2005年11月28日

*植村泰二のPCLに入社する

 いよいよ大学卒業を控えて、井深大も、就職活動に取りかかる。
 だが、人の運命というのは、分からないものである。井深大は「ケルセルに関する研究成果」について、特許庁に特許申請手続きをした。その際、審査官が、真剣な顔つきになる。
 「PCLが、君のような人を欲しがっている」
 PCLとは、「フォト・ケミカル・ラボラトリー=写真化学研究所)」の略である。日活など各映画会社のトーキーの下請けをしていた。審査官は、当時、PCLの所長をしていた植村泰二(後に経団連副会長となる植村甲午郎の実弟)のところへ井深大を連れて行った。
 そのころ、映画は活動写真と言われ、「活弁」と呼ばれた「弁士」が、映画館にいて無声映画のストーリーの説明をしたり、出演者のセリフを肉声でしゃべったりしていた。この活弁時代が終りを告げ、画面に応じて音や声が聞こえるようになっている「トーキー」が黎明期を迎えていた。映画会社は、どうすれば「録音」がうまくできるようになるのかに腐心していた。植村は、審査官の話を聞いて、井深大の「ケルセルの研究」を高く評価し、その場で採用が決まった。
 しかし、井深大が、第一志望としていたのは、「東京芝浦製作所(東芝)」だった。回りからの勧めもあり、入社試験を受けた。だが、結果は、「不採用」だった。
 そうこうしているところかに、植村から、
 「責任を持たせて何でもやらせるから早くこい」
 と矢のように催促してきた。井深大は、
 「自分の才能を思う存分活かして活躍できるなら、それの方がいい」
 そう思って、PCLに入社することに決めた。
 昭和八年四月から、PCL社員としてのサラリーマン生活が始まった。月給は「60円」、東京帝国大学卒業者並みの高給だった。この年の暮れには、「90円」にアップされ、一人前の技術者として毎週開かれる「技術会議」への出席が許された。会議は、技師長の増谷麟の私邸で開かれていた。 入社して3年目の昭和10年には月給百20円になり、自動車の免許を取得し、中古の「ダットサン」を550円で手に入れた。まだそれほどは多くない「オーナー・ドライバー」になりたいという夢がかなったのである。  

2005年10月28日

*堤秀夫教授の下で勉強に励む

 早稲田大学理工学部に進学してからは、主任教授を務めていた堤秀夫教授の下で、腰を据えて勉強に励み、充実した日々だった。そのころ、父が残した井深家の財産も底をついていたが、函館市内で海産物問屋を営む父の従兄弟・太刀川善吉が、毎月50円ずつ送金してくれていた。
 井深大は、堤教授の指導で、「ケルセル」の研究に取り組んだ。これは、光や音を外から加えて、電圧の通り変調する研究だった。実験中、ネオン管に高周波の電流を通して周波数を変えてみると、光が大きく伸び縮みするのを偶然に発見した。これは大学卒業後、パリで開かれた博覧会で優秀発明を受けた「走るネオン」(渦巻き様のネオン管使用)の基になる。また、井深大は1930(昭和5)年、山本忠興教授の依頼されて極東オリンピック用に「お化けスピーカー」を製作している。
 井深大は、学生時代に、卒業実験として早稲田大学と新宿区矢来町にある新潮社との間の2.8キロの間で、「光電話」の実験も行った。「ケルセル」の光変調を応用したもので、マスコミにも注目された。
 井深大の卒業論文は、当然のことながら「変調器としてのケルセル 附光線電話」であった。
 このころ、浜松高等工業の高柳健次郎教授が(後のビクター常務)や早稲田大学の山本忠興教授らがテレビの研究に着手していた。
  

