2006年05月27日

ゆはずの清水

 関跡の北側の小道を少し下った所に、羊歯(しだ)におおわれた岩のくぼみがあります。そこから、今でもきれいな清水が、こんこんとわき出ています。
 これはむかし八幡太郎義家がここを通り、のどが渇き、水がなくて困りはてて、神さまにお祈りして、弓の端で掘ったら、きれいな清水がわき出たので、「ゆはずの清水」といわれ、また矢尻の清水ともいわれています。

勿来の関跡

iwaki_minwa at 14:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0)勿来(なこそ)地区 

再開します

久々の更新です。

1月上旬から映画「フラガール」の受入れなどで多忙だったため一時中断していましたが、再開したいと思います。


iwaki_minwa at 14:02|PermalinkComments(0)TrackBack(0)管理人日記 

2005年12月27日

浦島太郎の誕生地

 下仁井田の明神前に諏訪神社がありますが、むかしこの神社が建立される前は、仁井田重兵衛の住んでいた屋敷だ、と伝えられ、この土地の人々はここを称して、浦島太郎の誕生の地といい伝えています。

 芳賀次郎兵衛が書いたものには、「下仁井田は昔物語の浦島太郎の誕生地という、今の諏訪神社の鎮座するところが、その屋敷跡で、ある日、浦人が亀を捕らえた所に浦島が通りかかり、金を与え、酒を求めて、捕らえた人や亀に呑ませて放した。
ある日、浦島が釣をしようと、小舟に乗り沖へこぎ出ると、沖合いのはるか彼方より、竜宮から乙姫様が、亀に乗り迎えにきた。
浦島は迎えられるままに、竜宮にくると、美しいこと、金の城というか、たとえようもなく、助けられた恩人として、鄭重なる饗宴を受け、面白く飽きることもなく、ついに帰ることを忘れて、二、三年と思ったのが、三百年余の年月が経ち、にわかに故郷が恋しくなり、帰ることになりました。
亀は恩返しとして、浦島を甲に乗せ送った。故郷へ帰ると、家は朽ち果てて跡形もなく、余りの心細さに、開けてはならないと教え授けられた玉手箱を、開いてしまった。見る見るうちに老い果てたという」と、記されており、これが当地方に伝わる浦島太郎の伝説、といわれています。

iwaki_minwa at 16:06|PermalinkComments(0)TrackBack(0)四倉(よつくら)地区 

2005年10月29日

雨降り地藏さま

 藤原町の建徳寺の山門左側に、「雨降り地蔵さま」と称される、一体の地蔵が建っています。
その地蔵さまには享保十八年(一七三三)とあることから、およそ二七〇年ほど前に建てられたもので、この寺の住職肇林和尚が建立したといわれております。

 むかし、日照りのとき、田畑の作物がみな枯れる有り様で、農民たちは困ってしまい、この地蔵さまに三日の内にとか、五日の内に雨が降るようにとかの願いをかけた、と伝えられています。

 昭和五十年(一九七五)夏の日照りには、田畑の作物がみな枯れそうになり、樹木の実は落ちてしまいました。この時、地区の人達が集まり。「雨降り地蔵さま」にお願いしようということで、日をきめてお願いしました。ところが驚いたことには、満願の日の夜になり、ザァーという音に目を覚ますと、今まで満天に星がかがやいていた空は、一天にわかにかき曇り雨となって、畑の野菜類は、青々と生気を取りもどしてきました。

 それ以来、むかしにもまして、地蔵さまのご利益が一段と高くなったそうです。


(「われらが郷土岩崎」)

iwaki_minwa at 13:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0)常磐地区 

2005年08月29日

阿弥陀堂の宝物

 徳尼御前は、白水に阿弥陀堂を建てた時、将来の維持や修理に備えて、宝物を地下に埋めた、と伝えられています。その宝を埋めた場所は、「朝日さし夕日かがやくその下に、うるし千ばい、黄金千ばい」と歌にしてある所を伝えた、といわれています。

