名古屋岩の上教会

わたしはこの岩の上に私の教会を建てます。 -マタイによる福音書第16章18節-

「あなたの宝を私たちの聖霊で守れ」

「あなたの宝を私たちの聖霊で守れ」
2018年10月14日 

聖書朗読  テモテへの手紙供‖茖云錬隠院檻隠汗瓠  
【 この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。】

先週は、ヨハネによる福音書のカナの婚礼の物語から学びました。今朝は、いつものように二テモテ講解説教に戻ります。前回の説教題はとても短いものでした。「この恵み」です。だからと言うわけではありませんが、その内容も救いの教えについてのまさに初歩を学びました。しかし信仰者にとって、いつでもこの初歩の初歩がもっとも大切なのだと申しました。

さてしかし、今朝与えられたテキストは、言わば、上級者コースと言ってもよいかもしれません。ここには、中学生の若い仲間達もいます。10月の月報の巻頭言を読みました。既にとても頼もしい存在です。しかし、今朝は、ややり相当ムツカシイと思うのです。ここには、信仰のいわば奥義が記されています。どうぞ、ものすごく難しいことをお話しするのかなと、逃げ腰にならないでください。本当は、信仰の真理にとって、老いも若きも、初級も上級も実はありません。むしろ、今朝、学ぶ真理をいちはやく身に着けられれば、これからの信仰生活、教会生活にとってどれほど大きな力、祝福になるかと思うのです。
    
さて、講解説教というのは、一つひとつの言葉とその言葉の流れ、これを文脈と言いますが、これらを丁寧に説き明かして行くスタイルのことです。奥義については今朝の後半部分に当たります。
先ずは、与えられた順序通りに、御言葉から学びましょう。パウロは、先ず、自分自身の務めについてこう語りました。「この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。」パウロはここで、自分の務めについて三つのことを挙げます。一人のパウロにおいて、三つの働きがあるというわけです。これは現代の牧師についてもまったく同じです。一人の牧師の働きのなかに、パウロにならって言えば三つの働きがあるわけです。

先ず、伝道者です。牧師さんは、福音を公に伝道することが本務です。たしかに基本的にいつも教会の中にいます。しかしその教会は常に世界に開かれた、公のものです。逃げも隠れもできませんし、してはなりません。伝道する者として神に任命されたのです。

次に、説教者です。おそらく、これこそが現代のすべての牧師たちの働きの中心です。教会員に語ります。しかし、その教会員はこれを家庭に職場に地域社会に、世界に告げ広めます。神は、牧師を説教者として任命されます。

三番目に、教師です。聖書の教師です。信仰を教える人です。これらの務めはすべて神と教会によって任命されたものです。ですから自分の都合でしたりしなかったりということができません。そして、すべては福音のための奉仕です。パウロもテモテもそして牧師も、キリストの福音のための奉仕者なのです。そして、これは何も牧師さんにだけ当てはまることではまったくありません。長老もそうです。執事もそうです。そして教会員もまったく同じです。大切なことは、神が任命されたということです。キリスト者は誰でも、永遠のいのちを受けるようにと招かれ、そして、この永遠のいのちを受け継がせる福音を証しするようにと洗礼を授けられたのです。ですから、神の力を受け続けることが奉仕、働きの要になります。日々、神さまのお力をいただかなければ、この任命に生きることも継続することもできません。今朝ここで、まさにこの任命を新しくされ、必要な力を注がれるのです。

さて、次にパウロは繰り返して言います。「そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。」福音を恥としない、恥じるなと繰り返して呼びかけます。前回も申しましたが、パウロでさえも福音を恥とする気持ちが、心の内に起こらないわけではないのです。

確かに、パウロは自分の任務の余りにもすばらしい光栄を知っています。しかし同時に、その責任の重大さに押しつぶされるような思いをもよく知っているのです。これはもうほとんどの牧師たちが体験していることだろうと思います。牧師になる人は召命を得て、献身して、そして神学校に入ります。入学してうろたえ始めるのです。いえむしろ、牧師になってからの方がさらにうろたえるかもしれません。それは、こんな自分が本当に神の言葉の説教者、御言葉を語る人間にふさわしいのだろうか。本当に、毎週、自分の言葉で説教できるだろうかというものです。「牧師の務めにいったい誰が耐えられようか」という叫びや呻きを知らない牧師さんは、むしろ偽物かもしれないとすら思います。

それなら何故、牧師を続けていられるのでしょうか。確かに、ひとりひとり、答えは違うかもしれません。しかしおそらく多くの牧師たちは、「神さまが牧師になるようにとお召しになられたから」そう言うだろうと思います。つまり、自分の存在、自分の務め、使命はすべて神さまにかかっている、ということです。パウロは、使徒です。牧師の中の牧師、御言葉に仕える伝道者、説教者、教師の中の教師です。そのパウロが、どうして、自分の務めを最後の最後までまっとうできると考えていたのでしょうか。ふつうの牧師ですら、こんな務めをほんとうに担えるだろうかと、叫びたくなるのであれば、使徒パウロほどの神の国の福音を世界に広げるための務め、使命を与えられたのですから、もう、無理。もう、ダメ。もう、いやだ。そのような叫びを知らないわけではないはずです。福音伝道の恐怖や恥の思いと彼も戦ったのです。しかし、今朝のこの御言葉で勝利したのです。

「というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。」ここでパウロは、こう言います。「自分が信頼している神さまを知っている」ハイデルベルク信仰問答問21に「まことの信仰とは何ですか」と言う有名な問いがあります。まことの信仰とは、聖書が教えている神についての正しい認識と心からの信頼だと言います。ここでパウロが語っていることは、まさにそのことだと思います。パウロは、神を知っている。心から信頼していると告白しています。パウロはそのまことの信仰を通して、自分に委ねられたものを、きちんと理解しているのです。それは、神のいのち、永遠のいのちのことでした。パウロは、このいのちを受け継ぐためにこそ救われたのです。そして宣教者、使徒、教師に任命されたのです。

さて、次です。このきわめて大きな神さまから委ねられたもの、言い換えればおあずかりしているものの根源となるのは信仰です。ところがその信仰は、実はとてももろいものであることを、既に私どもは知っていると思います。平たく言えば、途中でやめてしまう危険性があるということです。せっかく救われたのに、この上なく尊い永遠のいのちを授かったのに、これを捨ててしまうというありえないことが起こりえる、起こってしまうだろうと思います。

ここは、とても丁寧に語る必要があります。そもそも、私ども改革派のキリスト者たちは、どの教派よりも、救いは恵みのみによるという教理を徹底的に信じています。言い換えれば、私どもは、神の選びを確信しているのです。つまり神の恵みの選びは、いかなる力にも負けない力ですから、ほんとうに選ばれた人が、信仰から離れ、永遠のいのちを決定的に捨ててしまって永遠の滅びに落ちることはありえない、100%ないのだと信じる者です。しかし現実には、私どもの教会でも、どこの教会でも洗礼を受けたのに、今は教会から離れてしまったという方が少なくありません。今朝は、これ以上、掘り下げません。

