2015年06月
2015年06月24日
「がんばらなければいけないのにやる気が出ない、どうしてもモチベーションが上がらない、というときは、『浅く速い呼吸』をして交感神経を刺激すればいいのです。」
順天堂大学の小林弘幸教授の「なぜこれは健康にいいのか?」の中の一節です。
(「なぜこれは健康にいいのか?」p166 サンマーク出版)
休みになると、疲れた体がなかなかいうことを聞かなくて、ちょっと頑張らないといけないのに、困ってしまうという人も多いと思います。
これは必要以上に交感神経の働きが低下しているのが原因のようです。
小林教授によると、精神状態や健康状態に良いのは、副交感神経が交感神経よりも少し高くて、それが高いレベルで保たれているときです。
「副交感神経が過剰に優位になることでバランスが崩れている状態とは、心も体も弛緩しすぎている状態、わかりやすくいえばモチべーションが上がらないときです。」(同著p166)
やる気を出すにはどうすればよいか。
「ハアハアと胸で浅い呼吸をすればいい」
「どうもうまくいかないという人は、両手を上に上げたいわゆる『バンザイスタイル』で速めの呼吸をしてみてください。
この状態だといやでも胸式呼吸になるので、交感神経が上がります。
でも、呼吸で交感神経、副交感神経を刺激するポイントは、胸式か腹式かではありません。
最重要ポイントは、息を吐くときのスピードです。
呼吸によって拡大と収縮を繰り返す肺は『胸腔』と呼ばれる空間内に存在しています。
息を吐くときは、肺を収縮させるため、胸腔内圧が上がります。
胸腔には座カを感知する『圧受容体』というところがあるのですが、息を吐く時間が長ければ長いほどこの圧受容体に圧力がかかりつづけることになります。
少々むずかしい話になりますが、圧受容体は静脈の血流量をコントロールする働きがあるので圧力のかかる時間が長ければ長いほど、つまり、息を吐く時間が長ければ長いほど静脈に流れる血流量が増え、副交感神経が刺激されるという仕組みになっています。
まあ、むずかしい医学用語や仕組みまで覚える必要はありません。
息を吐く時間が長ければ長いほど副交感神経が刺激されると覚えていだだけば充分です。」(同著 p166)
結局、次がポイントです。
「緊張したときやあせったとき、パニックを起こしそうなときは『ゆっくり息を吐く』呼吸をし、やる気が出なきときは『速く短く息を吐く呼吸』をすることで、自律神経のバランスを整えることができる、ということです。(同著p167)
呼吸の仕方で、やる気や緊急事態に対処するときの気持ちなどもコントロールできるということ。
これってなかなかです。(^o^)/
2015年06月22日
2015年06月17日
「なぜ」(Why)を明確にすると、手順書がよくなっていきます。
何のためにその仕組みがあるのかがより明確だからです。
目的がはっきりしていると、その目的を満足させる力がなければ、その仕組みを変えないといけません。
また目的を達成すればその仕組み自体を捨てないといけないかもしれません。
例えば、当社は製品販売の中で、環境製品を拡販していく方針に変更した。
そうすると、販売の仕方自体が変わります。
「当社は環境への取り組みで、社会への貢献が確実に実現できるので、当社は今後環境製品の拡販に注力する。 当社は省エネを最大のポイントにして拡販をする方針に変更したので、省エネタイプのB製品を拡販する。 特に・・・・・・に留意して、顧客に説明する。 そして環境面での当社の取り組みについてわかっていただくよう丁寧に説明する。」 となります。 この手順書の中には、「できるので」「変更したので」などが入っています。
A製品は、小型製品で場所をとらないから、今後A製品を拡販する。
特に・・・・・・に留意して、顧客に説明する。
そして環境面での当社の取り組みについてわかっていただくよう丁寧に説明する。」
これが、さらに当社が小型よりも省エネを大切する方針に変わり、それに合わせたB製品が出ると、上記の手順書を検討し、次のように修正します。
「当社は環境への取り組みで社会への貢献が確実に実現できるので、当社は環境製品の拡販に注力する。
これが「なぜ」の具体的な言葉です。
「なぜ」を明確にすること、やはりポイントです。(^o^)/
2015年06月15日
「クリスマスはケーキ、年の瀬はお歳暮とおせち……。
コンビニの学生アルバイトが、店から販売のノルマを課されることがあるという。
来店客ではなく、自分の知り合いを頼って注文を取らなければならない。
できなければ罰として自腹を切り、バイト代が消えていく。どうしたらいいのか。」
毎日新聞 2015年06月14日 東京朝刊の社説です。
「こんな相談が労働組合『ブラックバイトユニオン』(東京)にたびたび寄せられる。
決して放置してはならない状況だ。
組合によると、昨年秋以降、アルバイトに関する相談が増え、最近は月に100件以上ある。
飲食業、小売り、個別指導塾が多いという。
居酒屋やファストフード店の場合、『シフト』と呼ばれる勤務形態の相談が多い。
事前の約束とは違い、深夜に及ぶ長時間労働を強いられたり、授業のある日でも急に仕事を入れられたりする。
断ろうとすると店長から『自己中心的だ』『ほかの人に迷惑をかける』と責められ、あきらめる。
学業がおろそかになり、単位を落とし、留年するケースさえあるという。
若い正社員の店長も少人数のアルバイトで業務をこなし、人件費を抑えて利益を上げなければならない。
できなければ自分が無理をしてシフトの穴埋めをすることになる。
正規、アルバイトを問わず若者の労働現場がむしばまれている。
弁護士やNPO法人でつくる『ブラック企業対策プロジェクト』が27大学の学生約4700人にアンケート調査をしたところ、『職場で不当な扱いを受けた』と答えた学生が7割近くに上った。
さらに、こうした学生の半数は何もせずに泣き寝入りしていたという。
一部の大学は注意喚起の文書を学生に配るなどの対策を始めた。
こうした中、塾講師の学生が労働組合を結成し、塾側に団体交渉を申し入れる動きも出てきた。
最近は、大学生だけでなく、高校生のアルバイトでも『休めない』『やめられない』という問題が起きている。成績は落ち、受験にも影響する。
部活動や学校行事に支障が出ることもあるという。
背景には家計が苦しい学生が増える一方で学費が上がり、奨学金制度も不十分で、アルバイトに頼らざるを得ない実態がある。
まずはアルバイト先の不当な要求に応じないように、アルバイトに関して自らの権利を守る基本的な知識を学校でも教えるべきではないか。
日本ではあまり力を入れてこなかった分野だ。
厚生労働省は労働条件の事前確認などを促す冊子を全国の大学に配布した。
業界への指導も求めたい。
2015年06月14日


