芸術
2024年03月15日
ドイツのハノーファー中央駅です。
「ハノーファー」は、ライネ川沿いにある北ドイツの主要都市のひとつ、ニーダーザクセン州の州都です。
ピアノを弾いている人がいました。
とても寒い中でしたが、ピアノの音結構大きくて、印象的でした。
しかし、…。
自転車の駐輪がすごかった。
皆、鎖でつながれていました。
無理やりつないでいる。
しかし自転車は、ほとんど走っていませんでした。
ハノーファーで最も名高い、「聖マルクト教会」です。
1340年〜1360年にかけて建てられました。
主祭壇です。
金の屏風。
キリストの磔刑の場面を中心にして、磔の前と後を配しています。
主祭壇の後方、左手にある祭壇です。
「Taufbecken」。
洗礼用の水の入ったフォントです。
これはわかりません。
梯子に縛られています。
何だろう????
きれいな教会です。
「聖マルクト教会」でした。
「Brauhaus Ernst August」
https://www.brauhaus.net/
ここで夕食を取りました。
店内にビールの醸造機がありました。
料理です。
ポークの料理に、ナイフが立てかれられています。
「ハイデルベルク」でも、同じでした。
中々の量。
一人で一皿ずつは、ちょっと多すぎです。
バロック式庭園「へレンハウゼン」です。
「ハノーファー」の壮麗なる宝物です。
バロック式庭園「へレンハウゼン」は、1692年から1714年までの間ハノーファー選帝侯夫人であった、ソフィー・フォン・デア・プファルツが創らせたもの。
この写真はいつごろでしょうか。
メルケル首相、オバマ米前大統領、オランド仏前大統領、キャメロン英前首相、レンツィイタリア前首相がこのヘレンハウゼン庭園を訪れたときの写真です。
次は、庭園から道路を渡ったところにある、蝶々のガーデン。
その横にある、ランの花のガーデン。
サボテンのガーデン。
中々かわいい「サボテン君」でした。
素敵なお店に出会いました。
「WERKHAUS」。
http://werkhaus.de/shop/
紙細工製品を売っています。
紙でできたバスです。
紙でできたものですが、風合いが豊かでした。
フレデリック・フォン・シラーの像です。
ベートーベンの第九の歌詞、「歓喜の歌」の作者として有名です。
でもシラーとハノーファーはどう調べてもつながりませんでした。
なぜこの像が、ここに???
ハノーファーには、素敵な街並みが、いくつもありました。
作曲家のヘンデルが宮廷楽長になりながら、それを袖にして英国に渡り、大活躍して結局ハノーファーには帰りませんでした。
その後、ハノーファー選帝侯がジョージ1世として英国国王になります。
それはまずいと、有名な「水上の音楽」を作ってジョージ1世に捧げました。
ただ、これはどうも眉唾のようです。
しかし、ジョージ1世は、英国王即位後もハノーファーに結構いました。
きれいな街、素敵なまちだったからでしょうか。
2018年2月の、旅の想い出です。
またゆっくりと訪れたい街、ハノーファーでした。(^O^)/
2023年12月27日
2023年10月24日
2021年7月8日のブログです。
「やはり哀しいもんですね。
私の父が、今日夜の9時23分に亡くなりました。
父が死ぬと、天国のお母さんに会えると思い、早くお母さんに会えるといいなと思っていました。
しかしいざその時が来ると、やはり涙が止まらなかった。
やはり哀しい。
今までずっと私を見守ってくれていた父でした。
父についてはいろいろと想い出があります。
私が、大分工業高等専門学校から大学の文学部に行こうと方向転換をきめたとき、父は『学校はやめないほうがいい、退学をしないほうがいい』と言い、私はそれに従いました。
結局それで良かった・・・。
私が独立開業して、福岡に講演で行ったとき、小倉の朝日カルチャーセンターで短歌を教えていた父と何回か小倉で会い、飲みました。
その時に父が言った言葉、想い出します。
私は『人生はやはり何か足跡を残さないといけない』と言いました。
それに対して父は、「足跡もいいが、悪い足跡は残さないほうが良い」・・・。
必ずしも足跡を残すことが良いことではない。
足跡を残すのでなく良い人生を歩むことが大事だと、確かにそのとき、深く思いました。
もう一つ、私が大学を卒業するときの話しです。
私の就職希望先は、マスコミでした。
そのとき、父の短歌の友人が読売新聞社に勤めていました。
島田修二さんです。
宴席の場で父が島田さんに、自分の息子がマスコミ希望だからよろしくお願いしますと、やや卑屈になりながら、頭を下げたのを思い出します。
それでマスコミに就職できたわけではありませんが、自分の息子のためには恥を忍んでお願いしたこと、本当に申し訳なくもありがたかったこと、思い出します。
いろいろと本当に想い出を残してくれた父でした。
父で思い出すのは、母を本当に大切に思っていたことです。
ある方の文章に、その方が父に先日亡くなった母のお悔やみを申し上げたとき、父は『家内は一番大切なものです。』と言ったとのことでした。
母の亡くなった後は、しばらく母の歌ばかり作っていました。
しかし、そんな大切な母と今頃天国で再会しています。
『良かったね、お父さん』と、やはり何回も言ってしまいました。」
父がなくなったのは、2021年7月5日(月)21:23でした。
そのときに書いたのが上のブログですが、なかなかその後ブログに手が付きませんでした。
今読み返しても、自らに堪えるブログです。
本当に温厚な父でした。
私が怒られたのは、ただ1回だけです。
病気の兄を忌避したときでした。
後、本当に涙が出るのが、中学での成績がトップクラスになり、住友化学大分工場の守衛をしていた父に報告に行った時、売店で80円?くらいのレーズン・クルミ入りのパンを買ってくれたことです。
本当に懐かしい想い出です。( `ー´)ノ
12年ぶりにジョルジオ・アルマーニさんが来日しました。
もちろんあのファッションのアルマーニさんです。
私も一つだけですが、「アルマーニ」の時計を持っています。
それがたまに故障します。
大分に帰郷したときにも、電池切れで電池交換たこともあります。
それでこの機会にと、秋葉原のヨドバシカメラで、時計バンドを買い換えました。
そうしたらつい先ほどですが、少しだけですが、また遅れてしまいました。
この「アルマーニ」、家内からの贈り物なのでとても大切にしています。
アルマーニさんは、次のようにおっしゃっています。
「落ち着いた話し方や身のこなしが何より大切。
安い服でも、行動様式で何百万円もするものに、見せることができる。」
「ぼろは着てても心は錦」です。( `ー´)ノ
2023年10月16日
メンゲルベルクは、第二次大戦中ナチスドイツに協力したことで、知られています。
少なくとも「ナチスドイツ」は、イエス・キリストの御心に沿いません。
メンゲルベルクの良心が、ハーゲンクロイツのもとで指揮をせざる得ない状況に、耐えられなかったのではないか。
ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」序曲を、ナチスドイツのハーゲンクロイツの旗の下で指揮している。
そのコンサート動画をユーチューブで見たときは、かなり動転しました。
しかし、トスカニーニだけは、徹底的に非難しました。
フルトヴェングラーが、どうしても米国のフィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者になりたくて懸命に運動した。
しかし、トスカニーニの反対で常任指揮者の椅子を逃してしまった話、有名です。
なぜ、フルトヴェングラーは、フィラデルフィアの常任指揮者になりたかったのか?
これも分かりました。
米国の「自由」への憧れです。
ドボルザークの「新世界」の心の動きと一致します。
新しい世界は、人の心、魂を解き放つ。
しかし、人間の苦悩はそんなに浅いものではありません。
そして、何より「マタイ受難曲」が有名です。
その演奏のCD胸を打ちます。
1939年4月2日の録音です。
ドイツ軍がポーランドに進攻して、第二次大戦が始まったのが、1939年9月1日です。
ここから一気に、ヒットラーのナチスドイツは、ヨーロッパ全土を席巻していきました。
その半年前の録音です。
オランダはもちろん、ポーランドの隣国。
いつ戦争が始まっても、おかしくない状況でした。
その中での、アムステルダム・コンセルトヘボー・ホールでの演奏。
アムステルダムの街はきれいです。
運河に囲まれ、運河で水上生活をする人も多い。
アンネ・フランクの隠れていた家には行列ができていて、行けませんでした。
アムステルダムは自転車専用道路で自転車が颯爽と走る街、そんな思い出が鮮明です。
そして、私の大好きなレンブラントの街…。
この「マタイ受難曲」、出だしからゆっくりと始まります。
フルトヴェングラーの演奏より、遅いのではと思います。
「マタイ受難曲」で活躍する楽器に「オーボエダモーレ」があります。
私入学した上智大学で、最初にオーケストラ部に入ったのですが、「オーボエ」を割り当てられました。
「オーボエダモーレ」がメゾソプラノかアルトとすると「オーボエ」はソプラノです。
「オーボエ」はとても良い楽器なのですが、ヴァイオリンを演奏したかったのですぐに退部しました。
その上智大学のオーケストラ部には、あの大指揮者カラヤンが来て指揮しています。
カラヤンは惜しくも飛行機事故でなくなりましたが、今でも動画を見ると演奏以上に指揮をとる姿が印象的です。
指揮棒なしです。
本当にうっとりするくらい「優美」です。
私が育ったのは大分です。
クリスチャン大名の「大友宗麟公」、そして「フランシスコ・ザビエル」が上陸したところです。
縁(えにし)を感じます。
中学校の修学旅行で泊まった長崎の街角で、「聖母の騎士」の冊子をもらいました。
カトリックはマリア信仰が強い。
ポーランド人の軍曹の身代わりに処刑されたコルベ神父様が、生まれ故郷のポーランドで創刊したのが「聖母の騎士」でした。
聖母マリアの騎士(ナイト)という意味です。
それをコルベ神父様は、欧州から、アジア、長崎・・・。
長崎でのコルベ神父様、結核でしたが、生き延びて欧州に帰り、ナチスに逮捕されアウシュビッツに送られました。
そしてポーランド軍曹の身代わりになり、処刑されました。
「身代わりの愛」として有名です。
地下牢は、「餓死室」と呼ばれ、いつもは真っ暗の中で、悲痛に死を迎える「牢獄」でした。
しかし今回の「餓死室」からは、毎日讃美歌の明るい声が聞こえ、とても心現れる、明るい世界だった。
神父様は地下牢に入れられ、わずかに与えられる食物も他の囚人に与えました。
囚人たちが少しずつ死んでいくのに、コルベ神父様は最後まで死なず、無理やり毒物注射され殺されました。
「人はパンのみにて生きるにあらず」を絵に描いたような話しです。
もう何年も前ですが、アウシュビッツに行きました。
あまりの酷(むご)さに、心震えるのを通り越して、人が人に対してここまで冷酷になれるのかと思いました。
その暗い時代精神が、このメンゲルベルクの演奏には感じられます。
全体的に遅めです。
ただ、ソプラノはもう少し可憐なほうが良い。
「マリア・マグダレーナ」ご存知ですか?