さて、パウロはここで信仰の真理を鮮やかに示します。これこそ、真理です。上級者コースと言いましたが、同時にこれこそ基本中の基本なのです。「わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。」繰り返しになりますが、信仰とは、ちゃんと、自分自身で心から納得して、これは真理、真実だと理解した上で信じなければなりません。しかしその上で、こう言うのです。このわたしの信仰、いわば自分の信仰を死に至るまで守り切ることができるのは、自分自身ではなく、神さまなのだというのです。自分自身ではないと言うのです。これが聖書の信仰です。これが真理です。だから、こんな私でさえも、信じることも、信仰を保つこともできたのです。そして、世の終わりまで、死に至るまで、信じ続けることもできると確信するのです。自分自身にその能力はありません。信仰を始め、信仰を保ち、信仰を完成してくださるのは神なのです。父なる神です。

次に進みましょう。「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。」健全なことばをお手本とするということです。この御言葉こそまさに、私どもが暗記し、お手本とすべき言葉ではないでしょうか。パウロは言います。「愛するテモテよ、信仰は福音を聞くことから始まるものです。あなたは他でもない、この私から福音を聴いたのです。その福音とは、健全な言葉つまり聖書の正しい解釈、理解にもとづくものでした。どうぞ、わたしから聴いた教理をいつもお手本にしなさい。いつも、このお手本から離れないでください。」まさに、ハイデルベルク信仰問答も、ウェストミンスター教理問答も、そして子どもと親のカテキズムもすべては信仰のお手本、教理のお手本とするために編まれたものです。ですから、手許において繰り返して確認するのです。信仰の成長、信仰の維持には絶対、このお手本が必要なのです。もとより、その聖書が根本です。ただし、「木を見て森を見ず」ということばがあるように、聖書しか読まない人は、その罠に陥りやすいのです。そしてこのお手本は、共に集まって、礼拝式で、読書会で、祈祷会で、互いに励まし合いながら、学んで行くところに、その力が豊かに発揮されます。

さて、いよいよ上級者コースです。「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」この短い御言葉の中に、神と私どもとの関係が見事に示されています。しかしながら、この箇所を、もしキリスト者でない人が読むならどうでしょう。おそらく、「ぎこちない文章だ。書き間違いではないか」そう思われてしまうと思います。

今、ためしに未信者の方に分かりやすく、ことばの流れをスムースにして、語ってみましょう。「あなたに委ねられているよいもの、つまり信仰を、あなたの努力によって守り切りなさい。」おそらくこれが、我々の世界で通じる言葉の流れ、論理だろうと思います。あなたは、あなたに委ねられたその宝物をがんばって、しっかり守りなさいという激励の文章です。

ところがパウロは、こう言うのです。「聖霊によって守りなさい」聖霊の神さまによって守れ、です。キリスト者である私どもですら、違和感があるかもしれません。常識的に言えば、「聖霊の神さまによって、守って いただきなさい」となるはずです。聖霊なる神ご自身を主語にして、信仰や救いを守れ、守りなさいとは、おかしいと思います。神さまに対してあまりに失礼。非礼な言い方だと思います。神さまに信仰を守ってもらいなさい、でしょう。しかし、テモテに「守れ」と呼びかけるのです。

さて、さらに進みましょう。さらに、不思議な表現が続きます。「わたしたちの内に住まわれる聖霊」です。ここも、ふつうの感覚で言えば、こうならなければ、おかしいと思うのです。「あなたの内に住まわれる聖霊」です。つまり、テモテの内に住んで下さっている聖霊です。テモテの魂には、聖霊が宿っておられます。救われるということ、救われているということは、他のだれでもなくその人自身の魂の内に聖霊が宿られた瞬間のことです。わたしではなく他の誰かの内に聖霊が宿っても、このわたし自身の救いには、何の関係もありません。その意味では、信仰とは徹底的に個人的なものです。神さまとわたしとが一対一になるところで与えられるものです。わたしの代わりに、だれか、信じておいてください。その人の信仰で、わたしは救われるはずです。こういうことは、成り立たないはずです。

ところがパウロはちゃんと言います。聖書ははっきり言います。これが真理だと。「私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい」なのです。パウロの内に宿る聖霊です。さらに言えば、エフェソ教会の会員たちに宿る聖霊です。さらに、こう言っても許されるでしょう。ここに登場しない他の数えきれないほどのキリスト者たちに宿る聖霊です。この聖霊によってテモテの信仰、救いは守られるのです。

ここに福音の神秘があります。それは、教会の神秘だと言っても良いと思います。教会とは何でしょうか。教会が分かれば、上級者コースなのです。それは、キリスト教の宗教施設、団体ではありません。宗教団体には必ず、集う場所、活動する場所があるはずです。そこで研修したり、会議をしたりするのです。確かに、キリスト教会も、それに似ています。しかし、それで教会を言い尽くすことなどまったくできません。教会はいかなる宗教団体ともその性質、本質がまったく違っています。そもそも、教会とは、私どものニカヤ信条によれば、信じられるべきものです。確かに、教会を信じても救われません。信じるべきお方、対象は、父と子と聖霊の神、三位一体の神のみです。その他、信じる対象はありません。しかし、私どもは今朝もニカヤ信条において教会を信じると告白しました。それならいったい教会のなにを信じるのでしょうか。それをただこの一点にあります。教会とは、神の教会だということです。キリストの教会だということです。キリストが教会の頭でいらっしゃって、キリスト者の私どもひとり一人はこの頭と結び合わされて、キリストの体であるということです。そのような人間の集団が他にあるでしょうか。ありません。教会は人間の集いですが、単なる人間の集いではありません。教会は神のもの、神の教会です。同時に、その神はここにいる私どもを、聖なる招きによって、永遠の昔から、教会員になるように恵みの内にご計画されたのです。このご計画がついに、イエス・キリストによって、その受肉、十字架、ご復活、ご昇天によって実現したのです。イエス・キリストによって出現したのです。こうして、私どもは神の教会を構成する、なくてならない器、メンバー、存在なのです。

教会はまた、聖霊の神殿であると言われます。教会は聖霊が注がれ、キリスト者お互いを一つに結びあわせられるお方です。私どもは、聖霊によって一致させて頂いています。この一致は、ただ聖霊の賜物です。そこで、パウロは言うのです。あなたの信仰は、教会に注がれる聖霊、私たち皆に共通して注がれている聖霊によってこそ、よく保たれるのだと。守られるのだ と。

そうなれば、ここで何が分かるのでしょうか。どのような真理が鮮明になるのでしょうか。教会から離れてはならない、つまり、そういうことです。先程、聖霊によって守れとの御言葉に触れました。聖霊によって守っていただきなさいではなく、聖霊で守れと言うのです。これは、聖霊と私たち、聖霊とテモテとがまさに一つとなっているということが前提です。もはや、一つになってしまって、信仰の働きをするのです。自分の努力はもちろんあるのです。最善を尽くしてするのです。しかし、それはすべて聖霊の力のおかげでしかないのです。このような聖霊と私たちとが、まるで一つの心になってしまうまでに、聖霊なる神は、私どもに親しくのぞみ、働き、助け、守り、育んでくださるのです。実に、教会員とは、教会の交わりから決して離れてはならないのです。キリスト者の交わりから、お互いの交わりから離れてはならないのは、この聖霊の交わりに生きる手段、方法になるからです。

