名古屋岩の上教会

わたしはこの岩の上に私の教会を建てます。 -マタイによる福音書第16章18節-

12月10日


★   使徒言行録の最後の説教題は「使徒言行録の続刊」でした。ルカは、「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」と書いて、言わば唐突に物語を閉じます。しかし、ルカは考え抜いて閉じたのだと思います。こうして、大主人公であるペトロやパウロを始め、すべてのキリスト者と教会は、神の「道具」でしかないことを明瞭にしたいのです。神の器は、ただ神の栄光のためにのみ用いられ、そして終わるときがくればそれまでのことなのです。

★    主語と述語の話しもしました。およそ聖書の真の主人公は、主なる神です。しかし、うっかりすると器である人間が主人公のようにみられることもあります。主語は神で、神の道具である器は述語です。ここに「神律的相互関係」が働きます。見えない神、隠れた神が主導権を握って、御自身の器を用いてご自身のお働きを展開なさるのです。そのとき、器に「しか過ぎない・・・」という消極的な言い方は影をひそめます。同時に、「私がやったのだ、私こそが立役者だ」という勘違いはきっぱりと斥けられます。

★    使徒言行録を読み、聴いた教会は、言わばこの続刊、続編を書き続けるようにと促されます。あるいは、「地方版」を記す責任が与えられます。こうして、名古屋岩の上教会もまた21世紀の、復活のキリスト言行録、言い換えれば聖霊言行録を書き続けるのです。それは、日本、愛知県、名古屋市というローカルな場での働きです。ただし、ローカル教会が常に世界宣教の要となるグローバルな教会となる視点、例えばアンティオキア教会の模範を見倣うべきです。いずれにしろ、この場所こそが私どもの固有の現場です。この現場で用いられる器は、私どもしかいません。続編・地方版をますます書き続けましょう。

★    説教では用いなかったもう一つのイメージがわたしの中に常にあります。それは、バトンです。21世紀を走る私どもにもイエス・キリストの福音、神の福音というバトンが手渡されました。このバトンを手にした人は走ることへと突き動かされてしまいます。信仰の競争です。使徒言行録には、バトンとは何か、そしてそれがどのように神の民に明らかにされて行くのか、受容されたのかという歴史的な視点で解明されます。また、キリスト者の走り方(奉仕の捧げ方、生き方、あり方)まで書いてあります。

★    祈祷会では、大急ぎで使徒言行録を読みなおしています。先週も、「初めて分かりました!」との声が挙がりました。先週も記したのですが、心中複雑です。しかし、嬉しい事です。あのペトロですら、福音の全体的理解、包括的理解に到達するために、どれほどの時間と主イエスからのねんごろな訓練があったことでしょうか(ペトロとコルネリウスの出会い)。 待降節は、終末論的生き方を深める絶好の期間です。まさに来たりつつある主イエスの再臨の準備を急ぎましょう。同時に、神さまより急ぎ過ぎないようにも注意しましょう。焦らない!ことです。主の忍耐の憐みに、私どもは癒され、救われ、立ち上がれるのです。私どもは、これからも使徒言行録から走り方の訓練を受け続けてまいりましょう。

☆   本日は、久しぶりに名古屋教会との講壇交換です。先日の役員候補者との学び会で、教会は、一つの歴史(縦糸と横糸が美しく織り成される織物)を編む責任があるし、編むことができるはずだと学びました。使徒言行録の主人公は一人の神、イエス・キリストですから、彼に従うなら、そこに一つの教会、同質の教会が、世界中に起こるのは当然でしょう。しかし現実には、キリスト教会??と言う団体も出現しています。歴史の中で、変質してしまうのです。だからこそ、「聖書と信条」が教会形成には必須となるわけです。つまり、教会の説教は、したい人なら誰でもどうぞ・・・、というわけにはまいりません。そうすれば教会の一致や同質性はどのように確立し、保証できるでしょうか。先日の夜の祈祷会では、黄宣教師から、創世記からの伝道説教を伺いました。そして今朝は、木下先生が御言葉を説き明かして下さいます。それぞれ個性的です。民族、国家も超えて、一つの信仰(一つの信仰告白)に結ばれているからこそこのような、交わりが可能となるのです。こうして、私どもは日本キリスト改革派教会という一つの教会の歴史をも共に編むことができるのです。

★   次主日は、伝道礼拝式です。子どもの教会はありません。そのため、礼拝式の中で短く、子どものための説教を致します。教師たちは、まさにお友だちと一緒に教会に来れるのではないでしょうか。直前の一週間が、一番、大切で有効です。

☆  先週、ひとりの他教会の会員が私どもの教会に新来者をお連れ下さいました。大きな励ましと問いかけを頂きました。彼女の、細やかな心遣い、愛を見ました。さて、次主日、私どもこそ自分たちの教会へ愛する方々をお招きできますように!

「約束された光はイエスにおいて輝く」

「約束された光はイエスにおいて輝く」
2017年12月3日
イザヤ書第8章23−9章6節
【  先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。】

 本日より2017年の待降節が始まりました。漢字では、降誕を待つと書いて待降節です。実は先日、あらためて待降節という言葉とその意義について考えさせられた出来事がありました。ある方との会話の中で待降節と言えば、やはり第一に降誕祭、クリスマスを待つということ、その準備をする期節という受け止めを持っているということでした。おそらく皆さまもそのように思われる方が多いだろうと思いました。もとより、それが一概に間違いだということはできません。しかし、やはりそれは第一に考えることではないだろうと思うのです。クリスマス、イエスさまの降誕は2000年前に終わりました。そのクリスマスを待つというのは、どうもおかしいような気がいたしませんでしょうか。

