蝶名林亮『倫理学は科学になれるのか』に以前つけたコメント

August 30, 2019

過剰診断となるスクリーニングはヘルシンキ宣言に違反するか?

(2019年9月2日追記:過剰診断関係の記述が不正確だというご指摘をうけ、その部分を修正しました)
阪大の菊地誠さんが「福島の甲状腺検査は即刻中止すべきだ」と題する論考を上下にわけて2019年6月に『論座』に公開された。
(上)https://webronza.asahi.com/national/articles/2019062000003.html
(下)https://webronza.asahi.com/national/articles/2019062000004.html

ここで菊池さんは「甲状腺検査が医学研究倫理に反しており、受診者の人権を侵害している」と主張する。具体的にどの倫理に違反し、どういう人権を侵害しているかについての説明にあたるのは、(上)の後半だと思われるそこでは、ヘルシンキ宣言の第8項が引用され、「ヘルシンキ宣言の精神に則るなら、そのような検査は許されない。なにしろ甲状腺検査には受診者個人にとっての利益がなく、あとで説明する過剰診断に代表される害があるだけなのだから。」と述べられている。この主張は、(下)でも、「被験者個々人に利益のない検査を疫学目的で続けることは倫理的に許されない。」という言い方で繰り返されている。
この論考はいろいろな観点からの検討が可能であるし、実際インターネット上でもいろいろな議論が行われているが、倫理学を専門の一つとする人間として目をひいたのは、菊池さんがわれわれ倫理学者にとっても馴染み深いヘルシンキ宣言を持ち出して「人権侵害」という強い結論を導いている点である。では、菊池さんの議論の倫理学的な部分はどのくらいきちんと立論できているだろうか。

菊池さんの推論の(わたしなりの)まとめ
菊池さんの「研究倫理違反」「人権侵害」という結論に至る推論をわたしなりにまとめ直すと以下のようになる。

1 現在福島県で行われている甲状腺検査は過剰診断となっている。
   1' ここでいう過剰診断とは、死ぬまで悪さをしない、発症しなかったはずのがんを見つけてしまうことを言う。(修正しました)
2 この甲状腺調査によって甲状腺がんであるという診断を受けた人にとって、診断をうけること自体が長期的な不安をはじめとする大きな不利益となっている
 2' 診断に基づいて治療を行えば、合併症のリスクなどでさらに大きな不利益を被る上に、早期治療で余命が伸びるというエビデンスも特にない(1より)
  2'' 甲状腺調査による受診者本人への利益はない(明示的に述べてるわけではないが、安心などの利益はあくまで親の利益でしかないという趣旨のことが述べられている)
3  甲状腺調査には「被曝影響の有無」を知るという疫学調査としての側面もある
   3'  それどころか、受診者の利益が理由とならない以上、甲状腺調査を継続する主要な目的は疫学調査だと考えざるをえない
4 2, 2', 2'', 3'を総合すると、現在福島県で行われている甲状腺検査では被験者個々人に利益のない検査が疫学目的で続けられていることになる
5 ヘルシンキ宣言では、新しい知識を得るという研究の目的は「個々の被験者の権利および利益に優先することがあってはならない」と定めている。
 5' したがって、「被験者個々人に利益のない検査を疫学目的で続けること」はヘルシンキ宣言に違反している。
6 4と5'より、現在福島県で行われている甲状腺検査はヘルシンキ宣言に違反しているという意味で研究倫理違反であり、人権侵害である。

この推論に対して、用語法(「過剰診断」をどうとらえるか)や事実関係(子供についても過剰診断なのかなど)についてネット上でいろいろ議論が広がっているが、それには踏み込まない。ここで検討したいのは、はたしてこの筋道の議論によって、今回のスクリーニングがヘルシンキ宣言違反であるという結論がちゃんと導けているかということである。つまり、以下の議論では、1と1'については菊池さんの前提を受け入れるものとする(今回の原稿の目的ではないけれども、私自身も、現在私が理解している範囲でいえば、「過剰診断」という言葉のスタンダードな意味において、福島の甲状腺検査で過剰診断が生じている、ということ自体は事実だろうと思う)。その上で、以下(A)(B)(C)の三点の検討をしたい。

(A)ヘルシンキ宣言は被験者個々人に利益のない検査を禁じているか?