三つよりの糸は切れないと言う御言葉があります。三本の矢はおれないということばがあります。小さなともし火でも集めれば大きな火となるとか、確かにその通りです。しかし、パウロがここで明らかにした真理は、別次元のような深い真理なのです。それを明らかにするのが、聖餐の礼典です。そこでは、第一に父と子と聖霊との交わりが起こります。キリストと結合し、聖霊を注がれます。しかし、それだけではありません。キリスト者がキリストの体としてこの名古屋岩の上教会において一致する、一つにされるのです。これが、聖霊の賜物です。聖霊の交わりです。聖徒の交わりなのです。

実に、わたしどもひとりひとりのこの自分の信仰は、あなたの信仰、みなさんの信仰によって守られて行くのです。あなたの信仰は、私の信仰を育む力そのものなのです。これが教会生活の醍醐味です。だから、キリスト者は決して孤立できないし、孤立してはなりません。

どうぞ、皆で生きて参りましょう。共に集まりましょう。そして、自分なんかと、言ってはなりません。あなたの信仰、あなたの内に宿る聖霊が、名古屋岩の上教会を守るのです。あなたの内に宿っておられる聖霊が、私を守るのです。これが、上級者コースの真理です。ですから、教会を大切にするのです。教会を建てあげることが、私自身の信仰を建てあげることになるのです。また、こういうことも許されます。私が倒れそうになっても、いえ、倒れてしまっても、あなたが倒れなければ、本当の意味で、私どもは倒れないということです。

「私たちのうちに宿る聖霊」この自分ではどうすることもできない、つまり、まったくの外の力によってこそ守るのです。しかしそのとき、やはり、自分が守るとしか言いようもないものでもあるのです。神さまと私とが、神さまを中心にしてもはや一つにさせられているからです。こうして、私どもの信仰は、神によって、私たちのうちに宿る聖霊によって守られるのです。確実に守られるのです。どうぞ今週も、祈祷会に集まりましょう。来週もまたここに集まりましょう。こうして、お互いの信仰によって、神の聖霊によって、私どもひとり一人の信仰は守られるのであります。

祈祷
永遠の昔に、主イエス・キリストの内に私どもを神の子にしようとご計画をし、実現してくださいました父なる神。心から感謝致します。この世の価値観の誘惑の中で、時に、福音を恥じる愚かさを繰り返します。憐れんで下さい。ゆるして下さい。この世に視線を注いでしまうからです。あなたの恵みによって、私どもの眼差しを恵みに釘づけさせて下さい。今朝、ここで十字架の主、天にまします栄光のキリスト・イエスに集中させて下さい。驚くべき恵みに感謝し、この感謝と喜びの中で、今を生きる力を与えて下さい。アーメン。



10月14日


☆  定期大会は、予定より3時間早く、粛々と恵みの内に閉会しました。横浜市中区関内にある新井ホールで3年間開催され、来年からの3年は、大阪市のYMCAで開催されます。今回、母が住む、関内から二駅の山手にある、兄の家から通いました。予定より遅くなることも想定し、夜の祈祷会は最初から〇長老導いていただくこととしていました。いつもと坐る場所が違う祈祷会、長老の奨励を聞きながらの祈祷会、まったく違った感覚となります。感謝なひとときでした。そこでも、カナの婚礼が深められました。説教でも言及しましたが、いったい、いくつの説教が出来ることでしょう。

★   礼拝式後の結婚の学び会において、〇〇兄にこのようなことを申しました。
 【 キリスト者(イエスさまの弟子)とは、あの召使いの姿において示されます。彼らは、ユダヤ人のきよめの儀式(掟)に用いられる水瓶の注がれたあふれるほどの水を、宴席に持ち運びます。それは、あまりにも冒険的、危険なことです。お祝いの席に、ミネラルウォーターをふるまうのとは、まったく違います。宗教儀式の水がもしも、ぶどう酒に変化していなければ、ひんしゅくを買うどころではないのですね。しかし、彼らは、母マリアの言葉を大切にしました。この人の言うことはなんでもその通りにしてくださいね・・・。召使いは、マリアの勧めと、イエスさまの命令に「懸(か)けた」のです。 信仰とはこのような冒険です。イエスさまの御言葉に、危険をおかしてでも聞き従う事です。たとい、今、それがよく分からなかったとしても、主が仰せになられることであれば、従うのです。例えば、この岩の上教会は開拓伝道で出発しました。大変な冒険、危険なことです。しかし、もし、従わなければ、北原君とも出会ってなかったでしょう・・・。 これからも、キリスト者として、信仰に生きて行こう。周囲に、理解されないこともありますが・・・。】
家族の理解と協力なしに、教会に仕える生涯は、容易ではありません。それだけに、祈りをいよいよ熱くし、集めたいと思います。

☆   「ぶどう酒がなくなりました」という母マリアの報告は、私どもの祈りだと学びました。そして、ぶどう酒は、愛の比喩であると。愛の枯渇こそは、夫婦の間、家族の間、地域社会、世界の根源的問題です。終わりの時代は「愛が冷める」と主イエスは予言されました。20世紀以降、まさに人々(人類)の間に愛が冷めた現実を突き付けられました。それは、さらに深まっているように思います。祈祷会はそこで、機能します。「愛を下さい!」この嘆きを、祈りに変えるのです。祈祷会で、この祭司の務めを担いましょう。

★  カナの婚礼のおそらくもっとも大きなメッセージは、説教でスポットライトを当てませんでした。単純なことです。最初の奇跡だということです。「新しい時代がここに始まった!!」これこそ、あの物語の中心です。律法主義(ユダヤ人のきよめの儀式に象徴されます。律法は聖なるものですが、律法主義は人間的なものでしかありません!)は、ぶどう酒(人の心を満たすもの=神の律法=キリストの律法=神の愛)に置き換えられてしまったのだということです。それは、主イエス・キリストによってもたらされたというメッセージです。キリスト教とは、人を徹底的に人間らしくする、あえて用いますが 本物の「宗教」なのです。

☆  神戸改革派神学校主催の信徒神学講座は、神学校のステファン博士とわたしとで、ディアコニアについて4回の学びでした。私の務めは、大会前後の土曜日!2時間ずつ2回のお話。正直に申しますと、大変、疲れました。 第一回には、パワーポイントを用いて自転車の例え!教師たちから批判があるかなと思っていましたが、むしろ、「アリ」という応答。これからは自信をもって(!?)どんどん用いようと思います。70周年以降の日本キリスト改革派教会の展望を開く教会像こそ、ディアコニアの教会、ディアコニアによる教会形成であると、考えて参りました。しかし、まだまだ道半ばです。始まったばかりです。だからこそ、今が大切と考えます。

★  今大会で、執事活動委員会から大震災支援活動への「反省と課題」というレポートが提出されました。教会の実践は、すべて神学(御言葉)に基づくべきです。「神学なき実践は盲目」という有名な言葉は、キリスト者(奉仕者)が常に肝に銘じるべきです。ディアコニアの神学の整頓こそ、ふさわしい実りを結ぶ道です。名古屋岩の上教会がそれを具現する責務を負っていると思います。明日(13日)は、被災地及び政治的ディアコニアを講じます。少しでも、主と教会のお役に立てますように!

