指揮者の部屋

シュトラウスの生涯

はじめに

 今回の指揮者の部屋では、ヨハン・シュトラウスについてご紹介いたします。ヨハン・シュトラウスの名前は有名ですが、日本語による伝記などは意外と非常に少ないです。シュトラウス・ファミリーについても、ヨハン・シュトラウス二世がワルツ王で、父親も同じヨハン・シュトラウスという名前、弟ヨゼフ・シュトラウスも「天体の音楽」などよく似たワルツを作曲している、という程度の一般的認識ではないでしょうか。「こうもり」とウィーン・フィルによるニューイヤー・コンサート(始まったのはオーストリアがナチス・ドイツに占領された1939年です)がなければ、ワルツ王のヨハン・シュトラウス(二世)ですら19世紀ウィーンの流行作曲家としての地位にとどまってしまうとまで書いたら、シュトラウス・ファンのお叱りをうけそうですね。
 ヨハン・シュトラウスについて語る時、当時のオーストリアの政治状況とウィーンの風土についても触れざるを得ません。それらが音楽に大きな影響を及ぼしているからです。例えば「こうもり」の主役4人をみても、アイゼンシュタインはドイツ語で「鉄の石」の意味で、鉄血宰相ビスマルクを介した連想でプロシアを象徴しているように思われます。アイゼンシュタインに「こうもりの復讐」を果たすファルケはドイツ語でハヤブサの意味ですが、ハプスブルグ家によるオーストリア=ハンガリー帝国の紋章は双頭の鷲です。ファルケは戦争でプロシアに敗れたオーストリアの復讐を暗示しながら、こうもりの復讐(戦いではなく歌と笑いによる復讐)をしているのかもしれません。そしてロザリンデは、ロザリンデとしては素敵なウィーンのワルツを歌い、ハンガリーの伯爵夫人としては、チャールダシュを歌います。ハンガリーは「こうもり」が作曲される直前の1867年にオーストリアと対等な完全な自治を与えられた帝国内の地域です。これに対してアデーレは、女優の時はワルツを歌い、女中としてはポルカ(自治のほとんど認められていないチェコの舞踏曲)を歌います。
 私たちがウィーン人のまねをする必要はありません。あの名演を聴かせてくれたカルロス・クライバーもウィーンの歌劇場で「こうもり」の指揮をするのは嫌がって、ミュンヘンで大みそかなどによく指揮をしていました。しかしウィーンとその音楽の魅力をその背景と共に知り、音楽を楽しむことは大切だと思います。以下の拙文は、2013年10月20日の公演プログラムに掲載予定の解説です。


ヨハン・シュトラウス(二世)の生涯と「こうもり」の誕生

 ヨハン・シュトラウスは、1825年10月25日に同名の父親と母親アンナの長男として生まれた。父ヨハン・シュトラウスは、友人のヨゼフ・ランナーと共にウィーンのワルツを世界的な音楽にした音楽家であった。父ヨハンと母アンナの間には、1827年に弟のヨゼフ、さらに1835年にはエドゥアルトが生まれた。19世紀初めのウィーンはダンス・ブームで、父ヨハンもこのブームに魅せられて、ヴァイオリンの演奏による活動だけでなく、作曲活動も始めていった。父ヨハンは、仕事上は成功をおさめて自分の楽団を持つようになったが、家庭では暴君として振る舞い、息子ヨハンがヴァイオリンを弾くことなどを認めなかった。父ヨハンは愛人のところに通うことも多く不在であったため、母アンナが息子たちが音楽家になることの手助けをし、1844年ヨハン・シュトラウス二世は、父ヨハンの妨害を乗り越えてデビューし大成功となった。1848年にはフランスの2月革命に触発されてウィーンでも政治の変革の嵐がおこったが、この時に父ヨハンはラデッキー行進曲を作曲し、オーストリア帝国軍への支持を表明した。ウィーンにおける革命運動は失敗に終わり、革命の残党から非難を浴びながら1849年父ヨハンは病死した。その後、息子ヨハンは父親の楽団と舞踏会・演奏会への出演などもそのまま受け継ぎ、1862年最初の妻ヘンリエッテと結婚した。ヘンリエッテはシュトラウスよりも7歳年上の歌姫で数人の子持ちであったため、シュトラウスの結婚はウィーンの女性たちの失望を買うことになったが、ヘンリエッテのマネージャーとしての能力が高く、シュトラウスは経済的には裕福になった。1866年にオーストリアがプロシアとの戦いで敗れると、シュトラウスは敗戦した祖国を励ます意味もこめて「美しく青きドナウ」を作曲している。シュトラウスの音楽には、現実の苦しさや死への恐怖は忘れて、人生を楽しもうという傾向が強いが、これは当時のウィーンの多くの人々にもみられた人生観であった。これらの特徴は1868年に作曲した「雷鳴と電光」「ウィーンの森の物語」にもみられる。ウィーンの森では、貧しい農民が敗戦の被害を最も被り土地を開墾していたが、「ウィーンの森の物語」にみられる甘美なツィターの響きなどは、民衆よりも上流社会の音楽であるという傾向は免れないだろう。
 1873年のウィーンでは特筆すべき2つの出来事があった。一つは国際博覧会の開催であり、もう一つは博覧会開催の直後に発生した金融恐慌である。大金持ちが一夜にして乞食となってしまうほどのバブルの崩壊であり、このような混乱の影響も残る1873年の12月にオペレッタ「こうもり」の作曲が始まった。
 その経緯は以下のようである。テアター・アン・デア・ウィーンの総監督シュタイナーが、「真夜中の晩餐」というオペレッタの台本を買ったが、それを喜劇作家ハフナーとジェニーにウィーン向けに改作してもらい題を「こうもり」と改め、シュトラウスに見せたところ、この台本はシュトラウスの心を奪ってしまった。「こうもり」の作曲を始める前に、シュトラウスは既に2作のオペレッタを作曲していた。シュトラウスがこれまでのワルツからオペレッタへ、作曲の重心を移した背景にはいろいろな事情があった。まずは1860年代のウィーンでオッフェンバックのオペレッタが大流行したこと、それと妻のヘンリエッテやオッフェンバックの勧めもあった。しかしそれら以上に、1870年に最愛の母親アンナや弟のヨゼフ・シュトラウスを亡くしており、死への不安を感じやすかったシュトラウスが、流行作曲家として同じような雰囲気のワルツばかり作曲することに疑問を持ち始めたのかもしれない。
 シュトラウスの他のオペレッタは台本のまずさもあり上演は続かなかったが、「こうもり」は1874年の初演以来140年間、オペレッタの最高傑作として世界中を魅了しつづけている。そこには、楽しい歌や魅力的なワルツなどにあふれているだけでなく、富などの価値が不確かな世界における真実の美しさ、優しさ、ユーモアなどがあふれているからだろう。実際に「こうもり」を作曲したことにより、ヨハン・シュトラウス二世は音楽史上不滅になったのではないだろうか。生と死の意味などを自らの作品で追究し続けたマーラーもウィーン宮廷歌劇場総監督になった後、これまで宮廷歌劇場ではオペレッタが上演されることはほとんどなかったのに、周囲の反対を押し切って「こうもり」をレパートリーに加えた。その英断に、シュトラウス自身深く感謝した。
 1883年最初の妻に先立たれ、2番目の妻に逃げられたシュトラウスは、アデーレと3回目の結婚をした。この年には作曲意欲も回復し、「春の声」が作曲された。この後もオペレッタの作曲を続けていったが、1885年に作曲した「ジプシー男爵」以外では成功をおさめることはできなかった。1899年6月3日、シュトラウスは73年の生涯を終えた。


