名古屋岩の上教会

わたしはこの岩の上に私の教会を建てます。 -マタイによる福音書第16章18節-

名古屋岩の上教会ウェブサイト

教会の公式ホームページもご覧ください 
名古屋岩の上教会ウェブサイト">http://iwanoue.com/

2月19日


★   先週の子どもの教会の説教は、「御国を来たらせたまえ」で、私が担いました。「私たちの国で一番偉い人は誰でしょう?」と。小学生から、「安倍首相・・・」と。予想通りの答でした。昔なら「天皇陛下!」となるでしょう。「本当に偉いのは、ここにいるひとりひとりなのだよ」と。主権者は国民、有権者です。主権者をないがしろにする政府は不要です。一方で、神の国は、神が主権者、王です。その上で、ここが肝心ですが、神の国が完成される暁には、私どもひとりひとりも「王」として「キリストの共同の相続人」となります。

☆    今朝も、説教の分かち合いを行います。聴くだけでもかまいません。出席してください。先週、上記の説教を聴いた高校生がその日の深夜、すばらしい黙想を書いてくれました。祈祷会では、彼の文章とそれに対するわたしのフェイスブック上での応答、詩編第16編の解説のレジュメを配布しています。ぜひ、ご確認ください。 先週の主日説教では、「世界でたったひとりきりになってしまったパウロ・・・」についても学びました。彼とその信仰をきちんと黙想するなら、すぐに言葉を紡ぐことなど、むしろできなくなるかもしれません。説教は時に、私たちから言葉を奪うことがあります。ひとり孤独に神の前に立たされる体験です。深く孤独に思考し、呻きのような祈りを祈る・・・。遂に、「御心がこの身になりますように」と・・・。それなら何故、説教の分かち合いをするのでしょうか?み言葉による「交わり」を求めてのことです。出席を!

◆   次主日は、定例読書会を変更し、墓地取得委員会主催の「懇談会」を行います。次主日の説教テキストの中に副題として「神殿と墓地」と加えました。テキストには、「墓地」の記述は一切ないにもかかわらず、それを語るなどということはおよそ説教では、あってはならないことです。しかし、墓地や教会堂のことを、テキストの応用問題として考えることが出来るだろと思ってのことです。建墓を目前にしつつ、なお、この集いを開催するのは、心(志)と思い(感情)を一つにして献墓したいからです。

◆    この委員会には、長老たちも委員となり〇〇長老が委員長です。推進するのはまさに委員会です。その意味で、かつての会堂建築の際のさまざまな苦労を、わたしはまったくしないままです。しかし、やはり教師としての責任は果たさなければなりません。下記します。

◆   私たちは死んだ後どうなるのでしょうか。私たちの肉体は、物質として朽ち果てて行きます。しかし、人間の魂は、死後直ちに、これを創造された神のもとに帰ります。つまり、天に入れられるのです。神の子、キリスト者の特権です。ここからむしろ、「だから、お墓なんてどうでもよいではないか」というような議論も成り立つかもしれません。しかし、私どもはこの命を神から「授かり」ました。同時に、父母から「受けた」ものでもあります。つまり先祖あっての自分なのです。そして、その命はまた、子孫へと引き継がれて行くべきものです。もし、世界が自分一代限りで終わるものであれば墓には、何の意味もありません。しかし、主の再臨まで、私どもは地上の命を後の世代へと引き継いで行くべき者です。神から授かった生涯を、後代のために地上に記念し、神に感謝をささげることは、後に続く者たちの大きな励ましになります。墓、あえて記せば、信仰の有無にかかわらず人間にとって極めて大切なのだと確信します。

◆   墓の前に立ち、信仰をもって墓を見つめるとき、自分たちの人生のゴール、つまり、「体のよみがえり」の黙想が深められるだろうと思います。丁寧に言えば、「この肉体」の復活ではありません。今ある肉体であれば、また病気になり、朽ちてしまいます。しかし、「キリストの復活の体」は、「霊の体」です。・・・・と書いている私自身、それがどのような体なのか、はっきりとは分かりません!!復活のキリストのお姿をわずかの聖書の証言を基に思いめぐらしてみる以外に想像がつきません。ただし、分かっているのは死んだ当時のその体が復活するのでは全くないということです。キリストの復活の体、しかも天に今いらっしゃる栄光の体へと復活するということ、ここにこそ、私どもの「ゴール」があります。確かに、私どもは既に今ここで、復活のいのちを受けています。「地獄(陰府)の力」にも打倒されない教会の交わりに生かされているのです。しかし、それが究極ではありません。「体の甦り」こそ、私どもの究極のゴールなのです。

◆   実は、浜松伝道所は、未だそこに葬る会員がいらっしゃらないのに建墓しました。ここに献墓の必要性、緊急性が鮮やかに示されていると思います。上記のことごとはもとより、教会形成と伝道をしっかりと進めるために、必須だとの判断があったからです。この日本での伝道にこそ、墓地は必要です。未信者の方に、「安心感」を与えることができるでしょう。未信者の家族にも安心感を与え、信仰への強い招きともなります。私どもの信仰の勝利を証しすることもできます。そして、最後に、私ども自身の益です。ついには、ここで葬られることができるのだという安心感も与えてくれるでしょう。