2005年10月27日

*早稲田大学第一高等学院で「科学部」に入る

 ところが、アマチュア無線に凝りすぎたのが祟り、成績は、どん底まで落ちてしまった。同級生の多くが中学四年生から高等学校に進学していく。さすが井深大も、「これはいかん」
 と悟り、五年生のとき、アマチュア無線を思い切って止めて、受験勉強に没頭した。その御陰で成績が上がり、浦和高校(埼玉大学の前身)と北海道大学予科を受験した。だがいずれも失敗し、やむなく、早稲田大学第一高等学院を受験して合格した。入学すると早速、クラブ活動では「科学部」に入った。このクラブには、島茂雄(後のソニー常務)がいた。二人はすぐに気の合う仲間になり科学部を盛り立てた。そのころ、電機蓄音機が、まだ珍しい時代で「電蓄をつくろう」と興味が合致し2人の共同作業により増幅器の組み立てに成功する。スピーカーを借りて、学内でレコード・コンサートを開き、学友に喜ばれる。
 当時、早稲田大学理工学部長を務めていた山本忠興教授の長男とは、幼稚園時代の友だちだったことから、
 「井深、井深」
 とかわいがられた。山本教授が関係していた陸上競技の対抗試合が開かれる際には、増幅器やラッパ、マイクロホンなど拡声装置に必要な道具一式を揃えて出かけて応援するなど、のびのびして学生生活を送っていた。
 第一学院三年生のとき、親類まの人に勧められて富士見町教会に通うようになる。キリスト教関係の寄宿舎「友愛学舎」に入ってアメリカ式の信仰生活を楽しんだ。
  

2005年10月26日

*機械が好きの少年となる

 小学二年のとき、町の時計店で売っていた電鈴が欲しくなり、祖父にねだって、ベルと針金、乾電池など一揃いを買ってもらって遊んでいた。そのうち、電鈴を分解して、電信機をつくったり、自転車のアセチレン・ランプを分解して、いじっているとき爆発してまい、大ケガしかかったりと、とにかく機械が好きの少年だった。
 小学五年生のとき、母の再婚先である神戸市にいき、諏訪山尋常高等小学校(現在の神戸市立こうべ小学校の前身)に入り、神戸第一中学校(現在の兵庫県立神戸高校の前身)に進んだ。
 だが、勉強よりもテニスに凝り無線の組み立てや機械いじりに夢中になった。このため成績はみるみるうちに落ち、ビリから数えた方が早かった。
 それでも、母には前夫が残していた井深家の財産があったので機械を買うおカネを出してくれた。井深大は、真空管を買い、無線機をつくった。「ツーツー」という音が聞こえてきたときの感激は、終生忘れられないものとなったという。
 大阪の新聞社がラジオの試験放送をしていたとき、この放送を自分でつくった受信機で聞き、総選挙の速報を受信して、近所の人たちを驚かせたりもした。
  

2005年10月25日

*祖父から父の話を聞き、科学への興味を覚える

 井深大は母とともに父方の祖父母のいる愛知県で過ごした後、上京した。母は日本女子大学の卒業生でありその縁で付属幼稚園に教諭として勤務した。井深大は1年2学期まで附属豊明小学校に通った。その後、北海道苫小牧にいた母方の祖父が病気になったので転校した。2年生のとき、再び愛知県の祖父母の下で暮らすことになったが、母が神戸市にあった山下汽船の課長をしていた人と再婚したため、祖父母の手で育てられることになった。祖父は、折りにふれて、亡父の思い出話をした。
 「お前のお父さんは、科学が好きだった。何事も科学的に考える男だった」
 父にまつわる話を聞きながら、父をしのぶうちに、井深大の心の中に科学への興味が、次第に芽生えていき、機械いじりが好きになってきた。
  

2005年10月19日

*技術者の長男に生まれる

 井深大は1908年(明治41)4月11日、栃木県上都賀郡日光町字清滝の古河鉱業日光製鋼所の社宅で父・井深甫(いぶか・たすく)母・さわの長男として生まれた。
井深甫は札幌中学から蔵前高等工業学校(東京工業大学の前身)の電機科を卒業して古河鉱業に入社した。静岡県御殿場に水力発電所を設計、建設に携わった人物としても知られているが、井深大が三歳のときに亡くなっている。
井深家は、会津藩士「会津門閥九家」の一つで、祖父・井深基(いぶか・もとい)は明治維新の戦いの際に官軍に奮戦した朱雀隊の生き残りであり、祖父の弟は、白虎隊で自刃していている。藩主・容大(1歳4か月)、その父で旧藩主・容保とともに、転封先の斗南藩(青森県内)に移住した。後に北海道開拓使に従い知事・深野一三に重用され、深野が愛知県知事に就任したのを機に愛知県に行き、商工課長、郡長などを歴任している。
 父・井深甫は、札幌農学校出身の新渡戸稲造(ブロテスタントの一派「クェーカー教」の教徒)の門下生であった。札幌農学校は、「少年よ、大志を抱け」の言葉で有名なクラーク博士が校長を務めて、弟子である二期生の新渡戸稲造や内村鑑三らは、宣教師ハリスから洗礼を受けている。
  

