2007年01月

スイートチョコ珈琲

 年明け早々、スーパーの店先に早くもバレンタインチョコが売られている。バレンタインは女性にとって一年で一番トキメキ度数の高いイベントのようです。

 私は何故か、自分用に“ご褒美チョコ”なる物を買う事がある。何故かと言うと店先に並ぶチョコを見ると種類の多い事と高級感のある老舗のチョコに、つい気が行ってしまい好奇心から買ってしまうのです。チョコレートが好きな私は大満足している。バレンタインはチョコレートを女性から男性にへの贈るイベントとしてだけでなく、チョコ好きには見逃せないシーズンである。

 私は珈琲と合わせてチョコを食する事を楽しんでいる。何時かはチョコレート効果なる宣伝文句に釣られて良く食べたものです。喫茶店で珈琲を頼むとソーサーの上に一個のチョコが添えられて出す店がある。珈琲とチョコの相性は抜群である。
 折角のチョコレートシーズンであるから、私の珈琲レシピの中からチョコを使う取って置きのスイートな珈琲を紹介します。

 「カフェ・スイートチョコレート珈琲」
 チョコレート風味に泡立てたナマクリームを珈琲にトッピングするだけの至って簡単な珈琲です。
 市販のチョコレートか、チョコレートシロップを泡立てる前の生クリームに一割くらいの混ぜます。この時一緒にチョコレートのリキュールをほんの少し加えます、之を加えることにより香りと味合いが違ってきます。本当に簡単です。
 珈琲リキュールは何処でも手に入るのは「カルーア」ですが、出来るならチョコの名門であるゴディバの「ゴディバ珈琲リキュール」を使ってみるのも良いと思います。札幌辺りの専門店へ行くと買えると思う。ゴディバにはホワイトとチョコの二種類があるようです。値段の方はカルーアの倍はすると思う。

 独り暮らしをして居ると、こんな所にも生活をエンジョイできる空間があると思いながら、私なりのバレンタインを楽しんで見ます。


免許証の写真は写りが悪い

 去年の12月に運転免許の更新をした。写真は警察署で撮ってもらった。免許写真の条件を満たして自分で撮るのも面倒くさいので更新の度にポラロイド写真で済ましている。昭和25年に免許を取得して以来、書き換えの度に免許証の写真を見て自分ながら不愉快な思いをしてきた。カラー写真になってからは殊更この思いが強くなった。ポラロイド写真で撮るようになっては不愉快の連続でした。

 免許証の写真の写りの悪いのは技術的な面と心理的な面とがある。試験場や警察署で撮るときの光源はストロボです、撮影の場所は廊下の片隅とか狭い部屋の蛍光灯の照明しかない部屋が殆どです。況して色温度の高いストロボで撮ると顔は青みがかかって写る。顔の表情が平面的で何処となく悪人風に撮れてしまう。
 同じストロボで撮っても写真館のスタジオなどはストロボに反射板を使い赤系の光源です。人物の顔は柔らかく綺麗に写る。肌の色は赤色に近いため赤系の光源は顔の表情を自然に見せてくれる。夕暮れ時のような柔らかい光りで写した方が人物写真は良いようです。

 心理的な面ですが、もし免許証の写真を人物写真の撮り慣れた人に撮ってもらうと、表情豊かで綺麗な写真に仕上がるかもしれない。之は写される人と撮影者のコミニュケーションがとれ、モデルが持っている魅力的な表情を引き出せるからです。頭で考えるのではなく、感性で田舎の爺さんであろうと街の若者であろうと表情豊かに撮ってくれる筈です。処が警察署の撮影者は一回限りのポラロイド写真だからモデルの更新者の表情なんか気にせず「はいポーズ」で済ましてしまう。こんな訳だから前科何犯かの犯人写真しか撮れない様な気がする。

 色々ご託を並べてみても免許証の世話になるのは後数年しかない。今回は双方向視力検査が通らなくて二種免許が総て取り消されて仕舞った。免許証の写真は遇えて人に見せる物でもないと自分で納得するより仕方ないと思っている。

嫁と姑の仲

 年明け早々、自衛隊時代のKから電話で是非遭いたいと言って来たので新札幌で待ち合わせた。私も去年以来なので喜んで承諾し、時間通りサンピアザの一階ラウンジで待った。

 彼は蕎麦が大好物であることを知ったいたから蕎麦屋へ誘った。彼も喜んでくれた。蕎麦を食べながら一時間近く自衛隊の思い出話しなど続けた。彼が未だ話したそうにして居たので家へ誘って連れてきた。昨年も一度来ているので喜んでくれた。

