名古屋岩の上教会

わたしはこの岩の上に私の教会を建てます。 -マタイによる福音書第16章18節-

改憲、これだけは言いたい!

動画出演講師一覧
山口陽一氏(東京基督教大学学長・日本同盟キリスト教団牧師)
豊川慎氏 (関東学院大学専任教員、宗教主事・湘南恩寵教会長老)
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長峯信彦氏(愛知大学法学部教授・日本福音ルーテル教会会員)
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木村庸五氏(弁護士・湖北台教会長老)
稲正樹氏 (国際基督教大学平和研究所顧問)
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小出裕章氏(元京都大学原子炉実験所助教)
前川喜平氏(元文部科学省事務次官) 

「剣を取る者は剣で滅びる」

「剣を取る者は剣で滅びる」
2022年6月26日 平和説教

マタイによる福音書第26章47〜56節
【イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。
ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」
またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。】


先週に引き続きまして今朝も伝道礼拝式として捧げます。今朝の大きな主題は「平和」です。
先週、NHKのテレビ番組で歌手の桑田圭祐さんが新しくリリースした楽曲についての特集がなされていました。66歳の同学年の音楽家5人で歌った、すばらしい歌です。このように歌い出します。「この頃「平和」という文字が 朧に翳んで見えるんだ。意味さえ虚ろに響く 世の中を嘆くその前に 知らないそぶりをする前に 素直に声をあげたらいい 」
まさに今、ドラマのように時代が戦争へと動かされてしまう、その瀬戸際にあります。平和憲法と呼ばれる私たちの憲法が風前の灯となってきたからです。桑田さんたちは、音楽家として今この時、声を挙げて下さいました。本来、教会こそ、いつの時代にも声をあげるべき責任が神から与えられています。

さて、そのような特別な朝、与えられた箇所は、主イエスが弟子のひとりのユダに裏切られ、逮捕されたときの物語です。それは夕べのとき、主イエスが弟子たちと最後になる晩餐を共にしたときでした。弟子のひとりであるユダは、その食卓からそっと抜け出ていました。主イエスを裏切り、敵である祭司長やイスラエルの指導者集団の手にわずかのお金で売り飛ばすためです。ユダは、彼らが夜のとばりにまぎれて人違いをして、誤認逮捕しないようにと、策略を練っていました。「わたしが接吻するのが、イエス、その人だ。その男を捕まえろ」と、前もって合図を決めていたのです。

彼らにとって、ハグをするのは日常の挨拶の行為です。しかし、接吻するのは、弟子たる者の先生に対する親愛の情を示す行為です。ところが、ユダはその敬愛の思いを示しながら、イエスさまを裏切るのです。おぞましいことだと思います。しかし、このおぞましさは、言わば人類の歴史の鉄板だと思われます。つまり、戦争や暴力、これらは、いつも美しい言葉、正義の言葉をもってやって来るからです。かつての戦争も、やれ、苦しめられている人々を解放するためだ。やれ、天皇を神とするすばらしい大日本帝国はアジアのお兄さんとして、欧米の帝国から解放するのだ。」こう言ったのです。今、ロシアでも同じようなことがなされています。

さて、そのときです。主イエスはこう言われました。「友よ、しようとしていることをするがよい」主イエスは、ユダが何をしようとしているのか、そのすべてをお見通しでいらっしゃいました。ところがなんと、その計画を実行しなさいと仰ったのです。つまり、ご自分を裏切り、敵の手に引き渡し、そしておそらく殺されるそのようなおぞましい策略を実行するままにお任せになられるのであります。

確かに、多くの人はここでこのようにおっしゃると思います。「いやいや、もし、ユダが逮捕の指導役をすることが分かっているなら、ここは毅然として、止めさせることこそ、本当の友達のはずでしょう」と。確かにその通りです。よく分かります。しかし、正にここが聖書の分かりにくい点ですが、主イエスは、旧約聖書に予告されていることが、ご自身において完璧に実現されるべきことを信じていらっしゃるのです。「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」さらに「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」と仰るのです。神さまが、旧約聖書の初めから、用意周到ご準備なさっていた人類を救うためのご計画がついに実現するのだと宣言されます。つまり、裏切るユダですらその神さまの救いのご計画の中に組み込まれていると受け入れておられるのです。