「キリストからの招待状」

「キリストからの招待状」
                        2018年10月6日
テキスト ヨハネによる福音書 第2章1節〜12節
 【三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。】

  今朝も皆さまと共に礼拝式を捧げることが許され心から感謝致します。また第一主日は、聖餐の礼典をも共に祝うことが出来ますことは特別の祝福です。そもそも主の日の礼拝式は、私どもにとってお祝いの日です。霊的な祝宴です。主イエス・キリストが私どもの罪を贖い、私どもを神の子として下さったのは、この礼拝式に招くためでした。天地創造の神が、私どもに向かって愛する子よ、とそれぞれの場所から呼び出して下さいました。それゆえに私どももまた、ここで天のお父さま、天の父なる神よと応えて礼拝を捧げています。神と私どもとがここで、イエスさまを中心にして、なんのわだかまりもなく、いのちの交わりをなすことが許されています。驚くべき恵みです。これ以上の幸いは地上にありません。

 さて、今朝は、いつものテモテへの手紙兇旅峅鮴盒気呂休みしました。久しぶりに福音書、ヨハネによる福音書から学びます。今朝の物語は、ヨハネによる福音書にだけ記された物語です。私が特に心ひかれる物語の一つです。主イエスが公の生涯を始められて、最初に起こされた奇跡の物語です。しかもそれが手洗い用の水をぶどう酒に変えてしまわれたという、まことに愉快な、本当にイエスさまらしい奇跡の物語です。

さて、それはヨハネやペトロたちを弟子にしてから三日目に起こりました。ガリラヤ地方のカナという村で結婚披露宴が開かれていました。母マリアも招かれていました。もしかすると新郎新婦のどちらかがイエスさまの親戚だったかもしれません。カナの村の日々の暮らしはとても質素で平板なものだったと思われます。それだけに、この日ばかりは、大勢の村人たちが招かれたようです。イエスさまだけではなく弟子たちも招かれるほどでした。

新郎と新婦にとっても、一生一度の晴れ舞台です。それぞれの両親にとっても、親戚の者たちにとっても喜びはひとしおだったろうと思います。そして、喜びに溢れた楽しい宴が始まっていました。

 ところが、そのような祝いの真最中、母マリアが顔を青くしてイエスさまのところにやって来ます。「ぶどう酒がなくなりました。」もしかすると、母マリアはぶどう酒を用意する役目また接待係を仰せつかっていたのかもしれません。ぶどう酒のない、宴席はありえません。発注ミスによるものでしょうか。お客様を招きすぎてしまったのでしょうか。ものすごく飲んでしまう人たちがいたのでしょうか。まさに想定外のアクシデントだと思います。

 「人生一寸先は闇」ということばがあります。よりによって、こんな幸せの絶頂で起こってしまいました。もしここで新郎が、ぶどう酒の準備は君の親戚の担当でしょうと言ったらどうでしょうか。新婦が「いえ、あなたの担当のはずだったでしょう」と言い合いにでもなったらどうでしょうか。あるいは新郎が、「ご列席のみなさま、ごめんなさい。実は、ぶどう酒がなくなってしまいました。今日は、お開きにします」こう言ったらどうでしょうか。もしかすると口の悪い列席者が、「なんだこの二人は、そんな準備もちゃんとできていないなんて」「ふたりの前途は多難かもしれないな」と言うかもしれません。

 「転ばぬ先の杖」という言葉があります。将来の不測の出来事のために生命保険やらなになに保険に入ったりすることも大切かもしれません。ところが、大手保険会社すら倒産してしまうことも起こります。この国に生きリスクを真剣に考え、情報を集めればどれほど大きな杖でも、役に立たないかもしれません。
 
さて、ヨハネによる福音書において婚礼の最中に、ぶどう酒がなくなるという事実には、単に表面的な出来事だけではなく、その背後に実は、深い意味が暗示されています。旧約聖書の中に、このような言葉があります。「人の心を酔わせるぶどう酒」心を酔わせるとは、幸せな状態のイメージです。しかし、単純ではありません。どれほど高級なぶどう酒を飲んでも、心を酔わせられる保証はないと思います。つまり、このぶどう酒とは、比喩、たとえです。愛の比喩なのです。

幼い子どもからはじまって歳を重ねられた方に至るまで、人が幸せになるためには、どうしても愛が必要です。誰かを愛することと誰かに愛されることです。その必要を覚えない人はいません。人間が生きてゆく上でなくてならないものはが葡萄酒つまり愛、愛情です。ところがその愛こそ、突然に枯渇してしまうことが起こるのです。これは、我々の現実ではないでしょうか。もし、愛が失われてしまえば、形式上は、結婚生活は維持できるかもしれませんが、真実の結婚生活は崩れてしまいます。

 さて、母マリアは、「ぶどう酒がなくなりました」と報告しました。ある説教者は、この言葉はお祈りであると申しました。わたしもそう思います。とても単純な祈りです。困った状況を、神さまに素朴に告げる、訴えるのです。そのとき、イエスさまはその祈りを絶対に軽んじられないお方だということです。

私共も今、まったく同じようにしているだろうと思います。しなくてはならないのです。それは、どのような祈りだというのでしょうか。ぶどう酒を求める祈りです。つまり人を愛することができる愛を求める祈りです。神を愛することができる、真実の愛を求める祈りです。この愛が私じしんのために、この世界のために必要なのです。ですから、ぶどう酒がなくなりましたと、ぶどう酒をくださいと祈ります。この、私どもの切なる願いを、主イエスは決して軽んじられません。
 
さて、物語に戻りましょう。イエスさまはマリアにこう答えます。「婦人よ。わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしのときはまだ来ていません。」これは、普通に読めば意味が通じないと思います。会話が成立していません。そもそも母親に「婦人よ」と呼ぶなど、失礼ではないでしょうか。「わたしとどんなかかわりがあるのです。」と来たときには、「この親不孝者」と叱られても仕方がないようにすら思います。なにより今、これはお祈りだと申しました。祈りは軽んじられないと申しました。しかし、このマリアの切実な危機に、ピシャと拒絶するような、この受け答えは、腑に落ちません。

今朝は時間の都合で、すこしだけしか触れません。「わたしの時はまだ来ていません。」この「わたしの時」とは、一言で言えば、主イエスが十字架に昇られるそのときのことです。私共の罪を贖うために十字架で死なれる時です。その時は、たとい母親であろうが誰であろうが、人間は誰も手出しすることはできません。そこに、係われるのは、神のみ、父なる神、聖霊なる神だけであります。逆に言えば、私どもを救うご計画は、私どもが祈ったから、実現されるのではないということです。神が永遠の昔から、そのときを定めておられるのです。

 さて母マリアは、この不可解なイエスのことばを理解できなかったはずです。ただし、マリアは召使たちにこう言います。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」これは、主イエスへの深い信頼の言葉だと思います。長男のイエスは普通の人ではないのだという理解が込められていただろうと思います。

そこには、石の水瓶が6つおいてありました。80リットルから120リットルも入るほどの大きな瓶です。併せて600リットルもの水です。主イエスはその水瓶に水を満たすよう命じられます。召使は、ただ命じられるそのままに水を一杯に満たしました。そして命じられたままに水を宴席に運びました。

 宴席の世話役は、運ばれてきたぶどう酒を味見します。なんと、それまでのものよりもっと良いぶどう酒でした。彼は花婿に言います。「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を取っておかれました。」世話役にしてみれば、驚きでありました。さてしかし、言われた、花婿はなんのことやら分かりません。ただ、すべてが分かっているのは召使だけであります。何故、分かったのか。彼らが、主イエス・キリストの言いつけを受け入れてそのとおりに行ったからであります。その言いつけは、危険な、あまりにも危険な言いつけでありました。それにもかかわらず、彼らは主イエスの命令にしたがったのでありました。

