2017年01月28日
信長と弥助!
前回、信長の話が出たので、ついでにもうひとつ。
信長には弥助と言う家臣がいた。
弥助はモザンビーク出身の黒人で、『信長公記』には、「切支丹国より、黒坊主参り候」「年齢は26〜27歳」「十人力の剛力」「牛のように黒き身体」と記述されている。
天正9年(1581年)に、イタリア人の宣教師(伴天連)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが奴隷として連れていたのが噂になり、それを耳にした信長が興味を示し、その黒人は信長に謁見することになった。
黒人を初めて見た信長は、「肌に墨を塗っているのであろう。」と疑い、着物を脱がせて洗わせたが、 本当に肌が黒いことがわかると、この黒人を譲り受け、珍重し、「弥助」と名づけて士分に取り立てて身近に置いた。
その後は、織田信長の側近として、森蘭丸らと共に、信長に近侍することとなる。
天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際には、弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の軍に捕縛されたが、光秀は「動物で何も知らず日本人でもない。」との理由で処刑はせず、南蛮寺に送る。
その後の弥助の消息は不明。
光秀のした処遇は「黒人に対する蔑視」と考えられる一方、「弥助を殺すことが忍びないと思った光秀が生かすために方便を使った」との見解もあり、これも真実は不明だが、光秀はかなりのインテリだったので、私としては、後者の方が正しいような気がする。
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信長には弥助と言う家臣がいた。
弥助はモザンビーク出身の黒人で、『信長公記』には、「切支丹国より、黒坊主参り候」「年齢は26〜27歳」「十人力の剛力」「牛のように黒き身体」と記述されている。
天正9年(1581年)に、イタリア人の宣教師(伴天連)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが奴隷として連れていたのが噂になり、それを耳にした信長が興味を示し、その黒人は信長に謁見することになった。
黒人を初めて見た信長は、「肌に墨を塗っているのであろう。」と疑い、着物を脱がせて洗わせたが、 本当に肌が黒いことがわかると、この黒人を譲り受け、珍重し、「弥助」と名づけて士分に取り立てて身近に置いた。
その後は、織田信長の側近として、森蘭丸らと共に、信長に近侍することとなる。
天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際には、弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の軍に捕縛されたが、光秀は「動物で何も知らず日本人でもない。」との理由で処刑はせず、南蛮寺に送る。
その後の弥助の消息は不明。
光秀のした処遇は「黒人に対する蔑視」と考えられる一方、「弥助を殺すことが忍びないと思った光秀が生かすために方便を使った」との見解もあり、これも真実は不明だが、光秀はかなりのインテリだったので、私としては、後者の方が正しいような気がする。
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itagakishika at 07:52│