はじめに
スメタナの代表作「わが祖国」の背景には、チェコ国民楽派の創始者としてのスメタナの波瀾万丈の生涯とチェコの苦難の歴史があります。その両者をしらないと、この傑作の正しい理解はできないでしょう。そこでまずチェコの歴史から述べて、次にスメタナの生涯、最後に曲目解説をしたいと思います。なおスメタナの生涯に関する文章は、拙著(「音楽における永遠をめざして ―音楽のパトグラフィー2―」)の中にある文章をそのまま引用しました。
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チェコは西スラブ人が在住し、チェコ語はポーランド語などスラブ系言語に近いが、10世紀以降神聖ローマ帝国に属し、ドイツとの結びつきが強かった。地理的にもゲルマンとスラブの接点に位置し、スメタナが活躍した19世紀半ばから後半にかけては、1867年まではオーストリア帝国、1867年以降はオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあった。1848年のパリ2月革命により、欧州全土に革命の風潮が拡がり、ブタペスト革命ではハンガリーが独立を宣言したが、プラハ革命は鎮圧された。1867年のプロシアとオーストリアの戦いでオーストリアは大敗し、その結果オーストリアはハンガリーと手を結び、帝国を維持しようとした。そのためチェコは当時、自治の認められていないオーストリア=ハンガリー帝国の一領土であった。チェコにはスメタナのようにチェコ語よりもドイツ語を先に修得するチェコ人が多くいた。
19世紀は、ヨーロッパで諸大国が勢力争いにしのぎを削った時代であるが、中欧においては、支配していたハプスブルグ王朝のフランツ・ヨーゼフ皇帝が、各地の文化は大切に育てたが、帝国の維持のためにやむを得ずに認めたハンガリー以外、自治は認めない方針だったため、チェコにおいても民族主義の高まりは大きかった。スメタナは、19世紀のドイツ音楽(ワーグナーやリストなど)の音楽をふまえながらも、民族的な象徴内容を表現することにより、近代的なチェコ音楽を創設しようと奮闘した。
スメタナが亡くなる頃までのチェコの歴史上、重要な出来事としては、以下があげられるだろう。
1346年〜1378年 神聖ローマ帝国のカレル四世の統治(カレル四世はボヘミア国王でもあり、当時 はオーストリアに統治される前のチェコの最盛期であった。プラハ大学も創設されプラハ 城も現在の姿になった)
1415年 フスの死(フスはプラハ大学長で教会の改革を唱え、コンスタンツの宗教会議の 結果、火刑に処せられたが、チェコの民族的英雄として尊崇されている)。
1419年〜1436年 フス戦争(フスの教理を信じるフス派とカトリック・神聖ローマ帝国の 戦い。最後はフス派内の分裂もあり、フス派の敗北に終わった。フス派内の急進派はター ボルを本拠地としたためターボル派とも呼ばれた)
1620年 ピーター・ホラ(白山)の戦い(30年戦争、すなわちボヘミア諸侯とオーストリ アの戦いが終結しチェコ王国が独立を失いハプスブルク家に従属する)
1787年 モーツァルトの「フィガロの結婚」がプラハで大人気を博し「ドンジョバンニ」 も同年プラハで初演されて大成功を収めた。
18世紀末〜19世紀初め チェコ語を文化上で復活させる試み
1848年 パリの2月革命に端を発した革命運動(鎮圧される)
1867年 オーストリア=ハンガリー帝国の成立
1868年 国民劇場の起工式(この時スメタナは、「チェコ人の生命は音楽にある」と述べた)
1871年 ドイツ帝国の成立
1879年 ドイツ・オーストリア同盟の成立
1881年 国民劇場(民族劇場)の創設
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ベドジフ・スメタナは、ボヘミアの醸造家であり、熱心なアマチュア音楽家である父親フランティシェックと母親バルボラの子供として、ボヘミア東部のリトミシュルで1824年に生まれた。音楽の最初の教師は父親であったが、個人レッスンを数人の教師から受けた後は、1840年から3年間、プルゼニュのギムナジウムで専門的な教育を受けた。ダンス曲のピアニストとしても活動していたが、当時最初の妻となったカテジナ・コラージョヴァーと出会い恋するようになった。カテジナはピアニストとしても才能があった。父親が経済的に苦しくなり、父親からの経済的援助が見込めなくなると、スメタナはプラハに行き、ピアノを教えながら、作曲のより専門的なレッスンを受けることとなった。