名古屋岩の上教会

わたしはこの岩の上に私の教会を建てます。 -マタイによる福音書第16章18節-

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7月5日より下記のように変更いたします。(なお、感染状況によって変更の可能性があります。)
◆第一部礼拝式 9時30分〜10時30分
◆第二部礼拝式 11時00分〜12時00分  

◆教会学校幼稚科・小学科・中高科 12時〜12時30分 (成人科は休会継続)
※第一部は、20名未満といたします。感染リスクの徹底軽減に努めます。
 第二部は、30名未満といたします。

「主の晩餐の栄光にあずかろう」

「主の晩餐の栄光にあずかろう」
                 2020年7月5日 聖餐の礼典
テキスト ヨハネによる福音書第17章1〜5節
【イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。】

今朝は、第一主日ですから、聖餐、主の晩餐の礼典をお祝いします。そして説教は、この聖餐の礼典と主の祈りの「頌栄」で告白しています、主イエス・キリストの「栄光」とを掛け合わせるかたちで、してみたいと思います。それが聖餐の栄光、主の晩餐の栄光にあずかろうという説教題の意図であります。
今年の教会の年間目標を改めて確認致しましょう。「ディアコニアの深化と慰めの交わり・コイノニアの深化、拡大」であります。そのために読書会では聖餐について学ぶことと致しました。何故なら、ディアコニアもコイノニアも、奉仕も交わりも、すべては聖餐の礼典にあるからであります。奉仕の根源的な力、交わりの源は聖餐にあるのであります。教会の活動、教会の働きのすべての目標は聖餐の礼典にある、こう、確信しているからであります。主イエス・キリストは、この日本、この世界のただ中に人間のあるべき共同体つまり教会を堅固に建て上げるために聖餐の礼典をお定めになり、教会にお与えくださいました。ここで私どもが正しく聖餐を祝うことができたら世界は必ず救われます。世界の救いは、この礼典にかかっているからです。何故なら、聖餐こそ、神の国を地上に映し出す根源だからであります。

 さて、今朝のテキストは、主イエスの祈りです。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」ここには、父と御子とのお互いの関係がよく示されています。つまり、御子イエスは、父なる神の栄光を現わすために、この地上に来られました。人間となってお生まれになられました。ですから主イエスは地上での最期のときを目前にして父なる神に祈り願うのです。「このわたしにも栄光を与えて下さい」さらに、主イエスは、おっしゃいます。「あなたは、子にすべての人を支配する権能をお与えになられました」ここでの人を支配するということは、我々の世界、この世が用いる支配とは真逆のものでした。それは、人間を救うということです。人を救うこと、これこそ主イエスの支配、神のご支配なのであります。さらに、素晴らしい真理が教えられます。主イエスが救わなければならない人々とは、すべて父なる神が選んでいてくださり、彼らを救うたえに御子イエス、救い主キリストにゆだねられているということです。そして主イエスは、父なる神から任されたかけがえのない私どもひとりひとりを、正しくご自身の民とするため、キリストの体に結び合わせるために永遠の命を与えて下さるのです。そして、永遠の命を受けることが救いです。永遠の命とは、唯一の真の神である父なる神とそして父から派遣された御子なるイエス・キリストを知ることであります。知ると言うのは、主イエスと交わりを持つことです。主イエスを礼拝することであります。

主イエスは、ここで、ついに「その時」が来たと仰います。その時とは、どんな時でしょうか。一言で言えば、十字架の時です。私どもを救うとき、永遠の命を私どものために獲得し、授けるときです。世界が造られる前から、御子が持っていた神の栄光を余すところなく示す十字架の苦難のときです。
今朝は、5節までしか読みませんでした。実は、10節も読みたかったのです。こう語られました。「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。】この一句は、それだけでも一回の説教が必要になります。御子のものは父のものであり、父のものは御子のものであると言います。この一句は、この滅びゆく世にあって、決定的に天国の姿を見せて下さる御言葉であります。さて、この世界、地上の国は、そうはまいりません。「わたしのものはすべてわたしのもの」つまり私有財産制の世界です。これを保障してくれるからこそ我々は国、国家を信用して、国家をある意味で絶対化し、またさせられているのだろうと思います。一方で、よく、考えると隠されている問題が見えてくるだろうと思います。それは、このような現実です。「わたしのものはすべてわたしのもの。そして、あなたのものもわたしのものとしたい」この欲望です。一つのもの、あるいは一つしかないものめぐって、何とかして自分のものとするためにぶつかり合い、ひしめきあうのがこの世界ではないでしょうか。これに対して、主イエスは、この一句「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。」で神の国を私どもにのぞかせて下さいました。そして、私たちに「真似てごらんなさい」と招かれるのです。つまり、わたしのものはあなたのもの、あなたのものはわたしのものとすること、それは、そこに人間が一つのものを奪い合う世界ではなく、一つのものを互いに分かち合う社会、世界の実現であります。つまり、神の国をここに実現する方法なのです。
ちなみに、コロナの今、私どもは聖餐のためのパンを、食パンを用いています。これを最初から切り分けていただくようにしています。これまで、教会で焼いた一つのパンを私がちぎって、皆さんに配餐していました。それは、キリストのお体は一つであり、私どもはこのキリストの一つのお体、一つのキリストの体になるため、教会共同体になるために聖餐の礼典を祝うからであります。聖餐のこの意味を、目に見える形にするために一つのパンを用いてまいりました。教会とは、この一つのもの、この神様の命を分け合って生きて行く共同体なのです。教会とは、こうしてこの世のいかなる団体とも異質なものであることをこの世に示します。本当の人間のあるべき姿をここに現わしているのです。

さて、本筋に戻ります。主イエスは、「わたしは彼らによって栄光を受けました」と宣言されました。彼らとは、他ならない神の民のことです。弟子達のことです。つまり、私どものことでもあります。実に主イエスは、ここですでに弟子達たちから栄光を受けと、宣言しておられます。本当にそうなのでしょうか。何だか、皮肉を言われているような気がしないでもありません。なぜなら、弟子達が主を置き去りにして逃げ出したことを知っているからです。どうしてそのような弟子達たちから栄光を受けられたと宣言なさるのでしょうか。むしろ、彼らによって御子の栄光は甚だしく傷つけられてしまったのではないでしょうか。しかし、実にこの御言葉、この祈りは、時間を超えたものなのです。主イエスは、歴史の最初から最後まで、すべてを見通される神です。主イエスは、ご自身の十字架と復活の救いの御業がもたらす実り、永遠の命を受け継ぐ者たちをはっきりと、鮮やかに見据えておられます。言うまでもなく、ここに集められたお一人お一人のことです。だからこのような祈りを捧げられるのであります。
 確かに、あのとき弟子達は主の御心をわきまえていませんでした。しかし主の御心は、底知れず深く、果てしなく広いのです。実に、彼らの大失敗によっても主の栄光は決して損なわれることがありませんでした。むしろ、彼らのあの挫折、失敗、不信仰がなければ主の栄光の十字架が成就しなかったのです。そこまでご自身の民を救おうとする御心、父なる神から任された人々に永遠の命を与えようとする神の御心があれば、神は今を生きる私どもの表面的な失敗や成功をはるかに超えて、救いの御心、ご自身の栄光を現わされるのです。神がお許しになればむしろ私どもの信仰の大失敗、挫折からですら十字架という究極の救いの出来事の栄光をあらわせるのであります。したがって、私どもですら臆することなく大胆に主イエスを信じ、従えるのです。信仰の冒険を重ねて、天を目指す信仰の旅を安心して歩めるのです。
 もとより、それならあえて失敗しましょうかとか輝かしい働きをしなくてもいいのではないか。そう思うキリスト者はいるでしょうか。いません。
 ウェストミンスターのカテキズムは、その問い一で、人間とは何のために生きているのか、何を目指して生きるべきなのかという、人のあり方の根本を問います。答えは、「人の主な目的は、神の栄光をあらわし永遠に神を喜ぶことである」実に驚くべき答えだと思います。罪深い私どもがどうして神の栄光を現わせるのでしょうか。そのようなことは、自分のどこをどのように見つめても、答えは無理。不可能ということになるはずです。しかし、私どもは知っています。国と力と栄が神のものであるから、私どもにも可能だということです。
私どもは、神の栄光を現わすことを人生の最大の目的、目標としている者どもであります。それなら、どうやって現わしましょう。それは、ひとりひとりがまさに自分の人生をかけて祈り求めるべき一生涯の課題です。若い仲間たちにとっては決定的に重要です。よく聖書をよみ、祈り、学んで、準備して下さい。それなら、すでに高齢となった兄弟姉妹はどうでしょうか。同じであります。どのように死すべきか、終わるべきか、決定的な課題です。ですから、ひとりひとり、すべての世代のキリスト者が真剣に祈り求め続けていることであります。
今日の午後、小会と執事会の合同協議会が持たれます。毎年、この時期には、上半期を顧みて、一人ひとりが自分に託された務めを振り返るレポートを相互に提出されます。それぞれの歩みが主の御前に点検されるのです。そのとき、長老にも執事にも、当然、わたしにも問われるのは教会の目標についてです。ディアコニアの深化、コイノニアの拡大のために、自分は何ができたのか、できなかったのか、互いに問いあうのです。こうして、下半期の道備えとするのです。
さて、これは何も役員だけの課題ではありません。教会員全員がそうあってほしいのです。神の栄光を現わすということは、実に、具体的なことであり現実的な行動です。そして、それは必ず、キリストの体である教会とかかわるのです。何故なら、そこにこそ十全な意味で私どもの人生の主な目的が示されているからです。今朝の子どもの説教では、人は、聖餐に参加するために生まれてきたと語りました。聖餐は、ここに神の教会を形成することの中心的行動であり、それは直ちに、この世界に神の国を出現させ、拡大することに他ならないからです。私どもが生まれてきたのは、生きるのは、この地上に愛と平和、喜びと正義の国を造り上げるためであります。