2005年10月18日

ソニーの創業者・井深大

 ●機械が好きの少年だった
 ●堤秀夫教授の下で勉強に励む
 ●新渡戸稲造門下の前田多門と出会い、不思議な運命に導かれる
 ●井深大が技術開発を、海軍技術士官だった十歳年下の盛田昭夫が営業を担当する
 ●いまなお生き続ける創業の精神をまとめた「設立趣意書」
 ●日本初の「テープレコーダー」を開発、ソニーの基礎となる
  

2005年10月04日

*中村改革に生き続ける「あくなき挑戦の精神」

 松下電器産業は、創業者・松下幸之助翁以来、「便利な生活づくり」のあくなき追求者であり続けた。それが、バブル経済崩壊に伴い、経営難に陥っていた。独自の技術開発を怠り、事業部制と大量生産施設(ベルトコンベア)が時代遅れになっていたのを気づかずにいたのが、災いした。
 この困難を克服するために抜擢されたのが中村邦夫社長であった。中村社長は、「営業のプロ」を自認する名うての営業マンだったが、「松下の再生」を賭けて改革を任され、強力な指導力を発揮し、見事に改革を成功に導いた。
 中村社長が断行したのは、「オール・松下」の意識改革であり、とくに、生産方式を一新、大量生産方式を止る大英断を下し、ベルトコンベイアの生産施設の破壊、「セル生産方式」に切り換え、かつ「垂直立ち上げ方式」により、全国の電気店主を奮い立たせた。そのための研修も徹底して行ってきた。中村社長自身、「まだ離陸したばかり」との認識を示しながら、さらなる改革の手を依然として緩めていない。ここにも松下幸之助の「あくなき挑戦の精神」が生き続けている。
  

2005年10月03日

*「来年は鶯のような声で話したい」

 経営の神様と謳われ、偉大な思想家でもあった松下幸之助翁は、昭和天皇と同じ平成元年(1989)に肺炎で亡くなった。4月27日のことで、94歳の大往生だった。 一病息災という言葉があるが、生来病弱だった幸之助翁は、「百病息災」といって体には大変気を使っていたという。
 ただ、弱かった喉だけは、どうしようもなかった。
 90歳を過ぎたあたりからは、翁の言っていることを聞き取ることは、周りの人でもむづかしくなった。ある年の経営方針の発表会で、経営幹部・社員を前に話したが、その場にいた数1000人が耳を傾けて聞いても聞き取れなかった。
 しかし、あとで録音テープを聞いてみると「来年は鶯のような声で話したい」
 と言っていた。声が思うようにでない苦しさがあるにもかかわらず、このようなユーモアのある一言。翁の知られていない一面である。
 早くから入院していたように言われていたが、実際は入院ではなく病院を自宅にしていたということだ。昭和50年(1975)ごろに会社の近くにある松下病院(大阪府守口市)の一室を自分の部屋にしてしまった。
 昭和61年(1986)、現在の松下記念病院を建てる際には、その最上階に執務室・病室をつくり、そこから毎日、会社やPHP研究所、松下政経塾に通った。
 19世紀に生まれた翁の一つの夢は、「自ら使命を果たすため、3世紀を生きる」ということだった。
 しかし、21世紀を目前にして、この世に別れを告げてしまった。公式な遺言書やその他書き残したものはなかったという。
  

