名古屋岩の上教会

わたしはこの岩の上に私の教会を建てます。 -マタイによる福音書第16章18節-

「真理の上に建つ教会」

「真理の上に建つ教会」
2018年4月8日
聖書朗読  テモテへの手紙機‖菎茖馨錬隠汗瓠檻隠鏡瓠
【 わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。
信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、
キリストは肉において現れ、
“霊”において義とされ、
天使たちに見られ、
異邦人の間で宣べ伝えられ、
世界中で信じられ、
栄光のうちに上げられた。                  】

 著者である使徒パウロは、ここでこの手紙を書き送った目的を率直に記しています。「わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。」本当は、間もなくつまりすぐにテモテのところへ行きたい、エフェソ教会の会員のもとを訪ねたいということです。しかし現実には、それがかなわないのです。だから今、この手紙を書いているわけです。そして今この箇所で、この手紙を記す目的のほとんどすべてと言ってもよいかもしれない言葉が記されます。「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたい」つまり教会生活についての指導です。そしてその急所について既に学んだのです。主日礼拝式の充実です。使徒パウロは、主日礼拝式がふさわしく整えられ、充実し、満たされるところにキリストの教会は健全に、生き生きと建てあげられて行くと信じているのです。

 ただしここでパウロが集中したのは、主日礼拝式をどのようなプログラムで構成するべきかという礼拝式の次第などについて書かれているわけではありません。教会の礼拝式をととのえる奉仕者、職務者に焦点が絞られています。そして今朝の箇所は、その教会とは何かについて語られます。教会を教会たらしめる要となる信仰の奥義、真理、教理について語られます。そしてその教理に基づく礼拝を捧げるなら、そこにまさにキリストの教会が形成されるのだと、力強く説き明かすのです。

さて、御言葉に集中しましょう。パウロはここで教会のことを「神の家」と呼びました。「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」教会のことを神の家であると言います。生きておられる神の家、ギリシャ語で家をオイコスと申します。確かに家と言うとき最初にイメージされるのは家屋、建物かもしれません。しかし、ここで言わんとするのはいわゆる教会堂のことではありません。生ける神が人と共に住むことがゆるされる場所のことです。神を一家の主とする家族関係になぞらえられるのです。この家では、まさに神が父でいらっしゃいます。この神は、御子なる神との関係において父であるばかりか、私どもの父となってくださったのです。父なる神は、御子イエスの贖いの御業によって罪を犯した私どもは神の家、父の家に戻らせてくださいました。戻ることを赦してくださいました。あの有名なイエスさまの放蕩息子のたとえ話です。

天のお父さまは、放蕩息子となってもはや子どもと呼ばれる資格を失った私どもを、御子の十字架、御子のいのちという代価を支払って買い戻して下さいました。罪と死に売り飛ばされ、罪と死の奴隷になっていました私どもは、買戻し、つまり贖われたのです。こうして、イエスさまの十字架のおかげで、私達は神の家の敷居をまたぐことを許していただいたのです。

教会とは、神を父、一家の主人とする家、家族です。この家族は、40人ではありません。まだ放蕩息子が大勢いるのです。彼らを取り戻すために、神の家族がそれぞれ力を合わせて働くのです。それが伝道です。

次に進みましょう。「神の家とは、真理の柱であり土台」です。教会とは真理の柱であり真理の土台だというのです。ここで言う神の家、教会とは、第一には、地上の諸教会を意味していないと思います。私どもがニカヤ信条で告白する「使徒よりの聖なる唯一の公同教会」を意味します。天上の教会、目に見えない教会のことです。そこには御父と御子が共におられます。天使たちがいます。贖われたキリスト者たちがいます。彼らによって成り立つ天上の教会、いわゆる天国です。その教会はまさに真理の柱、土台です。

一方で、地上のエフェソの教会はどうでしょうか。ヨハネの黙示録の七つの教会の最初に登場するほど有名な教会です。確かにすばらしい長所がある教会です。同時に、初めの頃の愛から離れた、落ちてしまったと叱責を受ける教会でもあります。教会にある教会は、未完成の教会であり、途上の教会であり続けます。真理に生き抜くことができない欠けだらけ、罪人の集まりです。

パウロはまさに異端的教えで混乱している最中のエフェソ教会に向き合っています。誰よりもエフェソ教会牧師のテモテは途方に暮れる思いで戦っていたはずです。しかし、パウロはこのエフェソ教会もまた、真理の柱であり土台なのだと、こう言うのです。

今、一人の仲間が、教会に関する本を何冊も読み始めています。極めて初歩的な本です。とても嬉しいです。私は、もし、キリスト者が教会のことがよく分かってくれば、必ず、教会への奉仕の意欲が何倍にも富ましめられると確信しています。もし教会の本質、その大切さが分かれば教会の職務者に志願したくなるだろうとすら思います。テモテもまた、エフェソ教会の混乱のただ中にいてなお、そこから逃げ出してしまおうとは考えなかったはずです。むしろ、教会とは何かをパウロ先生から学んだ彼だからこそ、エフェソ教会を真理の柱、土台としての本来の教会に回復させようと戦うのです。

先日、浜松の望月先生から中部中会の全教師へのプレゼントとして、かつて四国の善通寺教会でなされた創立者の御一人、日本キリスト改革派教会の神学的土台を据えられた岡田稔先生の創立宣言を解説する講演CDが配布されました。ただちに拝聴しました。私自身のこの教会への加入の動機はまさに創立宣言の主張に共鳴したからです。

日本キリスト改革派教会は、戦後いち早く、日本基督教団より離脱しました。先輩たちは、この日本に神の教会を建てなければならないという強烈な使命感に燃えていました。そのような思いに駆り立てられたのは、彼らの教会論にありました。端的に言えば、その時、その当時、日本に純粋な教会、純性な教会が「ない」と判断したからです。いや、現実的に申しますと日本基督教団に属していた数千もの各個教会がありました。これは紛れもない歴史的事実であります。ところが、たった10数名の役員たちと200名たらずの会員が志を与えられ、その志によって立ち上がったのです。この日本に神の教会を、この日本に真の教会を建てなければならないと願ったのです。そして、そのような真の教会が日本にあることによって、その結果としてこの日本は、新しくされて行くこととなると考えたのです。大変おこがましいですが、私は、この名古屋岩の上教会を開拓伝道として出発したときまったく同じ志と神学的な確信を持っていました。私は、前任の群れを、そこで6年もの間奉仕し、闘ったつもりなのでうすが、結局は、キリストの教会とすることができなかったと考えていました。このままでは、いつまでも教会にならないではないか。つまり教会未満でしかないではないか、そのような理解です。教会がこの日本に、この町にあるかないか、それは、神の眼差しから言えば比べることができないほど決定的に重大なことであります。

