名古屋岩の上教会

わたしはこの岩の上に私の教会を建てます。 -マタイによる福音書第16章18節-

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教会と奉仕者

「教会と奉仕者」
2016年9月18日
聖書朗読 使徒言行録第18章18−23節  (p249)
【パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。カイサリアに到着して、教会に挨拶をするためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。】


 今朝与えられた箇所は、パウロのいわゆる第二次伝道旅行が終わり、新しい伝道旅行へと出発するその繋ぎの役割をなす報告が記されています。その意味では、一度読めば、「はい了解しました。次に進みましょう」というように読み飛ばされる可能性が高いと思います。しかし、私どもはみ言葉に導かれる民です。ここからしか聞き取れない神の真理を聴きたいと願います。今朝もし、皆さままがこのテキストからわたしを神さまに喜ばれる教会員、奉仕者とならせ下さいと、積極的に、前のめりになって聴いてくださらないとここから恵みを味わうことはとても難しいだろうと思います。

何故、コリントに長く滞在したのか
   パウロはコリントの町で異例の長きにわたって伝道を続けました。最低、1年6カ月、定住して人々に神の言葉を教えたのだと11節で学びました。そして本日の18節にはこう報告されています。「パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。」なおしばらくということですから、よほどこの大都市伝道に手ごたえを感じたのだと思います。ただし、これは、あまり想像をたくましくしてもいけないと思いますが、コリントの町にこれほどまで長く滞在したのにはやはりそれ相応の理由があったのだろうと思います。おそらくその一つには、この大都市は性的な倫理が極端に乱れていたからだと思います。多くのコリントの人々は、神なく望みなく過ごしていました。人間本来の生きる道を見失っていました。今だけ、ここだけ、自分だけ良ければよいという空しい思いに縛り付けられて生きていたと思います。パウロは、そのような人々にこそ、いのちの福音を知らせたいと思ったのではないでしょうか。
これと関連しますが、もう一つの理由を考えることも出来ると思います。そもそも伝道とは、主の教会を形成、建てあげるためになされる働きです。伝道されるコリントの人々は、今だけ、ここだけ、自分だけという経済的な繁栄、欲望の充足だけが人生の目標であり価値であると考えるような人々です。しかしまさにそのような人々が主イエスさまを信じ、洗礼を受け、教会員になるわけです。私どもは、この教会の内情を、他のどの教会よりもよく知っています。新約のコリントの信徒への手紙気鉢兇鯑匹爐函△いに問題の多い教会だったのかということが分かります。分派が起こっています。教会員どうし経済的な問題で裁判で戦っていました。第七戒を公然と破ってしかも、恥じないキリスト者も現れていました。パウロにとってどれほど苦しい日々を強いられたかと思います。

 確かにユダヤ人伝道は命がけでした。しかし、いったん彼らがイエスさまをキリストであると信じたなら、彼らには既に聖書の豊かな、深い知識があるわけです。基本的な福音の教理を教えれば、後は、どんどん、自分で聖書を読んで成長して行けるわけです。これは、次に登場する伝道者アポロを例にあげればただちに分かります。いっぽうで、コリント教会の会員のほとんどは、聖書も真の神もまったく知らない世界に生きて来た人たちです。まさに、手取り足取り教えてあげる必要があったはずです。例えば、十戒の一つ一つを丁寧に、一から教えなければならなかったはずです。「安息日を守りなさい。礼拝生活をあなたの人生の基本中の基本として確立しなさい。この具体的な掟が崩れたら、十戒に生きる救われた私たちの生活は、長く続かずやがて崩れてしまうのだ」そのように語ったはずです。結論です。だから、最低、一年半という期間がどうしても必要になったのだと、わたしは思います。

 昨年の降誕祭で洗礼を受けた兄弟は、この一年間、主日と祈祷会を休まない、それだけを自分に課していると仰います。そしてまさにそれを継続しておられます。信仰生活の基本姿勢を整える、土台を据えるためにそのような努力や決心、志がどうしてもこの日本では必要なのではないでしょうか。

さてしかし、どれほどこの教会を愛し、まだまだ未成熟の弱さを知っていますが、彼は、そこを立って出発します。それは、使徒パウロの特別の務めだからです。彼は、留まっていてはならない器なのです。パウロは、信仰深い信徒夫妻の「プリスキラとアキラも同行し」て、はるか自分たちを派遣してくれたアンティオキアの教会を目ざして旅を続けるわけです。

感謝のしるしをささげる
   次に、この小さなエピソードから学びましょう。「パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。」髪を切ったというのは、散髪したということではありません。剃髪です。剃ってしまったのです。丸坊主になりました。これは、当たり前のことなのですが、この行為のなかにあらためてパウロは生粋のユダヤ人なのだなということを思わされます。彼は、フィリピの信徒への手紙で、「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です」といって、生粋のユダヤ人であることを自慢げに言いました。彼はユダヤ人であることを誇りとしています。しかし同時にフィリピの教会員に、イエスさまを知って救われてからは、この有利な特権をむしろ損失と見なしていること、ちり芥のように考えているのだと言いました。これが彼の証しです。ただし、今朝、明らかになっているように実際の彼は、まさにユダヤ人らしい生活ぶりをやめていないのです。