さて、そう言われると、皆さま、そわそわするかもしれません。コロナの今、私は、主のために、教会のために何ができただろうか、これまで以上に、申し訳なさをかみしめるかもしれません。「ああ、イエスさまは、彼らによって栄光を受けたと父なる神さまに報告されたけれど、わたしなどは、そうは言っていただけないだろうな」そのように逆に落ち込む方はいらっしゃるでしょうか。
 そこでこそ、信仰の基礎を確認致しましょう。私どもは今、どこにいるのでしょうか。今朝は、聖餐の礼典にあずかる主日礼拝式であります。私どもは今朝、主の食卓に招かれました。この食卓で私どもはいったいどのような活動的な奉仕、能動的な、積極的な奉仕ができるでしょうか。できないはずです。確かに、主の晩餐の食卓を整える奉仕者は必要です。しかし、その奉仕には失礼ですが、それは大変な奉仕、骨が折れる働きであるとは言えないと思います。確かに、私どもはここに集まりました。それこそが奉仕の中の奉仕であります。しかし、この奉仕もまた、失礼な言い方ですが、大変な苦労をしてここに駆け付けたとは言い難いのではないでしょうか。
主の食卓の主人は、誰でしょうか。牧師ではありません。主イエス・キリストご自身です。このお方が、ふるまわれる食卓なのです。ここで提供される食べ物、飲み物とは、主ご自身です。そうであれば、私どもができる最高の奉仕は、主のおもてなしに喜んであずからせていただくこと以外にあるでしょうか。「おいしいおいしい」と主イエスからふるまわれる命の食べもの、飲み物を感謝と喜びをもっていただくこと、これのみであります。
この食べ物、飲み物は主の御体なのです。これによって私ども自身が主の体とされてしまいます。ひとりのキリストをみんなで、お互いに分かち合うことで、ここにキリストの体である教会共同体が形成されるのです。そのとき、主イエスの栄光は、ひとりひとりの上に注がれます。天の光はここに、これ以上ない仕方で豊かに注がれるのであります。神の栄光は、聖餐の礼典を正しく挙行し、正しく皆さまがいただくところに決定的に現わされるのであります。
同時にここで私どもはこの栄光を反射します。世界のただ中で照らし出してしまうのです。実に、教会はここでこそ世の光となっているのです。ですから、聖餐の礼典にあずかることは、神の栄光を現わす生涯の究極の時、場所なのです。確かに、汗水たらして奉仕しているわけではありません。むしろ、ただ、おいしいなと、ありがたいなと、感謝するだけであります。しかし、それによってこそ、キリストの体である教会共同体は、この地上に姿を、輪郭を鮮明にするからであります。
同時に、私どもはこのいのちの食卓を共に祝うそのとき、自分にできることをしたくなってしまいます。上半期を振り返って、この世界の救いのために、人々の救いのために、自分はもっとできること、捧げられることがないだろうかと、前を向きたくなるのです。そのような神の栄光をあらわす人生を築ける特権に生きること、それがキリスト者の特権であり使命でもあるのであります。

祈祷
 父と子と聖霊の生ける御神、神の力と神の国と神の栄光が実現する聖なる礼拝式の恵みを心から感謝いたします。岩の上教会があなたの栄光を現わし、そのひとりひとりが神の栄光のために生きる者として祝福し続けて下さい。ここに聖餐を囲む慰めの共同体を形成してください。この慰めの共同体をこの地上に広げに広げて下さい。そのために、一人ひとりを主の栄光の器として用いて下さいませ。アーメン。
子ども説教
 さいしょに、先週のお話しのおさらいをします。
私たちは、光の子どもです。
それは、光よりの光、光そのものでいらっしゃるイエスさまの栄光の光に照らされているからです。
 どこでその暖かな光、いのちの光を浴びるのでしょうか。それが今朝のこの礼拝式です。そんなお話しをしました。

さて、今日の礼拝式では、聖餐という礼典を行います。セイサンって、何でしょうか。説教の後、長老さんたちがとても小さなパンとちっちゃなカップに入れたぶどうのジュースをくばります。皆で、「いただきます」とそろって口に入れます。
「わたしも食べてみたいな。飲んでみたいな。」そう思ったことがあると思います。もしかすると手を伸ばしたことがあるかもしれません。そして、叱られたことがあるかもしれません。そんなお友達は、きっと、「ねえねえ、あれは何をしているの?」と質問したことがあると思います。
 そして今、みんなが分かっているのは、あのおままごとみたいなこと、聖餐に参加できないということですね。ものすごく、残念ですよね。

さて、私たちはなぜ、生まれてきたのか知っていますか。それは、この聖餐のお祝いに参加するためです。これこそ、生まれてきた目的です。聖餐に参加することがなぜ、大切なのでしょうか。イエスさまが、この聖餐に招くために十字架について死んでくださったからです。何故、イエスさまはこの聖餐というおままごとみたいな小さなお食事会をそれほど、大切になさるのですか。
それは、このお祝いに参加するとき、私たちの住んでいるこの世界に神さまの国、つまり、天国が創り出されて行くからなのです。すごいでしょう。
天国、神さまの国に入らなければ、生まれてきた意味がありませんよ。天国、神の国をこの地上に造り出してゆく神さまのお働きに参加しなければ、生まれてきた意味がなくなってしまいます。勉強したり遊んだり、食べたり飲んだり、すべては、この世界に神様の愛と平和と正義の、楽しい国、喜びの国をひろげるためです。だから、はやくこの聖餐のお祝いに参加してください。

                 2020年7月5日 聖餐の礼典
テキスト ヨハネによる福音書第17章1〜5節
【イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。】

