2011年05月16日
北海道のスプリチュアルなもの
古来、文明の中心民族は周囲の少数民族を蔑称してきました。ギリシャ語のバルバリアンは中央ヨーロッパのケルト人の蔑称で、英語の「野蛮人:バーバリアン」の語源です。傲慢さで知られる中華民族は北方の少数民族にケモノ偏の漢字を当て、「土地を荒らす奴らは人ではなく獣」とみなします。しかし、エスキモーがイヌイット(彼らの言葉で人間、我)に、インディアンがネイティブアメリカンと呼ばれるようになり、少数民族の地位が向上します。
私たち日本人が「我」を指す「ワ(レ)」は中華民族から「倭人」と記されました。幸いなことに少なくとも農耕民族同士、漢民族は日本人を人とみなしていたようです。
逆に私たち「和人」は北海道の地を「蝦夷」という蔑称で呼びました。蝦夷は蠣崎氏を祖とする松前氏により米も取れないのに十万石の大名格となり、間宮林蔵や高田屋嘉兵衛などにより、沿岸調査、千島航路が発見され、沿岸部はよく知られるようになります。松前藩は別として、林蔵や嘉兵衛は北方少数民族のスピリチュアルと生活と文化を理解しようと試みました。
しかし、北海道内部に初めて和人として踏み込んだのは、幕末の探検家、松浦武四郎です。彼は案内してくれた現地人が「我」のことを「カイ」と呼ぶことに気が付き、蝦夷地を「ホッカイドウ」と呼ぶことを幕府に建白します。実際に「我」が「カイ」という意味なのかどうかは言論学者に異論があるようですが、アイヌ語に沿岸アイヌ、中央アイヌ、オホーツクアイヌにかなりの訛りがあるようなので、松浦武四郎が聞いた「カイ」という言葉は石狩川を遡上した案内人がたまたま口にした言葉かもしれません。少なくとも彼がアイヌ民族を「蝦夷」ではなく「人」として扱いたいという強い気持ちには変わりはないでしょう。
さて、北海道で生まれ育った私が「内地」へ行っていくつか驚いたことがあります。まっすぐな木でできた林、後で竹林だと知りました。何故屋根に瓦と雨どいがあるのか、雪国に育った人間にとっては不思議なことです。
一番面白かったのは、街中を歩くとどこにでもあるお稲荷さんだとか古寺だとかです。このような「和人」のスプリチュアルは北海道人にはありません。水木しげるの「妖怪図鑑」にも北海道の妖怪として「コロポックル」が紹介されているだけなのです。道産子は「和人」を祖とする開拓民なのです。スプリチュアルなものは全てアイヌの原住民から受け継いできました。山のことを「シリ」と呼び、川のことを「ペツ」「ナイ」と呼びます。もちろん何の気もないただの日本語表記なのですが、北海道の大地には「和人」の知っている大地の神秘性はありません。
もちろん、北海道神宮は初詣で賑わいますが、そこには何千年もの「和人」が作り出した御神木などありません。魂のない唯の建物に過ぎないのです。よくカトリックの教会に「聖遺物」があり有難がるようなものがないのです。開拓民はむしろ突然襲ってくる巨大なヒグマや川を埋め尽くす鮭の群れ、海を白く濁らすニシンの産卵。山や川や海が生み出す豊穣と恐怖に畏敬を感じるようになります。
アメリカ人がヨーロッパやアジアの歴史に興味を持ち、彼らのようなスピリチュアルが自分達に欠けていることを自覚し、憧れるように、歴史の短い北海道の人々は全国から集まった「和人」とアイヌ民族のスピリチュアルを受け継いだ、いわば「混血文化」です。
私が Surachipt とアルファベットで表記する理由は文字を持たぬアイヌ民族の言葉を松浦武四郎が「ソーラチプット」(砂川市のいわた書店さんの記事より)と表記したからです。もちろん彼はアルファベットは使えませんでした。20世紀に生まれた私があえてカナ文字も使わないのは、鎖国の「和人」の時代にアイヌ人が北海道を根城にオホーツク海を経由して自由に北ユーラシアを動き回る国際人であったと認めたいからです。
あえて Surachipt と表記する目的は、21世紀の将来、北海道が日本の一部ではなく世界の一部として見て欲しいという希望をこめています。それでもあえて「漢字で書け」と言われれば「洲知風都」の文字を与えたいと思います。川と風と人が通り過ぎる都、人々はこの地で情報(知)を交換し、価値を作り出し、それぞれの目的地に旅を続けました。現代のデータセンターのような土地だったのです。