そこで、決して読み飛ばしてはならない一言があります。意味が確かで、嘘偽りのない真実の一言です。ユダに対する呼びかけの「友よ」であります。主イエスさまは、決して言葉を裏切ることのないお方です。真実の言葉の語り手でいらっしゃいます。実に、主イエスは、自分を逮捕し、殺してもかまわないと本気で命を狙ってやってきたユダを、心の底の底から「友」と呼ばれたのであります。主イエスは、一方的に友情を保持なさるのです。ユダがどれほど心変わりしても、なお、友として受け入れて下さるのであります。

主イエスは、ヨハネによる福音書第15章において、こう語られています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。〜わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はないとはっきりと仰いました。この友とは、悪しき政治の世界でのオトモダチのことではありません。つまり、そのオトモダチとは、これをしたら、こう報いてくれるというようなギブ&テイクの関係のことです。ところが主イエスは、ご自身を裏切り、殺しにかかる敵ですら友にしようとするお方なのです。だから、「しようとしていることをするがよい」と愛を込めて語られたのであります。主イエスは、ユダをとことん「友よ」と呼び続けることによって、ご自身の思いを彼に悟らせようと試みるのです。「ユダよ、決して自暴自棄にならないように。わたしはお前のすべてを受け入れているのだよ」と、はっきりとお示しになられるのであります。           

さて、遂に武装集団は剣やこん棒をもって主イエスを逮捕しようとします。そのときです。おそらく弟子のペトロが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかりました。しかし、彼は、もともと漁師です。人を切りつけるなど生まれて初めてのことです。命中しませんでした。やられる前にやってしまえと行動したのです。先制攻撃をしかけたのであります。ところが主イエスは、こうおっしゃいます。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」つまり、戦わないと宣言されたわけであります。武器で抵抗してはならないと宣言なさったのであります。

いよいよ、今朝の中心の御言葉を扱います。ここからいよいよ丁寧に掘り下げなければかえって危険な御言葉であります。この御言葉を解釈する第一の前提があります。それは、この時の主イエス・キリストにのみ当てはまる御言葉だと言う事です。歴史の中のただ一度限りの、この時の発言であり命令です。そもそも、主イエスが逮捕され、裁判にかけられ、十字架の木につけられて死ぬべきことは、旧約聖書の初めから予告されていることだからであります。つまり、今や遂に、主イエスが十字架で死ぬべき、その時を迎えているからです。

それなら、何故、十字架の上で死なれるのでしょうか。それこそが、聖書の中心的メッセージです。それは、神の平和の国をこの地上に完成するためであります。神の平和の国とは、いかなる国、いかなるものなのでしょうか。それは、神と私どもとが互いに垣根をつくらず、神と私ども人間が愛し合う場所です。そしてその結果、私ども人間どうしもまた互いに愛し合う場所のことです。そして、本来、神と人間とはそのような間柄で永遠に共に生きるべき者だったのです。それが最初の人間、アダムとエバが楽しんで暮らしていた場所です。エデンであります。このエデン、言い換えれば神の平和の王国をあらためて私どものために取り戻されるためであります。そのために主イエスは自らの命を十字架に差し出されるのです。これは、死んだらおしまいというような敗北ではまったくありません。この死こそが勝利なのです。このイエスさまの十字架の死によって、人類の救いが成就することになるからであります。人類の、そしてここにいるひとり一人の罪を主イエスはご自分のいのちを引き換えにして、父なる神の御前で償って下さったのであります。この十字架によって、この世界に神の平和の国がついにもたらされたのであります。ですから、ペトロが抜いて切りかかった剣はさやに戻さなければならないのであります。

これをきちんと確認した上で、第二のことを確認いたしましょう。それは、先ほどの説教と矛盾するように聴こえると思います。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」これは、イエスさまのあの瞬間だけに当てはまる命令ではないということであります。この命令は、主イエスの十字架の死と三日目のご復活によって、それ以降の人類の現実の世界にも当てはめられなければならない、普遍的な命令となったのであります。

私どもは、しばしば、神がいるなら何故、戦争が起こり、戦争を終結させないのかという声を聞くことがあります。そのときこそ、徹底的に神学的に、徹底的に信仰的に素朴に考えるべきであります。つまり、神さまの眼差しから世界を見るということであります。つまり、今、世界で行われている戦争、思想信条人権の抑圧、弾圧を神さまがどのようなまなざしでみておられるのかです。これこそ、すべての考え方の大前提です。徹底的に素朴に考えるべきであります。

