2010年03月10日

日本で最古参に入るLIVE HOUSEが岡山に存在している!!
PEPPERLANDを語る必要性。
 
5551974年というLive Houseの黎明期に、岡山でLive House PEPPERLANDは誕生し
た。京都に誕生した「拾得」から半年後、新宿「ロフト」より2年前の開店であった。当時はフォークソングやビートルズ、ローリングストーンズが中心で、カントリー・ミュージックやJAZZのポスト・ムーブメントの時代であった。
そして、映像の世界ではエクスパンデッド・シネマが影響を与え始め、東京では『国際サイテック・アート ELECTROMAGICA'69』展が1969年に開催され、翌70年にはジュリー・マーティンとビリー・クルーヴァーがアーティスト達とコラボレートしたE.A.T.が大阪万博でパフォーマンスを繰り広げた時期でもあった。音楽を
含めあらゆる表現が"既成の価値観"を塗り替えるべく、前衛的というより、実験的な表現がフルクサスの余韻のなかでまさぐられていた。この時代精神を引き継ぐべく岡山でLive House PEPPERLANDを立ちあげたのである。
当時、映画評論家・佐藤重臣氏のフイルム・アーカイヴが配給したロナルド・ナメス監督作品『ウオーホルE.P.I.』の映像が「エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタル」の現状を伝えていた。そこにはルー・リードが、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドが、サイケデリック照明のライト・ショーと共に、パフォーマンスやメディア・アートと一体となった映像で、ミックスド・メディアの状況が捉えられていた。今日いう所のマルチメディア・ショーである。
このような全ジャンルの表現空間を確保するためにD.I.Y.の精神で、当時としてはめ
ずらしかった映写設備を兼ね備えたLive Houseを始めたのである。そしてこの空間で音楽のみならず、エクスパンデッド・シネマ、個人映画、実験映画、ポエトリー・リーディング、地下演劇、絵画展・・・等を展開する場所を作ったのである。
2009年末、電気グルーヴの石野卓球氏が岡山でD.J.プレイをした時の話である。快いアフターの時間に、石野氏より『BONOBOS』の編集者にPEPPERLANDが35周年を迎えたことの重要さにふれた特集をしたらどうかの提言があった。私自身も35周年を迎え、岡山の音楽シーンをどこかに書き残しておかなければならないと最近特に感じ始めていたところだ。今ならまだ当事者が生きている。当事者が語り、書き残していかなければ、岡山の音楽シーンがどのように始まり、世界と繋がりながら立ち上がっていったかを知る手がかりは霧散してしまう危惧があるからだ。(※参照)
フォーク全盛の時代に岡山でLive Houseを立ち上げたのだが、日本画壇において、早すぎる前衛画家の坂田一男を排出したように、時代に先駆ける気質が岡山にはある。
しかし、悲しいことに、岡山の県民性としてよく語られることに、出る釘を叩くという特徴もある。長期に渡り時代に先駆けた者達を無視し続け、先述した坂田一男のように死後かなりの時間が経過して再評価の動きが始まるという次第である。悲しすぎる!!
このことについて私が体験したことを一つ書き留めておこう。『備前アートイベント』を実施した林三従氏も同様であった。私はこのイベントにアシスタント・デレクターとして7年間係わった経緯がある。そこで、岡山の県民性については、生前、林氏がよく「私が居なくなったら、備前アートイベントに係わらなかった者が、一転して良き理解者であったことを直ぐに口にし出す。」と話していたこを思い出す。当時、備前アートイベントに批判的だった人達が彼女の死後、とたんに『備前アートイベント』の良き理解者であったかのような振る舞いをしているのを見るにつけ唖然とさせられる。現在、林三従氏にまつわる展覧会やイベントを開催している岡山人は総てこのたぐいである。まさに世阿弥が「風姿花伝」に書き残したように、偽物が良き理解者の姿を演じるのである。彼女の口癖であった「ど田舎で、どアートを!!」というスローガンは、岡山で孤立を余儀なくされながらフルクサス精神を貫き通した彼女の皮肉であった。