 先週は、クリスマスツリーを買い求めるためにかなり時間を費やしました。けれども昨日、待降節のまさに準備として礼拝堂の飾りつけをするのは楽しいものです。皆さまも、今朝、この礼拝堂の正面を見て、ああ、待降節が始まったなと、ワクワクする思いがあるのではないでしょうか。ただし、毎年のことですが、24日、25日が終わると何か教会歴の知識がないことも理由ですが、すぐに、この飾りつけを片付けよう、お正月の準備をしようとなることがありました。まあ、それくらいなら良いのです。問題は、クリスマスのこのシーズンが終ると、ただちに赤ちゃんのイエスさまはどこかにすっ飛ばしてしまうことです。もう、赤ちゃんのイエスさまについて黙想したり、考察したりすることはやめてしまう、これは、とても悲しい事、問題だと、わたしは思います。何より、降誕の驚くべき恵みについての黙想を来年までまた止めてしまうなら、それはあまりにも大きな霊的な損失だと言わざるをえません。

 さて、今朝は待降節の第一主日として、旧約聖書イザヤ書から学びます。預言者イザヤが記したわけですが、彼の名前の意味は「ヤハウェは救い・主は救い」です。実は、彼の名前そのものがイザヤ書の要約ともなっていると言ってよいと思います。

この御言葉が語られた時代は、第8章23節に示されています。ゼブルンの地、ナフタリは、当時のアッシリア帝国によって占領されました。つまり、イザヤが預言したのは、北イスラエル王国が倒されてしまった後の時代です。ざっと紀元前700年余り前のことです。イザヤは、神の裁きをまっすぐに告げていました。しかし同時に希望も語りました。彼はここで、「ヨルダン川のかなた 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」のだと明るい将来を描き出したのです。ここに登場するガリラヤは今や、誰しもが知る地名となりました。イエスさまの故郷となった町だからです。しかし、もともとは「異邦人のガリラヤ」とさげすまれていました。ヨシュア記によれば、「殺害者の逃れの町であるガリラヤ」とあります。この町がどれほど辺鄙な田舎で信仰者が生きる町としては問題のある町だということです。ところが、イザヤはこの惨めな小さな町が神からの栄光を浴びることとなる、こうして彼ら自身もまた光輝くものとされるというのです。
 
 次にイザヤは、その栄光の正体を説き明かします。それが第9章です。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」ガリラヤに住む人々は、死の陰の地に住んでいた、闇の中を歩いていたというわけです。死の陰の地とは、ドキッとするほど恐ろしい表現だと思います。同時に、私どもは詩編第23編の中で「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない」という御言葉を思い起こすかもしれません。死の陰の地とは、人が人として生きる希望が失せてしまって、人間らしい生活を営むことすらままならない時代状況ということです。自分たちにはもはや望みはない、昨日も今日もそして明日も、私の人生、私たちのこの社会は真っ暗だと思ってしまっているわけです。ところがまさにそのような人々の頭上高くに、光が輝くのです。光が登るのです。光が射し込むのです。不安や苦しみ、嘆きや欠乏の日々の暮らしの中で、突如、「大いなる光」を見るというのです。大いなる光、偉大な光というのは、もはや人間のいかなる力も及ばないものだということを意味しています。イスラエルの歴史で言えば、ダビデ王の時代のように偉大な指導者による経済的な繁栄の頂点の時代をも越えたものだと思います。

 ただし、ここが重要ですが、イザヤが描く神の民の将来は、アッシリア帝国を打ち倒せるような強大なイスラエルの統一国家の樹立によって、つまり軍事力や経済力によって実現するというのではありません。「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。」これは、今に見ておれ、いつかこの惨めな敗戦国の状態を打ち破って、彼らに報復するということではありません。地を踏み鳴らす兵士の靴、軍靴、血にまみれた軍服などは、敵も味方もなく、ことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされ、跡形もなくなるというのです。平和な世界、平和な国、平和に生きるそのような時代と社会が突如、もたらされるという予告です。それが「大いなる光」です。そしてそのような光なのですから、まさに、人間的な企てで実現するものではないということは明らかです。

 それなら、そのような満ち足りた、充実した社会、つまり平和は、何によって実現、成就されるのでしょうか。旧約の預言とは、まさにここに焦点が絞られます。そしてそれをもたらす人をメシアと呼ぶのです。メシアとはギリシャ語のキリストです。キリストとは神が油を注がれた人、御自身の民を救い、統治する王の王です。この神ご自身が立てられたメシア、救世主、救い主、究極の王をメシア、キリストと呼びます。このキリストが、ガリラヤの町に来られるという預言です。「ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。」ダビデの王座とその王国とは、イスラエル王国のことです。イスラエルに、ついにメシアによって平和が圧倒的に確立するのです。神の正義と神の恵みの業によってその王国は終わることがないというのです。私どもは、この御言葉を聴くと直ちに主の日のたびに唱えるニカヤ信条を思い出さざるをえません。「主の御国は終わることなし」この意味は、イエス・キリストが再び来られて完成されるダビデの王座と王国には神の平和が確立、完成し、永遠に打ち立てられもはや倒れることはないということです。そしてこのすばらしい現実は、いったい、誰によってもたらされ、確立されるのかをわずかの誤解も入り込ませないようにと、こう結ぶのです。「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」万軍の主です。聖書は、ここでも戦いのイメージを用います。主の軍隊、神の軍勢です。この軍隊を指揮し、用いることがおできになるのが主です。主お一人です。しかも、この王の武力とは、決して、人間の軍事力、軍隊や知恵、謀略によるものではないのです。主の熱意のみがこれを成し遂げられるのです。それなら、主の熱意とは何でしょうか。それを、聖書は愛と呼ぶのです。つまり、主の溢れるほどの愛、極みまでの愛、徹底的な愛の激しさで神の国は確立し、その国は神の正義と恵みだけが支配する、神の平和の王国なのです。

イザヤは、目の前にいる、もはや望みなし、もはや自分たちの国は消え失せ、神の怒りのみが下ったのだと認めざるを得ないイスラエルの人々に預言したのです。「あなたたちは確かに今、闇の中にいる。死の陰の地に突き落とされている。しかし、神の将来がある」と、こう告げるのです。

