2010年01月01日
年の始めって、いつ?
十一月十七日 辛亥
一年の始まりって、いったい、いつなのだろう?
早々に配達された年賀状を、一枚また一枚、手にとって読みながら、ふと、そんな事を考えた。「新年、おめでとう」といい、「あたらしき年を迎え」というのは、今日の日の事に違いない。今日は、2010年1月1日、今年の、第一日目なのである。
だがそれは、現在使われている暦、「グレゴリオ暦」による暦日である。この現行暦が用いられるようになったのは、明治6年(1873)1月1日の改暦以降。それ以前の暦、太陰太陽暦は、俗に「旧暦」といわれている。
日本に暦が入って来てから、明治6年に改暦するまでの長い間、人々はこの「太陰太陽暦」を用いて生活してきた。その頃の年の始まりとは、この「旧暦」の1月1日だったのである。そして、この習慣は、現行暦が行われた後も、農村などでは近年まで残っていたものである。
だが、現代の日本では、旧暦で正月を祝う事はほとんど無くなった。しかし、他の東アジアの国々では、むしろ旧正月の方が一般的である。
さて、旧正月と並んで、もう一つの「年の始まり」がある。それは、「立春」を一年の始まりとする考えである。
折口信夫は「鬼を追い払う夜」という随筆の中で(「折口信夫全集 第三十巻」中央公論社)、このように述べている。
『昔から春と新しい年とが、同時に来るものと言う考えが、習慣の様に人々の頭にこびりついて居るので、立春が新しい春その前夜を意味する節分は、旧年の最後の夜という風に思われて居ました。だから、節分の事を「年越し」という地方も多いのです。年越しは、大晦日と同じ意味に用いる語です。』
春は、物が皆芽吹いてくる「時」である。これから伸び盛んになろうという、生気の生ずる「時」である。年の始まりも、また同じである。
「新春」といい、「迎春」というように、新しき年は春と共におとずれる、とする考えは、人の自然な感情のように思われる。
一年の始まりって、いったい、いつなのだろう?
早々に配達された年賀状を、一枚また一枚、手にとって読みながら、ふと、そんな事を考えた。「新年、おめでとう」といい、「あたらしき年を迎え」というのは、今日の日の事に違いない。今日は、2010年1月1日、今年の、第一日目なのである。
だがそれは、現在使われている暦、「グレゴリオ暦」による暦日である。この現行暦が用いられるようになったのは、明治6年(1873)1月1日の改暦以降。それ以前の暦、太陰太陽暦は、俗に「旧暦」といわれている。
日本に暦が入って来てから、明治6年に改暦するまでの長い間、人々はこの「太陰太陽暦」を用いて生活してきた。その頃の年の始まりとは、この「旧暦」の1月1日だったのである。そして、この習慣は、現行暦が行われた後も、農村などでは近年まで残っていたものである。
だが、現代の日本では、旧暦で正月を祝う事はほとんど無くなった。しかし、他の東アジアの国々では、むしろ旧正月の方が一般的である。
さて、旧正月と並んで、もう一つの「年の始まり」がある。それは、「立春」を一年の始まりとする考えである。
折口信夫は「鬼を追い払う夜」という随筆の中で(「折口信夫全集 第三十巻」中央公論社)、このように述べている。
『昔から春と新しい年とが、同時に来るものと言う考えが、習慣の様に人々の頭にこびりついて居るので、立春が新しい春その前夜を意味する節分は、旧年の最後の夜という風に思われて居ました。だから、節分の事を「年越し」という地方も多いのです。年越しは、大晦日と同じ意味に用いる語です。』
春は、物が皆芽吹いてくる「時」である。これから伸び盛んになろうという、生気の生ずる「時」である。年の始まりも、また同じである。
「新春」といい、「迎春」というように、新しき年は春と共におとずれる、とする考えは、人の自然な感情のように思われる。
2009年12月25日
〈命を診る〉ということ
〈命を診る〉ということ
十一月十日 甲辰
人の命数を計算する技術があることを、御存知だろうか。
古人は、この世界はすべて、自然界も人間も、あらゆるものは〈気〉によって成り立っていると考えていた。人の命運にさまざまな違いが出来るのは、生まれた時に天から稟けた〈気〉の相違によって、差が生ずるのだと考えた。
「命理」とは、この生まれた時の〈気〉を計算する方法であり、生まれた〈時〉すなわち、生年・月・日・時の四つの干支の相互の関係を、陰陽五行の方法を用いて推算する技術である。
ところで、人の命運は、すべてこの生まれた〈時〉の干支によって決定されてしまうのだろうか?