まず、上記の5'が妥当かどうか、特に5から導けるかどうかを検討したい。
菊池さんが依拠する該当のヘルシンキ宣言の条文を確認しよう。これは「一般原則」の項目の中に含まれている。

第8条 医学研究の主な目的は新しい知識を得ることであるが、この目標は個々の被験者の権利および利益に優先することがあってはならない。

英語の原文はこちら
https://www.wma.net/policies-post/wma-declaration-of-helsinki-ethical-principles-for-medical-research-involving-human-subjects/
8.  While the primary purpose of medical research is to generate new knowledge, this goal can never take precedence over the rights and interests of individual research subjects.

菊池さんはこの条文から直接「被験者個々人に利益のない」実験の禁止が導けると考えているようだが、わたしにはとてもそうは見えない。そもそも'take precedence~'というのは抽象的な表現であり、何をしたらtake prededenceしたことになるのか明確ではない。
実は、被験者の利益と知識の獲得の関係については、別の条項でより具体的な規定が与えられている。ヘルシンキ宣言第16条は「人間を対象とする医学研究は、その目的の重要性(the importance of the objectve)が被験者のリスクおよび負担を上まわる(outweighs)場合に限り行うことができる。」となっており、これは第8条の内容の一部を具体化させたものだと考えられる。
これを踏まえて読み返すなら、第8条は被験者に直接の利益のない研究をすること自体を禁じたものではなく、あくまでそうした負担と研究目的の重要性などの他の要因を比較考量した上で判断すべきだという趣旨であり、そのバランスを失することがtake precedence~だということになるだろう。実際、治験と呼ばれるものの大半は、効くかどうかもわからず副作用があるかもしれない薬物を投与するわけだし、治験のデザインによっては被験者がプラセボ群にわりあてられることもある。したがって、一般論として治験は治験参加者に何の治療上の利益も約束できない方が普通である(だからこそインフォームドコンセントが重要になる)。「被験者個々人に利益がない」研究をヘルシンキ宣言が全般的に禁止しているというのは宣言全体の読解として無理がある。
では、甲状腺調査が3や3'でいうような研究を目的とした疫学調査だとした場合に、第16条違反には該当するだろうか?これは「被曝影響の有無」について知ることがどのくらいの「重要性」を持つかという見積もりに依存する。菊池さんも言うように、国連科学委員会(UNSCEAR)の報告書などを基礎とするなら、被曝影響はあっても非常に小さいことが予測されるので、その意味では「重要性」は低いという判断はありえなくはない。しかし、被曝影響が調査の中で検出されたという結論が仮に出るならばその社会的影響はかなり大きいであろうし、被曝の影響のありかた一般についての認識が変わることもなくはないだろう。その意味での「重要性」がある、という議論は十分立ちそうである。すくなくとも、菊池さんの考える第8条違反のように、簡単に白黒がつく問題とはならない。

(B) 福島県の甲状腺検査はヘルシンキ宣言の対象となるか

つぎに検討したいのは、3と3'のところである。ここの論がうまく立っていなければ、そもそもヘルシンキ宣言を福島の甲状腺検査にあてはめた結果を見るまでもなく、あてはめること自体が不適当となる。
人を対象とした研究の倫理上重要な区分として、使っているデータが一次的なデータなのか、二次的なデータなのか、という区別がある。研究のためにデータを集めることと、何か他の目的のために集められたデータをもとに研究を行うことは、傍目には違いがわかりにくいかもしれないが、研究倫理上はまったく異なる扱いになる。後者はカテゴリーとしては「既存データの二次利用」に分類され、直接の被験者はいなくなるし、さまざまな被験者保護のルールも適用されない。
さて、現在話題となっている甲状腺検査の場合、公式に述べられている目的は明らかに研究ではない。
「福島県では、チェルノブイリに比べて放射性ヨウ素の被ばく線量が低く、放射線の影響は考えにくいとされていますが、子どもたちの甲状腺の状態を把握し、健康を長期に見守ることを目的に甲状腺検査を実施しています。」
https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/kenkocyosa-kojyosen.html
これを額面どおり受け取るなら、この調査の研究パートは、福島県が子どもたちの「健康を長期的に見守る」ために行っている事業で得られたデータを二次利用しているのであり、研究者対被験者という関係がそもそも成り立っていないことになる。3が言えても3’は言えないということになる。
菊池さんもこれを踏まえた上で、甲状腺検査評価部会の元部会長の発言を引用し、また受診率の低下が問題視されているといったことを指摘して、「現実には被曝影響の有無を知ることが目的化してしまっていると言わざるを得ない」と述べる。つまり、名目上は研究目的の調査ではないが実質的に研究目的の調査になっているというわけである。
しかし、このような告発を行うには、菊池さんの挙げる証拠は非常に弱い。個人的な見解と断った上での発言は調査そのものの目的について評価する材料としては不適当であろうし、そもそも子どもたちに被曝の影響が出ているかどうかを知りたいと思うのも受診率の低下を問題視するのも「健康を長期的に見守る」という目的と特にそぐわないわけではない。こうした告発をするのであれば、菊池さんが示すべきは、「健康を長期的に見守る」という目的と矛盾したりそぐわなかったりする検査が行われているということだと思われる。そうした追加の論点がないかぎりは、3’のような判断は受け入れがたいだろう。

