名古屋岩の上教会

わたしはこの岩の上に私の教会を建てます。 -マタイによる福音書第16章18節-

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「私が遣わすのだ、行け。-神を見る-」

「私が遣わすのだ、行け。-神を見る-」
2017年3月26日
聖書朗読 使徒言行録第22章22−29節 (p259)
【「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」】


先週は、無牧となった多治見教会にお伺いいたしました。皆さまは、渡辺長老から「私は御顔を仰ぎ見て満ち足りる」と題して、放蕩息子のたとえ話を学んで、よき礼拝を捧げられた事を感謝致します。
今朝は、いつものように使徒言行録の講解説教に戻ります。使徒パウロがユダヤ人の暴動に襲われ、殺されそうになったところで、ローマの千人隊長や兵士たちの手によって守られたときのことを学びます。その三回目です。彼は、怒りと殺意で燃え上がるユダヤ人を前にして、キリストの証しを致します。自分がどのようにご復活のキリストにお会いしたのかを語りました。そして、今朝の箇所は、パウロが使徒として立ち上がるその経緯について、ユダヤ人に分かち合う場面です。

今朝の箇所は、素朴に読むと、ダマスコでお復活されたイエスさまにお会いしたパウロは、ただちにエルサレムにユーターンしたと読めるはずです。しかし、ガラテヤの信徒への手紙を読みますと、パウロは三年間、アラビアに言わば隠遁したというのです。迫害者から使徒として活動を始めるには、少なくとも三年の言わば準備期間があったわけです。

パウロがその後、エルサレムを訪ねたのは、ペトロと知り合いになるためでした。それは、15日間だと言います。そして、その他の使徒には誰にも会わなかったこと、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会ったというのです。さらにパウロは、そこで、「わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、嘘をついているのではありません」と書いているのです。ということであれば、今朝の体験談は、イエスにお会いした直後では決してないことは明らかです。パウロはむしろ、アナニアに導かれ、そのままアラビアに行ってじっくりと静まったのです。活動しなかったわけです。伝道せずに、福音の真理の把握に努めたわけです。あるいは、自分の律法理解、つまり聖書理解を再構築させたのです。それに少なくとも3年を掛けたわけです。パウロにとってはどうしてもその期間が必要だったのでしょう。

さて、ほんとうに久しぶりにエルサレムに戻ったパウロはペトロに会います。さまざまな信仰の対話をし、交わりをもったのです。その上で、彼は、おそらく一人でエルサレム神殿に詣でます。神殿は祈りの場です。パウロは神殿を大切にしていることが、ここでも分かるはずです。

さて、今朝は先ず、この神殿におけるパウロの体験談を扱います。「神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。」パウロは神殿で個人的に礼拝を捧げているときに、主イエスにお会いしたと言うのです。先ず、ここから学びたいと思います。最近の週報には、余白が出れば、「祈祷会に出席しましょう」と記しています。私どもの教会の歴史を前へ進めて行くための言わば、エンジンのような奉仕がこの祈祷会です。キリスト者として召されていながらこの祈祷会に出席できないことは、本当にもったいないと、わたしは思います。もとより、この集いは、私どもにとっての欠かせない奉仕です。この祈祷会の性質は、まさに祭司としての教会、祭司としてキリスト者の公的な最高の奉仕、ディアコニアと言っても言い過ぎではありません。何故なら、そこでは執り成しの祈りが、共同で捧げられるからです。確かに、ときどきこのような讃美歌を祈祷会で歌います。「静けき祈りのときやいと楽し」そうです。お祈りは、楽しいです。今朝の最初のメッセージの眼目はそこにあります。ただし、祈りの中身は、一つではありません。祈祷会の祈りは、最初から最後まで執り成しの祈りです。世界と日本、社会と教会のため、教会員のひとり一人のために祈りがささげられています。それは、時に、苦しいです。悲しいです。辛いです。まさに、十字架を背負うような重荷が与えられます。逃げたくなる気持ちも正直、出てくるかもしれないほどです。しかし、私どもはこの務めから逃げ出すわけにはまいりません。キリスト者にとって聖なる職場なのです。働き場、奉仕の場です。