群馬県の磯部温泉にある、「磯部詩碑公園」です。
「磯部駅を降りると碓氷川を望む場所に緑あふれる磯部公園が広がります。
かつてこの地を訪れた多くの文学者が作品を残しましたが、大手拓次・萩原朔太郎・北原白秋らを始めとする詩人たちの14の詩碑(公園内)のほか、舌切り雀神社などがあり散歩には最適です。」
(安中市役所のHPより)

文学碑がたくさんあります。

この温泉は雀のお宿の発祥の地でもあります。
だから雀さんがシンボルです。


公園の中にあった神社です。

「赤城神社」。

大己貴命を祭っています。
水難よけと商売繁盛にご利益があります。

「日本最古の温泉記号」の石碑です。 ♨


このまちの出身、詩人の大手拓次の短歌です。
何が書かれているかはよく読めません。(-_-;)
明治20年、碓氷郡磯部に生まれる。
早大英文科卒。
詩誌「朱欒」に「藍色の蟇」「慰安」を発表し、その後、「ARS」「近代風景」など北原白秋の詩誌を中心に作品を発表する。
怪奇豊麗な幻夢と暗鬱な香気を漂わす詩風で、犀星・朔太郎とともに、白秋門下の三羽ガラスと言われた。
(安中市役所のHPより)



「陶器の鴉」
陶器製のあをい
なめらかな母韻をつつんでおそひくるあをがらす、
うまれたままの暖かさでお前はよろよろする。
この日和のしづかさを食べろ。
少し怖さがあります。リアルな句ですね。

大手拓次。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%89%8B%E6%8B%93%E6%AC%A1


「岡田太京」
明治28年、安中市に生まれる。
本名、郷二郎。磯部で居酒屋を営む。
幼い頃から、句作を始め、紅燈の巷にあって、女性の相談相手をつとめるなどして、遊女の心の琴線に触れた作品が多い。
(安中市役所のHPより)


「室生犀星」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E7%94%9F%E7%8A%80%E6%98%9F
明治23年、金沢に生まれる。
高等小学校を中退後、金沢地方裁判所の給仕をしながら俳句・詩を作り、18歳の時「文章世界」に小品文「阿辺の初春」が入選掲載される。
大正2年「ザンボア」に詩を発表、北原白秋に認められた。
代表作に詩集「愛の詩集」「抒情小曲集」小説「あにいもうと」「女の図」「杳っ子」等々がある。
(安中市役所HPより)


「湯浅半月」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%B5%85%E5%90%89%E9%83%8E
安政5年、安中市に生まれる。
明治・大正・昭和の詩人。
同志社大神学部卒。
同志社大教授、牧師、京都府立図書館館長等をつとめた。
詩集「十二の石塚」は創作個人詩集として、日本最古のものといわれる。
日本最初のヘブライ学者、また図書館学の樹立者でもある。
(安中市役所HPより)


「川田順」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%94%B0%E9%A0%86
明治15年、東京下谷竹町に生まれる。
明治・大正・昭和の歌人。
明治30年、佐々木信綱の門に入り、浪漫的なやわらかな叙情をみせる。
特に旅の歌に、すぐれたものが多い。
「鷲」「国初聖磧歌」で第1回の芸術院賞をうける。
「川田順歌集」がある。
(安中市役所HPより)


「山口薫」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E8%96%AB
明治40年、群馬県箕郷町に生まれる。
東京美術学校西洋画科卒。
フランス・イタリアなど各国を歴訪し、帰国後、昭和34年に自由美術協会を設立する。
また、モダンアート協会を結成、38年には、東京芸大教授となる。
(安中市役所HPより)