最後に、預言の成就の徴そのものを聴きましょう。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。」ひとりのみどりご、と言われました。嬰児とは生まれたてホカホカの赤ちゃんのことです。私は、とても不思議に思います。何故なら、いったい赤ちゃんに何ができるのかと思うからです。確かに、王様となる赤ちゃんが生まれた。驚くべき皇太子が生まれたのは嬉しいでしょう。ただし、赤ちゃんはどこまでもまだ赤ちゃんでしかありません。王になることが確定していると言えども、その赤ちゃんに今ここでただちに、私たちに何をしてくれるというのでしょうか。しかし、イザヤはここでまさに赤ちゃんに私どものまなざしを集めようとします。常識的に言えば、たとい王子が生まれても、王になるまで少なくとも20年くらいは必要でしょう。しかも、この赤ちゃんが敵対する王たちによって、無き者とされる可能性も否定できません。ちなみに、私どもは知っています。まさに、イエスさまがご降誕されたとき、この情報を得た時のユダヤのローマ総督、ヘロデ王は、この赤ちゃんを抹殺しようとしたのです。そのために信じられないような暴挙を行いました。ベツレヘム周辺に生まれた二歳以下の男子を皆殺しにする法令を発布したのです。

しかし、イザヤはどこまでも赤ちゃんに注目させたいのです。常識的に言えば、立派に成人し、誰もがこの人こそ頼りがいのある王だと言えるような姿を描き出してくれた方が、より実感がわき、安心できるように思います。しかし神は、この男の子を見つめるように私どもを促します。「権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。」ここには、その方のご本質とお働きをあらわす呼び名が四つ示されています。ニックネームのようです。しかし単なる愛称、あだ名ではありません。イザヤは、土の塵にすぎない人間のことを、ここでは、実に神と呼ぶのです。

また、イザヤは、この生まれて来た赤ちゃんは、権威を持っていると告げます。驚くべき指導者となって、平和を実現する計画を立て、自らこれを実行してしまう、完成してしまう驚くべき計画の立案者にして実行者だからです。

イザヤはさらに、この赤ちゃんを「永遠の父」と呼びます。これも常識的に言えば、ほとんどユーモアではないでしょうか。受けるよりはすべってしまうようなユーモアだと思います。赤ちゃんに向かって、永遠の父と呼んだら、赤ちゃんにも両親にもかわいそうです。しかし、イザヤはこの男の子は、神なのです。神ご自身なのですと。しかも、その神は、他ならない私たちにとって父のような神でいらっしゃると言うのです。旧約において、神を父と呼ぶのは例外的です。イザヤはしかし、この嬰児を永遠の父と呼ぶのです。それは、この箇所の前の第7章で、「おとめが身ごもって、男の子を産み、その場をインマヌエルと唱えられる」と預言されている通りインマヌエル、つまり、神ご自身が人となられたからです。

最後に、平和の君と呼びます。つまり平和の王子さま、平和のチャンピョンです。赤ちゃんでありながらそこに既に平和を造り出してしまう王子さまなのです。それは、神が人となられたからです。この赤ちゃんの存在そのものが、神と人とが一つになった証拠です。神と人との間になんの妨げもない状態、何のわだかまりもない明るい、喜びの関係、それこそが平和です。神の平和です。神が人間に約束し、与えて下さるまことの平和なのです。つまり、そのインマヌエル、神が人と共にいるという神と人との平和が、この赤ちゃんの上に究極的に起こったゆえに、イザヤはこの赤ちゃんを平和の君、平和の皇太子と呼ぶのです。

さて、ここでじっくりと考えてみましょう。2700年前にこのイザヤの言葉を聴いた人々は、そこでどのように生きるべきなのでしょうか。神は、この預言によってそれを聞いたご自身の民がどのように生きることを期待しておられたと思いますか。神さまの御心はこのようなものでしょうか。「あなた方は、今、敗戦国の民として目の前は真っ暗だろう。ただ、君たちの頭の中にこの預言を知識としてインプットしておきなさい。それでよろしい。わたしは、700年後か1000年後か、そのときは教えないが、この預言が成就したとき、わたしの言葉を思い起こしてくれたらよいのだ。そ予告しておくのだ。」いかがでしょうか。そんなことであれば、神の預言の目的はまったく達成されたと言えません。預言とは、漢字で、言葉を預かると書きます。予め語るということではありません。単なる予告ではないのです。つまり神は、「この御言葉をあなたがたこそ今、聴きなさい。私は、やがてこの赤ちゃんを目撃する人のためだけに語っているわけではないのだ。むしろ、あなたがたのための言葉なのだ。」預言の言葉は、今、告げられたその人を生かすためのみ言葉なのです。ここがポイントです。そうすると、み言葉を信仰をもって聞くということはどういうことになるでしょうか。そのとき、その人は、どのような生き方を始めることになるのでしょうか。その時その信仰者は、自分がどれほど絶望的な状態に生きていたとしても、もう、この言葉を信仰をもって聴いたまさにその瞬間に、自分の頭上に光、大いなる光が輝いていることに気づけるのです。つまり、この預言は、単に700年後にイエス・キリストにおいて成就するまでは単なる予告、予言ではないのだということに気づけると思います。

しかし、2700年前のイスラエルの民は、この信仰の真理、つまり、希望に生きぬくことに失敗してしまいました。信じて生きることにおいて失敗したのです。さてそれなら、今日の私どもはいかがでしょうか。今年の待降節で、今一度、私どもは確認し悟りたいのです。それは、神の御業は今まさに、ここに始まっているということです。説教の冒頭で、待降節の意味について触れました。待降節の第一の意義は、むしろ、キリストの再臨、キリストがもう一度、この地に来られる日を待つということにあるだろうとわたしは思います。

私どもは、2700年前、イザヤによって予告されていたクリスマスの出来事が2000年前に起こったことを毎年、確認しています。それは、まさに私どもの人生に神のいのちの光、救いの光が射しこんで、救われたことを感謝し、祝うためです。そして同時に、最後の究極の予告である主イエス・キリストのご再臨の御心を、わくわくしながら待ち望むためなのです。ここに、2700年まえの予告の成就を、2000年前のクリスマスに見て、そして、まさに来たりつつあるイエスさまの再臨に、信仰の錨を投げかけるのです。そのとき、私どもの頭上にいよいよ燦然と主のいのち光が輝き、愛の暖かな光が射しこんでいることを確認するのです。つまり、今、この礼拝堂に、主イエスは聖霊によって来ておられることを確認することです。そして同時に、肉体をもって再び来られることを確信するのです。