さて、ここで「真理の柱」と言う表現を解説したいと思います。神の家のたとえのなかでの言葉です。先ほど、教会にとって家屋、住居のイメージは二義的だと申しました。しかしここでパウロは、むしろこの家屋のイメージを積極的に用いているわけです。もとより家を建てる上でその土台と柱は大切です。ただし、わたしはまったくの素人ですから、なぜ、パウロが先に柱を挙げ次に土台に言及するのか、正直に申しますとよく分からないところがあります。私が真っ先に建築に対してイメージするのは土台の方です。イエスさまのたとえ話がすぐに思い出されるからです。主イエスは、岩の上に建てられた家と砂の家に建てられた家のお話しを山上の説教の結びにおいてなさいました。砂の家に、簡単に建てられた家は、嵐が来たときには洪水に押し流され、強風で倒れてしまうというわけです。そしてイエスさまは、わたしの言葉を聞くだけで行わない人は、砂の上に建てられた家だ、愚かな人間だと警告なさいました。信仰は行いによって土台が座るということです。いずれにしろ、建物の土台は決定的に重要です。そして、パウロは、教会の土台とは真理であると言うのです。

ただしパウロはここで、教会という家にとって柱を先に挙げるわけです。そこで少し調べてみました。すると研究者は、この柱とは、当時のエフェソの人々がよく知る神殿の柱のことだと言うのです。その神殿の見栄えを決めるのは柱であって、建築する人々はこの柱にこそ意匠を凝らし、工夫したのだというのです。日本で言えば床柱があたるかもしれません。ただし床柱は、家の中にあるものです。しかし、神殿の柱の場合は外壁と共に外に顕れるのです。つまり、柱は、屋根を支えるための実用上の大切さばかりではなく神殿の美しさ、その見栄えを決めるものなのです。ですからパウロがここで言う、真理の柱である教会とは、このようなメッセージ、意味が込められているのだろうと思います。教会を見れば真理が分かる。真理が目立つ、それが教会のあり方だということです。真理を明らかに示すのが教会です。真理をこの世界のただ中で公然と、高々と掲げているのが教会なのです。まさに世の光としての教会の姿です。真理の光を放っているのです。そのような教会こそ、本来の教会、神の教会だということでありましょう。

さてそれなら、教会がそこでこだわりにこだわるべき事柄とは、何でしょうか。いったい教会は何をもって教会であるとし、反対に何をもって教会未満となるのでしょうか。それこそが真理であります。それなら真理とは何でしょうか。それは神です。それは、イエス・キリストご自身のことです。パウロやテモテが今ここで戦っている相手は、まさにグノーシスの異端です。異端的キリスト教、つまり、異端です。偽物です。真理の敵を異端と言うのです。異端者たちは、イエスさまのことや聖霊のことを何も言わないのではありません。彼らも、父と子と聖霊や聖書や教会のさまざまなことを、語ります。しかしだからこそ危ないのです。まったく別の宗教や哲学であれば、教会にとって闘う相手、園意味では直接の問題とはなりません。確かに教会にとってそれらも無関心であってはならないはずですが、教会の存亡がかかるというようことでは全くありません。しかし、異端は違います。それは、しばしば教会の中からわき起こり、教会の中に入り込み、その教会を変質させてしまいます。そして、さらに増殖を続けて、遂には外部の大勢の人々にもキリスト教の教えや存在を間違って植えつけて、キリストの教会から引き離し、遂には神から引き離してしまうのです。

ですからパウロはこのように力を込めてこのように言います。「信心の秘められた真理は確かに偉大です。」信心の秘められた真理とは、2章9節で学びました執事に任職される人の条件として数えられていました。執事は「清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければな」らないのです。

そして、キリストの教会を教会たらしめるのは、キリスト御自身にかかっています。キリストが真理だからです。
ですから、おさらいになりますが、パウロは監督の職務がどれほど重大であるのかを、語ったのです。教会の教師、御言葉の教師が教会の職務、働きの中で第一位を占めるのは、占めなければならないのは当然のことなのです。

この信仰の秘められた真理のことを、私どもは教理と申します。秘められた真理を直訳すると奥義となります。宗教の奥義となどと言われると、なにか修行に修行を重ねた人だとか、そのようなほんの一握りの人だけに特別に教えられ、その人だけが保持しているものというイメージがあるかもしれません。しかし、福音の奥義は決してそうではありません。福音の真理、福音の奥義は、神の家の家族であれば、みんながこれを理解し、保持していなければならないものなのです。どうぞ、ここはまさに教会員全員の課題ですから、牧師だけがちゃんと奥義を知り、奥義を保持していればよいのだなどと、信徒と牧師を分けてはなりません。福音の奥義、教理とはそれほど教会にとって、教会員おひとり御一人にとって重大なのです。救いそのものにかかわるからです。キリスト者がどう生きればよいのか、どう生活すべきかはこの教理の学びによって、紐解かれるものだからです。

さて、ここでパウロはいきなり讃美歌を歌い始めます。とても不思議な感じが致します。しかし、考えてみますと私どももまた主日礼拝式では必ず讃美歌を歌います。礼拝に賛美は必須だと思います。また、私も一人の伝道者、牧師として、さすがパウロは、開拓伝道者、熟練した教会の建築家だと唸るような思いが致します。礼拝式で歌う歌によって信仰の真理、奥義を覚え、理解し、みにつけさせようとするのです。これは、とても教育的な知恵だと思います。どのようなメロディーだったか、とても興味がありますが、分かりません。しかし、歌詞はこうです。

「キリストは肉において現れ、    エファネローセー
“霊”において義とされ、     エディカイオーセー
天使たちに見られ、        オーセー
異邦人の間で宣べ伝えられ、    エクルクセー
世界中で信じられ、        エピスチューセー
栄光のうちに上げられた。」     アネレーフセー

もしかすると私どもは、讃美歌と言うと信仰の心を歌う歌を中心に考えるかもしれません。おそらくその感覚は現代人の感覚なのだろうと思います。たとえば、日本のキリスト教伝道の最初、あのキリシタンたちの歌、オラショといいますが、その時の讃美歌もまた極めて教理的な内容でした。教理の言葉を歌うことによって教理を理解させ、体得させようとしたのだろうと思われます。おそらくこの讃美歌はパウロが作ったのではないはずです。当時すでに広く歌われていたのだろうと思います。

ごく簡単に解説してみます。「キリストは肉において現れ」 これは受肉の教理です。永遠の御子なる神が私どもの救い主となるためにおとめマリアより肉体をとってお生まれになられたことです。それは、私達全人類の祝福のためでした。何よりも、私どもの救いを実現するためです。これこそ奥義中の奥義です。神秘中の神秘です。

次に「“霊”において義とされ」です。これは、なかなか難しいと思います。人となられた主イエス・キリストは、聖霊なる神に力強く導かれ、助けられてついに十字架に至るまで、死に至るまで父なる神に忠実を貫かれました。このイエスさまの完全なる信仰によって、イエスさまご自身の十字架が父なる神によって受け入れられました。その証拠がご復活です。そしてそのご復活によって、イエスさまを信じる私どももまた義とされたのです。罪が赦され、神の子とされたのです。聖霊によって贖いの御業を成し遂げられたイエスさまは父なる神に義とされ、そしてそのイエスさまを信じるわたしどももまたイエス・キリストのおかげで義とされたのです。ここに私どもの救いの真理、福音の喜びがあります。 