2005年10月01日

*「事業部制」の導入を発表

 松下幸之助の業績のなかでも特筆すべきは「事業部制」の導入である。幸之助の経営手腕をよく示すものとして、松下電器産業内外で高く評価され、並みの経営者ではなかったことを証明している。
 昭和8年(1933)には「事業部制」の導入を発表し、各部門の独立採算を強力に進め、以後、松下電器産業の基本方針として受け継がれていくことになる。
 幸之助は昭和2年(1927)に、新しく電熱器の分野に進出する際、電熱部を創設、生産販売に関する一切のことを、まとめて責任者に一任する方法を採っていた。これが実室的には事業部制の始まりであった。
松下幸之助は昭和8年(1933)5月、門真地区の新本店と工場群の建設工事完了を目前にして、事業を製品分野別の責任経営にすることを決定した。
 松下幸之助は、事業部制の意味について、次のように話している。
 「私が小規模でやっていたときは、私だけの支配でこと足りた。しかし、さらに新しい仕事ができてくるとなると、私自身も一人では、どれもこれも、よくわかるということはできない。にもかかわらず、それを一つ一つ私が見なければならないとなると、ある場合には『君ちょっと待ってくれ。いま私は別のことを考えているんだ』ということになる。これでは、やはりいかんという感じがしたのである。
 そこで電熱器も、だれかに担当してもらおうと思った。さて、担当してもらうに当たって、私はちょっと考えた。同じ担当してもらうなら、いっさいの責任をその人に持ってもらおうと考え、『松下では、やはり電熱器を作らないといかんから作りたいのだけれども、僕はようやらない。君やってくれ』ということで、いっさいを任せた。この『君やってくれ』というときに、その人を事業の最高責任者にしたわけである。業容は小さくても、全部を任すということである。これが松下電器の事業部の始まりである。
 これには二つのねらいがあった。一つは事業部を作ってやることによって、成果がはっきりわかってくる。責任経営になってくる。だから事業部そのものも、はっきり良しあしが検討される。こっちの事業部で儲かったからといって、この利益を他の事業部に持って行くということは絶対にしない。事業部自体で利益を上げなくてはならない。
 こういうことから何が生まれてきたかというと、早くいえば経営者が生まれてくる。要するに、経営者の本当の試練の場である。幸いにして、松下電器では早くからこれをやっ
たから、みな経営者として育ったわけである」
 この事業部制は、松下幸之助が事業を始めた当時、「事業を伸ばし、人を育てる」ために、新入の従業員にでも機密の仕事を任せた行き方に、その萌芽を見ることができる。任せるのは当時の必要から生まれた行き方でもあったが、意識的におこなわれることによって、事業部制にまで発展したのである。
 また事業部制は、経営機構としてだけでなく、従業員一人一人の仕事に上にも生かされ全員経営の理念と表裏一体、松下電器の経営の基礎になっている。
  

2005年09月30日

*商業人の真の使命を知る

事業が一応の成功を見せ始めたころ、自分の事業のあり方について、目先の商売、損得という枠を超えて探く、広い視野で考えるようになってきていた。
 幸之助は昭和7年(1932)5月5日、端午の節句を期して、全店員を大阪の中央電気クラブに集め、松下電器の真の使命を明らかにした。
 「松下電器は、創業より今日まで随分奮励努力した。そして今日においては、個人経営とはいえ相当大をなし、力強いものがある。しかし、静かに考えてみると、これらの姿も商人としての尋常な姿であり、製作所経営として、ただ従来の良き慣習に準拠してきたまででの経営にすぎなかった。
 最近、ある宗教を見学視察した。そして、その繁栄、その盛大ぶりに痛く心を打たれたそして、その宗教の使命というものはどこにあるかということを考えてみた。そういうことも一つの動機となって、われら生産人にはその崇高さにおいて宗教に劣らない
大きな使命があることを知った」
 そう説明して、幸之助は、商業人の使命について、静かに、しかも熱情を込めて語り続けた。
 「商業人の使命は貧乏の克服である。社会全体を貧より救って、これを富ましめることである。商売や生産は、その商店や工場を繁栄させるのではなく、その働き、活動によって社会を富ましめるところに目的がある。社会が富み栄えて行く原動力として、その商店、その工場の働き、活動を必要とするのである。その意味においてのみ、その商店なり、その工場が盛大となり繁栄して行くことが許される」
 幸之助は、スピーチの最後で、「すべての物質を水のように無尽蔵にしよう。水道の水のように価格を安くしよう。ここにきて初めて貧乏は克服される」と断言し、「松下電器の真の使命」を明かし、力説した。
 「精神的な安定と、物質の無尽蔵な供給が相まって、初めて人生の幸福が安定する。自分が松下電器の真使命として感得したのはこの点である。松下電器の真の使命は、生産に次ぐ生産により、物質を無尽蔵にして、楽土を建設することである」
 自らの使命を知った幸之助は、
 「今日以後、250年をもって使命達成期間と定める」
 と宣言し、「5月5日」を「創業記念日」に制定した。
  

