2005年07月20日

責任追及の際必然的に生じる等価交換の等価性について

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養老孟司を語る上で欠かせない経験は終戦と父君の死だろう。氏は終戦によって大人の社会が全面的に間違うことがあると肌身で知った。この「肌身で」というところが肝要だろうと思う。しかし俺のように1967年というもはや高度成長も終了間近という時期に生まれた者にとって終戦によるパラダイムの全面的な転換という経験が一体どのようなものだったかは、「肌身」では、いまだに理解できないでいる。確かに我々の世代にとっても国・社会が進むべき方向を間違えたのだなと認識できる事件がいくつかあるが、どれもこれも終戦に比べれば表現の不謹慎を恐れずに書けば「小粒」である。氏のように、そうした間違いと無縁な確実さをもったものを真摯に追究させるほど衝撃的で深刻な間違いは少なかった。しかも現在それらの間違いの事後処理が粛々と進行中でもある。私が思うに「責任」とは何事かをやりっぱなしで放置されてその始末を図らずもさせられることになった人々が逃げたヤツらを捕まえて始末をさせるか始末をさせるのと同程度に咎めるための概念である。しかし往々にして事後の「イヤなこと」の交換は等価性が厳しく吟味されてしまうため、延々ともめる。最も厳しい吟味をすればそんなタイムラグのある交換に等価などあり得ないので、こうした「等価性の吟味」は皮肉にも咎められる側にとって有効な反撃手段となる。またアカの他人のしたことの始末を図らずもさせられていること自体が既に責任を追及する側の善良さの紛れのない証明となっており、現にそのように善良であるためどうしても追及の手は甘くなりがちで、最終的に最初にやられた側が不当な負担を抱えたままの形で決着がつく。世間のやられっぱなしの構図とはこのようなものだ。こうしたことに理解のある人間同士の解決の意志のあるもめごと処理はさほどもめない。等価性を厳しく吟味する不毛を知っているからである。しかしそうでない人々のもめごとは悲惨である。あまりに延々と揉めているので参加者全員が一番厳しい罰を遙かに超える苦労をしていたりする。地球上でもっとも熾烈な「等価交換の吟味」は中東で起こっているそれだろう。どんなに明確な違いであれ違いに目をやること自体がしばしば既に罪なのかもしれない。ここを俺はずっと保留している。

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itobun at 10:41│Comments(2)TrackBack(0)この記事をクリップ!日々雑感 

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この記事へのコメント

1. Posted by toshi   2005年07月20日 23:37
こんばんは。たいへん興味のあるエントリーです。
刑事裁判も、そのような「等価性」と関係はあると思うのですが、実際のところ裁判官はいわゆる「相場」ばかりを気にしていて、「等価性」というところには目を向けません。ときどき、相場よりも等価性にずばり切り込む裁判官もいますが、そういったときは検察官か弁護人がビックリして、控訴するというのがオチです。いや、よく考えてみると、これは単に「見せしめのための等価性もどき」かもしれません。過去の過ちについて、等価性を吟味する、ということは本当は人間の能力を超えているのかもしれません。
たいへん勉強になります。続編があれば(ないかな・・)また期待しています。
2. Posted by bun   2005年07月21日 06:08
これは大変ありがたいお言葉をいただきました。おっしゃる通りで法曹関係のみなさんは大変な仕事をされていると思っています。「相場」で裁かれるというのはごく個人的あるいは私的なものを市場に売りに出したときのような何とも言えないやるせなさを残しますね。

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