日本一のよさこい祭りの煽り屋

全国各地で開催している「よさこい」をベースにした祭りをプロデュースし、さらに祭り進行や自分の司会煽りで会場や地域を盛り上げる。「日本全国祭りで元気を!」仕掛け人です。また自分自身の体験から創造し、地域・街・人・文化全てを活性化したい。

2006年03月

昨日は出張してました!

青果の堀田チームのサプライズ的登場以後、若者やよさこい祭り参加企業の一部が祭りに対する意識が、ガラリと変わりましたね、当然私もですが!翌年からは若者達をターゲットにしている、ブティックや居酒屋がよさこい祭りに参戦!この時期からよさこい祭りを利用したおしゃれ企業イメージ合戦がはじまります。その幾つかを紹介しますと、この頃の若者はブランドファッションに注目が集まりだした頃で(ビギ・ニコル・ロペなど)その商品を扱ったブティックの若いオーナーが、ショップのPRとお得意さんに対し遊びサービスを兼ねて参加!・・でもただ祭りに参加したのではなく、お洒落でステキでファンキーなオリジナルな世界をチームに表現したのです。例えば、グッド・ライフカンパニーは踊り子の衣装(当時は法被か浴衣がほとんど)を斬新な色(黒白)で浴衣を作り驚かす、地方車は従来は突然の雨や暑さ対策に屋根をつけるのが常識でじた、ところがこのチームは20tトレーラー車に屋根などまったく無いステージを作り、まさに、屋外ライブ会場がそのまま移動するもので、その頃高知で人気があった学生バンドによさこいをロックにアレンジさせ、演奏さしたのです。もちろん踊り子は弾けて踊り、またバンドは、なかなかライブコンサートが会場や資金不足などで出来ない事が多く、この祭り参加することで共通の利益を得る事が出来たのです。・・・・この後居酒屋の紹介といよいよ国友須賀が登場しますよ!

それでは今日もスタート

そうです!青果の堀田よさこいチームです。昨日紹介した堀田イクとは中内は私と同級生でまさに男と女の青春真っ只中!おそらくその時二人は燃える恋をしていたと思います。(その後、結婚しましたから)よけいな事かも知れませんが二人の出会いは、実はニース以後各ヨーロッパで開催したジャパンウィーク参加していたのです、イクは若手癸韻瞭舞の踊り手、そして美人!中内は通称ジュリアンと呼ばれミュージシャン(アプサラス・バンド高知ではこちらも癸院)異国でそれぞれアーティストで若い、恋に落ちるには時間はかからないね。ただ二人はおそらく異国で踊り、演奏し観客からの生の反応が強烈に自分の何か!を変えたのでは、町で踊る興奮!観客との一体感!踊った後に来る満足感!など言葉では表現出来ない体感が忘れる事が出来なかったのでは?ただ自由踊るのでなく、テーマを決め長い時間チームの踊り子と練習をし、各自が同じレベルまで!そしてサウンドは楽しく・元気に弾ける曲にアレンジし、しかも祭り本番では地方車に中内が大爆音のスピーカーの間に入り踊り子と向き合って狂った様なパフォーマンスを見せる!とにかく二人がかっこよかった!
このチームがよさこいに異文化との融合すること、若者が踊ることでトランス状態になれることを知らせたのです。(イクは中内と結婚し沢山と子宝にも恵まれた、けど30歳になるかならないうちに、この世を去ってしまい、イクの凄さを実感したのは、告別式に参列した若者達の数。お別れする為の人の列は永遠に続くのではと、思うくらいでした。

これからは、私のまさに青春時代!

