2008年12月15日
ブログ移転のお知らせ
都合により、当面、以下のURLに移転しました。
http://thanks-moto39-inaka.blog.so-net.ne.jp/
本ブログのご愛顧を感謝いたします。
移転先のブログにもぜひお立ち寄りください。
ブログ管理者・ハンドルネーム;isimoto
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2008年12月14日
アラフォー
今日の内容は、もう1つのブログ 「円卓の集い」 の 「アラフォー」 の項を参照ください。
「円卓の集い」のところで、左クリックすればブログに移行できます。
URLは、以下の通りです。
http://thanks-moto39-inaka.blog.so-net.ne.jp/archive/20081214
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2008年12月13日
だんだんと現実・2
嘉永7年(1854)の旗艦ポーハタン号の絵だそうである。本邦初公開という。津山には洋学資料館というのがある。津山藩では江戸時代から洋学の大家が研究してきた。
その伝統を伝える洋学資料館の創立30周年記念特別展の図録が今日届けられた。
他にも沢山の珍しい絵図が掲載されている。この特別展の詳しい情報は以下のURLへ!
http://www.sanyo.oni.co.jp/l/news/2008/10/18/2008101814190225030.html
津山は、現在でも交通の便が良いというわけではない。 古くから洋学を研究していたために、ペリー来航に際しても、情報収集に家臣を浦賀に派遣するなどしており、貴重な図録の現存につながっている。 昔の人々の情報収集における積極的な努力に敬服してしまう。 現代の我々は、垂れ流されっぱなしのつまらない情報、民衆を洗脳する虚偽の情報に振り回されている。 主体的な情報収集こそ大切である。
今週のNHK連続テレビ小説「だんだん」はのぞみ(三倉茉奈)の問題がほぼ頂点に達した。 今後は、恐らく問題は収束し、双子は、いよいよ歌手デビューへと向かっていくだろう。
今日の見所は、双子の祖母・初枝(三林京子)が祇園にいってのぞみのことを伝える場面だったが、期待に反して意外と初枝が折れたかたちで収拾してしまった。 しかし、久乃(藤村志保)&真喜子(石田ひかり) 対 初枝&嘉子(鈴木砂羽)の女対決の構図は明白であり、ますます鮮明になってきたように思う。
伝統を大切にしているといっても、松江は家族と地域社会、祇園は芸と社交を大切なものと考える。その「現実」(リアリティ)の違いが対立につながるように思う。
個人や集団、国家や民族の 「現実」 を超えた 「現実」 は必ず存在する。
黒船来襲という幕末の動乱期に思いを致すとき、現代こそ、一人一人が、そして各集団が、外に向かって自主的な情報収集を心がける時代ではなかろうか。 如何なものか。
2008年12月12日
だんだんと現実
今日の散歩も後半に雲が多くなり日がかげってきたが暖かな日和だった。水・16164歩、木・14707歩。
今日のNHKテレビ小説「だんだん」の、私の見所は、石橋(山口翔悟)がのぞみ(三倉佳奈)を訪ねて出雲のそば屋に来た場面である。祇園を出て今だ進むべき道が見つからないのぞみに、 「歌手になることに抵抗を感じているのは、めぐみ(茉奈)ちゃんに迷惑がかかると思っているからではないか? 二人が一緒に歌うことで始めて一つになれる。親から与えられた運命を乗り越えられる。」と 石橋は迫る。
それに対してのぞみは、「うちは自分で自分の道をみつけたいだけどす!」と応えた。
客観的な立場に立っている石橋から見れば、歌手への道こそ、のぞみの求める自分の道だろうと考える。 しかしのぞみはそんなに安易に結論を出せない。 祇園を捨ててまで、自分探しを始めたのぞみのそもそもの悩みの根源は、めぐみとの「現実」の違いである。
人はそれぞれ違った「現実」の中で生きていることを普通はわきまえている。しかし、様々な事件や特殊な状況に立たされたとき、「現実」の意味が理解不能になるのである。
例えば最愛の人の「死」は理屈ではわかっていても、なぜ死んでしまったのか? 理解できないのだ。 めぐみとのぞみのように以心伝心で何でも分かり合える双子、入れ替わり自由に見える双子が、18年間の異なった育成環境の中で育った結果としての「現実」の違いは、理屈では理解できても、心の底から理解できない。
世間の狭かったのぞみにはなお、ショックだったろう。
のぞみが、そのショックから立ち直るためには、この「現実」の違いを受け入れるしかないのではなかろうか。 だとすれば、そのシナリオは?