 さて、この小さなエピソードは、今日の私どもにとって実はとても重要です。ここは、わたし自身丁寧に語り、皆さまも真剣に聴かなければなりません。70年程前の日本の教会のことです。日本のほとんどすべての教会は、日本基督教団へと合同させられて行きました。この教団は、信徒の生活の綱領としてこのような意味のことを歌っていました。「皇国の道にしたがって信仰に徹し、信徒はその職分を通して、皇運を盛んにして天皇の国に奉仕しなければならない。」驚くべきことに聖書の教えに従って信仰に徹しとは書いていません。明治政府がつくった国家神道、天皇教に従ってキリスト教信仰に徹しなさい」というのです。今の私どもから言えば、異端でしょう。おかしいと判定できるはずです。しかし、当時はそれがまかり通っていました。今日も一部ではありますが、「パウロだって、ユダヤ人であることを誇りとして、その生活や慣習の上にキリスト者として生きているのだから、自分は日本人として日本人らしい考えや伝統にたった上でキリスト者として生きるのだ」とわけの分からないことを主張されます。
 
 そもそも、主イエスの福音は、ヘブライ人、つまりユダヤ人に約束された救いです。救いはユダヤ人から来る、これこそ、旧約の予告、約束です。ですから、ユダヤ人は、それまでの信仰を捨ててまったく新しい信仰に入るというわけではないのです。この点が、異邦人キリスト者との決定的な差です。日本人だってアメリカ人だってドイツ人だって、自分たちの民族の歴史や伝統の上にキリスト教をつくっても良いのだなどと言うのは、まったくのまやかしなのです。

 それならルカは、なんの目的で、この誓願や剃髪のエピソードをここに加えたのでしょうか。むしろ、このようなエピソードは、今申し上げたような歴史に禍根を残してしまうほど、解釈次第で大変なことになるのですから、必要ないようにすら思うかもしれません。しかし、事実、記されています。そうであれば、ここから積極的な学びを致しましょう。これは、小さなエピソードですが、信仰生活にとって大切な姿勢が示されているのです。皆さんは、日々、お祈りをしながら生きておられると思います。祈りは、信じる私どもにとってまさに呼吸です。私どもは、「天のお父さま、イエスさま」とお呼びすることによって具体的な暮らしをつくっています。ただし、私どもは普段、意識的に呼吸をしていないように、天のお父さまの守りは当たり前のように思い、天のお父さまとお呼びするのも、仰々しくするわけではないと思います。ただし、私どもは時に深呼吸することがあります。それと少し似たところがあるように思うのですが、私どもの祈りの生活のなかにも言わば深呼吸するようなときがあるように思います。祈祷課題を祈るときです。「神さまどうぞ、癒して下さい。教会に戻して下さい。信仰に導いて下さい。あのことこのことを祝福して下さい。」そして、私どもは、なんども執り成しの祈り叶えて頂いてまいりました。祈祷会における教会的な体験です。さて、そこで考えてみたいことがあります。私どもの願いを主がその通りにお応え下さったとき、皆さんは、何か具体的な行動を起こされるでしょうか。
 
 いったいパウロは、ここでどんな誓願、願いを捧げていたのでしょうか。記されていませんので、確かなことは言えません。しかし、多くの方がこのような想像をします。パウロは、コリントに来る前まで命の危険にさらされていました。そんな彼に主イエスは、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私があなたとともにいる。だからあなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」と励まし、約束してくださいました。そして今、パウロはコリントの町を去って、ケンクレアイの町に着きました。しみじみ振り返ったのです。「ああ、主イエスのあのみ言葉は真実で間違いありませんでした。わたしは、無事、生き延びています。そればかりか、コリントの町には大きな教会が形成されています。ああ、父なる神さま、本当にあなたのみ言葉の真実、あなたの確かさを覚えて感謝致します。賛美します。」こうして、神への感謝をあらわすために丸坊主にしたわけです。心で感謝して数ませたのではなく、具体的に表現してみせたわけです。ある人は、こう祈りました。病院の待ち合い室で、「神さま、わたしの病気が悪性でなければ、死の恐怖に縛られているこの人たちのために献身します。」そして、それが悪性のものでないことが分かって、後に、実際に伝道者、伝道者夫人になられました。もし、「ああ、助かった。良かった」で済ませていたら、どんな人生になっていたのでしょうか。

 イエスさまは、重い皮膚病を癒された10人の人のお話しをされました。彼らは、イエスさまに行きあって、癒して下さいと願い出ました。イエスさまは全員を癒されました。ところが、ただ一人しかイエスさまにお礼を言いに来た人がいませんでした。しかも、それは異邦人、サマリア人だったという物語です。
 私どもは、主の恵みを受けて暮らしています。多くの教団では、献金袋が独自につくられています。日本キリスト改革派教会は、各個教会が独自につくっているはずです。おそらくどの封筒にも感謝献金という項目があると思います。感謝献金の心とは、パウロが髪の毛を剃ったというあの行為に近いのではないでしょうか。神の恵みをきちんと記念したいと思う心です。大学生のときのことです。ある集会で、約束献金をしてくださいと訴えられました。大学生で財布にお金は入っていません。入っていない人には、家に帰ってから献金して下さいというわけです。用紙が配られました。書きこみました。正直に申しますと、しばらく忘れていました。するとなんと、その集会の主宰者から、督促の御便りが来たのです。わたしはどうしたでしょうか。捧げました。同時に反省しました。神様への約束を簡単に忘れたり、守らないことは、このように神の前に厳粛なのだと示されました。

神の御心にもとづく確信、開かれた(やわらかな)確信
    次に進みます。エフェソでのいつものユダヤ教の会堂でのエピソードです。その伝道は言わば成功しました。会衆は反発するどころかもっと聴きたいと思って、パウロにもうしばらく滞在してほしいと願い出たほどです。場合によっては逮捕され殺されかねないリスクがあるのです。それが、正反対の結果になりました。もう、嬉しすぎる応答のはずです。ところが、「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って、断ってしまいました。いったい何故でしょうか。これも、記されていませんので分かりません。しかし、類推できます。彼は自分の都合を優先していないということです。自分の都合であれば、エフェソのユダヤ人はなんて理解があるのだろう、ここは今しばらく、滞在しよう、いや、滞在したいと、そう考えるのが普通だと思います。

