2020年05月20日
神の「予定調和」の中での一人一人の行動基準、今こそ必要ですね。
コロナ禍、いずれ収束します。
そしてその収束した環境下で、それぞれが皆いろんな思いを込めて復活に向けて、生活の道筋を整えていきます。
喜び悲しみ人間の持っている持っている原点、人としてのあり方、そういったものを大切にする生活は必要です。
しかし昔ながらのそのような生活、原点的なあり方の完全復活は無理であり、行動をかなり変えていかないといけません。
どの様に変えていったら良いのか。
ここで私の場合は、ライプニッツの「モナド」が登場します。
「モナド」には窓がないという話、よく知られています。
それぞれの「モナド」はコミュニケーションをしないということです。
ドイツの哲学者ライプニッツの「予定調和」説。
これは今では量子力学の世界では常識的なことですが、分子はさらにミクロである、電子や陽子、中性から成り立っています。
それがライプニッツのいう「モナド」です。
それらの電子や中性子が、それぞれ窓をもちコミュニケーションをすることなど、もちろんありません。
しかし「予定調和」になるのは、「聖霊なる神」がペルソナを持っている人間を指導し導くからと考える。
「聖霊なる神」は「父」と「子」と「聖霊」の三位一体の神の一つです。
「聖霊なる神」に導かれていていくその原動力になるのは、ヘーゲルの「世界精神」かもしれませんし、アリストテレスの「エネルゲイヤ」かもしれません。
いずれにしても、世界を大きく動かしていく原動力になる、整然とした秩序に沿って「聖霊なる神」が導いていく。
新約聖書、ヨハネ伝の最初に次のようにあります。
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」
「言葉」はイエスキリストであり、神が「人間」を救うために、「子なる神」としてイエスキリストをこの世に送られた。
そして「言葉」はギリシャ語で「ロゴス」、英語でいえば「オーダー」です。
英語で、壊れることを「アウト・オブ・オーダー」といいます。
「オーダーから外れた…」。
まさに、「言葉」は「ロゴス」であり、言いかえれば整然たる「秩序」を意味します。
その秩序を取り戻すために神は「一人子イエス」をこの世界に送られた。
人間関係は、人と人が配慮し合うことが、やはり原点です。
大切なのは人と人の関係です。
人と人は「1対1」の関係であり、極小の世界においても「1対1」が重要になります。
ここで重要な事は「1」という単位です。
1対1の関係の中でそれぞれが相手を意識し、配慮したり、愛し合ったり、憎んだり、自分本位だったりします。
そこで人を押しのけても自分が生き残ろうなど、もともと人間の持っている原罪、聖パウロの「罪びとなし一人だになし」の言葉が、ここで胸に響きます。
今回の新型コロナウィルスは、新薬聖書の中に出てくる「サタン」です。
「サタン」が、コロナウィルスを使って、人間世界にゆさぶりをかけている。
そしてそのような戦いを通して、人間は成長してきました。
アウシュビッツ収容所での、巧妙なナチスドイツの手口、ご存知でしょうか。
収容所の中で、親衛隊員は「カボー」という収容されている囚人の中から、監視役を選び、仲間を監視させました。
人の心理は微妙です。
もともとの仲間の中だからこそ発生する、妬みや、憎悪などを使って、カボーは収容者をある時は徹底的にいじめ、見せしめを作り、恐怖感を与え、自分たちは、それなりの良い対偶で、収容されている人々をコントロールしました。
対立するものより、仲間うちで監視させ、コントロールすることの方が、はるかに効率的にうまくいく。
もともとの仲間だからこそ、いろいろな感情が嫌が上でも増幅する。
これも「1対1」と「1対集団」の「関係」での出来事です。
「関係」というものが持つ怖さを、本当に感じます。
ここにも、「聖霊」が働き、「サタン」が働いています。
「神の予定調和」の中で、ヒットラーは敗れ、アウシュビッツは解放されました。
しかしです。
「関係」が同時に持つ素晴らしさをお互いの配慮の中で、確実に作り出していくことが、もっと大切です。
今回のコロナ禍の中で、1人ひとりが「関係」ということを改めて考え、自分の行動基準を明確にすることの必要性、改めて感じます。
