名古屋岩の上教会

わたしはこの岩の上に私の教会を建てます。 -マタイによる福音書第16章18節-

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「教会が分かれば、変わる」

「教会が分かれば、変わる」
2017年1月15日
聖書朗読 使徒言行録第20章25−28節  (p255)
【そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。】

 実は、先週の今年最初の祈祷会は、詩編を味わうのではなく、先週の説教を振り返り、説教の恵みの分かち合いを行いました。そのようにして、いわば、新年の歩み、抱負を共に分かち合いました。同時に、これまでしたことがないことをしてみました。今朝の箇所を前もって読んで、分かち合いました。この箇所を丁寧に学びたいからです。
 
さて、早速、いつものように一節ずつ扱います。25節です。「そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。」彼は、エルサレムに行くことを聖霊に縛られるように強く促されて出発を始めています。そして、そこでは苦難が待ち受けていることをエフェソの長老たちに予告しています。その上で、このみ言葉が続きます。そのまま読めば、死を覚悟しての言葉のようです。愛する長老達ともう地上で会うことはない、自分は地上を去らなければならない、そのような者として語るのです。そして、そのような者から聴くのです。

説教に関する有名な言葉があります。「説教とは、まさに死なんとする者がまさに死なんとする者に告げる言葉である」常に心に刻んでいます。確かに、今朝ここに集められた私どもが来週、必ず、ここに来られるという保証はありません。わたし自身、ここで必ず語れるという保証はありません。だからこそ説教は真剣な行為です。「もうこれで死ねる」というほど、福音の神髄を語り切る迫力が必要です。もし、皆さまがここに相馬牧師のお話しを聴きに来るというだけの理解では、結局、救われることはできません。ここで神からの言葉を聴くのだ、聴けるのだという信仰の理解なくして、説教は説教にならないのです。

次に25節の後半です。「わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。」皆さまはエフェソ教会をどのようにイメージしておられるでしょうか。エフェソの町は大きな都市です。名古屋市は、全16区で構成されています。そして、それぞれの区にいくつかの教会が点在しています。エフェソの町にもいくつあったのかは分かりませんが、いわゆる家の教会、信徒の家を今日の教会堂、礼拝堂にして教会活動が展開されていました。そして、ここに呼び集められた長老たちとは、まさに、その家の教会の指導者、監督たちに他なりません。使徒パウロは、3年間、彼らの群れ群れ、家の教会を巡回しながら、御国、王国、神の国の福音を宣べ伝えたのです。つまり、「神の王国はここに来た。天国は、主イエス・キリストの十字架と復活によって今まさにここにある。だから、悔い改めて信じなさい」こう、説教したわけです。

次に26節。「だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。」私は、ここで「わたしには責任がありません。」唐突に、自分の「責任問題」に言及していることに違和感を覚えました。しかし、よく考えてみますと、これは、パウロに与えられた神からの任務、ディアコニアの本質に基づくのだろうと思います。ここで、ローマの信徒への手紙第1章を思います。14節です。「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。」この責任とは明らかに福音を語る責任です。口語訳では「負い目」、新改訳では「負債」と訳されています。そして確かに直接には、人々に対する責任です。しかし、根本のところは神に対する責任、いわば、神への借金なのです。パウロは、この負債感をもって世界伝道をしたのです。
しかし今そのパウロは、はっきりとこう言います。「だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。」血と言うのは、明らかに死のことが暗示されています。はっきり言えば、神の究極の裁き、最後の審判のことです。パウロは、最後の審判のとき、あなた方に対して、私は神から責任を問われることはないと断言するのです。良心の呵責はないというのです。すごい確信です。その理由は、神のご計画の全体、神の御心の全体を伝えきったからだと言うのです。つまり、救いの道のことです。

ここで「ひるむことなく」と言ったその一言に注目しましょう。そもそも福音を語るとき、すべての人に感謝され、誰にも喜ばれるというわけにはいかないからです。相手からの反発、攻撃、怒りすら招くことも予想されます。だからこそ、「ひるまない」という覚悟が必要だったのです。確かに、そもそも福音とは、よき報せと言う意味です。よい知らせを聞いて、喜ばない人はいません。ところが、福音とは、神の民にとっては勝利のニュースですが、反対者にとってはそうではありません。歴史上、彼ほど、福音を証したせいで人々に憎まれた人も珍しいのです。しかし、彼は、ひるまず語り続けました。

私はここで、自分自身ひとりの長老、説教として深く問われました。パウロはわたしからすればたったの3年間エフェソで伝道してこう言い切ります。翻って、私は、この教会で既に20年以上奉仕させて頂いています。わたし自身、教理の全体、特に教会について教会のディアコニアや教会政治について出来る限り語ったと思っています。しかし、現実にまだまだという感じがします。わたしの責任なのか、皆さんの責任なのか、どちらともの責任なのでしょうか。いずれにしろ、いよいよ、わたしも真剣、皆さまも真剣に、み言葉に向き合いたいと願います。

さて次です。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。」あなた方とは、エフェソの長老たちのことです。彼らは、今日の牧師のように、自分の家の教会員のために毎週、説教をし、み言葉の教育、カテキズム教育、霊的な生活の訓練に励んでいました。パウロは、今、改めて、いわば弟子たちに自分の奉仕ブリを真似て欲しいと訴えているのです。私が、良心に責められることなく、あなた方の救いのために必要なことは、すべて語りつくしたように、あなたがたも神から与えられたイエスさまの羊たち、つまり教会員たちのために説教しなさいということです。