今朝は、第一主日ですから、聖餐、主の晩餐の礼典をお祝いします。そして説教は、この聖餐の礼典と主の祈りの「頌栄」で告白しています、主イエス・キリストの「栄光」とを掛け合わせるかたちで、してみたいと思います。それが聖餐の栄光、主の晩餐の栄光にあずかろうという説教題の意図であります。
今年の教会の年間目標を改めて確認致しましょう。「ディアコニアの深化と慰めの交わり・コイノニアの深化、拡大」であります。そのために読書会では聖餐について学ぶことと致しました。何故なら、ディアコニアもコイノニアも、奉仕も交わりも、すべては聖餐の礼典にあるからであります。奉仕の根源的な力、交わりの源は聖餐にあるのであります。教会の活動、教会の働きのすべての目標は聖餐の礼典にある、こう、確信しているからであります。主イエス・キリストは、この日本、この世界のただ中に人間のあるべき共同体つまり教会を堅固に建て上げるために聖餐の礼典をお定めになり、教会にお与えくださいました。ここで私どもが正しく聖餐を祝うことができたら世界は必ず救われます。世界の救いは、この礼典にかかっているからです。何故なら、聖餐こそ、神の国を地上に映し出す根源だからであります。

 さて、今朝のテキストは、主イエスの祈りです。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」ここには、父と御子とのお互いの関係がよく示されています。つまり、御子イエスは、父なる神の栄光を現わすために、この地上に来られました。人間となってお生まれになられました。ですから主イエスは地上での最期のときを目前にして父なる神に祈り願うのです。「このわたしにも栄光を与えて下さい」さらに、主イエスは、おっしゃいます。「あなたは、子にすべての人を支配する権能をお与えになられました」ここでの人を支配するということは、我々の世界、この世が用いる支配とは真逆のものでした。それは、人間を救うということです。人を救うこと、これこそ主イエスの支配、神のご支配なのであります。さらに、素晴らしい真理が教えられます。主イエスが救わなければならない人々とは、すべて父なる神が選んでいてくださり、彼らを救うたえに御子イエス、救い主キリストにゆだねられているということです。そして主イエスは、父なる神から任されたかけがえのない私どもひとりひとりを、正しくご自身の民とするため、キリストの体に結び合わせるために永遠の命を与えて下さるのです。そして、永遠の命を受けることが救いです。永遠の命とは、唯一の真の神である父なる神とそして父から派遣された御子なるイエス・キリストを知ることであります。知ると言うのは、主イエスと交わりを持つことです。主イエスを礼拝することであります。

主イエスは、ここで、ついに「その時」が来たと仰います。その時とは、どんな時でしょうか。一言で言えば、十字架の時です。私どもを救うとき、永遠の命を私どものために獲得し、授けるときです。世界が造られる前から、御子が持っていた神の栄光を余すところなく示す十字架の苦難のときです。
今朝は、5節までしか読みませんでした。実は、10節も読みたかったのです。こう語られました。「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。】この一句は、それだけでも一回の説教が必要になります。御子のものは父のものであり、父のものは御子のものであると言います。この一句は、この滅びゆく世にあって、決定的に天国の姿を見せて下さる御言葉であります。さて、この世界、地上の国は、そうはまいりません。「わたしのものはすべてわたしのもの」つまり私有財産制の世界です。これを保障してくれるからこそ我々は国、国家を信用して、国家をある意味で絶対化し、またさせられているのだろうと思います。一方で、よく、考えると隠されている問題が見えてくるだろうと思います。それは、このような現実です。「わたしのものはすべてわたしのもの。そして、あなたのものもわたしのものとしたい」この欲望です。一つのもの、あるいは一つしかないものめぐって、何とかして自分のものとするためにぶつかり合い、ひしめきあうのがこの世界ではないでしょうか。これに対して、主イエスは、この一句「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。」で神の国を私どもにのぞかせて下さいました。そして、私たちに「真似てごらんなさい」と招かれるのです。つまり、わたしのものはあなたのもの、あなたのものはわたしのものとすること、それは、そこに人間が一つのものを奪い合う世界ではなく、一つのものを互いに分かち合う社会、世界の実現であります。つまり、神の国をここに実現する方法なのです。
ちなみに、コロナの今、私どもは聖餐のためのパンを、食パンを用いています。これを最初から切り分けていただくようにしています。これまで、教会で焼いた一つのパンを私がちぎって、皆さんに配餐していました。それは、キリストのお体は一つであり、私どもはこのキリストの一つのお体、一つのキリストの体になるため、教会共同体になるために聖餐の礼典を祝うからであります。聖餐のこの意味を、目に見える形にするために一つのパンを用いてまいりました。教会とは、この一つのもの、この神様の命を分け合って生きて行く共同体なのです。教会とは、こうしてこの世のいかなる団体とも異質なものであることをこの世に示します。本当の人間のあるべき姿をここに現わしているのです。

さて、本筋に戻ります。主イエスは、「わたしは彼らによって栄光を受けました」と宣言されました。彼らとは、他ならない神の民のことです。弟子達のことです。つまり、私どものことでもあります。実に主イエスは、ここですでに弟子達たちから栄光を受けと、宣言しておられます。本当にそうなのでしょうか。何だか、皮肉を言われているような気がしないでもありません。なぜなら、弟子達が主を置き去りにして逃げ出したことを知っているからです。どうしてそのような弟子達たちから栄光を受けられたと宣言なさるのでしょうか。むしろ、彼らによって御子の栄光は甚だしく傷つけられてしまったのではないでしょうか。しかし、実にこの御言葉、この祈りは、時間を超えたものなのです。主イエスは、歴史の最初から最後まで、すべてを見通される神です。主イエスは、ご自身の十字架と復活の救いの御業がもたらす実り、永遠の命を受け継ぐ者たちをはっきりと、鮮やかに見据えておられます。言うまでもなく、ここに集められたお一人お一人のことです。だからこのような祈りを捧げられるのであります。
 確かに、あのとき弟子達は主の御心をわきまえていませんでした。しかし主の御心は、底知れず深く、果てしなく広いのです。実に、彼らの大失敗によっても主の栄光は決して損なわれることがありませんでした。むしろ、彼らのあの挫折、失敗、不信仰がなければ主の栄光の十字架が成就しなかったのです。そこまでご自身の民を救おうとする御心、父なる神から任された人々に永遠の命を与えようとする神の御心があれば、神は今を生きる私どもの表面的な失敗や成功をはるかに超えて、救いの御心、ご自身の栄光を現わされるのです。神がお許しになればむしろ私どもの信仰の大失敗、挫折からですら十字架という究極の救いの出来事の栄光をあらわせるのであります。したがって、私どもですら臆することなく大胆に主イエスを信じ、従えるのです。信仰の冒険を重ねて、天を目指す信仰の旅を安心して歩めるのです。
 もとより、それならあえて失敗しましょうかとか輝かしい働きをしなくてもいいのではないか。そう思うキリスト者はいるでしょうか。いません。
 ウェストミンスターのカテキズムは、その問い一で、人間とは何のために生きているのか、何を目指して生きるべきなのかという、人のあり方の根本を問います。答えは、「人の主な目的は、神の栄光をあらわし永遠に神を喜ぶことである」実に驚くべき答えだと思います。罪深い私どもがどうして神の栄光を現わせるのでしょうか。そのようなことは、自分のどこをどのように見つめても、答えは無理。不可能ということになるはずです。しかし、私どもは知っています。国と力と栄が神のものであるから、私どもにも可能だということです。
私どもは、神の栄光を現わすことを人生の最大の目的、目標としている者どもであります。それなら、どうやって現わしましょう。それは、ひとりひとりがまさに自分の人生をかけて祈り求めるべき一生涯の課題です。若い仲間たちにとっては決定的に重要です。よく聖書をよみ、祈り、学んで、準備して下さい。それなら、すでに高齢となった兄弟姉妹はどうでしょうか。同じであります。どのように死すべきか、終わるべきか、決定的な課題です。ですから、ひとりひとり、すべての世代のキリスト者が真剣に祈り求め続けていることであります。
今日の午後、小会と執事会の合同協議会が持たれます。毎年、この時期には、上半期を顧みて、一人ひとりが自分に託された務めを振り返るレポートを相互に提出されます。それぞれの歩みが主の御前に点検されるのです。そのとき、長老にも執事にも、当然、わたしにも問われるのは教会の目標についてです。ディアコニアの深化、コイノニアの拡大のために、自分は何ができたのか、できなかったのか、互いに問いあうのです。こうして、下半期の道備えとするのです。
さて、これは何も役員だけの課題ではありません。教会員全員がそうあってほしいのです。神の栄光を現わすということは、実に、具体的なことであり現実的な行動です。そして、それは必ず、キリストの体である教会とかかわるのです。何故なら、そこにこそ十全な意味で私どもの人生の主な目的が示されているからです。今朝の子どもの説教では、人は、聖餐に参加するために生まれてきたと語りました。聖餐は、ここに神の教会を形成することの中心的行動であり、それは直ちに、この世界に神の国を出現させ、拡大することに他ならないからです。私どもが生まれてきたのは、生きるのは、この地上に愛と平和、喜びと正義の国を造り上げるためであります。

