イザヤ書15〜18節
お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。


形を繕ったとしても、

神には全て見えている。

ささげるべきはこころ。

こころをささげなければ、すべてのささげものは虚しい。



悔い改めには必ず行動が伴う。

信仰のみによって義とされるが、

まことの信仰を与えられれば、

主の御前に跪き、謙遜で、柔和になる。

悪を避けようとし、善とは何か思うようになる。

主が願っておられる義がなにか考え、

それを生活においても適応されていくようにと願う。


いや、すべての支配者は主なのだから、

主に従い、義を行わなければやがて滅びに至ることを知る。


しかし、それでも、すべてに勝って主の赦しが先行する。

主の赦しがすべてである。

ここに帰ってくれば良い。

そうすれば、人生すべてが変わる。

主の守りを確信し、心は自由になる。



素の自分

一人の礼拝の時間が限りなく重要であることを、

夕礼拝を一人でささげ続ける中で学んだ。

今日は休暇中、しかも鳥羽教会の礼拝堂で一人。

しかし変わらない主との交わり。

霊的な主との交わりを知った今、他のものすべてが塵芥。


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素晴らしく美しいヤコブの梯子。

石井拝