実は、この箇所は、来週、集中的に扱いたいと思います。今朝は、その一部分だけ、学びます。ここでは、群れ全体のために気を配ること、日本語では配慮すべきことが命じられています。確かに、長老達、教会役員たちには群れ全体への配慮を怠ってはならないことが示されています。しかし実は、うっかりするとそこで見失ってしまうこと、しばしば失敗してしまうことがあります。そして、それを正すために決定的に重要な真理がここに明瞭にされています。それは、順序のことです。パウロは言います。「あなたがた自身に気を配ってください。」これが第一です。これがすべての奉仕のまさに土台なのです。何はともあれ、自分の魂の配慮を怠ってはならないというのです。その意味は、自分の魂の配慮が十分でないと、群れ全体を配慮できないということです。牧会者じしんが本当に霊的に恵まれ、満たされ、み言葉に生かされている、それが土台です。

これは、実は牧師自身にこそ当てはまることです。ある説教者はこう言いました。「説教はまず自分自身のためにしなさい。」おそらく、解説が必要でしょう。その意味は、語っている自分自身が本当に慰められる、自分自身が本当に力を受けることができる、そのような説教でなければならないということです。自分が干からびていては、教会員を、教会全体を潤すことはできないからです。これは、真理です。そのように牧会者が元気でいれば、必ず、群れ全体に波及するというのは、本当だろうと思います。

さて、いよいよ、最後の箇所です。ここが、本日の説教題であり、もっとも大切な箇所です。28節の後半です。「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。」特に、今朝は、「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」だけに焦点を絞ります。

さて、今朝の説教の題として「教会が分かれば、変わる」としました。そもそものお話しですが、私どもは講解説教に説教題をつけます。教会の改革者カルヴァンの伝統からすれば、神の言葉の説き明しである説教に、わざわざ題はつけないのです。しかし、日本の状況においては、付けることがむしろ一般的です。ただし、本来、講解説教は、聖書の言葉の流れに即して、順々と解いていくものです。しかし、付けられた説教題は、そのテキストから説教者がもっとも大切な事、届けたいと願っていることに焦点をしぼって、そして、説教題にするわけです。その意味で今朝、改めて「教会とは何か」について集中して学びたいと願っています。「教会が分かれば、変わる」とは、いったい何が変わるのでしょうか。わたしの生き方が変わるということです。同時に、もう一つの意味も込めています。それは、この世の人々がキリスト教会とはいったい何ものかと言うことが分かるなら、そのとき、まさに世界が変わってしまうはずだという意味です。世界は、教会のようになりたいと心底思うようになるでしょう。世界の将来、理想は、神の教会のように民族の違いも、男女の違いもさまざまな違いを越えて、一つの民となる、愛と平和と正義の共同体となりたいと願い、教会を模範とし、真似て行くはずです。

さて、この聖句は新約の中でもおそらく一か二を争うほど解釈の難解な箇所だろうと思います。なぜならパウロはここで教会を、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」と語っているからです。いえ、この翻訳なら余り違和感がないかもしれません。しかし、実はもとのギリシャ語では、「神が神の血で贖いとっと神の教会」となっています。教理を学んでいる私共から言えば、まったくクエスチョンマークです。いったい「神の血」ってなんだろうと思ってしまうはずです。それもそのはず聖書のなかで、まさにここにしか出て来ない表現です。おかしいと言えばまったくおかしい表現です。ですから、多くの翻訳者たちは、ここを神の「御子の」血、つまり御子イエスさまの血だと、御子のという言葉を補足したのです。言い直しているのです。なぜなら、聖書の福音の中心こそ、主イエスの尊い血の代価のおかげで、信じる者の罪が赦され、神の子とされるという報せだからです。しかし、パウロはそれを重々承知の上で、あえて、意図的にしたはずです。

名古屋岩の上教会にとって、マタイによる福音書第16章18節「わたしはこの岩の上に私の教会を建てる」は決定的に大切であろうと思います。週報の表紙にも年報の表紙にも記されています。このみ言葉を語られた「私」とは、言うまでもなく主イエス・キリストご自身です。そして、この短い言葉にわたしが二回出てきます。マタイは、どれほど教会とは、イエスさまだけが主権者であり、その所有者でいらっしゃり、イエスさまが決断し、実行なさるから、教会は地上に建てあげられ、現に存在しているのだと強調したいのでしょうか。

私どもの開拓以来の祈りは、「ここに神の教会を建てあげさせてください」です。単に教会ではなく、「神の」教会と言うところに強烈なこだわりがあります。いったい、この日本に、もしくは世界にいくつ宗教団体が存在しているのでしょうか。その中で、私どもが決して譲れない信仰があります。それは、毎週唱えているニカヤ信条にあります。「我らは、使徒よりの唯一の聖なる公同教会を」信ずということです。つまり、私どものキリスト教会は、数ある宗教団体の一つでは、決してないということです。ここには、排他性、絶対性があります。この人間から見れば、まさに同じ信仰に生きる人間の集団の一つです。しかし、聖書の信仰は、この人間集団は同時に神の教会だというのです。わたしは、もし、キリスト者自身が、教会を「神の」教会として確信されるなら、必ず、生き方が変わると信じています。神の教会とかキリスト教会とは、単なる名称ではないのであります。教会の本質そのものを示しているのであります。私どもが万が一にも、私ども自身を、他の人々、信仰のない人々と同じようにキリスト教という宗教団体の一つ、私どもにとって極めて大切な宗教団体だという理解で留まるなら、それは、由々しきことです。