今朝は、聖餐の礼典を祝います。私どもは牧師がパンと杯を高くかかげるとき、注目します。パンの内に、神の御言葉を見る、その約束を確認するために、信仰の想像力、イメージをフル稼働させるのです。聖餐の礼典は、恵みを注ぐパイプであると同時に信仰の訓練のときでもあります。万が一にも、再臨のイエスさまご自身をこの目で見て、「ああやっぱり、予告は間違いなかったのだ」と認めても意味がありません。遅すぎます。私どもは、今ここで、約束された光が主イエスにおいて輝いていることを見つめるのです。そのとき、今、悩みの前に押しつぶされると思うその時でも、ああ違う、私は既に、光の中へと映し入れられているのだ。死の陰の地のような今の生活だけれども、もう、いのちの泉、喜びの泉が溢れて来る、そのような驚くべき人生が始まるのです。あの赤ちゃん、主イエス・キリストは「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」だからです。このイエスさまを礼拝すれば、仰ぎ見れば、いのちと光の内に歩めるようになります。

待降節、キリストの到来を覚える期節が始まりました。教会歴を採用せずとも、私どもはいつでも、主イエス・キリストの到来を今、この礼拝式そして聖餐の礼典において確認します。私どもには、輝かしい将来が約束されています。私どもはそれを未来とは申しません。漢字では、「未だ来たらず」と書きます。私どもは、今ここで既に始まり、やがて完全に実現される日に顔を向けます。漢字では将来と書きます。「将に来たらんとす」です。まさに、今もう、イエスさまがこの地でお働きを始め、神の国は力強く始まっているからです。ここに、既に、神の教会があるからです。今週も、私どもの頭上に既に主イエスの光が輝いています。この光の内に、光の中を歩んで参りましょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、既に力ある神、平和の君でいらっしゃるイエスさまはお生まれになられました。驚くべき指導者として、永遠の父の御心を成し遂げられました。心から予告されたその御名を賛美致します。しかし私どもは今なお、闇の力、死の陰の地にあることを思います。そして、この闇の力の影響を受けて、信仰が深まらず、み言葉を悟ることも上手くできず、従うことも不十分なのです。こうして、主イエスさまが再び来られる希望を霞んでしまいます。今、ここで何を優先すべきかを、間違えるのです。天のお父さま、どうぞ、この待降節の歩みを用いて、今一度、繰り返し、来たりつつある神の国の王の到来を深く待ち望ませ、信仰の姿勢、ゴールをしっかり見つめて歩む者とならせて下さい。

12月4日


★   教会には、常置の委員会と特別の委員会があります。特別委員会は、先の墓地取得委員会のようにある一つの目的のために期限を置いて組織されるものです。「25周年記念誌委員会」は特別委員会です。極めて重要で作業量の面からも、もっとも大変な奉仕が求められと思われます。委員会は先ず、年報に記された「回顧と展望」を読み合わせに集中するとのことです。この文章は、牧師としてどうしても皆さんに伝えたい、共有したいそして一つ思いになって教会に仕えたいと願って記すものです。他教会と比較すると何倍もの長文となっています。そこには、今このときの教会の何が課題となっているのか、何をすべきなのか牧師、そして今では小会のまなざしから記しています。その意味で、この文章を委員方の歴史をふさわしく編む要、基本になるだろうとの認識は、正しいと思います。

★   およそ一個の地域教会は、ひとり一人がバラバラな集団ではありません。ましてや「同好会」でも「クラブ」でもありません。名古屋岩の上教会という一つのかけがえのない教会として、呼び集められ、ここに存在していま。委員方は、おそらく、もっとも名古屋岩の上教会の過去と今の姿を正しく認識して下さることとなるだろうと期待しています。つまり、この奉仕者こそ私どもの教会を正しく認識するために最高に恵まれた役割を与えられていると言えます。委員方は、教会の歴史の最初から教会の屋台骨を担われたという方はむしろ例外で、多くが若く新しい会員です。その意味でも、今後の教会の歩みのために、極めて恵まれた奉仕を担わせられたと言えるだろうと思います。皆さまには、この委員会に深い関心をもっていただきたいと願います。また、委員会も途中経過を分かち合って下されば、教会全体にとってどれほどすばらしい祝福をもたらすかを思います。この奉仕に加わりたい!と願い出る方が起こされたら、感謝です。

★   使徒言行録は教会が産声を上げてから30年未満の歴史を編んだものであると思います。25年は、四半世紀と言われます。ある評価、答えを出すことができる単位だと思います。使徒言行録を読めば、教会とその歴史はくっきりと見えて参ります。教会は、ペトロやパウロを中心とした神の器たちの歩みを通して、福音理解、教会理解、神の御心の理解を深めて行きました。委員会もまたこのような神学的な訓練を受けることができるはずです。そして、それを教会員全員の恵みへと広げられたら幸甚の極みです。

★   なんとなく過ごす1年も一年。目標に向かう1年も一年です。教会もまた一年、52回の主の日を、  説教を聴き、説教によって動かされる教会としての1年でなければまさに空虚な1年でしかないと思います。そのことを誰よりも説教者の私そして長老は自分の責任とします。その意味で、もしここで神の言葉が語られ、そして聴かれたのなら、教会は歴史を造れたはずです。25周年記念誌の責任の一つは、名古屋岩の上教会の25年とは、空虚な歩みでしかなかったのか否か、その「審判」を下すことでもあります。