 しかし、彼は、いつものように祈りました。すると、いつものように、語り切ったなら次の場所へ移動しなければならない、そのような思いが心を満たしたのだと思います。キリスト者は、御心に抗って進もうとするとき、心が乱れます。心に平安がなくなります。そのとき、「ああ、これは、神様の御心ではないのだ」と分かります。心の平和は、御心を尊きの一つのリトマス試験紙となるのです。

 献金感謝の祈りの前に、ローマの信徒への手紙第11章38節と2章1節を読みます。時間に余裕があるなと思うときには、2節まで読むようにしています。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かっていると私どもは信じています。それゆえに、他でもない私自身こそこの全存在を自覚的に神に向かわせなければなりません。この自覚的ということが信仰なのです。自らの意思で、志をもって人生の目標を神さまに向けるのです。それを神礼拝と申します。この主日礼拝式はその要です。そして礼拝式の説教を通して、私どもは日々の生活のなかでどのような者、信仰者となるべきか、生きるべきかが示されます。2節の後半はその真理を示しております。「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」つまりは、説教を聴いて、神の御心を悟れるようになりたいのです。ただし、時に簡単で時に難しいと思います。つまり、どちらを選んでも悪い事ではない場合も少なくないからです。その時、もとよりひとりで祈ることは大切ですが、特に大切なのは、教会員の声、意見を聴くことです。牧師や長老の意見を聴くことが大切です。
この点は、少しだけ掘り下げておきます。パウロはここで、パウロは、旅を急ぐことの方が大切であると判断したのです。つまり、御心と判断したのです。そして、御心は、常に、わたしの判断が問われます。危険な信仰者は、何でもみこころ、御心と言って、責任ある生き方を回避します。すべてを神のせいにするというと、言い過ぎでしょうか。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙で「御心をちゃんと判断できるような大人の信仰者になれ、わきまえられる人になれ。そしてその責任を自分で取る人になれ。そのために、自分を捧げなさい。礼拝に徹しなさいと、最も大切なことを勧めたのです。「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って、自分の決定を神の御心と判断します。しかし、ここが極めて大切です。教会は事柄を決めるとき、会議を用います。キリスト者の会議で大切なことは、わたしは神の御心をこう考えますと御心を優先することです。しかし、それは、どこまでも自分の意見を述べている事実があります。しかし、共に生きる仲間が、自分はそう考えないと主張する場合も出てまいります。お互いが御心を信じているわけです。しかし、冷静にならなければなりません。その人の御心という判断は、その人の責任のなかで、そう決断した、判断したということなのです。ですから、それは、基本的には、修正されることへと、開かれているものなのです。

教会と奉仕者・教会のディアコニア 
  今日の最後の学びに進みます。彼の伝道旅行は、アンティオキアから出発しました。そして今、派遣してくれた母教会であるアンティオキアに戻るのです。さらに、当時の全教会の母教会に等しいエルサレム教会にも行くのです。
 
 ここでそもそも伝道とは何かを考えましょう。いったい誰がパウロを使徒とし、伝道へと派遣されたのでしょうか。第一に、当然のことですが神ご自身です。復活の主イエスです。しかし、現実に彼を送り出し、助けたのは、特にアンティオキア教会であり、周囲のキリスト者たちでした。しかも、彼の伝道の目的はキリストの教会を建てることでした。つまり彼は、教会のための奉仕者なのです。神のための奉仕者とは、それゆえに、教会のための奉仕者なのです。ここが、不明だと、キリスト教は単なる宗教運動、個人的な宗教活動に転落します。すべては神のため。それゆえに、すべてはキリストの教会のために。これが、今、地上のキリスト者のふさわしい姿勢です。ですから、彼の活動は、報告の義務があります。

 小会では、必ず、職制権能報告と言って、要するに、「あなたはひとりの長老としてどのような奉仕を捧げましたか」ということを互いに報告しあうのです。これは義務です。教会奉仕には、ひとりよがりの奉仕はあり得ないからです。これは、長老や執事だけに通じるのではなく、全員に通じる真理です。「わたしの奉仕は、神さまだけがご存じだから、別に報告しなくてもよい。」これは、信仰深いように聞こえますが、聖書的とは言い難いのです。神は、キリスト者を単独の奉仕者となることを望んでおられません。キリスト者は教会員であって、そのすべては教会の働きに寄与する、教会のためになる、教会を建てあげることに繋がる、それが教会の奉仕、教会のディアコニアなのです。

 今週、三名がフクシマに行かれます。私どもの教会は、教会のディアコニアとしてこのフクシマ支援の働きを支援することを決議しています。したがって、報告する義務とこれをきちんと聴く義務がお互いに生じるのです。
よく知られていることですが、宣教師は、必ず、送り出した教会に支援の感謝と活動報告をします。もとより、宣教師にとってはそこで祈られ、献金を受けるためにも必要です。しかしそれにもまさって報告を聴くキリスト者、教会は豊かな益を受けます。主の偉大な宣教の御業を知り、視野を広げられ、いよいよ伝道と献金に励むことができるからです。

 使徒パウロは今、直接的な派遣教会のアンティオキアと、諸教会の母のようなエルサレム教会に戻ります。そこで、報告し、祈られ、また支援を受けるためです。このようにして、パウロたちの小さなチームは教会の奉仕者として、神の国の建設、教会建設に用いられるのです。