教会は、神ご自身のものです。そのような強烈なメッセージが、パウロの口からエフェソの長老たちにストレートに語られます。これは、同じ長老だから、できる表現なのだろうと思います。先週も、「生きることはキリスト」というパウロの言い回しを学びました。このみ言葉は、キリスト者でなければまさにチンプンカンプンでしょう。しかし、だんだんと信仰の真理が体得されてくると、そうだそうだと分かってきます。
パウロはここで、「神が 神の血によって 神のものとなさった 神の教会」と言うのです。神、神、神、神と徹底的に教会が神のものだと言うのです。そして、その教会とは、教理的に言えば、明らかに人となられた神の御子イエス・キリストの十字架で流して下さったあの贖いの御業、キリストの御血で贖われたものだと言うのです。「贖い」という言葉は、そもそも経済用語です。「贖う」とは、代価を支払って自分のものとして買い戻すことです。それを、教会は、救いの教理の心臓として採用しました。

主イエス・キリストの十字架の犠牲によって、私どもひとり一人は、罪が赦されました。神の子とされました。これが聖書の救いの教えです。今朝は、これ以上触れません。しかし、ここで、このみ言葉を通して、どうしても皆さまの心と魂と体にまで、刻み込んでいただきたい真理、教理があります。それは、イエスさまの十字架は何のためだったのかということです。それを問うなら、そもそも神の御子が人となられたのは、イエスさまがお生まれになられたのは何の為だったのでしょうか。それは、この地上にご自身の教会を興すためです。神の教会を存在させるためなのです。十字架もご復活も、神の教会をこの世界に、この国に、この町に、この名古屋に打ち建てるためだったのです。そのために、どれほど父が苦しまなければならなかった事でしょうか。父なる神ご自身には肉体がありません。その苦しみは肉体上のものではありません。しかし、神の御子を父なる神ご自身が十字架で、罪の贖いの代価として捧げ、ご自身が「我ら人類のため、我らの救いのために」愛する独り子をお捨てになられたのです。自らの聖なる御手で、刑罰を下されたのです。血とは聖書で言えば「いのち」の象徴です。いのちのこと、しかも、肉体の生命を越える、霊的ないのち、神のいのちに通じます。永遠のいのちのことです。

先ほど、キリスト者、伝道者の責任について学びましたが、ここでの議論はその事がこだましています。神はまさに、永遠の滅び、永遠の死を私共に負わせないために、御子を神の呪い、神の刑罰としての死に至らしめたのです。そこまでして、神は地上に新しい神の民の祈りの家、新しいイスラエル、神の家を欲しておられたのです。そうであれば、私ども救われたキリスト者の全生涯の歩み、キリスト者の生きる主な任務は何になるのでしょうか。もう、言わなくてもよいのではないでしょうか。「すべてはここに神の教会を建てるため」そう言い切ってよいのではないでしょうか。もとより、教会員全員が牧師や長老、執事になるということではありません。けれども、少なくとも教会のために生きることとキリスト者であることとは、深く結びついていること、切り離せないことだということは明らかです。この真理は、先週のおさらいともなるはずです。24節で、「自分の決められた道を走り通す」ということ、つまり、キリスト者の生涯と「神の恵みの福音を力強く証しする」ということ、つまり、キリスト者の使命、任務、ディアコニアとは、切り離せないということとまったく同じです。キリスト者の命と使命とはワンセットなのです。洗礼を受けて神の子とされるということとキリストの教会員とされるということとは、ワンセットです。救われたということと教会を建てあげる奉仕に勤しむということとはワンセットなのです。

さて、私どもそのものである名古屋岩の上教会とは、実に、神の教会に他なりません。つまり教会とは決して牧師のものでも、長老や執事のものでも、そして会員のものでもありません。確かに私どもがここで生き、つまり奉仕するように召されたこの教会は、私どもがいなければ、このように礼拝を捧げなければ教会として存在しません。しかし、その私どもそのものである教会とは、まさに神がご自身のいのちをかけ、犠牲をしはらって存在させてくださった、ご自身の救いの家なのです。いいでしょうか。教会は神のものです。それはただちに、実に、私どもは神のもの、神に贖われて、神の所有となっているということに他なりません。主権者は、わたしでも皆さんでもありません。主権者は神です。だから私どもは主イエスと告白しているのです。これも私どもの開拓以来の祈りです。「キリストだけを主と告白する慰めの共同体」ここがぐらついたら、教会は建物としてはあっても、その中身は異質なものになってしまいかねません。どうぞ今朝あらためて、私どもは、この岩の上教会を建てあげるために救われたのだということ、洗礼を受けたのだということ、会員とされたのだという根本的な事実を改めて確認いたしましょう。神は、徹底的に私どものために生き、働き、存在しておられます。ならば、私どもこそ、徹底的に神のために、そして、神が愛しておられる人々のために生き、働きたいのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あなたは御子の御血によって教会をこの地に贖い取って下さいました。ご自身の言いつくし得ない犠牲の愛をもって、地上にキリストの教会、つまりあなたの教会を建てあげて下さいました。しかも、あなたの教会は、私どもなしには地上に存在しえないのです。何と厳かな恵みでしょうか。教会において私どもは目に見える仕方で救い主イエス・キリストと一つとされています。教会において、私どもはキリストの救いにしっかりと招き入れられ、今や、キリストは私どもを通して地上に働かれます。そうであればこそ、私どもが生きることをキリストを生きること、キリストの働きを今ここで担うこと、主にお仕えすることです。神よ、このような聖なる奇跡の中に招かれたことに、私どもの眼が開かれ、いよいよ、感謝と喜びをもって、教会と共に、教会のために、生涯の道程を歩み抜かせて下さい。アーメン。