次に「天使たちに見られ」です。これも、なかなか難しいと思います。おそらく、イエスさまの地上のご生涯ととりわけ十字架とご復活は公然たる出来事でした。人々は見ていました。しかもそれだけではなく天使たちも目撃したのです。とりわけご復活の御業だけは、全人類のだれも立ち合っていませんが、天使たちはそこ共にいたのだと思います。何より、イエスさまは天使たちに礼拝されるお方でいらっしゃいます。

次に「異邦人の間で宣べ伝えられ」です。これは、この讃美歌が歌われ始めたまさにその時の状況が反映されているのだろうと思います。福音の奥義は、ユダヤ人ばかりか異邦人の間でこそ宣べ伝えられ始めたのです。そして、「世界中で信じられ」ているのです。なんとなく、先走っているような感じも致します。世界中で信じられるというのはいささか言い過ぎではないか、まだ、世界の一部だと思うからです。しかし、当時のキリスト者にとってパウロがローマに赴く頃には、もう、イエスさまの約束されたエルサレムからみれば世界の果てまで伝道されたという意識です。ですから、もうまもなくイエスさまが約束通りに再臨なさるという期待感は頂点に達するような時だったはずです。

最後に「栄光のうちに上げられた。」です。これは、歴史的順序から言えば、おかしいと思います。主イエスは、歴史的順序から言えば、十字架、復活、そして父なる神のみもとに昇天されました。昇天後に、教会に聖霊を注いで、異邦人に福音を語らせ、いわゆる世界宣教の実りとして世界中で信じられたのです。しかし私は、讃美歌としてのメッセージとしてここはすばらしいと思います。「栄光のうちに上げられた。」とは、キリストの勝利を讃える歌詞です。十字架で贖いの御業を成し遂げられたイエスさまは今、父なる神の栄光の座に着座されていらっしゃいます。地上に残る教会とはこの栄光のキリストをその頭としていただいています。そのような勝利の主に栄光あれと歌っている、その意味で厳密に救いの秩序が示されているわけではありませんが、讃美歌としてのメッセージはとても強烈で、すばらしいと思います。

この詩を全体は、まさに技巧的です。肉に対して霊、天使たちにたいして異邦人たち、世界に対して栄光という対句があります。冒頭の動詞のすべては韻を踏んでいます。その意味では、現代の教会のように整頓された教理体系、カテキズムの視点から見るといささか乱暴な教理の提示です。しかし、実に印象的であり覚えやすさも兼ね備えた優れた詩だと思います。

この福音の奥義は子どもたちも歌っていたと思います。成長するにつれ、その歌の意味を、子どもたちは自ら問い、あるいは親が教えたのだろうと思います。まさに、カテキズム教育、教理教育の原型です。このような地道な教理の学びが、キリストの教会を健やかにするのです。真理の柱また土台とするのです。私どもの教会もまた、このあり方を徹底的に継承して参りました。これからも右にも左にもそれずに、福音の真理を公然と掲げ、キリストの真理によって立つ教会となりましょう。どうぞそのためにも、派手さはなくても教会が教会であることの絶対的に不可欠なこの真理を保持する教会、そしてこの真理をこの世にまざまざと見せることができるまで目立つ教会でありたいと願います。そしてその教会は、主日礼拝式に集中するのです。この礼拝式でこの歌を歌い、また新しい歌を生み出して歌うのです。それが説教の意味です。今日も新しい説教によって、皆さまとともに新しい神賛美を捧げるのです。

祈祷
教会の頭でいらっしゃるイエス・キリストの父なる御神、ここにあなたの教会を建ててくださいましたことを心から感謝致します。どうぞ、私共の教会が真の教会としていよいよ建てあげて下さい。そのために、わたしどもは正しい教理にもとづく、福音の命、喜びあふれる礼拝式を捧げさせて下さい。そのために御言葉に深く学び、従わせて下さい。

4月15日

☆  先週の月曜日、遂に〇〇執事との学びが終りました。30回(30時間)をはるかに越えました。現在、教会学校教案誌に「執事職について」を連載しています。確かに文章は残り、多くの方々に学んで頂けます。しかし、私自身は「一人」を「教え育てる」ことこそ本務と思っています。ですからマンツーマンの学びが大切なのです。政治規準と礼拝指針を丁寧に学びました。

主イエスは「隣人となれ」とお命じになられました。しかし私どもはそもそも自己中心の罪人で、隣人になれません。ですから、失敗するのは当たり前です。同時にしかし、隣人となれ(=ディアコニー)と主イエスに促され、励むことができます。主イエスの御言葉と聖霊の賜物のおかげです。  奉仕すること、執事職の務めを担い、果たすこと、これが恵みでなくて何でしょう。

★           礼拝式中の態度他についての確認(第2回) 
生きておられる神は、語る神です。私どもは神の語りかけを聴くことによってこそ信仰に導かれ、養われます。それならなぜ、神はその「語り」を聖書として文書化されたのでしょうか。それは、後の代の主の民の為に永遠の御言葉を「保存」するためです。このおかげで私どもは今、同じイエスさまとお会いできるのです。その上でなお、御言葉の本質は「語り」にあります。一人で聖書を読んでいるときにも、結局、そこで起こっている出来事は神から「語りかけられた!」と言う驚くべき経験のはずです。神は、「預言(=説教)者」を通して昔も今も語り続ける神でいらっしゃいます。その意味で、私がしている説教原稿の当日配布は、この神の御業への「侵害」となるかもしれません。

その上で、なお有効であると信じて「説教原稿」を配布しています。様々な理由で、御言葉を聴き直したい、確かめたい、深めたい・・・等、願う方に「原稿」はとても有効です。ちなみに先週の説教クイズに「洗礼を受けようと強く思いました」(新中一生)と記されていました。彼女は、聴聞に集中していたのです。(聖霊降臨祭が楽しみです!) 

土曜の夜ギリギリまで原稿の推敲をします。ところが説教では、原稿から相当、離れてしまうことも少なくありません。つまり、説教者は説教のまさに直前まで、いえ、説教中にも聖霊の導きによって言葉は編まれ、与えられます。かつて、「説教が長すぎる」との批判を受けたことがありました。残念ながら、ご本人の問題が少なくありません。説教への関心が低いとき、それはほとんど神との関係に比例するように思います。ただし、いくら説教と言えども、普段より10分も長くなってしまえば常識的にアウトです。だからこそ、完全原稿を整えられることは人間的な知恵にもかなっています。

ある方は、説教の予習、復習を一週間かけてするのだそうです・・・。皆さまが御言葉に触れる時間は限られています。どうぞ礼拝式の説教「聴聞」に集中して下さい。そしてどうぞ原稿を読み返し、自分の「血肉にする」「体得する」努力を大切にして下さい。なお、説教への要望、批評等は、会員の特権であり責任です。説教とは、神が説教者によって語らされる教会の信仰告白だからです。

★★ 説教に対しては「聴く」こと。見える神の御言葉である聖餐の礼典に対しては「見る」こと。これが大切です。お語りなさる神にふさわしい態度は聴くこと、食卓でもてなされる主イエスにふさわしいのは、主を見ることです。確かに、説教(司式)者は人間です。しかし、真の礼拝体験とは、   彼の背後に神、キリストを仰ぎ見ることにあります。説教者は(おかしな仕方で目立つことによって)その邪魔をしてはなりません。聖餐のまことの司式者(主宰者)はイエスさまです。イエスさまの最後の晩餐の後に制定されたあの御言葉を司式者は「必ず」!朗読します。それは、イエスさまの代役だからです。主イエスこそが聖霊によって、食卓の主としてふるまわれています。したがって司式者のふるまい、パンと杯を見ることが要です。つまり、説教原稿は見ない。見るのは、パンと杯です。

≪礼拝指針≫より
第15条(礼拝前の祈祷)  礼拝する者は、会堂(礼拝室)では、敬虐な態度で席に着き、黙祷をもって自分自身・牧師・礼拝奉仕者・すべての出席者・また欠席者のために祝福を祈って備えをする。
 ⇒礼拝式直前の祈祷の重要性。早めの着席…。同時に【祝福】だけでも良いので礼拝を守ろう!