生年月日時の干支で示されるものは、単に天より稟けた〈気〉だけである。生まれた時に稟けた天地の〈気〉が、その人の命運の基本になることは言うまでもないが、しかし、実際に人の命運を推断する場合には、天命・地利・人事の三者を合わせて診ることが、大切である。
たとえば、畑で作物を育てようとする場合には、先ず種が良いかどうか、次にその種によく合った土壌であるかどうか、そして、種を播いた後は、手入れが適当であるかどうかを考慮する。これらがうまくいって、はじめてりっぱな作物が育つのだ。良い品種であっても、その土地に合わなければ育たないし、その後の灌漑や施肥が適切でなかったら、やはり作物は育たない。
ここでいう品種とは、生まれた時に稟けた先天の気(天命)のことであり、土壌とは、生まれ育った環境のこと(地利)、灌漑や施肥とは、人の努力(人事)のことである。先哲が言っているところの「勤勉と倹約で貧窮を救い、摂生して夭を治す」という言葉は、まさにこの人事のことであり、人の力で当然尽くすべきものである。
〈命を診る〉ということは、生まれ持った先天の資質を知って、それを充分に活しきることができるよう、工夫し努力することにほかならない。
十一月十日 甲辰
人の命数を計算する技術があることを、御存知だろうか。
古人は、この世界はすべて、自然界も人間も、あらゆるものは〈気〉によって成り立っていると考えていた。人の命運にさまざまな違いが出来るのは、生まれた時に天から稟けた〈気〉の相違によって、差が生ずるのだと考えた。
「命理」とは、この生まれた時の〈気〉を計算する方法であり、生まれた〈時〉すなわち、生年・月・日・時の四つの干支の相互の関係を、陰陽五行の方法を用いて推算する技術である。
ところで、人の命運は、すべてこの生まれた〈時〉の干支によって決定されてしまうのだろうか?
生年月日時の干支で示されるものは、単に天より稟けた〈気〉だけである。生まれた時に稟けた天地の〈気〉が、その人の命運の基本になることは言うまでもないが、しかし、実際に人の命運を推断する場合には、天命・地利・人事の三者を合わせて診ることが、大切である。
たとえば、畑で作物を育てようとする場合には、先ず種が良いかどうか、次にその種によく合った土壌であるかどうか、そして、種を播いた後は、手入れが適当であるかどうかを考慮する。これらがうまくいって、はじめてりっぱな作物が育つのだ。良い品種であっても、その土地に合わなければ育たないし、その後の灌漑や施肥が適切でなかったら、やはり作物は育たない。
ここでいう品種とは、生まれた時に稟けた先天の気(天命)のことであり、土壌とは、生まれ育った環境のこと(地利)、灌漑や施肥とは、人の努力(人事)のことである。先哲が言っているところの「勤勉と倹約で貧窮を救い、摂生して夭を治す」という言葉は、まさにこの人事のことであり、人の力で当然尽くすべきものである。
〈命を診る〉ということは、生まれ持った先天の資質を知って、それを充分に活しきることができるよう、工夫し努力することにほかならない。
2009年01月26日
2008年12月28日
年筮…筮して卦を得たら
十二月二日 壬寅
早くも、年筮をして得た卦を知らせるたよりが、何通か届いている。
ところで、筮して得た卦は、占う事柄の全体を、象徴的に表示したものである。それは、「その環境」でもあり、「その時代」でもあり、「その問題をとりまく状況」を示している場合でもある。
爻位は、そういった状況の中における「位置」を示している。同じ状況の中に在っても、その居る位置、つまり立場や役割が違う事によって、事がうまく運んだり、あるいは、つまずいて難儀をしたり、という結果の相違がでてくるわけである。同じ環境の中においても、吉凶が分かれる所以である。
年筮は、一年間の自分の状態という、漠然としたものを占の対象にしている。
したがって、そこに示される占示も、漠然とした抽象的なものになる事が多いものである。