さて、そう言われると、皆さま、そわそわするかもしれません。コロナの今、私は、主のために、教会のために何ができただろうか、これまで以上に、申し訳なさをかみしめるかもしれません。「ああ、イエスさまは、彼らによって栄光を受けたと父なる神さまに報告されたけれど、わたしなどは、そうは言っていただけないだろうな」そのように逆に落ち込む方はいらっしゃるでしょうか。
 そこでこそ、信仰の基礎を確認致しましょう。私どもは今、どこにいるのでしょうか。今朝は、聖餐の礼典にあずかる主日礼拝式であります。私どもは今朝、主の食卓に招かれました。この食卓で私どもはいったいどのような活動的な奉仕、能動的な、積極的な奉仕ができるでしょうか。できないはずです。確かに、主の晩餐の食卓を整える奉仕者は必要です。しかし、その奉仕には失礼ですが、それは大変な奉仕、骨が折れる働きであるとは言えないと思います。確かに、私どもはここに集まりました。それこそが奉仕の中の奉仕であります。しかし、この奉仕もまた、失礼な言い方ですが、大変な苦労をしてここに駆け付けたとは言い難いのではないでしょうか。
主の食卓の主人は、誰でしょうか。牧師ではありません。主イエス・キリストご自身です。このお方が、ふるまわれる食卓なのです。ここで提供される食べ物、飲み物とは、主ご自身です。そうであれば、私どもができる最高の奉仕は、主のおもてなしに喜んであずからせていただくこと以外にあるでしょうか。「おいしいおいしい」と主イエスからふるまわれる命の食べもの、飲み物を感謝と喜びをもっていただくこと、これのみであります。
この食べ物、飲み物は主の御体なのです。これによって私ども自身が主の体とされてしまいます。ひとりのキリストをみんなで、お互いに分かち合うことで、ここにキリストの体である教会共同体が形成されるのです。そのとき、主イエスの栄光は、ひとりひとりの上に注がれます。天の光はここに、これ以上ない仕方で豊かに注がれるのであります。神の栄光は、聖餐の礼典を正しく挙行し、正しく皆さまがいただくところに決定的に現わされるのであります。
同時にここで私どもはこの栄光を反射します。世界のただ中で照らし出してしまうのです。実に、教会はここでこそ世の光となっているのです。ですから、聖餐の礼典にあずかることは、神の栄光を現わす生涯の究極の時、場所なのです。確かに、汗水たらして奉仕しているわけではありません。むしろ、ただ、おいしいなと、ありがたいなと、感謝するだけであります。しかし、それによってこそ、キリストの体である教会共同体は、この地上に姿を、輪郭を鮮明にするからであります。
同時に、私どもはこのいのちの食卓を共に祝うそのとき、自分にできることをしたくなってしまいます。上半期を振り返って、この世界の救いのために、人々の救いのために、自分はもっとできること、捧げられることがないだろうかと、前を向きたくなるのです。そのような神の栄光をあらわす人生を築ける特権に生きること、それがキリスト者の特権であり使命でもあるのであります。

祈祷
 父と子と聖霊の生ける御神、神の力と神の国と神の栄光が実現する聖なる礼拝式の恵みを心から感謝いたします。岩の上教会があなたの栄光を現わし、そのひとりひとりが神の栄光のために生きる者として祝福し続けて下さい。ここに聖餐を囲む慰めの共同体を形成してください。この慰めの共同体をこの地上に広げに広げて下さい。そのために、一人ひとりを主の栄光の器として用いて下さいませ。アーメン。
子ども説教
 さいしょに、先週のお話しのおさらいをします。
私たちは、光の子どもです。
それは、光よりの光、光そのものでいらっしゃるイエスさまの栄光の光に照らされているからです。
 どこでその暖かな光、いのちの光を浴びるのでしょうか。それが今朝のこの礼拝式です。そんなお話しをしました。

さて、今日の礼拝式では、聖餐という礼典を行います。セイサンって、何でしょうか。説教の後、長老さんたちがとても小さなパンとちっちゃなカップに入れたぶどうのジュースをくばります。皆で、「いただきます」とそろって口に入れます。
「わたしも食べてみたいな。飲んでみたいな。」そう思ったことがあると思います。もしかすると手を伸ばしたことがあるかもしれません。そして、叱られたことがあるかもしれません。そんなお友達は、きっと、「ねえねえ、あれは何をしているの?」と質問したことがあると思います。
 そして今、みんなが分かっているのは、あのおままごとみたいなこと、聖餐に参加できないということですね。ものすごく、残念ですよね。

さて、私たちはなぜ、生まれてきたのか知っていますか。それは、この聖餐のお祝いに参加するためです。これこそ、生まれてきた目的です。聖餐に参加することがなぜ、大切なのでしょうか。イエスさまが、この聖餐に招くために十字架について死んでくださったからです。何故、イエスさまはこの聖餐というおままごとみたいな小さなお食事会をそれほど、大切になさるのですか。
それは、このお祝いに参加するとき、私たちの住んでいるこの世界に神さまの国、つまり、天国が創り出されて行くからなのです。すごいでしょう。
天国、神さまの国に入らなければ、生まれてきた意味がありませんよ。天国、神の国をこの地上に造り出してゆく神さまのお働きに参加しなければ、生まれてきた意味がなくなってしまいます。勉強したり遊んだり、食べたり飲んだり、すべては、この世界に神様の愛と平和と正義の、楽しい国、喜びの国をひろげるためです。だから、はやくこの聖餐のお祝いに参加してください。

                 2020年7月5日 聖餐の礼典
テキスト ヨハネによる福音書第17章1〜5節
【イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。】


今朝は、第一主日ですから、聖餐、主の晩餐の礼典をお祝いします。そして説教は、この聖餐の礼典と主の祈りの「頌栄」で告白しています、主イエス・キリストの「栄光」とを掛け合わせるかたちで、してみたいと思います。それが聖餐の栄光、主の晩餐の栄光にあずかろうという説教題の意図であります。

今年の教会の年間目標を改めて確認致しましょう。「ディアコニアの深化と慰めの交わり・コイノニアの深化、拡大」であります。そのために読書会では聖餐について学ぶことと致しました。何故なら、ディアコニアもコイノニアも、奉仕も交わりも、すべては聖餐の礼典にあるからであります。奉仕の根源的な力、交わりの源は聖餐にあるのであります。教会の活動、教会の働きのすべての目標は聖餐の礼典にある、こう、確信しているからであります。主イエス・キリストは、この日本、この世界のただ中に人間のあるべき共同体つまり教会を堅固に建て上げるために聖餐の礼典をお定めになり、教会にお与えくださいました。ここで私どもが正しく聖餐を祝うことができたら世界は必ず救われます。世界の救いは、この礼典にかかっているからです。何故なら、聖餐こそ、神の国を地上に映し出す根源だからであります。

 さて、今朝のテキストは、主イエスの祈りです。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」ここには、父と御子とのお互いの関係がよく示されています。つまり、御子イエスは、父なる神の栄光を現わすために、この地上に来られました。人間となってお生まれになられました。ですから主イエスは地上での最期のときを目前にして父なる神に祈り願うのです。「このわたしにも栄光を与えて下さい」さらに、主イエスは、おっしゃいます。「あなたは、子にすべての人を支配する権能をお与えになられました」ここでの人を支配するということは、我々の世界、この世が用いる支配とは真逆のものでした。それは、人間を救うということです。人を救うこと、これこそ主イエスの支配、神のご支配なのであります。さらに、素晴らしい真理が教えられます。主イエスが救わなければならない人々とは、すべて父なる神が選んでいてくださり、彼らを救うたえに御子イエス、救い主キリストにゆだねられているということです。そして主イエスは、父なる神から任されたかけがえのない私どもひとりひとりを、正しくご自身の民とするため、キリストの体に結び合わせるために永遠の命を与えて下さるのです。そして、永遠の命を受けることが救いです。永遠の命とは、唯一の真の神である父なる神とそして父から派遣された御子なるイエス・キリストを知ることであります。知ると言うのは、主イエスと交わりを持つことです。主イエスを礼拝することであります。