祈祷
天の父よ。小さな小さな物語から、信仰の深い真理を学びました。私どももまたコリントの人々と同じように異邦人です。み言葉の知識を身に着ける努力を怠ることはできません。異邦人のキリスト者である私どもは、徹底的に聖書の上に、この岩の上に立つ以外にありません。この世の考え、今、政府が押し付けてくる日本の伝統という偽りを、み言葉によって見抜き、抵抗させて下さい。そのために、御心を悟ることのできる知恵を絶えざる祈りを見につけさせてください。すべての奉仕が、あなたの教会を建てあげ、御国を前進させるものとなるための教会のディアコニアとして捧げさせてください。

9月18日


☆  先週は、8月を挟んで二か月ぶりのスタンディングを行いました。教会からは11名。地域の皆さまは同じく11名とのこと。当日は、姉妹会もあり、まさにできる方(有志)で行う方式そのものとなりました。確かに平和安全法制つまり戦争法は施行され、戦争できる国に変えられてしまいました。敗戦後の日本が誇りうる歴史を冒涜するものと言えるでしょう。たった一内閣、安倍政権の企てで、日本の歴史は再び傷つけられてしまいました。しかし、憲法違反の法律に従うことはできません。憲法じしんが憲法違反の法令を無効としているのです。教会は、深い悔い改めをもって、この暴政に抵抗します。見える行動によって地域社会の空気をつくり、変化させて行きたいと思います。通り過ぎる運転手や同乗者は、「ああ、まだあきらめていない人たちがいるのだ。」「なになに、キリスト教会・・・?危なくないか・・・?あれ、こっちは共産党関係か・・・。やっぱりあぶないか・・・。」「これまで見た事のないキリスト教の人たちまで、まだ戦争法反対って言うのは、やはり、あの法律はまずいのかな。やはり、安倍さんたちの政治は危険なのかな・・・。」「そうか、政府の過ちに対して、声を出して指摘し、反対すれば、法令を廃止させ、派兵を止めさせる可能性もあるのかもしれないな・・・。こんどの選挙こそ、考え直さないと・・・」政権運営に対して、ほとんど真剣に向き合わない多数派の人々のためにこそ、このスタンディングは有効ではないでしょうか。たとい有効にならずとも、これは私どもの信仰に基づく、ディアコニアなのです。

★  その後、姉妹会の「裏」で、学び会が粛々となされていました。袴田先生の中部中会での講演記録の再読です。学びなくして、ただしい実践に結びつきません。み言葉から離れて、主に喜ばれる結実はありません。ディアコニア室のこの姿勢に感謝しています。

☆   ひとりの高齢の姉妹が加入を求めて下さっています。初めての出席いらいお休みされていません。その姿勢を拝見するだけでも、これまでの教会生活の積み重ねが並々ならないことは、すぐ分かります。信仰の大先輩だと思います。しかも、私どもと同じ信仰の伝統に生きる教会員(役員)でいらっしゃることは、私どもにとっても大きな励まし、慰めです。手続きのすべてが祝福されますように。

★  礼拝式における献金感謝の祈りは、皆さん、緊張なさると思います。先週の兄弟の祈りを、許可を受け、抜粋して掲載致します。どこか、説教のようでもあるな、と。特に、信仰が「空虚」であると。何度も言及したことのある真理ですが、そのまま用いられていました。説教においても、信仰とは、「動かないイエスさま」を見つめることではない、つまり、自分の内側を覗きこむようなものとは無縁だと、学びました。信仰は、イエスさまを追いかけること、見続ける行為そのもので、つまり、自分の内に確固として保つものではないわけです。それが「空虚」の真意です。「超常現象」という表現にもハッとさせられました。言わんとするのは、自分の祈願をかなえてくれるだけの「カミ」を求める不信仰の心のことだと思いました・・・。

      【〜〜〜私達は常に自己中心的に物事を考え、都合よく振る舞い、自分こそ被害者だと考える者です。また物質的な欲求、超常現象を求め、罪と向き合うことから逃げてしまいます。しかし御言葉は伝えます!信仰とは、常につまずき、悔い改めの日々を送る事。空虚である。何もないのではなく素直な気持ちを持ち続け、御言葉を受け入れる事。自分に嘘をつかず、その心の闇を、包み隠さず神様に打ち明け、赦しを願い、この身をゆだねる事。私達は、救い主イエスキリストの事実、私たちの罪の贖いの為にお受けになった十字架の死と御苦しみを思い、私たちがキリストの中にあり、主も私たちの中におられる安心….。「恐れるな、語り続けよ、黙っているな、私があなたと共にいる」と。何時も私たちとキリストが一つである事を告白し、証し致します。〜〜〜】

☆  今週、三人の兄弟姉妹がフクシマに行かれます。今回は、主日午後からの出発ではないので、皆で送り出せません。フクシマの被災者支援の働きは、石川和宏ご夫妻が、基本的に私財を投じる形でのディアコニアとして始められています。何とか教会的支援体制をと願いつつも、今日に至っています。しかし、11年以来、継続して支援活動がなされていることは、まさに主の導きなしに考えられません。本日の説教でも触れますが、私どもの奉仕とは、「教会の」ディアコニアです。教会(決議に基づく)から派遣されるものです。カフェドフクシマは、教会的支援体制はありません。しかし、少なくとも私どもは、この働きを教会的に受けとめ、支援者を支援するディアコニアとして継続します。http://www.311fukushima.org/カフェドフクシマで検索してください。石川長老は、9月20日〜27日まで現地に滞在されます。