ここで、聖書は一言、言います。「水を酌んだ召使たちは知っていた」ここに弟子たちへ強烈なメッセージが示されています。あなたたちは、私の弟子として従い始めましたね。これから、わたしの教える言葉を注意深く聞きなさい。わたしの言う通りにしてごらんなさい。私の言葉に従って来なさい。その時、あなたはこのようなすばらしい祝福、祝宴、人間の幸いの御手伝をすることになる、あなた自身が幸いになるというメッセージです。
ここに、私共が、悟るべき教えがあります。私どもの特権が示されています。キリスト者はどのようにして、主イエス・キリストを深く知ることができるのでしょうか。その道は、この僕たちの姿にまさに示されています。主イエスに仕える道です。ディアコニアの道、教会に奉仕する道です。

先週、Cafe de FUKUSHIMAの石川長老から、夏に児童館で行ったイベントにたいする子どもたちのお礼状の束を拝見しました。フクシマの子どもたちに、マジックと腹話術とスイカをもって、訪問されたのです。小学生の子が、こう記していました。「おいしいスイカをどうもありがとうございました。おかげで元気がでました」もうひとりの子はこうです。「マジックや腹話術などで、ぼくは笑顔になれました」南相馬は、放射線量が高いです。その町で子どもたちは暮しています。わたしは、「スイカをありがとう、おいしかったです。マジックや腹話術、楽しかったです。」このような文章ではなかったことに、心打たれました。元気がでる。笑顔になれました。これは、心の中の変化です。スイカも、マジックショーや腹話術も、ただのものではなく、やはり、心においしいものに変容されてしまった、化学変化ではなく、神さまの力による変化が起こったのだと、そう受け止めました。
私どもも、自分たちなりの水汲みをしたいと思います。教会員とは、たとい中学生でも誰でも、皆でこの水汲みの奉仕となれる、このすばらしい務め、光栄、奇跡の目撃者になれるのです。

 さて、最後に、ここまで、このカナでの婚礼で水をぶどう酒に変える奇跡から、いくつもの信仰の真理を学びました。その中でも、最大の、根本的な真理は何でしょうか。それは、極めてシンプルなことです。
この二人は人生のハイライトのただ中で危機が訪れました。ただし、その婚礼にはイエスさまが招待されていました。彼らと共にイエスさまがいてくださったのです。そのとき、彼らの危機は危機でおわらなかったのです。さらに増される幸いに変えられたのです。二人や家族にとって、もしこの婚礼の祝の席に、イエスさまに招待状を出していなければと思ったら、ぞっとしたと思います。来月3日、ここで結婚式が挙げられます。そこに、イエスさまへの招待状が出されているはずです。イエスさまお越し下さい。他の誰よりも、あなたこそが私たちの新しい生活、家庭の真ん中にお越し下さい、わたしの人生の真ん中に来てくださいと、いつもイエスさまを迎え入れること、歓迎しているところに人生の祝福のカギがあるのです。

もとより、結婚式の特別のときだけではありません。私どもの生活のすべての領域、すべての場所に、イエスさまを迎え入れて生きましょう。何よりも、私とあの人、この人の間に主イエスを迎え入れましょう。それは、決して、信者どうしの夫婦の間だけのことではありません。未信者の伴侶と家庭を築いている方々も少なくありません。それでもまったく同じことです。伴侶と自分の間に主イエスを迎え入れるのです。職場の方々、学校の友達、地域社会、およそ人と人との関わりのすべてにイエスさまを迎えるのであります。

キリスト者の人生に災いがないということはありえません。しかし、その災い、ピンチの真ん中で、主イエスを迎え入れているのであれば、大丈夫です。 今まで以上に素晴らしいぶどう酒に変えられます。最悪から最善に変えられるのであります。

  さて、カナの村での婚礼において確かに脚光を浴びるのは新郎と新婦でありましょう。しかし、ここで、この奇跡の物語において本当の意味でスポットライトを浴びるのは誰でしょうか。主イエス・キリストです。私共もまた、この救い主イエスさまにこそ目を注ぎましょう。先日、披露宴の招待状を頂きました。しかし、キリスト教の結婚式は招待状がなくても列席できます。誰でも大歓迎です。都合がつく方は列席してくだされば幸いです。
 私は今朝、何度も、私どもの人生に、心の中に、日常生活に、職場に、あの人との間に主イエスを迎え入れましょう、お招きしましょう。いつでも歓迎しましょうと呼びかけました。しかし、あらためて考えてみます。あの新郎新婦は、はたしてイエスさまに招待状を渡していたのでしょうか。イエスさまを、主賓としてお迎えしていたのでしょうか。違うと思います。むしろ二人が知らない間に、そっと片隅で、遠慮がちにお祝いしておられたのだと思います。そしてこれこそ、私どもの人生に、いえ、すべての人々に決定的にイエスさまがなさっておられることなのです。

 つまり、主イエスは、まるで先回りなさるかのように、この婚礼に駆けつけておられるのです。つまり、イエスさまこそが、この二人を幸いへと、祝福へと招いておられたのです。祝福とは、他でもなくイエスさまが共におられる人生です。主イエスを中心にする家庭です。その幸いにこの二人のほうこそ招かれていたのです。けさ、私共はここにおります。この後、ただちに聖餐の礼典を祝います。そこで、ぶどう酒、ブドウジュースがふるまわれます。これは、まさにお祝いです。イエスさまの方がまさに先回りをして、この聖餐の祝宴へと、つまりご自身のいのちの祝宴、永遠のいのちの祭りへと招いて下さっているのです。この聖餐の礼典にあずかる人とは、確かに、心の中にイエスさまを救い主として招いた者どもです。しかし、もっと深い真理があります。私どもは、ああそうだ、わたしは、救いへとイエスさまによって招かれていたのだと悟った人、認めた人たちです。

今朝、私共に救いへの招待状は届いているでしょうか。確かにイエスさまから、祝福への招待状は送られています。今朝、ここにいらっしゃる誰一人として、招待を受けていない人はおりません。紛れもなく、私どもは、主イエスに先回りされて、こうして教会に導かれているのです。信じる幸いへと招かれたのです。心から感謝致します。
今、この聖餐の礼典に招かれたことを心から感謝し、信仰をもって、これに与りましょう。

 祈祷
 私どもの人生には、まさかということが度々襲います。しかし、主イエス・キリストの父なる御神、あなたは、そこに共にいて下さいます。心から感謝致します。そして、あなたと共に生きる本来の人間らしい生き方へとあなたが先回りして、主導権を握って招いて下さいます。私どもは今朝も、お招きを受けて御前に出ることが許されました。心から感謝申し上げます。どうぞ、主イエスとお呼びしながら、あなたを心の王座にお迎えしない愚かな私どもの不信仰を打ち破って下さい。主イエスよ、あなたは私どもを奉仕者として選ばれました。あなたのお役に立たせるために、あなたを知るためです。どうぞ、小さな奉仕、大きな奉仕、すべてに心を込めてなすことができますように。そこで、あなたの御業を目撃し、いよいよ主イエスの証人とならせて下さい。
アーメン

