今回から、北岡さんのご尽力により、4〜5回のシリーズでマーラーの交響曲第8番につての説明をさせていただくこととなりました。演奏面でも、運営面でも、伊勢管弦楽団の総力をあげての演奏会となる第25回定期演奏会ですので、この拙文が少しでもこの曲への理解を深める契機となれば幸いです。お時間のある時に、ご一読下さい。第1回は、マーラーの生涯を概説し、交響曲第8番の成立史について述べたいと思います。なお、生涯を記すにあたって、マーラーの愛弟子であったワルターは、マーラーの作品は彼の内部生活の歴史であると述べています。

マーラーの生涯と交響曲第8番の成立

 1860年7月7日、グスタフ・マーラーはボヘミアのカリシュトに12人兄弟(ラ・グランジュによれば14人兄弟)の第2子として生まれた。両親はともにユダヤ人で、父ベルンハルトは、乱暴な性格であったが野心家で、行商人から店を構えて酒造業を営むまでに至った。母親マリーは、心臓病で足が悪く病弱で、優しい性格であった。マーラーは母親思いで、父親について語る時は冷淡であった。相次いで生まれたマーラーの兄弟たちのうち、5人は幼くして病気で死んだ。15歳になりマーラーはウィーン音楽院で作曲やピアノを学んだ。作曲家としてコンクールに出品したカンタータ「嘆きの歌」が、期待したような評判を得られなかったこともあり、マーラーは1881年以来、歌劇場の指揮者として活動を始め、次第に有力な劇場の指揮者としての階段を登っていくことになった(表1)。両親と妹のレオポルディーネは1889年に病死、弟のオットーは1895年に自殺した。このためマーラーには、多くの弟や妹たちの大黒柱となることが要請された。
 指揮者として歌劇場を厳しく指導し、その演奏のレベルの高さは激賞されるものの、劇場のスタッフと衝突することは若い時からしばしばあり、当時の反ユダヤ主義の風潮も加わって、マーラーに誹謗中傷が加えられることがしばしばあった。ユダヤ人としての自己の存在について、マーラーは「私は三重の意味で故郷喪失者だ。オーストリア帝国におけるボヘミア人として、ドイツにおけるオーストリア人として、そして全世界におけるユダヤ人として。」と述べている。歌劇場での楽長としての仕事が多忙であったため、作曲家としての活動は十分出来ず、表1に示すように、マーラーが毎年のように大作を作曲できるようになったのは、ウィーン宮廷歌劇場監督へ就任してからである。1897年におけるウィーン宮廷歌劇場監督への就任に先立ち、ユダヤ教からカトリックに改宗した。この改宗は、まずは監督就任への障害を取り除くためであったが、同時にマーラーはカトリックの神秘性に終生惹かれてもいた。

表1.マーラーの主要作品と作曲年代
作品 作曲年代 マーラーによる
全曲の初演
指揮の主な活動場所
嘆きの歌 1878
〜1880
1901  
さすらう若人の歌 1883 1896 カッセル
交響曲第1番「巨人」 1884
〜1888
1889 カッセル〜ライプツィヒ
交響曲第2番「復活」 1888
〜1894
1895 ブタペスト〜ハンブルク
少年の魔法の角笛 1888
〜1901
(個別に初演) ブタペスト〜ハンブルク〜ウィーン
交響曲第3番 1895
〜1896
1902 ハンブルク
交響曲第4番 1899
〜1900
1901 ウィーン
交響曲第5番 1901
〜1902
1904 ウィーン
亡き子を偲ぶ歌 1901
〜1904
1905 ウィーン
交響曲第6番「悲劇的」 1903
〜1904
1906 ウィーン
交響曲第7番「夜の歌」 1904
〜1905
1908 ウィーン
交響曲第8番 1906 1910 ウィーン
交響曲「大地の歌」 1907
〜1908
  ウィーン〜ニューヨーク
交響曲第9番 1909
〜1910
  ニューヨーク
交響曲第10番 1910
〜1911
  ニューヨーク

