作文 昭和22年給食のこと

卒業文集から私の小学校1年生の給食のことを思い出しました。
給食22年

左図が私たちが始めて目にした学校給食らしいのですが、左にあるトマトシチューはなかったと思います。

都会にはこんな献立が出ていたのでしょうか、脱脂粉乳の記憶しかありません。そして器はアルマイトといって、アルミとなんかが混じった食器だと記憶があります。

梅干を置いたりしておくと穴が開いてしまうそんな器だと記憶があります。
もう少し学校給食歴史をおさらいしましょう。

つまり始まりは、占領軍自身でなく、ララ(アジア救済公認団体)がテストして、その後全国すべての学校に均一の給食を行うことになりました。

昭和25年からもう一歩進んだ給食になっていくのですが、そのことは作文の進行につれて書いていきたいと思います。

とにかく大半の、私たちの同級生は食べられることは本当に良かった。とにかく遊びで走り回る年齢で、食べられないのは苦痛以外何者でもなく、食べられるものなら何でも食べました。


一番かんたんで、どこにでもある食べ物としてスカンポとか何とか呼んでいたのですが、要するにイタドリ(春の雑草)で、折るとぽかんと言う音がしてその皮をむいて食べました。

すっぱくて水っぽい植物、今でも春にはどこにでも芽を出します、おなかがはるような食べ物ではありませんが、結構足しにはなりました。

また、どぶにはドジョウがいて、アカムシ(イトミミズ)をえさとして育っていたのでしょう、泥のままつかまえて上の少しきれいな水でさらさらと洗うと、そのまま生で食べたこともあります。

すごいことです、糸ミミズはトイレの便槽やどぶに発生する汚泥や汚物を食べて生きているのですから、それを食べるドジョウをまた子供の私が食べてしまったのです。
本当によく病気にならなかったものですね。

勿論下痢や何かはしょっちゅうありましたが、深刻な病気などになったことはありませんでした。

こんな食状況ですから、腸内にはさまざまな虫,回虫やギョウチュウと共生してました。その話は後ほど作文とともにご紹介いたします。

この年昭和22年は終戦から1年ちょっとしかたっていず、すごい衛生状態でした。

これから以後、このおなかの虫たちとの戦いになります。


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