妹のマリアがイエス・キリストの話を聞いていて、姉のマルタの手伝いをしない。
だから、マルタが自分を手伝うようにキリスト・イエスにお願いしたときに、主は「マリアは一番大切なものを選んだ」と姉のマルタを諭した話は有名です。
マリア・マグダレーナがイエス様と結婚して、どこかで暮らしてもちろん子供まであったとの伝説もあるようです。
それがしっかり納得できるほどに、素敵な女性です。
だからマリア・マグダレーナは、やはり可憐なほうが良い。
あまり活躍することのない「オーボエダモーレ」ですが、この「マタイ受難曲」では活躍します。
そのマリア・マグダレーナ、とても美しいエリザベート・シュワルツコップが一番良いように思いますが、私の持っているCD10枚ものにはありません。
やはりソプラノでなく、メゾソプラノでないとダメなのでしょうか。
私は、メンゲルベルクは「マタイ受難曲」のタクトを振りながら、キリスト・イエスに救いを求めたのではと考えるようになりました。
他の歌手もその精神世界の中で歌い、演奏しています。
そして、素晴らしい名演が誕生しました。
目から鱗の平松徹君でした。(^O^)/
2023年09月26日
2023年08月27日
なぜ「芥川賞」があって、「夏目漱石賞」は無いのか。
不思議です。
夏目漱石の日本文学における位置付けは、芥川龍之介よりも一つ上と、つい考えてしまいます。
しかし、分りました。
今の時代芥川龍之介の「不安」が、時代の中のポイントです。
夏目漱石は、人生に悩み、最後は「則天去私(そくてんきょし)」でした。
自分のエゴを捨てて、天に従う「則天去私」。
孔子の論語です。
今の時代、とても悟っているとは言えません。
迷いの連続であり、苦しみの連続であり、天変地異も襲って、ある意味カオス(混沌)です。
そのような時代背景に、その先駆けとしての芥川龍之介の存在がある。
芥川の短編小説に、「怯え」は感じられません。
むしろ届かないものを目指し悶えているように、私には感じられます。
その先を明確に引き継いだのは、太宰治でした。
結局芥川も自殺をし、太宰も無理心中で命を絶ちました。
しかし今の時代はむしろ、「則天去私」の夏目漱石が必要です。
その意味でノーベル賞作家川端康成は、日本文化を大事にし、日本文化を愛(め))でました。
「美しい日本の私」・・・。
サイデンステッカーの英訳も、美しい。
源氏物語が、そして枕草子や万葉集が持っている、日本文化の根源的な魅力が、これから国際社会に輪を拡げます。
今の時代、「疎外」がキーワードです。
人と人との対立、移民の問題も、弾(はじ)くところに大きな問題があります。
これからインバウンドで、外国の方がどんどんいらっしゃる。
弾くのではなく、受け入れることが大事な時代になりました。
いよいよ世界が、大きく動き出します。( `ー´)ノ
2023年08月11日
特に良かったのはYMOの坂本龍一さん。
坂本龍一さんは、甘粕正彦役です。
社会主義者の大杉栄さんと伊藤野江さんを虐殺した「甘粕事件」の甘粕元陸軍憲兵大尉。
甘粕さんは服役後満州に渡り、満州帝国建国の立役者になりました。
「甘粕事件」では悪役ですが、事はそう単純ではなさそうです。
満州では「株式会社満州映画協会」の理事長として、「満州の夜の帝王」とも呼ばれました。
汚いところのない、清廉な人柄であった事が知られています。
坂本龍一さんの思いはどこにあるのか、私には興味があります。
当時女帝西太后が権力を握り、日清戦争に敗れ、その後ラストエンペラーの愛新覚羅溥儀に後を託しました。
「ラストエンペラー」はそこから始まります。
3歳の幼い皇帝の溥儀。
今、習近平氏がアメリカとロシアの間に立ち、架け橋になろうとしています。
一帯一路などで経済的に世界を制覇しようとしましたが、その必要性はなくなった。
しかし、その可能性はなくなりました。
それで、世界は納得します。
非常にリーズナブルです。
甘粕正彦さん。
「甘粕事件」も裏があるようです。
陸軍の中の組織的な状況。
そのあたりを佐野真一さんが書いています。
「甘粕正彦 乱心の曠野」、早速アマゾンに注文しました。
習近平さんの動向…。
その大きな流れに日本としてどのように沿うのかが極めて重要です。
ここはやはり岸田総理の出番てすね。( `ー´)ノ
2023年04月15日
「春の鳥」、明治の文豪国木田独歩の小説です。
独歩がまだ文壇にデビューした頃、大分県の佐伯町に、英語と数学の教師として赴任しました。
その時寄宿したのが、元家老職の家でした。
「坂本邸」といいます。
2階に寄宿したのですが、1階に白痴の姉弟とその母親が住んでいました。
その母から、六蔵という弟の将来が心配と涙ながらの訴えがあり、独歩は勉強を教えることになりました。
八幡宮の階段の上り下りで1、2、3と手をつないで教えますが、一向に六蔵は覚えません。
生まれついての白痴ですから、やはり少し難しい。
「白痴となると、心の唖、聾、盲ですからほとんど禽獣に類しているのです。」と、独歩は書いています。
そして、六蔵が行方不明になってしまう・・・。
「怪談でも話すようですが実際私は六蔵の帰りのあまり遅いと知ってからは、どうもこの高い石垣の上から六蔵の墜落して死んだように感じたのであります。
あまり空想だと笑われるかもしれませんが、白状しますと、六蔵は、鳥のように空を駆け回るつもりで、石垣の角から身を踊らしたものと、私には思われるのです。
・・・。
六蔵は鳥のように空を翔け回るつもりで石垣の角から身をおどらしたものと、私には思われるのです。」
「亡骸を葬った翌々日、私はひとり天守台に登りました。
そして六蔵のことを思うと、色々と人生不思議の思いに耐えなかったのです。
人類と他の動物との相違。
人類と自然との関係
生命と死などという、問題が年若い私の心に深い深い哀しみを起こしました。」
「春の鳥」とても切ないネーミングです。
悲しさが伝わってきます。
私は中学3年の頃、大分県の鶴崎に住んでいました。
その町の中学3年生の時に、国語の先生が読書クラブの先生をしていて、佐伯まで行き「坂本邸」を訪問しました。
天井が低くて、明治の人の背の低さを感じました。
今でも、上野駅の天井は低いところがあり、坂本邸を連想します。
とても心を打つ、私にとっては若い頃の大切な想い出です。
2023年01月30日
今、ピーター・ラビットとパディントンに、はまっています。
ピーター・ラビットは、自然の中でのウサギのリアリティーの凄さで、とても面白い。一方パディントンの方は、人生の生き方でいろいろと教えられます。
まず、ピーター・ラビット。
私が好きなのは、ピーターのいとこ(従兄)のベンジャミン。
ウサギは素早く走りますが、その走る姿に、ものすごくリアリティーがあります。
ベンジャミンがかわいいのは、彼が少し小太りで耳が横になっているところです。
そこがとてもかわいい。
例えばプッチーニのオペラ、マダムバタフライ。
蝶々さんはアメリカの海軍中尉、ベンジャミン・フランクリン・ピンカートンの日本の「現地妻」です。
今のイスラエルは、ベンジャミン・ネタニエフ首相。
そして何より「時は金なり」は、米国建国の父で100ドル紙幣で知られる、ベンジャミン・フランクリンの作です。
今は、時間が「タイムマネジメント」として重要な時代です。
ピーターと従兄のベンジャミンが時代を駆け抜ける。
今の時代を象徴しています。
一方パディントン。
日本では、あまり知られていません。
パディントンについてかなりの人に聞きましたが、ほとんど誰も知りませんでした。
千葉西総合病院に昨年8月に入院し、がんの手術を受けたのですが良い機会だったので、15人ほどの看護師さんにパディントンを知っているか聞きました。
ちょうどエリザベス女王が亡くなった直後で、女王のアーカイブビデオを見た女性看護師さんがただ1人ご存知でした。
パディントンは、南米ペルーからロンドンにやってきた、小熊です。
イギリスの探検家がペルーに来て、そこでパディントン一家と出会います。
「ぜひロンドンに来てほししい、家族で暮らせる家を提供するから…、」と約束します。
その気になり、パディントンはルーシーおばさんと一緒に、ロンドンに向け出発します。
ルーシーは高齢だったのでペルーの老人ホームに残り、パディントンはただ一人ロンドンに向かいます
ロンドン港から荷揚げをするセントラルスステーションが、パディントン駅です。
そこでブラウンさん一家に出会います。
パディントンの名前はその時ブラウン夫人が、パディントン駅でパディントンに提案した名前でした。
パディントンはリズミカルに、そしてかわいく動きます。
その際の行動原則が、ルーシーおばさんからの人生訓の数々です。
パディントンはその人生訓を大切にし、きちんと守って行動します。
色々とトラブルに巻き込まれながらも、しっかりと生き抜きます。
人のダメな面を見るのではなく良いところを見て、一生懸命それを応援します。
そして「協力」関係を築きます。
今世界で重要な平和、それはいろいろなところでの「協力」が必要です。
そのことを何より教えてくれるパディントンです。
今の時代の「象徴」です。
2023年01月15日
