『〈現在〉という謎』の感想生物学者は「自然主義的誤謬」概念をどう使ってきたか

June 17, 2020

井上さんの書評へのお答え

翻訳家の井上太一さんが『マンガで学ぶ動物倫理』の書評を公開された。

井上太一さんは動物擁護運動(わたしは包括的な名称として「動物保護運動」を使っていますが、ここでは井上さんの表現をお借りします)関連の書籍の気鋭の翻訳家であり、私も井上さんの訳された本はいくつも参照させていただき、勉強させていただいている。そうした方にわれわれの本を評していただけるのは大変ありがたいことである。
以下、井上さんが批判的なコメントをされている箇所にしぼってお返事を書きたいと思う。

動物実験をめぐる本書の説明は、あたかも国内外における動物実験の規制が、実験業者によって積極的に進められてきたかのような印象を与える。

19世紀から20世紀初頭のフランセス・コビーらの動物実験反対運動は当時の動物擁護運動の主流になることができず、運動として停滞したというのがわたしの認識です。ラッセルとバーチ以前についての記述はそれをもとにしています。ラッセルとバーチの動物実験に関する研究や書籍はそうした外からの圧力が空白になっている時期に行われていて、それを実験者側の自主的な運動として記述しないのはむしろ実験者の側に対してアンフェアです。「ようやく動物実験の規制が進められだしたのは、ヘンリー・スピラをはじめとする卓越した活動家たちの努力が社会の問題意識を喚起した後のことであり」とありますが、ラッセルとバーチの3つのRがスピラの活動より前に提案されているということを井上さんはどう捉えるのですか。
もちろんそれがすぐに動物実験業界の具体的な規制にならなかったというのはそのとおりですが、そのこと自体「直後にはほとんどインパクトがなかった」「動物の権利運動が登場して状況が変」わったとしてわたしの解説に書いてあります(42ページ)。もっと書けということなのでしょうが、そこは井上さんとわたしのバランスのとり方の違いだと思います。

これらは日本の科学業界が動物福祉を徹底している、との誤解(致命的な誤解!)を初学者に与えかねない。

この論点は書き方が難しいところです。井上さんもご存知のとおり、動物実験をする研究者の側では、日本では各動物実験機関が内容的に欧米と同等の動物実験指針を設けていてきちんと運営されているので、法律レベルで細部を規定する必要はないのだ、という見解の方が多くいます。(そういう方に対して「でも動物実験委員会に外部の委員は入っていませんよね」と言っても、外部委員の重要性というものについて認識を一致させるのはなかなか大変です。)そういう人からすれば、井上さんがここで書かれているようなことだけ書けば、「日本の科学業界が動物福祉についての規制を行っていないという致命的誤解を初学者に与えかねない」と感じるでしょう。ここは、対立する2つの立場の方たちが認識のすりあわせを始めることすらまだできていない領域だと思います。そこに踏み込むのはこの短い解説では避けざるをえませんでした。

私見では、これは絶対に実験業者が勝つ論理となっている。

これも、動物実験を実施する側と批判する側で、状況がぜんぜん異なって見える箇所だと思います。わたしとしては両方の視点を往復しながら書こうとした箇所ではありますが、たしかに実験者側の視点からの記述が多めになっているかもしれません。ただ、こうした記述をしている意図は、実験者側を弁護するというよりは、彼らからは状況がこんなふうに見えているのだ、ということを踏まえて、批判する側にもより建設的な対話のきっかけをつかんでもらえないかという願いからです。井上さんから「勝手な不信を口実」にしていると見えるものは、実験者側からは、彼らが直接・間接に見聞きしたことへの自然な反応と感じられています(というのがわたしが動物実験をされる方たちと話した印象です)。そのギャップはすぐには埋まらないでしょうが、もしギャップを埋めようと思うなら、まずギャップがあることが共有されなくてはなりません。
「実験業者が勝つ論理となっている」という井上さんの感想は、このくだりを書いた意図が井上さんに伝わっていないということで、大変残念だと思います。そもそも勝ち負けに直接つながる話をしているつもりはありません。

「動物実験廃止運動団体も含めたステークホルダーとの会合を定期的にもち、その結果として動物実験廃止を決定している」(p.54)という。これだけを読むと、あたかも資生堂が率先して動物実験の廃止に取り組み、動物団体に意見を求めてきたという印象を受けるに違いない。(中略)動物実験の廃止を達成したのは草の根の市民である。それを資生堂の自主的な努力のように思わせる記述は、不正と闘ってきた人々の貢献を歴史から葬ることになるだろう。

この一文からそういう印象を受けるでしょうか。私自身はだれかがこういうことを書いていたら「資生堂のような大手がそういうことをするとはいろいろあったんだな」と思うだろうと思います。わたしはもしかしたら読者のそうしたことへのリテラシーを高く見積もりすぎなのかもしれません。
いずれにせよ、私自身が積極的に「資生堂が率先して動物実験の廃止に取り組んだ」という記述をしているわけでもないのに、その書いていないことを読み取って、そのことについて「不正と闘ってきた人々の貢献を歴史から葬る」ときつい言葉で反応するのは、わたしには少し難癖のように見えます。