「信仰と善き生活 パウロかヤコブか?」

「信仰と善き生活 パウロかヤコブか?」
2017年2月19日
聖書朗読 使徒言行録第21章15−26節 (p256)
【数日たって、わたしたちは旅の準備をしてエルサレムに上った。カイサリアの弟子たちも数人同行して、わたしたちがムナソンという人の家に泊まれるように案内してくれた。ムナソンは、キプロス島の出身で、ずっと以前から弟子であった。
わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げた。】


16世紀、教会の改革者ルターが新約聖書の中にあるヤコブの手紙のことを「藁の手紙」と呼んだことは、大変に有名なことです。言うまでもありませんが、聖書66巻は神の言葉、教会の正典です。したがって、この言わばヤコブの手紙への「悪口」は、私どもから言えば冒涜ではないかとすら思えるほど過激な発言です。ルターは、これをパウロの手紙と比較して言ったわけです。ルターは「人はただ恵みによってのみ、信仰によってのみ救われるのだ」と主張して、当時の教会の教えと行動を根本から批判しました。有名な「教会改革の原理」と言われる主張です。またそれは、「福音の再発見」とも言われてまいりました。ルターは、この主張を裏付けるテキストとしてローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙をより大切にしたのです。黄金の手紙だと言うのです。一方で、彼によって藁の手紙だと揶揄されたヤコブの手紙にはこう記されています。「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」おそらくここだけ読むと、私どももルターと共に「ああやっぱり、この手紙の価値はパウロの手紙と比べれば格段に低い。それどころか、そもそも福音ではないのではないか」とすら言いたくなるかもしれません。しかし、ヤコブの手紙全体の文脈から読めば、人は行いによって義とされるということは真理であると断言できるだろうと、私は思います。

今朝、読みましたテキストは、これまで歴史上なんども繰り返されてまいりましたこの議論に正しい答えを明瞭に示す箇所です。私どもに聖書の正しい読み方、教理の正しい理解を確立するために、決定的なテキストです。それだけに、特別な思いをもって丁寧に学んで参りたいと思います。

15節から読みます。「数日たって、わたしたちは旅の準備をしてエルサレムに上った。カイサリアの弟子たちも数人同行して、わたしたちがムナソンという人の家に泊まれるように案内してくれた。ムナソンは、キプロス島の出身で、ずっと以前から弟子であった。」先週は、エルサレムからやってきたアガボという預言者によってパウロのエルサレム行きを阻止しようとする事件が起こった事を学びました。しかし、最後には全員がこのように祈りの言葉を唱えたのです。「主の御心が行われるように」どれほど重要な信仰の言葉、態度であるかは改めておさらいする暇はありません。ただし、ここで改めて確認できると思うことがあります。命の危険にさらされるエルサレムには、パウロひとりが行ったのではないということです。「私たちは」とありますように、著者ルカをはじめパウロ伝道チームはもとより、カイサリアの他の弟子たちもお供したのです。彼らは、パウロがエルサレムに行くことを神の御心であると確認しました。頭で理解し、互いに確認しあったのです。しかし、もしそこで終わっていたらどうでしょうか。何にもなりません。信じることとそれを行うこととは一つのことなのです。彼らは、いっしょに殺されるかもしれないという恐怖心を乗り越えて、パウロと共に今、エルサレムに着いたのです。まさに、彼らは全員、言行一致。信仰と行いとが一致していました。

さて、エルサレムでは、ムナソンという人の家に泊まる手配が整えられていました。おそらく昔からの信者で、もしかするとパウロに導かれた人なのかもしれません。こうしていよいよ「エルサレムに着」きます。すると「兄弟たちは喜んで迎えてくれ」ました。ムナソンの家では、手料理をもてなされ、食べ終わるやぐっすり寝込んだかもしれません。

そしてその翌日です。ここからが本番です。パウロは、まさにいのちをかけて、エルサレムに来ました。それは、エルサレム教会と異邦人教会との間に深い一致が保たれなければ、キリストの教会は成り立たないからです。もしもエルサレムの教会と異邦人の諸教会との間に誤解や無理解があれば、キリスト教の歴史を前に進めることができないからです。パウロはまさに、歴史的使命を帯びて、エルサレム教会を訪ねているのです。
さて、使徒パウロは、最新の正確なエルサレム教会の情報を把握していました。彼は、教会には既に使徒たちはおらず、ヤコブが指導的な立場にいるということを知っていました。ですからまっすぐヤコブに会いに行くのです。このヤコブとは、主イエスの弟です。彼は、主が十字架につけられた後にキリスト者、弟子になったのだと思われます。ご復活の主イエスがこの弟にもお会いくださったからでもあります。冒頭で申しましたように新約のヤコブの手紙の著者と思われる人です。ヤコブは、主の弟子のひとりとなるばかりか、エルサレム教会になくてならない指導者として認められて行ったのです。

さて次です。彼は、挨拶もそこそこに、ただちに異邦人伝道の報告をします。「パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。」先ず、この書き方を丁寧に見ましょう。「自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたこと」とあります。この文章の主語は、神です。パウロはここで神の働き、神が行われたことを報告します。これをこそ「証し」と言います。つまり、証しとは、自分のことがその目的や中心にはならないということです。もとより、神はご自身の僕、主の弟子を「通して」御業を行われます。まさに謙遜の中の謙遜でいらっしゃるお方です。しかし、同時に、神はご自身の働きを私共を言わば道具として用いて進めたもうのです。その意味で、このわたしという存在は必要不可欠です。神の前では、ひとりひとりがキラキラと輝きを放つのです。私どもは、言わば、神のお働き、あるいは恵みの「ホース」です。神は、このホースを通してこの世にむかって恵みを豊かに注がれます。そうであれば、私どもに求められていることは、通りの良い管、太いホースになるということだけです。また、どれ程太いホースであっても、途中で折れ曲がっていればポタリとも水が出ない場合があります。神とまっすぐな関係にあることが大切です。