1848年には音楽教室を創設したが、財政的には苦しいままで、スメタナは私的にレッスンを続けなければならなかった。1849年にカテジナと結婚し、4人の子供が生まれたが、4人中3人は1854年から1856年の間に亡くなり、特に長女の死を深く悲しんだスメタナは、その痛みをピアノ三重奏曲の作曲の中で昇華している。このピアノ三重奏曲は、プラハを旅行していたリストの前で私的に演奏されたが、リストに激賞された。当時から妻のカテジナは、結核を患うこととなっていった。1848年フランスの2月革命に触発される形でチェコの自由と解放をめざしたプラハ革命がおこったが、オーストリア軍に鎮圧された。これらの事件の後から、ドイツ語で日常生活を送っていたスメタナはチェコ語を学ぶようになっていった。その後の政治状況も愛国心の強いスメタナにとって絶望的なままであったが、政治状況に加えて経済状態も改善せず、友人のすすめもありスメタナはスウェーデンのイェーテボリへの旅行を計画した。
1856年スウェーデンでピアニストとして演奏会を開いたところ成功を収めたため、スメタナはスウェーデンに住むことを決意し、音楽学校を創設し、合唱団や管弦楽団の指導などもするようになった。父親が危篤との知らせを聞いて一時チェコに帰国したが、その後もスウェーデンに滞在を続け、親交もあり尊敬していたリストの影響もあり、当時から交響詩の作曲も始めるようになった。スウェーデンでの生活は、経済的にはうまくいっていたが、カテジナの健康には悪く、1859年カテジナをチェコに連れて帰る途中のドレスデンでカテジナは死去した。1859年にオーストリア軍がナポレオン三世率いる連合軍(イタリア統一にかかわる戦争)に敗れたことをきっかけとして、チェコで自治が拡大された。1861年にチェコ国民オペラが開設される見込みができると、スメタナはプラハに戻ることとした。また、先立つ1860年にスメタナは、弟の義妹にあたるベティナ・フェルディナンドヴァーと再婚した。
プラハに戻ったスメタナは、劇場の指揮者になることを目指したが、リストに近い新ドイツ派であるとして、保守的な音楽家から敬遠されていたこともあり、不遇な時代がしばらく続いた。スメタナのオペラ「ボヘミアにおけるブランデンブルクの人々」と「売られた花嫁」の成功により、1866年に仮劇場(国民劇場完成までの劇場)の首席指揮者の地位を得た。そこでは歌劇場の改革に努めたが、批評家からは、スメタナの作品は民謡の引用による国民音楽の創造という理念に反していると非難され、ヴァーグナー主義者と叩かれた9)。劇場におけるスメタナ擁護派とスメタナ解雇派の争いは、政界まで巻き込む形で1872年にピークを迎えたが、同年にスメタナが再雇用の契約をかわすことになった。しかし、この間の心労はスメタナの健康に後に重大な影響を与えることとなった。
1874年にスメタナは、交響詩「わが祖国」の第1曲「ヴィシェフラト」を仕上げていたが、健康状態が明らかに悪化してきた。潰瘍、のどのトラブル(扁桃腺炎)、聴力障害、めまい、皮疹が生じてきた。原因は梅毒であった。特に1874年の7月に始まった聴力障害は急速に進行し、治療を試みるにもかかわらず、1874年10月には聴力を全く失った。劇場での上演権に対する報酬も十分に与えられず、経済的にも苦しくなったスメタナは1876年にはプラハの家を引き上げ、ヤブケニツェにある結婚した娘の家に世話になることになった。1876年に、スメタナは日記に次のように書いている。
「絶望に陥り、私の苦悩を無理矢理終わらせないために、あらゆる勇気と力をふりしぼらなければならなかった。家族への思いと私の民族・祖国のために作曲しなければならないという思いだけが私を支え、私を新しい仕事へと鼓舞した。聞こえないことは、それだけならまだ耐えられないことではなかった。最大の苦悩は、絶えず耳鳴りがして、その耳鳴りが私の中で響きだしている音楽を妨げることだった。最後には、仕事を断念するしかなくなってしまうのである。」
この苦難の中で、スメタナは、歌劇や「わが祖国」の作曲を続け、また弦楽四重奏曲第1番「わが生涯より」も1876年に完成していった。1877年になると聴力障害だけでなく、耳鳴りが終日続くために1日に1時間以上作曲できない日々が続き、抑鬱気分も増えていった。1877年10月に彼のオペラの台本作者に、以下のような手紙を書いている。