「主イエスの愛と私たちの勇気」

★★今回の説教は、講解説教ではありませんが、使徒言行録に触れていますのでアップいたします。お休みされた方、遠隔地の会員のためにも・・・。
★★説教後、ひとりの姉妹から、「先生、わたしは動かない十字架のイエスさまをずっと見ていただけなのですね。だから・・・。」と。私どもは徹底的に主の日の礼拝説教を正しく聴いて行けば、世界の中で隣人を探し続け、伝道し続ける主イエスさまの後を追いかけて行くものとされてしまいます。動かされてしまうわけです。つくづく、信仰の不思議な力を思わざるを得ません。小羊にどこまでもついて行くキリスト者と教会になりましょう。今、イエスさまがいらっしゃるところに・・・。私たちは、イエスさまの「おっかけ」であり、イエスさまの代理者ですね。(^^)/


「主イエスの愛と私たちの勇気」
 2016年8月28日

ヨハネの手紙一 第3章1節と使徒言行録第18章9−10節
・「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」

・「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」

今朝は、二か所のテキストから語ります。講解説教を軸にしながらの主題説教という、ほとんどしたことのない説教のスタイルとなります。

先ず、最初の聖句を読みましょう。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」すばらしいみ言葉です。まさに暗唱すべき聖句の一つだろうと思います。このみ言葉は、私たちキリスト者をしてその原点に常に立ち帰らせる方法を鮮やかに示すものです。何より、日々信仰生活を生き生きと保たせるための筋道をまっすぐに示すみ言葉です。
先週から朝の祈り会を再開しました。それに合わせ、朝夕の祈祷会で詩編を皆さんと深く味わいたいという思いが夏の間に湧き上がってきました。8月の夜の祈祷会は、ドイツ告白教会のナチスとの闘いによって生み出した信仰告白であるバルメン宣言を学びました。とても大切でよい学びであったと思います。同時に信仰の深い戦いも奉仕の力も神の恵みのみ言葉によってのみ、与えられることを信じていますので、詩編を学びたいと思ったわけです。

先程も、ジュネーブ詩編歌の第一節を歌いました。先週は、第一篇の前半を扱いました。そこで、第一篇の第一節が、これから詩編を読んで行く、味わって行くために決定的に重要なみ言葉なのですよと、申しました。聖書を読んで行く一つの確かな目的がここにあるのですよと、注意を促したのです。「いかに幸いなことか」です。「このわたし、イエスさまを信じて救われたこのわたしはなんと幸せな人間なんだろう」このことにこそ、聖書を読みながら人生の旅を重ねて行く私どもの健やかな歩みの秘訣がある、そう思います。

今、お読みした「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか」この御言葉もまた、同じ真理を教えているだろうと思います。私どもの幸いの頂点は、私どもの上に溢れるほど注がれている父なる神の愛を、いつも深く感じながら生きて行けることです。使徒パウロは、その方法、秘訣、筋道を示しました。それは他でもない、「御父が
どれほどわたしたちを愛してくださるか」を「考える」ことです。

教会が大切にしてきた伝統的な言葉に「黙想」があります。多くの教会では、ディボーションと言います。あるいは「静思の時」と言う言い方もあります。いずれにしろ、キリスト者の毎日の生活に欠かせない時間であり、行動です。黙想、ディボーションをするために、不可欠になるのは、み言葉です。み言葉を手掛かりにして、特に主イエス・キリストの十字架とご復活の御業に思いを巡らし集中するわけです。まさに神さまとの甘いひと時としか言いようのない、そのような体験を重ね、深めて行くところに、キリスト者の豊かさがあふれて行くだろうと思います。これを、皆で修練し、簡単に言えば練習することが大切です。魂のエクササイズです。

ここでヨハネが私たちに「考えなさい」と招いています。「神さまの愛を、よく考えてみなさい」と勧めるのです。こうして、「ああ、なんて神さまはわたしを憐れんでくださったのか。」「命をかけてまで救って下さったのか」と、自分に注がれた神さまの愛に深く、感動し、感謝を深めるわけです。その愛と感謝が湧くのです。

しかし、そこで同時に、そもそも考えるべきことがあると思います。愛されている私とは、どんな人間なのかということです。一言で言えば、罪人です。神さまの敵となってしまっている私たちです。私たちとは、神の怒り、神ののろいを受けるべき者なのだということです。ところが、天のお父さまは、神と仲たがいしている私たちを、な
んと、神の子どもと呼んでくださったのです。それほどまで愛してくださっているのです。父なる神は、私たちひとりひとりに向かって、「あなたはわたしの子、あなたはわたしの愛する子」と呼んでくださっています。父なる神は、そのような愛の思いを込めて、ひとり一人の名前を呼んでおられます。

ヨハネは「どれほどわたしたちを愛してくださるか」と言って、既に、もはや、「言葉ではあらわせないほど」というニュアンスが込められているだろうと思います。神の愛は、口先だけのものではありません。真の愛、神の愛はいつでも動詞です。愛は動くのです。愛するのです。そして、その父なる神の愛、私たちを神の子としてしまうほどの愛を見せて下さいました。

さて、ここで、ヨハネは愛の事実、愛の出来事を「考えなさい」と言っています。しかし私はこの新共同訳聖書の翻訳は、残念だと思っています。もとの言葉は、考えるではなく「見る」という動詞です。「御父がどれほどわたし
たちを愛してくださるか、よく視なさい。」何を見なければ、神さまの愛が分からないのでしょうか。逆に言えば、これを見れば、どれほどまでに神さまに愛されているのかが分かるというのでしょうか。それは、神の独り子、主イエスさまです。神の御子をよく見つめるとき、十字架のイエスさま、ご復活のイエスさま、天に挙げられ、父の右に座しておられるイエスさまを見つめるとき、私たちの信仰もまた生き生きとし、喜び、感謝、勇気、愛が注がれ、そしてふつふつと沸き起こってくるのです。