ともかく、のぞみの自分探しの旅が、どのような経緯で進んでいくのか? のぞみの悩みの深さを考えるとめぐみにも大きな転機が来そうな気もする。 そして周囲の関係者はそのことにどのように関わってくるのか? ますます楽しみになってきた。 如何なものか。
今日のNHKテレビ小説「だんだん」の、私の見所は、石橋(山口翔悟)がのぞみ(三倉佳奈)を訪ねて出雲のそば屋に来た場面である。祇園を出て今だ進むべき道が見つからないのぞみに、 「歌手になることに抵抗を感じているのは、めぐみ(茉奈)ちゃんに迷惑がかかると思っているからではないか? 二人が一緒に歌うことで始めて一つになれる。親から与えられた運命を乗り越えられる。」と 石橋は迫る。それに対してのぞみは、「うちは自分で自分の道をみつけたいだけどす!」と応えた。
客観的な立場に立っている石橋から見れば、歌手への道こそ、のぞみの求める自分の道だろうと考える。 しかしのぞみはそんなに安易に結論を出せない。 祇園を捨ててまで、自分探しを始めたのぞみのそもそもの悩みの根源は、めぐみとの「現実」の違いである。
人はそれぞれ違った「現実」の中で生きていることを普通はわきまえている。しかし、様々な事件や特殊な状況に立たされたとき、「現実」の意味が理解不能になるのである。
例えば最愛の人の「死」は理屈ではわかっていても、なぜ死んでしまったのか? 理解できないのだ。 めぐみとのぞみのように以心伝心で何でも分かり合える双子、入れ替わり自由に見える双子が、18年間の異なった育成環境の中で育った結果としての「現実」の違いは、理屈では理解できても、心の底から理解できない。
世間の狭かったのぞみにはなお、ショックだったろう。
のぞみが、そのショックから立ち直るためには、この「現実」の違いを受け入れるしかないのではなかろうか。 だとすれば、そのシナリオは?
ともかく、のぞみの自分探しの旅が、どのような経緯で進んでいくのか? のぞみの悩みの深さを考えるとめぐみにも大きな転機が来そうな気もする。 そして周囲の関係者はそのことにどのように関わってくるのか? ますます楽しみになってきた。 如何なものか。
2008年12月11日
だんだんと自由
今日のNHK朝のテレビ小説「だんだん」の見所は、祇園を出て行ったのぞみ(三倉佳奈)と、表面上はのぞみと縁を切って祇園に残って苦悩する真喜子(石田ひとみ)の出来事である。
のぞみは春の温かい日差しの縁側で、父・忠(吉田栄作)のボクシングの試合を見て、大学進学を決意した弟・健太郎(木咲直人)と将来について話し、自分の道が見つかるといわれる。また忠にも、学歴がなくともきっと未来は開けると言われる。就職案内の広告を見て嘆くのぞみに、忠は、「世の中はこげんもんなんだ。厳しいもんだ。しかし、高校に行かんでも道はあるけん。キッとある! のぞみは一人じゃないけん。お前の後ろにはいつもわしがおる。それを忘れるな!」 といった。
一方、真喜子こと花雪は、都踊りの総稽古の場で家元から叱られる。そして久乃(藤村志保)、花雪、花鶴、花香が揃って花むらに帰宅後、花雪は、満座の中で恥をかいた久乃に説教されている内に失神してしまう。“ストレスからくる過労”との診断で、一時(いっとき)の休養をすることになる。めぐみ(茉奈)の作った花見弁当で元気を取り戻す。
のぞみと真喜子の違いを、祇園という古い伝統に縛られた人間と、そこから飛び立った勇気ある人間という風に考えるのは早計であろう。花雪が現代西洋風の自由な人間とは言いがたいが、習慣や伝統に縛られているというのも言い過ぎかもしれない。
今朝のニュースで、限界集落に暮らす老婦人が、“人生は 心一つの置き所” 即ち、どんな状況でも、人生の幸・不幸とは、心の持ち方一つだと思って生きている、と話していた。
真喜子が、ストレスを感じるのは、娘のこれからのことを思いやるがためである。