1月15日


★  先週は、主日と誕生日が重なったこともあったと思いますが、皆さまから暖かなお祝い、お祈りを頂きました。改めて感謝申し上げます。当日は、お昼を食べる暇もなく午後の奉仕を続け、小会を大急ぎで終えたのは7時前。(渡辺長老も同じだったはず)その日は、家庭では何やらサプライズが・・・。結局、取りやめ。なんとカップラーメン他の夕食。教会からのサプライズは、渡辺長老のお手紙朗読。したためられていた信仰の言葉、信仰理解また牧師理解に感激しました。「時には、家族さえもそっと横に置き」と。応答を求められましたが、こみ上げて来ると察知し、ほとんど何も言えませんでした。

牧師は教会員の暖かな職務への理解がなければ、ほとんどの牧師は、主から託された務をふさわしく担うことはできないと思われます。つまり、職務から(内的に)離れるか、中途半端の働きで可とするかの二つに陥ってしまいます。精神の健康を損ない休職、離職、引退する教師がどれほど多い事でしょうか。その意味で、わたしは今、本当に幸いを噛みしめています。しかし同時に、渡辺長老を始め小会議員はどうでしょうか。会員から暖かくその職務を尊敬され、理解され、協力していただけなければ担えません。 何故でしょうか。彼は、「治める」務め人だからです。出エジプト記を読めば、この務めがどれほど恐ろしく困難であるかが記されています。長老は、「仕えるリーダシップ」を発揮しなければなりません。力の入れどころ、方向性は相矛盾します。「指導力」がなければ、引っ張れません。同時に、「仕える」ことなくしてキリスト者の奉仕ではなくなってしまいます。教会の健康のため、ここにきちんと記しておきたいと思います。         

★  合同協議会の折、教会からとのことでネクタイを頂きました。どなたが選んでくださったか分かりませんが、センス抜群です。早速、平日に締めています。礼拝式で見たい・・・と思われる方もいらっしゃるかと思います。よい時なので、一言。私は、主日礼拝式には基本的に黒の礼装(祝いの式典用)です。かつて、数度、ジュネーブの改革教会の伝統を倣ってガウン着用で司式、説教したことがあります。二つの意味があります。主日は主なる神との交わり、公的会見の場、「喜びの祭り」だから。二つ目は、「黒子」のように、自らを隠すようにして神に仕える者としてふさわしいだろうからとの思いです。

★  単立時代、当時の若い委員方からネクタイをいただきました。バブル期からか?目が飛び出るほど高価なものでした。ちなみに、中会の執事活動委員会は、その設置の最初から引退教師の住宅の問題を扱う委員会の様相を帯びていました。しかし今、委員会の執事活動理解は、はるかに聖書的に進んでおられると思います。執事はもっとも弱い人に目を注ぎます。キリスト者(牧師)は、主によってもっとも弱くされた人に他なりません。主にある仲間への愛の配慮は、外へとあふれ出します。

☆   先週の月曜夜、NHKテレビで、フクシマの被災者の今を取材した「それでも生きようとして」が放映されました。後半30分だけだったのですが、録画しつつ、観ました。放射線被害に遭ってなお、がんばって生きて行こうと、コメ作りに打ち込んでいた川内村の農業青年ご夫妻の自死が紹介されていました。結婚されたばかりのご夫妻に死を選ばせた核発電とその事故、その後の政府の対応、政策に悲しみと怒りで胸がつぶれそうになります。さらに、「なごみ」というNPOが、仮設入居者の特に男性の引きこもっている方のところに出向いて行って、なんとか自死者を出さないようにと、懸命な努力を重ねておられることも知りました。直ちに、石川長老のCafe de FUKUSHIMAのディアコニアを思いました。 晦日のあの日、仮設集会室で皆で大笑いし、食事を楽しみ、おしゃべりし、ゲームをし、生活必需品のたくさんのプレゼント持ち帰った仮設暮らし5年目の方々。きっと、ちゃんとお正月を過ごせたのではないかと思います。まさにこのディアコニアは、「自死」を食い止める働きでもあるのです。

☆   先週は、政治的ディアコニア室主導によるスタンディングや学び会(これは、全会員のためのものです!)も行われました。確かに、室員や被災地に行った奉仕者と、そうでない会員との間に理解の開き(温度差)が生じます。これは、当然のことです。しかしだからこそ教会共同体においては、自ら、意識的に、関心を注ぐ努力が求められているだろうと思います。どうぞ、二つの「室」はもとより各委員会、そして執事会、小会の働き、決議に関心を持っていただくように切に切に願います。単なる有志組織ではなく、教会(=を代表する奉仕の)機関なのですから。   

★   先週の信徒神学講座は,4名の発題者と吉田校長のよき講演。具体的なさまざまな教会の課題を広く、深く考えさせられました。感謝。何より、浜松伝道所の一人の委員が「説教の恵みの分かち合い」やディアコニアの教会のことを証言されました。模範的群れとなりつつあります。私どもも学びたいと思います。