10月7日

★   先週は、台風のために午後の「カテキッズ」他の集いはすべてなくなりました。奏楽者の集いのみで、集会が何もない午後!とても不思議な気持ちがしました。ただし小会は、短い集まりをし、祈りました。神戸改革派神学校の9月の校報巻頭言で、〇先生が南アフリカでの留学中の経験をもとに、主の日の安息日性について、踏み込んだ意見を述べておられます。簡略して言えば「日曜日は、安息日なのだから、礼拝式が終れば肉体を休めて英気を養うことが大切である。日本の教会はあまりにも忙しすぎる。反省しよう。」異論はありません。ただ、現実の日本の教会状況は、平日はお仕事でとられ、教会奉仕は日曜日の午後だけ・・・。岩の上教会の主日は、8時50分の子どもの教会の祈祷会から始まります。長老達は、ここから始まり最後に帰られます。小会のある日は、6時を越えることはザラです。毎回、議長として議論を大切にしつつも・・・と、力量を恥じつつ閉会します。

☆  今年の子どもの教会のクリスマスは、会堂だけではなく、大高地区でなされている子ども食堂(サバンナカフェ)さんの場所をお借りしても行う予定です。ただし、この原稿を記す今も、正式な受諾のお電話がありません。祈ります。何としても、子どもたちに福音を届けたいのです。

★   先週の子どもの教会の説教は、旧約聖書のエステル記からの二回目。なんと「エステ」の語源が美貌のエステル王妃にあるとのこと。お話しの「つかみ」は大人たちの「ヘェ〜」という声で、十分。メッセージもまた秀逸でした。子どもの説教は、ほとんどの教師たちが15分を越えるほど長い説教です。(先週は20分ほど?三週間、寝ても覚めても「エステル」だったそうです。しかしこのような強いられた恵みのなかで、御言葉に慣れ親しみ、福音を言語化する訓練が与えられます。

今週からはダニエル書からの説教です。なんと、ひとりの教師が三週連続、説教なさいます。どれほど大変な準備でしょうか。しかし、契約の子らの信仰の養いと成長、救いと信仰告白を目指して、弱音を吐かず・・・!?喜んで奉仕を担って下さる姿に、大人たちが励まされます。

☆  今年から始めた「説教クイズ」も第33回。第一に、大人の礼拝式に出席してもらいたいとの思い。第二に、信仰告白して現住陪餐会員となった中学生たちの養いのためにと始めました。感謝なことに、誰かが参加してくれています。このクイズは、ときに「文通」となります。子どもたちなりの信仰の言葉が記され、質問もあります。牧師は、実際には常に彼らに信仰の指導ができるというわけではありません。むしろ、分級の教師の皆さんの何分の一にも及びません。だからこその説教クイズという意味もあるわけです。

また、このクイズへのチャレンジは、若い会員たちの大きな教会奉仕です。何故なら、説教者を励まし、説教への改善提案としてすら受け止めることができるからです。大人の皆さまも、関心を持って下さればと思います。挑戦して下されば、なお大感謝です。 

★  先週の台風で、東郷町では停電が起こったとのこと。教会堂も強風が吹きやすい高台にありますが、守られました。主日礼拝式は、基本的に何が起ころうが守られるべきものです。一方で、生命の危険を犯してまで、礼拝を捧げることを、主がお喜びになるはずがありません。出席は、各々の判断が大切です。

☆  先週の朝夕の祈祷会では、南アフリカオランダ改革派教会の信仰告白である「ベルハー信仰告白」を学び終えました。アパルトヘイトへの徹底的な悔い改めによって実った告白です。深く教会を問うことばを味わいました。学んだ教会らしい歩みがなされますように。繰り返し、確認したいと思います。 結びとして、このように申しました。「イエスさまは、私どもに、わたしの後に着いて来なさい。わたしの命じるままを行いなさい。そうすれば神の国はこの地上にいよいよ拡大すると仰います。ところが教会は、イエスさまに対して、教会に従いなさいと言っているのではないでしょうか。世界に不義がはびこっているのは、神の力が足らないからではないか。神は何故、不公平、差別を見過ごされているのか。いずれも、地上の現実を神のせいにしようとするかもしれない。しかし、そうではないでしょう。キリスト者たちが、イエスさまを無視し、主の御言葉に従わないからでしょう・・・。」イエスさまの悲しみや怒りのような声を聴く思いがしました。この世界は、私どもの信仰と従順に掛かっていること、教会の責任と使命、その光栄を改めて自覚したいと思います。

★  土曜日の朝、神戸に向かいます。土曜日の外部奉仕は、やはり、ハードです。週報作成が…。

この恵み!

「この恵み!」
2018年9月30日 

聖書朗読  テモテへの手紙供‖茖云蓮複検烹浩瓠檻隠粟瓠  
【 8節 だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。
神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出して下さったのは、わたしたちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、私たちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅のいのちを現わして下さいました。】

今朝も、このように皆さまと共に父と子と聖霊にていましたもう神を礼拝できますことを心から感謝致します。そして、あらためて皆さまの上に、おひとり御一人の上に、父である神とわたしたちの主イエス・キリストからの恵み、憐み、そして平和がありますように。この祝福を今ここで、信じて受け入れた皆さまの上に神の祝福は満ち満ちています。心から神に感謝致します。

さて、わたしはとても意外な気持ちがしますが、パウロは、テモテにこのように呼びかけます。「だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。」他の伝道者ならいざ知らず、あのテモテに福音を恥じるなと呼びかけることは、どこか不思議な気持ちがしたのです。テモテほどの伝道者が、いったい主イエス・キリストとその福音を証しすること、自分の信仰の父親、指導者、第一の先生であるパウロが囚人となっていることを恥じるだろうか、そう思いました。しかし、よく考えてみれば、この福音を恥じない。恥としないということは、まさにすべての人間、キリスト者のまさに信仰が崩れる急所なのだと思い返しました。

あれから2000年近く経ちます。私どもは今、キリスト教の神や聖書の信仰のことは世界の常識であると考えています。世界中にキリスト教や少なくともその文化が影響を与えています。圧倒的な影響と言っても決して言い過ぎではないはずです。今や、キリスト教のない世界など誰が想像できるでしょうか。そして少なくない人々、どれほど少なく見積もっても10億人以上が、今朝、礼拝式の恵みに与っているだろうと思います。そして、それに近い数の人々が、イエスさまが救い主、そして神でいらっしゃること、人間となられた永遠の御子でいらっしゃると信じているだろうと思います。

しかし、2000年前の当時は、どうでしょうか。ユダヤ人の小さな世界では、イエスさまのことを十字架につけられた犯罪者としてなら認知されていたでしょう。イエスさまのことを知らない人はいなかったと思います。しかし一歩外に出て見れば、異邦人の世界においては、聖書の神を知っている人、信じている人は、ごくごく少数です。まさに、ユダヤ人とその近くにいる神を敬う異邦人のみが世界の創造者にちて唯一の神を信じているという状況です。しかも、その信仰すらも、形骸化してしまっていたり、多くの信仰者は、律法主義に転落していたのです。テモテや母エウニケ、祖母ロイスのような純真な信仰を持っていた、宿していた人はほんの一握りだったはずです。