私たち人間どうしの争いごとを、最も悲しまれたのは、誰でしょうか。最初の殺人事件にして最初の戦争は、アダムとエバの息子カインが弟アベルを殺したことです。兄弟殺しです。すべての殺人、戦争は結局、兄弟殺しです。そのときのアダムとエバの悲しみは、どれほどのものだったでしょうか。しかし、それ以上に、悲しまれたのは、アダムとエバの親ご自身です。つまり天地の創造者なる神、父なる神でいらっしゃいます。神は、人と人とが憎しみあい、妬みあい、殺し合うことを、もっとも悲しまれるのです。何故でしょうか。創世記のノアの箱舟の物語の中に、こうあります。9章6節 「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。」神はご自身にかたどって、神に似せて、神のかたちに創造した人間を、そのいのちをこの上なく、大切にしておられるのです。人のいのちはいかなる生命とも別格なのです。ですから、どんなことがあっても、この血を流す行為、つまり、いのちを損なう行為は許されないのです。神の尊厳にかかわるのですし、神の愛の心を破ってしまう究極の親不孝なのです。ですから、今、世界をご覧になる神は、もう、その愛の心がずたずたにされているはずです。誰よりも悲しんでおられるのです。

神がいるのに、何故、戦争を起こさせず、終息させないのか、等と言う議論はそもそも間違った立論なのです。神に戦争の責任も原因も砂粒のかけらもありません。人間が、神の敵となって、神の御心を無視して、するのです。剣を振りかざされたら、いえ、振りかざされる前に、やられる前にやってしまえと。しかし、これを一端、始めれば、もう、止まらないのです。剣をさやに収めなければなりません。考えてみて下さい。もしあのときペトロがイエスさまによって、剣をさやに収めなさいとしかりつけられなかったとしたら、ペトロはどうなっていたでしょうか。訓練された兵士によってただちに首を刎ねられていたのではないでしょうか。主イエスは、実はあの場面でも、ご自身の救いのお働きを成し遂げることと同時に、弟子たちをしっかり守られたのであります。

さて、主イエスが敵を「友」とお呼びになられたことに戻りましょう。主イエスは、心の底からユダを敵だとは考えていらっしゃらないのであります。そもそも、主イエスは、私どもがしばしば陥っている、考え方、つまり、人を敵と味方にいつも品定めをする考え方こそ、不安は続き、剣を取り出すしかなくなるのだと、教えて下さっています。本当は人と人とは友として、共存して生きて行かなければならないし、そうすべきなのであります。友達になる以外に生きて行く道がないのです。私どもキリスト者は、まさに主イエスさまから繰り返し、「隣人となりなさい」と教えられているのであります。

私どもは、神を抜きにしてこの世界に平和を打ち建てることなどできません。これが聖書の決定的な教えです。ですから、私どもの担う政治的ディアコニアは徹底的に霊的な働きなのです。ただし、ここでも誤解してはなりません。霊的とは、現実的・リアルであるということです。なぜなら、神は現実だからであります。神以上の現実存在はないからであります。しかも、「剣を持つものは剣で滅びる」と言う言葉は、長い人類の歴史の事実、人類史の現実ではありませんか。剣をもって切りかかったら、その剣で切り返されるのです。主イエスさまのおっしゃるこれが真理であると歴史によって証明済みではないでしょうか。

そして、教会はこの真理に固着しなければ教会になれないのです。やられる前にやってしまうというあり方は、そもそも時代錯誤なのです。神は、主イエスを通して、神の国の平和を宣言されました。あなたがたに平和があるようにと、告げて下さいました。そのために事実、主イエスは十字架で死んでくださったのです。そしてご復活されたのです。この現実を知らなければなりません。そして信じなければなりません。そのとき、必ず神の平和が私どもの心に与えられ、確立するのであります。
そのために、今朝、今一度、神に心を探っていただきましょう。そのとき、はっきり見えて来るはずです。私どもは、あのユダのように主イエスに対して忠実な者ではなく、自分の欲望を優先して生きて来たのではないでしょうか。ところが主イエスは、そのような私ども一人ひとりに、真心から「友よ」友よ、と呼びかけて下さいました。ですから今朝、私どももまたイエスを主、そして私の友よと呼び返しましょう。そのとき、必ず神の平和が与えられ、そこにキリストの教会が確立するのであります。