(C) 検査後の治療から生じる帰結は検査をした者の責任となるか

2' は菊池さんの議論の中で、倫理学的にも興味深い問題を提起している。
菊池さんは検査の結果甲状腺がんであるという診断を受けた人が治療を受けたとき、生死にかかわるようなプラスの効果がなく合併症リスクなどのマイナスしかないことを、検査そのものへの反論の中で使っている(修正しました)。というよりも、そうした無益な治療が行われてしまうことが反対する論拠のかなりの部分を占めているように見える(2の不利益として菊池さんがこの文章の中で言及するものは非常に漠然としており、単独ではこんな強い結論につながるようにみえない)。
これは、ある視点からみれば大変奇妙なことである。というのも、治療の際には別途治療のためのインフォームド・コンセントが取られるわけで、そこであらためて本人ないし家族が同意して行われる治療について、その前段階の検査を行った人(つまり治療に関するインフォームド・コンセントにはそもそも関与もしていない人)が責任を問われるというのはまったく言いがかりのように見えるからである。他方、別の見方をすればこの主張はそれほど奇妙でもなくなる。因果関係としては、たしかに、検査をうけた結果甲状腺がんだと診断されたなら、現在のさまざまな社会環境の中では診断内容に応じて(菊池さんも言及するようなガイドラインにもとづき)治療の方針を医師から提示されるだろうし、そのように提示されたら患者側がそれを拒絶することは難しい。したがって、検査と治療を受けることにまつわる不利益の間には強い因果的なつながりがあり、そうした強い因果的つながりによって生じた帰結に対して、検査実施者も責任があるはずだ、ということになる。
これは、倫理学でいえば、権利-義務論的思考と功利主義的思考の違いとしてよく指摘される考え方の違いが現れたものだと思われる。権利ー義務論的思考では、だれにどういう権利があり、だれにどういう義務が発生するのかをベースとして、その権利義務関係に基づいて考えたときにある人に義務不履行などの落ち度があるかどうかで責任の有無が判断される(倫理学では、義務論的思考のこの特徴を「行為者相対的」などと呼ぶ)。つまり同じ害でも、「誰に落ち度のある害なのか」(あるいは誰にも落ち度のない害なのか)が大事なのである。他方、功利主義的思考では、自分の行為の帰結全般がその行為の評価に使われ、自分の選択がある望ましくない帰結を引き起こしたのなら、直接その帰結に関わる行為をした人が別にいても、自分も責任の一端を背負うことになる(この特徴は「行為者中立的」と呼ばれる)。
例を使って言うと、ある人が告白されて相手を振ってしまった結果、その相手は自暴自棄になって犯罪を犯してしまったとする。行為者相対的な思考でいえば「告白されて断る」という行為には何の落ち度もなく、振った人には犯罪について何の責任もない。他方、行為者中立的思考でいえば、もし振った結果自暴自棄になって犯罪しそうだということが十分予見できていたのなら、それでも振ったその人には、その犯罪に対して功利主義的な意味での責任の一端がある。
同様にして、行為者相対的な倫理の視点からいえば、検査に関わる人の責任は、検査の際にインフォームド・コンセントをとるべき範囲とおおむねかさなるだろう。そして、治療によって生じる不利益は治療についての意思決定に直接関わった人のみに責任があることになるだろう。後者の行為者中立的な倫理の観点からいえば、その不利益が生じる因果的なプロセスにかかわったすべての人に、寄与の度合いに応じた責任があることになるだろう。
では、ヘルシンキ宣言の解釈としてはどちらの思考法で読むのが妥当だろうか。実は、ヘルシンキ宣言は権利の尊重と健康や福利の増進の両方の併記を繰り返しており、両方の思考の枠組みを併用しているというのが妥当な解釈だと思われる。そして、ヘルシンキ宣言の功利主義的な側面の読み方としては、検査後の治療にともなって生じる健康や福利の上の不利益について検査実施者も宣言違反として咎められうる、というのはありうる解釈だと思う。
ただし、菊池さんのように、そこからもう一歩すすんで「人権侵害」だと言うためには、今度は権利ー義務論的側面の中で考える必要がある。しかし、すでに見たように、その権利ー義務関係は治療のためのインフォームド・コンセントがとられたところで一旦リセットされると解釈できる。さらにさかのぼって検査実施者によって治療の帰結に関わる不利益をめぐる人権侵害が行われたと主張するのは難しいだろう。
以上の考察は、2で言うような検査自体から生じる不利益にはあてはまらない。検査をうけてがんだと判明することからどのような不利益が生じうるかについて十分な情報が与えられず、その結果検査に同意してしまったというような場合、行為者相対的な視点から言っても検査の実施者の側に落ち度があり、人権侵害が行われたと主張することが可能だろう。