そのような圧倒的に異教世界の中で、聖書の信仰に生きようとする人、その生き方について、まさに軽蔑の対象となっていたことでしょう。私どもは今、ディアコニアというギリシャ語を、美しい言葉であると考え、大切に用いています。ディアコニアとは、奉仕するということです。神と人に仕える働きのことです。しかし、当時、このディアコニアと言う言葉は奴隷の働き、召使の働きを意味していました。人として生まれて来たからには、ディアコニアする側ではなく、される側になりたい。それが、ギリシャ人、文明人、経済的な豊かさ、社会的な地位に絶対の価値観を置く人の常識でした。ディアコニアをする人にはなりたくない、そう誰もが思っていたはずです。
ですから、当時の人々にとって、信仰のために囚人になったり、信仰のために苦しめられるなど、まったくありえないことだったのです。まさに馬鹿げたことだったのです。まさに、恥ずべきことだったのです。

実は、この感覚、この思いは現代でも、まったく変わりがないと思います。人間の本質は何一つ変わっていないからです。人は誰もが基本的に上昇志向を持っています。苦しみながら生きるより楽しみを多く味わいたいと思っています。困難な人生より平坦な人生を望みます。当たり前のことでもあります。

第一世紀の教会の闘いは、私どもの想像を絶する困難さがあったはずです。実は、福音を恥じる思い、福音のために囚人になることを恥じる思いはテモテだけではなくパウロじしんも知らないわけではなかったと思います。わたしはかつて、何十年も、使徒パウロのローマの信徒への手紙冒頭の御言葉「わたしは福音を恥としない」を印した額を牧師室に掲げていました。洗礼を受けたとき、教会員からいただいたものなのです。

わたしは、1980年の9月15日、イエスさまとの出会い、回心の時が与えられました。そしてその年の降誕祭に洗礼を受けました。実はそのときまで、自分が教会に通っていることを誰にも知らせていませんでした。イエスさまに救われたその日、家に帰って初めて告白したのです。そしてその日から、伝道と証しの生活が始まりました。大学生のそのときから、福音を恥としない日々が始まったのです。

一方で、当時、共に熱心に伝道し、キリスト者として活動していた仲間達の内何人もが、就職し、結婚してから、信仰から離れてしまいました。仕事で忙しく、日曜日に教会に毎週通うことが大変になったのでしょう。何より、仕事が楽しくなり、自己実現の道がどんどん開かれて、キリスト者であることより、この世で成功し、実力をつけることが、楽しくなり、優先されたのでしょう。福音を恥としてしまったということでしょう。キリスト者として自らを明らかにして行くより、会社の組織のなかで横並びになって常識人として生きて行った方が楽になったのだと思います。一ヨハネの手紙気梁茖仮錬隠鏡瓩法屬垢戮得い砲△襪發痢肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」とあります。大学時代には、生活のおごりはそれほど強くなかったはずです。しかし、社会に出て、まさに自分と他人を比べて、日曜日に教会生活をするより、日曜日を自分のために用いる方が、賢いと、大切だと考えてしまったのでしょう。

確かにテモテは、教会の指導者です。伝道者、教師です。しかし、そのテモテであっても、この世の人々を見ていると、ときどき、自分は何故、こんなに苦しい目に遭っているのだろうか。自分だって、この世において活躍するなら、みんなが羨むような生活だってできるではないか。何故、自分ばかりが、これほどまでに教会のために苦しまなければならないのだろう。そのような、恐ろしい思いが湧いてくることもあったのだと思います。そのとき、パウロの弟子、パウロの囚人であることすら、一瞬でしょうが、恥じてしまう思いに転落してしまう。まさに恐ろしい気持ちが、サタンの誘惑を受けたのだと思います。

さてそこでパウロは、そのようなテモテに何をするのでしょうか。パウロは、ここでキリスト者のアイデンティティーについて確認します。私たちは何者なのか。どのような存在なのか、誰なのか。そこを確認するのです。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出して下さったのは、わたしたちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。」私どもはキリスト者です。今朝、今一度、信仰の教え初歩について確認しましょう。今、初歩と申しました。もっと言えば、初歩の初歩だとすら言えるように思います。キリスト者とは、救われた者ということです。救われている人間です。救われた人間です。ということは、キリスト者でない時には、救われていなかったということです。

そもそもこの救いとは、何でしょうか。この言葉はキリスト教用語とは言えません。そもそも宗教とは、それぞれの違いがありますが、救いをもたらすものでしょう。人間を救済するものです。しかし、聖書は救いとはただ一つのことだと、絶対的なことを主張します。誰もが、「ああ、救われた」というような表現をしたり、そのような気持ちを持ったことがあるだろうと思います。それは、自分が困っているときに、この問題が解決したときでしょう。その問題がなくなってしまったとき、ああ、助かった、ああ救われたと言うのです。病気の人は、それが治ったら、救われたと言うでしょう。お金がなくて困った時、お金が借りられたり、得られたら助かった、救われたと言います。家庭の問題、夫婦の問題、子育ての問題、人は様々な救いを求めています。すべての人間は、なんらかの救いを求めていると、わたしは断言してもよいと思います。すべてが思い通りに、願うどおりになっている人など、いないでしょう。だから、宗教が誕生します。宗教を必要とします。そして悪しき宗教は、人々をその宗教の虜にしてしまうことも起こります。救われたいと思う人たちがいる限り、宗教はなくならないでしょう。そのような中で、キリスト教の救いとは何かです。これはそもそも、人間は求めないものであります。人が必要としない救いなのです。人が必要としないというなら、キリスト教の意味はないように思われます。むしろ、唯一の救いだとか、これ以外に救いはないとか、キリスト教のメッセージは間違っているという声も聞こえてくるかもしれません。しかし、聖書の言う救いとは、人間が求めていないからこそ尊いものだと思います。

人間は自分が救われなければならない者だということ、それがそもそも分からないのです。もし、自分が救われる必要がある人間だと分かれば、もはや、ほとんどその瞬間に救われると思います。
パウロは、手紙の冒頭でこう言いました。「キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によって使徒とされたパウロ」

パウロが神の御心によって使徒とされたのは、キリスト・イエスによって与えられる命を宣べ伝えるためです。このキリスト・イエスによってのみ与えられる命が救いです。私どもはそれを神のいのちともうします。あるいは永遠のいのちと申します。このいのちとは、キリスト・イエスによってのみ与えられます。つまり、このいのちとは、キリスト・イエスがあの十字架について私どもの身代りに死んでくださったことによってのみ、私どもに与えることができるものだからです。つまり、父なる神と私どもとの断絶、神との交わりを失ってしまった人間をもう一度、その交わりへと回復して下さることが、いのちであり、救いなのです。救いとは神との関係が修復され、再構築されることです。今は、私どもは神を、父と呼び、父から子と呼ばれる間柄になったのです。これが救われるということです。いのちを与えられるということです。

ここで一つ、救いについて、このことも言及したいし、すべきです。それは、救いを必要とせず、救いを求めないままなら、私どもはどうなってしまうかです。先日、あるキリスト者と久しぶりに電話しました。彼は今、試練の真っただ中にいます。病気に苦しんでいらっしゃるのです。あまりに苦しい、そのせいで、死にたいとすら思ったと仰います。しかし、そこで踏みとどまったのは、神のない世界、つまり地獄の恐ろしさを想像したからだったと語られました。

