2017年09月13日

毛利勝永!

徳川義直の家臣に湯田宗右衛門という者がいました。
元々は宇喜多家に仕えていましたが、関ヶ原で浪人となり、その後、大坂城に入城した際には毛利勝永の組下に入りました。
この湯田宗右衛門が、江戸時代に次のように言っています。

湯田宗右衛門:
「毛利豊前(豊前守・勝永)は旧臣・浪人に区別なく、組下の者にやさしい方であった」
「豊前守は人柄温厚であり、とかく揉めがちな大坂城にあって、譜代の者ら(大野治長等)と浪人衆(真田、後藤等)との間を取り持ち、いつもニコニコして怒らず、一度約束したことは必ず守る人で、みんなから信頼されていた」
「豊前守が、ある日こうぼやいたことがあった。『家康公が離間の策を用いるなら、たやすくこの大坂城を滅ぼせるだろう。譜代衆はその立場を誇り、虚勢を張って我々の言うことに耳を貸そうとせぬ。隠岐守(後藤又兵衛)はただ功名を挙げんと急ぐばかり。左衛門佐(真田幸村)は狷介で身内(真田旧臣)とばかり親しみ腹を割って話そうとせず、長宗我部もまた土佐衆とのみ話す。これではこの城も長くはあるまい』」

当時の大阪城内の状況がよくわかりますね。

夏の陣で、勝永は、天王寺口の戦いにおいて、最初に本多忠朝、小笠原忠脩を討ち取り、続けて、榊原・酒井・浅野・仙石・諏訪という諸大名の軍勢をも討ち破り、家康本陣の防御網をズタズタにして、徳川家康に肉薄しています。

もうりかつなが1

勝永の大奮戦にもかかわらず、毛利勝永の名は世間にあまり知られなかったため、江戸時代になり、次のように言われました。

「惜しい哉後世、真田を云て毛利を不云、是毛利が不肖歟」
(惜しいかな、後世、真田を言って毛利を言わず。)


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