「久保田万太郎」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%BF%9D%E7%94%B0%E4%B8%87%E5%A4%AA%E9%83%8E
明治22年、東京浅草に生まれる。
劇作家・小説家・俳人。俳号暮雨のちに傘雨。
慶大文科卒。
一貫して、東京下町の市井の人々を描き、その世界は広くないが特色ある文体で、独特の詩的な情趣を描きだしている。
小説「末枯」、戯曲「大寺学校」など。
(安中市役所HPより)


「若山牧水」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E5%B1%B1%E7%89%A7%E6%B0%B4
明治18年、宮城県東白郷村に生まれる。
明治・大正の歌人。
38年、尾上柴舟らと車前草社を起こし、「創作」を編集創刊。その歌風は、感傷的・叙情性の濃いものであったが、後、しだいに自然歌人としての自己を確立していく。
「海の声」「秋風の歌」「山桜の歌」等、数多くの歌集がある。
(安中市役所HPより)

そして…。

最後は「北原白秋」でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E7%99%BD%E7%A7%8B
明治18年、福岡県に生まれる。
明治・大正・昭和を代表する天才的詩人。
拓次・朔太郎・犀星その他、多数の詩人を育てる。
43年、処女詩集「邪宗門」を出版、小曲集「思い出」歌集「桐の石」を相次いで出す。
大正7年、児童芸術雑誌「赤い鳥」を創刊し、新しい童謡運動をおこした。
(安中市役所HPより)


こちらは、「大手萬年翁胸像」。
この温泉の開拓者です。



薔薇がきれいでした。

「磯部詩碑公園」、文学の香りが漂う、なかなかの公園でした。(^O^)
2015年06月12日

水戸に来た時に、すでに2回入った、炉端焼きの店です。


なかなかうまい店です。

「店主」が焼鳥や外のいろいろのもの、汗をかきかき作っていました。
他の店は結構、ひまそうでしたが、この店はほぼ満員で、店員さんも駆けずり回っていました。
ここの店員さん、総て茨城大学の学生で、アルバイトさんとのことでした。
5~6人いました。
品数はかなり多かった。
しかもまあまあ安い。

水戸のサッカーチームの応援のチラシが貼ってありました。

夜の水戸。

泊まったホテル。


「ホテルメッツ水戸」です。

防犯のセキュリティです。

次の日の朝です。


とても良いホテルでした。
随所に配慮が感じられます。
例えばお風呂のシャワーの出口の位置だけでもそれがわかります。
配慮のあるホテルは、そのシャワーの出口が必ず、奥の方に曲げられています。
配慮のないホテルですと、シャワーのお湯の出口がこちらに向いていることもしょっちゅうです。
そうすると、うっかりシャワーの栓をひねるとこちらに水しぶきがかかってしまいます。
必要な表示がわかりやすく貼られていたり、置かれていたりするなども、大切です。
このホテル、その点もバッチリでした。
思わず会員登録してしまいました。<(_ _)>

隣りは茨城県警察「鉄道警察隊」。

JR水戸駅です。

今日は、これから水戸の会社のISOの審査です。m(__)m
2015年06月11日



舌切り雀のお宿です。
「ホテル磯部ガーデン」。
http://www.isobesuzume.co.jp/
松戸ロータリークラブの移動例会で来ました。

ホテルからの朝の景観です。


なかなかのホテルです。(^o^)/
次がすごい。

まさにこのホテルの宝物殿です。


左上が竹久夢二、右の下が山下清画伯。

高村光雲の、「お宿はこちら」の木彫り像。
上には雀の舌を切った鋏です。
おばあさんが怒って雀の舌を、この鋏で切ったのですね。(>_<)

絶妙のバランスです。

何とも素晴らしい宝がしっかりありました。



これもこのホテルの中。


カエル君がかわいい。

2014年度の人気ホテル250選に選ばれました。



これもホテルの敷地内。




岩谷小波。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%8C%E8%B0%B7%E5%B0%8F%E6%B3%A2
明治3年、東京麹町平河町に生まれる。
明治・大正期の代表的な児童文学者。
17歳で尾崎紅葉の硯友社にはいり、処女作「真如の月」を発表。杉浦重剛の樫好塾に学び、大町桂月、江見水蔭と塾内文学三羽ガラスと呼ばれた。
後、「日本昔噺」「日本お伽噺」「世界お伽噺」等をつぎつぎに発表した。童話作家。
(安中市HPより)
この人がこの温泉に来て詠んだ句。
「竹の春 雀千代ふる お宿かな」。自然な良い句です。