「生命より大切なもの」

「生命より大切なもの」
2017年1月8日
聖書朗読 使徒言行録第20章17−24節  (p253)
【  パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。 神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。
そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。】


 ひと月ぶりに使徒言行録に戻ります。今年も、与えられたテキストから神の御言葉を聴きとりながら、礼拝を捧げてまいります。神は、はるか2000年前に記された使徒たちの言行録を通して、今ここに生きる私共にご自身の御心をはっきりとお示しくださるからです。み言葉を信じて聴き、み言葉に従う神の民の上に聖霊の祝福が豊かにありますように。

 さて、文脈を思い出して頂くために17節から読みましたが、既に12月の6日に21節まで扱っています。今朝は22節から24節を学んで、礼拝を捧げます。使徒パウロは今、トロアスの町から歩いてミレトスの町に来ています。この町に、片道、一泊二日はかかった旅路を越えて、エフェソの町の教会に使いを送ります。長老たちを呼び寄せるのです。どうしても彼らに伝えておきたかったことあるからです。余談になりますが、皆さま、いえ、少なくとも長老と執事たちは、牧師が会議を開くので、往復最低3泊4日の旅路を、しかも徒歩で、惜しまずに集われるでしょうか。それを思うと、呼ぶ方も呼ぶ方ですが、集う長老達の教会を愛する熱心に感動します。
パウロにすれば、今このときでなければなりませんでした。理由は、25節に記されています。「もう二度とわたしの顔を見ることはない」からです。彼は、殉教を覚悟しています。パウロにとって、既にアジア州を代表する教会として成長しつつあったエフェソ教会がいよいよ堅固に建てあげられ、成長を続けてもらいたいと願ってのことです。そのための筋道をここで明らかにするのです。前回の説教でも申しましたように、この別れの説教は、言わば、教会の憲法です。そらんじるまでに、読み返すべき箇所の一つです。

さて、早速読んでまいります。パウロは自分の将来を予告して言います。「そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。」彼はもう既にエルサレムに行くことを決意しています。今、行きますと訳されていますが、別の翻訳では、エルサレムに行く途中と訳しています。もう、彼はエルサレム教会へと足を向けているのです。

 しかも何より注目すべきことは、それが決して自分の決断、自分の判断ではないと言っていることです。「霊に促されて」だというのです。霊とは、聖霊なる神ご自身のことです。そもそも、およそ、神さまに受け入れられること、喜ばれることができるとすれば、それはすべて聖霊のお導きによってなされたものです。キリスト者の信仰生活とは、すべて聖霊なる神からのお働きを外側から受けて、私共の魂がそれを信仰によって言わば内側において受け入れ、同意しながら織り成されるものです。そして、信仰による行いについての評価は、ただ神さまだけがなしうるものであることを、忘れてはなりません。もう一つの基本的真理があります。そもそもキリスト者は、聖霊から離れて、神さまに喜ばれることは何一つもなし得ないということです。もし、私どもが何かわずかでも善いことをなすことができたとすればそのすべての原因は、ただ聖霊にあるわけです。ですから、キリス
ト者は、人からの評価、何より未信者の方々からの評価にこだわらないようにすべきだということです。人に褒められても、けなされても、私どもは聖霊なる神に導かれて、奉仕してまいりたいのです。  

 余談ですが、「聖霊に促されて」という言葉は、他の翻訳では「聖霊に迫られて」とか「聖霊に縛られて」と訳されています。もとの言葉は、「縛る」という意味です。私どもは既に知っています。パウロは、この後、ユダヤ人そしてローマの兵隊に逮捕され、縄に縛られてしまいます。しかし、著者は、人の目から見れば、逮捕されることは失敗のようにみえるけれども、実は、そもそもパウロは神さまの霊にしばられて伝道していたのだし、エルサレムに行くこととなったのだと言いたいのだろうと思います。

  さて、私は、この文章は、何度読んでもおかしいなと思ってしまいます。パウロは最初に、「どんなことがこの身に起こるか何も分かりません。」と言います。普通なら、「ああ、どんなすばらしい神さまの御業がなされて行くのか、自分はどのようにこの神の福音のためにもちいられるのだろうか」と、新しい旅路に胸を膨らませるのものではないか、そう思うのです。ところが、パウロはただちにこう言います。「ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。」なんということでしょう。もう、縄で縛られるということ、苦難が待ち受けていることは分かり切っていると言うのです。どこの町でも聖霊がはっきり告げて下さったと言うのは、おそらく、どこの町でも聖霊が教会員を通して、「パウロ先生、次の町に行けば、また大変な目に遭わなくてはなりませんよ」そう諭したのだろうと思います。いったい、初めから苦しい目に遭うことが分かっているのに、何故、突き進もうとするのでしょうか。これはもはや、キリスト者でなければ理解ができないと思います。たとえば、有名な占い師がいて、その人のところに占ってもらうとします。すると「あの町に行くと投獄され、苦難が待っているよ」と予言されたとしたら、その人はどうするでしょう。10人が10人とも、「そう言うわけなら考え直してみます。」と言うと思います。世間で言われる宗教や占いの目標は、要するに「家内安全、商売繁盛」のことだと思います。そこから使徒パウロを見れば、この人は異常です。「そんな宗教だったら、やめてしまえばよいではないか。」そう思うのが一般的だと思います。あるいはまたある人は、「神さまが、前もって教えてくださったのだから、ここは逃げるが勝ちではないか。」と仰ると思います。キリスト者であっても、「パウロ先生、あなたは、今まで十分やって来られました。後は、後進の者たちに託して、お休みください」とアドバイスなさるかもしれません。