さて、エルサレム教会の指導者たちのリアクションはいかがだったのでしょうか。「これを聞いて、人々は皆神を賛美し」ました。この、み言葉をきちんと読めば、冒頭に申した議論の半分以上は解決できると思います。ここに「皆」とあります。全員です。満場一致です。全員が一致するというのは、この世の会議では、おそらくほとんどないことでしょう。教会の実務上の会議でも、きわめて難しいことです。しかし、絶対に満場一致にこだわらなければならないことがあります。それは、信仰の根幹、教理の根幹の部分における一致です。使徒言行録ははっきりと証言します。エルサレム教会とパウロによって開拓された異邦人中心の諸教会との間には、完全な信仰の一致があるという証拠です。これこそ、キリストの教会にとって何にもまさって決定的に、生命的に大切な点です。

神は、パウロを通して神の恵みの言葉を鮮やかに語ったのです。まさにパウロの証しした福音とは、キリストの福音、神の福音なのです。同時にそれは、神がヤコブを通して語られた福音とまったく同じだということです。異邦人の諸教会とエルサレム教会の福音理解とは、まったく齟齬がないのです。一致しているのです。つまり、福音は一つだということです。エフェソの信徒への手紙第4章で、パウロはこう書き記しました。「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一」この点をどれだけ強調してもしすぎることはありません。
 
さて、そのことを十分に踏まえてこそ、エルサレムの長老団のこの言葉を正しく解釈することができます。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。」

実は、わたしが読んだ多くの注解者たちは、この箇所をとても否定的に解釈する人が多いのです。つまり、本音の部分でユダヤ人キリスト者は、パウロの働きを受け入れていないというのです。ほんとうにそうでしょうか。いったい、エルサレム教会は、この発言で何を言わんとしているのでしょうか。そもそもユダヤ人キリスト者は、「皆熱心に律法を守っています。」と告白しています。言うまでもなく、それが悪いという事など夢にも思っていません。まさに、誇らしい思いでここは必ず見倣ってもらわなければならないというくらいの勢いで証ししているのです。ここがまさに大切な点です。彼らは、律法を熱心に守る自分たちの生き方とパウロが異邦人に対して語っている福音とは、決して矛盾するものではないということを、パウロと共に証ししたいと願っているのです。パウロとヤコブの教えの一致、エルサレム教会と異邦人教会との一致、その神学的な意義である「信仰と行いとの一致」について証ししたいのです。実に、この物語は、聖書の真理、信仰によって救われることと行いによって救われるということとは、実は、一つの真理の裏表であること、二つは一つに結び合わされたものだということを、まさに強烈に証ししていると思います。

そもそも、信仰と行いとは、二つの別のことではありません。それは当然のことのはずです。冒頭で確認しましたが、仮にもしも、パウロがエルサレムに行くことを神の御心であると理解して、「主の御心が行われるように」と告げることができたとしても、行くのはパウロ先生ひとりでどうぞ、ということであれば、それは、本当に主の御心を信じ、受け入れていることになるでしょうか。信じることと従うこととは、わけることはできないはずです。
さて、それなら、どうしてここで、この単純素朴な真理が、教会を破壊させ、一つの教会を分裂させてしまいかねないほどの危機をもたらしてしまったのでしょうか。

地上の教会は常に戦いの渦中に置かれています。戦い、課題、試練のない教会はあり得ないはずです。何故なら、まだ、地上は神の国が完成していないからです。教会の内外から罪と悪魔の攻撃が絶えずあります。それなら、ここでの危機の原因とは何でしょうか。それは、十戒違反です。キリスト者たちが第9戒の「あなたは偽証してはならない」を破ってしまったからです。偽証とは、嘘です。ここでは、キリスト者の「噂」が原因で、教会が建つか倒れるかの大問題になってしまっているのです。噂話一つによって教会が壊れる、神の働きが止めさせられるということが、現実に起こりかねないということが分かります。

彼らはこう言いました。「あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。」彼らは、まさにこの噂話は、偽証でしかないと
いうことをパウロの口から直接聞いて、あらためて確認することができました。

確かにパウロは、異邦人には「子どもに割礼を施す必要も、ユダヤの慣習に従うことも何一つとして救いには関係がない」こう主張しました。しかし、それはあくまでも異邦人からキリスト者になった者たちに語られた言葉です。決して、ユダヤ人に言ったのではないのです。この恐ろしい噂の火元、出所は明らかです。ユダヤ教的キリスト者、伝道者です。エルサレム教会の人々は、今、このパウロにつきまとう噂をはっきりと否定しておかなければ、第一に、パウロ自身と異邦人教会にとって、何より自分たちエルサレム教会にとって、大変な悲劇が起こりかねないことを知っているのです。何故なら、既にエルサレム教会は、数万人規模となっています。ヤコブが「だから、わたしたちの言うとおりにしてください。」と言ったのは、決してパウロを無理やり自分たちの流儀に引き寄せようとするためではありません。反対に、パウロの身を守るためにこそ大切だと思ってのアドバイスであり提案なのです。