しかし、執り成しの祈りという務めの重荷を負うのは、まさに、自分の弱さに鞭打つかのようにするのではありません。おそらく祈祷会に出席なさる方は等しく同じ思いでしょう。同時に、繰り返しますが、時間が空いているから祈祷会に出席するのではありません。一週間の生活をそこに合わせている、仕事を中断して来る方もいるはずです。しかし、そこに本当に楽しいとき、信仰の楽しさ、甘さを深くあじわっていらっしゃるのです。 

さて、パウロは、「神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いした」わけです。つまり、神殿に個人的な礼拝つまりお祈りをしにでかけたわけです。そのとき、「我を忘れた状態」になったと言うのです。この表現を少し丁寧に考えたいと思います。ここをある個人の訳では「恍惚」としました。他には、「夢うつつ」になったとか「夢心地」になったというのもあります。さらに、「我を忘れた心地」もあります。このギリシャ語はよく知られている言葉だと思います。エクスターセイ、もともとの意味は、「自分の外に出る」となります。自分がそこにいるのに、自分の外に出ていってしまうというのです。イメージとしては、気を失った人に近いような気が致します。いずれにしろ、これは、「いわゆる」宗教的体験を意味する言葉なのだろうと思います。

さて少し話が飛んでしまうかと思われるかもしれませんが、私共、改革派教会には、一つのはっきりとした特徴、性格があるだろうと思います。それは、知的な教会であるということです。実際はどうかという自己批判があります。しかし少なくとも知的な教会たらんとしている教会だろうとは思います。そして、そのような教会の姿は、聖書から当たり前のように生じる姿のはずです。本来の教会像のはずです。しかし、何故、それが特徴になるのか、なって来たのでしょうか。それは、キリスト教の歴史の展開のさまざまな問題、課題です。教会の中には、いわゆる感情的な教会であることをよしとする教会があります。聖霊の言わば不思議なお働きを大切にするのです。共通するのはキリスト者たちは感情を高揚させ、特に賛美をよく歌い、しかもその賛美は単純なメロディーと歌詞を繰り返すことが多いと思います。ある教会は異言と言われるようなものすら語り、それをキリスト者の目標にするような教会もあります。異言とは、何を言っているのか本人にも分からない言葉だというのです。私どもは、そのような異言を少なくとも教会の中で、礼拝式の中で語ることを禁じます。他人に分からない言葉を何万語語っても、教会はそこに形成されないからです。

パウロは今まさに、個人的な祈りの中で、まさに恍惚状態、我を忘れるような神さまとの交わりを楽しんでいるのです。本当に心が満たされて行くのです。わたしは、教会員の皆さまに、ぜひ、そのことを大切にしていただきたいと心から願ってやみません。本当に、そのような誰にも理解されないかもしれませんし、それで構いませんが、神さまとの個人的な深い交わりを楽しむことは、教会生活の益になるはずです。力や慰めになるはずです。ただし蛇足ですが、異言のように他人に分からない言葉を語るのは、家のなかだけですべきです。

私は、知的な教会であることと個人的な祈りの中で主イエスとの交わりを楽しむこととは決して矛盾しないと思います。神に愛されている自分を発見し、いよいよ、心が熱くなり、嬉しくなる経験です。むしろ、キリスト者にとっての知的な営みをいよいよ豊かにするのだろうと、確信しています。

さて、改めてパウロが「我を忘れ」たときの経験に注目しましょう。ここが大切です。彼は、決して気を失ったわけではありません。エクスタシーという言葉を厳密に、正しく理解したいのです。それは、自分を忘れてそれで終わるのではなく、自分の外、つまり、神、イエスさまに集中する、できたということです。私どもは基本的に常に自分にこだわっているのではないでしょうか。自分の信仰は、良いか悪いか、育っているかどうか、そこに関心を向けようとするわけです。それは、土の中に植えられた種が育ったかどうかを毎日、土から取り出して確かめるようなことに似ているだろうと思います。さらに、信仰を与えて頂いたと言うことはそこから解放されたということを意味するはずなのですが、実は、このようなことにも、いつまでもこだわっているのではないでしょうか。それは、周りの人々の視線です。他人の目です。未信者だけではなく、教会員の目です。牧師の目であるかもしれません。自分はどのように評価されているのだろうか、見られているのだろうか。自分や周囲にいつもこだわって生きているのです。しかし、信仰とは外に出ることです。視線を外に向けることです。自分の外とは他でもない造り主でいらっしゃる神です。神に向くことこそ、聖書が言う正しい意味での我を忘れたような状態、エクスターシアなのです。