このホテルの社長、桜井作次さん。


ホテルでした。
そして、このホテルの経営する直営レストラン。

その近くの足湯。




案内板。




「温泉記号発祥の地」です。



ここは「温泉記号発祥の地」です。
妙義山。

山頂が異形ですね。


スモモでしょうか。




名物の「磯部せんべい」と「愛妻まんじゅう」。



「恐妻やきもち」。
これグッドです。m(__)m
センス抜群。\(^o^)/


「愛妻 ♨ 湯の町 ありがとうございました」。

磯部駅。
ここから、帰路につきました。
とても良い温泉でした。(^O^)
2015年06月09日
「医者に殺されない47の心得」というタイトルの本からです。
ちょっとすごすぎのタイトルです。
慶応義塾大学医学部放射線科講師の近藤誠さんの本。
お医者さんを信用するかどうか大切なことなので、この本については慎重に読む必要があります。
ただこの本の中に、非常に参考になる記述がありましたので、ご紹介します。
毎日の食事、卵と牛乳でばっちりOKとの記述です。
「タマゴは、とりわけ半熟状態で消化がとてもよく、離乳食や病人食にも最適。
ビタミンC以外の主要な栄養素をすべて含み、必須アミノ酸の組成もパーフェクトです。
卵黄には脳、神経組織をつくるために不可欠なレシチンも豊富です。
牛乳も重要な栄養素をバランスよく含み、必須アミノ酸の組成も理想的。
カルシウムの含有量は、全食品のトップクラスです。」(「医者に殺されない47の心得」近藤誠著p145 アスコム刊)
「100歳になっても自立して、「服を着る」「トイレに行く」など、身の回りのことを自分でできる人に共通する、食生活の特徴。
それは「タンパク質をしっかり摂っている」ということです。
人類は大昔から鳥のタマゴを食べ、ヤギや牛の乳を飲んで貴重な栄養源にしてきました。
タマゴ10個入りパック、牛乳1リツトルとも、200円前後。
この安さで、20種類以上のアミノ酸をすべて含む、滋養豊富な完全食品。
ほとんど添加物もなく、生でも、加熱しても、簡単においしく食べられる。」(同著 p145)
「加工食品のマヨネ—ズ、バター、チーズ、ヨーグルトなども含め優秀でリーズナブルな食品群です。牛乳を飲むとお腹がゴロゴロしたり下痢をしてしまう『乳糖不耐性』の人は、ヨーグルトやチーズを食べてみてください。
人間の体の20%はタンパク質で、それを形成するアミノ酸は20種類。
そのうち、体内で合成することができない9種類が「必須アミノ酸」で、1種類でも欠けると、骨や血液、筋肉などの合成ができなくなって、栄養障害につながります。
アミノ酸サプリが人気を呼んでいるようですが、20種類のアミノ酸をひとつひとつ工業的に作って配合したものをお金を払って摂るなど愚の骨頂です。
タマゴと牛乳を毎日食べて飲んでいれば、これほどカンペキな天然サプリはありません。」(同著 p146)
卵については、コレステロールの問題があるので、すべての人にお奨めではないと思います。
ただ、体にはきわめて効率的で効果的な食べ物の一つであることは間違いないですね。(^O^)
テレビ東京の「カンブリア宮殿」の「鳥貴族」編、見ました。
http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/backnumber/20150409.html
ものすごい勢いで鳥貴族出店しています。
1000案が目標とのことです。
ジャスダックにも上場しました。
その勢いの秘密、「鮮度(うまい)と価格、路面店でないこと」なのですね。
そして仕組みが「シンプル」なこと。
店で調理できる仕組みと設備、アルバイトから正社員という人事制度。
良くできています。
お通しをとらないのも良いですね。
村上龍の「必要な非効率」というのも、うなづけます。
これから北千住の焼き豚の店をコンサルするのですが、とても参考になります。m(__)m
2015年06月08日
「5S」の中でも、最初の「2S」、「整理」「整頓」特に大切です。
その中でもその中核になる「分類」して「表示」することがやはりとても大切です。
過去の記録や作成した文書など、あとで探すとき、「分類」と「表示」がしっかれできていないと、何処にあるかわからないことが多い。
それと「定位置」の大切さです。
決まった置き場所を確実に決めておく。
そしてその表示も明確にしておく。
いい加減な表示ですと、ある場所が不明瞭なので、探すとき非常に困ってしまいます。
電子データの管理ですと、フォルダ名です。
フォルダは多重階層になりがちです。
だからこそ、しっかりと大分類、中分類、小分類など考え方を整理して、わかりやすく表示しないといけません。
ここで出てくるのが、「定置」「定品」「定量」の3定。
「定置」定まった位置に、「定品」定まったものが、「定量」定まった量あるようにする。
「分類」「表示」は、「定置」「定品」の見える化の有力なスキルの一つです。
うまく分類表示し、「定置」「定品」をしっかり見える化する。
一方「定量」が大切になるのは、在庫管理のときなどです。
決まった在庫置き場に、何を、何個在庫するか。
2個の在庫が標準であれば3個になると過剰在庫ですし、1個になるならあと1個作ったり、仕入れたりしないといけません。
あるいはいつも標準在庫を上回っている状況ですと、原因を分析し、検討し、対処しないといけません。
課題として明確にするには「定量」が大切ということです。
やはり、「定置」「定品」「定量」の3定、とても大切です。
業務がスムーズに進むための要諦ですね。(^o^)/
2015年06月05日
PDCAをしっかり回すには、「行動基準」と「評価基準」の二つが大切になります。
「行動基準」はどのように行動を進めていくかの基準であり、物ごとにどのように取り組むかの基準になるものです。
主にP、計画の段階で大切です。
「評価基準」は、行動の結果についての評価の基準で、どのくらいできたか、出来栄えはいかがなものかなどです。
主にC、チェックの段階で大切です。
この二つを明確にすること、見える化すること、大事なところは文書化することがとても大切になります。
組織力を強くしていくためにも、この点が重要です。
基準があれば、仕組みも明確になり、業務プロセスも充実したものにしやすい。
まさにプロセスの創り込みをするために、「行動基準」と「評価基準」の明確化、必要です。(^o^)/
長崎の「平和公園」です。