具体的な提案がなされます。少し長いですが、読みます。「わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。」パウロは、苦虫をかみつぶすように、この指導を聴いたのでしょうか。違います。彼はこの四人をつれてすぐ翌日、清めの儀式を受けるためにいさんでエルサレム神殿に詣でます。パウロは、生粋のユダヤ人なのです。そのような彼にとって、律法とは何でしょうか。パウロはローマの信徒への手紙第7章でこう言いました。「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。〜律法が霊的なものである」詩編第19編で、詩人は律法についてこう歌っています。「主の裁きはまことで、ことごとく正しい。 金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」旧約において、神の律法がどれほどすばらしい霊的な祝福であるかは、よく分かります。しかし、ヤコブはもとよりパウロ自身も、神の律法の大切さ、霊的なものであり、聖なるものであるという確信は、主イエスさまの福音を知ることによって失われるどころか、ますます、まことの耀きを放ったというべきです。

そもそも、パウロにとってユダヤ人の救いは究極の祈りの課題なのです。彼はここで、ただ神の栄光を求めて行動しているのです。神が賛美されることを求めるのです。言い換えれば、人の救いを優先して、そのために行動しているということです。このあたりのことをパウロ自身が、コリントの信徒への手紙蟻茖江錬隠浩甍焚爾砲ちんと書いています。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。」まさに、ここで彼がしたことはそう言うことです。ユダヤ人の良心、丁寧に言えばユダヤ人キリスト者の良心を躓かせないためなのです。彼は、同行しているテモテが割礼を受けていないことを考慮して、なんと、大人のテモテにあえて割礼を受けさせています。ユダヤ人伝道のためには、それがよいという確信があったからです。大切なことは、神の栄光のためなのです。言い換えれば、人々の救いのためなのです。自分のプライドやメンツはどうでもよいのです。

最後に、ヤコブたちは、あの第15章のエルサレム会議の決定をあらためて確認して言いました。「異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」

エルサレム教会は、パウロたちによって拡大している異邦人教会のことを喜び、神に感謝したのです。決して、自分たちの慣習に染めようとは思いません。ただ、霊的な偶像礼拝また肉的な偶像礼拝である不品行の二つを避けるという、律法のごく基本的なことを念押ししたまでのことです。つまり、異邦人教会を言わば公認しているということを再確認する言葉なのです。ですから、パウロは、いきようようとエルサレム神殿に出かけて行ったのだろうと思います。繰り返しますが、パウロは、「神殿礼拝は救いにとっては何の意味もない」と確信しているのです。ただし、神殿で礼拝することはよいことです。しかも、目の前のユダヤ人を躓かせないためだというのなら、どんどん、神殿で礼拝してみせてあげればいい」こう考えています。罪の赦し、救いのために神の律法を守ることなど本末転倒です。信じて救われたから、神の律法を守るのです。

今朝の箇所は、福音の本質を考える上で決定的に重要な箇所でした。今朝の短い説教で、皆さまの頭の中に整理され、現実の教会生活にどのように適用するか、応用するかということまで言えば、とても難しい課題だろうと思います。この後、分かち合いがあります。そこで、率直に語り合われたら幸いです。確かに、教理の学びの浅い方には、手取り足取り教える必要があるかもしれません。今朝は、信仰と行いとは一つのこと。信仰による救いと行いによる救いとは一つのこと。律法は福音によって新しい光を放つこと。例えば、十戒は、イエスさまの福音によっていよいよ愛すべき、守るべき掟となったことがわかっていただけたら幸いです。

また、教会の役員方、教会を建てあげる奉仕の中心で担いたいと願っていらっしゃる方には、この箇所から応用問題を解く訓練が与えられるだろうと思います。たとえば聖書の中には、一見すると矛盾するような主張があります。それをどのように解釈することが正しいのかということです。その為にも今朝の箇所を何度も自分で考えることが、その訓練の最適な道となります。

祈祷
天の父よ、あなたの律法を守ることとあなたを信じることとは一つのことです。あなたを信じることは、あなたの御心を生きることです。どうぞ、聖霊を注いでください。正しく信じ、正しく従わせて下さい。福音は極めて単純な真理ですが、世界は極めて複雑です。どうぞ、この現実の複雑な出来事の中で、福音の単純さを見失わず、また、現実の複雑さを無視することがありませんように。私どもが、今の時代のただ中で、福音にふさわしい生活と教会を整えることができるように、霊的な知恵を豊かに与えて下さい。 アーメン。

「主の御心が行われるように、と祈る」

主の御心が行われるように、と祈る」
2017年2月12日
聖書朗読 使徒言行録第21章1−14節 (p255)
【わたしたちは人々に別れを告げて船出し、コス島に直航した。翌日ロドス島に着き、そこからパタラに渡り、フェニキアに行く船を見つけたので、それに乗って出発した。やがてキプロス島が見えてきたが、それを左にして通り過ぎ、シリア州に向かって船旅を続けてティルスの港に着いた。ここで船は、荷物を陸揚げすることになっていたのである。わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった。彼らは“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。しかし、滞在期間が過ぎたとき、わたしたちはそこを去って旅を続けることにした。彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共に浜辺にひざまずいて祈り、互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った。
わたしたちは、ティルスから航海を続けてプトレマイスに着き、兄弟たちに挨拶して、彼らのところで一日を過ごした。翌日そこをたってカイサリアに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった。この人には預言をする四人の未婚の娘がいた。幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。そして、わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。】


