
 
会名変更の頃は、『あはれみ』も発刊を停止 しており、動物虐待防止会の定期刊行物などは存在していなかった。そのため、会名変更の正確な時期については外的な資料にたよるしかない。『萬朝報』や 『読売新聞』に掲載された例会予告がひとつの手がかりとなる。
動物虐待防止会は毎月15日を例会の日としており、発足直後の明治36(1903)年から、昭和10年ごろまでこの慣行が続いていることが新聞の例会予告で確認できる。予告される会合のタイトルを見ていくと、明治41(1908)年2月15日の例会まで「動物虐待防止会例会」という名前で予告(萬朝報 明治41(1908)年2月15日朝刊2面)が出ている。しかし次の3月15日の例会の予告(読売新聞 明治41(1908)年3月16日朝刊2面)は「動物愛護会」名で、以降の新聞記事等もすべて「動物愛護会」になっている(なお、この後も横浜の団体はしばらく「動物虐待防止会」を名乗り続けており、「神奈川県動物愛護会」へ改称するのは大正10(1921)年ごろのことである)。したがって、この年の2月から3月の間、おそらくは2月15日の例会の場で動物虐待防止会から動物愛護会へと改名したものと思われる。
 
動物虐待防止会本体の動物愛護会への改名については、広井自身による回想がある(広井1940)

「会名改称の経緯
始の会名は英米の夫れと同じように動物虐待 防止会であった。ドイツとフランスでは動物保護と云っているが、アメリカとイギリスでは皆動物虐待防止と云っているのである。その外、アテーネの動物愛の 会、シリヤの東洋人道教育教会等もある。動物虐待防止会という名称は多分わたしの提案であったと思う。同じ動物虐待防止会にしても、英米の夫れはモット モット長いので通常SPCAの略称を用ゆる。日本の会名は英米の夫に比較すると、意味は全く同じであっても、字数が少ない。少 ないには相違ないが、それにしてもまだ長過ぎるので満足に会名を言って呉れる人がない。十五日の「動物会」には行くぞは、良いとしても、「虐待会」に行こ う、行かないかと云う人が甚だ多くなっては変な事に成るので、ここに改名論が台頭して来て、今日の動物愛護会と成ったのである。ドイツやフランスの如く、 動物保護会としたらという改名原案が最初に出た。然し保護では何んだか畜産事業のように思われぬのでもないから、愛護という東洋的な積極的なものにするに 若くはないと云うので、そのように決定したのであった。」
 
また、当時の会員の来馬琢道による回想もある。(来馬 1941)

「動物虐待防止会の動物愛護会と改名するに 至った時は、多くの会員の前に広井君等が改名の議案を提出した。しかし予は初め「虐待防止」と云う文字があるから此の会は力あるので、愛護会になっては活 気が失せるであろうと痛切に議論をしたが、遂に多数決で定める事になって今の名に改称されたが、其時の広井君の議論は「何うも世間で動物虐待会と云って 却って変な名に聞えることがあって迷惑する」と云うにあった。初めから此の会の趣旨を誤解し、虐待防止会といいながら動物の肉を食うのは甚だ遺憾であると いう議論をする人もあったが、殺すなら殺す、活かすなら愛護せよと云うのが、会の趣旨なりと釈明する人もあった。ツマリ日本では動物虐待防止も動物愛護も 広く理解されていない事は遺憾である、されば日本人道会もあまり振るわずに了ったようである。」
 
二人の回想に一致点が多いことからも、大筋 ではこのような流れだったのではないかと思われる。ただし、来馬は広井の文を先に読んでいる可能性が高いので、来馬の回想はそれに引きずられているかもし れない。また、少年動物愛護会の方が先に発足しているのにそれへの言及がまったくないことを考えれば、この回想を文字通りにうけとることは危険である。

いずれにせよ、会の名称の変更は、基本的には、「虐待会」といった言い間違いを避けるという非常に実務的な理由が主だったということである。しかし、「愛護」という言葉の選択には「東洋的」で「積極」なものがあるという広井の観察は示唆的である。
 