「平和の泉」です。
「だんだんと変化する水形は、平和のはとの羽ばたきを形どり、つるの港といわれる長崎港のつるょ象徴しています。」と書かれています。
「のどが乾いてたまりませんでした。
水には、あぶらのようなものが一面に浮いていました。
どうしても水が欲しくて、とうとうあぶらの浮いたまま、飲みました。
ーあの日のある少女の手記から。」
と書かれています。
次は、…。
「友好の木」。
「米国から日本の皆様への贈り物。」
と書かれています。
「このハナミズキは、1912年に日本が3,000本の桜を米国に寄贈してから100年経つのを記念して日米友好の象徴として米国から贈られたものです。
日本全国に3,000本が贈られ、そのうち長崎市が100本の寄贈を受けました。 長崎市 平成25年12月」
とあります。
平和のもとは友好です。
大切にしたいですね、この気持ち。(^o^)/
「平和記念像」です。
「この平和記念像は、史上最大の惨禍によって瞬時に数多くの同胞市民を失い、筆舌につくし得ない悲惨苦に当面した長崎市民が、世界恒久平和の実現を広く世に訴え惨禍を再現せしめてはならないという切なる念願により、世界恒久平和のシンボルとして昭和30年(1955年)8月の原爆10周年記念日に建立されたものであります。・・・・・・・。」と書かれています。
また、
「平和祈念像は、長崎県長崎市松山町にある平和公園の北端に建てられた像。
北村西望(きたむら せいぼう)によって造られた。
神の愛と仏の慈悲を象徴し、垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は救った命 を表し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている。
被爆10周年にあたる1955年8月8日に完成。
像の高さ9.7メートル、台座の高さ3.9メートル、重さは約30トンあり、鉄骨を芯にして、青銅製のパーツをステンレスのボルトで縫ってある。
右手の人差し指には避雷針が設置されている。」とウィキペディアにはあります。
平和が大切なことを改めて実感させる像です。
中学校の生徒の一団です。
校長先生が挨拶されていました。
「戦災復興記念」の像です。
これはその近くの像。
ブルガリア人民共和国からの像です。
少し異色の立札です。
「フン公害」ですと。
見事な像です。
ラインがとても良い。
中華人民共和国のメッセージです。
「メガネ橋」です。
この日は「アジサイ祭り」でした。
色とりどりのあじさい君たち。
「七変化」と「クレナイ」
「クレナイ」と右が「マリヘン」。
隅田の花火」。
「
「プリンスブルー」。
「ルビー」。
「フラウヨシコ」。
「中島川石碑群」のご紹介のモニュメント。
路面電車がかわいい。
「大浦天主堂」
国宝です。
ここを通って「大浦天主堂」に行きます。
ここは「コルベ神父」ゆかりの地なのですね。
アウシュビッツ収容所で身代わりで殺された神父様です。
「祈りの丘絵本美術館」
ここはポイリング日本発祥の地」。
『国際電信発祥の地」、「長崎電信創業の地」。
トイレがあちらこちらにあります。
きれいでした。
長崎駅から、博多駅へ向かいます。
それでは、長崎さんさようなら。m(__)m
2015年06月04日
「如己堂」です。
永井隆博士です。
「爆心地から北北東へ約620m、病に倒れた永井隆博士のために、1948年(昭和23)3月、浦上のカトリック信者と近所の人の好意で建てられた二畳一間の小さな木造の家。
長崎市名誉市民永井隆博士が二人の子供と共に住み、自らの病室兼書斎として生活していた。
そして、ここから世界中の人々に戦争の愚かしさと平和の尊さを発信続け、昭和26(1951)年5月1日43歳で永眠された。(長崎市ホームページより)
「己の如く人を愛しなさい」と永井博士が書かれています。
1908年(明治41)2月3日、島根県松江市生まれ。
1932年(昭和7)長崎医科大学卒業の直前に急性中耳炎にかかり、内科医専攻を断念し同大付属病院にて放射線医学を専攻。
満州事変、日中戦争への2度の従軍を経て、1944年(昭和19)に医学博士となる。
1945年(昭和20)6月、過度の散乱放射線被曝による慢性骨髄性白血病で「余命3年」と診断される。
その2ヶ月後の8月9日、長崎市に投下された原子爆弾で博士は市民とともに被爆、右側頭動脈切断の重症を負い妻までも失った。
妻を失った悲しみのなか、その後約2ヶ月間にわたり被災者の救護活動を行なう。
同年10月中旬には再び浦上の地に戻り、再建の道を歩み出すが、翌1946年(昭和21)年末には病状が悪化、寝たきりの生活を余儀なくされる。
寝たきりの状態で出来る事―「書く」道を選んだ博士は『長崎の鐘』『この子を残して』『ロザリオの鎖』『原子雲の下に生きて』など、17冊の著書を書き上げ、恒久平和実現を広く訴えた。
博士の著作活動、また科学者としての研究活動の場となったのが、1948年(昭和23)3月、浦上カトリック信者達の厚意により建てられた、畳わずか2畳の家「如己堂」であった。
著作で得た収入の大半を、博士は長崎市の復興の再建のために寄付。
また、愛する浦上の地を再び花咲く町にしようと、小中学校、高校、浦上天主堂に桜の苗木1,000本余りを寄贈。
また、両親や兄弟を奪われ、すさんだ子供達の心を豊かにしようと、小さな図書館「うちらの本箱」を設け、生きる希望と勇気をあたえた。
1949年(昭和25)12月26日、長崎市名誉市民の称号を贈られる。
1950年(昭和25)6月、国家表彰を受けられた。
1951年(昭和26)4月、「乙女峠」脱稿を最後に容態が急変、同年5月1日43歳で永眠され、坂本国際墓地に眠られている。
博士の恒久平和と隣人愛の精神は、今も多くの人に受け継がれており、如己堂はその象徴となっています。
「十字架」。
私たちクリスチャンの原点です。
「デスマスク」です。
永井隆博士の辞世の歌です。
「白ばらの 花より香り立つごとく この身を離れ 昇りゆくらむ」
1951年までの3年間、この狭い部屋で親子3人起居しました。
裏です。
右横です。
「玉の緒の 命の限り吾はゆく 寂(さぶし)かなる 真理探究の道」
静かに、心に沈んでいきます。
静寂です。
「如己堂」でした。
如己堂の右、「永井隆記念館」です。
この記念館から、少し歩くと浦上天主堂があります。