よさこいを自由にアレンジ出来る!「凄い!」と思いました。今までは決められた曲を、生バンドやブラスバンド(高校の倶楽部)を各連が使うくらいの個性を出すのが精一杯、それがよさこい祭りの曲や踊りを自由に変えれることが出来る!若者に火がついたね、各連はそれぞれアイデアを出し各連の特色を出してきたのです。私は帯屋町筋で「祭り男」と言われるほど祭りで一年が始まり祭り終わる、祭りの世界に自分の在ったので、この変われるよさこいに夢中になり、今年はこれだ!といろいろな形のよさこい踊りを帯屋町筋の役員に提案し実現していました。当時帯屋町筋踊り子隊は高知で癸韻離繊璽(連)で資金力もあり、踊り子300人以上の規模で地方車も20tトレーラーを使用するなど、他を圧倒する巨人チームでした。(当時は規制があまり無かったから)ほんとに楽しかったです。よさこい祭りは、自分の為の祭りと思っていた頃でした!
そんな有頂天な時に、私を強烈に驚かすチームが、ある年のよさこい祭りに登場するのです。よさこいが始まり20年少したった頃かなあ?それはよさこい本番で本部会場(追手筋テレビ中継地)で出番を帯屋町筋が待っていたとき、前に居たチームが強烈なサウンドとリズムを出し、踊り子数は60名くらいの小さな連!ところがその踊り子たちは飛んだり、はねたり、ファンキーなダンスで実に楽しそう!私は目が点!そして自分達の出番になりさらに驚いたのは、帯屋町筋の300名の踊り子が半分ぐらい居ない?何処に行ったのか?あの前のチームに参加して一緒に踊っていたのです。私自身ショックを受けた事を今も覚えて居ます。そのチームの名は『堀田青果チーム』チームの代表は堀田イク、音楽は中内(通称ジュリアン)の若者だけのチーム、この二人とは同じ年齢で「イク」とは小学校も同じ町っ子です。次回は堀田青果のチーム誕生を私の知るとこで、書きますね!

よさこい事情・その2

日本全国で「よさこい」が有名になり、特に高知では『にわか』よさこいの頭達が現れ、高知ではあまり評価もされてはいないのに、しかもよさこいの関りも私から見れば「何年よさこいと関って、何かの実績を残したの?何を偉そうに話してるの!」てとこですね。おそらくその人達は私の名前は必ず知っていますよ、また直接話しをしたり、会議などに出席した場合は、少なくても私の前では一歩下がる人達です。自身が有るならよさこい談議や祭りの運営、そして観客に感動を!またよさこいの次世代の計画など、話したい、聞きたい・・?てとこ!何時でもいいですから!
なぜ、こんな事を書いたか?何も知らない全国の地域や人達に、高知のよさこいは「こうだ」と言って、いかにもよさこいに決め事があるが如く、自称よさこいの頭達が話し、伝えることがよさこいを誕生させ、自ら変化させ「自由で楽しく元気」市民参加の祭りを作った武政英策先生の魂に対して、まさに逆さまの伝達していることが、大変腹が立つのです。
ちなみに、私は武政英策先生が亡くなられて10年の節目にどの祭りの団体や関係者なども考えてもらえなかった、メモリアルイベントを自費で開催し先生の思い出話しなどを奥様に話していただき、生前の映像と多くのよさこい連に踊っていたたいたことです!チョット自慢
(会場は高知カルポート大会場で高知のよさこい本番8/10・11の二日間開催しました。)
ここでよさこい事情その2は終わり、よさこい伝説にもどろうか!

今日は今のよさこい事情に一言!

昨日まででよさこい祭りが誕生して、約15年ぐらいの私の体験と先輩・長老の方々から聞かされた話しも含め書き上げた歴史です。これから先のよさこいの歴史物語は全て私の人生の歴史でもあります。まさに実録での話し!
でも、今日は今現在のよさこい事情について書きます!
YOSAKOIソーランが誕生して10年チョットたち日本全国はもちろんアジア・ヨーロッパ・アメリカとよさこいパワーが広がっています。私が今から25年ほど前によさこいの楽しさや迫力を伝えに東京のテレビ局に売り込みに行ったのですが、まったく話しにならず、よさこいを言葉や写真で説明する難しさを感じた事でした。ところが今は全国で「よさこい」の一言で話しが弾む、「凄いことだなあ」と思います。YOSAKOIソーランを立ち上げた大学生の奮闘記がマスコミに注目された事が、日本中によさこいを知らせる事になったね!
ところで、「よさこいにっぽん」の名称のチームや祭りを全国各地で見たり聞いたりした事はありますか?実は私とよさこいを踊っている人はほとんど知っていると思います、国友須賀とで1999年に立ち上げた組織です。この組織の事で一部のよさこい開催地でいろいろと誤解や意見の違いなどがあり、問題を残しています。
ここで「よさこいにっぽん」とは、私の思いを話しますと、祭りの主役は踊り子であり、祭り運営の組織ではない!運営組織こそ裏方に徹するべき!と考え高知のよさこいの源にある『自由に、楽しく、元気に踊る』をスローガンに踊り子一人一人に応援できる事を目的に作った組織です。当然祭りは踊り子だけで出来る訳はなく、多くの地域の人達の協力と資金、そして行政・警察等の理解が必要です。だからこそ今よさこいの祭りの原点に戻り何のために各地で祭りを開催するのか?目的を思い出して欲しい!
自分たちの町や村を元気にしたい!若者達のエネルギーを弾けさす自由さ!子供からお爺ちゃんお婆ちゃんまでが楽しく踊り多くの人と知り合う!などで始めたのでは?
祭りは地域で支えていく事が祭りであり!組織や誰かが作る祭りはイベントです。生まれて育った地域やそこに暮らす人、そして未来のために、祭りの一日は全てを平等にして楽しむべき!と考えます。まだまだ続きはありますが、今日はここまで。
ご意見があれば聞かせてください。