第16条(礼拝出席の態度) 公的礼拝に出席する者は、神の御前にふさわしい態度で臨み、畏敬の念をもって礼拝にあずかるようにする。
 ⇒礼拝に全身全霊で集中できるように。とりわけ「音」に配慮し合いましょう!

もてなす主のお心を想う

「もてなす主のお心を想う−聖餐の礼典の意味−」
                18年4月8日
コリントの信徒への手紙蟻茖隠云錬横魁腺横鏡
【わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。】
 
教会の信仰とその生活は、まさに主イエス・キリストが私どものために何をして下さったのか、この一点に焦点を合わせることから始まりそして終わるものであります。

先日の読書会で、開拓伝道の最初の礼拝式の週報と二回目の週報とが配られました。そこで、大変、難しい問いが司会者から出されました。「その日のテキストを読んで、あなたならそこからどのような説教をするのか、あるいはどんな説教題をつけるのか」というのです。私自身、実に久しぶりにあの日のことを思い起こさせられました。最初の礼拝式も二回目も、まさに、私自身のいわばライフメッセージとも言えるような説教をしたのだと思わされました。何故なら、あの日の説教は、そのまま今日も変わらずにまさに同じ真理を説き続けて来たからです。第二回目の説教題は、「キリストあるのみ」でした。万物は、キリストによって、キリストにおいて、キリストのために創造されたのだという真理です。このように神がキリストに集中なさったわけですから、私どももまたいよいよキリストへと集中してよいし、すべきだという説教です。キリストという言わば狭い一点に集中するところで、実は、聖書全体の広い視野がまさに世界やひいては宇宙全体にまで開かれてまいります。今朝もまた、その意味で、キリストへと集中したいと願っています。

先週は幸いな復活祭を祝いました。エマオの途上の物語から学びました。いつもより説教時間を削らなければなりませんでしただけに、一度であの物語を説き明かすことは無理です。また、今年の教会の働きの中で、言わば最も重要な企ては25周年記念誌編纂の事業だと思われます。そのことをも考慮して、今朝は、テモテへの手紙気旅峅鮴盒気鮹翆任靴董改めて、聖餐の礼典について学びたいと願っています。

先月の読書会で配られた週報は、手書きで記されていました。改めて読み増して、我ながら驚かされたことがあります。そこには、既に私どもの教会のいわば、変わらない祈りが刻まれていたからです。「ここに神の教会が形成されるように」「ここに聖餐を囲む群れが形成されるように」「ここにキリストだけを主と告白し合う共同体、慰めの共同体が形成されるように」であります。「そのためには良い礼拝を捧げることが最も大切です。」とも記されています。そこには、説教への言及はありません。あるのは、聖餐のみです。おそらく説教の重要性は、それほど強調しなくても大丈夫だという前提があったからだと思います。「聖餐を囲む」という表現があります。それは私自身の教会のイメージが聖餐の食卓をみんなでぐるりと囲む場所というものがあるからです。つまり、この聖餐卓が礼拝堂のど真ん中にあるべきだということです。そしてそれは、この礼拝堂の空間を支配するコンセプト、神学としてこのように表現されることとなりました。まさに、私どもはこの聖餐卓を四方からぐるりと囲んで、礼拝式を捧げているわけです。私は、真正面から。そして左右の席から、そして多くの皆さまが私と向き合うようにこの席についているのです。この礼拝堂の空間は、何を意味しているのでしょうか。何を指し示し、何を表現しよとしているのでしょうか。それは、この教会の主は、イエス・キリストであるという信仰告白です。この教会の中心、頭はひとりイエスのみということです。まさに、私どもは今朝も、聖餐卓をみんなで囲みながら礼拝を捧げています。ちなみに、この聖餐卓は、たとえば100人以上入る大きな礼拝堂に比べても遜色はありません。むしろ、私どものこの聖餐卓の方が大きいかもしれません。また、他の聖餐卓よりテーブルの高さが高くよく見えるようにしているのです。  

さて、今朝の説教のテキストは、コリントの信徒への手紙蟻茖隠云錬横魁腺横鏡瓩肪廚靴泙靴拭私どもの教会は、使徒パウロが伝えるこの御言葉を聖餐を祝う際に必ず朗読致します。それを制定の言葉と申します。聖餐の礼典においてこの制定語を朗読しなければ、決して礼典とは認められないと考えているからです。主イエスは、最後の晩餐の席上、「わたしの記念としてこのように行いなさい」「このように行いなさい。このように行いなさい」と繰り返し命令されました。それは、イエスさまが私共がパンを食べ、ぶどうの杯を飲むことによって、常に、繰り返して主イエスのご苦難の生涯、十字架と死、葬りの事実を思い起こさせるためであります。しかしそれはただ単に、私どもが何度もイエスさまの思い出にひたらせるためではありません。ここでの「記念」という言葉を間違って受け止めてはなりません。それはあの最後の晩餐を忘れさせないためのパフォーマンスではないのです。

そもそも聖餐の礼典の本質とは何でしょうか。それは、今ここで、生きておられるイエス・キリストとの交わりにあずからせていただくことです。肝心要になるのは、イエスさまがこの礼拝堂に共におられると言う事実、現実のことです。もとより、イエスさまの人間としてのお体は、ここにはありません。ご復活の後、40日目に天の父なる神のみもとに、戻られたのです。主イエスの肉体は父と共にあるのです。今朝は、この神秘について触れる暇がありません。人間イエスさまをこの地上に探しても、見つけることはできません。しかし、それならこの教会の礼拝堂に、またすべての真の神の教会にはどうしてイエス・キリストが臨在できるのでしょうか。それは、聖霊なる神のお働きです。聖霊の賜物です。イエスさまは、父なる神と御自身とを通して聖霊なる神を御自身の群れ、体である教会に注いでくださいます。この聖霊が礼拝堂にご臨在なさることは、即、イエスさまがここにご臨在なさっているということです。何故なら、主イエスは聖霊と一つに結ばれていらっしゃるからです。父と子と聖霊の三つの人格を持ちつつ、一つの交わりの内に存在なさるのが聖書の神です。それを三位一体の神と申します。天におられる肉体を持ったイエスさまは、この礼拝堂に聖霊において臨在していてくださいます。昨晩、ひとりの若い仲間と三位一体の教理のさわりを90分以上かけて学びました。時間がたりませんでした。
しかし、この教理以上に大切な教理はありませんから、若い仲間にも正確に知ってほしいのです。