 1902年には、有名な風景画家であったシンドラーの娘アルマとの結婚(なお結婚の10年前に父親のシンドラーは亡くなっていた)と長女マリア・アンナ誕生、1904年には次女アンナ・ユスティーナ誕生という大きな出来事があった。アルマはマーラーより17歳も年下で、美貌と知性にあふれ、特に作曲については堪能でツェムリンスキーに学び(マーラーと知り合う前、この二人は恋人関係であったという)、ウィーンの社交界でも有名であった。アルマとの結婚生活は、マーラーの交際範囲を拡げて、マーラーの作風がより洗練されたものになることにも影響した。このようなアルマの援助のもとに、いっさいの俗事を超越して、指揮においても、作曲においても精神の理想に向かって邁進していくことができた。結婚以来アルマは、「マーラーによりかかるいっさいの禍を払いのけ、ひたすらこの人のために生きることが、私の使命なのだと感じ」マーラーにつくそうとした。マーラーは一方、自分の理想を追求し続け、アルマには結婚前までしていた作曲活動を禁じ、アルマに対してはしばしば教師のようにふるまった。アルマの方では、このような夫婦生活への不満は次第に大きくなっていったが、交響曲第8番の作曲当時、それが彼の音楽活動に深刻な影響を与えることはまだなかった。(夫婦生活の危機が突然表面化したのは、アルマが療養先で青年建築家グローピウスとの愛情関係に陥った1910年のことであった。)
 マーラーは、ウィーン宮廷歌劇場監督になった頃からは生活も安定し、指揮の仕事から解放される夏に、ヴェルター湖畔のマイアーニッヒの作曲小屋で集中的に作曲し、1〜2年に一つの交響曲(歌曲も含めて)を完成させるという生活であった。特にこの交響曲第8番は、2ヶ月という信じられないような早さで全曲がほぼ完成されている。1906年8月の指揮者メンゲルベルク宛の手紙には、次のように記されている。 「私はちょうど、私の『第8』を完成させたところです。これは今まで私が作曲したうち最大のものです。それは内容的にも形式的にもまったく独自なもので、とてもそれについて文字に書き表すことはできません。宇宙そのものが音を発し、響き出す様を想像してごらんなさい。そこにあるのはもはや人間の声ではなく、回転する惑星や太陽なのです。」  妻のアルマによると、この作品の成立経過について、まず9世紀の大司教マウルスによる賛歌「来たれ、創造主よ」を用いることが決まっていたが、マーラーの手元に正確なラテン語の全文がなく、ウィーンに電報を打って取り寄せてみると、これまで作曲してきた音楽に歌詞全文がぴったりあったとされ、マーラーの霊感と超人的なこの曲への取り組みが強調されている。マーラー自身も、「自分は書きとらされたのだ」と繰り返し話していた。
 当初は、9世紀にマウルスにより書かれた聖霊降臨祭のための賛歌「来たれ、創造主よ、聖霊よ」を第1楽章とし、第2楽章は「スケルツォ」または「カリタス」、第3楽章は「アダージョ・カリタス」または「幼子イエスと一緒のクリスマス劇」、第4楽章は賛歌「エロスの誕生」または賛歌「エロスによる創造」として構想された。第1楽章はそのまま第1部となったが、第2〜4楽章は、第1部を作曲している最中に2部としてまとめられることになり、ゲーテの「ファウスト」第2部の最終場面に変わった。一見、聖霊降臨祭のための賛歌と、ファウストの終末とは無関係に思われるが、マーラーの作曲小屋には、いつでもゲーテの全集があり、それにはゲーテが「あまねく世界人心へ訴えるアピール」と表現した「来れ、創造主よ」のドイツ語韻文訳が収められていた。キリスト教での愛(カリタス)と、真善美に到達しようとする衝動であるエロスの統合をファウストの終末に認めたマーラーにとって、元の構想の2楽章以下をファウストの終末に変更したことは、突飛なことではなかった。マーラーはエロスについてはプラトンから学ぶところが多かったが、後日、マーラーはアルマへの手紙で以下のように述べている。
 「すべての愛は生産であり創造であって、生産にも肉体的なそれと精神的なそれがあり、これこそあのエロスの所産にほかならないという見方なのだ。『ファウスト』の最終場面でも、このことは象徴的に歌われている」
 この交響曲第8番を作曲した翌年の1907年にマーラーは、長女マリア・アンナの突然の病死、自身の心臓疾患の宣告、ウィーン宮廷歌劇場における反マーラー・キャンペーンの高まりと監督辞任という3重の打撃を受け、その後妻アルマの不倫問題も重なり、交響曲「大地の歌」、交響曲第9番、交響曲第10番と、死の問題に直面した内容の作曲を続けた。このような苦しい状況の中で、1910年マーラーは交響曲第8番の初演に膨大なエネルギーを使い、数ヶ月にわたる練習期間を経て同年の9月ミュンヘンで初演した。生涯の最後はウィーンに帰ることを希望したマーラーであったが、第8番の初演場所については、ウィーンを拒否しミュンヘンを選んだ。この初演は、音楽会企画者グートマンの協力ものと、管弦楽171人、合唱500人、児童合唱350人、独唱8人で演奏され、初演時に「千人の交響曲」の愛称がグートマンによってつけられ、マーラーの作品のこれまでのどの演奏会よりも、圧倒的な感動をもって迎え入れられた。ただ、マーラーは「千人の交響曲」という呼称は嫌がっていた。初演の8ヶ月後の1911年5月11日、連鎖球菌感染症のため、マーラーはウィーンで死去した。
 マーラーの生涯と作品を第4交響曲までの第1期、第5番から第8番までの第2期、「大地の歌」からの第3期と分類することは定説となっている。第1期と第2期は、生活上はアルマとの結婚や1901年の大病の経験によって、様式上は第1期作品群がすべて、マーラー自身の歌曲と関連が深いのに対して、第2期は器楽だけの交響曲が3曲続くことなどで区別される。また第2期と第3期は、1907年にマーラーに起こった3つの悲劇と死への直面によって分けられる。マーラー自身は、第8番を完成した時、これまでの作品をこの第8番の前奏曲と呼んでいたが、ラ・グランジュが指摘しているように、徹底的に肯定的な作品を創ることによって、第2期の作品群の第6番や「亡き子を偲ぶ歌」における悲劇性や第5,7番における多義性を克服したいと思っていたのではないだろうか。(2005.9.25 記)

 来年2006年は、マーラーの交響曲第8番が作曲されて100年目という記念すべき年です。次回は、歌詞の内容、すなわち「来たれ、創造主よ」と「ファウスト」について、述べたいと思います。

伊勢管弦楽団 音楽監督  大谷 正人