「ブルーノワルター」、私の最も好きな指揮者の1人です。
ユダヤ人だったためにナチスに嫌われ、追われ、そして最後は、渡米し、ロサンゼルス近郊のビバリーヒルズで亡くなりました。
戦前の録音もかなり残っていて、それと戦後の録音を比べると、戦後のものははるかにまろやかで、仄かな憂い顔、丸みを帯び、そして典雅さを感じ、とても繊細です。
私は特にブラームスの4番が好きです。
そしてモーツァルトが素晴らしい。
これはちらっと小耳に挟んだことですが、演奏会のリハーサルの時、小部屋からモーツァルトと話している声が漏れてきたと…。
超常現象です。
しかしこれは本当です。
魂の触れ合い、英語では「with yuor spirit」。
心と心、精神と精神が通じる。
そして過去の人々と、心と心が触れ合います。
「スウェーデンボルグ」が有名です。
なかなか、普通の人には信じられないですが、これは歴史的な事実です。
ちょっと話がそれますが、「ハンス・フォン・ビューロー」、歴史的に有名な指揮者です。
男爵で、ドイツの著名な指揮者の一人。
残念ながら録音が残っていません。
実はこの「ハンス・フォン・ビューロー」の指揮する姿を見て「ワルター」は指揮者になろうと思った。
ワーグナーが全盛だった頃、音楽界は、ワーグナー派とブラームス派に大きく二分されていました。
「ハンス・フォン・ビューロー」はもともとワーグナー派だったのですが、その後ブラームス派に鞍替えしました。
これは「コジマ・ワーグナー」と関連しています。
「コジマ」は、フランツ・リストのお嬢様です。
ハンガリーに行くと、リストが神様のごとき存在です。
首都「ブタペスト」は、ドナウ川を挟んで丘のブタと平野のペストに分かれます。
夜になると、そこに架かった「鎖橋」がシルエットの様に美しい。
今でも鮮明に記憶に残る、心がふっと熔けてしまう光景です。
「コジマ」は「ビューロー」と結婚して何人かの子供をもうけ、その後ワーグナーと恋に落ち、「ワーグナー」と結婚しました。
1人の女性をめぐって、人間の心が大きく変わる典型の話です。
「コジマ」の影響力は、今でも大きなものを持っています。
バイロイト祝祭音楽祭、音楽の好きな人は、1回は行ってみたい音楽祭の1つです。
私ももう何年も前、ドイツに行った時、バイロイトにも行きました。
もちろん、切符など取れるわけもなく、とる気もなく、馬鹿高い値段ですから…。
特に「ラインの黄金」から始まる「リング」、4夜連続の楽劇、多分高額のお金を払って行っても、途中で寝るに決まっています。
バイロイトは、ニュルンベルクに近い街です。
ナチスドイツを裁いた「ニュルンベルク裁判」のあった街です。
そこに行き、いろんな記録・資料・ビデオなどを見ました。
そこからバイロイトは、ほんの確か2~30分、電車行けました。
そこはさすがにワーグナーの故郷です。
ワーグナーのモニュメントもありましたが、びっくりしたのは、あちこちにワーグナーの置物が飾られていた。
それが子供向けのちゃちなものでした。
なんだこれは・・・と思った事を思い出します。
方向音痴の平松は、いつものように道に迷い、駅を挟んで反対側をひたすら歩きました。
広い公園の中をあっちに行き、こっちに行きし、しかし、しっかり「ワーグナー記念館」には行きつきました。
ここはなかなかでした。
今の時代を反映して、ナンバーを選択すると、いろいろな名演奏が見えたり、指揮を自分でして指揮者になったつもりになることなど、よく覚えてないのですが、面白い体験でした。
私のいつもの行動様式、とにかくそこにいる人に聞いてみる。
この時も公園の中で出会った人に道を尋ねました。
偶然、それが「バイロイト祝祭音楽祭」の運営委員の方でした。
もちろん、いまだにその人とは連絡を取っていませんが、その時のいろいろと記録がありますので、これから、それを参考にして連絡を取ることも可能です。
しかし私もあと何日かで69歳になります。
75歳の健康年齢までほんの6年位になってしまいました。
時間がないことも事実です。
しかし、ない時間を最大限に生かす事、十分に可能です。
客観的な時間ではありますが、主観的な時間もあるということ。
これが重要です。
時間の密度を豊かに、そしてふくよかにすること、そして最大限に効率的に生かすこと。
それが時間管理の要諦だとも、今は思っています。( `ー´)ノ
今、「ピーターラビット」が流行っています。
これは今年の干支、「卯年」が影響しているようです。
私は特に「ピーター」の従兄の「ベンジャミン」が好きです。
他のウサギは皆、耳が立っています。
それに比べ、ベンジャミンは耳が横に垂れています。
そして他のウサギに比べて、かなり小太りです
実はペット用に飼い慣らされたうさぎは、「ベンジャミン」のように小太りで、横に耳が垂れています。
しかし、ウサギの魅力は何といっても、素早く走る「すばしっこさ」です。
それがなんていっても魅力です。
この素早く走る、そして見事に小回りのきく走行、これは動物として身に付けた本能です。
NHKの「ダーウィンが来た」でみました。
だだっ広い平原の中を、天敵である狐から逃げる。
そのときはピューマのように、猛烈に速く走ることが要求されます。
これは背骨を丸くして走る跳躍、そして走る時速は何キロか覚えてませんが、かなりのスピードです。
「ナポレオン1世」のおかかえ画家だった「ダヴィッド」の有名な馬が走る絵があります。
それを思わず、思い出してしまいます。
しかし今やスピードの時代です。
まさに、うさぎの素早さが、必要とされる時代になりました。
時代の変化について行くのも、大変です。
しかし「ピーターラビット」が時代の寵児になったこと、改めて確認したいですね。
2023年01月07日
オットー・ニコライ(1810~1849)、ウィーンフィルハーモニー初代の常任指揮者。
彼の名曲で「ウィーザーの陽気な女房たち」という名曲がある。
この曲のイメージ、「街の洗濯女」がドナウ川で洗濯をしているイメージだった。
陽気な女性たち。
庶民の陽気な街のお母さん・・・。
しかし、これはとんだ大間違いだった。
ウィーンの貴婦人たちが、夜会のダンスで夜を飾る。
そしてその夜のダンスを通して、世界の政治が変わっていく。
「ウィーン会議」。
ナポレオン後の世界の体制を決める国際会議。
オーストラリア帝国の外相メッテルニッヒが仕切って、世界の秩序を再構築した。
「会議は踊る、されど進まず。」・・・。
ウィーンには、何回か行った。
思い出すのは、あるカフェに入ったらそこの男性店員が、「そこに毎日シューベルトが来て、座っていたんだ・・・。」と、店の一番奥の席を指さして、楽しそうに話したこと。
もちろんシューベルトは、1800年初頭の人。
そこに座っているはずがない。
しかしそこには「現実」でなくても、リアルな「真実」がある。
ウィーンフィルハーモニーはウィーン国立歌劇場のオーケストラ。
ベルリンフィルハーモニーが技術では世界一だが、その匂うようなウィーンの「香り」、ドナウ川の「薫り」を考えるとき、ウィーンフィルの魅力はやはり大きい。
ウィーンはモーツァルトにも縁が深い。
彼が結婚式を挙げた「シュテファン大聖堂」は今でももちろん健在だ。
街を歩くと、ほんとに素敵な「道」や「小路地」が多い。
メインストリートは、今でも楽譜や作曲家の名前のタイルが敷き詰められ、とても面白い。
モーツァルトは、レクイエムを未完成で終わった。
シューベルトにも「交響曲未完成」がある。
九番(くばん)のグレイトも長い交響曲で、チョッと辟易するところもないことはないが、もちろん名曲の一つ。
「未完成交響曲」には、未完成ゆえの「ほのかに薫る余韻」があり、心に沈んでいく「淡い旋律」がある。
ミロのヴィーナスが、両腕が欠けていることで人間に想像を「強制」し、豊かな想像の世界に曳きづり込む。
大きな精神の羽ばたき・・・。
「ヴィーナス」、ギリシャ語で「アフロダイティ」。
ギリシャ神話の深み、「ヘブライイムズ」に対する「ヘレニズム」の持つ世界史的意味合いの深さだ。
ボッティチェリの有名な「春」。
はなやかなニンフたちが集う華やかさ、そして「ヴィーナスの誕生」にもついうっとりしてしまう魔力がある。
フローレンス、今でいうフィレンツェ。
とても素敵な街で、「アルノ川」を挟んでこちらのザワザワした街と、向こうの静かな丘の街の対比が美しい。
ベネツィアとは違うイタリアの魅力だ。
しかし今、イタリアはコロナの影響で、お互い抱き合うこともできない。
人間同士が一番交流を深められるのがハグとすると、そのハグ自体がコロナによって分断された世界になってしまった。
それは人間に対してだけでない。
むしろ、人間の世界、動物の世界、植物の世界、無機物の世界まで世界を広げて考えると、逆にそれは神の恵みだ。
今必要なのはイスラム教とキリスト教の対話であり、そこに東洋の仏教を重ね合わすことで、豊かな世界が広がっていく。
2021年05月31日
メンゲルベルクは第二次大戦中ナチスドイツに協力したことで、知られています。
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮してのCD、とても私の胸を打ちます。
どうして???