私には施設の内情暴露や実験者の告発がなぜ「過激」なのか分からない。

確かに本文と注の対応関係がちぐはぐになってはいると思います。「過激な活動」というのなら、むしろ動物解放戦線の名前で行われる放火や施設爆破を例に挙げるべきでしたね。ただ、そういう明確な破壊活動については調べても背後関係がよくわからないところがあって、事例としては避けて話を進めてしまいました。

その同じ施設の職員らによる動物の扱い――拘束、監禁、打撃、切断、強制水泳、毒物注射、疾病誘発、放射線照射、電気ショック、ギロチン――は何と形容すればよいのか。

批判する側からは意味のない拷問のように見えるものが、実験者の側からはまったく違って見えています。井上さんの立場からそのようにおっしゃるのはわかりますが、その言い方で語りはじめたとき、動物実験について建設的な対話をするのはとても困難になると思います。最終的には動物実験反対運動から動物実験がそう見えているということを動物実験者の側に腑に落ちてもらいたいわけですが、それをちゃんと聞いてもらうというのはとてもデリケートな作業です。

なお、活動家が施設から奪った動物を逃がすという記述は誤解を招く。動物は良心的な里親に保護されるのであって、無責任に野に放たれるのではない。

そうですね。では「動物を逃がす」を「動物を盗む」と言い換えましょうか。主観的には保護の活動でも法律的には窃盗です。

動物園の起源を考える場合は、王侯貴族が植民地や征服地の珍しい動物を蒐集品として囲い込んだ私有動物園(menagerie)の歴史までさかのぼらねばならないと思われる。

動物園にそうした前史があるのはたしかにそのとおりですね。ただ、もちろんそれはzooと名付けられた時点で、意識的にそうした前史と一線を画す形で「動物園」が構想されたということでもあります。井上さんの言うような側面を強調するならば、今度は動物園の側からは「王様の趣味と一緒にされるのは迷惑」という反応がかえってくるでしょう。

私見では、本書の記述はなるべく中立的であることに努めながらも、結果としては動物産業に好意的となっている印象がある。おそらく動物倫理に「中立的」な記述はありえない。

おっしゃるとおり、動物倫理に限らず、倫理問題において「中立的」な記述は、それ自体が一つの立場とならざるをえないと思います。そして、井上さんから本書を見たとき、「動物産業にずいぶん好意的だな」という印象をもたれるのはそれは自然なことだと思います。そしてまた、動物実験をされる側からは、この本は動物実験反対運動にずいぶん好意的だと見えていると思います。そうしたいろいろな視点を意識しながらわたしが選んだバランスがここだったということです。

両論併記という形で、搾取肯定派の主張と搾取否定派の主張を同列に並べ、どちらも同程度に妥当でありうることを示唆すれば、それは結果として搾取の容認となる。

そもそも動物実験を「搾取」と捉えるべきかということについて、動物実験反対運動の側とそれ以外の世間一般との間で大きなずれがあります。これもまた、井上さんからは当然そう見えるだろうし、世間の多くの人からはまったく違って見えるところだと思います。
ただ、本書でやろうとしていることの理解ということになると思いますが、「どちらも同程度に妥当であることを示唆」しているつもりはありません。対立する主張の妥当性を比較検討する前に、それらの主張がどういう文脈で、どういうふうにその問題を見ることから行われている主張なのかということを理解する必要があります。動物実験反対運動側が動物実験をどう捉えているかは、すでにさまざまな書籍があり、比較的容易に知ることができます。他方、実験者の側から問題がどう見えているかは、実験者たち自身がほとんど語らないこともあって、外部の人間にはよくわかりません。本書で主にやろうとしているのは、そうした見えにくい立場もふくめていろいろな「見え方」を共有することです。


したがって私が願うのは、本書を読んで動物を取り巻く倫理問題を知った人々が、今度は明確に動物擁護の視点から書かれた書籍へと進んでほしいということ、そして、動物倫理に関し日本で唯一無二の知識を持つ本書の著者・伊勢田氏が、そのような動物擁護論のテキストを編んでほしいということである。

動物倫理については若手の研究者の方たちが育っていて、その方たちの方がよほど動物倫理の現状についてはよく知っていると思います。わたしが「唯一無二の知識を持つ」というのは過大評価です。

こうして井上さんにフランクにコメントをいただけたのはとてもありがたいことだと思います。井上さんとわたしでは、このやりとりからも分かるように立場も問題の捉え方もかなり違うのですが、対話も、そして一致できるところがある場合には協力も可能な範囲内での「ずれ」ではないかと思っています。今後もお付き合いいただければ幸いです。





iseda503 at 13:07│Comments(2)

この記事へのコメント

1. Posted by 中村宗之   June 17, 2020 19:51
3 一点について。動物を盗む、という現行法および現行法に守られた動物実験を擁護するような表現をあえてとるかのような記述に関して。哲学や倫理学はさまざまな視点から正義を考察し、現行法を変える基礎になることもあると思います。盗むを無批判に使うことは、この文脈上、奴隷制が合法だったときに奴隷制を擁護しているだけの意味合いを感じます。動物を盗むまたは直接的に解放することが現時点で動物解放にとって効果的かということとは関係なく、上のように感じます。
2. Posted by mac   June 17, 2020 20:55
奴隷制が当時合法だったと評価することと奴隷制を擁護することはまた別の論点ではないでしょうか?

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