「浦上天主堂の建設計画は、明治6年(1873)、キリシタン弾圧の禁制をとかれ自由を得た浦上の信徒達によって行なわれました。
ところが資金がなかなか集まらず、20年余りの時を経た明治28年(1895)、やっとフレノ神父の設計による教会の建設が開始し、大正3年(1914)に東洋一のレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として献堂式があげられました。
正面双塔にフランス製のアンジェラスの鐘が備えられましたが、昭和20年(1945)、原爆で建物は破壊され、アンジェラスの鐘も鐘楼とともに崩れ落ちました。
現在の建物は昭和34年(1959)に鉄筋コンクリートで再建されたもので、昭和55年(1980)、レンガタイルで改装し、往時の姿に復元されました。
周囲には被爆遺構の石像などが配され、今も原爆の爆風に耐えた一方のアンジェラスの鐘が時を告げています。」(長崎市ホームページより)
昭和56年2月25日、教皇ヨハネパウロ2世がこの教会を訪れ司祭の叙階ミサを挙げた。
「教皇様は説教を通して、『キリストに対する忠実さの模範の中で、希望と愛のうちに、信仰を守り殉教していった立派な先祖に習い、愛のうちに立派な行いを育てて行って下さい』とさとされた。」
これはそれを記念しての石碑です。
この後、平和記念像に行きました。
できることを炎々と、あまり気負わず確実にする。
役に立って何ぼ。
そして笑顔で感謝できれば、最高ですね。
気負うと疲れますし、もう還暦を過ぎましたので、エネルギーも効率よく使わないといけません。
人は一つ役に立つために生まれてきていると思います。
やはり役に立って何ぼです。
ボランティアは続きませんので、ギブアンドテイクも大切です。
そしてなんといっても笑顔が大切ですね。
笑顔には力があります。
ガンだって逃げていく。
そして笑顔は伝搬します。
笑顔が笑顔を作り、笑顔の輪が広がっていく。そこに豊かなコミュニティーや絆も生まれてきます。
それにしっかり感謝する。
というより、逆境の時にこそ感謝が大切になります。
どん詰まりになったとき、他人から悪口を言われたとき、失敗してしまった時・・・・。
そんな時にこそ、笑顔で感謝するチャンスです。(^O^)
還暦過ぎて1年半が立ちました。
残りの人生大切にしていきます。m(__)m
2015年06月03日
私の属しているコンサルNSPの藤間さんから来たメルマガの一部です。
なかなか良いので、転載いたします。
2015年5月29日(金) (第2347号)
『三種の神器』
斎藤一人さんが言う、
神様が人間にだけ与えてくれた特別な3つの能力「三種の神器」とは一体何でしょう?
以下のお話をどうぞ。
1つ目は「笑顔」です。
2つ目は「言葉」です。
3つ目は「おしゃれ」です。
この3つをどんなときでも磨くこと。
それが人生の修行であり、運命を切り拓いていくためのカギとなるのです。
では、どのようにして磨いていくのか。
そこには大きなポイントがあります。
それは「まわりや相手から見て、しあわせに見える」ように磨くのです。
まわりから見てしあわせそうな「笑顔」を磨く。
鏡を見ながら「どうすればしあわせそうに見えるか」を研究するのもいいですし、違う人に「あなたに逢えてしあわせ!」という気持ちを持っていると、自然と“しあわせそうな笑顔”になれます。
そして、まわりから見てしあわせそうな「言葉」を磨く。
なにかを食べるのでも、「これ、おいしい!」って言うと、作った人は喜びますし、まわりもイヤな気になりません。
「別にいちいち、そんなこと言う必要はないじゃん」って言う人がいるかもしれないけれども、まわりや相手から見て「しあわせそうな言葉」を言うと、その人たちの気分をよくするだけではなく、さらに「しあわせになるようなこと」を引き寄せる効果があるんです。
それに、言うのはタダだから、どんどん言ったほうがしあわせになれるし、トクですよ!
そして最後に、まわりから見てしあわせそうな「おしゃれ」を磨く。
自分が好きなファッションを楽しむのは悪いことではありませんが、それよりも相手の心が明るくなり、自分の心も明るくなったほうが2倍楽しむことができます。
中には「見た目よりも、中身が大事だ!」って言う人もいますが、中身を大事にしたうえで見た目も磨くことってできますよね。
お坊さまでも位の高い人はすごくおしゃれな袈裟を着ますし、菩薩さまも首飾りとかして、すごくおしゃれなんです。
だって、相手がボロボロで汚い格好をしていたら「この人に助けてもらおう」って思いませんよね。
だから、相手のためにおしゃれするって、最高の愛なんです。
(『斎藤一人の運を拓く教え』尾形幸弘 著 サンマーク出版)より
笑顔と言葉とおしゃれするというのは、人間にしかできません。
ということは、この3つを磨く=人としての成長なのかもしれません♪
どうして神様は、人間にだけその能力を与えて下さったのか?
そして一人さんが言うように、「相手のため」というのが大切ですね。
笑顔も言葉もおしゃれも、相手のために磨いていきます!
〜keiさんのブログ「魂が震える話」より抜粋〜
●3つめの「おしゃれ」が良いですね。
相手のために自然に装うこと、気持ちにも大きい。
気遣い、配慮の一つですね。(^O^)
5W1Hが手順の主要な6つの要素であること良く知られています。
その中で「なぜ」、「why」が大切なこと、この頃痛感します。
「なぜ」その手順、仕組みが大切かということです。
その手順、仕組みの「目的」です。
例えば売上1000万円という目標設定したら、そのための営業の仕組みを構築しますが、「なぜ」売上が1000万円必要なのかという確認や合意が大切です。
販売目標の数値そのものの妥当性などが問われます。
それがなければ、営業もやる気が起きません。
それなりに頑張りますが、上辺だけになることだってよくあります。
だから、上司との目標面接なども重要になります。
「なぜ」が明確ですと、その後の展開の中で、目標を変更する事も必要にもなります。
決めたことを確実にこなすことは大切ですが、ときには柔軟に対処するつまり数値目標の変更など必要です。
規定などでは「この規定の趣旨」などと、やや大げさに「なぜ」を考えて文書化してしまいますが、「〜から」と表現すればすむ場合も多い。
「〜から」が入っていれば、教育するときにもより確実に理解が進みます。
生きたPDCA を回すためには、「なぜ」をもっと重視する必要があります。(^O^)
2015年06月02日