おわりに

 最後に個人的な思い出で恐縮ですが、1983年から1984年にかけてミュンヘンでクライバーの指揮で「こうもり」を2回みました。本当に素敵な演奏でしたが、同じクライバー指揮でみたラ・ボエームや「バラの騎士」と比べて「こうもり」では演劇だけのところが第3幕冒頭を中心にかなりあるので、ドイツ人が笑っていても一緒に笑えたのはそのうち一部で、ドイツ語が完璧に聞き取れず悔しかった思い出があります。現在オペラでは日本でも原語による上演が主流ですが、オペレッタではせりふ・演技の割合が大きいだけに、今回の「こうもり」の日本語公演は、聴いていただく方々にも十分に楽しんでいただけるのではないでしょうか。生きる意味を教えてくれるマーラー、ベートーヴェン、ブルックナーなどの傑作とは別の音楽の楽しさ、美しさが「こうもり」には満ちあふれていると思います。


伊勢管弦楽団   音楽監督  大谷 正人

モーツァルトのピアノ協奏曲

 モーツァルト(1756-1791)は自身で作曲したものとしては23曲のピアノ協奏曲を残していますが(最初の4曲は編曲したもの)、傑作揃いでピアノ協奏曲というジャンルはモーツァルトによって打ち立てられたと言ってもよいでしょう。モーツァルト研究家の中で最もすぐれた一人であるアルフレート・アインシュタインは、「ピアノ・コンチェルトにおいて、モーツァルトは、いわばコンチェルト的なものとシンフォニー的なものとの最後の融合の言葉を語った。この融合はより高い統一への融合であって、それを越えて行く《進歩》は不可能であった。なぜならば、完全なものはまさに完全だからである」と言っています。ピアノ協奏曲ではこのように完全な世界が表現されており、私自身は、モーツァルトが作曲した幅広いジャンルの中では、ピアノ協奏曲と歌劇に傑作が最も多いと思っています。このようなモーツァルトのピアノ協奏曲が23曲も後世に遺されたのは、人類にとって本当に幸せなことです。
 1784年から1786年にかけての音楽会シーズンには、第14番から第25番までの12曲のピアノ協奏曲がモーツァルト自身の演奏による予約演奏会のために作曲されました。モーツァルト自身が、協奏曲を余り音楽に聴きなれないような人が楽しめるようにも、同時にもっと進んだ耳をもっている人にも満足してもらえるように書くのだと言っていますが、その意図通り、自由に飛翔すると同時に構成感もあり、歌にあふれ、オーケストラの色彩感もある曲となっています。特に1784年12月から1785年3月にかけての冬のシーズンには19、20、21番のピアノ協奏曲が、1785年12月から1786年3月にかけては22、23、24番のピアノ協奏曲が次々に作曲されました。全く同時期、つまり初めのシーズンに「狩」や「不協和音」をはじめとするハイドンに捧げられたハイドン四重奏曲の数曲、後のシーズンには「フィガロの結婚」が作曲されています。この時代は、曲の量と質、そして人気という意味でモーツァルトの絶頂期であり、すばらしい協奏曲が次々と短期間で作曲されたのはすごいとしか言いようがありません。ピアノ協奏曲第22番はそのような傑作群の中の1曲です。


ピアノ協奏曲第22番変ホ長調 K.482について

 このピアノ協奏曲には、いくつかの特徴があります。まず第1に第3楽章の中間部にテンポがゆっくりのアンダンティーノ・カンタービレが置かれているためか、演奏時間が35分かかり、モーツァルトのピアノ協奏曲の中で最も長くかかることです。しかし構成も十分深く考えられており変化に富んでいるために、演奏者はもちろんのこと、聴き手を退屈させることはありません。第2にモーツァルトのこれまでの数々のピアノ協奏曲では、フルート、オーボエ、ファゴット、ホルン、(トランペット)という管楽器の編成でしたが、この曲ではオーボエの代わりに当時一般的に使用され始めたクラリネットが使われており、響きがそれだけ柔らかくなっていることです。また同様にクラリネットが加わったと言っても、ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488の場合、陰影の深いクラリネットA管でトランペットやティンパニを欠くのに対して、第22番ではB管クラリネットでトランペット、ティンパニも加わっているため、響きが華やかになっています。
 第1楽章は、アレグロの生き生きした楽章ですが、単純な音階進行によりながらも一度聴いたらその美しさが忘れられないような副主題、展開部における陰影に富んだ転調など、モーツァルト独自の表現の絶対的美しさにあふれています。第2楽章はアンダンテのテンポによるハ短調の深い情感をたたえた音楽です。モーツァルトは数は多くないですが、短調の珠玉のような楽章を作曲しています。この第2楽章もその一つです。32小節に及ぶ長い旋律は非常に美しく、歌に満ちあふれており、人の声で歌っても何も違和感がありません。6つの変奏曲が続きますが、どの変奏も表情が多彩に移り変わり非常に魅力的です。当時短調作品は余り好まれない時代でしたが、初演の時にはこのアンダンテがアンコールとして演奏することを求められました。第3楽章は、モーツァルトらしい疾走し飛び跳ねるようなアレグロの曲でロンド形式でできています。この楽章で特徴的なのは、先に述べたようにアンダンティーノ・カンタービレの中間部が置かれていることです。管楽器、弦楽器、ピアノが対話する天上の世界のような中間部の後は、生き生きした主部が戻り、華麗に曲が終わります。


伊勢管弦楽団  音楽監督  大 谷 正 人

スメタナの「わが祖国」

はじめに


 スメタナの代表作「わが祖国」の背景には、チェコ国民楽派の創始者としてのスメタナの波瀾万丈の生涯とチェコの苦難の歴史があります。その両者をしらないと、この傑作の正しい理解はできないでしょう。そこでまずチェコの歴史から述べて、次にスメタナの生涯、最後に曲目解説をしたいと思います。なおスメタナの生涯に関する文章は、拙著(「音楽における永遠をめざして ―音楽のパトグラフィー2―」)の中にある文章をそのまま引用しました。