少なくとも「ナチスドイツ」は、イエス・キリストの御心に沿いません。
メンゲルベルクの良心が、ハーゲンクロイツのもとで指揮をせざる得ない状況に、耐えられなかったのではないか。
ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」序曲を、ナチスドイツのハーゲンクロイツの旗の下で指揮しています。
そのコンサート動画をユーチューブで見たときは、少し動転しました。
しかし、ただあのトスカニーニだけは、徹底的に非難しましたが・・。
フルトヴェングラーが、どうしても米国のフィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者になりたくて懸命に運動したのに、トスカニーニの反対で常任指揮者の椅子を逃してしまった話は有名です。
しかし、人間の苦悩はそんなに浅いものではありません。
そして、何より「マタイ受難曲」が有名です。
その演奏CD、この頃毎日聞いています。
1939年4月2日の録音です。
ドイツ軍がポーランドに進攻して、第二次大戦が始まったのが、1939年9月1日です。
ここから一気に、ヒットラーのナチスドイツは、ヨーロッパ全土を席巻していきました。
その半年前の録音です。
オランダはもちろん、ポーランドの隣国。
もういつ戦争が始まっても、おかしくない状況でした。
その中での、アムステルダムコンセルトヘボーホールでの演奏。
アムステルダムの街はきれいです。
運河に囲まれ、運河で水上生活をする人も多い。
アンネ・フランクの隠れていた家には行列ができていて、結局行けませんでした。
自転車専用道路で自転車が颯爽と走る街、だった思い出が鮮明です。
そして、私の大好きなレンブラントの街…。
この演奏、出だしかしらゆっくりと始まります。
フルトヴェングラーの演奏より、遅いのではと思います。
「マタイ受難曲」で活躍する楽器に「オーボエダモーレ」があります。
私が入った上智大学で、オーケストラ部に入ったのですが、「オーボエ」を割り当てられました。
「オーボエダモーレ」がメゾソプラノかアルトとすると「オーボエ」はソプラノです。
「オーボエ」はとても良い楽器なのですが、ヴァイオリンを演奏したかったのですぐに退部しました。
その上智大学のオーケストラ部には、あのカラヤンが来て指揮しています。
カラヤンは惜しくも飛行機事故でなくなりましたが、今でも動画を見ると演奏以上に指揮をとる姿が印象的です。
本当にうっとりするくらい優美です。
私が育ったのは大分です。
クリスチャン大名の「大友宗麟公」、そして「フランシスコ・ザビエル」が上陸したところ。
縁(えにし)を感じます。
中学校の修学旅行で泊まった長崎で、「聖母の騎士」の冊子をもらいました。
カトリックはマリア信仰が強い。
ポーランド人の軍曹の身代わりに処刑されたコルベ神父様が、生まれ故郷のポーランドで創刊したのが「聖母の騎士」でした。
聖母マリアの騎士(ナイト)という意味です。
それを欧州から、アジア、長崎…。
長崎では結核でしたが、生き延びて欧州に帰り、ナチスに逮捕されアウシュビッツに送られ、そして身代わりになり、処刑されました。
地下牢に入れられ、わずかに与えられる食物も他の囚人に与えた。
囚人たちが少しずつ死んでいくのに、コルベ神父は最後まで死なず、無理やり毒物注射され殺されました。
もう一昨年になりますがその現場に行きました。
あまりの酷さに心震えるを通りこして、人が人に対してここまで冷酷になれるのかと思いました。
その暗い時代精神が、このメンゲルベルクの演奏には感じられます。
全体的に遅めです。
ただ、ソプラノはもう少し可憐なほうが良い。
「マリア・マグダレーナ」ご存知ですか?
イエス・キリストの話を聞いていて、姉のマルタの手伝いをしなくてイエスに手伝うようにマルタがお願いしたときに、イエス・キリストは「マリアは一番大切なものを選んだ」と姉のマルタを諭した話は有名です。
マリア・マグダレーナがイエス様と結婚して、どこかで暮らしてもちろん子供まであったとの伝説もあるようです。
それがしっかり納得できるほどに、素敵な女性です。
だからマリア・マグダレーナは、やはり可憐なほうが良い。
あまり活躍することのない「オーボエダモーレ」ですが、この「マタイ受難曲」では活躍します。
そのソプラノ、とても美しいエリザベート・シュワルツコップが一番良いように思いますが、私の持っているCD10枚ものにはありません。
やはりソプラノでなく、メゾソプラノでないとダメなのでしょうか。
私は、メンゲルベルクは「マタイ受難曲」のタクトを振りながら、イエスキリストに救いを求めたのではと考えるようになりました。
他の歌手もその精神世界の中で歌い、演奏している。
そして、素晴らしい名演が誕生した。
目から鱗の、そんな平松徹君でした。(^-^;
2021年02月11日
私の故郷、大分市に住んでいます。
関サバで有名な佐賀関から車でもほんの10分くらいの所です。
昨年の4月に九州出張のときに訪問し、ほとんど意識もなく、介護の方が、「息子さんが来たよ」と揺り動かすようにして、少し目を開けて、わたしのことが分かったのか、少しにっこりしました。
そのときはまだ99歳でしたが、100歳おめでとうございます、との当時の安倍総理からのお祝いの賞状や、記念品なども届いており、これで100歳まで頑張れ…、との励ましなのかなと、感慨深いものがありました。
そして今回は本当に100歳、大分市からのお祝いの賞状もあり、老人ホームでもお祝いをしていただいたようです。
今は、ほとんど寝たきりの状態なのですが、住友化学大分工場の守衛をしていた関係で、剣道2段ととてもたくましく、強い父でした。
それ以上に私にとっては、文学の指導者でもありました。
父は、北原白秋の門下で、白秋死後は宮柊二氏に師事しコスモス短歌界の創設に参加し、コスモス賞など幾つかの賞もいただきました。
会社退職後には、大分合同新聞の選者や朝日カルチャーセンターの短歌の講師などをしながら、短歌の世界で頑張ってきました。
私も宮柊二氏には一度だけお会いしました。
東京の大学に行った私を訪ねて父が来京した時に。井之頭公園の近くの宮先生のご自宅にお伺いし、もう多分80歳を超えていらしゃったと思うのですが、白いひげを伸ばして、「あなたの息子さんですか」とか何とかよく覚えていないのですが、そのときのことはいまだに鮮明に記憶しています。
宮氏柊二の短歌については、そのリアリズムの凄さをしっかり感じていて、ぜひ一度書こうと思っています。
今回は父のことで、周防灘に建てられた父の歌碑につい書きます。
「海にさす年始の光戦ひに水漬きし者魂に及ぶか」。
昭和54年元旦に、父が詠んだ歌です。
大分県豊後高田市(真玉町浜) 平成6年建立
大分合同新聞の平成6年4月11日の記事には次のようにあります。
「昭和17年7月、大分第47連隊の第3大隊第11中隊に所属していた平松さんら初年兵を乗せた輸送船「青葉丸」が、カムラン湾(ベトナム南東部)で魚雷攻撃を受けた。
船は沈没を免れたが百数十人の若者が命を失つた。
この話は、酒に酔うとと父から何度も聞かされました。
またその話???
それでそのうち話さなくなりましたが、この体験は父の人生における原点だったと、今は思います。
心と心がつながるとはどういうことか…。
もう30年以上も前のことがずっと心の底に残り、それが人生をいろいろと左右していくことはよくある話です。
そのとき亡くなった人は100人以上。
その方たちの何人かは、いまだに父の心の中に生きている。
この歌は30年以上の時間を超えて、初日の出が亡くなった方たちの魂に届いているということ。
大分県の国東半島から周防灘は、もちろんベトナムのカムラン湾につながっています。
言葉は人と人をつなぎます。
短歌もその意味で、父と亡くなった戦友の方たちをつないでいます。
100歳になった父ですが、また会いに行こうと思っています。
もうほとんど意識のない父ですが。
「コスモス短歌会選者や大分合同新聞の読者お文芸/短歌選者などをしている歌人の平松茂男さんの作品を刻んだ歌碑が、周防灘を一望する真玉町浜に建てられ、十曰に現地で除幕式があった。
平松さんの孫の美穂さん(大分市・大分鶴崎高一年)ら三人が除幕すると、平松さんが昭和54年の元日に詠んだ「海にさす年始の光戦ひに水漬きし者の魂に及ぶか」を刻んだ碑が姿を現した。」
2021年01月03日
メラニア夫人、黒のサングラスでトランプ大統領と手をつないで、飛行場に降立ちました。
黒のコートに、黒のサングラス。
切れ長の目がとても個性的なメラニー夫人ですが、今回はサングラスで見えませんでした。
しかし、全体のデザインとして、とても素敵です。
本当にきれいの一言です。
トランプさんがわがまま放題と報道された、1か月前のメラニア夫人から、様代わりです。
そのときメラニア夫人は、トランプさんにけんもほろろの対応とも、一部報道されていました。
トランプさんの気持ちも少しずつ落ち着いていると思ったのですが、とんでもなくそうではなさそうです。
法案に拒否権を発動、2/3以上で上院で再可決されてしまいました。
共和党が支配している上院でです。
票の再集計の疑惑…。
もう止まらない…。
しかしです。
メラニア夫人はなぜサングラスをかけたのでしょうか。
しかも黒のサングラスです。
黒はあるとき「死」を意味します。
「喪」に服するときの「喪服」はもちろん「黒」です。
メラニアさんは東欧のスロベニア出身で、アメリカ出身でないことご存知でしょうか。
外国出身のファーストレディは、6代大統領のファーストレディ、英国出身のルイーザ・アダムズ夫人に次いで二人目、190年ぶりだそうです。
そのあたりも影響しているのかもしれませんが、わかりません。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません…」との謝罪の意思表示というとチョットうがちすぎでしょうか。
しかし、ファーストレディーは重要です。
その点今度のファーストレディは、また違った意味でとても素敵ですね。
というより、かわいらしい。
しかし、いざというときにはしっかり外敵から夫を守る方のようです。
しかし、花柄のワンピースが良く似合います。
マスクも確か花柄マスクでした。(^_-)-☆
2019年02月23日
https://wizball.io/qna/57
行政書士の資格を取ったのですが、この資格を活かすにはどのようなキャリアを積むとよいですか?