長崎駅のプラットフォームです。


この日は、次の日が福岡でISOの審査があり、その前にと、長崎のまちを訪問しました。
私はキリスト教徒ですので、長崎のまちは格別です。
私のルーツの一つがここにあるように感じています。

外国の観光客の方も多かったですね。
中国の方も良く見かけました。

今アジサイが旬です。
右手奥に、南蛮船のレプリカがあります。

郵便ポストも異国情緒があります。

龍の踊りでねり歩くお祭りが有名ですね。
だからここにも龍?

サン・ラザロ病院、サンジョアン教会の跡です。

案内板には・・・・
「天正8年(1580)長崎はイエズス会領として寄進され、イエズス会本部が置かれるなど、わが国におけるキリスト今日の一大中心地となり、数々の教会がたてられました。
その様子はのちに、日本における小ローマと称されるほどでした。
天正19年(1591)に渡来したローケ・デ・メロベレイラは、この地(のち本蓮寺)に住民のための病院を開きました。
そのかたわらにフランシスコ会司祭のバウチスタが壮大なサンジョアン・バウチスタ教会(司祭は日本人)を建てました。
しかし、慶長19年(1614)に禁教令により破壊ざれてしまいました。」
イエズス会領として寄進されて、禁教令により破壊されるまで、30年以上教会などかなりあったのですね。
「小ローマ」というのはチョッとすごいですね。<(`^´)>

そして、この左側には・・・。


勝海舟寓居の地。

案内板には次のように書かれています。
「勝海舟は、安政2年(1855)から約4年間、長崎奉行所西役所に置かれた海軍伝習所に伝習生となり、オランダ海軍士官カッティングらの指導を受けました。
ながさきに滞在中は、この地にあった大乗院に宿泊し、長崎の女性、梶くまとの間に一男一女をもうけました。」

日本二十六聖人殉教地(西坂公園)

「戦国時代、長崎には、たくさんのキリシ夕ンが住んでいました。
しかし、天正15年(1587)、豊臣秀吉は長崎がイエズス会に寄進されていることに怒りパテレン追放令を出しました。
さらに、その10年後には京都や大阪などの信者や宣教師を捕らえ、見せしめのために長崎に送って処刑することにしました。
処刑された塌所が西坂の丘。
26人は処刑から265年後の文久2年(1862)、聖人に列せられました。」。」(さるくコースマップから)

「日本二十六聖人の殉教記念碑」です。
昭和37年(1962)に建てられました。
「この記念碑は、列聖100年を記念して昭和37年(1962)に建てられました。
讃美歌を歌いながら昇天する26人の姿を表すため、足は垂れ、視線は上を向いています。
その安らかな表情からは、処刑されたことを恨むのではなく自ら殉教の道を選んだ神への思いの深さが感じ取れます。」(さるくコースマップから)