勝手に北海道 Surachipt にデータセンタを創る
私たち日本人が「我」を指す「ワ(レ)」は中華民族から「倭人」と記されました。幸いなことに少なくとも農耕民族同士、漢民族は日本人を人とみなしていたようです。
逆に私たち「和人」は北海道の地を「蝦夷」という蔑称で呼びました。蝦夷は蠣崎氏を祖とする松前氏により米も取れないのに十万石の大名格となり、間宮林蔵や高田屋嘉兵衛などにより、沿岸調査、千島航路が発見され、沿岸部はよく知られるようになります。松前藩は別として、林蔵や嘉兵衛は北方少数民族のスピリチュアルと生活と文化を理解しようと試みました。
しかし、北海道内部に初めて和人として踏み込んだのは、幕末の探検家、松浦武四郎です。彼は案内してくれた現地人が「我」のことを「カイ」と呼ぶことに気が付き、蝦夷地を「ホッカイドウ」と呼ぶことを幕府に建白します。実際に「我」が「カイ」という意味なのかどうかは言論学者に異論があるようですが、アイヌ語に沿岸アイヌ、中央アイヌ、オホーツクアイヌにかなりの訛りがあるようなので、松浦武四郎が聞いた「カイ」という言葉は石狩川を遡上した案内人がたまたま口にした言葉かもしれません。少なくとも彼がアイヌ民族を「蝦夷」ではなく「人」として扱いたいという強い気持ちには変わりはないでしょう。
さて、北海道で生まれ育った私が「内地」へ行っていくつか驚いたことがあります。まっすぐな木でできた林、後で竹林だと知りました。何故屋根に瓦と雨どいがあるのか、雪国に育った人間にとっては不思議なことです。
一番面白かったのは、街中を歩くとどこにでもあるお稲荷さんだとか古寺だとかです。このような「和人」のスプリチュアルは北海道人にはありません。水木しげるの「妖怪図鑑」にも北海道の妖怪として「コロポックル」が紹介されているだけなのです。道産子は「和人」を祖とする開拓民なのです。スプリチュアルなものは全てアイヌの原住民から受け継いできました。山のことを「シリ」と呼び、川のことを「ペツ」「ナイ」と呼びます。もちろん何の気もないただの日本語表記なのですが、北海道の大地には「和人」の知っている大地の神秘性はありません。
もちろん、北海道神宮は初詣で賑わいますが、そこには何千年もの「和人」が作り出した御神木などありません。魂のない唯の建物に過ぎないのです。よくカトリックの教会に「聖遺物」があり有難がるようなものがないのです。開拓民はむしろ突然襲ってくる巨大なヒグマや川を埋め尽くす鮭の群れ、海を白く濁らすニシンの産卵。山や川や海が生み出す豊穣と恐怖に畏敬を感じるようになります。
アメリカ人がヨーロッパやアジアの歴史に興味を持ち、彼らのようなスピリチュアルが自分達に欠けていることを自覚し、憧れるように、歴史の短い北海道の人々は全国から集まった「和人」とアイヌ民族のスピリチュアルを受け継いだ、いわば「混血文化」です。
私が Surachipt とアルファベットで表記する理由は文字を持たぬアイヌ民族の言葉を松浦武四郎が「ソーラチプット」(砂川市のいわた書店さんの記事より)と表記したからです。もちろん彼はアルファベットは使えませんでした。20世紀に生まれた私があえてカナ文字も使わないのは、鎖国の「和人」の時代にアイヌ人が北海道を根城にオホーツク海を経由して自由に北ユーラシアを動き回る国際人であったと認めたいからです。
あえて Surachipt と表記する目的は、21世紀の将来、北海道が日本の一部ではなく世界の一部として見て欲しいという希望をこめています。それでもあえて「漢字で書け」と言われれば「洲知風都」の文字を与えたいと思います。川と風と人が通り過ぎる都、人々はこの地で情報(知)を交換し、価値を作り出し、それぞれの目的地に旅を続けました。現代のデータセンターのような土地だったのです。
勝手に北海道 Surachipt にデータセンタを創る