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 チェコは西スラブ人が在住し、チェコ語はポーランド語などスラブ系言語に近いが、10世紀以降神聖ローマ帝国に属し、ドイツとの結びつきが強かった。地理的にもゲルマンとスラブの接点に位置し、スメタナが活躍した19世紀半ばから後半にかけては、1867年まではオーストリア帝国、1867年以降はオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあった。1848年のパリ2月革命により、欧州全土に革命の風潮が拡がり、ブタペスト革命ではハンガリーが独立を宣言したが、プラハ革命は鎮圧された。1867年のプロシアとオーストリアの戦いでオーストリアは大敗し、その結果オーストリアはハンガリーと手を結び、帝国を維持しようとした。そのためチェコは当時、自治の認められていないオーストリア=ハンガリー帝国の一領土であった。チェコにはスメタナのようにチェコ語よりもドイツ語を先に修得するチェコ人が多くいた。
 19世紀は、ヨーロッパで諸大国が勢力争いにしのぎを削った時代であるが、中欧においては、支配していたハプスブルグ王朝のフランツ・ヨーゼフ皇帝が、各地の文化は大切に育てたが、帝国の維持のためにやむを得ずに認めたハンガリー以外、自治は認めない方針だったため、チェコにおいても民族主義の高まりは大きかった。スメタナは、19世紀のドイツ音楽(ワーグナーやリストなど)の音楽をふまえながらも、民族的な象徴内容を表現することにより、近代的なチェコ音楽を創設しようと奮闘した。
 スメタナが亡くなる頃までのチェコの歴史上、重要な出来事としては、以下があげられるだろう。

1346年〜1378年 神聖ローマ帝国のカレル四世の統治(カレル四世はボヘミア国王でもあり、当時 はオーストリアに統治される前のチェコの最盛期であった。プラハ大学も創設されプラハ 城も現在の姿になった)
1415年 フスの死(フスはプラハ大学長で教会の改革を唱え、コンスタンツの宗教会議の  結果、火刑に処せられたが、チェコの民族的英雄として尊崇されている)。
1419年〜1436年 フス戦争(フスの教理を信じるフス派とカトリック・神聖ローマ帝国の 戦い。最後はフス派内の分裂もあり、フス派の敗北に終わった。フス派内の急進派はター ボルを本拠地としたためターボル派とも呼ばれた)
1620年 ピーター・ホラ(白山)の戦い(30年戦争、すなわちボヘミア諸侯とオーストリ アの戦いが終結しチェコ王国が独立を失いハプスブルク家に従属する)
1787年 モーツァルトの「フィガロの結婚」がプラハで大人気を博し「ドンジョバンニ」  も同年プラハで初演されて大成功を収めた。
18世紀末〜19世紀初め チェコ語を文化上で復活させる試み
1848年 パリの2月革命に端を発した革命運動(鎮圧される)
1867年 オーストリア=ハンガリー帝国の成立
1868年 国民劇場の起工式(この時スメタナは、「チェコ人の生命は音楽にある」と述べた)
1871年 ドイツ帝国の成立
1879年 ドイツ・オーストリア同盟の成立
1881年 国民劇場(民族劇場)の創設


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 ベドジフ・スメタナは、ボヘミアの醸造家であり、熱心なアマチュア音楽家である父親フランティシェックと母親バルボラの子供として、ボヘミア東部のリトミシュルで1824年に生まれた。音楽の最初の教師は父親であったが、個人レッスンを数人の教師から受けた後は、1840年から3年間、プルゼニュのギムナジウムで専門的な教育を受けた。ダンス曲のピアニストとしても活動していたが、当時最初の妻となったカテジナ・コラージョヴァーと出会い恋するようになった。カテジナはピアニストとしても才能があった。父親が経済的に苦しくなり、父親からの経済的援助が見込めなくなると、スメタナはプラハに行き、ピアノを教えながら、作曲のより専門的なレッスンを受けることとなった。1848年には音楽教室を創設したが、財政的には苦しいままで、スメタナは私的にレッスンを続けなければならなかった。1849年にカテジナと結婚し、4人の子供が生まれたが、4人中3人は1854年から1856年の間に亡くなり、特に長女の死を深く悲しんだスメタナは、その痛みをピアノ三重奏曲の作曲の中で昇華している。このピアノ三重奏曲は、プラハを旅行していたリストの前で私的に演奏されたが、リストに激賞された。当時から妻のカテジナは、結核を患うこととなっていった。1848年フランスの2月革命に触発される形でチェコの自由と解放をめざしたプラハ革命がおこったが、オーストリア軍に鎮圧された。これらの事件の後から、ドイツ語で日常生活を送っていたスメタナはチェコ語を学ぶようになっていった。その後の政治状況も愛国心の強いスメタナにとって絶望的なままであったが、政治状況に加えて経済状態も改善せず、友人のすすめもありスメタナはスウェーデンのイェーテボリへの旅行を計画した。
 1856年スウェーデンでピアニストとして演奏会を開いたところ成功を収めたため、スメタナはスウェーデンに住むことを決意し、音楽学校を創設し、合唱団や管弦楽団の指導などもするようになった。父親が危篤との知らせを聞いて一時チェコに帰国したが、その後もスウェーデンに滞在を続け、親交もあり尊敬していたリストの影響もあり、当時から交響詩の作曲も始めるようになった。スウェーデンでの生活は、経済的にはうまくいっていたが、カテジナの健康には悪く、1859年カテジナをチェコに連れて帰る途中のドレスデンでカテジナは死去した。1859年にオーストリア軍がナポレオン三世率いる連合軍(イタリア統一にかかわる戦争)に敗れたことをきっかけとして、チェコで自治が拡大された。1861年にチェコ国民オペラが開設される見込みができると、スメタナはプラハに戻ることとした。また、先立つ1860年にスメタナは、弟の義妹にあたるベティナ・フェルディナンドヴァーと再婚した。
 プラハに戻ったスメタナは、劇場の指揮者になることを目指したが、リストに近い新ドイツ派であるとして、保守的な音楽家から敬遠されていたこともあり、不遇な時代がしばらく続いた。スメタナのオペラ「ボヘミアにおけるブランデンブルクの人々」と「売られた花嫁」の成功により、1866年に仮劇場(国民劇場完成までの劇場)の首席指揮者の地位を得た。そこでは歌劇場の改革に努めたが、批評家からは、スメタナの作品は民謡の引用による国民音楽の創造という理念に反していると非難され、ヴァーグナー主義者と叩かれた9)。劇場におけるスメタナ擁護派とスメタナ解雇派の争いは、政界まで巻き込む形で1872年にピークを迎えたが、同年にスメタナが再雇用の契約をかわすことになった。しかし、この間の心労はスメタナの健康に後に重大な影響を与えることとなった。
 1874年にスメタナは、交響詩「わが祖国」の第1曲「ヴィシェフラト」を仕上げていたが、健康状態が明らかに悪化してきた。潰瘍、のどのトラブル(扁桃腺炎)、聴力障害、めまい、皮疹が生じてきた。原因は梅毒であった。特に1874年の7月に始まった聴力障害は急速に進行し、治療を試みるにもかかわらず、1874年10月には聴力を全く失った。劇場での上演権に対する報酬も十分に与えられず、経済的にも苦しくなったスメタナは1876年にはプラハの家を引き上げ、ヤブケニツェにある結婚した娘の家に世話になることになった。1876年に、スメタナは日記に次のように書いている。
「絶望に陥り、私の苦悩を無理矢理終わらせないために、あらゆる勇気と力をふりしぼらなければならなかった。家族への思いと私の民族・祖国のために作曲しなければならないという思いだけが私を支え、私を新しい仕事へと鼓舞した。聞こえないことは、それだけならまだ耐えられないことではなかった。最大の苦悩は、絶えず耳鳴りがして、その耳鳴りが私の中で響きだしている音楽を妨げることだった。最後には、仕事を断念するしかなくなってしまうのである。」
 この苦難の中で、スメタナは、歌劇や「わが祖国」の作曲を続け、また弦楽四重奏曲第1番「わが生涯より」も1876年に完成していった。1877年になると聴力障害だけでなく、耳鳴りが終日続くために1日に1時間以上作曲できない日々が続き、抑鬱気分も増えていった。1877年10月に彼のオペラの台本作者に、以下のような手紙を書いている。
「私の音楽は、喜劇にふさわしい快活さがなくなっているのではないかと思います。でも、どうして快活でおれましょうか。私の心が困難と悲しみで一杯になっている時に、幸せはどこから来るのでしょうか。困難を伴わずに仕事がしたいのですが、運命はそれを許してくれません。自分の前途に貧困と不幸しかみえない時に、仕事に対する熱中は不可能となり、少なくとも快活な気分はなくなっているのです。でも、私に第2幕の原稿をすぐに送って下さい。音楽に打ち込んでいる時だけ、私の老年期に私を残酷に悩ませているすべての事を一瞬忘れることができるのです。」
 また1877年末になると、めまいも頻回となっていった。このような悪状況の中で、1878年から1879年にかけて、「わが祖国」の第5,6曲である「ターボル」と「ブラニーク」を作曲し、歌劇の作曲も続けた。1881年には、耳鳴りはますますひどくなっていった。1882年になると、「わが祖国」が全曲演奏されて大成功を収めたものの、スメタナ自身は寒気、眠気、失神に加えて、記憶障害、言語障害や歩行障害も生じ、1日に数小節作曲するのが精一杯という状況となっていった。1883年には弦楽四重奏曲第2番を完成させたが、その後精神障害が進行し、1884年4月には幻覚が増悪し錯乱状態になり精神病院に入院し、1884年5月に死去した。