祈祷
主イエスよ、あなたは、逮捕の手引きをし、その命をわずかのお金で売り飛ばしたユダに対して「友よ」と呼びかけられました。今、私どもにも変わらず、愛と真実をもって友よと呼びかけていて下さいます。そして、剣をさやに収めなさいと命じられます。剣で滅びてはならないからと警告し、滅びない道を約束し、保証して下さいます。どうぞ、私どもがこの一見、まったく愚かしいかのように見える態度にこそ、真理があることを弁えさせて下さい。アーメン。

6月26日

★☆ 学生ランチ・証し  ★
   先週は、伝道礼拝式と重ねて、学生ランチの拡大版として行われました。証し者として立てられたのは、〇〇兄。大学時代に洗礼を受けた兄弟も今や一児の父です。一瞬、彼と出会った大学時代の教室の風景を思い出しました。神さまは、まさに私をそこに遣わして、彼との出会いの機会を作り出して下さったのです。もう一つは、東京に送り出す最後の主日のお昼。〇〇長老ともいっしょに牧師館でお昼を食べたこと。もうこれで最後・・との思いがよぎりながらのランチでした。ところが、神のご計画はなんとすばらしいことでしょうか!

改めて、教会人として成長された姿に、本当に感謝しました。次世代を担い、託せる器です。25周年記念誌編纂委員会で長く委員として奉仕されたゆえに、単に歴史的に何があったのかという次元ではなく、教会を神学的に考察すること、つまり歴史神学的な思考が鍛えられつつあるのだと思わされました。ちなみに、それこそが、教会の奉仕者(とりわけ役員)に必須の力量であり、磨きつづけるべき課題です。彼が強調した信仰の「身体性」こそ、岩の上教会の教会形成の本質を射貫く言葉の一つであると思います。いつかまた、伝道的学生ランチで証しを伺いたいと思います。その時には、ぜひ録音し、皆さんにも聴いて頂きたいと思います。

★☆ 学生ランチ・証し◆ ★
 ある教会(教派)では、「証し」が主日礼拝式の中のプログラムとしてなされます。それほど、説教だけではなく信徒の証しを重要視する教会もあるわけです。ところが、私どもの教会では、そもそも牧師自身の救いの証しさえ、聴く機会が少ないと思います。先日、東部中会の機関紙「交わり」に教師入信記の依頼を受け、寄稿しました。お礼として「交わり」誌数部を頂きました。しかし、皆さまにお配りしていません。(もし、読みたいと思われる方は長老まで・・・)これは、良い面と悪い面があります。改革派の教師たちは、おそらく自分自身の入信の証しを語りたがらない傾向が強いと思います。わたしも同様です。ただし、私自身の今あるのは、まさにイエスさまとの出会いによるものです。この出会いの恵みこそが、わたしの人生のすべてなのです。イエスさまに救っていただいたこと、この恩寵体験、恵みの体験こそが、結局、わたしのすべてです。そして、全キリスト者の思いではないでしょうか。こんな罪人のためにイエスさまが、あのザアカイと出会って下さったように出会って下さり、救いが来たと宣言してくださり、アブラハムの子だよと保証してくださったのです。あの日からイエスさまはいつもわたしと共にいて下さいました。聖霊なる神は、わたしの心を宿とし続けて下さいました。なんという恵み!でしょうか。この一事を、決して忘れないこと!これは教派の別など無関係です。究極の幸いです。このような証しを、相互にしあうことは大切と思います。
  
★☆ 伝道礼拝式 ☆★
   先週の報告の最後に、「新来者が来られなくても、諦めたり、へこたれたりしないで、祈ろう」と呼びかけました。実は、自分じしんの気持ちに対して「喝」と「激」をいれるためのものでした。その意味で、皆様には、申し訳なく思っています。礼拝直前にお誘いしていた方はゼロになると確認して説教卓に登った足と心は重かったのです。「伝道に心を燃やす教会」の標語は、これしきのことで冷めるものだったら、すぐに取り下げるべきでしょう。あの日の主日も、役員方を中心に、本当に頭が下がる奉仕が捧げられたのでした。心燃やされます。しかし、疲れすぎも案じられます。

 ★☆ 改憲阻止動画上映会/「改憲、これだけは言いたい!!」 ☆★
  これを記している金曜日の夕べ。本日の動画はなお未完成。〇〇兄が頑張ってくれています。室員方もいろいろチェックしかつ注文も出して(わたしなどは、BGM変更まで)・・・。実は説教もなお未完成…。どのような第四主日を迎えることになるのでしょうか・・・。ふぅ。