 ところがパウロはこう言うのです。「しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」この「しかし」はものすごい「しかし」です。使徒パウロにとって主のために苦しむことは、どんなことをしてでも避けるべきものではないのです。むしろ、ちゃんと受け止めるべきものなのです。ちなみに、新約において特に使徒の手紙のなかで、苦難、苦しみについて、繰り返し言及されています。パウロは、フィリピの信徒への手紙第1章29節でこういっています。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」彼にとって、信仰とはキリストのために苦しむことであり、あふれる恵みの通路こそ、この苦難にあると確信しているのです。それが彼の実体験なのです。

 ここに、キリスト教の不思議さがあります。不思議だなどと言うより、キリスト教の真理性、つまり福音の素晴らしさ、福音の真実があるのです。使徒パウロは、ここでさらりと「この命すら決して惜しいとは思いません。」と告白します。彼は、決して、自分の命を粗末にしているわけではありません。投げやりな生き方をしているのでもありません。むしろ、誰よりも自分に与えられた人生を大切にしています。

自分の人生をここでは、道になぞらえています。たどり着くべき行路になぞらえています。目的地まで走り切る
ことの尊さに目覚め、それを実践しているのです。そして、そのための命なのだとわきまえているのです。つまり、こういうことです。パウロは、自分の命、肉体の生命、地上での歩みよりもさらに尊いもの、むしろ、肉体の生命を本当に輝かせる中身そのものを知っているのです。その中身に満たされているのです。彼にとって、肉体の生命とは言わば器です。容器です。この器の中に盛られている中身にこそ人生の宝があり、人生の意味があるのだと言うのです。そして、まさに粗末な、こわれやすい器の中に、この天からの宝、神ご自身のいのちを盛られた人がキリスト者なのです。

 さて、今朝のみ言葉は、まさに21世紀において、注意深く語られまた聴かれなければならないだろうと思います。沖縄の言葉に「命どぅ宝」があります。命こそ大切、命にまさって尊いものはないという意味だと思います。先の戦争において同胞の中で最大の犠牲を強いたのは言うまでもなく沖縄の人々でした。全県民の4分の一が戦闘の犠牲になりました。敵からも本来味方のはずの日本兵からも攻撃を受けたわけです。そのような背景から、まさに「命どぅ宝」という言葉が、沖縄の平和運動を支え、象徴する言葉になったのだろうと思います。わたしもまったく同意します。人間のいのち、生命より大切なものはありません。しかし、その上でなお考えたいのです。生命より大切なものはないという考えが一歩間違えると、結局、どうなってしまうのかということです。それは、「人間、死んだら終わりだ」という考えです。だから、とにかく生命を繋ぐこと、つまり食べること飲むこと衣食住を優先すべきだという価値観です。そしてそれが行き着くのは、結局、お金が大事という、本末転倒を犯す危険性があるということです。

 主イエスさまは、仰いました。「人はパンだけで生きるのではない。」これは、お金持ちが言った言葉ではありません。イエスさまや弟子たちは、毎日、いわゆる仕事をしないで、専心、神の国の福音を宣べ伝え、証しして過ごしています。人は、食べたり飲んだりできなければ死んでしまいます。ひらたく言えば、お金がなければ死んでしまいます。イエスさまも弟子たちも、伝道の旅の経験のなかで、どれほど水や食料が大切であるか、お金のありがたさは身に染みていたはずです。その上で、しかし、断固譲らないのです。「人はパンのみで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」神から与えられるいのちの言葉を聴くこと、それを言わば食べるほどに身に受けること、それによって人間は本当のいのちへと生き返って行くのだということです。本当のいのちとは、神との交わりに生きることです。神のいのちを分かち与えられて生きることです。希望をもって、明るく、元気に生きることです。永遠のいのちです。永遠の命とは、神のいのち、肉体の死によっても奪い取られないいのちです。その命をもっておられるのはただ神さまだけです。そして、神はそのいのちをご自身の口から発せられるみ言葉によって、私どもにこれでもか、これでもか、どんどんおかわりしても、まだまだなくならないそのように溢れさせてくださるのです。

 パウロも今、この神のいのちをあふれるほど受けているのです。そのためなら、自分の今ある器としての生命を奪われたとしても、本望だというのです。そして、ここが大切な真理です。神から受けるいのちの祝福と自分の人生の意義、意味、使命とは分けることができないということです。パウロはこのように告白します。「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば」です。

 ここには、二つの文章があります。最初は「自分の決められた道を走りとおし」です。次が「自分の決められた道を走りとおし」です。先ず、「自分の決められた道」を学びましょう。日本語の全ての翻訳は、いわば意訳しています。走り終え、走り抜き、そして走り通すです。よい訳だと思います。しかし、直訳は「自分の生涯を全うする」となります。人の一生を道、旅路と表現したのです。言葉の問題はそれに留めて、いずれにしろ、「決められた道」という大胆な翻訳にそって黙想してもよいと思います。わたしも、キリスト者ひとりひとりには、それぞれに、神がご自身のご計画、お心をお持ちだと理解しています。翻訳では、「道」あるいは「行程」となっています。そこには、目的もしくはゴールがあるのだというニュアンスが込められているだろうと思います。だからこそ、走り「通す」ということ、走り「終える」ということが大切になるのです。つまり、信仰の生涯とは、終わりまで歩み抜くべきものだということです。「主よ、終わりまでつかえまつらん。」という讃美歌がありますが、極端に言えば、終わりまで歩まないのであれば意味がないのです。このゴールこそ、約束を受けるということです。平たく言えば、神の国の住民として受け入れられることです。