 茶菓子を出し珈琲を飲みながら話しているうち、彼は「なんと婆さんが嫁と合わなくて困っている」と言い出し終いには息子夫婦と別れて暮したいと言い出した。去年の春に息子が家を新築し爺ちゃん達も歳だから一緒に住もうと言うことで同居したのに今更と、苦渋の表情で更に話し続けた。

 私は息子夫婦とは一緒に住んだ事が無いので何とも言えないが「秋茄子は嫁に食わすな」「嫁と姑の良いのは物怪の不思議」と言われるくらい姑と嫁の不仲は世間では一般的で、あえてK家だけの問題ではない。
 Kの場合、問題の発端は嫁さんが近所の主婦仲間に「うちの姑さんは、何であんなに陰険なんだろう」と話していた事が婆さんの耳に入ったのが事の始まりだったと言う。
 
 それにしても世の中、嫁と姑の関係は永遠のテーマであるようだ。Kは婆さんに言ったそうです「可愛い息子の嫁なんだから一々角を立てるな」と。

 彼はこんな事を私に話して、また来るからと言うので新札幌まで車で送った。帰りの車の中で私は彼に「我慢するばかりが老夫婦の立場ではない、息子夫婦のことは構わず、二人で何か楽しめる事を見つけろ」と言ってやった。

永遠の青年

 私の家は門徒宗で、仏の教えは他の宗派とは根本的には変わらないと思っている。

 先の日曜日、エホバの3人の伝道者が来て「神のために命を捧げる者は真の信仰者であり、神から祝福されるであろう」と言った、其処で私は「あと10年もすると私は死にます、そのとき神様に召されるか仏に召されるが、祝福されるか否かは其の時次第で、神様か仏様の御心にあります」と答えました。3人の伝道者は不機嫌な様子で帰って行った。知ったかぶりして要らぬ事を言ってしまったと思った。

 そんな事が有っての火曜日、私のブログを見て下さっている方のブログで「ともよ、永遠の青年であれ」と短歌に添えて励ましのメッセージを頂きました。
 此れには、エホバの件で未だ青二才と塞ぎ込んでいた私に一つの生き方を教えて頂いたような気がしました。

 最近私の独り暮らしを知ってエホバや創価の方々が伝道に来られる、老人は信仰にのみ生き甲斐を持たれるべきだと、口々に信仰を勧める。

 此れは大きな間違いと思う。老人が生きていくには信仰ばかりでは生きていけないように思う。其れより身近に良き友として話の出来る人が居てこそ本当の生き甲斐を持てるように思います。友の生活へのアドバイスや文学、音楽などの素晴らしい知識が私の心と身体まで若返らせてくれるのです。


紙とパソコン

 パソコンを始めてから、私は紙に直かにものを書くことを殆どしなくなった。以前は大学ノートに撮影記録を書き、偶には仲間に手紙で愚痴を零したりした。

 紙は物を書くことばかりでなく、物を包んだりチリ紙のように拭いたりもする。暮らしには無くてはならない道具と言うか用具でもある。処が最近では紙の大切さを感じなくなった。
 ある友人が短歌を和紙に上手な字で丁寧に書くのを見て、私は用紙の大切さを今更に感じたのです。

 和紙に詩を書くことは立派な行為である。伝統的な日本文化を伝えていく行為である。昔から人類は情報や思いを後世に残そうと紙に書き残してきた。様々な工夫を凝らし、様々紙を創り出して来た。
 最近、江別の王子製紙工場で特殊紙の開発が進み、様々な用途に使える紙が作られ、製紙工場の経営統合の成り行きが注目されている。企業にとって生き残る為の様々な画策が図られる時代の変化が感じられる。

 時を経て現代では「紙の消費量は一国の文化のバロメーター」と言われていた。考えるとパソコンやインターネットの普及で人の手から紙への情報伝達とは別の道を進んでいる。簡単なメッセージなら携帯のメールで済むし、インターネットで写真まで添えて相手に送る事ができる。更に、これ等の情報はパソコンに仕舞い込んで置いて何時でも取り出して使える。

 単純に考えても、新聞雑誌、様々な広告チラシ、書物など大変な量の紙が使われている。其れを再生して再び使われている。併しこれ等の紙は何時か木材が枯渇してパルプを作る事が出来ない時代が来るのではないだろうか。其の時が来るとしたらインターネットで情報の伝達が当たり前の事になるでしょう。そして個人のテレビやパソコンが紙の代わりを担う時代がやがて訪れるでしょう。

プロフィール

ishimori_world