主イエスは、ここで、ついに「その時」が来たと仰います。その時とは、どんな時でしょうか。一言で言えば、十字架の時です。私どもを救うとき、永遠の命を私どものために獲得し、授けるときです。世界が造られる前から、御子が持っていた神の栄光を余すところなく示す十字架の苦難のときです。

今朝は、5節までしか読みませんでした。実は、10節も読みたかったのです。こう語られました。「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。】この一句は、それだけでも一回の説教が必要になります。御子のものは父のものであり、父のものは御子のものであると言います。この一句は、この滅びゆく世にあって、決定的に天国の姿を見せて下さる御言葉であります。さて、この世界、地上の国は、そうはまいりません。「わたしのものはすべてわたしのもの」つまり私有財産制の世界です。これを保障してくれるからこそ我々は国、国家を信用して、国家をある意味で絶対化し、またさせられているのだろうと思います。一方で、よく、考えると隠されている問題が見えてくるだろうと思います。それは、このような現実です。「わたしのものはすべてわたしのもの。そして、あなたのものもわたしのものとしたい」この欲望です。一つのもの、あるいは一つしかないものめぐって、何とかして自分のものとするためにぶつかり合い、ひしめきあうのがこの世界ではないでしょうか。これに対して、主イエスは、この一句「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。」で神の国を私どもにのぞかせて下さいました。そして、私たちに「真似てごらんなさい」と招かれるのです。つまり、わたしのものはあなたのもの、あなたのものはわたしのものとすること、それは、そこに人間が一つのものを奪い合う世界ではなく、一つのものを互いに分かち合う社会、世界の実現であります。つまり、神の国をここに実現する方法なのです。

ちなみに、コロナの今、私どもは聖餐のためのパンを、食パンを用いています。これを最初から切り分けていただくようにしています。これまで、教会で焼いた一つのパンを私がちぎって、皆さんに配餐していました。それは、キリストのお体は一つであり、私どもはこのキリストの一つのお体、一つのキリストの体になるため、教会共同体になるために聖餐の礼典を祝うからであります。聖餐のこの意味を、目に見える形にするために一つのパンを用いてまいりました。教会とは、この一つのもの、この神様の命を分け合って生きて行く共同体なのです。教会とは、こうしてこの世のいかなる団体とも異質なものであることをこの世に示します。本当の人間のあるべき姿をここに現わしているのです。

さて、本筋に戻ります。主イエスは、「わたしは彼らによって栄光を受けました」と宣言されました。彼らとは、他ならない神の民のことです。弟子達のことです。つまり、私どものことでもあります。実に主イエスは、ここですでに弟子達たちから栄光を受けと、宣言しておられます。本当にそうなのでしょうか。何だか、皮肉を言われているような気がしないでもありません。なぜなら、弟子達が主を置き去りにして逃げ出したことを知っているからです。どうしてそのような弟子達たちから栄光を受けられたと宣言なさるのでしょうか。むしろ、彼らによって御子の栄光は甚だしく傷つけられてしまったのではないでしょうか。しかし、実にこの御言葉、この祈りは、時間を超えたものなのです。主イエスは、歴史の最初から最後まで、すべてを見通される神です。主イエスは、ご自身の十字架と復活の救いの御業がもたらす実り、永遠の命を受け継ぐ者たちをはっきりと、鮮やかに見据えておられます。言うまでもなく、ここに集められたお一人お一人のことです。だからこのような祈りを捧げられるのであります。

 確かに、あのとき弟子達は主の御心をわきまえていませんでした。しかし主の御心は、底知れず深く、果てしなく広いのです。実に、彼らの大失敗によっても主の栄光は決して損なわれることがありませんでした。むしろ、彼らのあの挫折、失敗、不信仰がなければ主の栄光の十字架が成就しなかったのです。そこまでご自身の民を救おうとする御心、父なる神から任された人々に永遠の命を与えようとする神の御心があれば、神は今を生きる私どもの表面的な失敗や成功をはるかに超えて、救いの御心、ご自身の栄光を現わされるのです。神がお許しになればむしろ私どもの信仰の大失敗、挫折からですら十字架という究極の救いの出来事の栄光をあらわせるのであります。したがって、私どもですら臆することなく大胆に主イエスを信じ、従えるのです。信仰の冒険を重ねて、天を目指す信仰の旅を安心して歩めるのです。

 もとより、それならあえて失敗しましょうかとか輝かしい働きをしなくてもいいのではないか。そう思うキリスト者はいるでしょうか。いません。

 ウェストミンスターのカテキズムは、その問い一で、人間とは何のために生きているのか、何を目指して生きるべきなのかという、人のあり方の根本を問います。答えは、「人の主な目的は、神の栄光をあらわし永遠に神を喜ぶことである」実に驚くべき答えだと思います。罪深い私どもがどうして神の栄光を現わせるのでしょうか。そのようなことは、自分のどこをどのように見つめても、答えは無理。不可能ということになるはずです。しかし、私どもは知っています。国と力と栄が神のものであるから、私どもにも可能だということです。

私どもは、神の栄光を現わすことを人生の最大の目的、目標としている者どもであります。それなら、どうやって現わしましょう。それは、ひとりひとりがまさに自分の人生をかけて祈り求めるべき一生涯の課題です。若い仲間たちにとっては決定的に重要です。よく聖書をよみ、祈り、学んで、準備して下さい。それなら、すでに高齢となった兄弟姉妹はどうでしょうか。同じであります。どのように死すべきか、終わるべきか、決定的な課題です。ですから、ひとりひとり、すべての世代のキリスト者が真剣に祈り求め続けていることであります。

今日の午後、小会と執事会の合同協議会が持たれます。毎年、この時期には、上半期を顧みて、一人ひとりが自分に託された務めを振り返るレポートを相互に提出されます。それぞれの歩みが主の御前に点検されるのです。そのとき、長老にも執事にも、当然、わたしにも問われるのは教会の目標についてです。ディアコニアの深化、コイノニアの拡大のために、自分は何ができたのか、できなかったのか、互いに問いあうのです。こうして、下半期の道備えとするのです。

さて、これは何も役員だけの課題ではありません。教会員全員がそうあってほしいのです。神の栄光を現わすということは、実に、具体的なことであり現実的な行動です。そして、それは必ず、キリストの体である教会とかかわるのです。何故なら、そこにこそ十全な意味で私どもの人生の主な目的が示されているからです。今朝の子どもの説教では、人は、聖餐に参加するために生まれてきたと語りました。聖餐は、ここに神の教会を形成することの中心的行動であり、それは直ちに、この世界に神の国を出現させ、拡大することに他ならないからです。私どもが生まれてきたのは、生きるのは、この地上に愛と平和、喜びと正義の国を造り上げるためであります。

さて、そう言われると、皆さま、そわそわするかもしれません。コロナの今、私は、主のために、教会のために何ができただろうか、これまで以上に、申し訳なさをかみしめるかもしれません。「ああ、イエスさまは、彼らによって栄光を受けたと父なる神さまに報告されたけれど、わたしなどは、そうは言っていただけないだろうな」そのように逆に落ち込む方はいらっしゃるでしょうか。

 そこでこそ、信仰の基礎を確認致しましょう。私どもは今、どこにいるのでしょうか。今朝は、聖餐の礼典にあずかる主日礼拝式であります。私どもは今朝、主の食卓に招かれました。この食卓で私どもはいったいどのような活動的な奉仕、能動的な、積極的な奉仕ができるでしょうか。できないはずです。確かに、主の晩餐の食卓を整える奉仕者は必要です。しかし、その奉仕には失礼ですが、それは大変な奉仕、骨が折れる働きであるとは言えないと思います。確かに、私どもはここに集まりました。それこそが奉仕の中の奉仕であります。しかし、この奉仕もまた、失礼な言い方ですが、大変な苦労をしてここに駆け付けたとは言い難いのではないでしょうか。