著者ルカは、パウロがエクスターシアしたとこう告げます。「主にお会いしたのです」こここそ、決定的に重要なポイントです。パウロは、あらためてエルサレム神殿で主イエス・キリストとお会いするのです。不謹慎な表現になるかもしれませんが、イエスさまとお会いしたとき、意識がもうろうと等していられるでしょうか。ありえないことだと思います。むしろ、ここでこそ意識を明瞭にするはずです。まさに五感のすべてをフル稼働、総動員してイエスさまと向き合うはずです。

ここで聖書は、「主に会った」と言います。敬語を使っているのはまことに正しいと思います。「会う」と「出会う」という言葉の違いをここで思います。私どもは、今日までいったどれくらいの人々と会ってきたことでしょうか。幼稚園、小学校からはじまって学校教育、職場や地域社会、何千人、何万人にも上る方もいらっしゃるはずです。しかし、それは人と会うというふうにしか言えません。それに対して、何千人にも出会ったと言える人はいるでしょうか。ほとんど不可能のはずです。人が人と出会うというのは、人格的な関係、交流が始まることです。人格的な関係、出会いとは自分の心を相手に開き、相手もまた心を自分に開いてくれる、そのような関係性のことです。

パウロはここで主イエスと出会っています。いえ、彼は、いつも、日々出会っているのです。しかし、ここではやはり特別な出会いが起こったというわけです。そしてこれは、何も、パウロだけの特別の経験ではないと思います。私どもは今朝、エルサレム神殿ではなく名古屋岩の上教会の礼拝堂におります。ここで、主イエス・キリストを礼拝しています。そして、礼拝こそは、この出会いが起こる場、時に他なりません。言い換えれば、目と目が、神のまなざしと私どものまなざしとがぶつかるということです。視線が合うのです。これこそ、神を見る霊的な体験です。どうぞ、ここで、正しい意味で我を忘れる体験を祈り求めて下さい。

先週まで祈祷会ではずっと「神を見る練習をしよう」というタイトルをかかげて学びを続けてまいりました。そのエッセンスを一言で申します。この礼拝式で、み言葉を通して神を、とりわけ主イエス・キリストの十字架とご復活を見ることです。目に見えるみ言葉と言われる聖餐の礼典を祝うそのとき、あのパンと杯の向こうに十字架のイエス、ご復活のイエス、そして天に座しておられる栄光のイエス、そして今来たりつつあるイエス、聖霊によってここに臨在されるイエスを信仰の目をもって見つめることです。そしてその急所を、一言で申します。それは、見つめられている自分を発見することです。そのとき、目と目が会います。主の恵みと慈しみにあふれた御顔を向けられて、心が満ち溢れるのです。

今朝はそこまでにします。次のメッセージを学びましょう。さて、そのとき「主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』パウロは、そのときおそらくエルサレム伝道を考えていたのだと思います。自分がどれほどユダヤ人キリスト者にひどいことをしたのかを自覚しています。だからこそ、自分がこのエルサレムでどんなにひどい目にあってもかまわないと思っていたと思います。まさに、犠牲は覚悟の上だったと思います。ところが、主イエスは、「急げ、すぐに」と命じられます。「逃げ出せ」ということです。エルサレムでは、お前の証しは受け入れられないからだ言われたのです。

パウロは、それに対し、率直に打ち明けます。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』」彼は、自分の罪とその行いをあらためて認めます。この告白は、こんなわたしなのですから、主のためなら、自分がどうなってもまったくかまいませんという意味なのだと解釈致します。古い日本の男性の中には、男なら負けるのは分かっていても戦わなければならないというヒーロー意識を思い起こされるかもしれません。あるいは、心理学的に解釈するとパウロは、自分で自分を罰したいとする、処罰意識が強いのかもしれません。いわゆる贖罪的な行為として、伝道の極めて苦しい場所に行こうとするのです。