6月19日

★☆ 横断幕は取り外したけれど ☆★
   昨年より設置していた牧師館のベランダの横断幕を取り外しました。当初、6月伝道月間のための時限的措置としてビニール製のものを設置しました。あれほど巨大な教会名を記した教会堂を見たことがありません。しかしそれは、ひとりの若い兄弟がこの町に何年も住んでいながら、教会がここにあることに気づかなかったとの声を聴いたからでした。おそらく、キリスト者であれば、たとい初めての町を車で走らせ、時に歩いたとしても、屋根の上に十字架をちらっと見るだけで、瞬間的に「教会!」と注目できると思います。しかし、関心のない方には、メイン道路から一本入ったところにある私どもには、気づかないのだと、改めて思わされたのでした。この横断幕そのものによる新来者はほぼゼロでした。しかし、コノミヤさんを利用する方は、「あの建物は教会なのだ」と気づいて下さったことと思います。小会はあらためて、検討します。以前、この欄に記した通り、私どもはとにかく教会は、誰でも来て欲しい、来て良い場所、来るべき場所であることを、この町に暮らすすべての人に周知徹底したいのです。

★☆ 教会の働きと福音伝道 ☆★
   教会の働きを自転車の図で皆さんと学んだことがあります。自分で申しますのも申し訳ないのですが、きわめて大切な要点が整理されています。
   教会員とは言わばイエス・キリストの教会の働き(奉仕)に召された者たちのことです。したがって教会とは何であるのか、教会と自分との関係とはいかなるものであるのかを知ることは必須です。

   教会は、[蘿劼垢襪海函平世旅颪療来、喜び、感謝し、神を礼拝し、楽しむこと。
同時に、すべての人をこの神の国に招くこと。主日礼拝式が生命的活動)
       伝道すること(神の国の到来、十字架復活のイエス、福音を言葉で告げること)
       J仕すること(神の国の到来、その行動で証言すること)
       ざ軌蕕垢襪海函平世旅颪療来、その意味、生活の筋道を学ぶこと)
   これらを貫くのは神の国をこの世界に証言することです。イエスさまを証しすることです。それらすべてが教会をこの地上に建て上げる働きです。ですから、キリスト者は、教会の形成に集中するのです。これらのどの一つを欠けても、いびつな教会になります。伝道に心を燃やす教会とは、△縫▲セントを置いているのは明らかです。しかし、それは全部を貫くキリスト証言の不可欠な、究極な働きです。伝道しない教会は、その存在理由を見失ったものです。

   先週も、スタンディングを行い、こどもおやつを行いました。私どもは、決して自己満足的な教会、キリスト者であってはならないのだということを確信しています。すべては救い主イエスさまへの感謝、愛であり、それはただちにイエスさまが愛しておられるすべての人への愛の業です。神と人への愛、二つで一つの愛に生きる教会と「なり続けて行く」こと。これが教会「形成」です。自転車は走っていなければ、倒れます。地上にある限り教会は、キリストから託された働き(務め)を担うのです。聖霊なる神がその力の源です。

 ★☆ 改憲阻止動画上映会/「改憲、これだけは言いたい!!」 ☆★
   ディアコニア室は、総力をあげて上記動画を作成中です。伝道とディアコニア(=社会奉仕)を両立するためにお祈り下さい。すべては神と人への燃える愛に促されてなされるものです。この国が再び侵略することもされることもないために。神さまの御心(お考え)が何であるかをはっきり告げるためです。どうぞ、伝道礼拝式にお誘い下さい。チラシがあります!

★☆ 説教聴聞中のマスク着用解除 ☆★
   先週から説教聴聞中のみマスクを外しても良いこととしましたが、多くの方がそのままのようでした。夏のマスク・・・、熱中症対策も大切。慣れもあるのでしょうか。

「親ガチャ ー死ぬまでに絶対に会わなければならない人とは−」

「親ガチャ ー死ぬまでに絶対に会わなければならない人とは−」
2022年6月19日 伝道説教
ルカによる福音書第19章1〜10節
【イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

  
  最近、知って驚かされた言葉の一つに「親ガチャ」というものがあります。わたしも詳しいことは知らないのですが、ガチャというゲームがあって、それは、自分では選べない、つまり抽選によって成り立つものらしいのです。そこから自分の親は自分で選べないという事から、「何故、こんな親から生まれて来てしまったんだ」という絶望感を表明する言葉のようです。確かに、私どもは、自分にとって決定的に重要な影響を与える現実、親はもとより、生まれて来る時代や国、女であるか男であるか自分の根本の属性についてさえもまったく自己決定権、選択権がありません。その意味では、「親ガチャ」という言葉は哲学的とも言える深い言葉かもしれません。