4 「可愛がるように導く」運動としての動物愛護運動

「虐待の防止」や「保護」と「愛護」の間にある一番大きな違いは、「愛護」の方には「愛し護る」という形で「愛する」「かわいがる」「いたわる」といった情動的な側面が入ってくるところであろう。英語にするならばloving protection of animals、といったところであろうか。

動物虐待防止ではなく動物愛護という言葉が 団体名として採用され、さらには愛護会という団体の枠を超えて定着していったのには、単に言いやすいといった以上の意味があるように思われる。「動物愛 護」という概念を採用することの背景には、その表現とみあった人間と動物の倫理のとらえかたがあるように思われる。

「人間と動物の倫理の捉え方」はそれ自体非常に捉えにくいものなので、いろいろなところにあらわれる徴候を積み重ねていくしかない。

そうした徴候の一つとして、動物虐待防止会の設立趣意書の変化がある。設立趣意書は当初かなり硬い文章であったが、少年少女にも運動をひろめていくという観点から、より平易な言葉へと置き換えられた。その後の出版物では修正版の趣意書が一貫して用いられている。

もともとの趣意書の各条の最後は以下のような表現で締めくくられている(待山1952)。
 
「動物虐待の防止は実にこれ人道の問題なり」
「動物虐待の防止は実にこれ教育上の問題なり」
「動物虐待の防止は実にこれ法律上の問題なり」
「動物虐待の防止は実にこれ衛生上経済上農政上はた審美上の問題なり」
 
これが、子供むけにわかりやすくされた趣意書では以下のような表現になっている。(こちらは明治35年10月の『児童研究』に掲載されたのがおそらく最初である。明治36年5月に出版された堺利彦『我家の犬猫』の末尾にも添えられ、会誌『あはれみ』の創刊号(明治37年2月)の冒頭をかざるなど、その後一貫して平易版の方が使われている)
 
「動物をむごくせぬということは人道の上に大切なことであります」
「動物を可愛がるようにするのは教育の上からいうても大切なことでありましょう」
「動物を可愛がるように導くのは(中略)法律の上からいうても大切なことであります」
「経済の上からも、衛生の上からも農業の上からも、又自然の美しいさまを楽しむ人の心の上からも、まことに好ましからぬことであります」(第4項ではもとの趣意書で「動物虐待の防止は」にあたる言葉はおそらく冗長さを避けるために省略されている)
 
時期を見ればわかるとおり、設立趣意書の書 き換えは動物虐待防止会設立後早い時期に行われており、「動物愛護会」への名称変更より数年はやい。したがって、当然ながらこれは「動物愛護」という概念 を採用したことの影響ではない。ここで示唆したいのは、趣意書の変更も、動物愛護という表現の採用も、メンバーたちの人間と動物の倫理の捉え方をはからず も反映しているのではないか、ということである。

では、修正前と修正後の趣意書では何が違う のだろうか。両者の内容はおおむね共通するが、特に第二項と第三項において、「虐待の防止」から「可愛がるように導く」ことへ趣意書の力点が移っているこ とがわかる。この変化は、いくつかの要素を含んでいる。まず、虐待の防止は純粋に外面的な行動についての問題であるのに対し、「可愛がる」には心理的な要 素も含まれるだろう。第二に、「虐待」の「防止」という禁止の面を強調するのではなく、「可愛がる」という肯定的な行動の促進の面を強調している(広井の 言うところの「積極的」な面を押し出している)ことも見て取れる。最後に、「動物虐待の防止」が動物を直接の対象としている(少なくとも動物に直接影響の あることがらを対象としている)のに対して、「可愛がるように導く」というときの導かれる対象は当然ながら人間(とりわけ子供)である。つまり、会の趣旨 が動物を直接の対象にするもの(虐待の防止)から人間を対象とするもの(教育・啓蒙)へと言い換えられているわけである。
 
5 「動物愛護」的倫理

これはささいな言い換えのように見えるが、 もっと深く、人間と動物の倫理を情操教育の問題ととらえる捉え方を端的にあらわしているかもしれない。そして、その捉え方は、動物愛護会の運動にとどまらず、日本におけるその後の動物愛護運動前提に影を落としているかもしれない。