  使徒言行録を読むときには、やはり地図が必要です。今朝、御願いをして目の前に映し出していただきました。今、使徒パウロの伝道チームはついにエフェソの長老たちに送り出されて、ミレトの港から船に乗って出発します。南下してコス島に直航しました。さらに翌日ロドス島に着き、そこからルキヤ地方の町パタラに渡ります。はるか故郷をめざしフェニキアに行く船を見つけたので、それに乗って出発した。これまでの船は言わば小型船でした。しかし今、旅客船を見つけます。こうしていよいよ本格的な船旅へと進みます。「やがてキプロス島が見えてきたが、それを左にして通り過ぎ、シリア州に向かって船旅を続けてティルスの港に着いた。」いよいよここから、エルサレムを目前にして旅を終えようとしています。

 先週の説教で、パウロと長老達が男泣きに泣きながら別れを惜しんだ場面についてまるで映画のワンシーンのようだと申しました。それは、今朝のこの箇所でも続きます。いえ、私は先週より、さらにドラマチックだと思います。
 
先ず、ティルスのキリスト者たちとの出会い、交わりの美しさから始まります。この町のキリスト者の家に7日間滞在します。お互い初対面です。しかし、ティルスのキリスト者はパウロのことをよく知っていたはずです。何故なら、そもそも、自分たちがこの町で暮らすようになったのは、まさにパウロのせいだったからです。パウロがあのステファノを殺すことを指示し、彼が殉教したとき、ユダヤ人キリスト者はエルサレムから遠くフェニキア、キプロス、アンティオキア(11:19)まで逃げて行きました。実に、このティルスのキリスト者たちこそ、命からがら逃げだした人々に他なりません。つまり、彼らは、自分たちを故郷から追い出し、ステファノというこのうえない指導者、仲間を殺したまさにその究極の敵と共に過ごすのです。しかし今や、彼らには、以前のわだかまりは完全になくなっています。憎しみは完全に克服されたのです。むしろ、彼らはこのようなパウロを案じて言うのです。「彼らは“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。」彼らはパウロを主イエスの僕、使徒として完全に信頼し、愛しているのです。だからこそ何ども、「行くべきではない」と訴えたのです。しかし、それが聞き入れらないことを悟ったとき、「妻や子供を連れて、町外れまで見送りに」行ったのです。どれほど、パウロたちは嬉しかったことでしょうか。

 次に進みます。パウロたちは「翌日そこをたってカイサリアに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊ま」ります。人間の情愛の感情を乗り越え、立ち上がります。さて、文脈から大切なのは、ここからです。「幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。そして、わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」フィリポの町に滞在しているパウロのところに、なんとユダヤからアガボという預言者が訪ねて来ました。これも当時のネットワークで、パウロのこと、居場所をしってのことだったかもしれません。アガボは、言葉だけではなく、パフォーマンスを入れて、手足を縛られることになるのだ告げます。これは、旧約以来の預言者の言わば伝統芸です。私どもはすでにパウロのことを知っています。まさに逮捕されたのです。彼は、正真正銘の預言者で、この御告げは聖霊なる神によるものに他なりません。

 さていよいよ、ここからがクライマックスです。小説や映画のようなドラマチックなやりとりが起こるのです。「わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。」ここで、「わたしたち」とあります。パウロ伝道チームのなかで意見が割れてしまったのです。言わば、ルカたちはついに「挫けてしまった」のです。彼らにとって信仰の挫折を味わったのです。

  パウロ伝道チームは、まさに水も漏らさぬ共同体です。信仰の絆でどんな共同体よりも強力に結ばれたまさに史上類例のない強力な伝道チームです。ところが第三次伝道旅行もまさに終わろうとする今ここで、亀裂が生じます。これまで何度も、「お願いします。行かないでください。次の町に行ったらどんなにひどい目に遭うことでしょう。殺されるかもしれません。ここに留まって下さい」と、救われたばかりのキリスト者から懇願されてきました。彼らは、そのたびに後ろ髪を引きずられつつも、それに負けないで、立ち上がって出発したのです。ところが今、遂に、降参してしまったのです。全員が、こう説得します。「パウロ先生、引き返しましょう。神さまは、わざわざ預言者アガボまで遣わしてくださってまで来るなと仰るのです。」私は、彼らが、ここで挫けてしまった理由の一つに、アガボのパフォーマンスがあったと思います。本当に、パウロがどれほど苦しい目に遭うのかをリアルに感じて、ぞっとしてしまったからだと思います。もう一つの決定的な理由もあると思います。それは、聖霊がわざわざアガボという預言者を派遣なさったということの特別の重さです。こうして彼らは、遂に、パウロの決断はパウロ先生じしんの人間的な決意によるのではないかと疑ってしまったからです。

  既に、キリスト者はたくさんいます。しかし今やパウロは世界中でただひとりきり、です。理解し応援してくれる人は誰もいません。いったい人間にとって一番、きつい、つらいことはなんでしょうか。それはおそらく家族のような親しい仲間から、しかも自分のことを心から案じて、信仰の決断に反対されることです。彼らは言います。「もちろん、信仰を否定するつもりはないよ。しかし、何もそこまで、徹底してやらなくてもいいはずです。他の誰かがしてくれるのではないの」こう言われることではないでしょうか。これは、家族伝道の困難さを体験していらっしゃる方は、ただちに想像できると思います。確かに信仰の道をひたすら歩んでいた人が、親や、妻や、子どもを前にて、志が挫けてしまうことがあります。パウロは今、子どものような、また兄弟のような信仰の仲間たちから「行くのは止めておきましょう。いや、いつかは行くことになるでしょう。私たちもお供をする覚悟はきちんとできています。でも、パウロ先生、少なくとも今はその時ではないはずです。よく考えて下さい。考え直して下さい」と、泣かれているのです。
 