救いの反対は、何でしょうか。滅びです。神と共に生きることができない世界に永遠にとどまることです。神と共に生きる、それは神の愛を受けることです。神の恵みと正義の支配を受けることです。

救われていること、そして滅びてしまうこと、この二つとも、聖書によらなければ、分からないことです。パウロをそれをこのように申します。「聖なる招きによって呼び出して下さった」神さまが救いへと招待されたのです。私を、ここに来なさい。ここに入りなさいと呼び出してくださったのです。しかも、そこに入るとは、そこに出かけて行くということではなかったのです。気づいたら、そこに、まさに生きているここに、イエスさまが近づいていらっしゃったのです。具体的には、キリスト者がそこにいてくれました。キリストの教会がそこにあったのです。このようにして、私どもは神に招かれ、名前を呼ばれたのです。救われなさい!私を信じなさい。わたしと共に生きなさい。わたしのもとに来なさい!と。このように一方的に教えて下さったのです。呼びかけて下さったのです。これが恵みです。

つまり、この救いは、私たちの行いによるものではなく、与えられたものなのです。私どもが救われるに値する価値がある、そのようなよい人生、よい行いを重ねてきたからではないのです。むしろ、神の御前に神の怒りを招くような生き方しかしてこなかったのです。具体的には、偶像礼拝です。自分を絶対化して、自分を世界と人生の中心としておごり高ぶって生きて来たことです。そのすべてが神の正義を破壊し、愛を裏切りそのようにして神の怒りを積み重ねるだけだったのです。そのような者にもかかわらず、ただキリスト・イエスさまが十字架でご自身のいのちを償いの代価として、その怒りを身代わりに受けて下さったおかげで、私どもは救われました。

この救いの恵みは、神の計画に基づくものなのです。それは、理の当然です。私どもの行いに基づくのではないのです。私どもの行いの結果ではないということです。つまり、最初から最後まで神のご計画なのです。
そしてそれを現す教理の言葉がこれです。「この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、私たちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。」

さて、先ほどの電話のことです。もう30年以上昔からの友人です。彼の幼少時代のことを、もう一度、伺いました。一言で言えば、過酷です。壮絶です。父親は死別。母子家庭の始まり。しかし、再婚しての義父との関係。幼少時代のその傷は、時々、ぽっかりと傷口を開いてしまうのです。

キリスト者として、神のご計画を知り、信じています。しかし、神さまがどうしてそこでもう少し、彼を、具体的に助け、守って下さらないのだろう、そのようなことが、心に過るでしょう。むしろ、信仰者だからこそ、救われたからこそ、問いは深まる面があります。しかし、パウロは言います。父なる神は、永遠の昔に、この表現は素晴らしいです。母親のお腹にいる前から、天と地が創造される前から、つまり、この歴史というものが始まる前から、私どもは、救われるべく定められていたのです。永遠の予定です。この永遠の昔からのご計画、永遠の予定は、歴史の中についに明らかになります。それがキリスト・イエスの出現です。永遠の神の御子が、私たちを救うために、人となられること、十字架につかれること、つまり死なれること、犠牲になることは、神の救いのご計画のなかに織り込み済みだということです。神の予定の中で、私どもが、罪を犯して滅びる人間となることが見越されています。そのなかで、栄光の神、栄光にみちた御子なる神が、苦しまれること、死なれることも見こされていました。そして、それが歴史の事実になったのです。

「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅のいのちを現わして下さいました。」
キリストはご自身の死をもって死を滅ぼされました。人となられたご自身のご存在とご生涯、その中心である十字架の贖いの死と三日目のご復活によって、神のいのち、永遠のいのち、ここでは「不滅のいのち」を現わされたのです。ついでのことですが、ここで確認したいのは、不滅のいのちとは、ギリシャ哲学者が考える、人間の霊魂の不死性、不滅性ではありません。すべての人間の魂は、不滅だというわけではありません。キリストが十字架で、私どもの死をすべて引き受ける死、死の支払う報酬としての神の永遠の正義の怒りを引き受けて下さったこと。父なる神が、その御子イエスさまの死を、救いのための死として受け入れた証拠として甦らせたこと、この御業によってのみ、「不滅のいのち」が現され、私どもにもたらされたのです。
そして今、今朝、この不滅のいのちを受けているのが私どもです。

パウロはこの手紙の冒頭で、キリスト教の中心的教理を語ります。極めて大切なことです。私どもの信仰の生活のすべてはここから、この救いの教理から始まるからです。

確かに、あの時、あのことが起こらなければ、こんな苦しみに遭わなかったのに、あのとき、神さまがあの災いから遠ざけれて下されば、ここまで苦しまなかったのに、確かにこの嘆きを私共は知っています。けれどもまさにそこで、私どもが何を知り、どこを見つめるかが問われます。父と子と聖霊なる神は、永遠の昔から、私どものこのおそるべき罪の刑罰としての死と苦しみを、決して苦しませまいとされました。永遠の神の独り子を苦しませることをご計画されたのです。この神の自己犠牲が、永遠の昔からあったのです。この父の愛を信じること、これが信仰です。私どもは今、信じることができるはずです。キリスト・イエスの現われを聖書によって知り、この礼拝式において、今朝もご臨在の現われにあずかっているからです。

だったら、この救いの恵みに、もう完全に降参しましょう。心から感謝し、喜んでこの招きに応答しましょう。この世のおごりは過ぎ去ります。永遠ではありません。どうして、この永遠の祝福、恵みを、この世のわずかいっときの、しかも、神から離れるような目先の楽しみ、目先の欲、目先の救いを選択してよいでしょうか。よく考えましょう。深く考えましょう。自分のもっとも深いところに植えつけられている願いを掘り起こしましょう。その求め、救いへの求めは神さまから与えて頂いたものです。どうぞ今、このときの自分の助けになることを選ぼうとするのではなく、神の救いを選びましょう。この招待を受け入れ、感謝し、喜んで救われましょう。

祈祷
永遠の昔に、主イエス・キリストの内に私どもを神の子にしようとご計画をし、実現してくださいました父なる神。心から感謝致します。この世の価値観の誘惑の中で、時に、福音を恥じる愚かさを繰り返します。憐れんで下さい。ゆるして下さい。この世に視線を注いでしまうからです。あなたの恵みによって、私どもの眼差しを恵みに釘づけさせて下さい。今朝、ここで十字架の主、天にまします栄光のキリスト・イエスに集中させて下さい。驚くべき恵みに感謝し、この感謝と喜びの中で、今を生きる力を与えて下さい。アーメン。
目次
名古屋岩の上教会
〒458-0021
名古屋市緑区滝ノ水2-2012
TEL&FAX:052-895-6701 
メール:iwanoue■me.ccnw.ne.jp
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牧師紹介
□牧師 相馬伸郎□
下記の定例集会にどなたもお気軽にお越しください!心から歓迎いたします。
求めるあなたに、かならず、救いが与えられます。


□主日礼拝式□
毎週日曜日
10:30〜12:00

□子どもの教会□
毎週日曜日 
嬰児から高校生まで
9:00〜10:00

□祈祷会□
毎週水曜日 
朝 10:00〜11:30
夜 19:30〜21:00

個人的学び会 随時 牧師にお気軽にお問い合わせ下さい!

【子供と父母のハートステーション】が始まっています。 詳しくは、ニュースをごらんください!

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