2005年09月29日

*「松下電気器具製作所」を設立、創業

碍盤の仕事が軌道に乗るや、念願の電気器具製造・販売に本格的に着手するため、大正7年(1918)3月7日、松下幸之助は大阪・大開町に「松下電気器具製作所」を設立し創業した。2階建ての借家の階下三室を改造した作業場に小型のプレス機二台、人手は自分を含めて家族三人だった。
 このささやかな体制を出発点に、幸之助は「アタッチメントプラグ」「二灯用差し込みプラグ」をはじめとして、便利で安い配線器具を次々と生み出していった。わずか23歳のときだった。
 幸之助は、その後、砲弾型電池式ランプを考案(28歳)したのをはじめ、角形ランプを考案(32歳)、スーパー電気アイロンを発売するなど、目ざましい活動ぶりを示し、松下電器産業の基礎を築いた。
 昭和4年(1929)には、松下電気器具製作所を松下電器製作所と改称した。
  

2005年09月28日

*若妻に支えられる

やがて改良ソケットが完成したものの、売れ行きはさっぱりダメだった。むめのは指輪も替えの着物も、幸之助に黙って、あらかた質屋へ入れてしまった。それでも作った製品は売れないまま、ひと月余りが過ぎ去った。うまくいかないことがはっきりしてきたころ二人の知人は、見切りをつけて幸之助のもとを去っていった。しかし、幸之助は、あきらめる気にならなかった。
 「きっと成功する」
 不思議とそんな自信があった。若妻・むめのは、そんな幸之助を支え続けた。たった二銭の風呂代にもことかく日もあった。幸之助が、
 「さあ、そろそろ、風呂でも行こうか」
 と誘う。むめのは、
 「あなた、これ、うまく動かんみたいなんやけど・・・」
むめのはそんな生活の苦労を幸之助に感じさせまいと、風呂屋が閉まる時間まで、なにかと話を持ち出しては気持ちをそらす。
 「ん、どれ、かしてみ。おかしいな……。いっぺんバラしてみようか」
 むめのは、行水の用意をした。そんな苦労の日々を送っていた。幸之助は、意気軒昂であった。

 *最初の試練を脱する
 だが、ついに進退きわまったと思われた大正六年(一九一七)十二月、思わぬところから「救いの神」がやってきた。
 「おお、ここやここや。ごめん!おお松下君やな」
 「へえ?」
 「わしは、この間ソケット見せてもろた、阿部電気商会の者や。探した」
 「ソケット、買うてくれはるんでっか!」 「いやいや、実はソケットやのうて、ガイバンや」
 「ガイバン?」
 当時、扇風機の碍盤(がいばん)は陶器製で壊れやすかった。そこで、扇風機の大手メーカー、川北電気が練物でつくってみようと練物を手がけるところを探していたという
まずは見本注文を受けた。しかも試作品は好
評で「年内に一〇〇〇枚」という注文である。
 幸之助は、それを十日間で完納し、八十円の利益を手にし、年明けにはさらに「二〇〇〇枚」の追加注文を受けた。
 独立から半年して、幸之助は事業での最初の試練を脱することができたのである。
  

2005年09月26日

 *憂鬱な日々のなかで改良ソケットを完成する

松下幸之助は大正六年(一九一八)、異例の若さで工事担当者を経て検査員に昇進した。
二十二歳のことである。検査員の主な仕事は現場の見回り検査だった。一日の仕事がほんの数時間でできた。仕事が楽でしかも尊敬されるとあって、喜ぶ検査員が多かった。
 だが、幸之助は充実感を味わえない生活にひとり憂鬱を感じていた。生まれつき体が弱かった幸之助は、気力で持ち堪えてきた。そのうえ、張りのない生活が、憂鬱感を増していた。医者からは、
 「肺尖カタルだ。ひと月ばかり療養しろ」 との診断と処方を受けたものの、簡単に休める身分ではない。日給暮らしの勤め人では休めばその日から生活にたちまち行き詰まってしまう。
 そんな気分の優れない日々のなかでも、唯一の救いがあった。「ソケットの改良」である。仕事の合間に思案し続けていた。
 きっかけは、工事担当者だったころ、高下駄の歯が抜けて困っていたおばあさんを助けていたときだった。突然、「改良ソケット」のアイデアがヒラメいた。早速、試作品をつくり、上司に見せた。
 「工夫せなあかんとこがありすぎる。使い物にならんな」
 アッサリ切って捨てられた。自信満々だっただけに、幸之助はがく然とした。悔しさのあまり、涙が流れてきた。
 「絶対に、この改良ソケットを作れば売れるのに・・・」
 幸之助の熱い思いは、消えるどころか、次第に胸のうちで確信となり、やがて、自分で作ってみたいという気持ちが、強くなっていちた。
 幸之助は大正六年(一九一七)六月、独立を決心した。妻と妻の実弟、それに二人の知人を加えて始めた。手元資金わずかに九十五円余り。生活していた四畳半の二畳の借家に自ら手を入れて工場スペースを作った。
 事業とは言っても、ソケットの胴に使う練物の製法も知らないという何とも心細いスタートだった。
  