ですから、年筮からは、自分のこれからの一年間のおおよそのイメージを得る、あるいは、これからの一年間における「注意すべき点」を警告として受け取る、というような事を主に、読み取っていくようにするとよいだろう。
したがって、年筮の得卦の細かな点にとらわれて、それに振り回されてしまうようでは、かえって有害なものになってしまう。
善い占を示されれば、その善い所が現実となるように努め、あまり良くない占を示されたときには、そのようにならないように、という戒めであると受け取って、自戒してゆくようにする。そうすれば、たとえそれがどちらの占示であっても、自身のためになる。
筮して得た卦を解読するには、先ずは卦の持つ意味をよく理解する事が大切である。
次に、卦・爻の象を観察し、卦・爻の辞の意味するところを読みとり、次に、その意味の比喩的な表現を、自分の事に引き当てて解釈してみる。
そして、そこから何らかのメッセージを読み取る事ができたならば、もうそれだけで、充分に年筮の役割は果たせた、と言っていいだろう。
具体的な問題があって、占断を必要とする場合には、その都度、年筮とは別個に、その問題を占に問うようにするのが良い。より具体的な解答が得られるであろう。
(写真をクリックすると、大きく表示されます)
早くも、年筮をして得た卦を知らせるたよりが、何通か届いている。
ところで、筮して得た卦は、占う事柄の全体を、象徴的に表示したものである。それは、「その環境」でもあり、「その時代」でもあり、「その問題をとりまく状況」を示している場合でもある。
爻位は、そういった状況の中における「位置」を示している。同じ状況の中に在っても、その居る位置、つまり立場や役割が違う事によって、事がうまく運んだり、あるいは、つまずいて難儀をしたり、という結果の相違がでてくるわけである。同じ環境の中においても、吉凶が分かれる所以である。
年筮は、一年間の自分の状態という、漠然としたものを占の対象にしている。
したがって、そこに示される占示も、漠然とした抽象的なものになる事が多いものである。
ですから、年筮からは、自分のこれからの一年間のおおよそのイメージを得る、あるいは、これからの一年間における「注意すべき点」を警告として受け取る、というような事を主に、読み取っていくようにするとよいだろう。
したがって、年筮の得卦の細かな点にとらわれて、それに振り回されてしまうようでは、かえって有害なものになってしまう。
善い占を示されれば、その善い所が現実となるように努め、あまり良くない占を示されたときには、そのようにならないように、という戒めであると受け取って、自戒してゆくようにする。そうすれば、たとえそれがどちらの占示であっても、自身のためになる。
筮して得た卦を解読するには、先ずは卦の持つ意味をよく理解する事が大切である。
次に、卦・爻の象を観察し、卦・爻の辞の意味するところを読みとり、次に、その意味の比喩的な表現を、自分の事に引き当てて解釈してみる。
そして、そこから何らかのメッセージを読み取る事ができたならば、もうそれだけで、充分に年筮の役割は果たせた、と言っていいだろう。
具体的な問題があって、占断を必要とする場合には、その都度、年筮とは別個に、その問題を占に問うようにするのが良い。より具体的な解答が得られるであろう。
(写真をクリックすると、大きく表示されます)
2008年12月21日
年筮を執ってみませんか
十一月二十四日 乙未 冬至
今日は、12月21日(日曜)冬至である。年筮を執ってみませんか。
「年筮」とは、筮して得た卦を以て、一年の吉凶を占うものである。毎月の吉凶は、月のはじめに筮して、その月の吉凶を察するとよい。
冬至は、一年の気の流れの中では、陽の気が初めて生ずる時、「一陽来復」の時であり、陰陽の気の上では、一年の始めの時にあたる。易の卦では「地雷復」である。
この、陽の気がはじめて生ずる、という時点において、その後の一年間の自分の運気を占うという習慣が、易を学ぶ者の間では、昔から受け継がれてきた。