自由とは、気ままな選択を許すといった自由ではない。 人間としての法則に従って、自分の可能性を実現する自由なのである。 忠も自分の可能性を実現するためにボクシングに打ち込んだ。花雪も京舞の世界に打ち込んだ。 従って、のぞみが、歌の世界に入って行くとしても、決して安易な妥協ではなく、自分の可能性を実現し、自分自身として生きる勇気を選び取るということなのだと考えるべきではなかろうか。 如何なものか。
のぞみは春の温かい日差しの縁側で、父・忠(吉田栄作)のボクシングの試合を見て、大学進学を決意した弟・健太郎(木咲直人)と将来について話し、自分の道が見つかるといわれる。また忠にも、学歴がなくともきっと未来は開けると言われる。就職案内の広告を見て嘆くのぞみに、忠は、「世の中はこげんもんなんだ。厳しいもんだ。しかし、高校に行かんでも道はあるけん。キッとある! のぞみは一人じゃないけん。お前の後ろにはいつもわしがおる。それを忘れるな!」 といった。
一方、真喜子こと花雪は、都踊りの総稽古の場で家元から叱られる。そして久乃(藤村志保)、花雪、花鶴、花香が揃って花むらに帰宅後、花雪は、満座の中で恥をかいた久乃に説教されている内に失神してしまう。“ストレスからくる過労”との診断で、一時(いっとき)の休養をすることになる。めぐみ(茉奈)の作った花見弁当で元気を取り戻す。のぞみと真喜子の違いを、祇園という古い伝統に縛られた人間と、そこから飛び立った勇気ある人間という風に考えるのは早計であろう。花雪が現代西洋風の自由な人間とは言いがたいが、習慣や伝統に縛られているというのも言い過ぎかもしれない。
今朝のニュースで、限界集落に暮らす老婦人が、“人生は 心一つの置き所” 即ち、どんな状況でも、人生の幸・不幸とは、心の持ち方一つだと思って生きている、と話していた。
真喜子が、ストレスを感じるのは、娘のこれからのことを思いやるがためである。
自由とは、気ままな選択を許すといった自由ではない。 人間としての法則に従って、自分の可能性を実現する自由なのである。 忠も自分の可能性を実現するためにボクシングに打ち込んだ。花雪も京舞の世界に打ち込んだ。 従って、のぞみが、歌の世界に入って行くとしても、決して安易な妥協ではなく、自分の可能性を実現し、自分自身として生きる勇気を選び取るということなのだと考えるべきではなかろうか。 如何なものか。
2008年12月10日
だんだんと人間・3
先週末の最低温度、−4℃の寒さから今週はまた暖かさが戻ってきた。今日は快晴の上に気温も最高17℃。上着を脱いでの散歩となった。今週前半の万歩記録は、日・10602歩、月・18731歩、火・10048歩。日曜は合唱の演奏会で朝9時から16時まで籠の鳥状態だったが会場からの帰路は歩いた。また昨日の火曜日は一日雨で得意の雨中散歩を楽しんだ。
今日は国連の世界人権デー、そしてノーベル賞で有名な化学者・ノーベルの逝去日である。従ってその日にちなんでノーベル賞の授与式も行われる。 どうもノーベル賞の授与式のお陰で人権デーが霞んでしまった感がある。
授与式とは別途に、人権デーなのだから、もっと人権問題を考えることも重要だと思う。

さて、NHK朝のテレビ小説「だんだん」、春休みになった健太郎(木咲直人)が松江を自転車で案内すると言い出すが、のぞみ(三倉佳奈)は自転車に乗れない。
そこで父・忠(吉田栄作)に自転車の後ろを持ってもらって練習する(写真はその時のもの)。
松江では、のぞみを中心に、表面上は穏やかな日々が経過している。

一方、祇園ではのぞみのライバル・涼乃(木村文乃:写真)が
襟替えして「花むら」に芸妓としてお座敷に呼ばれた。
その帰りに涼乃は、花雪(石田ひかり)の踊りに納得がいかないと久乃(藤村志保)に告げた。都踊りで一緒に舞う後輩芸者・涼乃から見てさえ、ダメ出しがでた花雪は余程の重症である。
真喜子は、どんなことがあってものぞみの味方であり、のぞみを守ろうと思っている。しかし、祇園という世界にいる限りその思いを遂げることは難しい。
また、のぞみも父親や腹違いの弟などとの交流を深めることはできたが、将来に向かって