現在大学生です
次のように回答しました。
資格を活かすには、その道で開業する、あるいはその資格を企業に就職して活かすの2通りあります。
つんさんはたぶんその両方をお考えと思います。
私も行政書士の資格を持ち、ある程度の仕事をしてきました。
また周りには、たくさんの行政書士がそれぞれ頑張っています。
しかし、皆結構、苦労しています。
「会社設立」「建設業許可」「外国人の入国管理」「相続」などが行政書士のだいたいの大まかな専門のフィールドでしょうか。
それぞれ実務経験を積まないと専門家として食べていくまでには、なかなか行きません。
だから、開業をにらんでの取り組みは、大学を卒業してから後のことになります。
企業に就職して総務部門などに配属され、行政書士の資格を活かして仕事をすることも、資格を活かすことになります。
しかしこれに該当する企業は、残念ながら企業が限られますし、あまり適する部署もありません。
企業法務の部門などが最適な部門と思いますが、そのような部門を持っている企業はかなり少ないと思います。
企業内で行政書士だけの資格だけを武器にすることはなかなか難しいですね。
しかしです。
行政書士試験はかなり難関です。
かなり高度な資格を取得したのであり、周りの評価も高いものがあります。
これからは、社会で起きるニュースなども法的な観点からの見方も深くなります。
そしてさらに自己研鑽されることで、これからの人生が一層奥深くなるのではないでしょうか。
頑張ってください。( `ー´)ノ
2018年04月26日
2018年03月09日
ライブチッヒの中心街のパサージュです。
「Madler Passage」。
ゲーテが学生の頃、この町に住み、ライブチッヒ大学に学びました。
そのころゲーテがよくいった酒場が、今に残っていました。
この酒場です。
https://www.auerbachs-keller-leipzig.de/
ファウスト博士と悪魔メフィストフェレス像
「ゲーテは学生でにぎわう酒場「アウアーバッハス・ケラー」によく通い、そこで「悪魔の力を借りてワイン樽に乗って飛んだ」という古い言い伝えに興味を示し、後の作品『ファウスト』の場面(第1部)になったと伝えられている。」(ドイツ観光局)
ファウストの一場面に出てくる、悪魔に魔法をかけられた学生の像。
この酒場はファウストがメフィストと契約してすぐ後に行った酒場です。
一番奥の部屋に通されて、食事をしました。
そこにあった、ゲーテ像です。
「森鴎外がドイツに留学し、まず最初に通ったのがライプツィヒ大学(1884-85)でした。
森鴎外は1885年12月、友人の哲学者であった井上哲次郎とこのアウアーバッハス・ケラーを訪れた際に『ファウスト』を翻訳することを決心し、1913年に日本最初の翻訳本が出版された。」(ドイツ観光局)
「16歳だった文豪ゲーテはライプツィヒの大学に遊学し、当時“小パリ”と呼ばれていたライプツィヒで3年間を過ごした。」(ドイツ観光局)
森鴎外がこの町のライブチッヒ大学に留学する100年前のことです。
今のライブチッヒ大学です。
もう一度、ゲーテ像。
今度は裏側。
1765年から1768年までいました。
ゲーテとそればかりか森鴎外にも会えた、ライブチッヒでした。(^O^)/
2018年02月28日
ドイツライブチッヒの聖トーマス教会です。
バッハが1723年から1750年まで音楽監督を務めた教会です。
バッハのお墓もあります。
バッハは1750年にライブチッヒで亡くなり、市門の前のヨハニス教会のシュピタール墓地に埋葬されました。
19世紀末に墓から掘り出され、そしてヨハニス協会のクリプタ(地下聖堂)に石棺におさめられ、祀られました。
その後、ヨハニス教会が943年12月の空襲で破壊され、戦後に取り壊されることになり、バッハの遺骨は、聖トーマス教会に移され、この墓碑の下に眠っています。
バッハゆかりの当時の楽器がこの教会の中に展示されています。
このチェロのような楽器には「Violone」とあります。
これが当時のバイオリンなのでしょうか????
そんなことはないと思いますが…。
無伴奏のバイオリンソナタがバッハにはありますが、この大きさの音には合いません。
どなたか知っている方、教えていただければと思います。
読者のNさんからメールで次の情報いただきました。
「ヴァイオリン」でなく、「ヴィオローネ」なのですね。
ヴィオローネ Amit Tiefenbrunn製
ヴィオローネ(伊・独:Violone)は、ヴィオール属の擦弦楽器で、16〜18世紀頃ヨー
ロッパで用いられた古楽器。
ヴィオラ・ダ・ガンバと同属の最低音域楽器であり、コントラバスの先祖に当たる。
バロック音楽の頃には通奏低音として盛んに用いられ、小規模なアンサンブルでは現
在のチェロのような役割として低音部の旋律を、やや大規模なアンサンブルやオーケ
ストラでは、チェロとともにその8度下(オクターブ・ユニゾンという)を演奏す
る、現在のコントラバスの役割を担った。
現在も古楽系の楽団において、復元楽器が
使用されている。
ウィキペディアより
ビオラ・ダ・ガンバに近い楽器でした。
Nさん、ありがとうございました。
これは有名な「ビオラ・ダ・ガンバ」、これは低音楽器です。
バッハにビオラ・ダ・ガンバソナタがありますが、静かな、落ち着いた名曲です。
バッハは、新しい楽器が登場すると、すぐにそれを研究して、作曲したそうです。
画家でいうと、レオナルドダビンチに近いものを感じます。
芸術家であるとともに探究者、ある意味で科学者といっていいかも知れません。
教会前に出されていた、案内板です。
この教会で合唱のコンサートがある旨の、表に出してある看板です。
パイプオルガンの前に合唱団が並んで歌いました。
とても清楚な合唱でした。
ただドイツ語のお説教があったのですが、ドイツ語がほとんどわからなかったので、やたら長かった。(^-^;
1615年にこの教会のために造られた洗礼盤です。
バロック様式ですばらしいデザインです。
なかなか見事なステンでグラスです。
聖トーマス教会の前のホテル。
ここに泊まりました。
隣がバッハ博物館です。
バッハに本当に会えた、ライブチッヒでした。
ライブチッヒ駅。
また来ます。バッハに会いに…。
2017年05月05日
2017年05月03日
先日の若尾裕之さんの未来デザインメルマガ良かったので、私のブログに転載しました。
テーマは『今の力を出せる状態にしておく』
ビジネスパーソンであれば仕事で大切なプレゼンテーションがあったり、学生であれば入学試験や就職試験のときに、いつもの自分と違う自分を演じようとしたり、自分を良く見せようと背伸びして緊張してしまい、失敗することがあります。
今のありのままの自分で良いのです。
自分の能力や経験を活かし、今の力を出せば良いのです。
そのためには、ベストの状態を保つことが大切です。
ベストの状態を保つためには、準備をしっかりやることです。
プレゼンテーションなら内容を常にブラッシュアップしたり話し方の練習をしっかりすることです。
そして、なるべく多くプレゼンテーションの場を経験して慣れることです。
準備さえ、しっかりできていたら、いつでも自分の力を出すことができます。
●良寛さんの辞世の句、「裏を見せ表を見せて散る紅葉」が思い出されます。
臨終までの一週間、心を尽くして良寛さんの世話をした、40歳年下の貞心尼に詠んだ歌です。
隠すものがない、隠さなくてよい、ありのままでいいじゃないか・・・。
心に沁みる句です。
今のありのままの自分で良いのです。
自分の能力や経験を活かし、今の力を出せば良いのです。
その通りです。
しかし、自信がぐらつけば、ありのままといっても成功は難しい。
だから、研鑽を積む、練習する、努力する。
目標を見える化し、それのためにどの様に取り組むか、それをどのようなスケジュールで実行に移すか。
プロセス管理の重要さも大切になってきます。
日々の日常生活への創り込みです。
日々確実に実行すること、継続は力なりでもあります。(^O^)/
2017年04月14日
東京、麹町の交差点。
夏の想い出。
吉野毅さんの作。
今日は、「交通安全」してました。
HPに次のようにあります。
http://blog.goo.ne.jp/forever-green/e/24aa4746d9907adca29103713ca367a9
皇居の半蔵門から西に向かって、新宿通り(国道20号)が始まります。
この道は、徳川家康が江戸入府の際、江戸城内に入場した道として知られています。
四ツ谷駅から、地下鉄を1駅利用して通勤していたのですが、最近、健康のためこの道を歩くことにしております。
途中、歩道には、地元の方々によって少年少女のブロンズ像が6体ほど設置されています。
不思議と時々、目が合うのですが、有楽町線麹町(こうじまち)駅の近くには、服を着ているちょっと変わったブロンズ像があります。
作品名は「夏の想い出」 。
作者は 吉野毅。
6体のうち、この彫像だけ服を着ています。
他の5体は、作者に服を着せてもらっていますが、この子は裸だったので、設置後に、地域の方から毎月、服を着せてもらっているようです。
今日は「交通安全」している「夏の想い出君」でした。
じゃっ、また・・・・。(^O^)/
2017年03月11日
今日の若尾裕之さんの未来デザインメルマガ良かったので、転載します。
「テーマは『「楽しい」と考える』です。