まとめ
以上3点について検討した結論としては、1や1’を認めたとしても、そこからこの検査がヘルシンキ宣言違反や人権侵害という結論を導き出すまでのプロセスは現状では問題が多く、受け入れがたいということになる。議論をより説得力のあるものにするには、依拠する条文を8条ではなく16条にして「目的の重要性」を論じること、より明確に「健康を長期的に見守る」という公式の目的と矛盾することが行われれているという証拠を出すこと、そして、「人権侵害」と強く言いたいのなら、治療ではなく検査結果そのものから生じる不利益をより強調し、それについて十分なインフォームド・コンセントが行われていないことを議論の中心に据えることなどが考えられる。






iseda503 at 16:20│Comments(7)

この記事へのコメント

1. Posted by TAKESAN   August 31, 2019 07:33
お早うございます。

私は以前から、菊池氏らがヘルシンキ宣言に依拠して《人権侵害》と強い表現を用いて論を展開する事を、危うい主張ではないかと思い見ていました(そうするには人文・社会科学的検討に耐え得る証拠と立論が必要であるから)。

そこに、倫理を研究するかたによる検討が加えられるのは、大変貴重なものと思います。指摘された当人が見てくれるかはともかく、関心を持つ者にとって参考になります。

倫理的部分については勉強させて頂くとして、気になった点がありましたので、指摘します。

続きます。
2. Posted by TAKESAN   August 31, 2019 07:36
▼ 引  用 ▼
 1' ここでいう過剰診断とは、発症するまで放置した場合と比べて死亡数に変化がないような早期発見を指す
▲ 引用終了 ▲
上記の “ここでいう” とは、《菊池氏が解釈・適用する》との意味と思われますが、そう考えると(考えても)、この説明は不充分あるいは不正確に思います。

現在、検診の議論におけるoverdiagnosisは、WelchとBlackによる定義、すなわち、

 《それによる症状が出ず、それによって死亡もしない、ような疾病を見つける》

と定義する(⇒https://academic.oup.com/jnci/article/102/9/605/894608 )のが標準ですが、菊池氏は、そこはきちんと踏まえているように見えます。しかるに、伊勢田さんの説明する

▼ 引  用 ▼
発症するまで放置した場合と比べて死亡数に変化がないような早期発見
▲ 引用終了 ▲
これですと、
《症状発現するまで待ってから処置しても予後が変わらないものを前臨床期に見つける》
場合をも《過剰診断》に含める、ように見えます。
通常、