2005年09月25日

 *すべての人から学ぼう

学校での勉強はできなかった代わりに、夜、
店番をしながら、講談ものの本を読み、英雄豪傑の人の使い方から論功行賞の仕方まで多くのことを学んだ。それは、経営者が学んでおくべきことがそっくりそのまま当てはまっていたことを後になって気づく。
 学問に恵まれなかった分、幸之助は、出会う人々から多くのことを学ぼうと考えるようになる。ほかの人がみな自分より偉い人のように思えたのである。
 「人の短所より長所の方がよく目につくようになった。素直に人々の意見に耳を傾けることができた。そして、どんなことでも、これを吸収しようとした。私は、いまでも若い社員の言葉を素直に聞いて、そこから学ぶ場合が多い。他人は自分より偉いのだ、自分にないものを持っているのだ、と思う方が結局はトクである」
 功を上げ、名を成してなお、幸之助は、「すべての人から学ぼう」という努力を忘れることはなかったという。
  

2005年09月24日

*頭の下げ方、言葉使い、躾を厳しく叩き込まれる

 幸之助は、丁稚の仕事を少しも苦には思わなかったが、それでも作業場で旋盤を手で回す仕事をさせられるときはさすがに苦しく思った。そんなとき、幸之助は、一家再興に奔走していた父の憔悴し切った姿を思い浮かべては、自らを奮い立たせていた。そのころ、母は幸之助が小学校も卒業できないまま苦労しているのを不憫に思い、
 「郵便局の給仕になって働きながら夜学に通ってはどうか」
 と勧めてくれ、幸之助も心を動かされた。 だが、丁稚の仕事を続けた。
 「奉公を続けて、商売で身を立てよ」
 そういう父の言葉に従ったのである。その間もなく父は、母と姉、そして十一歳の幸之助を残して他界してしまった。
 幸之助は、丁稚として、頭の下げ方、言葉使いから躾まで厳しく叩き込まれているうちに、商売人、社会人としての基本動作と常識を次第に身つけるようになった。
  

2005年09月22日

*自転車販売店に住み込み働く

 幸之助は、宮田の主人の世話で、自転車販売店に住み込むことになった。船場淡路町の五代という店だった。
 幸之助はこの店で、朝五時半ごろから夜10時ごろまで働いた。自転車修理の手伝いから店の掃除、陳列商品の手入れ、走り使い、店番までと何でもこなした。自転車の仕事に興味を覚え、すぐに自転車に乗れるようになった。自転車は大部分が輸入品で、1台百円以上もする高価な品だった。発売元が宣伝、普及を図る目的で主催していた自転車レースに幸之助も出場して、何度か優勝した。レース出場の経験をしているとき、幸之助は、生まれて初めて、「激しい実力競争」の場に出る体験をしたのである。
 幸之助は、仕事中に客に頼まれてタバコを買いに走らされた。そうしているうちに「買い置き」を思いついた。自分の仕事の手を休めることもなく手間が省けた。何よりも客を待たすこともなくサービスできた。当時、タバコ20個をまとめ買いすると一個余分にもらえたので、その分が幸之助の儲けとなったうえに、客に喜ばれた。だが、他の丁稚が不平を言っているのが主人の耳に入り、この名案は、主人命令で止めざるを得なくなったという。
  