さあ!今から書くぞ!!!

嬉しいね!このブログを見てくれた人がいてコメント頂きました。文章がまとまらず、さらに話しをしている書き方なので読み辛いと思いますが、ご容赦ください、しかも時々高知弁の文章にもなります?
さて、よさこいに話しは戻りニースで開催した『ジャパンウィーク』で大人気になった訳は、日本のリズムでなくニースの人達にも解かるサウンド『サンバ』のリズムがよさこいの曲と合体し踊りも見せる踊りでなく楽しむ踊りの振り付けが見ている人たちも自然と踊りだす、これこそが武政英策先生の作りたかった、新しい祭り「じんばも、ばんばも、よう踊る」が、この高知から遥か彼方のニースの地にて今(現在)につながる祭りに変化したのです、(土地土地にはそれぞれご当地の文化歴史があり、他の文化では土地になじまないモノでも、地元の文化と融合・合体する事でよそ者でなくなる)このニースの大成功が高知の地元新聞に大きく書かれテレビがニュースに取り上げ、高知の町はよさこい鳴子踊りの話しで何日間も盛り上がったのです。そしてニースから踊り子隊が凱旋!まさに高知の大スター扱いになったのです。この成功を本当に喜んだのは、若柳流荒谷先生だったかも?成功すれば全てが上手く!そして私が凄いと思ったのは武政英策先生です、自分でよさこいを一度作り上げ、ある程度育ってきたよさこいの曲を変える事、それは変化さす事の意味や本意を多くの人達に理解・納得さす必要があったのですが、先生はその変化に対する説明や結果を異文化のニースで発表し、高知のメヂアを使い理解させたのです。(スーパーマジィックです!)昔も今も変わりませんね!
その後高知のよさこい鳴子踊りは曲のアレンジが始まり、各連(チーム)はサンバやロックといろいろなリズムのよさこいが登場するのです。
当時のよさこい連は各連に、先頭は地方車(音源でバンドやブラス地方鳴り物)で音楽を生演奏しその後に踊り子がついて行く。当然PAなどはありません。
これをきっかけに自由に変化できることが、またまたよさこいに新たな歴史のページを作り出す事になるのです。!!!!!今日はここまで!ご意見お待ちしています!また知り合いにもこのブログを紹介してね!元気な人・町・地域を作りたいから?

今日は乗りが悪いかな?