「人生は出会いで決まる」と、ほとんど言い切っても間違いではないように思われます。そこで今朝、おひとりお一人に問いたいことが一つだけあります。「あなたは、死ぬまでの間に、誰と出会いたいですか。」そして知って欲しいことはただ一つであります。確かに、私どもは、誰から生まれて来るのかは選べません。しかし、誰に出会うのかは選べます。そして、あなたに出会いたいと願っておられる方がいらっしゃるのであります。あなたには、出会うべき大切な人がいるのです・・。今朝、そのお方と一人の男の出会いの物語を学んで、神を礼拝してまいりましょう。

ここに、ザアカイという男性が登場します。この人は、税金を取り立てる仕事をしていました。しかもそのトップです。人もうらやむ大金持ちなのです。一方で、世の中上手くいかないもので、この職業に就く人はユダヤ人社会の中で犯罪者のように考えられていました。なぜなら、こともあろうに自分たちを占領しているローマ帝国ための税金を徴収し、はてはその権力を笠にして堂々と不正をして蓄財していたからです。

ザアカイはユダヤ人です。彼の名前の意味は清いです。つまり、宗教的な意味が強く込められた名前なのです。親の方がいわば「子ガチャ」と言いたくなるかもしれません。
それなら、いったいザアカイの人生に何があったのでしょうか。分かりません。想像すると興味深いです。もしかすると小さな頃、貧乏に苦しんだのかもしれません。あるいは宗教や宗教家に心底、偽善を感じていたのかもしれません。「なんだかんだ言っても、結局、目に見えない世界なんてないのだ、世の中は、今この時だけ、自分だけが大事なのだ、要するに、世の中お金がすべてだ」こうして開き直って生き始めたのだろうと思います。

さて、主イエスは、ザアカイが暮らすエリコという町に、伝道旅行に出かけられました。イエスさまは、既にユダヤの国で誰一人知らない人がいないほど有名になっていました。何と言っても、いくつも奇跡を行っていたからです。しかも人を生き返らせたという評判もありました。第二に、その教えや人柄そのもののすばらしさです。当時の宗教、つまりユダヤ教の教えや宗教の専門家たちとあまりに違う教えや行いをしておられたからです。こうして、これまでの宗教家とはまったく違った人であるという評判は定まっていました。

さて、今をときめく有名人、宗教家が自分の町に来ることを知ったザアカイは、半分は興味本位で、しかしもう半分は騙されないぞと思いもあったかもしれません。こうして、群衆の中に割り込んで、イエスさまに近づこうとします。ところが何ということでしょう。ここぞとばかりにやり返されたのです。意地悪され続けた人々のせめてもの、反撃です。がっちり見えないようにブロックされてしまったのです。彼は、この時ほど、背が低いことを悔しく思ったことはなかったかもしれません。こうして、大の大人のザアカイは、先回りをしてイエスさまが通る道沿いにあったイチジク桑の木に登ります。こうして、イエスを見下ろしたのです。

さて、主イエスはその場所に来ました。すると、イエスさまは、立ち止まって木の上のザアカイを見上げたのです。ザアカイにしてみれば、通り過ぎるものとばかり思っています。見上げるイエスさまの眼差しと見下ろすザアカイの目と目が会います。ザアカイはドキッとしたでしょう。この有名な宗教家イエスが、自分を見つめている。いったい何を言われるのか。心配したでしょう。確かにイエスさまも全国区の有名人ですが、ザアカイもまたエリコの町の有名人です。「何か、お説教でもするつもりなのか。」おそらく冷や汗をかきながら構えたはずです。ところが主イエスはおっしゃいます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」「この人は、わざわざ俺の家に泊まるつもりで、わざわざこの町に来たと言うのか。俺の仕事もその中身も全部知っていて、そんなことを言うのか。」一瞬、パニックになったと思います。しかし、冷静になって考えます。「この人は、俺をからかっているわけではない。あいつらの掟では、徴税人の俺の家に泊まるなんていうことは絶対に禁じられているはずだ。」その通りなのです。そもそもユダヤ人であれば、罪人と仲良くするなんてありえないことです。いわんや宗教家たるもの、罪人と食事を共にするような場所に立ち会うなど、絶対避けなければならない宗教上のタブーだったのです。律法というその掟に記されたものだからです。万一、そのようなことがなされれば、彼の宗教家としての地位、社会的信用を自ら損なうことになるからです。