 ・“放置した場合と比べ”:曝露
 ・“死亡数に変化がない”:帰結

これを見ると、対照研究(特にRCT)によって死亡というアウトカムを比較する、と解釈されると思いますが、これは、過剰診断よりは、《検診の効果》に関する所です。
対照研究に絡めて過剰診断を説明するならば(定義を措いて《数える》事を主眼とするなら)、

 検診する群と検診しない群との、がん発見数の差

となるでしょう。過剰診断(私は余剰発見:overdetection を用いますが)の本質は、《それによって症状が出ない》所です。

過剰診断については、以前に解説を書きました⇒http://interdisciplinary.hateblo.jp/entry/2019/07/15/120159

続きます。
3. Posted by TAKESAN   August 31, 2019 07:41
次に、
▼ 引  用 ▼
菊池さんは検査の結果甲状腺がんであるという診断を受けた人が治療を受けたとき、平均余命向上などのプラスの効果がなく合併症リスクなどのマイナスしかないことを、検査そのものへの反論の中で使っている。
▲ 引用終了 ▲
この部分です。

《平均余命》は、生存時間解析や生命表で用いられる指標ですが、がん検診の議論では一般に、それを効果の指標としては用いません。生存期間にバイアス(特にリードタイムバイアス)がかかるからです。

実際には、検診の効果は《死亡割合(の減少)》で測ります。同様の理由で、効果指標に、《生存割合》なども(バイアスを調整するなどの操作を加えない限り――それは部分的に見られる方法です)用いられません。
参照⇒http://canscreen.ncc.go.jp/kangae/kangae3.html

菊池氏は、この辺りの論理はよく理解しているはずなので(Welchらの論文や書籍も参照しているので)、ここについても、菊池氏の主張の要約という読みとしては、違っていると言えます。

長々と、失礼しました。
4. Posted by 伊勢田   August 31, 2019 10:26
TAKESANさま

ご無沙汰しています。ご指摘ありがとうございました。今回の文章の本筋でなかったためにそのあたりの文言のチェックが甘くなっていました。
5. Posted by 伊勢田   September 02, 2019 12:14
TAKESANさま

確認して、菊池さん自身が使っている表現に寄せる方向で書き換えました。
6. Posted by TAKESAN   September 02, 2019 13:45
>>5

今日は。

修正なされた事、確認しました。指摘を反映して頂いて、ありがとうございます。

伊勢田さんの批判的検討を受けて、菊池さんが反応しておられます。

https://twitter.com/kikumaco/status/1168160176311955456

つまり、インフォームド・コンセントがなされていないのは明らかなので、伊勢田さんの批判は当たらない、という意見のように見えます。しかるに、私が解釈した伊勢田さんの主張は、

 あくまでインフォームド・コンセント等の部分から詳細に検討するのが重要だ、という事であって、インフォームド・コンセントがなされていないのをもってすぐに
《ヘルシンキ宣言に照らして人権侵害だと言える》
との菊池さんの主張が成り立つ訳では無い。

このようなものだと考えています。
7. Posted by TAKESAN   September 03, 2019 20:38
今晩は。

twitterでのやり取り、拝見しております。

大変に不躾で失礼な物言いとは存じますが、敢えて申し上げます。
もう、菊池さんや黒木さんとはやり取りなさらずともよろしいと思います。もう、建設的な議論など望むべくも無いという事を、伊勢田さんも理解なさったのではないかと拝察します。

検診の論理についても、菊池さんは極めて不正確(例:《微小乳頭がんの割合》)で、発言もぶれています(《例:余剰発見の割合》。ヘルシンキ宣言に触れる頻度への言及)。
ですから、検診の論理に関する議論自体も、実りあるものにはならないと考えます。

元々の伊勢田さんの意図は、ヘルシンキ宣言に絡めて《人権侵害》を訴える菊池さんの主張の正当性を吟味する、といったものだったのでしょうけれど(関連で、菊池さんは、検査をおこなう関係者を《マッドサイエンティスト》とまで言っています)、既にそれからもかけ離れている様子ですし。

検診の論理についての議論、に絞れば、名取宏さんか、私の記事(私は、それなりの事を書けていると自覚しています)等を参照なさるとよろしいと思います。

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