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スメタナの作曲の中心は、オペラと交響詩であった。交響詩については、親交があり尊敬していたリストの影響もあり、標題音楽の持つ強い表現力を信じ、スウェーデン時代から作曲を続けていた。1870年頃から国民的・記念碑的音楽を作曲しようと連作交響詩を構想していた。実際に「わが祖国」を作曲したのは1874年から1879年にかけてであるが、「ヴィシェフラット」と「ヴルタヴァ」は1874年に作曲、「シャールカ」と「ボヘミアの草原と森」は1875年に作曲、「ターボル」と「ブラニーク」は1878年と1879年に作曲というように作曲年代の開きがみられる。「ヴルタヴァ」以降の5曲は、スメタナが聴力を完全に失ってから作曲されている。最後の2曲を作曲する前に弦楽四重奏曲第1番「わが生涯より」やオペラの作曲もなされており、特に「ターボル」と「ブラニーク」は健康状態の悪化と闘いながら作曲が続けられた。
 スメタナは標題の意図を聴衆に理解させるために、曲の解説を書いている。標題を知らなくても感動する曲も少なくなく、曲によっては標題にとらわれすぎるのは、曲を理解する上でかえってマイナスとなる危険もあるが、スメタナの言葉などをまず引用しながら、曲について説明を加えたい。


1.ヴィシェフラット
「吟遊詩人達(ミンストレル)のハープが前奏を構成する。ミンストレルの歌は王家であるヴィシェフラットの居城の歴史を魔法をかけて回想する。偉大なる過去とその輝かしき栄誉、居城をめぐる戦闘と衰退、そして最後の陥落へと、音楽はメランコリックに鳴り響く。」
 ヴィシェフラットは以前は「高い城」と訳されていたが、プラハの中心街から南南西2kmあまりのところにある城跡の地名で、フス戦争ではヴィシェフラットの戦いもあった。現在スメタナの墓もヴィシェフラットにある。冒頭にハープで演奏され、次に木管楽器に引き継がれる2つのヴィシェフラットの主題が、2曲目「ヴルタヴァ(モルダウ)」と終曲「ブラニーク」の最後でも堂々と奏でられ、チェコ民族復興の願い、またスメタナの祈りを象徴する主題としてなり響く。


2.ヴルタヴァ(モルダウ)
「第2曲はヴルタヴァ川の流れを描写している。最初に2つの源流が現れる(暖かいヴルタヴァ川と冷たいヴルタヴァ川)。これら2つの支流はやがて合流して、広大な牧草地と森を通り抜け、村人たちの賑わう陽気な祝祭を過ぎて進む。そして銀色の月明かりの下では水の精が踊り回る。誇り高き城、宮殿、神々しい古びた廃墟、それらが荒々しい岩と一つになって通り過ぎる。ヴルタヴァ川は聖ヨハネの急流に淀んで旋回し、プラハに向かってようようと流れ出る。ヴィシェフラットが威厳を帯びて川沿いにその姿を現す。ヴルタヴァ川は次第に視界から遠ざかり、最後はラベ川(ドイツ語でエルベ川)に注ぐ。」
 ヴルタヴァはモルダウという名前で有名で、プラハ市内を流れる大河であるが、モルダウ
はドイツ語名なので、ヴルタヴァと言うべきであろう。フルートのクラリネットによる前奏の後で、ヴァイオリンなどによって演奏される主題は、余りにも有名である。「森の狩り」「村の婚礼」「月の光と川の妖精の踊り」の部分を経て、もとの主題が再現されて、「聖ヨハネの急流」となる構成は、大きく見ると3部構成となっており、わかりやすく、音楽も変化に富み美しく、人々から永く愛され続けている。


3.シャ−ルカ
「私の作品の観念は、一語でいえば、若い英雄的な女性シャールカ自身である。はじめに、彼女の男達に対する怒り、屈辱、激怒―恋人の背信の結果による―復讐の誓いを語る。スティラートとその兵士達は、いまや場面に登場する。そして、スティラートは、木に縛り付けられた哀れな様子の彼女を見る。彼女の美しさに驚いて、彼は彼女と恋に陥る。彼女は彼を刺激し、その兵士達を酔わせ、大騒ぎさせたあげく深い眠りに陥らせる。角笛が彼女の女達に彼女の信号を発する。そのこだま。女達は無活動状態の陣営を攻撃する。その勝利」
 非常に情熱的な曲であり、上記の標題がなくても、その熱情、興奮が伝わってくる。クラリネットの2回にわたるソロが印象的であるが、シャールカ自身を表現しているのだろう。


4.「ボヘミアの草原と森から」
「ボヘミアの風景を眺めた時に受ける情感が描かれている。至る所から柔らかな歌声が空中を満たし、すべての木立、咲き乱れる野原、そのすべてが陽気でメランコリックな歌を誘う。森はホルンで示され、明るい肥沃な低地は喜ばしい主題で描かれている。誰もがこの曲から、自分にとって心より好ましい思い出を引き出すであろう。詩人には限界がない」
 他の5曲のような物語的な題材はないが、ホルン、クラリネットによる森のコラールやスメタナの愛したポルカ(4分の2拍子のチェコの舞曲)などもあり、親しみやすい作品となっている。