Live House PEPPERLANDのことから脇道に逸れた話を書いているようであるが、行政の支援を受ける伝統音楽やクラシックなどと異なり、サブカルチャーとしてのロックやクラブミュージック等の岡山の音楽の流れは完全に消え去ってしまうことは明確だ。このことを見越し、岡山の音楽シーンの記録を残そうとした『BONOBOS』編集部の勇断には敬意を払わずにはいれない。
そこで、岡山のディスコ時代からクラブ・シーンを見てきた磯田護氏やロック、オルタナ・シーンを手掛けてきた黒田秀徳氏、そして、岡山初の音楽出版物も手掛け、自らも非常に優れたD.J.である山形諭生氏の協力を求めて「岡山音楽史」を書き残していけたらと思う。もちろん、私が書き残したいと思う音楽は、岡山音楽シーンの前史としてのキャバレー文化やカントリー、JAZZなどの音楽シーンのことではない。記録の対象とする音楽の流れは、音楽表現が爆発的に多様化した、世界のオルタナティブ・シーンに繋がっていく多岐的表現を産み出した1970年代以降の音楽のことだ。私たちの未来を予感し映し出す「サイキックな鏡としての音楽!!」であることが特に重要なのである。
このような観点から、まずは岡山で1974年からライブシーンを見続けたPEPPERLANDのブッキング・マネージャー能勢慶子の協力を得て次号から歴史的証言を書き始めよう。
1974年といえば、まだ岡山では"LIVE HOUSE"という概念すらも一般的には認知されていなかった時代でのスタートであった。先述した岡山的風土のなかで聞かれたのは、協力的な言葉ではなく「夢のようなことを言うな!! 」という冷たい言葉だった。しかし、孤立のなかからの出発だったが、今日まで脱・領域的表現の場を35年間維持して来れたのは、多くのミュージシャンや多ジャンルのアーチスト達に支えられ、かつまた、必要とされてきたことの証である。
74年といえば学生運動を経てフォーク・シーンが岡山に残した影響が岡大軽音楽部、岡山理科大学サークルの「白いカラス」などに残っていた。その余波のなかで丸山徹、河原龍峰、小林俊幸による『ジャパネスク・コンサート』を岡山県文化センターホール(現・天神山文化プラザ)で開催した。彼らの活動は当時全国的に「うた・復権」を問い掛けたURCレコードのもたらした問いに対する返答であった。また、同時期には後のオルタナティブ・シーンに繋がるバンドが出現する。肉弾と赤犬である。このバンドは遠藤ミチロウが率いたスターリンが注目したように、日本のPUNKシーンに先駆けたバンドとして今日まで記憶されている。その後、岡山の音楽シーンはフュージョン、ハードロック、パンク、ジャパコア、ビジュアル、テクノ、オルタナ、ガラージュ、ハウス、テクノ、デジタルハードコア、ガバ、トランス、エレクトロニカ・・・などの洗礼を受けながら新しい感覚を獲得していった。これら"新感覚音楽"の潮流に沿った岡山の音楽物語(=歴史)を世界の音楽シーンと交錯させながら書いてみたいと思う。
"物語"を語ることの必要性。それは都市化が進み雨後の竹の子のように乱立し始めたLive HouseやClubで行われる"お手軽イベント"が岡山の音楽受容の物語をより見えなくしているからだ。もちろん楽しみだけのイベントがあってもいい。しかしながら、岡山には世界の音楽潮流と交差した音楽受容物語がある事を決して忘れないで欲しい!! この物語の系譜と交差しなければ、音楽に向き合ったイベントとして後々語られることもなく定着することもない。次号から始まる「岡山/世界音楽物語」に情報提供も含めご協力ください。

 
6666※ このことを最近特に強く感じた事件があった。写真家:山﨑治雄氏の記録が残されて無い状況が明らかになってきたからだ。戦中から戦後にかけての、岡山だけにとどまらない「日本の写真史」を語る上で非常に重要な人物の全体象が岡山県立美術館をはじめとした行政機関に殆ど残っていないのが実状である。現代文明の負の遺産である豊島産廃問題や、犬島の歴史性とも深く関係し、瀬戸内国際芸術祭に取り組むにしても重大な問題提起を残している。本来なら写真を教えていただいた恩師の仕事の発掘作業は私が行わなければならないところであるが、写真家:藤井弘氏が現在多大な時間を割き取り組んでくれている。感謝にたえない。写真家:山﨑 治雄 (提供:山﨑泰雄)



boこの記事は【Alternative Free fanzine『THE BONOBOS』05号】に掲載されました。

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