  わたしは、使徒言行録を学んできて、何度も信仰の道の厳しさを思わざるを得ませんでした。そしてこの箇所ほど、おそろしい箇所はないのでではないかと思いました。もしここで、パウロが一言、「ありがとう、君たちの説得によって分かりました。アガボ君、よくわざわざ私を捜して来てくれたね。君のおかげで、命拾いできるのだね。エルサレムには、今は行かないことに決めた」こう言えば、皆が「よかった、よかった、神さまが助け、導いてくださったのだ」と喜び合うはずです。パウロを弱虫と嘲笑う人など誰もいません。むしろ、エルサレムに行くと言い張るなら、もう、「分からず屋、強情」と言われかねない勢いなのです。

  さて、パウロはどう向き合ったのでしょうか。即答したのか、しばし沈黙したのかは分かりません。しかし、最後にこう言い切ったのです。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」ここに「わたしの心をくじいた」とあります。私どもは、ここでパウロの心の内を少しだけ覗いてしまいました。つまり、パウロと言えども、心くじかれる経験を重ねて来たのですし、ここでぎりぎりくじかれそうになったということです。

  今さら確認する必要はないと思いますが、あえて、申します。パウロは冷い人ではありません。彼はエフェソの長老たちとの別れを悲しんで、男泣きに泣いた人です。たった一人の魂を主に勝ち取るために、ひとりの教会員の牧会、訓練のために涙を流した人なのです。だからこそ、外からの迫害や攻撃より、愛する信仰の仲間たちからのこの説得はつらかったと思います。

   しかし、彼はいまここで、徹底的に「初めの愛」に踏みとどまります。キリスト者と教会にとって決定的に重要な「初めの愛、初めの頃の愛」です。それは、パウロにとっては、復活の主イエスさまから罪を赦されたこと、そればかりか宣教の使命、証しの務めを与えられたことです。彼は、あの日から今日まで、「天からの啓示に背かず」に生きて来ました。そこで彼は、これまでの決心をあらためて披瀝して、こう訴えます。「主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」

 こうしてついに、ルカをはじめパウロ伝道チームのメンバー全員もフィリポたちもパウロのこの壮絶な決意を受け入れます。そして、彼らはこう言って、口を閉ざします。「主の御心が行われますように」もう何も言えなくなったのです。これは、もしかすると信仰のない人が読むと、誤解されるかもしれません。「ああ、分かる分かる、頑固おやじはどこにでもいるからな」とです。彼らは、「もう好きなようにすればよい」と突き放してしまったという解釈です。しかし、まったく違います。「主の御心が行われますように」と言う言葉は、究極の信仰の言葉です。信仰そのもの、究極の信仰の態度です。ですから、ルカたちは、決してパウロひとりをエルサレムに送り出しません。彼らは、同じ信仰に立ったのです。「ああ、これが主の御心なのだ、だからわたしも主について行く、パウロについて行く、神よ、どうぞあなたのご計画を行って下さい」と、自分の存在を主にゆだねきって出発するのです。

 私どもは主の日のたびに、さらに言えば、集会のたびに、主イエス直伝の祈りの教え、祈るように命じられた祈りを祈ります。主イエスの祈り、主の祈りです。その中に、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」があります。要するに「主の御心が行われますように」ということです。

 今、子どもたちと「主の祈り」を学んでいます。主の祈りを学べば、キリスト教信仰のほとんどを学ぶことができる、そのような祈りです。そして、この主の祈りを共に祈るとき、地上に必ずキリストの教会は建ちあがる、そのような祈り、そのための祈りが「主の祈り」なのです。

  また、この祈りは実に壮絶な祈りだと私は思います。何故なら、私どもは、この祈りを祈るとき、どうしても福音書のイエスさまの特にあのゲツセマネの祈りを思い出さずにおれないからです。イエスさまは、十字架に付く前夜、「父よ、できるならこの杯を取り除いて下さい。」と実に三度も祈られました。もがき苦しんで祈りの内に格闘なさいました。そして、その祈りに最後に必ず「父の御心が行われるように。」と祈られました。あの夜、弟子たちは居眠りをしていました。イエスさまは、彼らの助けを必要とされました。これまで、弟子たちの助けを求めることなどなかったのです。しかし、ここでこそ、というまさにその時に、弟子たちは頼りになりません。まさに地上で一人ぼっちです。しかし、主イエスおひとりは、父のご計画を実現するためにその場から立ち上がられたのです。十字架へと進んで行かれたのです。

  さて、遂にルカたちはここで「主の御心が行われるように」と祈りの言葉を告げました。このとき、彼らは、既に壮絶な将来を彼らは覚悟した、せざるを得なかったハズです。使徒言行録第9章のパウロの回心物語の中で、イエスさまはこう仰いました。「彼がどんなに苦しまなければならないのか」それが、父の御心だったのです。実に、「主の御心がなるように。」とは、主イエスにとってもまた使徒パウロにとっても、実は、苦しむことでした。どうかすると、わたしどもは軽く、明るく「あなたに御心がなるといいね。」と言うことがないでしょうか。しかし、そう言うとき、もしかすると、神さまの御心が実現すれば、すべてが楽しく、明るく、嬉しく、喜べるように進んで行けるのだと考えているかもしれません。自分に都合のよいことが起こること、それが神の御心なのだと考えているのかもしれません。