大きな壁(学歴)に行き当たった。 真喜子が心配した世間知らずが露呈したのである。
このような様々な問題を、双子の歌手デビューという安易な解決策で済ましてしまうための伏線だとすれば、奥行きのない物語になるような気がする。如何なものか。
今日は国連の世界人権デー、そしてノーベル賞で有名な化学者・ノーベルの逝去日である。従ってその日にちなんでノーベル賞の授与式も行われる。 どうもノーベル賞の授与式のお陰で人権デーが霞んでしまった感がある。
授与式とは別途に、人権デーなのだから、もっと人権問題を考えることも重要だと思う。

さて、NHK朝のテレビ小説「だんだん」、春休みになった健太郎(木咲直人)が松江を自転車で案内すると言い出すが、のぞみ(三倉佳奈)は自転車に乗れない。
そこで父・忠(吉田栄作)に自転車の後ろを持ってもらって練習する(写真はその時のもの)。
松江では、のぞみを中心に、表面上は穏やかな日々が経過している。

一方、祇園ではのぞみのライバル・涼乃(木村文乃:写真)が
襟替えして「花むら」に芸妓としてお座敷に呼ばれた。
その帰りに涼乃は、花雪(石田ひかり)の踊りに納得がいかないと久乃(藤村志保)に告げた。都踊りで一緒に舞う後輩芸者・涼乃から見てさえ、ダメ出しがでた花雪は余程の重症である。
真喜子は、どんなことがあってものぞみの味方であり、のぞみを守ろうと思っている。しかし、祇園という世界にいる限りその思いを遂げることは難しい。
また、のぞみも父親や腹違いの弟などとの交流を深めることはできたが、将来に向かって
大きな壁(学歴)に行き当たった。 真喜子が心配した世間知らずが露呈したのである。
このような様々な問題を、双子の歌手デビューという安易な解決策で済ましてしまうための伏線だとすれば、奥行きのない物語になるような気がする。如何なものか。
2008年12月09日
だんだんと人間・2
私にとって、NHKテレビ小説「だんだん」の今日のポイントは、のぞみ(三倉佳奈)のことについて初枝(三林京子)と忠(吉田栄作)親子が、交わした何気ない対話であった。のぞみが松江に身を寄せるようになったことについて初枝は、「お前のボクシングのときは寿命の縮まる思いをしたが、私はなぁ〜、こげになって本当に良かったと思っちょるんよ。のぞみが普通のにょうばんこ(女の子)になってくれて。」 と述懐する。
ただ、のぞみが松江に来て約1ヶ月、何も言って来ないあちらさん(祇園の関係者)に対して このままで良いのか気遣っているのだ。
のぞみの実の祖母でもある初枝は、忠の行為が立派に役立っていることを認めると同時に、のぞみの行為をも十分に認めているのである。 初枝には自己の伝統に根ざした確固たる考え方がある。子供や孫との距離、嫁との距離、そして祇園の人々との距離(間:ま)をきちんと取っている。 それと共に、明らかに祇園の世界とは別世界に生きていることを自覚しているし、のぞみが自分の世界に戻ってきたことを喜んでいる。
人は人との間を取らなければならない。 それが所謂社交儀礼(マナー、礼儀作法)である。 親しい仲で差別してはならないと気を使うのは良いが、それなりの区別をしないと人間関係がややこしくなる。そのときの区別は、あくまでも自分の主体性の基、社会性も考慮して、
相手との関係の中で決めるものである。
真喜子(石田ひかり)が夢花に地唄舞“黒髪”の指導をしていた時に、恋の思いを心のうちに秘めるように言っていた。 祇園での人間関係は、感情そのものを心の中におさめて表に出さないことにその基本があるのではなかろうか? だからのぞみが出奔して1ヶ月も経過して非公式には松江に落ち着いていると知りながら、建前(縁を切ったという)上、公式的な挨拶がないのだ。 しかしのぞみを心配する真喜子には、到底それを心に秘めて日常を過ごすことは難しいのではないか。
人と人の間の取り方が、個人の考え方と地域社会で異なる場合、どうすれば良いのか? 如何なものか。