主の食卓の主人は、誰でしょうか。牧師ではありません。主イエス・キリストご自身です。このお方が、ふるまわれる食卓なのです。ここで提供される食べ物、飲み物とは、主ご自身です。そうであれば、私どもができる最高の奉仕は、主のおもてなしに喜んであずからせていただくこと以外にあるでしょうか。「おいしいおいしい」と主イエスからふるまわれる命の食べもの、飲み物を感謝と喜びをもっていただくこと、これのみであります。

この食べ物、飲み物は主の御体なのです。これによって私ども自身が主の体とされてしまいます。ひとりのキリストをみんなで、お互いに分かち合うことで、ここにキリストの体である教会共同体が形成されるのです。そのとき、主イエスの栄光は、ひとりひとりの上に注がれます。天の光はここに、これ以上ない仕方で豊かに注がれるのであります。神の栄光は、聖餐の礼典を正しく挙行し、正しく皆さまがいただくところに決定的に現わされるのであります。

同時にここで私どもはこの栄光を反射します。世界のただ中で照らし出してしまうのです。実に、教会はここでこそ世の光となっているのです。ですから、聖餐の礼典にあずかることは、神の栄光を現わす生涯の究極の時、場所なのです。確かに、汗水たらして奉仕しているわけではありません。むしろ、ただ、おいしいなと、ありがたいなと、感謝するだけであります。しかし、それによってこそ、キリストの体である教会共同体は、この地上に姿を、輪郭を鮮明にするからであります。

同時に、私どもはこのいのちの食卓を共に祝うそのとき、自分にできることをしたくなってしまいます。上半期を振り返って、この世界の救いのために、人々の救いのために、自分はもっとできること、捧げられることがないだろうかと、前を向きたくなるのです。そのような神の栄光をあらわす人生を築ける特権に生きること、それがキリスト者の特権であり使命でもあるのであります。

祈祷
 父と子と聖霊の生ける御神、神の力と神の国と神の栄光が実現する聖なる礼拝式の恵みを心から感謝いたします。岩の上教会があなたの栄光を現わし、そのひとりひとりが神の栄光のために生きる者として祝福し続けて下さい。ここに聖餐を囲む慰めの共同体を形成してください。この慰めの共同体をこの地上に広げに広げて下さい。そのために、一人ひとりを主の栄光の器として用いて下さいませ。アーメン。


子ども説教
 さいしょに、先週のお話しのおさらいをします。
私たちは、光の子どもです。
それは、光よりの光、光そのものでいらっしゃるイエスさまの栄光の光に照らされているからです。
 どこでその暖かな光、いのちの光を浴びるのでしょうか。それが今朝のこの礼拝式です。そんなお話しをしました。

さて、今日の礼拝式では、聖餐という礼典を行います。セイサンって、何でしょうか。説教の後、長老さんたちがとても小さなパンとちっちゃなカップに入れたぶどうのジュースをくばります。皆で、「いただきます」とそろって口に入れます。

「わたしも食べてみたいな。飲んでみたいな。」そう思ったことがあると思います。もしかすると手を伸ばしたことがあるかもしれません。そして、叱られたことがあるかもしれません。そんなお友達は、きっと、「ねえねえ、あれは何をしているの?」と質問したことがあると思います。

 そして今、みんなが分かっているのは、あのおままごとみたいなこと、聖餐に参加できないということですね。ものすごく、残念ですよね。

さて、私たちはなぜ、生まれてきたのか知っていますか。それは、この聖餐のお祝いに参加するためです。これこそ、生まれてきた目的です。聖餐に参加することがなぜ、大切なのでしょうか。イエスさまが、この聖餐に招くために十字架について死んでくださったからです。何故、イエスさまはこの聖餐というおままごとみたいな小さなお食事会をそれほど、大切になさるのですか。

それは、このお祝いに参加するとき、私たちの住んでいるこの世界に神さまの国、つまり、天国が創り出されて行くからなのです。すごいでしょう。

天国、神さまの国に入らなければ、生まれてきた意味がありませんよ。天国、神の国をこの地上に造り出してゆく神さまのお働きに参加しなければ、生まれてきた意味がなくなってしまいます。勉強したり遊んだり、食べたり飲んだり、すべては、この世界に神様の愛と平和と正義の、楽しい国、喜びの国をひろげるためです。だから、はやくこの聖餐のお祝いに参加してください。

7月5日

本日より、下記のように変更いたしました。(感染状況によって変更の可能性があります。)
◆第一部礼拝式 9時30分〜10時30分
◆第二部礼拝式 11時  〜12時     
◆教会学校幼稚科・小学科・中高科 12時〜12時30分 (成人科は休会継続)
一週でも早く通常の形に戻せるように祈り願っております。同時に、通常の形(10時〜11時30分)に戻した場合にも、感染予防のために「短縮」他を継続いたします。


☆★コロナ災禍のための対外献金について★☆
  報告に記載した通り、 コロナ災禍のための「対外献金」は総額255,440円となりました。小会決議からひと月未満でこれだけの対外献金を捧げることができましたことは、率直に申しまして予想外でした。小会は、10万円を目標にしたのですから、今、説教で繰り返し学んでいます通り、神は、私たちの願いや思いをはるかに超えてわたしどもの志を祝福して下さいました。祈りの応答に感謝いたします。また多くの皆さまもまた経済的な打撃をこうむられたにも関わらずの対外献金への熱意を心から嬉しく思います。

ディアコニアの教会たらんと志す私どもの教会が、ステイホームのこの期間、まさに対外ディアコニアを「しない」決断をしたのです。苦渋の日々でしたが、祭司としての祈りの日々ともなりました。しかしそのような中でも「政治的ディアコニア室」の定例のスタンディングを継続しました。外でフライヤーをかかげるだけなのですから、感染リスクは何もない、そう判断してのことです。もとよりそこにも、「こんな時期に・・・、外でなにをやっているのか。あれ、キリスト教?なんだ!?」そのような「目」を考慮に入れなかったわけでは全くありません。こうして、いつものように室員方はメイル他で議論を重ねて、むしろ今だからこそのスタンディングというところに意見は一致し導かれたのです。かかげるフライヤーは、それぞれが考えたものをそれぞれが持つこととなりました。  私は、――「自己責任じゃない!国は補償を!私たちは思いやりを!」――としました。

この三つの呼びかけの対象は異なります。
第一は、「自己責任じゃない!」で、コロナで苦しむ地域の方への呼びかけです。自己責任を強いる時代の空虚な思想に洗脳されるなと。騙されてはならないと。弱くされた人々は、コロナでさらに追い打ちをかけられたからです。コロナ以前の日本の空気、人と人とを競争させ、分断させる流れに対する、教会的主張です。
第二は、「国は補償を!」です。自粛を要請し、それで経済活動を止めた人々への当然の責任と権利を、国(政府)に要求したのです。
最後は、「わたしたちは思いやりを!」です。この私たちの中には、私自身がそして教会が入っています。市民への呼びかけであると同時に、むしろ自らへの問いかけなのでした。こうして、教会堂に集まって礼拝式を再開し、執事的働きを再始動すべく決議して直ちに、対外献金、募金を呼び掛けたのです。執事会は、支援先を慎重に検討してくださり、徳林寺に10万円と物資、ささしまサポートセンターに3万円、セカンドハーベスト名古屋3万円です。これらは、他宗教であり教会関係ではありません。そして、からし種(瑞穂区)に45,000円・抱樸(ほうぼく 北九州)に50,000円をただちに送金することができました。主の御名があがめられますように! Soli Deo Gloria!