5.「ターボル」
「曲全体はフス派のコラールに基づく。ターボルの地はフス派の主要な根拠地である。疑いなくこのコラールは最も力強く頻繁に聞こえてくるに違いない。この曲はフス教徒達の決定と意志の力を表している。また彼らの頑強な闘争、その恐れのなか、忍耐力、妥協のない態度、それらは特に象徴的な詩の最後で強調される。楽曲は詳細に区分されず、フス教徒達の誉れ・偉大さ・性格の強さを讃えている。」
 フス派の賛美歌が3つの主題として頻繁に現れるが、最初の賛美歌が曲全体を支配している。戦闘的な雰囲気を描写したような音楽が続き、曲は悲劇的な色彩を帯びながらも力強く終わる。攻めようとしては抵抗にあうその音楽は、スメタナ自身の状態を象徴しているように思われる。


6.「ブラニーク」
「ブラニーク(ブラニークは山の名前)のふもとでフス派の戦士達がボヘミアを悲劇的な圧政から救おうとして、招集を待機しながら眠っていた。そこに、フス派の賛美歌『汝らは神の戦士』がきこえてくる。羊飼いの牧歌的な感想があり、羊飼い達が山の斜面にくる。やがて、敵の来襲があり、新しい賛美歌『汝らの神と共に勝利を収めよ』が行進曲のリズムで現れる。そしてフス派の人々は、戦闘に立ち上がり、大きな勝利を収める。」
 ターボルで演奏されたフス派のコラールが3つともこの曲でも現れる。第1のコラールは冒頭に、第2のコラールは牧歌風のところで少し形を変えて、そして第3のコラールが曲の後半を支配する。最後には、全曲の冒頭の演奏されたヴィシェフラットの主題が民族の復興を願って感動的に再現されて、勝利のファンファーレで終わる。

「わが祖国」を理解する上で、標題の理解は重要である。この曲の主要なテーマである民族の自由と平等を求めての闘いは、人類共通の願いでもある。ただ標題理解以上に、スメタナの生涯との関連において曲を理解することや、音楽そのものの美しさを体験することが、より重要と思われる。聴覚を失い指揮者としての活動を断念し、生計を立てることすらも困難になり、耳鳴りや健康状態の悪化に悩まされていたスメタナにとって、「わが祖国」を作曲して完成させることは、生きる上での祈りであった。悲劇的な第5曲「ターボル」から英雄的な第6曲「ブラニーク」へと向かう音楽の流れに、チェコ民族だけではなくスメタナ自身の運命や思いが重ねられているのではないだろうか。この曲にこめられた祈りや音楽の美しさ、情熱は、チェコという民族を超えて、全世界の人々に感動を与え続けるだろう。


参考文献
内藤久子:19世紀における「ナショナリズムの音楽」の刷新 ―B. スメタナの交響詩《我が祖国》の詩学―.鳥取大学教育地域学部紀要2(1):89-107、2000
内藤久子:チェコ音楽の魅力 スメタナ・ドヴォルジャーク・ヤナーチェック,東洋書店、2007
門馬直美:交響詩「わが祖国」.名曲解説全集4、管弦楽曲機pp. 424-436、1980、音楽之友社
大谷正人:音楽における永遠をめざして ―音楽のパトグラフィー2―.大学教育出版、2013


伊勢管弦楽団  音楽監督  大谷 正人

2012年 伊勢公演プログラム

はじめに


 2012年12月には伊勢管弦楽団として5年ぶりにベートーヴェンの交響曲第9番を松阪市と伊勢市で演奏します。ベートーヴェンの交響曲第9番は、そのインパクトの強さ、音楽の深さという2つの視点で考えると、バッハのマタイ受難曲、ヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」と並び、クラシック音楽上の最高峰に位置する曲です。マタイ受難曲や「トリスタンとイゾルデ」の場合、宗教上の特徴、言葉の比重が大きいこと、曲の長大さ、ソリストの役割の大きさなどの課題があることを考えると、ベートーヴェンの第9は相対的に演奏しやすく、実際その曲のメッセージのもつ普遍性から、歴史上様々な重要な機会に演奏されてきました。その一部の記録をご紹介してみましょう。(中川右介著:第九.幻冬舎新書より)
1931年4月 スペイン共和国の誕生を祝うコンサート(カザルス指揮)
1945年9月 第二次世界大戦終結記念のチャリティ・コンサート(トスカニーニ指揮)
1947年12月 学徒出陣戦死者追悼演奏会(山田一雄指揮)
1951年7月 バイロイト音楽祭再開記念演奏会(フルトヴェングラー指揮)
1989年12月 ベルリンの壁崩壊記念演奏会(バーンスタイン指揮)
2011年4月 東日本大震災被災者支援チャリティ・コンサート(メータ指揮)
 以上は一例ですが、人類にとって記念となる時に、この曲ほど全世界で共通して演奏された曲は他にないでしょう。それは、追悼の時にも演奏されていることからわかるように「歓喜の歌」が単なる祝祭ではなく、人間存在の最も深いところに関わっているからだと思われます。その点について、以下の解説で少しでも述べることができれば幸いです。なお以下の解説は、以前に「指揮者の部屋」に掲載した文章と多くの記述が共通しています。またシューベルト、モーツァルトの紹介も加えた解説をほとんどそのまま、12月24日に伊勢市観光文化会館での演奏会プログラムに載せる予定ですが、この2012年12月24日のプログラムは、1781年から1828年という50年足らずの時代にいずれもウィーンで活躍した3人の大作曲家の最晩年の傑作ばかりで構成されています。


シューベルトのミサ曲第6番D.950より「キリエ」


 シューベルト(1797-1828)は31年というその短い生涯の中で、7曲のミサ曲を完成している。大曲も多く晩年まで作曲を続けており、シューベルトにとって、ミサ曲は、歌曲、ピアノ曲、室内楽曲に次いで重要なジャンルであったことがわかる。本日演奏するミサ曲第6番は、D.950という作品番号でもわかるようにシューベルトが亡くなる1828年に作曲された作品であり、シューベルトが作曲した最後の、そして最高のミサ曲である。キリエは、ミサ曲の最初に「主よ憐れみたまえ」「キリストよ憐れみたまえ」と歌われる曲で、このシューベルトの音楽は宗教曲という枠組みを超えて非常に美しく、(神の)愛のかけがえのなさを教えてくれるように思われる。


モーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプス K.618


「まことの御体」と歌い出されるこのモテットは、モーツァルト(1756-1791)が亡くなる半年前に作曲された。モテットとは、モーツァルトの時代には、短い宗教的合唱曲のことを指している。歌詞の内容としては、人々のために十字架の上で犠牲になったキリストに対する感謝と祈りの曲である。わずか3分ほどの小品であるが、そこにあふれる澄み切った天上的の美しさから、未完成のレクイエムとならび、モーツァルトの数多い宗教曲の中でも最も愛され続けている曲となっている。