ところがしかし、イエスさまはそれを許されません。「お前は、英雄的な殉教の死を覚悟し、それを望んでいるかもしれない。しかし、それは、お前の思いでしかないのだぞ、わたしは、あなたをどれほど愛していると思っているのか、わたしはそのあなたによって、すべての人を救うわたしの福音を世界の果て、地の果てまで宣べ伝えてもらいたい。いえ、わたしはあなたを用いて宣べ伝えさせると、そう決めているのだ。だから、わたしに従え。行け!パウロ。この私がお前を遣わすのだ。」

まことの礼拝体験には、一つの特質があります。それは、倫理を生むということです。「ああ、恵まれた礼拝だ。ああ、心が軽くなった。ああ、気分は晴れやかだ。」ということで終わらないということであります。教会の歴史は、礼拝の歴史です。しかし、そのまったく純粋に神に集中する時間と場所が、教会をこの地上にあって神に仕え、世界に仕える奉仕の家として整えて来たのです。主に従う民が、この礼拝式によって整えられるのです。キリスト者とは、知的であろうと志しています。そして今朝、学びましたようにそれは、本当に霊的な感動、喜び、我を忘れるように神の愛と恵みに溶かされてしまうそのような甘い体験を内に含むのです。そして、キリスト者とは知的であり霊的であるのですが、そこで終わりません。倫理が生まれるのです。日曜日、できればいつまでも礼拝堂にいたいと、救われたばかりの大学生のとき、いつも思っていました。しかし、礼拝は、そこから出発し、立ち上がらなければなりません。主イエスが「安心して行きなさい」と送り出して下さるからです。
このみ言葉を聴いて、毎週、送り出される。このみ言葉は、この時の神殿でのイエスさまの命令と同じです。大丈夫だ。恐れるな。何故なら、この私が派遣するのだから。これは決定的な力です。

皆さん、諸外国に派遣され、任官された日本の大使たちを想像してみましょう。同時に、国力の弱い小さな国の大使のことを想像してみましょう。おそらく、扱いには差が出るだろうと思います。何より、簡単に分かるだろうと思うのは、大使と一般の旅行者とを比べてみることです。持っているパスポートが違います。そして、大使にいくつもの特権が与えられると言われます。そもそも大使館の敷地内はまさに治外法権が保証されています。一般の旅行者とは天地の差です。一国の大使は、その国の政府が派遣しているわけです。私たち一般の旅行者は自分自身で出かけています。出張する会社員なら会社から派遣されているわけです。いずれにしろ、派遣母胎が誰、どのような組織かによって、その地位、特権、そしてその働きがまったく違います。

ご復活され今やまさに天に戻ろうとなさったイエスさまは、弟子たちに語られました。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」弟子たちはこの任務を与えられ、派遣されたのです。ここに使徒としての権威があります。その任務、働きの内容が示されています。すべての民のところに出向いて、主の弟子を育てることです。洗礼を授けることです。主の教えを守らせることです。

確かに、残念ながらパウロは、そのとき、その場に居合わせていません。しかし、神殿の中で、同じ主イエスから、他の使徒たちと同じように「行け」と命じられたのです。わたしが遣わすのだと、約束されたのです。

しかも、この派遣者がユニークなのは、この点にあります。この世における派遣する者は、下の者を派遣するのであって、当然、彼はその場所にはまいりません。自分の代理者として彼に権限を与えて送り出すだけです。ところが、イエスさまの場合は違います。主イエス・キリストは、わたしの世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる。こう仰ったのです。つまり、安心して行きなさいとは、一人で行けというのではなく、わたしと一緒に行こうと言う招きです。さらに言うことができます。わたしが先に行くからついて来なさい、です。従っていらっしゃいデス。もう、道はイエスによって造られているのです。開拓伝道と言っても、決して、私どもが何もないところで、伝道するなどということではありません。すでに主が働いておられるのです。これは被災地ディアコニアの経験です。既にそこに主が働いておられる。そこに出かけて行くのです。