☆★祈りの責任★☆
24日の祈祷会で、「祈りには責任が伴う。祈祷会には責任がある・・・。」と学びました。執り成しの祈りは、私どもの務めです。もう、「責務」と言ってもよいでしょう。特権と共に責任が与えられています。さて、その上になお「祈った人には責任があるのだ」ということです。税金を納めることとの類似性があるように思います。つまり、お送りした献金がその団体で有効に用いられるようにその団体のことを知る責任です。教会には、膨大と言うと言い過ぎでしょうが、教会員全員が、  一人の人がすべてを確認するのは不可能に近いと思います。そこで、執事会の働きが求められます。大会や中会なら小会の責任があるはずです。いずれにしろ、祈祷会で用いられる「祈りのしおり」は、極めて大切です。国と力と栄を永遠に所有なさる神に、これからも大胆に、また、このお方にふさわしく祈り求めてまいりましょう。

説教動画

https://youtu.be/rsYyxEdL33s
午後(第二部)の子ども説教と礼拝式説教です。
7月より、午前に二分制です。1時間ほどの短縮礼拝です。お忙しい方には便利かもしれません! お気軽にお越しくださいませ。心から歓迎いたします。

十字架の栄光を誇る

「十字架の栄光を誇る」
                 2020年6月28日
テキスト ヨハネによる福音書第1章4〜9節
【「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」】

 今朝も、主の祈りの頌栄、「国と力と栄とは限りなく神さまのものだからです」を学びます。先日の祈祷会で、皆さんとこの頌栄を唱えてから主の祈りを唱えてみました。それは、ひとえに、「国と力と栄とは限りなく神さまのモノだから、私のような拙い祈りしか捧げられず、何より祈りの祭壇をきちんと築けない不甲斐ない生活でも、祈りを祈れるのだという真理を確認したいからです。私どもは、国と力と栄光をお持ちの神、つまり、父と子と聖霊の三一の神によって今、神の国に招かれ、すでに教会を通して入れられているからであります。さらに今、三一の神の全能の力、創造の偉大な力を受け、それにもまさる救いの力を受けているからであります。そして、まさに今ここで、神の栄光を豊かに注がれ、浴びているからであります。こうして、すでに、私どももまた栄光をあらわすものに変えられているからであります。国と力と栄光は神のものですから、私どもは、大胆にお祈りできるし、安心して信仰生活ができるのであります。

1994年に始まった私どもの開拓伝道の歴史の中で、最初の数か月間、実は、名前がありませんでした。そのような異常な状況の中で、ある雑誌から執筆の依頼を受けました。伝道説教を書いて下さいというのです。とても困りました。原稿を書くことが難しかったわけではありません。むしろ、新しく開拓伝道を始めたことを全国的に知ってもらえるこれは、まさによいチャンスが与えられたとも思いました。しかし、問題は、自分の肩書です。名前のない教会です。牧師とだけ記すのもおかしいなと思いました。そこで書いたのが、名古屋栄光キリスト教会牧師でした。これは、25周年記念誌には載らないであろう小さなエピソードであります。

 さて、我々つまり人々が抱く栄光のイメージとは、どのようなものでしょうか。それは、誰もが羨み、憧れるようなものではないでしょうか。栄光教会という名称もまたキラキラした教会という感じでしょうか。しかし、私の理解は真逆のものでした。わたしは、この栄光の中に、聖書的な意味とりわけヨハネによる福音書において用いられる栄光の意味を込めたからです。

今朝は、聖書が言う栄光とはどのようなものなのかを、学びたいと思います。一言で言えば、十字架の栄光です。主イエスの十字架の苦難、あの十字架の御苦しみこそが神の栄光の現れなのです。今朝は、この聖書の真理について、思いを巡らしてまいりたいと願っています。

さて、そもそも私どもの主イエスとはどのようなお方なのでしょうか。主は、栄光に輝く存在です。神の栄光そのものでいらっしゃいます。ヨハネによる福音書の冒頭の御言葉を聴きましょう。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」著者である使徒ヨハネが証ししている言とか、命とか、光とかすべては主イエス・キリストのことです。言とは、主イエス。命も主イエス。人間を照らす光とはイエスさまに他なりません。この人間を照らす光とは太陽の光でも電気の光でもありません。光よりの光でいらっしゃるお方。光そのものであるお方です。

ヨハネによる福音書は言います。人間はこの光を浴びることができる、この光を浴びて生きることができ、神の栄光を輝かすことができるというのです。そして著者ヨハネは言います。この光を最も浴びた人、この光に最も照らされた人こそ洗礼者ヨハネなのだと言うのです。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」さらに、主イエスはマタイによる福音書第11章でこうおっしゃいました。「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」これは、ユダヤ人にとっては、躓きになる言葉です。何故なら、旧約の中には、偉大な信仰者が綺羅星のように輝く人が大勢いるからです。あのモーセより、洗礼者ヨハネの方が勝ると言われて、はいそうですかと、受け入れるユダヤ人はいないはずです。それならなぜ、主イエスは洗礼者ヨハネをそのように評価なさるのでしょうか。答えは、単純、簡単です。彼は、救い主を直接見た人だからです。救い主のお働きのために直接準備できた人だからです。つまり、ヨハネこそ真の光を最もまじかに見た人、つまり光を浴びた人だからです。その意味で、洗礼者ヨハネこそ、神の栄光を現した人、つまり、神の光を反射した人だということができると思います。つまり、神の栄光をあらわすとは、主イエスという命の光を浴びること、照らされることなのであります。

このように主イエスは光よりの光、正しく神の栄光そのものでいらっしゃいます。ところが、福音書を読むと驚かされるのではないでしょうか。主イエスは、栄光とは正反対、真逆のお姿を示されてしまったからです。その頂点が十字架でした。主は、人々から見捨てられ、軽蔑されました。そして十字架にはりつけられたまま苦しみ貫いて死なれたのであります。いったい、その苦悶の極みのお姿のどこに神の栄光が現れているというのでしょうか。

ヨハネによる福音書第17章には、主イエスの十字架に赴く直前の祈りが収められています。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。〜〜わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」主イエスは、父なる神に栄光を与えて下さいと祈られます。世界が造られる前から父のみもとで持っていた栄光を与えて下さいと祈られます。「時が来た」からだと仰るのです。ヨハネによる福音書が言う「時」とは、十字架につくその時のことを意味しています。つまり、主イエスの栄光があらわされるということは結局、十字架の苦しみであり死の時のことなのです。つまり、主イエスにとっても、父なる神にとっても、十字架の苦難と死、人からの辱めと神からの怒りを受けることこそが主イエスの栄光だというのです。そうなりますと、我々が抱く栄光のイメージはどこかに吹っ飛ばされてしまうのではないでしょうか。

主イエスは、洗礼者ヨハネを人間の中でもっとも偉大だと仰いました。つまり、神の栄光を現わしたのだというのです。しかし、私どもは知っています。彼は、主イエスのために殺されてしまうのです。

さらに、ヨハネによる福音書21章19節でこう仰いました。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」主イエスは使徒ペトロの最期、その死において、その死に方で神の栄光を現わすことになるのだと予告なさいました。そして彼はまさに殉教となりました。つまり、この栄光には、その最も深いところにイエスさまのために苦しむこと、その究極の死すらも含まれているのであります。その意味で、余談ですが、人生の最期のとき、死の時こそ、キリスト者は神の栄光を現わすことができると言う約束でもあります。

さて、もし、神の栄光とは、そのような苦難と死が付きまとうとすれば、誰が好き好んでそのような教会に魅力を感じるでしょうか。もし、人が教会の表面的な姿ではなく、真実の姿を知るなら、そっと立ち去る、上手に逃げ出すかもしれません。

しかし、ここで誤解してはならないと思います。神の栄光をあらわしなさいという呼びかけは、あなたもキリストのように苦難と死に向かって生きて行きなさい。殉教しなさいということなのでしょうか。違います。