2005年09月21日

*大阪に出て火鉢屋の丁稚となる

 このような苦境のなかで、父はようやく大阪の盲唖学校で働けるようになった。幸之助は明治34年四月、和歌山市内の小学校に入学、父の仕送りで家族の生活は、やや安定してきた。幸之助が小学校四年になり、その年の秋、父から母の下に手紙が来た。
 「知り合いの宮田という火鉢屋へ、幸之助を丁稚として住み込ませたいから上阪させるように」
 母から手紙の内容を聞いた幸之助は、小学校生活に心残りだったけれど、大阪に行く決心をした。話は早く決まり、11月23日ごろ、単身で大阪に旅立つ。母は、紀の川駅(当時、南海鉄道は紀の川北岸が終点)まで見送ってきた。幸之助はまだ九歳で、母は駅舎で大阪行きと思われる乗客に、
 「子供ですが、大阪へまいりますので、あちらへ着けば迎えに来ていますが、どうか、その途中よろしく頼みます」
 と言って頭を下げて頼んでくれていた。幸之助は後々まで、このときのことを鮮明に記憶していた。
 「ぼくは、このとき母と別れる淋しさや、まだ見ぬ大阪に対するあこがれ、母が涙で話す注意の言葉、初めて汽車に乗るうれしさなどこもごも言いようのない感に打たれた。そのときの情景は、いまでもはっきりと覚えている。母の淋しそうな姿を考えると、いまでも胸を打たれる」
 そのころ、日露戦争の真っ最中だった。幸之助が丁稚として住み込んだ宮田火鉢店は、大阪の八幡筋にあり、街は活気づいていた。 幸之助は、丁稚生活を自分に与えられた運命と素直に受け取り、与えられた仕事に懸命に取り組んだ。毎日、掃除や火鉢磨き、子守や使い走りなど忙しかったけれど、辛いとは思わなかった。
 この店では、毎月1日と15日に、小遣いとして五銭ずつ与えられた。生まれて初めて自分で働いたお金を得たとき、幸之助は、
 「うれしさに母恋しさも忘れ、天にも昇る心持ちだった」
 という。だが、この火鉢屋での勤めは、三か月で終わった。主人が転業したからであった。
  

2005年09月20日

*父が相場に失敗し一家は苦難のドン底に

 松下幸之助は、明治27年11月27日、和歌山県海草郡和佐村で生まれた。父・松下正楠、母・とく枝の三男で、八人兄弟の末子であった。
 和歌山市の東郊、紀の川の南岸に位置するこの村には、樹齢八百年を超えると言われた松の木があり、松下家は、その下に先祖伝来の屋敷があった。これに因んで、姓「松下」にしたと言われている。いわゆる「旧家」であった。
 父は、村会議員になり、村役場に勤めたりしていた。かなりの田畑を持ち、生活は裕福であり、幼少時の幸之助は、何の不自由もない幸福な生活を送っていた。
 ところが、明治32年、幸之助が満四歳になったころ、一家は、大変な苦難のドン底に投げ込まれる。父が、和歌山に新設された米穀取引所に出入りしているうちに、相場が急落し、家屋敷や田畑を一気に失う羽目に陥ったからである。
 当時の日本は、日清戦争による軍需景気が加わり、経済が発展期にあり、政府指導の下で経済界が産業振興のために各地に株式や商品の取引所を新設し、国民の間で投機熱や企業熱が高まっていた。だが、好景気は長続きせず、戦後、日本経済は恐慌に見舞われたのである。
 一家は、家財の一切合財を売り払って、山市内に移り住み、知人の世話で履物屋を始めた。中学校に通っていた長兄も、四年で退学を余儀無くされ、店を手伝っていた。だが、この商売もうまく行かず、わずか二年で閉店に追い込まれた。
 父が、新しい仕事の口を探し求めて転々とし、窮乏を極めているうち、折角、紡績会社に就職していた長兄に続き、次兄、長姉が流感にかかり相次いで死去し、一家の家政は、ますます苦しくなった。
  

2005年09月16日

*「商賣戦術三十カ条」は、2・26事件の直前に書かれた

 松下幸之助がこの「商賣戦術三十カ条」を掲げたのは、昭和11年1月のことだった。41歳のときである。二又ソケットの発明で身を起こし、油の乗り切った経営者として驀進中であった。
 このころ、日本経済は、破綻の危機に見舞われ、混迷状態にあった。昭和四年10月24日に、米国ニューヨーク・ウォール街で起きた株の大暴落(「暗黒の木曜日」)を発端にした世界大恐慌を受けていたのである。
 松下幸之助が「商賣戦術三十カ条」を掲げた翌月、すなわち、昭和11年2月26日には、皇道派青年将校によるいわゆる「2・26事件」が起きている。日本は、大東亜戦争に向けて、奈落の道をころがり落ちつつあった。この世情不安な状況の下で、松下幸之助は、渾身込めて「商人の道」を示した。ことごとくが、具体的であり、二十一世紀に入った今日においても、「商いの基本」として衰えることなく、光輝いている。