「楽しい」とか「幸せ」とか自分にとって良いことがあると思えるから、人は積極的に行動できるものです。
「無理」とか「嫌だ」と思ったら、いざ行動しようとしても身体が動かなくなります。
言葉を発するときには、自分の頭の中で一度とどまり、考えてから口から外に出ます。
また外に出た時には自分の耳に最初に入ります。
そのため、誰よりも自分自身に伝わります。
しかも習慣化すると、どんどん自分の頭に浸透し蓄積していきます。
言葉によって暗示をかけられているようなものです。
●その通りと思います。
発言するとき、まず考えをまとめます。
それが頭の中の整理整頓になる。
芸術も同じです。
自分の中の無意識の中に深く沈んでいる、どろどろしたものを心の作用によって、形あるものとして絵にしたり、音楽にしたりします。
表現ということ。
けっこう苦しいものでもありますが、興に乗るとそれが楽しい、そして勢いのある創作活動になる。
僕はあまり好きではありませんが、ゴッホの絵。
沸りたつ情念が、一つの形になって、絵になっている。ひまわりの絵も糸杉の絵も。
大好きなピカソの絵。
また違った意味で、完成の豊かさが実感できます。
スペイン動乱のときの「ゲルニカ」。
あの絵がなぜ心を打つのかうまく説明できません。
しかし、しっかり心にピカソが届きます。
このあたりが心の通い合いの原点かもしれません。(^O^)
2017年02月05日
「数年前から自分の『普通さ』に居心地の悪さを感じ始めていた野澤さんには、世間が強いる『普通』に振り回される主人公が興味深かった。
野澤さんの読書感想文『私であるために』は第62回青少年読書感想文全国コンクールの高等学校の部で毎日新聞社賞を受けた。」
毎日新聞2017年2月4日の「余録」です。
「『コンビニ人間』で昨夏の芥川賞を受けた作家、村田沙耶香さんが大切にする言葉がある。
『小説家は楽譜を書いていて、読者はその楽譜を演奏してくれる演奏家だ』。
芥川賞作家の先輩、宮原昭夫氏から小説の作法を教わった時の言葉という。
それは学生時代の村田さんに小説を書き続けさせてくれた言葉だった
それから十数年、芥川賞受賞作は世間の常識から孤立しながらコンビニという職場の『正常な部品』となるのを生きがいとする30代女性の小説である。」(同記事)
●野澤さんが村田さやかさんの芥川賞受賞作「コンビニ人間」を手に取り「私であるために」を書いたきっかけは次のようでした。
「山梨県立韮崎高校2年の野澤夏枝さんが書店で『コンビニ人間』を手に取ったのは、初めて芥川賞受賞作を読んでみたかったのと、コンビニというよく知る世界の題名にひかれてだった。
すると本の帯に『普通とは何か?』とある。
ちょっとドキンとして読み始めた。
物語の細部も印象に残った。
『狭い環境にいるとみんなが似てくるとか、規則なんか無視する男が実は世間に順応したがっているとか、こういうのあるあるって感じでした』。
風変わりな虚構の物語だからこそ描き出せるこの世の人間の真実があるのがよく分かった。
小説という譜面から物語を演奏し終えた野澤さんはあるがままの自分に少し自信をもてた気がした。
将来の夢は建築家、受験勉強もせねばならないが、読書による物語の演奏はこれからも続ける。」(同記事)
●非常に興味深いエッセーです。
「狭い環境にいるとみんなが似てくるとか、規則なんか無視する男が実は世間に順応したがっているとか、こういうのあるあるって感じでした。
風変わりな虚構の物語だからこそ描き出せるこの世の人間の真実があるのがよく分かった。」
「この世の人間の真実」って何なのか。
「風変わりな虚構の世界」だからこそ描き出せる。
「コンビニ人間」、まだ読んでいなかったので、急いでアマゾンに注文しました。
来たらさっそく読んでみます。
「書いた人が作曲家で読む人が演奏者」。
これやってみます。( `―´)ノ
2016年12月30日
私の父ですが、大分の老人ホームに、今入っています。
大正10年の生まれの酉年で、96歳になります。
私にとって愛すべき父であり、心のよりどころでもあります。
このブログにも何回か書きましたが、現代歌人として著名なコスモス短歌界の今は亡き宮柊二先生のお弟子さんの一人です。
記憶も定かではないのですが、父がコスモス短歌界の東京集会があり、そのために上京したとき、吉祥寺の近く京王井之頭線の三鷹台駅の近くの宮先生をお尋ねしました。
もう老衰がひどい宮先生でしたが、わたしにも親しくお声をかけていただきました。
当時、大学生でマスコミ希望の就職活動をしていた私に対して、読売新聞にいらしたコスモス短歌界で著名な歌人島田修二さんに私を紹介をしてくれました。
そのときの島田さんに対する卑屈とも思う様子を少し見て、申し訳なさを感じたことを、今思い出します。
その父です。
手元にある「選者の箴言」を改めて読んでいて、心打たれるものがやはりあります。
選者の箴言は、父が大分合同新聞の短歌の選者を長年担当していたときの選者としての箴言を父がガラ版刷りに本にしたものです。
「選者の箴言 其の4」に次のようにあります。
「五十二年前、先師・宮柊二と共に新しい歌誌『コスモス』を創刊したとき、私たちは『自らの生の証明を』という小文を冒頭に掲げました。
作品によって自らの生を証明すべきだと考えたからです。
歌にしておかなければ数分後には忘れてしまう、そんな些細なことにも生の証しを発見したいと思っております。」
コスモス短歌会は北原白秋の多摩短歌会が白秋の死とともに解散したときに宮柊二が白秋の流れをひいて創刊したものです。」
父は北原白秋の門下でもあります。
それが父の誇りの一つです。
そして続きます。
「些細な中に生を発見
○庭草を除る手にはつかさわりたる酢漿草(かたばみ)は実を弾く音する
去る1月11日夕刊の文芸欄に載った児玉玲子さんの歌です。
事柄の内容は取るに足らぬようにみえますが、作者は酢漿草の小さな命が土に向かって弾き飛ぶ音をききとめております。
○ひとひらの枯葉の音にさ庭辺に腹這う犬が耳を動かす
同じ夕刊の田原佐知代さんの歌。
枯れ葉の音にも敏感な犬の反応に新鮮な生を作者は感じているようです。
どちらの歌も些細な出来事の中に見逃すことなく命をとらえたのがよかったと思います。」(選者の箴言、其の四)
正岡子規の写生に通じる。
ありのままをすっと見るとでもいうのでしょうか。
あえて見るのではなく、静かにありのままに見る。
「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」。
静かに、ありのままに、子規の心が鐘の音と交差している。
脊髄のカリエス(結核)で、最後まで七転八倒した子規とは違いますが、父の老いたる姿も私の気持ちの中に深く沈んでいきます。
この8月にISOの審査で福岡に行ったときに大分を訪ね、父のいる老人ホームに行き、面会しました。
瘦せてはいましたが、けっこう元気な父の手をとって、頑張ってねお父さんと何度も繰り返しました。
父は酉年です。
今年は年男。
新しいスタートです。
これからも一年また、元気でね。
人生は懐が深いこと、つくづく感じます。
お父さんありがとう。(^O^)
2016年12月22日
先日、東京の千代田区麹町に行きました。
地下鉄有楽町線の麹町駅を降りたら、駅のすぐ近くに、この可愛いモニュメントがありました。
「夏の想い出」。
「吉野毅」作とあります。
「作者の吉野毅さんは昭和18年(1943年)生まれ。
ご自身の記憶の中には、昭和30年前後の裸で遊ぶことが普通だった少年時代の光景が思い浮かぶのだと思います。
吉野さんは、卓越した芸術作品を作成したとして、2012年に日本芸術院賞を受賞された方。」と「blog.goo」にあります。
http://blog.goo.ne.jp/forever-green/e/24aa4746d9907adca29103713ca367a9
このブロンズ像何をしているのでしょうか。
よくわかりませんでした。
しかし、・・・・。
「ブロンズ像を設置した麹町地区環境整備協議会(会員は地区区内の法人と町会長)のメンバーの法人等が、毎月、この着せ替えを担当しており、消防署の順番の際には、近くの大学の学生が協力して消防服を着せたりしているようです。」とこのブログにはありました。
このブログによると、近くの大学生というのは大妻女子大学の課外活動団体「服部」(ふくぶ)。
何か服に関連がある課外活動なのですね。
2013年5月は半纏を着ていました。
http://chiyoda-tokyo.sakura.ne.jp/seisiga/kobetsu/natuomoi.html
千代田遺産という、HPです。
まちづくりの参考になります。
街中の、チョッとかわいいブロンズ像でした。(^O^)/
2016年08月29日
「代表曲の『世界に一つだけの花』にちなんでファンは『花摘み』と呼ぶ。
国民的人気グループのSMAPが年末に解散するという発表から半月。
ファンの間で、CDを購入して売り上げを伸ばそうという動きが広がっている。
最後まで彼らを応援するという思いを伝えるためだ。
CD店では品切れが相次いでいるらしい。」
毎日新聞2016年8月29日東京朝刊「余録」の記事です。
「この曲にこんな歌詞がある。
『一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい』。
メンバーは『それぞれの花』を咲かせる道を選んだのか。
不仲説が流れるが、真相はいまだやぶの中だ。
