名古屋岩の上教会

わたしはこの岩の上に私の教会を建てます。 -マタイによる福音書第16章18節-

6月18日


★   先週、大会役員修養会が豊橋シーパレスで開催されました。中部中会長老会の諸奉仕によって支えられています。来年で豊橋では最後の修養会となるとのこと。主題は、「70周年以後の課題検討」。修養会と銘打たれておりますが、実質は、大会のプレ集会のように性格をもった集いだろうと思います。日本キリスト改革派教会は70周年の歴史を経て、日本社会同様、過渡期を迎えています。「役員」修養会ではありますが、私どもは長老や執事を送り出したことはありません。大変な費用がかかるからです。そしてまさにそのような教会の現実を踏まえての発題がなされ、懇談がなされました。

☆   先週の主日は、金城学院の生徒たちによるハープコンサートは、美しい音色と共に彼女たちの演奏そのものからも「癒し」を受けた方は多かったと思います。礼拝堂に多数のハープが入るだろうかと案じていましたが、ぴったりでした。説教は彼女たちのためにもとの思いで、お話し致しました。

★   その後、緊急で開催された「緑区の会」主催による「コッカイオンドク」は、案内の時間が足りませんでしたが17名の出席でした。〇執事、〇兄そして〇兄が大臣や議員役となって下さいました。これは、全国規模の企画となった集いで、多くのメディアに取り上げられたようです。(※成立後も、全国各地で進行中、拡大中です)しかし、名古屋は当日、三カ所(最も多い?)でしたから、私どもへの取材はありませんでした。日本に民主主義を根付かせるためのこの行動は、極めて有効だと実感させられました。

☆★☆  参議院本会議は徹夜で開催され、15日の朝、 「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律」が可決されました。公共放送にもかかわらず放映せず、一貫して「テロ等準備罪」という政府がつけた「偽り」の呼称を用いました。一般人なら寝ている時間に本会議で強行採決とは。いかに国民に知られたくない法律であることかを思います。大会役員修養会でも一人の弁護士(長老)が発題された由。レジュメには、当然「法(案)」とありましたが、講演開始時には成立していました。キリストを主とし頭とする教会にとって、もはや信仰告白的事態にあることは議論の余地はないだろうと思います。

しかし、「私たちの助けは、天地を造られた主の御名に」(詩編第124編)あります。真の神が「摂理」されるゆえに全世界はずっと保持されてきました。父なる神は御子イエス・キリストにおいて、その聖霊によって、非信者の方々にも働きかけていて下さいます。主キリストに積極的に反抗する悪の霊を統御(支配)しておらます。神が一瞬でも手を抜かれるようなことがあれば、人間の社会は、人の罪によって崩壊するしかありません。この現実は、「核」の時代を迎えた今こそリアルに迫ります。

     たしかに、創世記に示されている通り、神は人間の罪によって、ご自身が創造されたこの世界を完全な崩壊までは、許容されませんでした。罪を犯した人間を完全には滅ぼされませんでした。確かに、神のかたちとして、神のようにすばらしく、美しく造られた人間は、自らの罪によってそのかたちを粉々に破壊してしまいました。しかし、なお人間であり続けています。破壊されてはいますが「神を求める心」が残っています。ただし、キリストの救いなしには偶像礼拝へと傾くのみです。それでもなお神は、人の心に働きかけ、ご自身の御心を遂行させることもおできになるし、事実、なさっておられます。

また、罪深い人間には、「人によく見られたい」、「ほめられたい」、「役に立ちたい」という純粋な気持ちがあります。確かに、それらを掘り下げて考察すれば、結局は、自己中心の罪によるものだと言わなければならないでしょう。ただし神は、そのような自己中心で自己防衛を優先する人間の思いをも、ご自身の栄光と人間の幸福に逆手にとるかのようにして用いられます。真の神は、人間どうしがお互いの敵にならないように、よい騎手が暴れ馬を見事な綱さばきをもって制御しておられます。あのパウロをユダヤ人の暗殺から守った千人隊長クラウディウスやローマ総督フェリクス(使徒言行録24章)は、何も、パウロやキリスト教がすばらしいし、支援したいと思ってパウロを守ったわけではありませんでした。ただ自分たちの仕事に対しての責任感やプライドがそうしたのです。今こそ、神の「手綱(たずな)」を信頼しましょう。「主は羊飼い」なのです。鞭と杖をもって教会を守り、今朝も「命の食卓」、つまり礼拝式でもてなして下さいます。

