2020年03月26日

明暦の大火と保科正之

現在、江戸城に天守閣はありません。
明暦三年(1657年)におきた明暦の大火(振袖火事)で消失して、その後、再建されておりません。
この明暦の大火の時に、大活躍したのが保科正之。
この人は、二代将軍・徳川秀忠が大工の娘に産ませた子供です。
つまり、三代将軍・家光の異母弟になります。
家光にその人柄・能力を認められ重用された人物で、家光は死に臨んで枕頭に正之を呼び寄せ、「あとを頼む!」と言い残した・・・とされています。
三代将軍・家光、および、四代将軍・家綱を補佐した人物です。

明暦の大火の時、江戸城天守閣が燃え、江戸城内が危険な状態になったのを見て、老中など幕閣は「徳川家菩提寺・上野寛永寺への将軍・家綱の避難」を提案しましたが、正之は「将軍たるものが火事に怯えて天下の府城から逃げ出すようでは鼎の軽重を問われる。避難先は江戸城内・西の丸でいい。」と主張しました。

また、
浅草の米蔵が危なくなった時にも、「米蔵の火を消して、米を持ちだした者には、ソレを与える」という布令を出すと、窮民たちは張り切って火消しをし、米も燃えずにすみました。

更に、
復興のために、幕閣の反対を押し切って、御金蔵のお金を旗本・御家人・町方に救助金として与え、江戸の復興に尽力しました。
また、大災害後に起こる物価高騰も厳しくチェックしました。

保科正之のすごいところは、江戸を復興するにあたり、江戸を火事に強い街に変えたことです。
・藁葺き・茅葺きの屋根を瓦屋根に変えた
・板塀は土塀に変えた
・道を拡幅して向かい側に火の粉が飛ばないようにした
・大火が起きた時に備えて、避難所とするために、広小路、火徐地を設けた
などなど・・・。

ここまで、様々な復興策を講じた保科正之ですが、江戸城天守閣の再建は絶対に認めませんでした。
その理由が、
・天守閣は戦国大名の見栄でしかない
・天守閣が合戦で役立った例は無い
・今は武家も町家も自宅再建を急ぐべきであり、天守閣の再建などは不要である
・天守閣を作る費用があるなら、それは江戸の街の再建・発展のために使うべきである

というわけで、江戸城には天守閣が無いのです。

保科正之は、本当にスゴイ人だよなぁ・・・。

ほしなまさゆき









・・・・・・。

本を読め!
人と会え!
街を歩け!

それでは、今日もよい一日を!

twitterも見てね〜!

https://twitter.com/itagakishika



人気ブログランキング  ←←←←←クリック、お願いします!

itagakishika at 16:51│
Profile

板垣 正弘

Archives