「私の音楽は、喜劇にふさわしい快活さがなくなっているのではないかと思います。でも、どうして快活でおれましょうか。私の心が困難と悲しみで一杯になっている時に、幸せはどこから来るのでしょうか。困難を伴わずに仕事がしたいのですが、運命はそれを許してくれません。自分の前途に貧困と不幸しかみえない時に、仕事に対する熱中は不可能となり、少なくとも快活な気分はなくなっているのです。でも、私に第2幕の原稿をすぐに送って下さい。音楽に打ち込んでいる時だけ、私の老年期に私を残酷に悩ませているすべての事を一瞬忘れることができるのです。」
また1877年末になると、めまいも頻回となっていった。このような悪状況の中で、1878年から1879年にかけて、「わが祖国」の第5,6曲である「ターボル」と「ブラニーク」を作曲し、歌劇の作曲も続けた。1881年には、耳鳴りはますますひどくなっていった。1882年になると、「わが祖国」が全曲演奏されて大成功を収めたものの、スメタナ自身は寒気、眠気、失神に加えて、記憶障害、言語障害や歩行障害も生じ、1日に数小節作曲するのが精一杯という状況となっていった。1883年には弦楽四重奏曲第2番を完成させたが、その後精神障害が進行し、1884年4月には幻覚が増悪し錯乱状態になり精神病院に入院し、1884年5月に死去した。
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スメタナの作曲の中心は、オペラと交響詩であった。交響詩については、親交があり尊敬していたリストの影響もあり、標題音楽の持つ強い表現力を信じ、スウェーデン時代から作曲を続けていた。1870年頃から国民的・記念碑的音楽を作曲しようと連作交響詩を構想していた。実際に「わが祖国」を作曲したのは1874年から1879年にかけてであるが、「ヴィシェフラット」と「ヴルタヴァ」は1874年に作曲、「シャールカ」と「ボヘミアの草原と森」は1875年に作曲、「ターボル」と「ブラニーク」は1878年と1879年に作曲というように作曲年代の開きがみられる。「ヴルタヴァ」以降の5曲は、スメタナが聴力を完全に失ってから作曲されている。最後の2曲を作曲する前に弦楽四重奏曲第1番「わが生涯より」やオペラの作曲もなされており、特に「ターボル」と「ブラニーク」は健康状態の悪化と闘いながら作曲が続けられた。
スメタナは標題の意図を聴衆に理解させるために、曲の解説を書いている。標題を知らなくても感動する曲も少なくなく、曲によっては標題にとらわれすぎるのは、曲を理解する上でかえってマイナスとなる危険もあるが、スメタナの言葉などをまず引用しながら、曲について説明を加えたい。
1.ヴィシェフラット
「吟遊詩人達(ミンストレル)のハープが前奏を構成する。ミンストレルの歌は王家であるヴィシェフラットの居城の歴史を魔法をかけて回想する。偉大なる過去とその輝かしき栄誉、居城をめぐる戦闘と衰退、そして最後の陥落へと、音楽はメランコリックに鳴り響く。」
ヴィシェフラットは以前は「高い城」と訳されていたが、プラハの中心街から南南西2kmあまりのところにある城跡の地名で、フス戦争ではヴィシェフラットの戦いもあった。現在スメタナの墓もヴィシェフラットにある。冒頭にハープで演奏され、次に木管楽器に引き継がれる2つのヴィシェフラットの主題が、2曲目「ヴルタヴァ(モルダウ)」と終曲「ブラニーク」の最後でも堂々と奏でられ、チェコ民族復興の願い、またスメタナの祈りを象徴する主題としてなり響く。
2.ヴルタヴァ(モルダウ)
「第2曲はヴルタヴァ川の流れを描写している。最初に2つの源流が現れる(暖かいヴルタヴァ川と冷たいヴルタヴァ川)。これら2つの支流はやがて合流して、広大な牧草地と森を通り抜け、村人たちの賑わう陽気な祝祭を過ぎて進む。そして銀色の月明かりの下では水の精が踊り回る。誇り高き城、宮殿、神々しい古びた廃墟、それらが荒々しい岩と一つになって通り過ぎる。ヴルタヴァ川は聖ヨハネの急流に淀んで旋回し、プラハに向かってようようと流れ出る。ヴィシェフラットが威厳を帯びて川沿いにその姿を現す。ヴルタヴァ川は次第に視界から遠ざかり、最後はラベ川(ドイツ語でエルベ川)に注ぐ。」
ヴルタヴァはモルダウという名前で有名で、プラハ市内を流れる大河であるが、モルダウ
はドイツ語名なので、ヴルタヴァと言うべきであろう。フルートのクラリネットによる前奏の後で、ヴァイオリンなどによって演奏される主題は、余りにも有名である。「森の狩り」「村の婚礼」「月の光と川の妖精の踊り」の部分を経て、もとの主題が再現されて、「聖ヨハネの急流」となる構成は、大きく見ると3部構成となっており、わかりやすく、音楽も変化に富み美しく、人々から永く愛され続けている。