読者から本紙に投書があった。
SMAPは自分たちの番組で東日本大震災の被災地への義援金を募っている。
その取り組みはどうなるのか、と心配する声だ。
彼らはアイドルというだけでなく、大きな社会的役割を担うようになった。
アジアにファンが多く、日中韓の友好の象徴でもある。
東京パラリンピックのサポーター活動が終わることを残念がる人も多い。
メンバーはラジオ番組でファンに謝罪している。
個々の気持ちは伝わるが、すっきりしないのは所属事務所が経緯を説明しないからではないだろうか。
影響はもはや音楽、テレビ業界にとどまらない。
ヒット曲『夜空ノムコウ』の歌詞にはこうある。
『あのころの未来にぼくらは立っているのかなぁ』。
時が流れて『未来』が『今』になった時、過去を振り返る曲だ。
SMAP世代にとって『あのころ』は彼らの曲の中にあるのだろう。
平成の時代とともに歩んだSMAPは来月9日にデビュー25年を迎える。
活動は残り4カ月。
花は散り際も人の心に残る。」(同記事)
●「夜空ノムコウ」良い歌ですね。
未来に願いを置く歌です。
そして、心を通わせる相手に、心を置く歌でもあります。
「未来」という、人間にとってとても大切な時間がそこにそっとあります。
あまり哲学的に言葉にすると、ふっと大切なものが逃げていく。
だからこそ、その哀感に心がもてあそばれてしまう。
そこがとても素敵です。
「永遠の今」という言葉があります。
「今」ここに「未来」がある。
ここにしか未来はありません。
だから今ここが「永遠の今」です。
しかし、スマップは本当に良いグループです。
親善大使的な役割をしっかり果たしている。
この「夜空ノムコウ」という歌。
女性の歌で聞くと、全く違います。
「Uru」という歌手、とても良いですね。
よく知らないのですが、ユーチューブで聞くと、この曲がとても悲しい曲になる。
静かに心を打ち、静かに悲しもが広がります。
切ない…。
でもとてもよい曲です。(^○^)
2016年07月11日
一昨日、BSフジの「艶歌四人姫」を見ました。
僕は坂本冬美さんの大ファンなので、この番組たまに見ます。
そこで感じたのですが、演歌の名曲本当にあるなということ。
今日は八代亜紀さんが出ていたので、「舟唄」でした。
やはりこれは名曲ですね。男歌の一つ。
男の寂しさが静かに伝わってきます。
「お酒はぬるめの燗がいい
肴はあぶったイカでいい
女は無口な人がいい
灯りはぼんやりともりゃいい」
決してなげやりでなく、ひかえめなものそれがいい。
ひかえめだからいいのではなく、ひかえめなものが自分には合っている。
そこを淡々と歌います。
そこに僕は人生哲学を感じます。
「しみじみ飲めばしみじみと
想い出だけが、行き過ぎる
涙がポロリとこぼれたら
歌いだすのさ舟唄を」
そして、神奈川県の三崎のダンチョネ節を唄い出す。
「沖の鴎に深酒させてヨ
いとしあの娘とヨ朝寝する
ダンチョネ」
本歌取りの手法です。
実に見事な構成です。
しかし、演歌の本骨頂はやはり「未練」。
「ほろほろ飲めばほろほろと
心がすすり泣いている
あの頃あの娘を思ったら
歌い出すのさ舟唄を」
あの娘を思ったら・・・唄い出す。
日本人は桜が好きな国民で「あっさり」と散っていくその見事さに共感します。
赤穂浪士の主人のために命を尽くして仇討ちをし、そして「あっさり」と切腹していく。
「あっさり」が好きなのですが、それだけに忘れきれない「未練」にも共感する。
演歌のワンパターンの一つがこの「未練」をしみじみ歌うところにあります。
しかし表面的に歌っているだけの演歌が本当に多い。
演歌はどれを聴いても同じとの批判、しっかり当たっています。
しかし演歌の名曲には哲学があることも今日しっかり感じました。
2016年07月08日
「ムーティ氏は「芸術の中でも音楽には人々を結びつけ宗教、文化、伝統、人種、言葉の壁を乗り越える大きな可能性がある。
音楽は普遍的であり、分断を超えるものだからだ」と語った。 」
毎日新聞2016年7月8日 東京朝刊の記事です。
「イタリアを代表する指揮者、リッカルド・ムーティ氏(74)が毎日新聞のインタビューに応じ「テロは文化を持たない無知から来る」と指摘し「日伊両国は文化の古い伝統を持つ。
文化、特に音楽が(テロとの戦いの)最も重要な武器だ」と訴えた。
ムーティ氏は3日にイタリア北部ラベンナで日伊国交樹立150周年の記念コンサートを開催。
会場ではバングラデシュで起きた人質テロ事件の犠牲者を追悼して黙とうがささげられた。
ムーティ氏はインタビューで「あらゆる種類の暴力、テロは、深い文化を持っていないという意味での無知に由来する。
真の文化は調和、美、精神の気高き表現であり、高尚さと平安を損なうものとは相いれないのだ」と強調した。
ムーティ氏は1997年、内戦からの復興途上にあるボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボでコンサートを開催。
以来、世界各地の紛争地や被災地を訪ね「音楽を通じた友愛の懸け橋作り」を目指す「友情の道」事業に取り組む。
今回の日伊両国の若手奏者による公演もその一環だ。
日伊の絆を確認する今回のコンサートの2日前、ダッカで両国民が巻き込まれる人質テロ事件が起きた。
「文化によって問題をただちに解決することはできない。だが、文化は長期的には力強い武器になる。社会をより気高い水準に引き上げることができるからだ」
ムーティ氏が若手の育成に心血を注ぐのは「若者こそ未来」という思いがあるためだ。
「(文化という)根を切れば、木は死んでしまう。若者は歴史的なアイデンティティーを自覚する必要がある。
それによって、未来に前進することができるのだ」と言う。
最後に「夢は何か」と訪ねると、こんな答えが返ってきた。
「私は戦中の41年の生まれだが、戦後は戦争のない時代を生きてきた。
けれども今、世界で平穏な場所を探すのが難しくなっており、孫たちの将来が心配だ。
夢は平和な世界を作ることだ」 (同記事)
リッカルド・ムーティさんは
「1941年、イタリア・ナポリ生まれ。ミラノ音楽院卒業。
80年から92年まで米フィラデルフィア管弦楽団の音楽監督を務めた。
86年から2005年までイタリア・ミラノのスカラ座の音楽監督を務め、10年に米シカゴ交響楽団の音楽監督に就任。」
今でも世界有数の指揮者の一人です。
写真を見るとかなり老けたなとの感じです。
しかし、話の内容はとても心を打ちます。
「あらゆる種類の暴力、テロは、深い文化を持っていないという意味での無知に由来する。
真の文化は調和、美、精神の気高き表現であり、高尚さと平安を損なうものとは相いれないのだ」。
文化は「精神のけだかき表現」であり、そこには「調和」があり、「美」となる。
「高尚さと平安を損なうものとは相いれない」。
平和のツールとしての「文化」ということです。
しかし、時の権力によって文化が破壊された例は枚挙にいとまがありません。
政治的に都合が悪い文化を破壊する。
カンボジアのクメールルージュによる文化財、寺院の破壊、近くではつい何年か前イスラム過激派による仏教美術遺産の破壊か衝撃的な映像で報道されました。
明治初めの日本の廃仏毀釈だって同じ流れです。
万世一系の国体には仏教は邪魔もの…。
異文化を理解し受け入れ、共有することの大切さ、改めて感じます。
ムーティさんは若手の育成に心血を注ぎます。
「(文化という)根を切れば、木は死んでしまう。
若者は歴史的なアイデンティティーを自覚する必要がある。
それによって、未来に前進することができるのだ」。
「歴史的アイデンティティ」なのですね。
そして「世界的アイデンティティ」だとも思います。
人の根っこはつながっています。
ユングの普遍的無意識であり、プラトンのイデア論です。
地球平和に、特に音楽がより力を発揮するとムーティさんは言います。
「芸術の中でも音楽には人々を結びつけ宗教、文化、伝統、人種、言葉の壁を乗り越える大きな可能性がある。
音楽は普遍的であり、分断を超えるものだからだ」
深く考えさせられるムーティさんでした。(-_-)
2016年06月14日
蝶々夫人はテバルディ、トスカはマリア・カラスです。
やはり。
蝶々夫人の可憐さはカラスではアクが強すぎる。
テバルディの少しはにかんだ蝶々夫人。
それが最後は子供に目隠しをして自害するときの、あまりにも大きな落差に、引き込まれてしまいます。
これはプッチーニも意識していなかったのではと、勝手に思います。
音楽は、作曲家と演奏する人の協働作業であり、そこから創造的なものが生まれてくる典型的な芸術です。
一方、トスカはやっぱりマリア・カラスです。
ティドゴッビの憎たらしいまでのスカルピアとのジョルジュ・プレートル指揮のEMI版。
オケはどこだったかな。
1960年代くらいの録音だったと思います。
赤い透明なLPレコードでした。
マリア・カラスのトスカが、スカルピアを刺し殺すときの「モーリー、モーリー、モーリー」というイタリア語での音声。
耳にこびり付いて離れません。
「凄み」としか言いようがない。
日本語で「死ね。」では何ともやくざっぽい。
言葉は翻訳してしまうと、きめ細かな感情が消えてしまう、典型的な例です。
といいなが、やはり「餅は餅屋」です。(-_-)
2016年06月10日
2016年05月30日
僕の大好きな指揮者に巨匠ブルーのワルターがいます。
それも、アメリカに移住し戦後に録音した多くはコロンビア交響楽団を指揮した録音が好きです。