 さて、次に進みます。パウロの文章は、これを受けて「また」と続きます。「また、主イエスからいただいた」と繋げるのです。日本語の文章としては、これは二つの別の事柄と理解されるはずです。しかし、違います。「すなわち」と訳す方がふさわしいと思います。つまり、自分に与えられた信仰の旅路とは、それは、直ちに、神の恵みの福音を力強く証しする任務を果たすということ以外のなにものでもないと言いたいのです。

この任務と言う言葉をある英語の聖書は、ミッションと訳しました。ミニストリーと訳す聖書もあります。もとのギリシャ語は、私どもが慣れ親しんでいるディアコニア、奉仕です。すべてを纏めると要するに、自分の人生、キリスト者の生涯とは、自分に与えられた神からの務め、神への奉仕、神の使命を生きることに他ならないということです。使徒パウロが、フィリピの信徒への手紙第1:21で、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」と言ったことに通じます。「生きることはキリストだ」と、キリスト者以外には、まったく意味不明の言葉ですが、まさに、真理の要約です。生きることとは、主イエス・キリストからお受けした務めを生きることなのだということです。そして、それは何かが問題です。パウロは言います。「神の恵みの福音を力強く証しする」ことです。これこそ、キリスト者ひとりひとり、キリストの教会に与えられた究極の最大のミッションなのです。
 
最後に「この命すら決して惜しいとは思いません。」を掘り下げましょう。星野富広さんという有名なキリスト者がおられます。体操教師になったばかりのとき、授業中に跳び箱に失敗して、下半身を完全にマヒしてしまいました。自暴自棄に陥ったとき伝道され、福音を聴きます。そして遂に信仰に導かれます。そこから、口に筆を加えて絵と詩を書く、信仰の芸術家になった方です。

星野さん紡いだ言葉、詩の中に、「いのちより大切なもの」という信仰告白があります。忘れがたい詩です。朗読します。

「いのちより大切なもの」
     いのちが一番大切だと
     思っていたころ
     生きるのが
     苦しかった
       いのちより
       大切なものがある
と知った日
       生きているのが
       嬉しかった

主イエスは、決して私どもにお前の生命より私とわたしに仕える方が大切なのだからわたしのために死になさいとは仰いません。むしろ、その正反対でした。「あなたを本当に生かすため、神のいのちに生かすために、私が死ぬ。十字架の上で死ぬ。しかし、三日目にあなたを生かすため甦る。甦りの命をあなたに溢れるように注ぐ。この命を受けなさい。」これが福音です。主イエス・キリストがなしてくださった救いの御業です。そして、誰でもただ主を信じるだけで、この命が、私どもの器、肉体の生命を満たし、本当に元気にするのです。そのときこそ、つまり自分の肉体の生命より大切なもの、イエスさまを知った時、生きていることが嬉しくなってしまうのです。彼はかつて「あのときいっそ死んでいた方がましだったのに」と自暴自棄になっていました。しかし、福音を知って、キリストを信じてから自分の現実を受け入れ、それを喜び、感謝して今日にいたっていらっしゃいます。

パウロが証しした「この命すら決して惜しいとは思いません。」との告白は、決して肉体の生命を粗末にしてもよいというメッセージではありません。むしろ、イエスさまを知って、神のいのちに生かされることにこそ、本当の命があり、地上の肉体の生命を輝かすことに繋がるということです。

私どもは、今年も、この福音の真理を伝える旅を続けたいと思います。時が良くても悪くても、主イエスさまの十字架の死の意味を宣べ伝えることが教会のそして私どもひとりひとりの務め、ミッション、使命、ディアコニアです。しかもそのとき、苦難を回避できません。もし、教会が、どのように苦しい目に遭わないように伝道できるかと考えるならそのとき教会はいのちを失ってしまいます。何故なら、パウロが言うように、苦難なくして神を知ることはできないからです。私どもは、パウロにならって、苦難を受け入れる道を進みましょう。しかも主は、耐えられないほどの苦しみなど与えないと約束しておられます。そして何より、私どもの器の中に盛られたキリストのいのちの宝は、苦難の中で使命に生きるとき、まさに輝きを放つからです。この一年も、日々、教会として一会員として、「主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証し」するディアコニア、使命に生きて参りましょう。共に祈りを合わせて、励ましあいながら名古屋岩の上教会の歩むべき行程を、そしてひとり一人に神が決めておられる道をまっとうさせて頂けるように、祈りましょう。

祈祷
 聖霊なる神よ、私どもは常に自分の思い、判断を優先してしまう愚かな罪を重ねます。聖霊に促され、応答させて下さい。私どもから、福音伝道の務めを亡くしてしまえば、私どもはあなたの命そのものを失ってしまいます。肉体の生命にはるかにまさって、この命の祝福をいよいよ求める者とならせて下さい。