私たちは、天のお父さまから「見よ!」と呼びかけられているのです。何を見るのでしょうか。言うまでもありません。私の独り子を見よ、と命じられるのです。神の愛、私たちを救う愛は、御子を人とならせ、この地に遣わされる愛です。さらに、十字架につけて私たちの罪を贖わせるまでの愛です。イエスさまを墓の中から甦らせて、私たちにも同じ神のいのち、ご復活の命をそそぐほどの愛です。神の怒りを神の愛に変換し、神の呪いを神の祝福に替えてしまうために、御子イエス・キリストを十字架で、神の聖なる怒りと呪いとを御子に下された、それが神の愛です。私たちは、この愛によって神の友、神の仲間、神の味方として受け入れられたのです。

さて、今朝の短い時間ですから、一つだけ、この問題を掘り下げて考えてみたいと思います。それは、十字架と復活のイエスさまを視るという時、うっかりするとまるで絵画に描かれたイエスさまを見るかのように考えてしまうということです。出来事を絵にするとき、当然ながらそこで出来事は静止、停止しています。もとより優れた絵画には躍動感があるはずです。しかし、絵画を観る、鑑賞する人は、どうでしょうか。絵画鑑賞のためには、人は、その場所から動いてはなりません。今朝、考えてみたいのです。あなたは、み言葉を聴いて読んで、主イエスさまを黙想するとき、あなたの頭のなかでイエスさまは、ストップしていらっしゃるのでしょうか。ここが肝心要です。本来、イエスさまは言わば動画でしかとらえられない存在です。確かに昔のイエスさまは静止しておられるでしょう。過去のイエスさまだからです。しかし主イエスは今、生きて働いておられます。同じ一人のイエスさまです。ですから、本来のイエスさまは、動画でしか示せないお方です。ただし、そこでも限界があります。なぜなら、動画を観るときにもやはりスマホならその画面、テレビや映画のスクリーンでも、やはり観ている人は動かないのです。

ある神学者は、こんなことを言いました。神学の対象は生きておられる神さまだから、神学する人のあり方、つまりキリスト者の目、信仰者の眼差しは、飛ぶ鳥を見る目に似ているのだと言うのです。なるほど、もし人が、空を飛ぶ鳥から目を離さないようにしようと思ったら、見ている人は必ず動かなければならなくなるはずです。鳥を追いかけて、自分も動かされてしまうということです。もし、自分が立っているその場にやって来た鳥だけ見るとか、自分が見つめている方角、その視野の中に入ってくるときだけ見るということでは飛ぶ鳥を見つめることにはなりません。

皆さんに質問したいです。イエスさまは、今、どこで何をしておられるのでしょうか。教理的に言えば、天の父の右です。正解です。しかし、確かに教理的に正解ですが、そこで終わってしまうなら、適当な表現にならないかもしれませんが聖書的に言えばそれだけで不正解です。主イエスさまは、今、この地上で働いておられるからです。ご自身の聖霊によって働いておられます。特に、教会を通し、キリスト者を通して働いておられます。イエスさまは今も、もっとも小さな者と共にいてくださる、そのような神でいらっしゃいます。そうすると、私たちはただ聖書を読み、説教を聴くだけで終わることはできなくなるはずです。つまり、これもある神学者が言うように、新聞の上で聖書を読む生活が必要になります。地上で働いておられるイエスさまから目を話すと、私たちがどれほど神に愛されているのかも、よく分からなくなってしまうのです。不十分になるのです。かつて、犬を連れて湖に行ったことがあります。子犬は、ボートに乗るための橋げたに歩いて行ってしまった飼い主を見続けて、なんと、湖の中にじゃぶじゃぶと入り込んで、ついにまさに犬かきをしたのです。生まれて初めて、泳いだわけです。飼い主を見続け、追いかけて泳いでしまったのです。今朝は、ここまでです。後は、御一人お一人が生涯にわたって、この課題を掘り下げ、実践するのみです。

今朝与えられたもう一つの聖句を読みます。「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。」これは、実に、今朝の説教を入れれば、三回も扱ったテキストです。国家権力が自分たちの信仰の告白に抵触する法律や政策を実行しているとき、教会は権力に対して抵抗してよいし、むしろ、抵抗すべきであるという教えのことを信仰告白の事態と言います。私ども小会は、昨年夏、その時が既にこの国に来たと認識し、それに基づいて闘い、告白する教会の姿勢を改めて整える必要を自覚しました。そして何より、行動に移すことを決議し、今まさに実行しているわけです。

さて、みなさんにとって使徒パウロはどんなイメージを持っていますか。多くの場合、信仰者の鑑、模範でしょう。確かにその通りです。しかし、もしかするとさらに言スーパーヒーロー、スーパーマンのように思っている人もいるかもしれません。

使徒言行録の中で、パウロとシラスが迫害され、むち打ちの刑を受け、真っ暗闇の牢獄に放り込まれたときのことが記されています。何と、そんな人生のどん底で、彼らは、神に感謝と賛美を捧げていたのです。そして、神が特別の奇跡を起こし、大地震が起こって、牢屋から解放されたことがあります。そのような物語を読めば読むほど、なんだか、自分とは異次元の信仰者のように考えやすいかもしれません。確かに、使徒言行録を読むと、パウロはすごいなぁと思うことがしばしばあります。しかし、パウロはいつでもどこでも、なにものをも恐れず生きていたのでしょうか。それは、まったくの誤解です。彼の手紙の中での告白に基づけば、パウロは障がい者と言える人でした。

