May 05, 2012
日本の伝統美との出会いで目覚めた「ティファニー」
世界中の女性の憧れ「ティファニー」は創業時、文房具と装飾品を売っていた雑貨屋でした。
「ティファニー」が宝石事業に進出できたのは1848年にフランスで起きた2月革命がきっかけで、フランスの貴族達から由緒のある宝石類を買い取ることが出来たからです。
そして「ティファニー」が宝飾品の世界で今の地位を築けたのは「ティファニーのシルバー」と呼ばれる純度の高い銀を扱い、新しい宝飾品として銀の売り出しに成功したからでもあります。
しかし、実はこの「ティファニー」の成功と方向性の転換の裏には日本と日本の高度な工芸技術が大きく関与しておりました。
*本記事は著者・久我なつみ氏の「日本を愛したティファニー」を元にして書いております。
(ブログ休止の最後の動画として少し感傷的に・・・)
http://youtu.be/1JfS90u-1g81837年9月18日、「ティファニー」の創業者チャールズ・ルイス・ティファニーはジョン・B・ヤングと共にニューヨーク・ブロードウェイで文房具と装飾品の店を始めますが、初日の売り上げはわずかに4ドル98セントでした。
なかなか業績の上がらない商売に頭を痛めていたチャールズは、あるときボストンの港で船から陸揚げされたばかりの荷を見て回っていると今までに見たことも無い美しいものを見つけました。 それは日本の工芸品でした。
中国の物産にはすでになじんでいたチャールズでしたが、初めて見る象眼、螺鈿、美しい装飾を施した精巧な日本の家具に彼は魅了され、感激してしまいます。
値段を聞くととても手の届かない高額な値段でしたが彼は親族中を回って借金をし、まさに命運をかけた買い付けをします。
チャールズは後にこう回想しています。「あれは私の最初の大博打だった。 店に置くと大評判で、すぐに売れてしまった」と。
彼はこの人気に驚き、ショーウィンドーに日本の扇や金襴を飾ったりしますが、彼は人々の興味を引き付ける良いものを店に置く重要さに気が付き、後に宝飾品を扱うきっかけともなったといいます。
又、まだ鎖国中だった日本の物産を一早くアメリカに紹介したのが「ティファニー」でもあったのです。(カタログ販売を通じて日本の物産がアメリカに広く浸透していきました)
ですからこの頃の「ティファニー」の店頭には「宝石」ではなく「ライフル銃」や「刀剣」が並んでいました。 「ティファニー」では日本でもおなじみのミニエー銃の改良型であるエンフィールド銃を北軍に収めていましたが、南北戦争が終わるとこれらのライフルは無用の長物となりその多くが維新の真っ最中であった日本に流れていきました。 幾らかの「ティファニー」が調達した銃も日本に流れこんで来たでしょうからこれも日本と「ティファニー」との繋がりのひとつとも言えるかもしれません。
ティファニーはダイヤモンドと銀製品で有名なブランドですがダイヤモンドよりも先に銀製品で世界的名声を博しています。
南北戦争が始まる少し前からチャールズがもっとも力を入れたのが銀製品の生産であり、その為に当時の取引先でもあったニューヨーク最高の銀細工工房、ジョン・C・ムアーの事業を買収し銀製品の製造を始めておりました。
その甲斐あって1867年、ティファニーはパリ万国博覧会・銀器部門で優秀賞を得ます。

ジョン・C・ムアーの息子、エドワード・C・ムーアが1868年にティファニー社の筆頭デザイナーに就任するとティファニーのデザインが変化していきます。
エドワードが初めて日本の工芸品に触れたのは先のパリ万博の時。 フランスやイタリア、中近東とも違う日本の独特の美と高度な技巧・技術に魅了されたエドワードは日本の職人をアメリカに招くように提案したそうです。
テッサ・ポールの書には「(エドワード・ムーアは)日本美術とその巧みな金属細工の技術に傾倒した。 彼は日本の金属細工師の一団をニューヨークに招請した。 ティファニー商会の工房では彼らの指導のもとであらゆる種類の色調が銀と組み合わされ、エナメル細工の実験が行われた」と書かれています。


1870年代前半、日本の意匠に触発されたティファニーのデザイン 通称「オーデュボン」
上記の銀製品が発売されるとデザインの斬新さから各地で絶賛されます。 またアメリカの造形が初めてヨーロッパの束縛から解放された作品として高く評価されました。
しかし上記の銀の花瓶の様に、浮き彫りで模様を施す技法はあくまで西洋の伝統に倣っているに過ぎません。 西洋(ヨーロッパ)では金や銀は貨幣と等価でしたので金や銀に他の金属を混ぜ合わせる合金は禁忌されていた為、その伝統の上にあったティファニー社には金製品・銀製品を別々に作る技術しか持っていませんでした。
一方、日本では金工象嵌に限らず、漆地に薄く削ったアワビの貝殻を嵌めこむ螺鈿細工などの象嵌も広く行われていました。
ティファニー社はこの技法を日本の金属細工師から学び、1870年代後半になると銀地に金や銅などの違う金属を載せる製品を次々と発表していきます。
そして1878年、ティファニーはパリ万国博覧会・銀器部門でついにグランプリを得ます。
グランプリ作品のトレイ


1870~1880年代のティファニーの製品
ティファニーが率先して受け入れた「ジャポニズム」は日本文化に対する最初の世界的ブームを表す言葉です。(ガウン代わりに着物でくつろぎ、庭に提灯を灯したりした)
現在「クール・ジャパン」と呼ばれている現象は第3次日本文化ブームですネ!
ティファニーが日本に感化され、作られた、現存する当時の製品の多くは今や美術品として扱われております。 またティファニーの社史には日本から受けた影響について言及されておりませんが、ティファニーの日本趣味は現在でも確実に受け継がれていると言われています。
ティファニーのオープンハートも日本美術の影響を受けたとされています
久我なつみ氏の著書は他にチャールズ・ティファニーの息子であるルイス・ティファニー(ガラス工芸家、アメリカにおけるアール・ヌーヴォーの第一人者)のことにも触れており、彼の日本に対する傾倒ぶりを紹介しております。 また、巻末で鎖国していた日本の工芸品がどのようにしてアメリカに渡って行ったのかという記述もなかなか興味深いです。
ティファニーの1915年製18金ヴィンテージ物の時計を見つけました。






…というわけで本ブログは一時休載となります。 長い間(…2年半程ですね)お付き合い下さいました皆様に感謝の言葉を述べますと共に近い将来、復活を果たせることを願いまして一旦、お別れをさせていただきます。(´;ω;`) ありがとうございました。