☆    役員候補者との学びは、これまで役員とも丁寧にはして来なかった「礼拝指針」を扱っています。 先週は、まさに第10章「御言葉の説教」でした。今、誰よりも語られた説教を学び続けていると自負なさる兄弟(一週間かけていらっしゃる由!)と学びつつ、わたし自身、彼の質問や意見を伺いながら、自分の課題を改めて突きつけられた思いでした。今回の学びの内容や二人のやりとりを会員全員で分かち合われたら、どんなに素晴らしい事かと思わされました。牧師の課題や弱点をいよいよ自覚させられました。まことにありがたいことです。同時に、彼がここまで来られるのに何年もの信徒の生活を重ねざるを得ませんでした。(そこは逆に、御自身の悔い改めが伴うものです)加えてマンツーマンでの数多の学びも必要だったのです。説教とは、決して牧師「個人」の働きではありません。教会の務め、教会のものです。ですから、皆さんからの率直なご意見が生命的に大切です。もし、語られた説教の言葉を巡って、どしどしご質問下されば、まさに改革された教会の真の実力がそこに発揮できると思います。説教と説教者を諦めたら、教会(生活)はオワリだと思います。貧しい説教者であることは皆さまがよくご存じです。だからこそ、恵みを受ける究極の手段である「説教」が侮られることのないように、ご協力とお祈りを切に願う者です。

★   本日、〇〇君と〇〇姉の試問会を行います。それに先立ち、長老方による学びと交わりの時を持ちました。お二人の若い仲間たちが加わって下さること、神が教会の器の中にお二人を盛り付けて下さることを、心の底から嬉しく、感謝する者です。神が教会を憐れんで下さる「しるし」です!

☆  牧師は本来、教会をして伝道させる奉仕者です。皆さんが伝道の主体です。ただし、牧師もまた一人のキリスト者として伝道しなければ・・・。既に何人かの方から、あの方を誘っています・・・と。まさに説教が問われます。祈って下さい。そして、ご自分の口でも説教を新来者に語り直してください!

11月26日


★   先週は、大掃除を行いました。私は出張でしたからきれいになった会堂を見て、感謝を深めました。私どもはつい教会堂が与えられていることの幸いを忘れがちになります。ビルの時代を経験していても、もう、すっかりあの日々の苦労を忘れています。掃除ができることは、礼拝堂が与えられていること・・・なのです。わたしのおぼつかない記憶では、当時の掃除奉仕は、土曜日の夜、有志でなし、折り畳みの椅子を並べて準備していたのでした。外周りの掃除、整頓はなかったわけです。しかし今は、毎週、奉仕者がご奉仕下さっています。
今回は、お庭も手を入れていただきすっきりしてきました。同時に、会堂正面のツリーは、ナント、なくなりました・・・。台風で倒れてしまっていたのですが、少し寒々しい気がするのは私だけでしょうか!?クリスマスのこの時季、巷のきれいなイルミネーションに教会が対抗する「力」はありません。また、ある反発もあります。しかし、教会の存在をアッピールするために、ふさわしい電飾があってもよいように思います。どうぞ、どなたかが声を挙げ手を出して頂ければと。なお、小会では、外壁の耐用年数は限界にきつつあると判断しています。早すぎでは、もったいないし遅すぎでは、費用は何倍にもなってしまいます。

★   使徒言行録の講解説教を遂に終えます。2013年から始めまさに4年の月日が経ちました。当初は、先に扱ったロマ書が予想以上に長くなったことを覚えつつ、その半分くらいで、と始めたのでした。ところがこうなりました。理想を言えば、講解説教を始める前に、少なくとも、ひと月余りは準備に集中し、全体の説教スケジュールを構築して始めたいものです。私のように能力に乏しい者こそ、本来、そのように集中した方が良いはずなのです。しかし、この4年間もまた、毎週、直前の土曜日の夜に最終原稿を整える状況は変わりませんでした。(従って印刷奉仕者は、夜の8時位に来ていただくことが定例化してしまいます。改めて会堂掃除、印刷の奉仕者の皆さまには記して、感謝と御礼を申しあげます。)

毎回、説教に全力を注いでいるつもりです。しかし、一週間は早すぎます。実は、次主日のテキスト・・・、これを記している今なお未確定です!(ニカヤ信条講解説教か牧会書簡か、預言書か・・・。土曜日の夜までには、次回「説教題」を確定しますので、そこまで悩む予定です!?)このような恥ずかしい話しをあえて、皆さまにお分かち致します。説教作成とは、わたし一人の業ではないことを、ここに、あらためて記しておきます。説教とは教会に与えられた恵みの手段です。教会が第一に教会に向けて、そのようにして教会が教会を通して、この世界へと語る言葉です。その究極の「主語」は、教会でも、説教者でもありません。説教とは、教会の頭なるイエスさま、そして父を主語として、語られる(べき)ものです。ですうから、私どもの教会は、説教を語られる「神の言葉」と告白してまいりました。このお方が、御自身の説教者を教会の第一の務め人として備えてくださるのです。したがって、彼は、会衆(教会)を代表し、語る器です。その第一の聴き手はどなたでしょうか。主語でいらっしゃる神です。論理的には、不思議です。教会の説教は神に説教するというのです。ですから、説教が「お説教」になるはずがありません(なってはなりません)。ご自身の説教に最大の関心をお持ちになられるのは、神であることは、当たり前のことではないでしょうか。ご自身の口、代弁者として選び、立てた「器」が、御自身の聖書において書き記されたことば(啓示)から離れたり、誤解させたり、あるいは反することを語っていたら、そのとき、人間の世界でも大問題になりましょう。いわんや、神の代弁者が神の御心と無関係に「おしゃべり」するなどということは、まさに許されてはならない行為です。このことを真剣に考えることが説教者の基本中の基本なのです。ですから、まじめな説教者は、いったい誰が説教者になれるのだろうかと・・・、神学生の時だけではなく、むしろ、説教者になってからの方がよりリアルに思わされるのだろうと思います。しかし、不思議です。「それなら、辞めるべきだ。それなら、それにふさわしい人がその務めに就くべきだ」と、自ら思わないわけではないのですが、説教者は「仕事」ではなく、「召命」として語らないではおれないのです。神に捕えられてしまった限り、もはや逃げも隠れもできなくなって、降参する以外にないのです。

