※追記部分は赤字で示しております。

JIS補助漢字に「韷」という字がある。音はラク。形声文字ではなさそうだ。
無性にこの字が気になったので、少し調べてみた。

とりあえず『大漢和辞典』を引いてみると、巻一二、p.224に、
漢音ラク、呉音リヤク 〔篇海〕力虢切 [陌]
音聲がかまびすしい。〔篇海〕韷、音聲煩鬧也。
とのみある。
※以下に引用する辞書類の本文は、おおむね国学大師の影印に拠っております。

『康煕字典』には、

【篇海】力虢切,音礐。音聲煩鬧也。

とある。

「礐」は普通カクと読むが、確かに広韻に麦韻来母の小韻代表字として見える(力摘切)。なお、麦韻・陌韻・昔韻(平水韻の陌韻)で来母字は、「礐」と同じ小韻の「𥖪」のみである。それぞれの注は次の通り(テキストは廣韻検索による)。
礐:「礐硞,水石聲也。<f>力摘切</f>。二。」
𥖪:「𥖪礋,打器󠄁,出《字林》。」
「礐硞」の語は、『文選』巻一二に収められる郭璞『江賦』に「幽𧯎積岨,礐硞䃕礭」と見え、李善注には「礐」に対して「力隔反」、また「礐硞䃕礭,皆水激石嶮峻不平之貌」とある。川の水が石に激しくぶつかる音ということであろうか。オノマトペであろう。


『(四声)篇海』はどれに拠るのがいいか存じ上げないが、とりあえず京大の明刊本を見てみると、
力虢切。音声煩鬧也。
とあって、「音礐」はない(左10行目)。康煕字典の増補か。あるいは違うバージョンの篇海なのか。




『龍龕手鏡』には、次のようにある。
留號反。音声煩鬧也。
入声字に分類されているので、「號」は「虢」の誤りと見てよいであろう。
見誤りで、「號」ではなく「虢」(寸が丂になった字形、篇海と同)でした(ramayakat氏よりご教示)。
なお、「」は「畹」の異体字とされますが、『龍龕手鏡』では親字の「留」を「㽜」の字体で掲出しているようなので、ここでは「留」と同じと見てよいと思われます。


『字彙』では、直音注の字が異なる。「将」は不審である。
これも見誤りで、「将」ではなく、来母字の「捋」でした。「捋」はt入声字ですが、近世字書の直音注では入声韻尾が合流し混乱していることが多いようです(ramayakat氏よりご教示)。



力虢切。音。音聲煩鬧也。

『正字通』では、次の通り。
俗字。舊註音、聲音煩鬧、非。

こんな感じで、「漢籍リポジトリ」や「中国哲学書電子化計画」、「大蔵経データベース」などでも字典類以外の用例がまったく見えない字なのである。現代中国語の辞典にも見当たらない。
「礐」と関係ありそうな気もするけど、字義がちょっと異なり、結局よく分からない。これ以上どう追求できるのか自分には分からない。


そんな字が、なぜJIS補助漢字に含まれているのか謎である。

JIS補助漢字の典拠についてはよく知らないが、ウィキペディアによれば、「JIS X 0212の制定には国文学研究資料館(当時)の田嶋一夫が大きく関与して、国文学研究資料館の書誌データベース構築における研究成果に基づいた文字選定を行っており、学問研究向きの文字集合となっている」そうである。


で、この字で色々検索してみると、

石川啄木が「秋韷笛語(しゅうらくてきご)」という日記を遺していることが分かった。そしてその全文は、このサイトでテキスト化されている。啄木が高校を卒業し、盛岡から上京した際の日記で、『啄木全集 第13集』に収録されているらしい。これが典拠の可能性が大きいのではないだろうか。
しかし、なぜこんなよく分からない字を題に選んだのだろうか。

序末に、次の歌が詠まれている。
「装ひては花の香による蝶の羽 秋は韷れの笛によろしき」


この「韷れ」、「おとづれ」と読ませているそうだ。
発想としては、「音+出づれ(あるいは「い」を脱した後の「づれ」)」だろうか。もっとも、「出づれ」は已然形となり、ちょっと変だけども。

啄木は、「韷」という漢字に面白さを覚え、独自の訓・独自の用法を編み出したのだろうか。


約120年前の18歳がこのような文章を書いていたことへは畏敬の念がぬぐえない。内容については、節々に「18歳」を勝手に感じた面もある。
とはいえ、近代文学・近代短歌を鑑賞する素養を、自分は全く持ち合わせていないため、中身についてはこれ以上何も言えまい。