 阿弥陀堂に東には夕日不動、西には朝日不動があり、またお堂の後ろの山の頂上には経塚があります。
 いつのころかわかりませんが、この経塚こそは、徳尼御前が歌で残した宝物を埋めた所だろうと、というので、盗掘されてしまったそうです。

(話者 高原重吉氏)

iwaki_minwa at 16:42|PermalinkComments(2)TrackBack(1)内郷(うちごう)地区 

2005年08月19日

富岡の岩穴

 南富岡に富士に似た山があり、別名を「おふんちゃん」と呼ばれていました。
 その山の昇り口に岩穴があり、入口はせまいのですが、だんだん奥に入るにしたがって広くなり、五十間(約九十メートル)ぐらい行くと、広さ二間ぐらいのところに行きつきます。ここは、行き止まりですが、東北の方向に二尺(六十センチ)ばかりの穴が二つ、東南の方向に同じ大きさの穴が一つあり、この穴じゃらは、大風が吹き込んでいました。
 そのむかし、小名浜の西町にいた行人が、この穴へ入り、再びもどってこなかった、という話があり、元禄(一六八八〜)の初めに、市作という人が、入ろうとしましたが、途中で逃げ出したといわれています。

(『綱要石城郡町村史』)

iwaki_minwa at 16:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)磐城(いわき)地区 

2005年08月09日

白鳥物語

 むかし、石城(いわき)の国はアイヌ人の村が沢山あり、海の獲物、山の獲物にめぐまれて、人々は毎日毎日を平和に暮らしていました。

 景行天皇の頃、悪者の集団ができ、その勢力が大きくなり砦を造って、村を荒らしはじめましたので、人々は大変困っていました。その話が風のたよりに、大和の国へも聞こえ、天皇は非常に心配され、さっそく武内宿祢(たけしうちのすくね)に、石城の国の視察を命じました。宿祢は都をあとにして、一年七ヶ月を費やし、日高見の境である石城の土地を、すみずみまで視察して帰りました。

 この報告によると、石城の悪者共は、男女共にいれずみをして、土を掘り、つねに穴に住み、官兵を見ると穴にかくれ、兵が去れば外に出てうかがい、あばれたり食料を盗むなどはなはだしく、木の上などより、巡察の官兵を弓矢で射るので、困っているとのことでした。

 天皇は悪者をおい出すために、日本武尊(やまとたけるのみこと)を石城の国へさし向けました。その一行は、箱根の嶮を越えて相模の国より上総へ渡り、それから船で海岸沿いに北に進み、小名浜沖へ着きました。
 はじめはどこへ上陸しようかと考え、兵を出して探索させてみると、巨人が多く見られる泉の砦は、守りがかたそうなので、さけた方がよい、との報告をうけました。
 それで船を湾の奥、川に沿って湯ノ岳に麓まで入れたところ、川岸にたくさん白千鳥が見られ、あの付近より上陸すれば、かならず勝つことが出来ると信じて上陸しました。すると、川口の丘の砦は、すぐに落すことが出来て、大勝利をおさめました。

 白千鳥の見つけたところを白鳥(しらとり)、初めての戦いの丘を勝丘と名づけました。その後、勝丘に本陣をおいて、石城の悪者共を全部追い出してしまいました。そして、再び平和が訪れました。
 日本武尊の一行は目的を達し、村の多数の人に送られて、日立を通り尾張の国へ帰ったそうです。

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管理人追記
本文中の「白鳥」「勝丘」は、いわき市常磐白鳥町勝丘として現在も地名に残っています。


iwaki_minwa at 17:53|PermalinkComments(0)TrackBack(0)常磐地区 
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このブログは、「いわき地方史研究会」の許可を得ていわきで伝承されている伝説や民話の紹介のほか、いわき市全体の紹介をしていきたいと思います。

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