そもそもですが、弱さや欠け、問題を抱えていないような人間がいるのでしょうか。もし、私たちが使徒言行録に登場する伝道者たちを、自分たちとはもう異次元の信仰の器であって、自分たちとは比べられない、ヒーロー、スーパーマンのように考えて読むなら、おそらく、そこから深く学びとることは難しいだろうと思います。
コリントの信徒への手紙の第二の12章に、パウロの告白が記されています。そこで彼は、言います。自分には、神さまから、「思い上がることのないように」と、肉体に「一つのとげが与えられました。」棘という表現で想像を膨らませることができます。棘が刺さっていると、仕事に集中できませんね。棘を抜いてもらうまで、何も手に着かない、それほど棘がさされば体全体が悲鳴をあげます。棘のような痛み、棘のような病が彼の伝道者の生涯に付きまとっていたわけです。そこで、使徒パウロは、神さま、もう、十分で、もう思い上がりませんから、助けて下さい。この苦しみから解放してくださいと、「三度主に願」ったと言います。三度とは、文字通りでは、たったの三度かと思いますが、徹底的にという意味です。徹底的に、神に食らいつくようにして祈ったのです。「天のお父さま、こんなハンディがあったら、十分な伝道はできません。あなたのために伝道し、生きているのですから、この祈りは、自分勝手な祈りではないのです。あなたの御国が前進するため、御名の栄光のために、教会の前進のために、この痛みを取り除いて下さい。」そして遂に、主イエスが、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」とのみ言葉を聴いたのです。そして、パウロは、むしろ、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」また「わたしは弱いときにこそ強いからです。」と証ししたのです。パウロは、健康な人ではなく弱い人なのです。厳しいハンディを抱えていた人なのです。

そのような彼が、イエスさまを知らない人が99.999%もいる異邦人の世界の真ん中で、福音伝道者として召されているのです。わずか三人のチームで、世界を相手に福音を広めるなんて、まるで三匹のアリが象の群れに挑むような無謀な神さまのご計画に思えたかもしれません。時に、現実の壁にぶつかって、まさに心が萎え、折れてしまうこともあったのだろうと思います。

しかし、主イエスさまは、そんなパウロの心をご覧くださって語られました。それは、疲れ果てて、心細く沈み込む夜のしじまがおりているときです。主はその夜に、このように語られました。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。」

さらに、主イエスはこう仰いました。「わたしがあなたと共にいる。」これは、神の民にとって、まさに究極の安心安全を保障する決定的な言葉です。このみ言葉は旧約の中で、まさに何度も語られる神の救いの言葉です。出エジプト記の第3章で、モーセが神の召命を受けたときにも、決定的な救いの言葉として語られました。モーセは、底で神から、エジプトの奴隷とされている神の民、ユダヤ人を解放しなさいと命ぜられます。しかし、モーセは恐れました。確かに、昔の自分はエジプトの王子だった。しかし今は、ただの羊飼いで、すでに高齢者でしかない。そんな私が何ができるというのでしょうか。そう思いました。しかしまさにそこで、神はこうお答えになられたのです。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」パウロは、ここで神の民にとって言わば歴史的な神の語りを聴かせて頂いたのです。しかも、パウロの場合はさらに、驚くばかりに具体的になっているのです。「だから、あなたを襲って危害を加える者はない。」とまで言われます。確かに、パウロたちはこれまで神が共にいて下さいました。しかし、迫害を受け、危害を加えらました。つまり、迫害や苦しみを受けるのは、神が共にいてくださらないからではないのです。しかし、パウロもまた弱い人間の一人です。ですから神は、ここでは例外的と言っても良いほど具体的な励ましが語られました。「パウロ、あなたは、コリントの町で殺されることはないのだぞ、だからもうこの町で堂々と語ればよいのだ」父なる神のまさに親心があふれた、神の子、我が子への励ましです。

日本の教会は今まさに信仰を告白すべき事態に立ち至っています。イエスのみが主だと、告白して、抵抗し、闘うべきときです。ここでそれをしなければ、もう、戦前戦中の教会とほとんど同じになるはずです。しかし、私たちは弱い信仰者です。そうです。それは、私たち自身よくわきまえているはずです。いえ、もしかすると、本当の意味ではまだまだわきまえていないのかもしれません。すべての神へのよき奉仕は、自分の力では、何もできないと、認めるところから始まるとすら思います。ただしそこでもなお注意深く語らなければなりません。「自分を見つめて下さい、反省して下さい」ということとは違うのです。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」徹底して、主イエス・キリストを見ることです。仰ぎ見ることです。礼拝することです。そこで同時に愛を注がれている自分をも発見できるはずです。神の愛の中に包まれている自分を見ることもできるはずです。そして、そのためには、礼拝堂という言わば皆さんの教会の自分の座るべき席にちゃんと腰を据えて座らなければなりません。
しかし、そこで終わりません。終わらせてはなりません。イエスさまが路傍に立たれるなら、そこに共に立つべきでしょう。イエスさまが、被災地に立たれるならそこに共に立つべきでしょう。主イエスは、いつも弱く小さくされている人と共にいて下さると私たちは信じています。そうであれば、隣人となるべきでしょう。

主イエスは、パウロに語られました。そして、みなさんひとり一人にも語っておられます。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。」主イエスは、ルカは自分の福音書のなかでこう語っておられます。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」自分の小ささや弱さを考えたり、見つめて終わらせてはなりません。主イエス・キリストを仰ぎ見ましょう。同時に、今、地上で働いておられるイエスさまを追いかけて行きましょう。ついて行きましょう。見えなくならないように、ついて行きましょう。そのとき、主は皆さんに必ず宣言し、約束してくださいます。「そうそう、恐れるな。語りなさい。今は、黙っている場合ではないのだ。わたしがあなたと共にいるから大丈夫。わたしが責任を取る」