イエスさまがここに臨在しておられるまさにその客観的なしるしこそ、聖餐の礼典、主の晩餐の礼典に他なりません。そして、このパンと杯を受けることによって、約束通り私どもはイエスさまの御体にあずからせていただけるのです。つまり、キリストの御体と私どもが一つとされるのです。キリスト御自身が私どもの内にまで来て下さるのです。お宿りくださるのです。私どもの外側から働いて下さるのみならず、私どもの内に宿って下さるのです。そのようにして、私どもをキリストと一つに結び合わせて下さいます。そしてそれは同時に、父と子と聖霊の交わりの内に私どもを入らせて下さることです。そのようなまさに驚天動地、驚くべき救いの出来事がここで起こり、ここで更新され、ここで深められ、確かなものとされるのです。このあまりにもすばらしい神の御業は、キリストの教会でしか与えられません。逆に言えば、まことの教会であれば、そのような驚くべき出来事、救いが、キリスト者たちにふるまわれるのです。どんなに感謝しても感謝しきれません。

皆さまは、ここで何回、聖餐の恵みに与られたでしょうか。一年で15回お祝いします。20年の教会生活を重ねれば、300回となるでしょう。その一回、一回を私共はまさに、感謝と感動をもって備えたいのです。そして、当日、これに与りたいと思います。そのための準備が極めて重要です。その準備にはいくつもの教理的な項目があると思います。ところがもしかすると私どもがあまり強調されていないのですが、とても大切な準備、もしくは視点があると思います。それは、この食卓の主でいらっしゃるイエスさまのお気持ちを想像して、考えてみる、神のみ心を視点にして考えたいと思います。何故なら、先週のエマオの途上での主イエスの物語を考えてみてもすぐに分かります。あの日、強引に引き留められたイエスさまでした。しかしそのイエスさまの方がむしろ食卓の主のようにふるまっておられました。聖餐の礼典を教会に与えてくださったのは教会の頭でいらっしゃるイエス・キリストです。そして、現実に聖餐の礼典の主役、もてなしてくださるお方は、聖霊によってここに臨在される主イエス・キリストに他ならないのです。

今朝、もてなすイエスさまの側にたって、聖餐を考察致します。ここには、三度の食事をつくる立場の方とただ頂く側の立場の方とがおられるかと思います。子どもたちにとって食卓は、まさにもてなされる側、ただ頂く側です。聖餐の礼典にあずかる皆さまは、基本的には常にもてなされる側のはずです。子どもたちは、いつもお腹をすかせて、食事を待っています。親は、そのような子どもたちに言います。「しっかりと食べなさい。よく噛んでね。」時には、「残さないで食べなさい」と叱ることすらあるかもしれません。料理を作って、これを食べさせようとする親の思いは、子どもたちに健康で元気に育って欲しいということに尽きるでしょう。そして、親は分かっているわけです。しっかり食べないと、元気になれないと。だからこそ親は、食事をつくります。暑い夏の日々でも一生懸命働いて、食べさせようとしているわけです。

さて、いったい、主イエスはどのような思いでこの聖餐の礼典を教会に与えて下さったのでしょうか。どのような強い思いの中でこれを守るようにとお命じになられたのでしょうか。
いったい、イエスさまは、どのような眼差しで、聖餐のパンとぶどうジュースにあずかる私どもを見つめて下さるのでしょうか。あるいは、どのような思いで、あの最後の夕べに、弟子たちに告げられたのでしょう。「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」

受難日祈祷会で、語ろうとしたメッセージがあります。旧約聖書イザヤ書第53章10節から12節です。「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」

病に苦しむこの人こそ、十字架の上のイエスさまに他なりません。主イエスは御自身を私共罪人の罪の償いとして、生ける聖なるいけにえとなって下さいました。そのことによって、そのイエスさまの十字架の償いのおかげで、イエスさまの子孫、つまりキリスト者たち、神の子らが永遠に生きることができるのです。父なる神のご計画、御望みは、まさにイエスさまによって成し遂げられました。その後が、メッセージの中心でした。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。」イザヤは恐るべき正確さをもって、主イエスが十字架の上で何を見つめておられたのか。何を見つめることでその苦しみに耐え抜かれたのかを描写したのです。イエスさまは御自身の十字架の苦難と死の実りをしっかりと見つめておられました。それによってその苦しみをこらえ抜かれたのです。満足して死を死なれたのです。十字架の上で、イエスさまが御自身の救いの御業の結実、果実、実りとして見つめておられたのは、何でしょうか。それは、他ならないここにいるおひとり御一人です。主イエスは、私どもの罪を償い、聖なる神の子として受け入れるために十字架について下さいました。ご自身との聖なる交わり絆を結ぶために十字架を苦しみを飲み干されました。それは、私どもが父なる神、聖霊なる神、三一の神との交わりを結ぶためでした。つまり、聖餐のいのちの食卓へと招くためなのです。私どもをキリストの教会の一員として招き入れるためだったのです。主イエスは、十字架の上で、未だ生まれていないこの私を見ておられました。しかも、私一人ではなく、おびただしい人々、数えきれないほどのキリスト者たちをイエスはご覧になったのです。

その主イエスは今、皆さんがパンを食べ、杯を飲むその瞬間を見ていて下さいます。そのお心をイザヤ書の言葉で言えば「満足」です。私どもがこの食卓を祝っているのを、誰よりも喜び、楽しんでいらっしゃるのは、イエスさまです。主イエスの父なる神です。

たとえば、病気になって食事が喉を通らなくなってしまった子どもが、おかゆを食べられるようになったとき、親は、食べてくれる子どもを見て、本当に嬉しくなるでしょう。心から喜ぶと思います。もしかすると子どもの方では、おかゆをおいしいとは思わないかもしれません。ケーキやアイスクリームの方がよいかもしれません。しかし、私どもは、そこで親の思いやその喜びを想像することができると思います。そうであれば、洗礼を受けて、この聖餐にあずかるひとり一人をご覧下さるイエスさまの眼差しのなかに、光る喜び、あるいは、涙をすら思うのです。主イエスご自身がもう、皆さまをご覧になって、心満たされていて下さるのです。

主イエスと私どもとの絆が、他のいかなる時、場所にまさって、まさに目に見える形で結ばれる瞬間、場所とは、これは、疑いもなくこの聖餐の礼典を祝うとき、食べ飲む瞬間です。このとき、イエスさまと私どもとは、まさに出会っているのです。私どもの全存在とイエスさまご自身とが結びあわされます。私どもはキリストの体と一つとされるのです。そのようにして、キリストの体である教会の一員、体である教会の一部分とされていることを確かめることができます。主イエスとの人格的な交わりは深められ、つまり主との絆はいよいよ深められるのです。そして、イエスさまがこそが、それを激しく求めておられるのです。そして、その主イエスの御心を知ること、悟ること聖餐の食事を味わう私どもに必要なことです。