☆   私どもは、毎主日、教会の頭でいらっしゃるイエスさまから「(私と共に)安心して行きなさい!」と祝福されて派遣されます。一週の旅路はこう宣言し約束された主イエスと共に、したがって主イエスのために歩む旅路となります。私どもは、神の子ども、憐みの器としての権威を授けられて、この世へと派遣されます。しかし、「まさかそんなことは!」というような悲しみを体験することもないわけではありません。しかし、主の恵みと慈しみとが常に私どもを追いかけてくるとの約束を信じ、へこたれずに歩み続けましょう。

「使徒言行録の続刊」

「使徒言行録の続刊」
2017年11月26日
聖書朗読  使徒言行録第28章30節(p270)
【「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」】  

2014年1月から始めました使徒言行録の講解説教を本日、終えます。今朝のこの短い箇所は、先週のテキストと合わせて読んで、先週に講解説教を閉じることも十分にあり得ました。何故なら、今朝のこの短い御言葉に関しては、すでに何度も説き明かして来た事柄だからです。その意味では、確かに今朝のみ言葉を丁寧に解説する必要はないかもしれません。ただし、使徒言行録という文書の終わり方、閉じ方そのものの中に、まさに、この書物を象徴する思い、根本のメッセージが込められていると思われます。それゆえやはり、この箇所から説教したいと思った次第です。

使徒言行録を読み終えて改めて、使徒言行録とはいかなる書物だったのか、じっくり考えることは大切だと思います。一言で言えば、教会の歴史書です。どのようにして教会が出発し、育ち、形を整え始め、エルサレムからユダヤそして地の果てまで拡大して行ったのかを記しています。教会とは何か、それを歴史の視座から解明したものだと言えるでしょう。同時に、その教会は歴史をつくるものだということも教えられたように思います。同時に、教会が歴史をつくるということは、そもそも、どのようなことなのかということも考えさせられます。今朝、改めて、そしてもはや誤解の入る余地がないように皆さんと共有し確信を深めたいと思います。

使徒言行録に登場した多くのキリスト者たち、とりわけ言わば主人公となった使徒たちの姿を思います。前半はペトロそしてヨハネです。後半は、パウロそして著者ルカが「私たちは」と語った伝道集団です。うっかりすると私どもは、たとえばパウロの伝道旅行を追いかけて学ぶとき、使徒言行録とはパウロの活躍物語として読んでしまいやすい、その誘惑すら覚えさせられたのではないでしょうか。しかし、私どもはまさにそのたびに、これでもかこれでもかといわんがばかりに御言葉から教え諭されたはずです。それは、歴史のまことの主役は、決してペトロでもパウロでもないということです。使徒言行録の主人公は、他のすべての聖書とどうよう神でいらっしゃるという単純素朴な真理です。むしろ、使徒言行録こそ、それが明瞭にされていると思うのです。

そうすると、そこではっきり見えて来る、素朴で決定的な真理があるはずです。歴史をつくるのは神でいらっしゃるということです。教会の歴史を導き、つくられるのは他ならない教会の頭でいらっしゃるイエス・キリストだということです。十字架で贖いの御業を成就され、墓をけ破ってご復活され、地上にご自身の教会を建てることによって神の国を進展させるために天に昇られた主イエス・キリストご自身に他ならないということです。キリストの霊、つまり聖霊なる神が、教会を生み出し、育み、教会を通して世界にご自身の福音とその御国を拡大なさるのです。そして私どもは確信しています。神は世界史の片隅に教会を起こされました。エルサレムという地理的にいっても片隅に教会を起こされました。しかし、神の救いの歴史は教会によってついに頂点を迎え、完成に至るのです。ですから、神は教会によって歴史を作られ、救いの歴史を完成させるのです。

さて、聖書の学者たちはここで必ず議論をなさいます。この文章の終わり方はあまりにも不自然すぎると言うのです。これは、私ども誰もが覚える素朴な違和感だろうと思います。「あれ、パウロはその後どうなったのだろう、この2年間のローマ伝道こそ知りたい。ここは少なくとも、1章くらいは設けてもらって、そして歴史を回顧してもらいたい」こう思うのではないでしょうか。私は、最初の読者たちの最大の関心時は、むしろ、そこにあったのではないかとすら思います。それだけに、この終わり方は、なんとも物足りません。あまりに唐突すぎると思うのです。

ですから、ある方々は言います。これは、結論での言葉ではない。著者はここで筆を折ろうとしたはずではいというわけです。つまり、本来、著者のルカは、ここで閉じるつもりはなかったということです。ある人は、言わば続編があったのだと申します。つまり、未完の作品だということです。あるいは、ルカによる福音書と使徒言行録、そしてその続刊の三部作という理解もあるようです。それなら、続編はどこに行ってしまったのでしょうか。
さて、これに対してやはり当然かと思いますが、ある学者は、こう言います。いや、この結びの言葉は、ルカがちゃんと考えて、書いたものだ。これでちゃんと終わろうとしているのだというのです。私は、くわしい歴史的研究に基づいてのものではありませんが、ルカは、使徒言行録をこのような終わり方こそふさわしいと考えて、書き終えたと理解します。

一つの理由は、これまでも、同じことがすでに使徒言行録の中で起こっていたと思うからです。私どもはいわゆる前半のペトロの大活躍を読んで参りました。ところが、彼の姿は唐突に消えてしまったことを知っています。パウロが登場してからはまるでペトロがいなかったかのようにパウロの大活躍へと話しは進んでしまいました。そして、こんどはパウロです。彼もまた彼の伝道の生涯の言わばハイライトとなる箇所で筆を折ってしまうのです。

つまり、ルカは「読者よ、悟って下さいね。後の教会員よ、ここポイントですよ。間違わないでね。」とこのような、独特な書き方、編み方によって告げたい決定的な真理があるのだと思います。つまり、「みなさん、教会はね。どこまでも神の教会ですよ。キリストの教会ですよ。たとい使徒と言えど、いや、使徒だからこそキリストに服従し、キリストの代理として用いられたのです。けれども、キリストが主ですよ。彼らはただの器でしかないのですよ。」