1月8日


★   「墓地管理規定案」説明の連載第三回目です。最終回としたいと思います。重要なことは十分に扱えたのではないかと思います。なお、ご質問を喜んでお待ちしています。
【(使用手続きと義務) 第6条 教会墓地使用を希望する者は小会に申請し、許可を得るものとする。
(費用負担)   第8条  1、碑銘刻印費は、納骨者の実費負担とする。(規定施行時、4万円)
2、碑銘板には、納骨者の氏名、死亡年月日、享年を刻むこととする。
3、碑銘刻印における順序、遺骨埋葬の仕方他、小会が適当と認めた場合、
遺族の意向を尊重する。                                】

★★  説明が必要なのは、第8条3項のみではないでしょうか。碑銘刻印の順序とは、基本的に逝去された順となるはずです。しかし、夫婦ともキリスト者の場合、並んで刻印したいとの要望があることを知りました。委員会はこれを尊重することとし、第三項を追記しました。加えて、「遺骨の埋葬の仕方」についても、ご遺族の要望を尊重する旨、追記しています。これも、基本的には先ず骨壺ごと埋葬します。数年後、土に戻します。しかし、ここでも遺族の要望があれば、それを尊重することとしました。しかし、いずれにしろ、これを決定するのは「小会」です。時の小会が、遺族の事情に鑑み、ふさわしく判断するでしょう。

★★★ 阿野墓園へと導かれて、大変感謝している一つのことは、土地取得の代金と管理費の安さでした。年末、渡辺長老と共に購入手続きをしました。二区画で42万円。管理費も10年一括支払いでも余裕。
墓石費用は、まさに産地(国)によってピンキリです。私どもの議論は、実は、暮石の質・色目を優先し、この石はいくら?という議論はほとんど後回し。議論を重ねた結果、なんと、170万円余。ほぼ最安のものとなりました。「本当はこの石の方が良いけれど、足らないから諦めよう。」とは、ならなかったのです。合わせて、212万余となるのでしょうか。当初、250万円の募金目標でした。感謝。
    使用者負担は、実費のみ。つまり、碑銘を刻印する費用だけです。これは、現時点で4万円とのこと。

★★★★なお、取得委員会は、取得後解散します。しかし、管理のための組織は必要です。ふさわしいのは執事会であろうと思います。新たに管理委員会を組織することもあり得ます。現時点で、未定です。


☆   毎年のことですが、奉仕分担アンケート表が配布されています。キリスト者とは教会員のことです。教会員とは、「教会に奉仕する権利(特権)」が与えられた者のことです。
キリスト者とは、洗礼と聖餐によってキリストご自身との交わり、同時にキリストの体である教会の交わりに生き、生かされる者の事です。その意味で、聖餐の礼典を共に祝うことこそ、第一義の究極の生命的な「奉仕」と言っても過言ではありません。私どもは第一主日に聖餐を祝っていますが、要するに、礼拝式への出席こそ、会員の最高、究極の奉仕であるということです。すべての奉仕は、この主日礼拝式との関わりがあり、主日礼拝式への奉仕と「なる」ものなのです。その意味で、「教会の生命は礼拝にあり」との20周年宣言の言葉は正しいです。ですから、今年も、何はともあれ、主日を重んじましょう。一年、52回のこの礼拝式を充実させるための奉仕を、お互い、全力で励んで参りましょう。よろしくお願いいたします。

☆☆  平日の集いは、わずかに水曜日の朝夕の祈祷会。祈祷会出席こそ、主日礼拝式の充実に直結します。昨年の年末の証しの分かち合いで、ひとりの執事が、「一年をふりかえって、仕事で疲れたりで出席のために大変なこともあったけれど、出席することによって元気が与えられた。もっと、祈祷会の恵みを皆さんに分かち合って行きたい。」と語られました。とても嬉しく、出席者を代表する声と思いました。

☆☆☆  要するに、集会出席にまさる奉仕は、ない、ということです。キリストの恵みを豊かに受けるときです。そして、相互の交わりが実現するときです。「受ける」奉仕、すべてはここから始まるはずです。
☆☆☆☆  降誕祭の愛餐会で初穂姉が「自分しかできない奉仕を見つけて行きたい」と。彼女の奉仕は、アンケート表に収まらないと思います。「表」は、教会奉仕の全てではありません。先週の元旦での礼拝後、特に、私からも、執事候補者、志願者が起こされるようにと呼びかけさせていただきました。来年の総会における就職をめざし、一年ほど学びをしていただければとの思いからです。政治的ディアコニア、伝道委員、被災地、子どもの教会、中高大若者への取り組み、お掃除、などなど・・・。足らないのではないでしょうか。先ずは、自発的に。同時に執事、長老から声がけを受けた方は、主からの問いとして大切に!
目次
名古屋岩の上教会
〒458-0021
名古屋市緑区滝ノ水2-2012
TEL&FAX:052-895-6701 
メール:iwanoue■me.ccnw.ne.jp
※■を@に変えてください。
牧師紹介
□牧師 相馬伸郎□
下記の定例集会にどなたもお気軽にお越しください!心から歓迎いたします。
求めるあなたに、かならず、救いが与えられます。


□主日礼拝式□
毎週日曜日
10:30〜12:00

□子どもの教会□
毎週日曜日 
嬰児から高校生まで
9:00〜10:00

□祈祷会□
毎週水曜日 
朝 10:00〜11:30
夜 19:30〜21:00

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