2009年10月22日
間宮林蔵と蝦夷錦
古代の日本人は、西から東へ、北へと目指して移動してきました。結果的に北海道を除く日本全土が17世紀に江戸幕府により統一されました。徳川幕府は、交易の地として長崎を指定して、鎖国を行ったと私たちの日本史の教科書は教えます。
しかし、北から謎の「蝦夷錦」という謎の古着の交易品がありました。どうみても、日本のものとは思われない奇妙な古着です。実は、西日本は長崎に限り交易が認められていましたが、北海道は周囲の部族に開放された自由交易の土地だったのです。
この自由交易の土地を踏破しようと試みたのが、松田伝十郎と間宮林蔵です。二度目の挑戦で間宮林蔵は、北樺太で冬を過ごし、地元ギリヤーク人と思われる部族と狭い海峡を渡って黒竜江を遡り、土地のツングース系の諸族が、清国に毛皮類を上貢し、交換に中国風の古着を受け取っている実態を目撃します。
彼等が渡った狭い海峡(間宮海峡)は非常に浅い海峡で、その北には静かな海(オホーツク海)が広がっていました。
明治維新以降、私達ー日本人、は北へ南へと勢力を広げます。敗戦後、北海道に住み着いた日本人は、高度経済成長、冷戦時代を経て、日本人のアイデンティティを持ちながら、日本人の本拠地である本州、南へと心が動きました。オホーツク海、樺太は遠い「ソ連」の領土になりました。多くの若者が北海道を離れ、本州各地へと移動しました。今でも東京の地方出身者は、北海道、長野、沖縄が多いと言われます。
もう一度、間宮林蔵が海峡ごしに北に見えたオホーツク海を見てみましょう。実際に見るのが難しければ Google Earth で見ると良くわかります。手元に地球儀があれば、上から眺めても結構です。
オホーツク海は浅い海です。浅い海にアムール川の淡水が混じり、冬には氷結します。千島列島を伝えば簡単にカムチャツカ半島にたどり着けます。カムチャツカ半島からはアリューシャン列島を通って、簡単に北米に行くことができます。間宮海峡は、大戦時にソ連陸軍がトンネルを作ろうと試みたほどの浅い海峡です。ベーリング海峡もまた、橋をかけようという酔狂なアイディアがあるくらい、狭くて浅い海峡です。
これら北の浅い海の南端に北海道という島が位置します。
北海道は、ユーラシア大陸、北米に一番近い島です。深い太平洋の海溝を超えなくても、容易に浅海に島伝いに通信ケーブルが敷設できる基点です。
縄文時代以降、日本人は北を目指してきました。北の各民族は南に向かって自由に交易し、情報を交換しました。水と風と人々の知が交わる場所、洲知風都。Surachipt は情報の集散地です。