私共も、この礼拝式において、また日々の祈りの歩みにおいて、聖霊の恵みを豊かに受けましょう。求めましょう。焦る必要はありません。焦ってはいけません。あの最初の使徒たちの真似をしましょう。恵みによって押し出されるからです。逆に言えば、ちゃんと恵みを受けなければ奉仕は続きません。他人の目を気にします。疲れて来ます。不平も出ます。しかし、聖霊が注がれている今、主のまなざしがこの私に注がれていると信じるとき、その時こそは、強いられてでも、いやいやでもなく、立ち上がりたくなるはずだからです。それまで、信じて待っていましょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる神、私どもは実に怠惰で、あなたのために立ち上がろうと致しません。しかし、あなたはこの礼拝式において今、御顔を仰がせ、また御顔の光で私どもを照らして下さいます。そして、立ちあがって、行きなさいと励まし、主の弟子として派遣されます。どうぞ、自分の力や知恵にたよらず、あなたを仰いで、あなたとともに今週も生きる者として下さい。

3月26日


☆   先週は、〇〇長老の幸いな奨励また、久しぶりに前列と左右の席はのぞいて、満堂に近かったことも嬉しいことでした。しかし、何と言っても〇〇執事のご主人様が初めて教会の集会に、しかも、主日礼拝式に列席下さったこと、です。家族の救い、伴侶の救いは、隠れた、絶えざる「教会の年間主題」です。先々週の「ためらわずに洗礼を受けよ」の説教は、私にとっても洗礼への深い飢え渇きを新たにさせられました。「誰かのアナニアになりたい。」これこそ、わたしの伝道者の召命の原点なのです。伴侶の救いを祈っている皆さまには、その時は、それぞれに必ず備えられていると信じましょう。慌てず、ひるまず、信じて、祈って待ち望みましょう。その意味で、特別伝道礼拝式の説教等で、すべてが決まってしまうのではありません。普段の礼拝式でよいのです。(しかし、先週は放蕩息子の物語でしたから、誰しも、神の導きを思わざるを得なかったと思います。)そこで要になるのは、岩の上教会が「よい教会」であること、あり続けることにあると考えます。「よい教会」とは、どのような教会のことでしょうか。私どもは一貫して、このように答えてまいりました。「キリストの主権に服す教会」これ、です。「み言葉が力をもって教会員を生かし、主を共に喜び祝う、慰めの共同体」です。聖霊は、そこに、いよいよ「明るい教会」を育んでくださるはずです。

★   〇〇姉の歓送会のことも、伺いました。彼女を送り出すことは、正直に言えば、とても寂しくまたもったいない・・・思いです。しかし、皆さんが「ちゃんと」送り出して下さったこと、嬉しく思います。東京での生活が祝福されることを信じ、祈ります。一方で、「すぐに戻ってきて良いぞ!」と、皆で激励して送り出された兄弟は、もうすぐ戻られる予定です。主イエスは、若い仲間たちを、それぞれご自身の栄光のために、かけがえのない経験を与えて育て、導いて下さいます。春、若い仲間たちのあらたな挑戦の上に、神の祝福を心から祈ります。

☆   被災地ディアコニアの報告、先の憲法カフェの報告等、本当に大切です。もとより室員が中核になります。しかし、すべては教会を代表する営みです。教会員の声を反映させたい、同時に、室員の知見を出来る限り共有していただきたい、会員と室員相互のある緊張関係が求められています。

★   新会堂の多治見教会は、ため息が出るほど素敵です。意匠が凝らされ、調度品等も芸術の香りが漂い、パイプオルガンもあります。静粛な礼拝堂空間や音響も、説教者にはありがたいことです。一方で、私どもの賛美や「三要文」、アーメンなどの声は、負けていないかもと思いました。それでも、まだまだ・・・と思う私は、おかしいのでしょうか。多治見教会は、400坪余りの広大な敷地を始め、戦前からの教会という伝統と遺産を継承しています。私どもの教会は、信仰の豊かな遺産を残す教会を目指しましょう。

☆  先週の朝の祈祷会に、〇〇姉が出席なさいました。春になったら・・・と伺っていましたが、タクシーで出席されました。大変、驚かされまた嬉しく思いました。朝の祈祷会も夜の祈祷会も、教会の特別に大切な集いです。学びの場、交わりの場であり、何より、祈りの務めを担う奉仕の場です。心強い限りです。