そしてその収束した環境下で、それぞれが皆いろんな思いを込めて復活に向けて、生活の道筋を整えていきます。
喜び悲しみ人間の持っている持っている原点、人としてのあり方、そういったものを大切にする生活は必要です。
しかし昔ながらのそのような生活、原点的なあり方の完全復活は無理であり、行動をかなり変えていかないといけません。
どの様に変えていったら良いのか。
ここで私の場合は、ライプニッツの「モナド」が登場します。
「モナド」には窓がないという話、よく知られています。
それぞれの「モナド」はコミュニケーションをしないということです。
ドイツの哲学者ライプニッツの「予定調和」説。
これは今では量子力学の世界では常識的なことですが、分子はさらにミクロである、電子や陽子、中性から成り立っています。
それがライプニッツのいう「モナド」です。
それらの電子や中性子が、それぞれ窓をもちコミュニケーションをすることなど、もちろんありません。
しかし「予定調和」になるのは、「聖霊なる神」がペルソナを持っている人間を指導し導くからと考える。
「聖霊なる神」は「父」と「子」と「聖霊」の三位一体の神の一つです。
「聖霊なる神」に導かれていていくその原動力になるのは、ヘーゲルの「世界精神」かもしれませんし、アリストテレスの「エネルゲイヤ」かもしれません。
いずれにしても、世界を大きく動かしていく原動力になる、整然とした秩序に沿って「聖霊なる神」が導いていく。
新約聖書、ヨハネ伝の最初に次のようにあります。
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」
「言葉」はイエスキリストであり、神が「人間」を救うために、「子なる神」としてイエスキリストをこの世に送られた。
そして「言葉」はギリシャ語で「ロゴス」、英語でいえば「オーダー」です。
英語で、壊れることを「アウト・オブ・オーダー」といいます。
「オーダーから外れた…」。
まさに、「言葉」は「ロゴス」であり、言いかえれば整然たる「秩序」を意味します。
その秩序を取り戻すために神は「一人子イエス」をこの世界に送られた。
人間関係は、人と人が配慮し合うことが、やはり原点です。
大切なのは人と人の関係です。
人と人は「1対1」の関係であり、極小の世界においても「1対1」が重要になります。
ここで重要な事は「1」という単位です。
1対1の関係の中でそれぞれが相手を意識し、配慮したり、愛し合ったり、憎んだり、自分本位だったりします。
そこで人を押しのけても自分が生き残ろうなど、もともと人間の持っている原罪、聖パウロの「罪びとなし一人だになし」の言葉が、ここで胸に響きます。
今回の新型コロナウィルスは、新薬聖書の中に出てくる「サタン」です。
「サタン」が、コロナウィルスを使って、人間世界にゆさぶりをかけている。
そしてそのような戦いを通して、人間は成長してきました。
アウシュビッツ収容所での、巧妙なナチスドイツの手口、ご存知でしょうか。
収容所の中で、親衛隊員は「カボー」という収容されている囚人の中から、監視役を選び、仲間を監視させました。
人の心理は微妙です。
もともとの仲間の中だからこそ発生する、妬みや、憎悪などを使って、カボーは収容者をある時は徹底的にいじめ、見せしめを作り、恐怖感を与え、自分たちは、それなりの良い対偶で、収容されている人々をコントロールしました。
対立するものより、仲間うちで監視させ、コントロールすることの方が、はるかに効率的にうまくいく。
もともとの仲間だからこそ、いろいろな感情が嫌が上でも増幅する。
これも「1対1」と「1対集団」の「関係」での出来事です。
「関係」というものが持つ怖さを、本当に感じます。
ここにも、「聖霊」が働き、「サタン」が働いています。
「神の予定調和」の中で、ヒットラーは敗れ、アウシュビッツは解放されました。
しかしです。
「関係」が同時に持つ素晴らしさをお互いの配慮の中で、確実に作り出していくことが、もっと大切です。
今回のコロナ禍の中で、1人ひとりが「関係」ということを改めて考え、自分の行動基準を明確にすることの必要性、改めて感じます。