石井の黙想ブログ

大阪のぞみ教会牧師の石井和典が、聖書から得られる力を毎日お届けすることを目的としたブログです。黙想、黙想、黙想。毎日欠かさず。

民数記21章5節
神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」

6節
主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。

8節
主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」


荒野の極限状態で主に頼ることを主は教えられる。

人生の極限状態ではじめて人は学ぶ。


肉体的、実際的に痛みを伴って

そこで主を求めるか、そうでないのかを選び取る。

試練は恵みである。


試練の時、主がおっしゃられた言葉どおり、

ただただ青銅の蛇を見上げたものは癒やされた。

「見上げるだけ」とはなんともバカバカしいものか

自分の力で生きていると自負していればいるほどに、

思うのではないか。

しかし、人生はすべて主を見上げるだけ。

主を知るため、

主と似たものに私たちが変えられるため。


主が中心なのだ。


命の瀬戸際で、主はそのことを教えてくださった。


祈ることがバカバカしいと言う人がいるかもしれない。

しかし、主を知るものは知っている。

祈りに、力ある方は必ず応えてくださると。


ちっぽけな人間の力など比べられない絶対的な力で応えてくださる。


石井拝

民数記20章18節
エドム人は彼に答えた。「わたしの領内を通ってはならない。もし、通るようなことがあれば、剣をとってお前を迎え撃つ。」

民数記20章21節
エドム人はこのように、自分の領土をイスラエルが通過することを許さず、イスラエルは迂回しなければならなかった。

民数記20章26節
アロンの衣を脱がせ、その子エルアザルに着せなさい。アロンはそこで死に、先祖の列に加えられる。」



自分の思った通りに人生は運ばない。

これが大前提である。


これを主のもとで謙遜に受け止めることができるクリスチャンは、

重荷を下ろすことができる。

必要以上のストレスを抱え込まなくてすむ。


神のコマンドメントが実現する。

ならば、その主の御手に寄り添うことを考えるのが一番。


主に従うことを決断し、主の御手に寄り添うことを決断し、

その志を最優先し、羽ばたくものの翼を主は守ってくださる。


ずっと主の足元でちょろちょろとやりたいようにやって小さく縮こまっている。

そういう人生からは解放される必要があろう。


まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすればこれらのものは加えて与えられる。

とおっしゃられた主に全面信頼してしまえば良いのである。




信頼できるリーダーが自分の前を去ったり、

頼りになるような人がまわりにいなくなっても大丈夫。

アロンが召されたことはイスラエル共同体にとっては大きすぎる痛手であっただろう。

普通7日の喪の期間が30日に延長されて、民全体が悲しみに服している。



しかし、主は信仰に立つもののそばを離れられることはない。

人は離れても主は離れない。

だから、その主にだけ従えば良いのである。


石井拝

民数記20章8節
「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。」


民数記20章11節
モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。


民数記20章12節
主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」



民は「水を飲みたい!」

こんな苦しい状況になるなんて、

リーダーであるお前らのせいだ

と不平不満をモーセとアロンにぶつけた。



主は水を与えるように奇跡を行ってくださるとモーセにおっしゃられた。


「岩に命じることによって」

水を出してくださるとおっしゃられた。


しかし、モーセは

「杖で岩を二度打って」

岩から水を出した。



これが、主の目にかなわなかった。



私が最初にこの聖書の箇所を読んだ時、

全く意味がわからず

「はっ??」


という感じだった。

クリスチャン生活をはじめ牧師になってからも

「はっ??」

という感じ。



まぁ、分かるけど、、、そんな小さなことを。。。

と内心思っていた。



しかし、主に聞き従うということはこういうことだと

祈りの生活を真剣にはじめるようになってから分かった。

「命じて」岩からみずをだすか、「杖でたたいて」岩からみずをだすか。

主に聞いて従順にしたがっているかどうかというところの分かれ目の話なのだ。



私が、祈りの生活をはじめたというのは本当に最近のこと。

昨年の2016年11月のイスラエル旅行以降。


洗礼を受けたのが2001年7月だから。。。

それまで、本当に真剣に祈って祈りによって生活を建てあげていたわけではなかった。。。


なんとも恥ずかしい話だが、事実だから仕方がない。

(親父が肝臓ガンになり、その影響でか、他にも色々要因があるが酒をやめて生活が変わったということもあった。酒を止めなかったらエヴァンジェリカルな牧師たちとの交流も、早天祈祷という発想も無かったかもしれない。)


朝いちばんから、注意深く聖書の言葉に耳を傾ける。

主に聞く、主に祈り、主に聞いて頂いている。

この実感のもと歩むことがいかに重要か。

まさに人生のすべてがここに詰まっている。



自分を本当に変えたい人は、朝祈ってはじめていこう。


おそらく7月30日の教会修養会以降から、

実際に早天礼拝をはじめることになると思う。

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もう既に私は一人で始めている。

集いたいかた、人生を変えたい方はどうぞ

月曜〜土曜の朝六時、

特別な事情が無い限り私は教会で祈っています。



石井拝



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