2006年02月14日

ある意味で最も人工的なシステムである「市場」が、養老先生が指摘する自然性を、目下最ももつものとして私には認識されている、そのような皮肉について



経済の先生がよく授業の最初でエクスキューズするのだが、収入と名誉と社会的地位を同時に手に入れることはできないそうだ。しかし経済学部出たらどんな資産でもどんな景気でも平均でせめて年利5%以上でまわせなきゃおかしいんでないのと強気に思う。それくらいの知識はつくし、経済学士が利益を上げられる程度に日本の市場はまだ非効率である(笑)。

そんな強気の一方で。養老先生の「超バカの壁」読了。こうなったらもう、書かれるものは全て読むことにする。以下は最も印象的だった部分。この本で初めて経済学に本格的に言及されたのではないか。これまではずっと本当に金のことを考えるのがイヤなんだろうなあという印象だった。手元にお金が余っていると誰か困っているのではないかと落ち着かなくなるのだそうだ。なんという美しい金銭感覚であろうか。私はその旨の文章を読んだとき、なぜか、アイシュワリヤ・ラーイ主演のインド映画「ミモラ」を見た直後のような衝撃を受けた。あの映画では、主演のアイシュワリヤ・ラーイが、大して愛してもいなかったが無理やり結婚させられたインド人の夫と一緒に、イタリアまで、忘れられないでいる元恋人を探しに行き、道中夫の優しさに触れるうちにいつしか夫を心から愛するようになる。この展開が大変に意外で、自分が不義を当然と思う方向に汚れちまっているのを思い知らされたのだった。汚れちまった悲しみに、である。この私の「汚れ」は金妻以来であろうか、石田純一の文化発言以来であろうか。


  「 経済学は現実には役に立たないということがよく指摘されるようになりました。それ
   は当然のことで、極めて複雑な社会システムを扱う際に、学問のわかりやすい原理を導
   入して予測がつくと思っているのが間違いだったということです。少なくともそのこと
   を経済学は証明してくれている。NHKの調査について述べたことと同じなのはおわか
   りでしょう。
    ここで、経済学をやっても意味がないと考えてはいけないのです。こんなに一生懸命
   やったのに、やっぱり答えが出ないということがわかった。よくわからないということ
   がわかった。それは意味のあることではないでしょうか
。」(「超バカの壁」pp170)


私は意味がないことと思ったことはなかったが、それにしても専門でない方の援護射撃というのは卑近な政治性がない分だけうれしいものである。ありがとう養老先生(涙)w。

しかしながらひとつだけ付け加えるとすれば。養老先生は現代社会を「脳化社会」といい、大脳新皮質のアホなところ(たとえば我々は3分の1寝ているのに人生を連続したものと勝手に思っていて寝ている間の自分の存在を認識しないところ、等々)をことごとく指摘しておられるのだが、遅れてきた私は、先生が批判しておられるほど「ああすればこうなる」とは思っていない一方で、そうした自然性というか、「ああしてもこうならない、そのならなさ」を、「自然」が失われた現代社会のどこから学んだかと言うと、先生が現代社会の最も脳化された部分と見なしておられるであろう、「市場」から、なのである。私にとっては既に先生が見ておられるような、昭和40年以前の日本や、ブータンのような自然は、「頭になく」、あの、市場の予測不可能性とか「万事塞翁が馬」性が、先生が言及される「自然」なるものの代表例として、思い浮かんでしまう始末なのだ。運用とか投資ということに関わらなければ見られない「自然」がある。

もしかしたら嘆かわしい事態なのかもしれないのだが、私もこの、ひとりではどうにもならない社会を、生きなければならない。それは先生と同じである。先生は若い者にいろいろと言うと「先生はもう巧なり名なり遂げていらっしゃいますから」とお茶を濁され、それがご不満である旨も読んだ記憶があるが、そう申し上げたくなる気持ちもまた、わからぬでもない。

みんな、同じ。

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itobun at 00:01│Comments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!日々雑感 | 市場経済・経済理論

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