3.シャ−ルカ
「私の作品の観念は、一語でいえば、若い英雄的な女性シャールカ自身である。はじめに、彼女の男達に対する怒り、屈辱、激怒―恋人の背信の結果による―復讐の誓いを語る。スティラートとその兵士達は、いまや場面に登場する。そして、スティラートは、木に縛り付けられた哀れな様子の彼女を見る。彼女の美しさに驚いて、彼は彼女と恋に陥る。彼女は彼を刺激し、その兵士達を酔わせ、大騒ぎさせたあげく深い眠りに陥らせる。角笛が彼女の女達に彼女の信号を発する。そのこだま。女達は無活動状態の陣営を攻撃する。その勝利」
非常に情熱的な曲であり、上記の標題がなくても、その熱情、興奮が伝わってくる。クラリネットの2回にわたるソロが印象的であるが、シャールカ自身を表現しているのだろう。
4.「ボヘミアの草原と森から」
「ボヘミアの風景を眺めた時に受ける情感が描かれている。至る所から柔らかな歌声が空中を満たし、すべての木立、咲き乱れる野原、そのすべてが陽気でメランコリックな歌を誘う。森はホルンで示され、明るい肥沃な低地は喜ばしい主題で描かれている。誰もがこの曲から、自分にとって心より好ましい思い出を引き出すであろう。詩人には限界がない」
他の5曲のような物語的な題材はないが、ホルン、クラリネットによる森のコラールやスメタナの愛したポルカ(4分の2拍子のチェコの舞曲)などもあり、親しみやすい作品となっている。
5.「ターボル」
「曲全体はフス派のコラールに基づく。ターボルの地はフス派の主要な根拠地である。疑いなくこのコラールは最も力強く頻繁に聞こえてくるに違いない。この曲はフス教徒達の決定と意志の力を表している。また彼らの頑強な闘争、その恐れのなか、忍耐力、妥協のない態度、それらは特に象徴的な詩の最後で強調される。楽曲は詳細に区分されず、フス教徒達の誉れ・偉大さ・性格の強さを讃えている。」
フス派の賛美歌が3つの主題として頻繁に現れるが、最初の賛美歌が曲全体を支配している。戦闘的な雰囲気を描写したような音楽が続き、曲は悲劇的な色彩を帯びながらも力強く終わる。攻めようとしては抵抗にあうその音楽は、スメタナ自身の状態を象徴しているように思われる。
6.「ブラニーク」
「ブラニーク(ブラニークは山の名前)のふもとでフス派の戦士達がボヘミアを悲劇的な圧政から救おうとして、招集を待機しながら眠っていた。そこに、フス派の賛美歌『汝らは神の戦士』がきこえてくる。羊飼いの牧歌的な感想があり、羊飼い達が山の斜面にくる。やがて、敵の来襲があり、新しい賛美歌『汝らの神と共に勝利を収めよ』が行進曲のリズムで現れる。そしてフス派の人々は、戦闘に立ち上がり、大きな勝利を収める。」
ターボルで演奏されたフス派のコラールが3つともこの曲でも現れる。第1のコラールは冒頭に、第2のコラールは牧歌風のところで少し形を変えて、そして第3のコラールが曲の後半を支配する。最後には、全曲の冒頭の演奏されたヴィシェフラットの主題が民族の復興を願って感動的に再現されて、勝利のファンファーレで終わる。
「わが祖国」を理解する上で、標題の理解は重要である。この曲の主要なテーマである民族の自由と平等を求めての闘いは、人類共通の願いでもある。ただ標題理解以上に、スメタナの生涯との関連において曲を理解することや、音楽そのものの美しさを体験することが、より重要と思われる。聴覚を失い指揮者としての活動を断念し、生計を立てることすらも困難になり、耳鳴りや健康状態の悪化に悩まされていたスメタナにとって、「わが祖国」を作曲して完成させることは、生きる上での祈りであった。悲劇的な第5曲「ターボル」から英雄的な第6曲「ブラニーク」へと向かう音楽の流れに、チェコ民族だけではなくスメタナ自身の運命や思いが重ねられているのではないだろうか。この曲にこめられた祈りや音楽の美しさ、情熱は、チェコという民族を超えて、全世界の人々に感動を与え続けるだろう。
参考文献
内藤久子:19世紀における「ナショナリズムの音楽」の刷新 ―B. スメタナの交響詩《我が祖国》の詩学―.鳥取大学教育地域学部紀要2(1):89-107、2000
内藤久子:チェコ音楽の魅力 スメタナ・ドヴォルジャーク・ヤナーチェック,東洋書店、2007
門馬直美:交響詩「わが祖国」.名曲解説全集4、管弦楽曲�機�pp. 424-436、1980、音楽之友社
大谷正人:音楽における永遠をめざして ―音楽のパトグラフィー2―.大学教育出版、2013
伊勢管弦楽団 音楽監督 大谷 正人