こうした事から、易の会では、毎年この日に、各々が自分のこれからの一年の運気について占筮して、年が明けた最初の会の時にそれを持ち寄り、「年筮会」と称して、互いにいろいろ意見を出し合って検討する、という事を恒例としている。
そんなわけで、冬至の日にはぜひ「年筮」を執って、来年一年間のご自分の運気を占ってみてはどうだろう。
冬至の日に都合が悪くてできなかった場合は、本来の意義からは、はずれてしまうが、年の始めである正月に筮を執れば良いと思う。
善い占を示されれば、その善い所が現実のものとなるように努め、あまり良くない占を示されれば、そのようにならないように、という戒めであると受け取って自戒してゆくようにすれば、たとえどちらの占であっても、身のためになるだろう。
(写真をクリックすると、大きく表示されます)
今日は、12月21日(日曜)冬至である。年筮を執ってみませんか。
「年筮」とは、筮して得た卦を以て、一年の吉凶を占うものである。毎月の吉凶は、月のはじめに筮して、その月の吉凶を察するとよい。
冬至は、一年の気の流れの中では、陽の気が初めて生ずる時、「一陽来復」の時であり、陰陽の気の上では、一年の始めの時にあたる。易の卦では「地雷復」である。
この、陽の気がはじめて生ずる、という時点において、その後の一年間の自分の運気を占うという習慣が、易を学ぶ者の間では、昔から受け継がれてきた。
こうした事から、易の会では、毎年この日に、各々が自分のこれからの一年の運気について占筮して、年が明けた最初の会の時にそれを持ち寄り、「年筮会」と称して、互いにいろいろ意見を出し合って検討する、という事を恒例としている。
そんなわけで、冬至の日にはぜひ「年筮」を執って、来年一年間のご自分の運気を占ってみてはどうだろう。
冬至の日に都合が悪くてできなかった場合は、本来の意義からは、はずれてしまうが、年の始めである正月に筮を執れば良いと思う。
善い占を示されれば、その善い所が現実のものとなるように努め、あまり良くない占を示されれば、そのようにならないように、という戒めであると受け取って自戒してゆくようにすれば、たとえどちらの占であっても、身のためになるだろう。
(写真をクリックすると、大きく表示されます)
2008年03月05日
2008年02月27日
二・二六事件…(つづき)
台座の、歩道に面した側面には、下記のような碑文が掲げられている。
碑 文 「慰霊」
昭和十一年二月二十六日未明、東京衛戌の歩兵第一、第三連隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企図していた野中四郎大尉ら青年将校に率いられて蹶起した。
当時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し、総理大臣官邸、陸軍省、警視庁等を占拠した。
斎藤内大臣、渡辺教育総監はこの襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い、岡田総理大臣、牧野前内大臣は危く難を免れた。此の間、重臣警備の任に当っていた警察官のうち五名が殉職した。
蹶起部隊に対する処置は、四日間に穏便説得工作から、紆余曲折して、強硬武力鎮圧に変転したが、二月二十九日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に終結した。世にこれを二・二六事件という。
昭和維新の企図壊えて首謀者中、野中、河野両大尉は自決、香田、安藤大尉以下十九名は軍法会議の判決により、東京陸軍刑務所に於いて刑死した。
この地はその東京陸軍刑務所の一隅であり、刑死した十九名とこれに先立つ永田事件の相沢三郎中佐が刑死した処刑場の一角である。