ベートーヴェンの交響曲第9番


 ベートーヴェン(1770-1827)は1802年に「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いたが、聴覚障害の発症による人生の危機を、作曲に打ち込み、特に英雄的ソナタ形式とも呼ばれる作曲様式を打ち立てて乗りこえ数多くの傑作を作曲した。しかし1812年以降数年間、作曲上も私生活でも危機の状態にあった。1812年の日記には次のように記されている。
「おまえは自分のための人間であってはならぬ、ひたすら他者のためだけに。おまえにとって幸福は、おまえ自身の中、おまえの芸術の中でしか得られないのだ―おお神よ! 自分に打ち勝つ力を与えたまえ、もはや私には、自分を人生につなぎとめる何者もあってはならないのだ。―こうして、Aとのことはすべて崩壊にいたる―」
 Aはアントニエ・ブレンターノのことと推測され、ベートーヴェンにとって“不滅の恋人”であっaた。しかし人妻であり、ベートーベンのアントニエと一緒に生活するという夢は1812年に崩壊した。1812年以降は、結婚の断念だけでなく、経済的困難、健康問題、聴覚障害の進行などもあり、重要な作品の作曲は途絶えてしまい、ベートーヴェンの生涯で最大のスランプとなった。1818年以降に、作曲も勢いを取り戻してきたが、作品の様式は、後期のカンタービレ様式ともいうべき独自の様式にかわっていた。交響曲第9番の作曲に取り組んだのも1818年以降だが、当時は「ミサ・ソレムニス」の作曲(他には最後の3曲のピアノ・ソナタの作曲)が最大の課題で、交響曲第9番は主に1822年(当時51歳)後半から1824年2月(53歳)までに作曲された。第8交響曲の作曲から、既に10年以上の歳月が経過していた。
 交響曲第9番は楽章順に作曲は進められ、1823年の6月頃シラーの頌歌「歓喜に寄せて」を第4楽章に入れることを決意している。第4楽章では、まず合唱部ができて、ついで先行する器楽部が作曲された。最後に、両者をつなぐレシタティーヴォの部分、及び冒頭の部分が作曲されたと考えられている。
 シラーの頌歌については、ベートーヴェンはボンにいた青年時代から作曲する意図を持っていたが、実際にシラーの頌歌96行のうちの約30行に作曲をしている。シラーの詩のベートーヴェンによる改編で重要な点は、第1に「歓びよ、美しい神々の輝きよ、楽園の娘たちよ」と「すべての人間はきょうだいになる」が強調されていること、第2に後半の「互いにいだきあえ、もろびとよ。」と歌われ始めるところで宗教的世界となり、この詞が最後まで反復・強調されていることである。
 第4楽章冒頭において、第1〜3楽章の主題が低弦のレシタティーヴォによって否定されて、歓喜の主題が導かれるというストーリーは、余りに有名である。ベートーヴェンにとって“苦悩から歓喜へ”は、生涯のテーマであり、交響曲第9番作曲当時の会話のメモ帳からも、「絶望」(第1楽章)から「浄化」(第3楽章)を経て「歓び」(第4楽章)に向かう流れは確認されている。ただ、最初3楽章がすべて同様に否定されるべき内容と考えるのは、あまりに単純すぎる発想ではないだろうか。作曲の経緯からしても、4楽章の冒頭部分が作曲されたのは作曲の最後となっており、シラーの頌歌を作曲する前に最初の3楽章は概ね作曲されていた。第4楽章における第1楽章主題は、ffの減七の音程(和音)という最も激しい形で否定されている。これに対して第2楽章主題は、第4楽章の冒頭では低弦によって2"3小節であっさりと否定され、その後4小節で第3楽章の主題に移行する。そして、第3楽章主題は、第4楽章冒頭では最も慎重に否定されている。
 ベートーヴェンは、この曲を作曲する7年前の1815年に次のような手紙を書いている。「無限の霊魂をもちながら有限の存在であるわれわれは、ひたすら悩みのために、そしてまた歓喜のために生まれてきているのです。また、優れた人々は苦悩を突きぬけて歓喜をかち得るのだ、と言っても間違いないでしょう。」
「苦悩から歓喜へ」という流れは、交響曲第5番(いわゆる「運命交響曲」)でも明らかにされているが、交響曲第9番における「歓び」は、苦悩の克服だけではなく、音楽による共同体を通しての人類愛への希求、愛(エロスやアガペー)の歓び、生死を越えた存在による歓びなどを訴えている。いずれにしても、愛情と理性と情熱をもって、手を取り合って生きてゆこうという意志的な要素が強い。それは特定の宗教を越えた宗教的世界、死を越えた超越的・宇宙的世界であり、聴覚障害のために孤独な生活を余儀なくされた上、結婚などの家庭的な幸せを断念したベートーヴェンが人々に愛・音楽・生のすばらしさを歌い語り続けた曲なのである。

 各楽章は以下のような特徴がみられる。
第1楽章 冒頭のA(ラ)とE(ミ)の完全5度(空白5度)による神秘的な開始を始まる。構成的には壮年期のような英雄的ソナタ形式による楽章で、悲劇的要素や多彩な情緒表現がみられる。激しい表現でニ短調の第1主題が再現される部分は、「最後の審判」のようでもあり、最後は葬送行進曲のように終わる。
第2楽章 主部―トリオ部―主部の構成によるスケルツォ楽章であるが、舞曲概念の延長であるこれまでのスケルツォとは異なり、宇宙的響きを感じさせる楽章である。トリオ部は歓喜の主題と同じニ長調となっており、主題の音型としても終楽章の歓喜の主題を暗示している。
第3楽章 アダージョとアンダンテの二つの異なる性格の主題が交互に現れ、ベートーヴェンが晩年に多用した変奏曲形式となっている。ベートーヴェン晩年に特徴的なカンタービレ様式により、愛や美にあふれた歌が法悦の境地にも達するが、楽章の最後では、第4楽章の恐怖のファンファーレを暗示する不安な雰囲気を残し、第4楽章に突入する。第3楽章の終わりの方で登場するトランペット・ホルン・ティンパニによるファンファーレ的な部分は、第4楽章が作曲されてから付加されたものと推測されている。この変ロ‐変ホ‐変ロ‐変ホと4度‐5度‐4度と上昇する音型で突然鳴り響くところは印象的であるが、音型としては第1楽章第1主題の反行形となっている。
第4楽章 不協和音による恐怖のファンファーレで始まるこの第4楽章では、冒頭でこれまでの1〜3楽章のテーマが低弦のレシタティーヴォによって否定されて、歓喜の主題がppから奏でられffの熱狂に至る。その時、冒頭のファンファーレが再現しバリトン・ソロが高らかに歌うが、最初の歌詞「おお友よ、これらの調べではなく、より快い調べを歌おう、そしてより喜びに満ちた調べを」は、ベートーヴェン自身の詩によっている。その後、シラーの頌歌により曲はソナタ形式や変奏曲形式を中心とした自由な形式ですすむ。最初の提示部に相当する部分では、「歓びよ、美しき神々の輝きよ、天上の楽園からの娘たちよ、我らは情熱にあふれて、天国の汝の神殿に足を踏み入れる。汝の不思議な力は、時が厳しく引き離したものを再び結び合わせる。すべての人々はきょうだいとなる。汝のやわらかな翼がとどまるところにて。」と歌われる。次の展開部に相当する部分では、前半はトルコ行進曲風の間奏に続き、テノール独唱に導かて「天の完全なる計画によって太陽が喜ばしく飛びゆくように、走れ、きょうだいたちよ、汝の道を、勝利に向かう英雄のように喜ばしく。」と男性合唱で歌われる。展開部後半では、宗教的・超越的な世界となり、「互いにいだきあえ、もろびとよ! 全世界の接吻を受けよ! きょうだいたちよ、星の天幕の上には、愛する父が必ず住みたもう。」と荘厳な合唱が続く。この主題は第4楽章が半分以上経過した後で初めて明確な形で登場するのにも関わらず第2主題として重要であり、この交響曲において核心的な意味を持ち一つのクライマックスを形成している。その後2重フーガによる歓喜の主題と第2主題の再現を経て、歓喜のコーダに曲は突入し熱狂的に終わる。
 