ここで、先週のおさらいをしたいと思います。私どもは、神との関係においてはまさに器です。入れ物です。しかもそこで間違えてならないことがあります。私どもは神との関係においてもともと、怒りの器であったということです。神からの怒りだけを入れられ、滅ぼされてしかるべき器だったということです。空っぽならまだましです、しかし、神の刑罰を日ごとに増し加えられるだけの存在、滅び行く罪人ででしかなかったはずです。ところが、父なる神はその私どもに対する刑罰、罪の支払う報酬の裁きと呪いを、すべて御子なる神、私どもの救い主イエスさまという器を用意なさいました。そして、私どもの入れ物に盛られていた神の怒り、のろい、刑罰をイエスという巨大な器の中に、すべてを移し入れられてしまいました。それこそが十字架の上でキリストの苦難と死のお姿に他なりません。父なる神は、私どもの器を空っぽにしていただいたばかりか、イエスさまが贖って、獲得された神の祝福、恵み、つまり、神の憐み、神の愛だけをてんこ盛りにして、あふれるほど盛りつけてくださったのです。まさに、わたしの杯はいつも、神の憐みであふれてしまうのです。

そうです。キリスト者とは神の器です。この器に盛られるのは実は、聖霊ご自身、キリストご自身なのです。私どもの存在の内に主が宿られるのです。ですから、すべてキリスト者は、与えられた栄光をただキリストのみに帰す以外にありません。それ以外は、かえって、誰よりも身の程知らずの、だれよりも傲慢な者となってしまいます。

ペトロは神の憐みの器です。パウロも神の憐みの入れ物です。大切なこと、肝心なのは、器の中の中身です。その意味で、たといペトロが殉教しても、パウロが殉教しても教会の歴史は決して止められません。教会はキリストの教会だからです。神の教会だからです。キリストがご自身の教会に、キリスト者にご自身を与えて、御自身がその働きをお進めになられるのです。そのことを、改めて確信致しましょう。そしてそれは、このような誤解や間違いは入り込めないだろうと思います。「こんなわたしみたいな器、コップなんて大したものでもないし、たいしたことはできない。だから、このままで良い。」違います。この器の中に恵みを入れられたとき、それは、確かに器なのですが、しかしもはや単なる置物、単なる動かない容器や入れ物ではなくなってしまうのです。この器は、動き始める器です。動かされるのです。持ち運ぶ器なのです。それが、ペトロやパウロの歩みで見事に描き出されたのです。そればかりか、イエスさまご自身がはっきりと、そのような表現をパウロになさいました。第9章15節です。「主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」器は大切です。どうしても神さまのために必要です。ですから、イエスさまというご存在、イエスさまご自身を盛られたならその人は動き始めます。ですから、自分はただの器だから動かないとうそぶくことは、聖書の真理から遠いと言わなければなりません。神はおのぞみであればどんな器でもご自身の宝をお入れくださるのです。私どもは全員、このイエスさまの御名を持ち運ぶ器とされ、主イエスの憐みをてんこ盛りにしていただいています。

さて、今朝のテキストそのものにも簡単に触れましょう。「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」という報告です。パウロは、ローマの番兵をひとりつけられていましたが、いわゆる拘置所に留置されていたのではなかったことを私共は学びました。その説教では、この番兵の働きは、パウロが逃げ出さないための見張りではなかったこと、むしろ、ユダヤ人の暗殺者から身を守ってもらえる番兵だっただろうと学んだのです。そして、ここではもしかするとの番兵すらもはや不要となって自分のお金で一軒家を借りて、訪問する者はだれかれとなく歓迎できたのです。キリスト者となったユダヤ人がそこにいたはずです。また、ローマにいたキリスト者たちはこの2年間、徹底的に教会の教え、神学的な訓練を受けたと思います。また、キリスト者としての生活についても、この2年間のパウロの生活ぶりを目の当たりにさせられたり、いっしょに暮したりして、キリスト者の生活、信仰生活を手取り足取り教えられたりもしただろうと思います。パウロが2年間、何にも妨げられることもなく、自由に伝道できたのですから、その実りはやはり大きかったはずです。ルカは、ここでローマ帝国におけるキリスト教というのは、基本的にローマ帝国側にとっても敵ではなく、キリスト教会もまたローマ帝国を悪魔か何かのようにみなしていたのではないということが暗示したいのだろうと思います。そこにも、当時の教会がまたパウロ自身が、皇帝を敬いなさい。上に建てられた権威を重んじなさい。すべての権威は神が立てられたのだからと語った教えが反映されていると読むこともできると思います。歴史の事実としてはまさにペトロもパウロも皇帝の名の下で殺されました。しかし、その殉教がローマ帝国そのものへの憎しみや抵抗心を爆発させるようなものとはならなかったのです。どこまでも、地上の巨大な権力を持つ国家権力も、神の主権の下に見抜き、やがてこれが倒されるというビジョンを持っていたわけです。それはヨハネの黙示録などでも教えられていたのだと思います。

次に、「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」まさに、おさらいです。23節で学びました。「パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。」使徒たちが宣べ伝えた内容のことを「福音」と申します。キリスト教が伝道する、伝える内容のことを福音と申します。この福音の内実、内容を記したのが四つの福音書です。つまり、イエスのご降誕、ご生涯、その十字架とご復活です。そして、このイエスさまご自身が、神の国が地上に始まった事を証しするために説教をなし、奇跡を起こされたのです。まさに、このイエスさまこそが朝から晩まで、屋内だけではなく野外で福音を告げられた、宣言なさったのです。そして、それこそが神の国そのものであることを実証なさったのです。神の国それは神の恵みの支配のことです。具体的に申しますとイエスさまがいっしょにおられる場所のことです。そうすると神の国の福音もイエスさまの福音もその内容な一つです。神の国の福音を証しするなら必ず、イエスさまが神の国をここにもたらして下さったお方だからイエスさまを信じなさいと勧める以外にありません。イエスさまの福音を証しするなら、イエスさまはこの地上に神の国を始めるために十字架で死なれ、ご復活なさった、だから、イエスさまを信じて神の国に今、入りなさいと勧める以外にありません。神の国の王はイエスさまです。この一つの福音を、ローマでも語り続けたのです。神は、自由に妨げられない状況をこの二年間ゆるされたのです。だからこそ、ローマ教会はどの信仰の土台が座り、背骨がしゃんとし、また柔らかい、素直な信仰へと育まれたのです。