たとえば1973年に制定された「動物の保護および管理に関する法律」の第一条では、この法律の第一の目的を「国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平 和の情操の涵養に資する」と記述している。つまり、目的は動物を守ることではなく、動物を守るというルールを作ることで「動物を愛護する気風」の将来や 「情操の涵養」といった、人間の側の内面的な変化である。この法律において動物はむしろ情操涵養の手段なのである(この法律はその後数次の改訂を経て、タ イトルも「動物の愛護および管理に関する法律」と変更されているが、以下に引用する箇所は変更されていない)。(この条文にあらわれる動物倫理が独特であるというのは伊勢田2012でも指摘した。)

また、この法律が最終的に制定されるまで、何度か法案が国会に提出され議論がなされているが、その中でもこの法律の目的として国民の動物を愛護する精神を涵養するという目的がしばしば挙げられている。たとえば1970年3月31日 の参議院予算委員会では、この法律の目的が以下のように説明される。「結局動物に対する虐待を禁止する、そうして動物愛護の精神を高揚していく。このこと は同時に単に動物だけのことじゃなしに、生命の尊重と平和、こういう人間の一番大事な精神に触れていく問題だ。」ここでも、動物虐待の禁止は「動物愛護の 精神を高揚」するための手段であり、さらには「生命の尊重と平和」の精神を養う一環としてとらえられている。

人間と動物の倫理を、「愛し護る」というメ ンタリティの涵養の問題としてとらえる考え方を動物愛護的倫理と呼ぶことにしよう。日本における動物倫理が動物愛護的倫理だと考えると、日本人の動物に対 する態度のいろいろな側面(特に海外から批判される側面)がうまく説明がつく。

たとえば、欧米において動物実験や工場畜産が大きな関心事であるのに対し、日本では動物愛護運動はもっぱら家庭動物の愛護など、身近なところでの動物倫理問題をとりあげ、動物実験や工場畜産には切り込んでこなかった。1980年 代以降、そうした運動も出てきてはいるが、依然として少数派に留まる。こうした特徴は、動物愛護的倫理が背景にあると考えれば納得がいく。われわれの目に つかないところで動物に対して何がなされていようが、われわれの情操の涵養にはあまり影響しない。クジラ漁やイルカ漁に対して日本人の多くが寛容な態度を とり、欧米からの批判をむしろ理不尽なものだと受け取る傾向があるのも、これに関係しているかもしれない。隔離された場所で専門家によって行われる限り、 クジラやイルカがどんな風に狩られていようと、そのこと自体は情操の涵養には影響しないだろう。

もちろん、実験、畜産、クジラ、イルカ漁な どの場で残酷な漁が行われていると知りつつ黙認することは、われわれの情操にも影響するだろう。しかし、情操を涵養することが目的であるならば、そもそも そういう情報をできるだけ獲得しないようにする、というのも一つの解決策である。この後者の解決策をとろうとする人からすれば、告発者は情操の涵養を難し くするやっかいな存在として批判されることになるかもしれない。クジラやイルカの漁の告発者に対する日本人の冷たい態度の一部はこういう観点から説明でき るかもしれない。
 
 
伊勢田哲治(2012)「動物」香川知晶・樫則章編『シリーズ生命倫理学2 生命倫理の基本概念』丸善、223-239ページ
来馬琢道(1941)「動物愛護会懐旧談」『動物愛護』第33号、p.134 [『動物愛護』紙は北海道大学図書館に所蔵されている]
待山(1902)「動物虐待防止会の成立」『中央公論』明治35年5月号、59-61ページ『中央公論』明治35年5月号, pp.59-61
武田千代三郎(1903)『新農家』自由英学出版部
広井辰太郎(1940) 「動物愛護運動の回顧(十八)」『動物愛護』第18号、p.76
広井辰太郎ほか(1942)「動物愛護運動を語る」(座談会)『動物文学』87号(17年9月)号52-65ページ
無署名(1906)「少年動物愛護会」『児童研究』第9巻第4号pp. 47-48


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