伊勢管弦楽団  音楽監督 大谷 正人

ビゼーの生涯と作品

 ビゼーは「カルメン」や「アルルの女」以外の曲は演奏される機会も少なく、ビゼーについての文献も、ラヴェルなどと比べても非常に少ないのが現状です。そこで今回は、ビゼーの生涯と作品について述べてみたいと思います。


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 ジョルジュ・ビゼーは1838年10月25日に生まれた。父アドルフ・ビゼーは声学の教師であり、母エメ・ビゼーはピアニストという音楽一家で、ジョルジュ・ビゼーは幼少時から音楽の才能を示し、9歳でパリ音楽院への入学を認められている。入学の規定の年齢より若い異例の入学であった。ピアノ、オルガン、作曲などで次々に賞をとり、17歳の若さで交響曲ハ長調を作曲した。この交響曲は17歳という若さで作曲された交響曲としては最高のレベルの曲で、現在では多くの録音があるが1933年まで知られずにいた。19歳の時、フランスの新進作曲家にとって最大の栄誉とされるローマ賞を獲得し、1858年1月からローマに留学生活する資金も得た。母親の病気を知って1960年9月末にパリに戻るまでの3年近くは、ビゼーの生涯では幸せな時代ではあったが、ビゼーの作風は、ビゼーの本来の特徴とは別の方向に向かっていった。ローマ時代にビゼーはベートーヴェンのような論理的な作品を作曲しようとし始め、結果的に作曲は停滞し始めた。生涯で劇場作品(オペラなど)を20曲以上取り組むが、完成したのは厳しい自己批判もあり6曲で、その間、生活のために編曲などの仕事やレッスンをしなければならなかった。1861年9月に母親のエメ・ビゼーが46歳で亡くなった。その9ヶ月後にビゼー家の召使いマリ・レテールに息子ジャンが生まれた。ジャンの父親は、ジョルジュ・ビゼーの父親であるアドルフ・ビゼーとされていたが、実際はジョルジュ・ビゼーであった。この出来事は、ビゼーの心理に大きな影響を及ぼしたと考えられる。
 1863年には、最初の重要なオペラである「真珠採り」が作曲された。「真珠採り」は18回上演されたが、成功とまでは言えなかった。1865年ビゼーは列車の中でセレスト・ヴェナールと初めて出会ったが、セレストの家はビゼーの別荘の隣であったため、1866年から1867年の初めにかけて、ビゼーはセレストの家に入り浸りに近い状態で、そこで作曲もするようになった。セレストはかつて高級娼婦兼歌手であり、セレスト・モガドールの名前で当時有名であり、伯爵夫人となったこともあった。セレストの存在はビゼーの心の中でカルメンのモデルとなったと考えられている。セレストとの交際は、ジュヌヴィエーヴ・アレヴィの登場によって終わる。
 1867年10月、29歳のビゼーは18歳のジュヌヴィエーヴ・アレヴィに結婚を申し込むが、アレヴィ家から断られてしまう。ジュヌヴィエーヴの父親フロマンタル・アレヴィは5年前に亡くなっていたものの当時有名な作曲家で、ビゼーはアレヴィ邸でリストを紹介されて、リストからそのピアノ演奏を絶賛されたこともあった。ジュヌヴィエーヴの母親レオニは精神病院に入院することもあり、ジュヌヴィエーヴとレオニの関係も難しく、ジュヌヴィエーヴは10代後半であったのにもかかわらず、ビゼーと結婚するまでの5年間、母親と別々に暮らさざるをえなかった。2年後の1869年には二人の結婚は認められて宗教的儀式によらない結婚式をあげたが、結婚後ビゼーはジェヌヴィエーヴとレオニの間にたって二人と良い関係を維持するためにビゼーは多大な労力を注ぐことになった。その上、フロマンタル・アレヴィが未完成のまま残したオペラを完成させることまで関わることになった。ビゼーとジュヌヴィエーヴの間に、1872年にジャック・ビゼーが誕生した。ただジェヌヴィエーヴが抑鬱的になったり、精神的に過敏になったりする中で、二人の関係は次第に緊張がおこり、1874年には3ヶ月間別居している。一人息子のジャック・ビゼーも母親の気質を引き継いだためか、1922年に自殺している。
 1868年はビゼーにとって、危機の年であった。ビゼーの持病であった扁桃腺炎がしばしば悪化し、自らの音楽や教会を拒否してきたこれまでの生き方について再考することになった。
「私のうちに途方もない変化がおきています。脱皮するんです、芸術家としても人間としても、同じくらい。私は純化されるんだ、より良くなる、そう感じています! さあ、自分自身のなかに何か見つけ出すぞ、しっかり探して」
「音楽上の観点からして私のうちにきわめて根本的な変化が起こっているので、あらかじめ数ヶ月そのための心構えをしてからでなければ、その新しいやり方に踏み切ることができないのです。」
 これらのビゼーの手紙からは、ビゼーの心に起こった変化がみてとれる。この後、ビゼーは劇場音楽の作曲にこれまで以上に精力を注ごうとしたが、義母から依頼された様々な仕事や当時の政治情勢、すなわち1870年におけるフランスとプロイセンの戦争(普仏戦争)、フランスにおける第三共和制の成立と1871年のプロイセンへの降伏、パリ・コミューンの成立とその崩壊など、不安定な政治情勢も作曲の妨げとなった。
 1872年にはドーデの戯曲「アルルの女」の劇音楽を依頼され、ビゼーは一気に作曲した。「アルルの女」は10月に21回上演されたが、音楽がよい評判であったとは言えなかった。しかし、11月にビゼーが管弦楽用に編成し直した交響組曲「アルルの女」(第1組曲)の方は大喝采を受けた。1873年からはオペラ=コミック座からの依頼で「カルメン」の作曲に入ったが、オペラ=コミック座ではヒロインが女工で自由に生きて最後は殺されるというストーリーなどへの反発は強く、上演までに曲折があった。1875年3月「カルメン」は初演されたが、聴衆や批評家の評判としては失敗に終わり、ビゼーは落胆した。1875年5月にはリューマチが急変し、6月3日36歳という若さでビゼーは急逝した。1875年10月にはウィーンで「カルメン」がドイツ語で初演され、大成功を収め、ブラームスやヴァーグナーがその音楽に熱狂した。