ですから、聖書はこのように言います。「これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」その場に居合わせた人全員が、一瞬でがっかりしました。そればかりか、批判したのです。文句を言ったのです。好感度抜群のイエスさまは一瞬で軽蔑されてしまったのです。「よりによってあんなにっくきザアカイの家に泊まりたいだなんて、もう、失望した、騙された」怒りが人々の心を支配したのです。これまでのイエスさまへの期待や尊敬は吹き飛んでしまいました。今や「あの人」呼ばわりです。まるでイエスさまを、ザアカイの仲間のひとりのように呼んだのです。

それなら、ザアカイはどうしたでしょうか。「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」彼は耳を疑ったでしょうが、同時に、言われるままに急いで降りて来て、自分の豪邸に大喜びでイエスさまと弟子たちを迎え入れたのです。いったいどんな食事会が開かれたのでしょうか。どのようなものを食べまた飲んだのでしょうか。それは、弟子たちが見た事のないような豪華なものだったかと思います。天井を見ても壁を見ても床を見ても、飾られている家具、そして調度品、そのすべてが贅を尽くしたものです。圧倒されたと思います。

さてしかし、そのような本質的ではない興味は、横におきましょう。大切なのは、いったいそこでどんな会話がなされたのかだろうと思います。何より、そこで主イエスがザアカイにどんな説教をなさったのかであります。ところが、なんとルカによる福音書は何一つも書いていないのです。そこで考えてみました。神の御言葉を説教することが務めである人間つまり牧師であるわたしなら、そこでザアカイにどのような説教をするでしょうか。あるいは、どのような説教をすべきでしょうか。ところが、主イエスは何も説教をなさっていないのです。少なくともルカによる福音書には何も記されていません。実に、それが大切なのです。

実は、第一章から第17章まで読み進めて行くとき、はっきりわかることがあります。主イエスは、すさまじいまでに当時の宗教指導者たちと彼らを中心とする熱心な信仰者集団、つまり律法学者とファリサイ派に対して批判、攻撃がなされています。彼らもまた、既にイエスさまを殺そう、殺さなければならないというほどの敵意と憎しみに燃え上がっていました。彼らは、神の御言葉を教える人です。しかし、その教えがちっとも聖書に即していないのです。つまり、神さまの真理から離れているのです。ですから、主イエスは徹底的に闘いを挑む以外になかったのです。それは、まさに激突です。
ところがここで主イエスは、一切、説教しません。しかし、その行いこそが雄弁に語っているのではないでしょうか。つまり、ザアカイの友達になる、罪人の仲間になるという行動です。その意味するところは、何でしょうか。それは、ザアカイと彼の罪の連帯責任者になるということです。連帯保証人になるということです。当時の社会において、主人として客人を迎え入れるということは、そのような契約を結ぶという意味を公表することなのです。それは、有名人が旅の途中で誰かのお宅に泊まるというようなテレビの企画とはまったく意味あいが違うのです。

さて、ザアカイもまたひとりのユダヤ人です。今朝、唱えて十戒は子どものときからそらんじることができる人です。同時に、はっきりとそのような生き方を否定した人です。だから、徴税人になったのです。不正を繰り返して、蓄財したのです。血も涙もない、そのようなひどい税金の取り立ても重ねたはずです。だから徴税人の長にまで上り詰めた人です。ところが、そのザアカイが突然、立ち上がります。決然とした顔つきで、このように宣言したのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」彼は、悟りました。この人は本物の宗教家だ、この人は本当に神を信じ、神から遣わされた特別な人だ。そのとき、彼の心に神を畏れる思いが突如、与えられたということであります。そしてその瞬間、これまでの不正を認め、具体的に償いたいという思いが与えられたのです。すべてが、神から与えられた思いなのです。心が変化させられたのです。