「日本とポルトガル、その出会いの歴史をここ長崎の地で書いた。」
ルイスフロイスです。
この26聖人のことも1597年3月15日に書いています。
そして、その年の7月8日に死去された。

「日本二十六聖人殉教の跡」の碑です。


椿でなく、ツツジですが…。
しっかり咲いていました。

短歌二首。
「天国(ぱらいそ)の夕焼けを見ずや地は枯れても」(水原秋桜子)
「たびの足はだしの足の垂れて冷ゆる」(下村ひろし)



「日本二十六聖人記念館」です。
![日本二十六聖人記念館2015[1]](https://livedoor.blogimg.jp/iso_hiramatsu/imgs/6/1/6180c5ca-s.jpg)
![image[1]](https://livedoor.blogimg.jp/iso_hiramatsu/imgs/4/c/4ca6355b-s.jpg)
![image[1]](https://livedoor.blogimg.jp/iso_hiramatsu/imgs/2/a/2a6016a9.jpg)
「展示室内には、ザビエルによる日本でのキリスト教布教から、弾圧の時代、そしてその中での二十六聖人の殉教、潜伏キリシタンの祈りから明治時代の信仰の復活までの歴史が、多数の資料をつうじて紹介されています。
資料は「キリシタン時代から伝えられたもの」と「現代にその歴史を表わすため制作されたもの」の大きく2つに分けられます。
「聖フランシスコ・ザビエル書簡」(1546年)や、ローマへ派遣された4名の少年使節「天正遣欧少年使節」の一人中浦ジュリアンの自筆書簡、踏み絵と同型のもので信者たちが守り抜いた《ピエタ》(県指定文化財、16c)、潜伏キリシタンの密かな祈りの対象であった《雪のサンタ・マリア》など、貴重な資料が展示されています。」
(「ながさき旅ネット」から)
庭に次の碑がありました。

「愛は死よりも強し」


フィリッピン人の方の最初の殉教者です。
聖ロレンゾ・ルイズ、1637年に殉教しました。

そして、350年後、ヨハネパウロ2世により1987年に列聖されました。

自動販売機も独特でした。

西坂公園にありました。


そして、この公園の隣には、・・・。

聖フィリッボ教会。






日本初上陸の聖フィリッポ像。


聖フィリッポ教会でした。

トイレもきれいでした。(^O^)
「自律神経のバランスを意識的に整えることで、あなたのすべてが変わります。
それも、すべてよい方向に変わります。」
順天堂大学医学部教授の小林弘幸さんの本の一節です。
(小林弘幸著 なぜ「これ」は健康にいいのか? P7 サンマーク出版)
「自律神経をコントロールするポイントは、ひと言でいうと、「ゆっくり」です。
「ゆっくり」を意識し、「ゆっくり」呼吸し、「ゆっくり」動き、「ゆっくり」生きる。
そうすると、下がり気味の副交感神経活動レべルが上がり、自律神経のバランスが整いはじめるのです。
自律神経をコントロールするということ。それはまさに、人生をコントロールすることと同じです。」
と小林教授は言い切っています。
ところで自律神経は、「交感神経」と「副交感神」の二種類に大別されます。
交感神経とは、体を興奮状態にする作用があり、体を活発に動かす為に働いているのが特徴です。
副交感神経と共に、自律神経が生命活動に必要な状態を保てる様に体のバランスを調整しています。
副交感神経は、リラックスする為の神経です。
交感神経が外敵や外からの刺激に瞬時に反応できるように体勢を整えるのが役割だとすれば、緊張した身体を休めて疲れを解消したり、修復したりしておくのが副交感神経の役割です。
「どういうときに人は病気になりやすいのでしょうか。
結論をいうと、交感神経活動レべルが異常に高く、副交感神経活動レベルがきわめて低いときです。
この状態が持続すると、体のあちこちに不調が現れ、病気になってしまうのです。
逆の場合、つまり副交感神経活動レベルが高くて副交感神経活動レベルが低すぎる場合は、うつ病の傾向にあるといえます。
そして、交感神経も副交感神経も活動レベルが低い場合は、疲れやすく、やる気も起きない状態で、健康状態はよくもなく、悪くもなくといったところです。」
(同書 p6)
「この自律神経のバランスを自由自在にコントロールできるとしたら、私たちは生涯にわたって健康に生きる方法を手に入れることができるはずです。
それだけではありません。ここぞというときに持てる能力を全開できるようになり、それは人生を生きていく、うえで大きな助けとなるはずです。
自律神経のバランスを意識的に整えることで、あなたのすべてが変わります。
それも、すべてよい方向に変わります。」(同書)
そしてやはり呼吸が大切です。
TBSテレビ「ゲンキの時間」が自律神経をテーマにして、かなり前ですが放送していました。
そこで自律神経を整える呼吸法は、「2秒で吸って6秒で吐くのが良い」とのことでした。
これは具体的でとてもやりやすい・・・。
そのときに専門医で登場したのがやはり順天堂の小林弘幸教授でした。
「ゆっくり」のためには、呼吸からゆっくりをする。
今日からまた始めたいですね。(^o^)/