祭りも生き「モノ」です、時間と共に時代と共に新しい力を加えて少し変化する事が必要かも知れませんね。ただ蘇った人気も5年ほど時間が経つとテレビ中継も当たり前になり、逆に家でよさこい祭りを見ることが出来ることで(高知の真夏の祭りの為気温は30度は軽く越す猛烈な暑さで見物人も大変)観客が少なくなり、踊る各連も同じ踊りを踊っているため、見る方が飽きてしまい盛り上がりの無い祭りに変わってきたのです。そんな時期にまた新しい風が吹くのです。ヨーロッパのニースで日本の文化を紹介する、『ジャパン・ウィーク』に高知も参加することになり、日本の歴史ある各地の踊り祭りに加わり高知のよさこい鳴子踊りを紹介することになり、始めての遠征しかも海外と関係者たちは不安と期待で盛り上がっていた時、よさこいの産みの親、武政英策先生が『声を上げた』のです。(その瞬間にまたよさこいに新たな変化が始まる事になる。)前段で武政英策先生は自分の作った曲と踊りがイメージと会わなく、全体に地味差を最初から感じていて、はたしてこのよさこい鳴子踊りでニースの人達に、他の踊りと比べ違いや楽しさを伝える事が出来るかを疑問に思い、武政先生自身が作った曲をニースの人達にも理解し感じるリズムに編曲をするのです。それは「サンバ」のリズムで曲を作り、そして先生自ら踊りを演出し、そしてサンバよさこい踊りを振り付けした人は、若柳流荒谷先生でした、当時は若く元気いっぱいの踊り娘!日舞の師範が洋物のサンバを振り付けし、しかも自ら踊ることで踊りの世界からは大変なバッシングがある中、さすが土佐の女は強い「受けた仕事は誰に何を言われてもやりきる」と破門も覚悟でニースに乗り込み、そしてよさこいがニースで主役座を取る事になる。

よさこい祭りが変わる!

人気が落ちてきたよさこい祭り、昭和36年頃だったかな?どんどん参加者が減り、私も踊りに参加したら日当代わりにプラモデル模型の商品券を貰った記憶があります。そこで高知新聞社・高知放送の高新企業は当時の人気を集めていたテレビに注目し、祭りの生中継を始めたのです。テレビに映ることは今では当たり前ぐらいポピュラーな事ですが、当時は驚きと特別な事で映るだけで大騒ぎする時代でした。そのテレビに祭りに参加するだけで映り街のスターになれる、この事が再び祭りに火がつき自分達の子供をテレビに映したい親達の思いが参加者を増やしていき、各町内会のよさこい連は子供達の参加により活気を取り戻したのです。・・今から出張にでます!

いよいよ祭りが始まる!

祭り始まった時代は戦後の復興に我武者羅に人々は働き、生きる事や稼ぐ事に皆が夢中で、楽しむ「こと」がほとんど無い時代に登場した参加型祭りとあって、アッと言っている間に祭りは高知市民に受け入れられたのです。まさに高知市内の各演舞競演場に多くの連(チーム)が駆けつけ、商店街が町がこの祭り期間はまさに舞台となり老いも若きもが思い切り楽しむ祭りとなったのです。(当時私は二歳で父親に祭り姿で連れられて泣きべそ顔の写真が残っています)
ここで突然にその頃の商店街を思い出したので書いときます、当時我が家は靴屋をしていて八坪しかない店舗に毎日多くのお客さんが買いに来られ、客が怖い記憶が残っています。当然私は豆粒みたいに小さな存在で店前で遊ぶのですが、向かいの友達の居る店舗に行く事が出来ないくらい、人の流れがあり、わずか8メートルを渡る為に店員を付けてもらったことがありました。
脱線してしまいました、祭りに戻ります。
人とは贅沢なもので、どんなに楽しい祭りでも5回6回と繰り返すごとに飽きが来るのか、参加者も参加連もどんどん少なくなり、遂には参加した人に日当が出るしまつ、祭り振興会は祭りを辞めるに舐められず、人々の関心はテレビや映画など新しい娯楽の登場に関心が移り、よさこい祭りを忘れていくことになっていったのです。
そこにサプライズを仕掛けた人達がいました。それは祭りの主催者の一企業「高知新聞社・高知放送」が時代を読んだ祭りに新たな仕掛けをすることでまた祭りが蘇ることになったのです!
その仕掛けとは・・・・今日は疲れたのでこれまで!!!!

明日と明後日は出張するので・・・続きを

そうです!やっと完成したよさこい鳴子踊りでしたが、武政英策先生は気に入っていなかったのです。このことは先生の奥様から聞いた話しです、何処が気に入らなかったか、それはあまりにも日本を感じ、まるで盆踊りと変わりが無いと激怒!「新しく生まれた祭りなら次の世代・時代に求められる元気で自由で有るべき」と言っていたそうです。この先生の言葉が十数年後よさこい祭りを大きく変えることになる!
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