2009年09月30日
Surachipt と砂川市
幕末の江戸幕府の探検家、「松浦武四郎」はこの値を現地人が「ソラチプト」と呼んでいることに気がつきました。私はアイヌ語の専門家ではありませんが、水の流れが速く、砂浜(洲)があったり、淵が深かったり、滝のような流れがあるところという意味だったようです。
この地名を元に、日本語を当て字した現在の歌志内市、砂川市、滝川市、深川市が作られます。
松浦武四郎はこの地を「日本人として」始めて探検しますが、現地の住民にとっては、上流の神居、徳富、野花南など内陸型少数民族にとっては当たり前の交易の地だったと想像できます。
現代も砂川市の滝川市との境界地は「空知太」と呼ばれ、この呼び方が「火北海道支庁空知」の元となった言葉です。
松浦武四郎は、この地の少数民族が、和人の進出に伴い、人口が減っていることに心を痛めました。新しくできた明治革命政府に「蝦夷地」という差別的な呼び方を改め、少数民族が自らのことを「カイ」と呼ぶことに気がついて、「北海道」という呼び方をひとつの提案して採用されます。以後、この世界で21番目の大きな島は「北海道」と呼ばれるようになりました。
私はこの地に surachipt の名を与えています。松浦武四郎は当然日本人ですから、日本語で記述するにあたり「ソラチプト」と記しましたが、それは日本語での表現であり、内陸少数民族や、沿岸少数民族にとって、方言のようなものにすぎません。日本語での記載はあまり意味がないと考えています。
洲知風都(スラチプト)
したがって、日本語で表記するにあたり、水「洲」と「風」、そして多くの民族が交流して、情報を交換しあった地として、「知」の字を与えました。文字のない彼等がこの土地をどう称したかは永遠に不明ですが、内陸にすむ彼等がこの地で容易に物々交換を行い、熊(カムイ)の動きやシャケの取れ具合などの情報を交換し合っていたと想像することは容易です。いわば彼等にとって情報の「都」だったのです。
こういった、北アジア少数民族が使った言葉に私たち日本人が「洲知風都」の文字を与えることは無意味ではないと勝手に思っています。