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 ビゼーの作曲の中心は明らかに劇音楽であった。主要な劇音楽作品としては、「真珠とり」(1863年)、「美しいパースの娘」(1866年)、「ジャミレー」(1872年)、「アルルの女」(1872年)、「カルメン」(1874年)(「アルルの女」以外の4曲はオペラ)があり、他にCDなどで聴くことが容易なのは、交響曲ハ長調(1855年)、交響曲「ローマ」(1868年)、「子どもたちの遊び」(1871年)、「祖国」(1873年)くらいだろう。
 ビゼーのこれまでのオペラ、例えば「真珠とり」は18回の公演、「美しいパースの娘」も18回の公演で打ち切られており、必ずしも成功とはいえなかったが、一部の劇場関係者の中でビゼーの評価は高まっていった。1872年リリック座の支配人カルヴァロは短編小説「アルルの女」を呼んで感銘を受け、その作家ドーデに戯曲に作り直すよう依頼し、同時にビゼーに劇音楽の作曲を依頼した。ビゼーは登場人物の心理や性格を的確に表現し、
ドーデやカルヴァロはその才能に感嘆した。しかし公演は、またもや成功とは言えなかった。指揮者パドルーの説得により、この劇中音楽からビゼーは4曲選んで大管弦楽用に編曲し交響組曲としたところ、組曲の初演は大成功を収めた。ビゼーがその3年後に亡くなった後、親友ギローがさらに4曲を編曲して第2組曲とした。


掘‖31回定期演奏会における「アルルの女」


 第31回定期演奏会では第1組曲、第2組曲という順ではなく、劇のストーリー順に編成しなおし7曲演奏し、劇音楽3曲を含めて演奏する。なお第2組曲のメヌエットは、ビゼーの「美しいパースの娘」の中の音楽であり、劇音楽「アルルの女」では登場しないので今回演奏しない。
 物語の舞台は、南フランスのアルル近郊のフォンヴィエイユ村である。
1.前奏曲
 この有名な前奏曲は第1幕の開幕前に演奏される。冒頭の行進曲主題はプロヴァンス民謡「三人の王の行列」の旋律で、前半は変奏曲の形式でプロヴァンスの地方色を表現している。後半ではテンポがアンダンテと遅くなりこの後でおこる悲劇を象徴している。
2.メロドラマ(メロドラマ第6番の後半)
 村の大地主カストゥレの息子で20歳になるフレデリは、アルルの闘牛場で出会った女に夢中である。忠実な老僕バルタザールは頑として二人の結婚には反対する。村娘ヴィヴェットは以前からフレデリを愛していたため、そんなフレデリを見て悲しむ。馬の番人がアルルの女は自分の情婦であばずれだとフレデリの祖父フランセに話す。二人の関係を示した手紙を読んで絶望するフレデリ。
 メロドラマとは、せりふと背景音楽からなる、劇とオペラの中間的な作品で、劇音楽「アルルの女」には、26のメロドラマが効果的に挿入されている。
3.牧歌
 劇音楽では第2幕の開幕前に演奏される。田舎の牧歌的な響き。4分の3拍子の中間部では、プロヴァンス太鼓にリズムに支えられながら、遠くから響く合唱を組曲版では木管楽器が表現している。
4.間奏曲
 フレデリの父親は15年前に亡くなっていないが、母親ローズはヴィヴェットを嫁に迎えたいと思っていて、ローズとヴィヴェットはどのようにすればフレデリの心を変えられるか話し合う。一方、フレデリはバルダザールに慰められても絶望のどん底にある。ヴィヴェットはフレデリに恋心を打ち明けるが、フレデリはつれない態度で、フレデリは既に心を病んでしまっている。この間奏曲は、破滅に向かうフレデリを何とか引き戻そうとする家族たちの暖かくせつない心を象徴する。
5.メヌエット
 メヌエットは第3幕の開幕前に演奏される。ローズは心を病んだフレデリを心配し、やむをえずフレデリの希望を受け入れてやろうとする。フレデリは苦悩する母親をみて、ヴィヴェットと結婚すると言い出す。ローズ、バルダザール、ヴィヴェットらはその言葉を聞いて喜ぶ。
6.カリヨン(鐘)
 カストゥレの農家では、バルタザールや召使いたちがフレデリとヴィヴェットの婚礼の噂などをして、お祝いの気分が一杯である。カリヨンは第3幕第1場で演奏され、田舎の祝宴の気分を象徴する。中間部の旋律の美しさ、情感の深さはビゼー独自の世界である。
7.アダージェット
 ヴィヴェットの祖母であるルノー婆さんが登場し、バルタザールと昔からのお互いへの想いを語り合う。弦楽器だけによるアダージェットはここでは「アダージョの速度の小さい曲」という意味で、バルタザールとルノーの再会の場面で奏でられるが、第3幕第2場の前にも間奏曲として演奏される。
 フレデリとヴィヴェットの心のすきまも少しずつなくなったようにみえる。しかしフレデリは馬の番人に会ってしまい、馬の番人が「アルルの女と駆け落ちする」とバルタザールに話をしているのを聞いてしまう。フレデリは狂ったように馬の番人に殴りかかり、バルタザールに止められる。そばで嘆き悲しみヴィヴェット。
8.ファランドール
 聖エロアの日で、街ではファランドールの踊り、笛や太鼓が聞こえている。組曲版におけるファランドールは、村人の踊るファランドール舞曲と「三人の王の行列」の主題とを合わせて管弦楽用にギローが編曲したものである。
9.メロドラマ(メロドラマ26番)
 ローズはフレデリと話をして慰めるが、フレデリが自殺をするという心配がその夜もなくならず眠れない。
10.フィナーレ
 翌朝の3時にフレデリは気が狂ったように現れて、ローズが止めるのを振り切って、「あいつがあの女をさらっていく……待ってくれ!」と叫びながら、穀物倉の高い窓から飛び降りで死んで幕となる。


おわりに


 ビゼーと「カルメン」と「アルルの女」は内容的に驚くほど共通している。「アルルの女」の戯曲の中でアルルの女は全く登場しないが、カルメンもアルルの女も自由奔放に生きる女性であり、そのヒロインを愛する男性(ホセ、フレデリ)は、カルメンやアルルの女の気持ちが自分から離れ、別の男性を愛するようになる中で破滅に向かっていく。破滅に向かうのを何とか救おうとする清純な女性(ミカエラ、ヴィヴェット)がいるのも同じである。このようなストーリーの劇音楽の作曲にビゼーが熱中したことの背景には、前述したビゼー自身の体験、人生観、社会情勢があると思われる。ビゼーが1875年5月28日リューマチと扁桃腺炎で発熱していたのにもかかわらず、5月29日にビゼーは快方に向かった気がして冷たい水の中に飛び込み(冷水浴)、4日後ビゼーは亡くなった。ビゼーのこの若すぎた突然の死についても、その背景にビゼーの様々な葛藤、例えば情熱を注いだ「カルメン」の公演の失敗、ジュヌヴィエーヴとの関係の悪化などがあったと推測されている。


参考文献
ミシェル・カルドーズ:ビゼー ‐「カルメン」とその時代‐.平島正・井上さつき訳、 音楽之友社、1989
ひの まどか:ビゼー ‐劇場に命をかけた男‐.リブリオ出版、2007
Winton Dean : Bizet, Georges. Stanley Sadie (Ed), The New Grove Dictionary of Music and Musicians. pp. 747-763, Macmillan Publishers Limited, 1980


伊勢管弦楽団音楽監督 大 谷 正 人

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