その前のニューヨークフィルを指揮したものも聞きますが、硬くて、抱擁力がなくどこか敬遠してしまいます。
ワルター、コロンビア響の演奏は何とも言えない豊かさ、やさしく包んでくれるハーモニーとメロディが寂しい時など、なんとも慰めになります。
そのワルター、リハーサルも数多く残されています。
モーツァルトのリンツシンフォニーなんか、そのワルターのやや低めの声での英語を聴き、それに反応するオーケストラを聴いていると、その音の表情などもう芸術そのものと感じてしまいます。
もちろんモーツアルトの音楽そのものが、神の世界の音楽であり、芸術です。
なので、そのリハーサルはひょっとしたら曲そのもののデフォルメといっても良いかもしれません。
そんなことを考えながら、今フレンチェ・フリッチャイの指揮したモーツァルトの39番シンフォニーを聴いていますが、やはりワルターのコロンビア交響楽団のものに比べ、音の表情、艶、そしてふくよかさがどう聞いても乏しい。
もちろんフィレンチェ・フリッチャイも大指揮者であり、巨匠なのですが。
ただ、少しこだわっている平松君でありました。(^-^;
2016年01月23日
とても鮮やかでした。
沖縄の魚です。
親戚の画家の船橋の東武デパートへの出展。
船橋東武。
http://www.tobu-dept.jp/funabashi/index.html
渡辺新吉さんの絵画は、「筒描」の手法での染色絵画です。
渡辺新吉さんは、私の家内のいとこにあたります。
「静岡県富士市出身 1987年東京造形大学卒 1994年麻生工房(小平市)にて染色を学ぶ。」
【筒描き〜染料挿し】
古くから着物や帯などを染める技法のひとつ。
円錐形の筒(つつ)という器具に、餅粉・糠などを原料とした防染糊を入れ、糊を絞り出すように絵柄のアウトラインを描きます。
染料で色挿しした後、流水で防染糊を洗い流しますと、糊が溶けてアウトラインが白く浮かび上がるのが特長です。
代表的なのは京友禅。
出展歴・入賞歴。
東京ガス・リビングアートコンペ(1995)
ART BOX大賞展(2002/03/04)
インターナショナル・イラストレーションコンペ(2002/03/04)
奄美を描く美術展(2003/2004/2005)
二科展(2005/06/07) 他
光陽展(2011年新人奨励賞)
そして、今回の出展。
お母さんも応援に来ていました。
家内のおばさんです。
6Fでの開催。
「にほん全国、職人の技」です。
今月ですが、1月11日に行きました。
「紀ノ国屋フェア」と「職人の技」が隣り合わせで開催されていました。
あちこちに「技」というフラッグがかけられています。
「宝飾品」。
鮮やかな朱の傘でした。
少し風情もあります。
「技」の数々です。
ただ、これは福引。
バッグなどの小物類。
落ち着いた色調で、心も落ち着きます。
こちらも「装飾品」。
次は、「茶道具」や「花卉」・・・。
「籐工芸」。
「版画」。
大好きな竹下夢二、中島潔・・・。
イヤー来て良かった。(^-^)
こちらは、樹をデザインに沿って切り、木製パズルのようにはめ込んだものです。
デザインのオーダーを取り作成するのだそうです。
樹の木目の感覚が柔らかくて、ちょっと素敵でした。
次は「紀ノ国屋フェア」です。
毎日の食卓を飾る食品のフェアです。
プリンやドーナッツ、パイなどのスイーツやいろいろなお惣菜、「ご飯のお供」などもありました。
今はなら名でいませんでしたが、私が来た直後はけっこう列ができていました。
ケーキやグルメパイだったかな。
次は会計コーナーです。
東武デパートからJRへの通路に、かわいいモニュメントがあり、目を引きました。
「さざんかさっちゃん」。
「さざんか募金運動推進協議会」
漫画家 牧野圭一
彫刻家 川村栄
石工 佐藤侑一郎
とありました。
そして建立は昭和55年7月5日。
もう36年にもなるのですね。
船橋東武の寄贈と書かれています。
最後にデパートへの送迎バスです。
もちろん乗りませんが、かわいいバスですね。(^O^)/
2015年03月06日
「戦後70年の首相談話や憲法改正、日中韓関係など、日本絡みの議論が米政府・議会などで行われている。
いずれも今後の日本を運命づける事象だが、百年単位でみると、米国における日本の存在感は、政治経済だけでなく芸術と日本人の『おもてなし度』にも基づいていたことがわかる。」
「おもてなしと日本外交」と題しての、清華大学米中センター高級研究員の酒井吉廣さんの記事です。(毎日新聞 2015年03月04日 東京朝刊)
「1939年、斎藤博駐米大使が現地で病死した時、ルーズベルト大統領は遺骨を米軍艦で帰国させる異例の措置をとった。
外務省屈指の英語力と文学への深い造詣で日米関係の調整に尽力した斎藤大使への信頼の厚さの表れだ。
日米は彼の死後、開戦に向かったとの見方もある。
国宝級の日本美術が数多く米国の美術館に存在するのは、明治初期、フェノロサや岡倉天心らが破壊の危機にひんした品々を米国に運んだおかげだ。
京都や奈良が空襲されなかったのは、日本美術愛好家が両都市への爆撃に反対したからとされる。」(同記事)
日本文化の価値の大きさ改めて感じます。
「昨年9月、安倍晋三首相のコロンビア大訪問を正門で待ち受けた学生の中に中国人が多数いた。
笑顔で手を振る首相を彼らは歓迎した。
首相の同大訪問はこの時点で成功である。
庶民を含めたお互いの尊重と自然な笑顔での関係強化というソフトパワーこそ、平和外交の礎だからだ。
円安で外資の対日進出が増えている。
これが加速するかは、欧米流にみればコスト増でしかない繊細な感性へのこだわり(美術)と顧客第一主義の徹底(おもてなし)が世界でどう評価されるかによる。
美術やおもてなしは事実上、日本の将来価値を決める要素なのだ。」(同記事)
「美術やおもてなしは事実上、日本の将来価値を決める要素」。
この言葉重いですね。
「政府は2014年度補正予算で、米コロンビア大に5億円の予算を付けた。
この資金が全米最高峰と言われる同大の日本研究を政治経済だけでなく、芸術・文化の面まで支援することを期待したい。」(同記事)
文化力の大きさ、感じます。(^o^)/
2015年03月05日
東京駅、八重洲口地下街の入り口にある「仔豚くん」です。
イタリアのフィレンチェから贈られた、「幸運の仔豚像」レプリカです。
鼻をなでると幸運が訪れるといわれ、人気があります。
それにしては鼻がテカっていない????
いつも思うのですが、仔豚というより猪の子供では???
背景の壁に、フィレンチェのいくつかが掲示されています。
サンタマリアデルフィオーレ大聖堂。
フィレンチェの象徴です。
町のどこからでも見えます。
これが町を行き交うときの目印になり、方向音痴の人にもとても優しい。(^o^)/
アルノ川とヴェッキオ橋。
サンタクローチェ教会。
ウフッツィ美術館。
こちらもウフッツィ美術館です。
フィレンチェの市場。
ここにこの仔豚くんのレプリカの一つが設置されています。
次がその市場での仔豚くんの写真。
今ウフッツィにある本物は、ローマ法王からときのメディチ家に贈られました。
だから12世紀くらいの話でしょうか。
それでは失礼します。m(__)m
2015年02月24日
「『見る』ということを大切にしたいと思います。」
(選者の箴言 平松茂男 大分合同新聞社)
今年94歳になる、私の父の文章です。
父は今私の故郷である大分で兄夫婦と暮らしています。
短歌をずっと作り続けています。
父は、北原白秋に師事をし、戦後は宮柊二門下で「コスモス」短歌会のメンバーとして、今も作歌をしています。
その父がずっと地元の大分合同新聞で投稿短歌の選者でした。
そして、選者として「選者の箴言」を連載しました。
この文章を読みいろいろと心に迫るものがありました。
実の父ではありますが、少しご紹介いたします。
その中で、上記の文章は「選者の箴言」の「其の一」の一節です。
「『見る』は『観る』つまり対象を『観察』すること。
丁寧に見ることによって対象に迫りたいのです。
『観照』といぅ言葉があります。
広辞苑によれば『対象を主観を交えずに冷静に見つめること。
知恵をもつて事物の実相をとらえること』とあります。」
(同著)
主観を交えずに静かに冷静に見つめる。
事物の声に静かに耳を傾けると言いかえてもよいと思います。
父は何か良いことを見たり聞いたり読んだりした時に、ノートにそのことをつけていたようです。
それを「古いノート」という言い方をしています。
「古いノートに次の一節がありました。
『丁寧にものを見るという習慣は、精神を豊かにして思考を深めるに違いない。―佐藤春夫』
丁寧にものを見る、つまり観照によって、より深く対象を理解し、そのものの美や、真実に近づくことができればおのずと感動もわきます。
その感動が余情となって作品にこもるはずです。」
(同著)
丁寧に見ることは、体全体で物やものごとをあるがままに受け止めるということです。
そしてなぜそうなのかを考えることで知恵も使います。
知恵を持って事物の実相をとらえる。
そして事物に深く入り込むことができれば、それが感動となって自らの体の中で豊かな広がりを持ちます。
丁寧に事物を見ることが人生の豊かさをもたらしてくれるようです。(-.-)
また、5月に福岡でのISOの審査で大分にもいきます。
もう90歳も半ばなので、父に会えるひと時を大切にしたいと思っています。(^o^)/