  多くの注解者たちは、ここで、主イエス十字架につくためにエルサレムに入城したことと、パウロがエルサレム行くこととを、なぞらえます。しかし、わたしはとても危険なことだと思います。主イエスは、ただ一度、我ら人類のために、わたしの救いのために十字架で死ぬことを決意され、受け入れるのです。パウロは、わたしを救いません。比較するなど、イエスさまに対する冒涜に近いきもします。しかし、注解者たちが指摘するように、やはり著者のルカは、主イエスと主イエスの使徒との間にある相関関係があるのだよと語っているのも事実だろうと思います。パウロの手紙を読むとき、そこに明らかに示されるのは、言わば苦しみの神学、苦難の神学です。たとえば、フィリピの信徒への手紙第1章29節にこうあります。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」また、ローマの信徒への手紙第8章17節にこうあります。「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」

  現代のキリスト教会には、キリストを信じると健康になる、裕福になる、成功するという教えが流行していると思います。実は、昔も今も同じなのかもしれません。ただし聖書のパウロをちゃんと読めば、それがおかしいと気付くはずです。彼は常に、苦難を通して栄光への道筋を示した人です。個人の名を出すのは控えなければなりませんが、公職にある方ですから名前を挙げましょう。トランプ大統領は、キリスト者を自称しています。彼を生み出した大きな母胎の一つは他ならない教会です。白人のプロテスタントです。もしかすると、そのようなキリスト教は「御心がなりますように」と、祈らなくなっているのかもしれません。むしろ、「わたしの願いが実現しますように。どうぞもっと豊かにしてください。もっと成功させてください。」そういう祈りなのかもしれません。「どうぞ、このわたしだけにはあなたの御心がなりませんように」そう祈るのかもしれません。
 
 さて、最後にあえて誤解のないように、申します。パウロの苦難の神学は、正しいものです。決して薄めたり、割り引いたりしてはなりません。しかし、そこで間違えてならないことがあります。人類にとってのまことの苦難、わたしという個人にとってのまことの苦難、苦しみとは、ただイエスさましか経験されていないということです。主の苦しみは、肉体の生命の苦痛や死、精神的な苦痛や悲しみではまったく捉えきることができないものです。つまり、主の御苦しみとは、神の怒りをお受けになられたことだからです。私どもの味わい、あるいは受けるべき苦しみとを比較することなどできません。

  私共が確信したいのは、主イエスが苦しんでくださったおかげで、あの十字架の死のおかげで、私どもこそ受けるべき究極の苦難と死は過ぎ越してしまったことです。これを罪の赦しと言います。罪の赦しの福音です。イエスさまがこの苦しみを受けてくださったおかげで、私どもの苦しみは苦しみで終わらず、永遠の命、神と御国の栄光への架け橋となるのです。

  したがって、私どもが救われるためには、苦難が必要であるとか、自ら苦しまなければならないという教えは偽りです。ただし、主がお与えになられるのであれば、それは担わなければなりません。しかし、それは決して自分の救いのためではありません。私どもが神の子に似た者となるための道程なのです。確かに、苦しみの故に、時に信仰の志が挫けることもあるでしょう。萎えてしまうこともあります。しかし、使徒パウロはコリントの信徒たちにこう励ましました。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(一コリ 10:13)。
  
  今朝、もう一度、「主の御心が行わるように」というこの祈りに向き合いましょう。そして、自分自身をあらためて差し出しましょう。神の恵みのみ言葉に委ねましょう。天のお父さまは、私どもを決して御子のように苦しめなさることはあり得ません。天のお父さまは、ただ私どもを御子のような人間になってもらおうと導いていて下さるのです。主に信頼し、ゆだねましょう。もとより、どのように導かれるのか、私自身のことも、皆さまのことも具体的にはまったく分かりません。しかし、分かっていることがあります。「受けるよりは与える方が幸いである。」というあの主イエスのみ言葉に込められた幸福、幸いに生きるようにという方向性です。主は、私どもを幸いへと導き、育み、与らせてくださいます。この確信と希望をもって、です。私どもも主イエスさまと結ばれ、大胆にこう祈りましょう。「主の御心が行われるように。このわたしの上に。教会の上に。世界の上に。」

祈祷
 すべての主権をお持ちになっていらっしゃる主イエス・キリストの父なる御神、信仰の道、あなたについて行く道の厳しさをあらためて思います。しかし、あなたは私どもひとり一人を愛し、受け入れて下さいます。時に、迷います。時に、逃げ出します。来た道を引き返すこともあります。主よ、あなたはこのような私どものすべてをご存じでいらっしゃいます。ですから、私どもは今朝もここにまいりました。あなたの御前におります。主イエスに励まされ、主イエスを真似して、主の祈りの声を合わせます。わたしの祈りは主イエスの祈りです。どうぞ、主イエスの祈りのゆえにこれからも私どもを主イエスに似た者として、忍耐をもって導いて下さい。私どももまた勇気を与えられ、ここから立ち上がって、聖霊に励まされ、慰められて歩ませて下さい。アーメン。