この因縁の地を撰び、刑死した二十名と自決二名に加え、重臣、警察官この他事件関係犠牲者一切の霊を合わせ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく、広く有志の浄財を集め、事件三十年記念の日を期して慰霊像建立を発願し、今ここにその竣工をみた。
謹んで諸霊の冥福を祈る。
昭和四十年二月二十六日
仏心会代表 河野 司誌
事件から今年(平成20年)で、満72年になる。この慰霊像が立てられてからも、満43年の年月が経過した。像の前には、今も絶えることなく花が捧げられている。
(写真をクリックすると、大きく表示されます)
2008年02月26日
今日は何の日? 二・二六事件
東京の渋谷区宇田川町の一角に、二十七尺の台座の上に十三尺の観音像が立っている。二・二六事件慰霊像である。NHK放送センターの前の、旧陸軍刑務所の所在地であったこの場所は、二・二六事件に関係した将校及び民間人が、処刑された場所なのだ。
昭和11年の2月26日は、大雪が降ったという。その未明、青年将校に率いられた決起部隊は、総理官邸・陸軍省・警視庁などを占拠した。
当局は戒厳司令部を設置し、決起部隊を包囲した。そして四日目の2月29日、ついに包囲部隊は武力鎮圧にのりだし、決起部隊の本部であった陸相官邸に突入した。その間、両軍とも一発の銃弾も撃っていない。互いに相い戦って、流血の事態になる事を避けたのである。決起部隊の将校は陸軍刑務所に収容され、下士官と兵は、原隊へ帰って、事件は終焉した。
将校等は、軍法会議にかけられ、同年の7月5日に、19名に死刑の判決が下された。その七日後の7月12日早朝、陸軍刑務所内の西北の隅に設けられた処刑場で、15名の銃殺刑が執行された。翌昭和12年8月19日、4名が同じ場所で、同じようにして銃殺された。
(写真をクリックすると、大きく表示されます)
2008年02月21日
2008年02月20日
国際民俗芸能フェスティバルを観に
文化庁主催の「国際民俗芸能フェスティバル」が、今日(20日)、新国立劇場で開催された。
今回は、海外からは、
◎バウルの歌と踊り…(バングラデシュ人民共和国)、
◎クラーリッシェ…(クロアチア共和国)が紹介された。
「バウル」とは、伝統的な吟遊詩人たちのこと。彼らはベンガルの農村で、独自の宗教観に基づく哲学などを、歌に託してきた。その迫力のあるリズムや歌が、紹介された。
「クラーリッシェ」とは、クロアチア東北部の春の行事という事である。王様と女王様に扮した未婚の女性達が、村の家々を訪れて、歌いながら踊る。その民族衣装がきらびやかで、すばらしいものだった。
国内からの出演は、三団体であった。
◎日向の盲僧琵琶…(宮崎県延岡市)
琵琶を持って檀家の家々をまわり、経を唱えて家内安全を祈る盲僧は、昔はたくさん居たそうである。だが、今では、延岡市の長久山浄満寺の住職、永田法順さんただ一人になってしまった。法順さんは、970軒の檀家を、一年かけて一人でまわって祈祷する。その祈りは、仏教・神道・陰陽道・民間信仰など、様々な要素が融合したものである。
会場では、「神名帳」が唱えられた。全国の神仏の名が、琵琶の音に乗って、朗々とを唱え上げられてゆく。なんとも言えぬ心地よさがある。
◎大江八幡神社の御船行事…(静岡県牧之原市)
海上の安全を祈って行われた行事である。この行事では、十分一の精巧な廻船の模型を使って、帆柱を立てる所作や、舟が荒海を航海していく様を再現する事が特長である。舟を4人の若者が持って、練り歩く。
会場のステージでは、二隻の廻船が、荒波を乗り切って行くかのように、勇壮に揺り動かされていた。
◎白鳥の拝殿踊…(岐阜県郡上市)
素朴な輪踊りである。楽器は一切用いない。拝殿の板張りの床の上で、踊り手たちの下駄が刻むリズムだけである。なんとも素朴。
2時間半ほどの公演であったが、充分に楽しんだひとときであった。
2008年02月07日
2007年02月14日
板橋・諏訪神社の田遊び…その2
ここでは、「槍つきの儀式」が行われた。