確かに、主イエスから差し出されたイエスさまご自身を示すパンと杯を持ち運ぶのは、皆さまと同じ会員です。見た通りです。しかし、霊的な現実、見えない現実を正しく申しますと、聖餐の品々を皆さまに運んでくださるのは他でもないイエスさまご自身です。私どもの信仰の理解に基づいて申します。聖霊において臨在なさる主イエスご自身が、皆さまのところに行って、その差し出されたいのちの食べ物、飲み物をふるまわれるのです。皆さんは、信仰をもって手を伸べます。そこでの信仰とは、このような告白です。「イエスさま、わたしはあなたのものとしていただきました。あなたに、救っていただいて、今、神の子とされています。私は、これからも、これまで以上にあなたを愛し、信じ、どこまでも従わせて下さい」これが、聖餐の品、パンと杯を頂くときの思い、主の救いの御業に対する私の応答、信仰告白なのです。

さて、最後に、この聖餐の礼典は、主イエスと私どもの絆を結ぶだけではありません。主イエスの喜びがまさにあふれるのは、この聖餐が私ども同士を一つにしてしまうことだからです。主イエスは、100匹の内、一匹が群れから離れた時、99匹を野原に残して探しに行くのだと仰いました。羊は、羊飼いと離れては生きて行けませんし、また、群れとはなれても生きて行けないからです。主イエスが十字架に赴かれ、ご復活されたのは、私という個人の救いというよりもむしろ教会に生きるわたし、私を神の民に加えるため、共同体の一員とさせるためなのです。それが、救いなのです。そして聖餐を祝うということは、まさに、共同体がそこに形成されるということです。だからこそ、私どもの教会が開拓伝道の最初から、ここに聖餐を囲む慰めの共同体を形成させてくださいという祈りをもって出発したのです。主イエスは、皆が、神の家族とされ、聖餐を祝うそのとき、ここにキリストの体なる教会が形成されているまさに、そのことを、心の底から喜びとしてくださるのです。あのエマオの物語において、二人の弟子たちは、一緒に食事をしているのがイエスさまだと悟ったとき、ただちに、エルサレムに引き返して行きました。夜の道、20舛發瞭擦里蠅任癲△匹Δ靴討眞膣屬猟鏤劼燭舛里箸海蹐帽圓たかったのです。一緒に、主の御復活を喜び、感謝しあいたかったからです。したがって、私どももまた聖餐を決して、ひとりで祝いません。共に祝うのです。そして、自分たちがキリストの体の一部分であること、キリストによってお互いが兄弟姉妹の絆を結ばせていただいたことを確認させていただくのです。そして、この食卓にあずかる人が起こされるように伝道するのです。教育するのです。

キリスト者は、この主の御心、ご愛を知らされました。ですから教会は、まさに全存在、全力を傾注して、主イエスの十字架の御業を宣べ伝え、一緒に聖餐の食卓にあずかるようにと招くのです。一人でも多くの方に、神との交わり、主イエスの絆を結んでいただくようにと説得するために、ここから出かけて行くのです。そのために、今朝、先ず、私どもこそ、ここで究極の恵み、完全なる救いの恵みを心から感動し、感謝し、心の底からもう一度、新しくされましょう。

祈祷
私どもを聖餐の恵みにあずからせるために、十字架について死んで下さった主イエス・キリストの父なる御神。いのちの食べ物、飲み物として味わい、主のいのちに満たして下さい。そして、私どもをここから遣わし、この天国の食卓の前味である聖餐の食卓への招く伝道へと、用いて下さい。

4月8日

☆  二週続けてテモテへの手紙気旅峅鮴盒気鮹翆任靴討い泙后この機会にあらためて、主日礼拝式の説教テキストと定めた理由について確認します。二つのことだけ記します。
一つは、新しく長老と執事が任職、就職されたからです。〇〇長老とは1年、集中したマンツーマンの学びをし、〇〇執事とは今なお継続中です。役員教育は教会形成の生命線です。役員方もまた、改めて自分たちの召しと務めについて学び直し、さらなる成長が期待されるからです。

もう一つは、主日礼拝式のさらなる充実のためです。パウロがエフェソ教会を異端(的教説)から守るために集中したのは主日礼拝式でした。礼拝の「整頓・充実」はそのまま教会「形成」となります。ですから、キリスト者は、男性と女性も先ず何よりも大きな祈り(主日礼拝式)を整える奉仕者だと指摘しました。主イエスはそのためにこそ教会に監督つまり牧師(説教者)を与えて下さいました。「同じように」男性執事と女性執事もまた主日礼拝式を整頓するためのかけがえのない奉仕者であることを明らかにしました。「教会の生命は礼拝にあり」(20周年宣言)「礼拝の生命はキリストの臨在にあり」(70周年)です。教会の営みのすべては、主日礼拝式に始まり礼拝に終わります。

★   小会は常に主日礼拝式がふさわしく捧げられるための課題について議論します。先週は期せずして執事からも問題提起を受けました。そこで、礼拝式の備えや礼拝中の態度等について、何週かにわけて記してみたいと思います。最大かつ最重要なテキストは「礼拝指針」です。(ぜひ、「教会規程」を講読下さい。たったの1000円。お求めは牧師まで)今回は、「第4章 公的礼拝への出席と礼拝中の行動」にかかわる事柄に限定して記してみます。

当日の説教原稿を印刷、配布する教会を知りません。特異だと思われます。何故、こうするようになったのでしょうか。かつて多くの会員が小さな子どもたちを抱えながら礼拝出席に励んでおられました。礼拝者への配慮やナースリー中の子どもたちのため、やむを得ず礼拝堂の外に出なければなりません。そうすると、その時間に語られる説教は「飛んで」しまいます。もし原稿があれば、飛んだところを補え、説教聴聞に戻れる・・・と考えたからです。とても有効でした。原稿を家に帰って読み直せるのは、子育て中の会員にとってきわめて有益であるとの声も伺いました。

 タダシ、原則があります。礼拝説教とは徹底的に聴聞されるべきものであるということです。つまり、読むものではありません。神は御言葉を「語られ」、人は「聴くこと」によって神と出会い、交わり、礼拝は成立するのです。理想を言えば、聖書朗読中も聖書を開かず、聴いてくださればと思います。(そのためには、予習:準備が必要です。)もとより、お一人お一人には、個別の事情があります。説教中に原稿を確認なさる事を「禁じる」ことは考えていません。ただし、上記のことを真剣に考慮した上でと願います。それが、説教聴聞力を鍛える道です。(次週に続きます。)