イエスさまは、神を信じなさいとも、これまでの生き方を方向転換しなさいとも、おっしゃいませんでした。少なくとも聖書に書いていません。しかし、その行いが説教だったのです。
さて、このすばらしい出来事、ザアカイの変化、変容をご覧になって、主イエスは喜びに溢れ、笑顔がこぼれるように宣言されました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」主イエスは、ザアカイが救われたことをはっきり宣言されました。救いとは何でしょうか。それは、罪が赦され、帳消しにされて、神さまとの正しい関係性に入ることです。これを神の子とされると言います。主イエスは、ここでユダヤ人の心の琴線に触れる表現でなさいました。それが「アブラハムの子」です。アブラハムの子孫ということです。アブラハムとは、神さまから祝福された人です。神とのこの上なくよい関係を与えられた人です。アブラハムの子孫であるということ、それがユダヤ人であり、ユダヤ人の誇りなのです。これまでザアカイは、すべての人から、「お前などはユダヤ人の風上にも置けない、罪人の中の罪人、殺人者のような犯罪者だ」と決めつけられていたのです。ところが主イエスは、今日、救いがこの家に訪れたと宣言されます。とても不思議な表現です。訪れると言う言い方は、人間のことです。普通なら「ザアカイは救われた」という言い方になるだろうと思います。しかし、イエスさまははっきり宣言なさるのです。救いとは何かです。救いとは他ならないイエスさまが共にいる言う事、それ以上でもそれ以下でもないのです。主イエスさまが、一緒にいて下さること、これが救いなのです。人間が救われるということは、救い主イエス・キリストが隣にいてくださるということなのであります。

救いとはそれほどまでに単純なことなのであります。実に、主イエスとザアカイとの人間関係が始まったのは、たった一日あるかないかです。しかし、救いには、時間の長さは本質ではありません。ザアカイは、救い主イエスさまと関り始めたこと、そして、信じたこと、これが本質なのであります。丁寧に言いましょう。ザアカイは、信じ始めたのであります。ザアカイは、イエスさまのことをもっともっと知るべきです。しかし、救われるためであればそうではありません。こんな自分を愛し、友達になり、連帯責任者となってくださるそのありがたさに感激したこと、そしてそれを行動に表わしたくなるまでに感謝したこと。それで十分なのです。イエスさまは、ザアカイにいつ救いが訪れたと宣言されたのでしょうか。財産の半分を貧しい人々に施し、だまし取った者の四倍にして返済するまで待たれたのでしょうか。違います。その心が激しく動いた、ただそれだけで、もう、「ザアカイ、あなたは救われたのだよ。神の子どもとされているよ、本当に嬉しいよ」と喜んで宣言されたのであります。

そして、最後にこう結ばれます。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」「人の子」とは、人間となられた神の御子イエスさまのことです。このイエスが人間となって、この世界に生まれて来てくださった目的が、ご自身の口からはっきりと語られます。「失われたもの」とは、神との関係を失ってしまった者ということです。本来、神の子どもなのに、その関係を自ら捨て、破ったのがザアカイです。しかし、主イエスは、このザアカイを救うために天から降りて来られた救い主なのであります。

主イエスは、私たちを今なお探しておられます。私たちに出会うために捜しておられます。どうぞ、あなたもこの方に出会って下さい。まさに生まれて来たからには、絶対に出会わなければならないのは、このイエスさまに他なりません。
ザアカイは、まだまだこのとき、イエスさまご自身とその愛をほんのわずかしか知っていません。ルカによる福音書は、その最後にザアカイの友となられたイエスさまが、その友の身代わりになって十字架で死なれることを告げます。それは、ひとえに、ザアカイが犯した数えきれないほどの罪、そして何より神を信じなかったその罪のすべての責任を、彼に負わせないために、ご自分が負うためです。主イエスは、十字架の上で彼が受けるすべての神からの刑罰を受けてくださったのであります。
そしてそれは、ひとりザアカイのためだけではありません。ここに招かれたおひとりお一人のためであります。主イエスは、神から失われた私たちひとり一人を、もう一度、神さまに繋げて下さるために十字架で死んで、三日目にご復活なさったのです。このようにして、私たちにとって真の神とは、まことの親であること、私たちにはこの神が父でいらっしゃることをいのちをかけて教えて下さいました。こうして事実、私どもを神の子としてくださったのであります。イエスさまは、私たちのために言わば親ガチャを実現して下さったのであります。どうぞ、一日もはやく、このイエスさまに出会って下さい。そうして神を、天のお父さまと呼べるようにしていただいて下さい。

祈祷
主イエス・キリストの父なる神、それゆえに私どもの天のお父さま、あなたこそが私どもの真の親でいらっしゃいます。その親心を無視して生きて来たこれまでの日々をお赦し下さい。どうぞ、これからあなたと共に歩ませて下さい。
目次
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※2019年4月より

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