最後の最後に、「教え続けた」という特徴的な終わり方について考えましょう。言うまでもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けることが教会の働きの中核です。私どもはそれを伝道と呼んでまいりました。あるいは、改革派教会は教育的伝道と呼んでまいりました。説教の最初に、続刊があったのではないか、ルカはそれを目指していたのではないかと申しました。しかし、ルカは教会の歴史とは、まだここで終わらないのだと言いたいのです。私どもは、これまで何度もローマは、「地の果て」を意味すると学びました。しかし、実はパウロは、ローマが伝道の終わりではなく、むしろ、ローマの信徒への手紙にありますようにはるかイスパニア、今のスペイン半島まで行くと公言しました。地の果ての果てです。実際にどうなったのかは実は分かりません。しかし、ルカは福音伝道がローマで終わるものではないことを確信したはずです。だからこそ、この終わり方でいいわけです。そしてルカ自身も歴史の中で消えて行き、これを継承する新しい世代が起こること、起こされることを確信していたはずです。

教会は生き物です。生命体です。生命体ですから心臓が動き、呼吸をし、そして行動します。生き物である教会にとっての鼓動、呼吸、行動こそ、福音伝道に他なりません。したがってこれこそ、いつの時代も変わらない教会の営みそのもの、いのちの活動そのものなのです。そうすると、この使徒言行録とは確かに歴史書ではありますが常に未完の作品であることを自らに課されたような性格を持っているだろうと思います。地上の教会には完成はなく、すべての教会、各個教会も全体教会の一部分としてそれぞれの地域、時代のなかで完成を目指して、途上の歩みを歩み続けるだけなのです。そして、その途上の歩みとは福音伝道なのです。もとより、そこには読書会で学んだような自転車の車輪の譬のように礼拝という働きがあり、教育や交わりがあり、ディアコニアがあるわけです。しかし、そのすべてを結ぶのがキリストの証言でした。神の国の拡大こそが教会の働きのまさに要なのです。それが、「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」と言う言葉で見事に言いあらわされています。

名古屋岩の上教会は、毎年、真剣に生きて参りました。開拓の祈り「ここに神の教会を、ここにキリストだけを主と告白する慰めの共同体、聖餐卓を囲む共同体を形成させてください。」この大きな目標があります。そして2008年の教会の言葉として編んだ告白があります。そして、毎年、目標を掲げて歩みます。先週、25周年記念誌委員会が開かれ、まず手始めにということで最近の年報に記載された牧師の回顧と展望を読み合わせたとのことです。確かに、私どもの教会の回顧と展望は、他の教会の牧師の回顧と展望の何倍もくわしく記されています。そこには、牧師が状況を分析し、皆さまと状況認識を共有し、心を一つにして、パウロが指摘したような決して空を打つような拳闘をしないこと、熟練した建築家のように教会の土台を据え、立てなければ教会の歴史をつくることができないからです。ですから、み言葉の説教者と説教の実りを見守る長老の務めがどれほど重大かを思います。

しかし、言わば述語となる私ども、器である私どもの存在と役割は極めて大切です。主語と述語がそろわなければ文章にならないように、復活されたキリストとキリスト者とが共に働くことがなければ、教会にはなりません。神律的相互関係です。神が主導権を握って、私どもを通して導き、実現してくださる関係です。
そしてその究極は何でしょうか。それは、聖霊が説教者を通して語られる生きた神の御言葉を、自分に対する言葉、教会に対する言葉として聞きとり、そしてそれに応えて生きること、それです。これは、500年まえ、私どもの先輩である教会の改革者たちが主張したことに他なりません。御言葉の正しい説教と正しい聴聞がなされるところに神の教会は存在するのです。つまり、説教とその聴聞と服従によって教会は立つのです。生きるのです。神の国は必ずその町に前進します。語る者も聞き従う者も、本当は主役ではありません。主人公ではありません。まことの主役、主人公は復活されて今も聖霊によってここに臨在しておられるイエス・キリストです。イエス・キリストが私どもをご自身を入れる器として働かれるのです。同時に、私どもひとり一人の名前は神の記憶、天国の歴史書にははっきりと刻まれます。永遠に残るのです。何と言う光栄でしょうか。これが神とその教会との相互関係です。そこに醍醐味があるのです。

これからも心を主と一つにし、そしてお互いに心を一つにして、させていただいて使徒言行録の続編、続刊を編んでまいりましょう。使徒言行路の地方版を、日本版、名古屋版を編んで参りましょう。とりわけ、この名古屋の地は、誰もが編むことができない、私どもだけに課された責任です。代わりになる人はおりません。どうぞ、この時代、この教会に召されたことの使命を、あらためて信仰をもって受け入れましょう。そして、あらためて続編を彩る私にさせてください。名古屋地方版で、この私を、この名古屋岩の上教会を神の国の進展の道具として用いて下さいと、祈りましょう。

祈祷
あなたは、私どもの教会に向かっても、主の日のたびに、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てると語り続け、そのようにして私どもの歩みを作って下さいました。私どももまた、使徒よりの教会として、この時代、この町、この国で神の国を宣べ伝え、キリストの福音を証しします。どうぞ、昨日も今日も永久に変わらない真実な生けるイエスさまが、私どもの教会を罪と誘惑、迫害や混乱から守り続け、主の教会として、主の栄光をあらわす教会として、使徒言行録の続きを編むものとならせて下さい。これまでの会員、今いる会員、やがて加えられる会員を祝福し、いよいよ、名古屋岩の上教会を整えて下さい。
アーメン。
目次
名古屋岩の上教会
〒458-0021
名古屋市緑区滝ノ水2-2012
TEL&FAX:052-895-6701 
メール:iwanoue■me.ccnw.ne.jp
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