★   先々週の土曜日、第五回の憲法カフェが52名の出席者で開催されました。本格コーヒーマシンと焙煎された豆、なにより手作りのケーキがふるまわれました。この地区ではまさに知名度ナンバーワンの憲法学者の愛敬教授(名大大学院)は、ディアコニア室の要望にもきちんと応えてくださいました。その意味では、むしろ教会と国家との関係(歴史)を知るべきキリスト者こそ出席くださればと思わされました。先生より、【…皆様のご健康と教会のますますのご発展をお祈り申し上げます。そのことが、日本の市民社会を少しでもよいものに変えていくための力になると思いますので。…】とのメイルを頂きました。とても嬉しく思いました。政治的ディアコニアの視座には、「市民社会を少しでもよいものに変えて行く」ことも含まれているからです。教会の使命は、神の国の伸展に奉仕することにあります。うっかりすると教会の使命や働きを「伝道」という言葉ですべて処理する乱暴な議論に陥りやすいと思います。ディアコニアの神学の構築と実践を目指す私どもは、それに与しません。しかし、あえてここで伝道を用いましょう。伝道とは、キリストの主権を証し、人々に御国の到来を告知し、そこに招くことです。キリストの主権は、世界の全領域に及びます。ですから、伝道する教会と政治的ディアコニアとはなんら齟齬はないのです。ただし、その実践のためには聖書と歴史から教会を学び、なにより祈りが必要です。信仰の実践は、徹底的に霊的な次元でなされなければなりません。第6回は、キリスト者の憲法学者をお招きします。市民のために、また教会のためにもよき集いとなりますように。

「復活の証言者キリスト」

「復活の証言者キリスト」
2018年3月25日(受難週)
聖書朗読  テモテへの手紙機‖菎茖馨錬言瓠檻隠垣瓠
【ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。】

今朝の物語は、ルカによる福音書のいわば頂点、頂上であります。私のことを申しあげて恐縮ですが、聖書の中でも大好きな箇所です。何故、大好きなのか。この物語は、毎週、ここで私どもは何をしているのか、主日礼拝式の意味、ひいては教会生活の意味を最も鮮やかに明らかにしてくれるからです。確かに、この物語は紛れもなく2000年前の、ただ一度限りの事です。しかし、もしこの物語を正しく読むことができれば、これこそ、毎週日曜日、私どもがここで何をしているのか、いえ、ここで何を神がなさっておられるのかを悟ることができると思います。

あの日、二人の弟子たちがエマオの村に向かって歩いていました。彼らの顔つきは疲労と焦燥感に暗くげっそりしていました。足取りは、確かでした。しかしそれは、少しでも早くエルサレムから離れたい、離れなければ危険が迫るという焦りから来るものでした。

彼らは、これまで一途にあの方こそ、救い主でありイスラエルの王様になられるに違いないと信じ、期待していました。ところがそのイエスさまがあまりにあっけなく十字架につけられ、殺されてしまったのです。あまりのショックに頭は真っ白、目の前は真っ暗になっていました。

二人は、確かに、イエスさまの驚くべき奇跡を目の当たりにしたことがあります。病に苦しむ人々を癒し、五つのパンと二匹の魚で5000人もの人々を満腹にさせ、遂には死者を蘇生させることまでやってのけたのです。しかも、ただ単に人々を驚かせるために奇跡を起こしたのではありません。すべては、御自身のためではなくひたすらに人々への愛を示すためのものでした。さらに、二人の心が魅かれたのは、イエスさまのすばらしい愛の教えでした。これまで、聞いた事もないまったく新しいものの考え方、人生の真理を説く説教を聴いたのです。ですから、このイエスさまこそ、間違いなく神の人、イスラエルの王様になる人、イスラエルの救い主、キリストだと考えていました。

イエスさまがあっけなく殺されて三日目、もはや神の人であっても生き返る可能性はゼロ。もはや彼らの望みは、完全に絶たれたのでした。それは、イエスさまの弟子として過ごしたあの充実した三年間も、春の代の夢物語になったことを意味しています。ですから、もとの暮らしに戻るために、エマオの村に帰るのです。エルサレムからおよそ20舛竜離を速足で、戻るのです。

ただし、彼らはもはや望みなき状況にいるのですが、一方で、腑に落ちない情報も耳にしています。女性の弟子たちが、驚くべきことを告げたからです。なんと「イエスさまは生きておられる」こう言うのです。彼らは、三日たったのだから、もはや、そのようなことは決してあり得ないと分かっていました。しかし、確かに分かっているのですが、女性たちは天使たちが「イエスさまは生きておられる」と言うし、墓にはご遺体がなかったと言うわけです。彼らは、もはや何が何だか分からないほど混乱し、心が千路に乱れていたのです。

するとどうでしょうか。ご復活されたイエスさまがこの二人の後を追いかけて来られたのです。決して、二人がそれを願ったわけでもなく、そのとき、この男性がイエスさまだとも気づかなかったのです。
ここに来られた方の中に、まさに、初めてキリスト教会に来られた方もいらっしゃるかもしれません。この教会の会員の半数は、親に連れられて来られた方ではなく、いわば大人になってから自分で教会に来られた方々です。しかし、イエスさまを信じた後に、皆さんが気づくことがあります。皆さんが証しされることがあります。ああ、わたしがイエスさまを求めたのではなかった、私が教会やキリスト教を捜したのではなかった。イエスさまが、それとはまったく気づかない仕方、方法でわたしの人生に来て下さっていた。イエスさまがアクションを起こしてくださったおかげで、イエスさまの方が一緒に歩いてくださったのだということです。イエスさまは二人の会話の中に入り込んで下さいました。私どもは、イエスさまのことを知る前から、求める前からイエスさまの方から寄り添って、いっしょに歩き始めて下さったのです。すべては後で気づくのです。

確かに、イエスさまとの出会いは、具体的には、学校にいったらたまたまキリスト教主義の学校だったとか、職場がキリスト教に関係のある場所だったとか、あるいはキリスト者と出会って教会に誘ってもらったからとか、キリスト教の本を読んだり音楽を聴いて、関心をもったからとか、バラエティーに富んでいます。しかし、ここにいる誰一人の例外もなく、共通する真理があります。それは、復活されたイエスさまが、私を探しだし、追いつき、そして知らない間に共に歩まれたということであります。

さて、この二人はすでにイエスさまの弟子であることは間違いありません。しかし、肝心な点で理解が不十分だったのです。むしろ、誤解していたと言う方が正確です。ですから、ご復活されたイエスさまは、このように仰いました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」実は、この二人だけではなく、弟子たち全員は、神から派遣される救い主とは、自分たちの祖国イスラエルを復興させて、経済的に豊かにさせる政治的な王のイメージして描いていませんでした。まさか、キリストがよりによってローマ帝国の官僚の裁判によって簡単に殺されてしまうなどということは受け入れがたいことだったのです。

しかし、イエスさまは弟子たちに三年もかけて、まさにキリストは苦しみを受けた後に栄光を受けること、苦難の後に栄光を受けるのだと予告されたのです。ですから、イエスさまは歩きながら、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のです。つまり、旧約聖書全体から御自身について書かれていることを説明されました。実に、旧約聖書とはこのイエスさまを証しする書物だったということです。

さて、このイエスさまがなさった行為のことを、教会では説教と申します。そして、この聖書を説き明かす説教こそは、毎週日曜日必ず、ここでなされている事に他なりません。つまり、この日の弟子たちの体験とは、すべてのキリスト者、これから後のキリスト者たちのいわば「原体験」なのです。世界中の教会は何故、日曜日、集まるのでしょうか。それは、イエスさまが日曜日の朝にご復活なさったからです。そしてその御自身のご復活の出来事を、御自身が繰り返し証しして下さるからです。その第一の方法こそが、聖書を説き明かす説教です。