☆   「日本会議」が、遂に、マスメディアにも取り上げられ始めました。昨年刊行された「日本会議の研究」(菅野完 扶桑社 新書)の初版を直ちに入手し、その他関連本も読みました。戦後の多くの教会は、靖国神社の国有化に一貫して反対し、抵抗するために先頭に立って戦って来ました。私どもはこれを「ヤスクニ問題」として、教会と国家との関係の急所として捉えてまいりました。 日本会議のメンバーは、国家神道を復活させ、明治憲法、教育勅語の価値観を取り戻したいと本気で考え、この70年間、地道な努力を重ねて来ました。彼らは、日本は武力で負けただけであって、国力を上げ、軍備を充実させさえすれば、日本(=大日本帝国)を取り戻せると考えているようです。これは、犯罪的な思想です。同じ敗戦国ドイツを考えてみましょう。もし公職者がナチスの思想を支持し、ホロコーストの事実を否定するならば失職は免れないと思います。かつて、森首相は「日本は天皇中心の神の国であるのだぞということを国民にしらしめるのが我々の責任」云々と、まさに彼らの集会で本音を語ってみせました。しかし、当時は、この一言で、退陣に追い込まれたのでした。今、防衛大臣は、「教育勅語の中にも普遍的な道徳があるのだから、一概に、悪いものとは思わない」と・・・。かつてまさに一発、退場だったはずですが、隔世の感があります。まさに、危機です。この期に及んでなお教会が、立ちあがらないとすれば、もはや、何がどうなっても傍観者となるしかないだろうと思います。

☆  本日は、説教の分かち合いを「礼拝要素」の学びに替えさせて頂きました。3月、4月と読書会がありません。改めて皆さまと「きほんのき」を確認したいと願ってのことです。今年の学びの二本柱の一つです。

3月19日


☆   先週の徳重の要池公園でのスピーチの動画を、私のフェイスブックにアップしています。どなたでも見ることができると思います。杉山兄と市川兄がともに教会の横断幕をもって立ってくださっています。  
    そのスピーチの肝になるのは、「ディアコニア・奉仕」です。本日から被災地ディアコニアに三名が教会の代表として派遣されます。(今回は、菊池執事のご主人さまもご参加下さいます。心から感謝致します。今回の奉仕の中心となる菊池執事のドライフラワーアレンジメントは大変な下準備が必要でした。感謝致します)
6年目となるこの奉仕は、一般の方にもよく理解していただけるものと思います。「教会も<ボランティア>をするのですね〜」と。一方、政治的ディアコニアは、キリスト者でもちゃんと学んでいなければ距離を覚える方もいらっしゃると思います。私どもは被災地に伺い、被災者の「原発さえなければ・・・」という「声なき声、内なる声」を聴きます。こうして、私どもは、彼らに代わって世間に向かって声を挙げ、訴えることへと促されます。それを、担うのが政治的ディアコニア(教会の預言者職)です。同時に決定的に重要なディアコニアは、執り成しの祈り(祭司職)を捧げることです。つまり彼らに代わって「神に」声を挙げ、訴えることです。いずれも神奉仕(ディアコニア)です。ここに、祈祷会の重要な意義があります。この二つのディアコニアは本来、有機的に結ばれ、互いを必要としています。本質的には一つの働きなのです。

☆    先週のスタンディングの後、政治的ディアコニア室の会議に陪席しました。(同時間帯の姉妹会出席も考えましたが・・・。)最初に、神学と実践の相互関係について、歴史的経緯をふまえた丁寧な学びを行いました。まさに、このような学び抜きには、正しい実践を担い続けることはできません。そこでも、あらためて確認したのは、政治的ディアコニア室が担う「務め」は、ディアコニアであって政策提言をしたり政治団体的活動を担うものではないということです。スタンディングは、有志で担います。しかし、教会を代表して行っています。先週も15名の会員と地域の方々15名で、立ちました。これからも、継続します。