槍は、竹竿の先に花籠を付けたものである。
この槍を神輿の前に構えて、激しく振り動かす。
太鼓がドーン、ドーンと鳴ると、それに合わせて、破魔矢を持った男がこの槍に向かって突きかかった。破魔矢を左右に振って、厄を落とす。
次は、赤ん坊を抱えた男が登場。この児を大きく振り動かしながら、槍に向かって突っかける。赤ん坊は、太鼓の音に驚き、大きく揺らされて怖がって、大声で泣き出した。その鳴き声はだんだん激しくなってきた。初めには、赤ん坊の鳴き声を聞いて、微笑ましく頬を緩めた見物の人達も、気持が落ちつかなくなってきたようだった。
横に居た小学生の男の子が、思わずつぶやいた。
「かわいそうだよ! 怖がってる〜。まじ、かわいそう!」
「おーっ」と一瞬どよめきが上がった。大きく左右に揺すられていた児どもが、勢いをつけてぐるっと空中に舞い上がったのだ。ちょうど鉄棒の大回転のように、ぐわーっと宙返りをした。一瞬の出来事であった。
これは、子孫の繁栄を祈願してのことである。無事に抱き抱えられて赤ん坊が退くと、ホッと安堵の空気が流れた。
次に現われ出たのは、二人立ちの獅子である。激しく動き回る。悪疫や害虫、などを退散させる獅子舞、という事のようだ。
「槍突きの儀式」が終わると、再び行列を作り、諏訪神社へ還御する。帰りは15〜6人の子供達が行列の先頭に出て、青竹(ささら)で道を叩き清めながら進んでゆく。「バシャ、バシャ、バシャ、バシャ」とリズムを刻むように道を叩く。神社へは隋神門は通らずに、脇の鳥居から入る。
神輿が拝殿前に戻ると、天狗が「もがり」の前で、地鎮の為の、「御鉾の舞」を舞った。
こうして、道行きの行事は終了した。
この後、ただちに「もがり」の行事が始まった。拝殿前の「もがり」の中で行われる田遊びは、徳丸の北野神社の田遊びと、ほとんど変わらないものである。
「もがり」の行事が始まってしばらくすると、庭に積み上げられた「お篝り」に火が入れられた。「お篝り」が燃え尽きる頃には、田遊びも、「稲刈り」から「倉入れ」へと終盤を迎えていた。
なお、この赤塚の諏訪神社の「田遊び」は、昭和51年に、徳丸の北野神社の「田遊び」と共に、国の重要無形民俗文化財に指定された。
(写真をクリックすると、大きく表示されます)
2007年02月13日
板橋・諏訪神社の田遊び…その1
東京、板橋の赤塚諏訪神社で、2月13日の夜、「田遊び」の行事が行われた。先日「田遊び」の行われた徳丸の北野神社とは、それほど離れてはいない。
この赤塚の「田遊び」も、主導役としての「大稲本」と補佐役の「小稲本」、それに農民役の「鍬取り」で執り行われる。そして、唱え事や所作によって一年間の農作業の様を再現する、という事は、徳丸の「田遊び」と同様である。
だが、大きく違っている事がある。それは、赤塚の「田遊び」には、「もがり」の外で行われる行事がある、という事だ。「もがり」の内での行事に先立って、御神輿の渡御が行われるのだ。
午後7時過ぎ、拝殿の前に作られた「もがり」の周辺に、見物の人や、カメラを持った人達が集まってきた。拝殿の中では、宮司による御祓いや、祝詞の奏上が行われている。
拝殿の中での神事が終わると、前庭の「もがり」の横に安置されている神輿に御霊移しが行われた。そして、神輿の渡御に奉仕する人達、高張提灯・錫杖・花籠・太鼓・天狗などが勢揃いした。
さて、用意が調うと、神輿の前に太鼓を据え、所役が太鼓の上の飛び乗って立ち、白扇を開いて、大声で「早乙女の呼び込み」を行う。
「ひら笠の ひら笠の 早乙女や〜い」
呼び込みが終わって、いよいよ神輿の渡御がはじまった。
行列は、隋神門を通り、二の鳥居をくぐって境内の外に出ていく。見物の人達も、神輿の後に続いて、ぞろぞろと移動して行った。住宅街を抜けて、ちょっとした広場のような空き地に出た。行列はここで止まり、神輿はそこに安置された。(つづく)
(写真をクリックすると、大きく表示されます)
2007年02月12日