2月12日


★  先週の墓地委員会は、配布いたしました議事録通り、これまでの決議を「改めて」満場一致で受け入れました。なお、墓地献金も目標を大幅に上回りました。心から感謝致します。墓碑には教会名とともに建墓日も記します。当初、4月16日の「復活祭」を目標にしていましたので、「二千十七年 復活祭」と刻印する予定でした。しかし既に2カ月余り遅れ、この日までの建墓は事実上、不可能です。しかし、委員会は当初プラン通りにすることと致しました。「復活」という言葉を墓碑に刻みたいからです。死と死の力(=罪→陰府)は、教会を打倒すことはできません。主イエスがご復活なさって教会は建てあげられたからです。むしろ、キリスト復活によって教会はそれを打倒するのです。キリスト復活を墓石においても証ししたい!この切実な祈りを神が顧みて下さったことを心から感謝しています。なお、その後、開催した小会では直ちに感謝をもって委員会決議を受け入れました。

★  「長老主義教会なのに、何故、委員会が決議し、小会も受け入れたのに、なお懇談会を開催する必要があるのだろうか?」、至極当然の疑問です。今回の懇談会開催の目的と意義は二つあります。小会としては、あらためて長老主義政治のルール、各委員会の意義や役割などを、墓地取得委員会の委員長でもある渡辺長老を中心に学び、確認することが、摂理であると判断したからです。二つ目は、墓地委員会と小会は、たとい、お一人であってもその「異議」や「信仰の良心」を軽んじたくないとの強い思いがあるからです。懇談会は、まさに「聴取」のとき、です。「この聖句こそ、墓石にふさわしい」と提案してくだされば、その後の墓地委員会そして小会でも改めて協議することを確認しています。

☆   2019年の復活祭で当教会は伝道開始25周年を迎えます。(ちなみに、来年は伝道者としての働きを始めて30周年)先週の小会では、25周年記念誌刊行の提案が出され、受け入れられました。先の15周年、5周年の記録誌を顧みるとき、どれほど発行のための奉仕が大変であったかを思い起こさざるを得ません。正直に申しますと、腰が引けます。昨年そして今年も私どもは墓地取得のために相当の力を注ぎました。率直に申しますと、「伝道」活動についての集中は、不足しただろうと思います。それは、小さな教会のマンパワーを考えれば、仕方がありません。しかし、小会はそのリスクを慎重に考えた上でなお、25周年記念誌発刊は教会として担う責任、課題であると腹をくくりました。

★   あと2年2カ月です。今から意識して、今年中に編集委員会を組織すれば大丈夫と思います。これまで数多くの教会の「記念誌」を拝見してまいりました。神がその教会に働かれたしるしの素晴らしさ、伝道者や会員方の熱心な奉仕の姿、またそれらを記念誌に編集した編集会議の力量に圧倒されるような多くの記念誌を見てまいりました。一方で、残念ながらただ周年を迎えたから、会員や関係者がお祝いの言葉、証しの言葉を紡いだだけであるかのような記念誌も少なくありませんでした。生きていれば誰でも年を取ります。教会もまた同じです。長い歴史があれば、それで直ちに教会形成、教会の歴史形成がなされたとは言えないことをきちんと認識しなければなりません。

☆   提案者は、この10年の激動を記録に残す意義を語られました。同感です。何といっても、「15周年誌」編纂者の「歴史観」にもとづくあの「ディアコニア学び期」がどうなったのか、です。また、「加入の志」はどうなったのか、です。教会設立までの数年間は、名古屋岩の上教会にとって、まさに一度も経験したことのなかった危機を迎えたのでした。どこまで、書き残せるのかという課題があります。しかし、記憶が薄れないうちに検証することは、私どもにとっても、中部中会にとっても大切かもしれません。そして何より、私どもの特にこの10年の歩みを検証することは、ふさわしい長老主義教会の形成にとって重要であると思われます。「東日本大震災ディアコニア支援室」と「政治的ディアコニア室」の二つの「室」が設けられました。この二つとも当初は、緊急的な対応として「室」として設置されたものです。ところが現在も活動中です。前者の歴史を纏める作業は、今後のふさわしい展開にも資するでしょう。後者は、教会の存亡にかかわる状況が進展している今、記録を残すことは困難でしょう。しかし、両者ともに言えることですが、一個教会の為であると同時に日本にある諸教会のためにも決して無駄なことではないと考えます。

★★   ついに「エフェソ告別説教」を6回で語り終えました。朝夕の祈祷会は掘り下げと分かち合いに集中しました。「教会が分かれば、キリスト者の生き方が変わる。」切に思います。先週、説教の「手応え」を感じることができました。同時に、どれほど長い年月がかかってしまうのか・・・。率直に思いました。しかし、遅い速いより、「変わる」ことでしょう。自分のための教会生活から、主と教会のための生活へ、です。

目次
名古屋岩の上教会
〒458-0021
名古屋市緑区滝ノ水2-2012
TEL&FAX:052-895-6701 
メール:iwanoue■me.ccnw.ne.jp
※■を@に変えてください。
牧師紹介
□牧師 相馬伸郎□
下記の定例集会にどなたもお気軽にお越しください!心から歓迎いたします。
求めるあなたに、かならず、救いが与えられます。


□主日礼拝式□
毎週日曜日
10:30〜12:00

□子どもの教会□
毎週日曜日 
嬰児から高校生まで
9:00〜10:00

□祈祷会□
毎週水曜日 
朝 10:00〜11:30
夜 19:30〜21:00

個人的学び会 随時 牧師にお気軽にお問い合わせ下さい!

【子供と父母のハートステーション】が始まっています。 詳しくは、ニュースをごらんください!

初めての方はこちら
教会が初めての方、お探しの方はこちらをご覧下さい。
Q&A   
伝道説教  
洗礼入会者の証
月ごとの記事
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

  • ライブドアブログ