★   先週は、「ためらわずに洗礼を受けよ」という題で説教しました。歴史上、使徒パウロほど、洗礼をためらっても仕方のない人はいないのではないかと思います。彼は、迫害の首謀者。男女を問わず逮捕し殺した人だからです。ところが、ご復活の主イエスは、使徒パウロを「一方的に」赦します。「ためらう必要はない。あなたの罪もまた、わたしは十字架で償ったのだから、わたしの赦しを信じ、受け入れて、洗礼を受けなさい。」そう、迫られたのです。パウロは、主イエスの圧倒的な愛と赦しの中で、使徒としての歩みを始めます。ここにキリスト者の原型があります。そして何よりここに、キリスト教の救いの恵みがあります。

☆  先日の浜松伝道所の82歳の兄弟の洗礼入会試問会のこと、ご主人のために、アナニアのように背中を押し続けたご夫人の切なる祈りと働きです。主イエスは、アナニア(牧師、キリスト者、家族、書物・・・)を通して、「洗礼を受けよ」と、ためらう私どもの背中を押し続けてくださいました。ですからこんどは私どもこそ誰かのアナニアになりたいと思います。今年も、洗礼を受ける仲間が起こされますように。

★   本日の〇〇長老の奨励、楽しみです。どれほど時間を捧げて下さったことでしょうか。この説教題で、放蕩息子の物語を説き明かす・・・。この説教題が、皆さまの心深くに届くならば、説教は大成功です。父なる神がどれほどの愛をもって放蕩息子を見続け!てくださったのか。それゆえに駆け寄って抱擁したのか・・・。今朝の礼拝式もまた、天が開かれますように。あなたの神を仰ぐ視線と父なる神がイエスさまを通してあなたを見つめておられるその慈しみのまなざしが、今朝、出会いますように。

☆   「神を見る 練習をしよう」というスリリングな題で祈祷会の学びを5回。会員全員に出席して頂きたかったと、思います。質疑応答や「考えて頂く」集いですから、レジュメでは伝えきれません。「出来事」が起こりません。今回の説教もまた、当教会の長老なればこその奨励となったのではないか、そう思います。

★   先週、初めて、通信欄の一部が朗読されました。繰り返します。「報告」の時間は、主日礼拝式のプログラムの一つです。先週の小会、執事会の報告は見事でした。その場で質問するのは時間の関係等もあり難しいでしょう。しかし、どんなに小さなことでも、気になる場合は、報告者に個人的に御質問下さい。

☆   若い仲間が東京へと就職されます。既に二人の若い仲間たちが東京で暮らしています。  〇〇は、強烈な憧れをもって大学から東京へ。そしてそのまま、です。確かに、東京でなければという現実もあります。主がそれぞれの前途と生涯をご自身の栄光のために用いて下さるようにと、切に祈ります。 教会は、続けて、否、いっそうお仕事と生活の全てが祝福されますように祈ります。教会異動は、相当の「力」が必要ですから、一つの「危機」(転機)ともなります。教会生活が祝福されますように!切に祈ります。

第2回憲法カフェを開催致します。

前回大変好評でした憲法カフェ、第2回目を開催いたします。
弁護士の青木有加先生をお招きし、カフェスタイルでゆったりと
憲法について語りあう時間をもうけます。
詳しくはチラシをごらんください。
皆様のご参加をお待ちしております。


憲法カフェ(第2回)_170220のコピー

目次
名古屋岩の上教会
〒458-0021
名古屋市緑区滝ノ水2-2012
TEL&FAX:052-895-6701 
メール:iwanoue■me.ccnw.ne.jp
※■を@に変えてください。
牧師紹介
□牧師 相馬伸郎□
下記の定例集会にどなたもお気軽にお越しください!心から歓迎いたします。
求めるあなたに、かならず、救いが与えられます。


□主日礼拝式□
毎週日曜日
10:30〜12:00

□子どもの教会□
毎週日曜日 
嬰児から高校生まで
9:00〜10:00

□祈祷会□
毎週水曜日 
朝 10:00〜11:30
夜 19:30〜21:00

個人的学び会 随時 牧師にお気軽にお問い合わせ下さい!

【子供と父母のハートステーション】が始まっています。 詳しくは、ニュースをごらんください!

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