確かに、洗礼者ヨハネも使徒ペトロもパウロもさらには著者自身も殉教したはずです。しかし、いかがでしょうか。キリスト教の歴史から言えばむしろ例外ではないでしょうか。しかも彼らは、喜んで、その死を受け入れたのであります。その喜びは、いかなる苦難と死といえども、彼から奪えないものでした。殉教者たちは決してしかたなく死んでしまったというのではありません。彼らは、主イエスの苦難と死、そこにある十字架の愛を知ったのです。そして、そこに神の栄光を見たのです。そのとき、ペトロやヨハネ、パウロたち、すべてのキリスト者たちは、十字架の栄光で照らされたのです。その光の中で、彼らは、自分じしんの尊厳、いのちの尊厳に目覚めさせられました。自分の人生とは何か、どういう生き方が幸福なのかを知らされました。自分らしい生き方、自分とは誰か、何かについて、教えられました。それは、このような罪人でしかない者がなんと神の子であるという事実でありました。そして誰が、どのような方法で神の子にしてくださったのかも知りました。神の永遠の独り子が、処女マリアから肉体を受けて人となり、苦しみを受け、十字架につけられたことを知りました。それほどまでして、この罪人でしかない自分を愛する愛、ご自身のいのちを犠牲にする愛を知ったのであります。

そのとき、彼らは、もはや、自分のために生きるのではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きたくなってしまったのです。ここにこそ人の生きる目的、生きる意義、人生の充実があるのだと分かったのです。そのとき、あれほどまでにこだわっていた、自分のために生きる人生が実は、空しいこと、偽りであったことを知ったのです。それまでの生き方、その考え方とは、言わば、この世の栄光の人間学です。この世の栄光の人間学とは何でしょうか。それは、どこまでも自分のために生きること、自分の栄光を追求する生き方です。分かりやすく言えば、人と競争して勝ち上がってゆくことに価値を置く考え、生き方です。あるいは、人や世間と波風を立たせないように、じょうずに、損をしないように生きて行くことでしょうか。

ペトロの手紙一第4章でこう言います。「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」ここにキリスト者の生活の神秘があるように思います。キリストの苦しみにあずかるとは、キリストのために受ける苦しみのことです。その人は、キリストの栄光が現れる世の終わりのとき、完成された神の国の中に入れられるからです。今、キリストの苦難を喜んで受け入れる人には、聖霊の力があふれるほど働いています。そして、この聖霊は、私どもが神の国に入る保証なのです。聖霊は栄光の霊です。まさに苦しみを担うとき、栄光が私どもの頭上に輝くのです。キリスト者の共同体とは、この苦しみにおいて深く結ばれています。慰めの共同体とは、信仰の苦しみを共にする交わりなのであります。

そのことを知った人、キリスト者は祈り始めます。何故なら、この新しい生き方は、神の栄光のおかげで与えられたものでしかないと知っているからです。そして明るく、このように信じるのです。「ああそうだ、国と力と栄はすべて神のものだから、神の栄光のおかげで、主イエスの十字架の栄光のおかげで、こんな罪人でしかない私は、キラキラ光輝く、神の子、光の子とされているのだと信じるのです。信じる人は祈り始めるのです。自分の力ではなく、神の力で救われ、生かされているからです。だから、神の力、罪人を赦し、永遠のいのちを与え、復活させる、天地創造の力をはるかに超える救いの力を、聖霊の力を求める以外に生きられないからです。

最近、マザーテレサさんのこのような祈りを知り、びっくりしました。「解放」という題がつけられた詩です。

イエスよ、わたしを解放してください。
愛されたいという思いから。
評価されたいという思いから。
重んじられたいという思いから。
褒められたいという思いから。
好かれたいという思いから。
相談されたいという思いから。
認められたいという思いから。
有名になりたいという思いから。

侮辱されることへの恐れから。
見下されることへのおそれから。 
非難される苦しみへの恐れから。
中傷されることへの恐れから。
忘れられることへの恐れから。
誤解されることへの恐れから。
からかわれることへの恐れから。
疑われることへの恐れから。

マザー・テレサさんは今やローマ教会で聖人と認定された方です。ところが実際の彼女は、このような人間的な思い、このような人間的な恐れから決して無縁の人ではなかったのです。むしろ、自分の中にこびりついているこの世の栄光の人間学から解放されたいと祈り求めたのです。十字架の栄光の神学、つまり主と共に生きる道、弱い人と共に生きる道を選び取れるようにと祈り続けたのです。そして、主イエスの栄光は彼女のこの祈りをかなえて下さいました。主の栄光を彼女を照らし、ご自身の十字架の栄光の道を誰よりもしっかりと歩まされた人となったのでした。

私どもも、このように歩みたいと思います。失礼な言い方になるかもしれませんが、マザー・テレサは、私どもとまったく同じです。なお闇を抱えているのです。ですからキリスト者は皆、聖人であり同時に罪人でもあるのです。そして信仰の生活とは、主イエスがすでに準備して下さったこの確かな一本道を、主とともに歩むことなのであります。なぜなら既に、神の栄光は私どもの頭上に、今ここに輝いているからであります。私どもはこの命の光に照らされています。闇を抱えていても大丈夫です。十字架の栄光がその闇を照らし、闇から解放し、闇から救い出してくださるからです。国と力と栄光とは永遠に神のものだからです。この栄光だけが、この光だけが、十字架へと続くこの一本道を、復活へと至るこの命の道を導き照らしてくれます。しかも独りぼっちではなく、神の民の祈りの家と共に、教会と共に歩むのであります。そのとき、教会が、そして、その教会をつくる、ひとりひとりが神の栄光を豊かに現わすことができるのであります。

祈祷
神の栄光を仰ぎ見る今、私どももまたあなたの栄光を反映し、映し出すことができます。確かに、この栄光は多くの人々が羨み、憧れるものとは異なります。しかし、この光こそ、命の光です。この命の光の内に、私どもが生き、また死ぬことができますように、これからも導いて下さい。そして、私どもがこの町、この社会のただ中で、あなたの光を放ち、世の光として用いて下さい。


子ども説教
私たちのイエスさまは、天の父なる神さまの独り子です。この世界が造られる前から、宇宙も何もない、最初の最初から、イエスさまは父なる神さまといっしょにおられました。

神さまは、そんなときから、実は、私たちを神さまの子どもにしようとお考えになっておられました。○ちゃんが生まれる前から。お父さん、お爺ちゃんが生まれる前から。ずっとずっと前から、神さまはお決めになられたのです。

さて、僕たち私たちは、神さまの子どもなのです。それなら、神さまの子どもは、他の子どもたちとどこがどう違うのでしょうか。朝昼夜とごはんを食べる。学校や保育園にも行く。みんなと遊ぶ。勉強する。まったく違うところはないと思います。

しかし、ひとつはっきりしていることがあります。これは違うという点があります。それは、教会に来ているということですね。教会で一番大切なことはなんでしょうか。それは、礼拝することです。

何故、礼拝が大切でしょうか。それは、神さまの子どもは神さまからの命、光を注がれなければ生きて行けないからです。
神さまは、今、礼拝で○ちゃんを照らしてくださいます。この光を浴びるとき、神さまの子どもは、神さまの子どもとなります。神さまの子どもとして生きて行けます。

礼拝では、お話しがあります。神さまの言葉を聞きます。でも、お話し、説教を聴くことだけが大切ではありません。お話しを聞いて、神さまの光を浴びることです。光に照らされることです。

礼拝は、お祈りして、賛美歌を歌って、信条を唱えます。これを心を込めて捧げます。献金も捧げます。そのすべてに真心を込めて、するとき、僕たち私たちは神様の命の光を浴びるのです。そうして、神さまの子どもとして大きくなって行くのです。

目次
名古屋岩の上教会
〒458-0021
名古屋市緑区滝ノ水2-2012
TEL&FAX:052-895-6701 
WEB:http://iwanoue.com
牧師紹介
□牧師 相馬伸郎□
下記の定例集会にどなたもお気軽にお越しください!心から歓迎いたします。
求めるあなたに、かならず、救いが与えられます。


□主日礼拝式□
毎週日曜日
10:00〜11:30
※2019年4月より

□教会学校□
毎週日曜日 
嬰児から高校生まで
11:30〜12:00
※2019年4月より

□祈祷会□
毎週水曜日 
朝 10:00〜11:30
夜 19:30〜21:00

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