祈祷
天のお父さま、すぐに恐れる私たちです。ここは、黙っていた方が傷つかない、楽だと、何度、語るべきときに語り損ねて来たことでしょうか。自分の狡さや弱さを、御前に懺悔します。しかし、それでも私たちはここに招かれています。キリスト者として立たされています。どうぞ、きちんと自分の弱さを認め、その弱さのなかで、あなたに働いていただく信仰を新しくして下さい。誰かに期待するのではなく、自分に対する語りかけとして、このみ言葉を深く、聴き取らせて下さい。アーメン。





9月11日


☆  先週は、金曜日の午後から主日の午後まで、帰省していました。主日は、実家から徒歩10分未満の日本キリスト教団の教会に初めて出席させて頂きました。10名に満たない小さな群れ。ヒムプレーヤーを用いての礼拝式。様々なことを考えさせられました。月曜日からも一応、休暇だったのですが、いつもの日々を過ごしていました。大会的奉仕の懸案事項があり、鬱々として過ごしてしまったのは残念です。実は、月末の休暇の予定もまったくの未定・・・。何のための休暇か、となりますし、心身にもよくないので、まじめに遊ばなければ・・・です。このようにできるのも役員と皆さまのおかげです。心から感謝致します。

★  先日、東部中会の埼玉にある上福岡教会のひとりの執事の姉妹より、下記のようなメールを頂きました。ご本人のお許しを受け、お分かち致します。(祈祷会の奨励の担当において、先月の私どもの読書会のプリントを用いて下さったとの事。原稿はブログにアップしています。スペースの関係で抜粋です。)

【 昨日は無事、祈祷会の奉仕をつとめることができました。〜過去と現在の教会について考えることができました。戦前の教会学校に衝撃を受けた方、朝鮮の牧師の殉教を重く受け止めた方、現在の社会への懸念を語る方、短い時間でしたが、先生の講演を通して、それぞれ考えるところがあったようです。  私自身は、ずっと改革派で育ったせいか、改革派教会の歴史はいくらか知っていても、戦前・戦後のキリスト教界全体の歴史の中で、それがどう位置づけられるのか考えたことはありませんでした。今回、創立者の志や30周年宣言の存在に感謝しつつも、それが現代の私たちの血肉として受け継がれているのかどうか、考えさせられました。70周年宣言のテーマである「福音に生きる」ことと通じる気がします。よい機会を与えてくださり、本当にありがとうございました。
   上福岡教会の「社会問題対策委員会」の歩みをご紹介します。1969年、靖国神社国営化法案の反対運動が盛んになる中、「靖国問題対策委員会」として出発。このとき、上福岡教会は伝道開始7年目、教会設立4年目で、現陪44名でした。駅前での街頭署名やヤスクニ関係の集会出席など活発に活動したようです。1977年に「上福岡教会社会問題対策の指針」を作成し、30周年宣言に沿った活動を広く行う趣旨で、名称を「社会問題対策委員会」に変更。大会的な声明や文書の学びをしながら、元号法制化の際には議員への公開質問状を送付したり、署名活動もしています。また阪神大震災の際には復興チャリティーバザーを開催しました。2000年代に入ってから、教会組織と主の日のスケジュールの再編成が行われたこともあり、活動はやや低調になって、2.11集会や8.15集会、ヤスクニ探訪の窓口を務めることが主な役割になりました。
その後、世の中の急変に伴い、再び、委員会の活発化が求められるようになり、2013年には伊藤真弁護士のDVD「日本国憲法とは」を上映、2014年からは隔月の勉強会を開き、大会の抗議声明文や8.15、2.11集会の講演の学びなどをしています。教会が大きくなり、主の日のスケジュールがさまざまな集会で埋まる現在、各会例会のあとに行われる社会問題対策委員会にまで出席できるかたは多くはないのですが、やはり地道な継続が肝要なのだと思います。先生と名古屋岩の上教会のお働きに主の導きと祝福をお祈りいたします。感謝して。】

★★  本当に励まされ、教えられました。上福岡教会は、おそらく3番目に大きな教会だろうと思われます。開拓初期の方向性が継承されています。何より、伝道者の意識を教会内において共有するために委員会を設置されたことは、決定的に重要であったことがよく分かるだろうと思います。上福岡教会社会問題対策委員会がいよいよ尊く用いられますようにと祈り、期待し、学ばせて頂きたいと思います。

☆  祈祷会で、詩編の学びを始めました。「わたしは、いかに幸いな人間なのだろう!!」この第1編第1節冒頭の決定的な一句を、自分の心からの信仰告白、神賛美とすべく、励んで参りましょう。「学び」というより「味わう」という点にポイントを置きたいと思います。朝夕ともに皆様にも一言、恵みを語っていただきました。私にとっては、大きな恵みを受け、慰めでもありました。ただ、夜の祈りは、時間の調整がいよいよ求められるだろうと自戒します。主日の礼拝前の10時10分〜祈祷会でも、エッセンスをお分かちできればと考えています。詩編によって、信仰がいよいよ養われますように。

★  「革新愛知の会」の機関誌のインタビュー記事。まっすぐに教会の信仰を語りました。ご笑覧を。
目次
名古屋岩の上教会
〒458-0021
名古屋市緑区滝ノ水2-2012
TEL&FAX:052-895-6701 
メール:iwanoue■me.ccnw.ne.jp
※■を@に変えてください。
牧師紹介
□牧師 相馬伸郎□
下記の定例集会にどなたもお気軽にお越しください!心から歓迎いたします。
求めるあなたに、かならず、救いが与えられます。


□主日礼拝式□
毎週日曜日
10:30〜12:00

□子どもの教会□
毎週日曜日 
嬰児から高校生まで
9:00〜10:00

□祈祷会□
毎週水曜日 
朝 10:00〜11:30
夜 19:30〜21:00

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