板橋・北野神社の田遊び…その2
さて、ここで農作業は昼休み。
12、よびこみ
一同、もがりの外へ向かって呼び込みをする。すると、宮司宅から、「よねぼう」という人形と「米櫃」を持った者が、踊りながら「もがり」に向かってやって来る。
次に来るのは、二人立ちの獅子。これは、害虫や疫病を祓うからである。
次は、馬がくつわをとられて引かれてくる。
次は、破魔矢を持った男が、「矢〜、矢〜」と叫びながら走ってくる。
最後に、「太郎次」と「安女(やすめ)」の夫婦が登場。
安女は、孕み女、大きなお腹を抱えながら、ユーモラスな仕草で見物の人達の笑いを誘っている。この二人の様子を見ていると、自然に頬の筋肉が緩んでくるのだ。
太郎次と安女は、睦まじく抱き合ったりする仕草をして、稲の稔り、五穀豊穣を表現する。
さて、笑いと歓声のどよめきの後、太郎次と安女が「もがり」へ上がり込むと、「田遊び」は再び「もがり」の中へ。
13、田の草取り…田の雑草を取る。
14、田廻り…稲の稔り具合を調べる。
15、穂ばらみ…穂ばらみの状態を調べる。
16、稲刈り…大稲本と小稲本が、刈り取りをする。
17、穂むら積み…田遊びに用いた道具を、太鼓の上に積み上げる。
大稲本と小稲本が扇子を開いて豊作を言祝ぎ、一同手締めをして、終了となる。
この「田遊び」は、長徳元年(995年)に京都の北野天満宮から分霊して、この地に天満宮を建てた時、そのお祝いの行事として行ったのが、始まりとされている。
その後、代々この行事を受け継いで、一年も休む事なく続けられてきた、といわれている。
なお、この徳丸北野神社の「田遊び」は、昭和51年に、国の重要無形民俗文化財に指定された。
(写真をクリックすると、大きく表示されます)
2007年02月11日
板橋・北野神社の田遊び…その1
東京板橋の徳丸北野神社で、2月11日、「田遊び」の神事が行われた。このような行事が、昔ながらの姿で伝承されているのは、珍しいとの事である。百聞は一見にしかずと、期待して出かけた。
「田遊び」とは、一年間の田作りの作業を、その所作と唱え事によって再現して地の神を楽しませ、その年の豊穣を祈願するものである。
社殿の前には、四方に青竹を立てて注連縄(しめなわ)を張った、おおよそ3.6メートル四方ほどの、「もがり」と呼ばれる空間が作られる。そして、その中央に太鼓を置き、それを田に見立てる。
田遊びを主導する者は「大稲本」、補佐役は「小稲本」。その装束は、烏帽子をかぶり、白い麻の上衣に袴をはいている。他の奉仕者は「鍬取り」といって農民役、白い上衣に股引き、足袋はだしである。上衣には、梅鉢紋が付いている。
さて、一同、「もがり」の中に入って、田遊びが始まる。
その次第は
1、町歩調べ…徳丸村の苗代の数を調べる。
2、田打ち…田の荒起こしをする。
3、田うない…もがりの中央に置かれた太鼓を田に見立てて、それを打つ仕草をして、荒田をならす。
4、代かき…牛の面を付けた「牛役」を引いて、田をならす。
5、種蒔き…大稲本と小稲本が、種籾を四方に蒔く。
6、鳥追い…大稲本と小稲本が、「ささら」を鳴らして、種が鳥に食われないように、追い払う。
7、田廻り…田を見回る。
8、田うない…春田を掘り起こす。
9、田かき(牛追い)…牛の面を付けた「牛役」が太鼓の廻りを回って、田をならす。
10、田ならし…田の面をならす。
11、田植え…この田遊びのハイライトの一つである。
稲の苗に見立てた「早乙女」の登場。早乙女というからは女の子かな、と思っていると、何とそれは男の子。茶色い着物を着て、頭には白い紙の飾りを付け、手には稲の苗を象徴する梅と松の小枝を持っている。
大稲本と小稲本が扇であおぎ、鍬取りが早乙女を、田に見立てた太鼓の上に載せる。そして、一同で高くほうりあげるのだ。これは、稲の生育と子孫の繁栄を祈願しての事である。4人居た「早乙女」をそれぞれ胴上げし終って、田植えが終った。(つづく)
(写真をクリックすると、大きく表示されます)