さて、この二人はイエスさまから説教を聴きます。ところがなんと不思議なことでしょう。彼らは、説教してくれているその人がイエスさまだとは気付いていません。心の目はまだ完全には開いていないわけです。余談ですが、復活のイエスさまは、信仰の目が啓かれた人でなければ、イエスさまだと気付けないということなのだと思います。

しかし、彼らの心には既に決定的な変化が起こっていました。二人だけで話し合っているときには、心は冷たく、顔つきはみるも無残なものでした。裏切ったのは弟子たちなのに、自分たちこそイエスさまに裏切られたというような悲しみやそれだけにイエスさまへの怒りも生じていました。ところが聖書の説き明し、説教を聴いている内に二人の頬はみるみる紅潮してきました。聖書全体からキリストの預言を学ぶなら、それは紛れもなくあの十字架で殺されたイエスこそ、キリストではないか、それなら、自分たちが信じていたことは間違いなく、自分たちこそ、裏切った者、キリストを見棄てた者ではないかという悔い改めも起こってきました。さらに、この聖書の言うようにこのキリストは苦難を受けてお終いではなく、その後に神からの栄光を受けるはずだということも理解できました。そうすると、あの女性の弟子たちがイエスさまは生きておられるという証言は、嘘偽りではなく、真実ではないか、もう、心は燃え上がります。聖書の説教を聴くと、あのイエスこそキリストだと信じる以外にないのだと分かってきたのです。

こうしてついに二人は、エマオの村に到着しました。ところが、イエスさまは、なお先に行こうとします。他の弟子たちを追いかけようとなさったのだろうと思います。そのとき、二人は強引にイエスさまを引き留めます。本当にすばらしいことです。もし、そのままにすれば、この物語は完結しません。本当のすばらしい出来事は完成しないのです。中途半端になってしまいます。実は、ここは、私どもがしばしば失敗を重ねるところです。私どもは、確かに日曜日に説教を聴きます。しかし、聞きっぱなしにするということが起こります。説教は聴かれなければ意味がありません。漢字で「きく」と言う文字には二つあります。耳で聞くという聞く。新聞のぶん、門の中に耳がある方の聞くです。もう一つは、医師が胸に当てる聴診器の聴です。耳偏に徳と書く方です。イエスさまは常に聖書を通して、説教を用いて私どもに語りかけて下さいます。ところが私どもは、聞き漏らす、聞き逃す、自分のこととして掘り下げないのです。そうすると、効き目がないのです。効き目のきは、効果の効です。正しく説教が聴かれたら必ずその人に効果を与えます。救いが起こるのです。イエスさまが分かるのです。イエスさまへの信仰と愛が、心の内に熱くなってくるのです。そのために、おそらく多くの皆さまには、言わば予習、復習が必要となるのではないでしょうか。
  
さて、この二人は、すばらし選択をし、行動を起こします。彼らは、何としても説教を聴き続けたかったからです。こうして、イエスさまは共に泊まるため家に入られました。イエスさまは彼らの願い、求めを喜ばれたということです。時は夜。三人とも歩き疲れてお腹がすいています。一緒に夕食の席に着きます。これまでは、二人が主役のようでしたが、ここではイエスさまがこの食卓の主人のような感じが致します。「イエスさまはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになられました。」これは、何を意味しているのでしょうか。それは、この説教を終わって直ちにお祝いする聖餐の礼典を指し示しています。主イエスのあの晩餐の出来事を再現しています。

ルカによる福音書は、最後にもっとも重要なことを伝えようとしています。「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」彼らが聖餐の礼典に招かれたとき、これまでベールがかかっていたその目の蔽いが取り払われたということです。実に、神は、説教と聖餐のこの二つの方法によって主イエスが私共と共におられることを証しして下さるのです。神ご自身が、2000年間、繰り返し、教会のために同じことをし続けて下さっています。イエスさまの復活を証しするのは、その最大の主役は、イエスさまご自身です。父なる神ご自身でいらっしゃるのです。私どもはこの復活の証拠を確かめるように主の日、ご復活された日曜日に教会に集まるのです。教会は実に2000年間、共に集まれば、教会に来れば、イエスさまと出会えると言うこの原体験を重ねてきたのであります。

二人は、ここにいらっしゃるのがイエスさまだと気付いたとき、不思議に、肉眼でイエスさまを見ることが出来なくなっています。ここに、著者ルカの強調点があります。福音書の時代、そしてユダヤに生きていた人以外に、誰もイエスさまを肉眼で見た人はいません。誰もいないのです。けれども、信仰や救いにとって復活されたイエスさまを肉眼で見る必要など、もはやないのです。説教と聖餐で十分に確かめることができるからであります。
この二人の弟子の名前はひとりはクレオパと言います。ところがもう一人の名は記されていません。確かに不親切です。しかし、わたしはむしろ、そこに神の意図、著者であるルカの深い考えがあると思います。名前がないのは、そこに、わたしが、皆さまを入れ込んで良いからだと思います。この物語は、他でもない、私自身の皆さまの物語、主日礼拝式の解説なのです。

二人の心は暖かく燃えました。そして、夜中にもかかわらずすぐにエルサレムにひきかえります。そして、このすばらしい出来事をみんなで分かち合うのです。シェアーするのです。これが、キリスト教です。このようにしてキリストの教会は生まれたのです。名古屋岩の上教会は今朝、伝道開始24周年を迎えました。正しく説教が語られ、正しく聴かれること、聖餐の礼典が正しく祝われることを常に、教会の営みの中心に据えて参りました。だからここに、この教会が存続しているのです。これまでのイエスさまの恵みと御業に心から感謝致します。一方で、課題は山積しています。私どもには、あの弟子たちのように、夜中にもかかわらず出かけようとする信仰の熱意、献身、行動力があるでしょうか。キリストの愛に、キリストの御言葉に心が燃やされることから始まります。こうして、御言葉の交わりを拡げて行くことができます。教会はそのようにして始まったのです。私どもは、今朝、あらためてこれまでの歩みに心から感謝いたしましょう。同時に、獲得すべき広大な土地のために、神の国を伸展させるために共に祈り、共に励みましょう。

祈祷
天のお父さま、毎週日曜日、私どもにこのように確かな救いと喜びを与え続けて下さって、私どもを神の子として養い、祝福してくださいますことを改めて感謝致します。どうぞ、この変わらぬ恵みに甘え、慣れっこになってしまわず、いつも感動と感謝を新しくし、深めさせてください。アーメン。

目次
名古屋岩の上教会
〒458-0021
名古屋市緑区滝ノ水2-2012
TEL&FAX:052-895-6701 
メール:iwanoue■me.ccnw.ne.jp
※■を@に変えてください。
牧師紹介
□牧師 相馬伸郎□
下記の定例集会にどなたもお気軽にお越しください!心から歓迎いたします。
求めるあなたに、かならず、救いが与えられます。


□主日礼拝式□
毎週日曜日
10:30〜12:00

□子どもの教会□
毎週日曜日 
嬰児から高校生まで
9:00〜10:00

□祈祷会□
毎週水曜日 
朝 10:00〜11:30
夜 19:30〜21:00

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