   憲法第12条は、「自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」とされています。誰かが「12条する」という言葉をつくりました。不断の努力なくして自由と権利を保持することはできません。その意味で、はっきり認識しなければならないのは、市民が努力を怠り、誰よりキリスト者と教会の責任を問わざるを得ません。その筆頭は、牧師である私、そう思わされています。しかし諦めたり、委縮したりせず、私どもはいつものように、あるいは、いつにもまして「福音し」続けてまいりましょう。

金城学院高等学校 ハープアンサンブル部コンサート メッセージ

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」
 2017年6月10日 金城学院高等学校ハープコンサート バイブルメッセージ

  すばらしい演奏を聴かせて下さった金城学院高等学校のハープアンサンブルの皆さんに感謝いたします。
また、本日、お忙しい中お集まりくださいました皆さまにも心から感謝致します。歓迎致します。
つくづく音楽とは、神からの贈り物だと思います。聖書の中にもそのような教えがあります。しかもハープは、旧約聖書の中にすでに登場している楽器です。オルガンなど何もない時代から、ユダヤの人々は、このハープを用いて神さまに賛美を歌っていたことが分かります。それが、まとめられたのが旧約聖書の中の詩編という書物です。そしてこの詩編の中の多くの詩を歌ったのが、ハープの名手ダビデという人でした。このような有名なお話しがあります。時のユダヤの初代の王となったサウルは、王としてのさまざまな重圧で精神的に参っていました。鬱状態になったのです。そのようなとき、ダビデが奏でた竪琴の音色で、心は落ち着いて、元気が出たと聖書の中に記されています。私たちも今、彼女たちの演奏でそのようになっているのではないでしょうか。神さまからのプレゼントです。

さて、音楽は神からの贈り物ですが、それとは比べられないほどのプレゼントがあります。それは、聖書のみ言葉です。神さまのみ言葉そのものです。少しだけご紹介し、お贈りいたします。

個人的なことで恐縮ですが、もう10年ちかく前になってしまいますが金城学院大学で聖書の講義をしていました。わたしの授業は、キリスト教学というもので一年生の方々は必須科目です。そこでいろいろなレポートを書いてもらうのですが、今でも忘れがたいことがあります。それは、金城学院高校から入学された学生の多くのレポートに共通していた一つの事例です。おそらく中学校の入学式のときだったかと思います。「この聖書のみ言葉を入学式で聞いてびっくりした」と言うのです。どんなみ言葉かと言いますと、ヨハネによる福音書第15章16節にある主イエスのみ言葉です。こうあります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」レポートの中で、自分はこの学校を自分で選んで入ったのだという学生や、自分は、この学校に入りたくて入ったわけではなかったのにという学生もいました。しかし、彼女たちは、入学式でこの学校に入学したのは決して偶然ではないのだ、神さまの深いご計画があるのだということをきいてびっくりしたというのです。私は、その驚きは、彼女たちの生涯にとって、とても意義深いものだと思います。

確かに、「人生は選択だ」と言われます。日々、何を選んで生きるのか、その連続が人生です。若い方々にとっては、学校の選択はきわめて大切です。しかし、若い時に、人生というのは、自分の思い通りに行かないことが多いのだということを真剣に考えることができれば、すばらしい事だと思います。人間には、自分の力ではどうすることもできない現実があるからです。すべてを自分で選んで、道を切り開いて行くというわけにはいかないのです。

さてそもそも、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ」というみ言葉は、イエスさまが弟子たちに、おっしゃった言葉です。つまり、イエスさまの方が弟子たちを選んだと言うことです。何のために選んだのかと言えば、前後関係を読むと、「友だちにするためだ」と書いてあります。
これは私たちの常識だと思いますが、友だちを選ぶのは自分じしんです。同時に、相手にも自分を友だちだと選んでもらえないと、本当の意味での友だちにはなれないということです。ここに友だち関係、人間関係の難しさがあります。

本当に友達関係一つをとってみても自分の思い通りに行かないのが人生です。繰り返しますが、自分の力ではどうすることもできない現実というものが実際にあるのです。しかし、私は今、ここに神によって集められている皆さまに、主イエスのみ言葉を改めてお伝えします。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」

このイエスさまの宣言ほどありがたいものはありません。この約束によって、この宣言を信じることで、私たちの人生は決定的に安定します。土台が座ります。基盤ができます。何故なら、イエス・キリストというこの友だちは、私たちを絶対裏切らないお方だからです。イエス・キリストは、絶対、私たちをお見捨てにならないお方だからです。たとえ自分がどんな不誠実な友だちでも、イエス・キリストは絶対、友だち関係を切らないお方だからです。イエス・キリストは、まことの人間で、そして神さまの独り子だからです。真実なお方だからです。

みなさん、私たちはここから人生を始めることができます。たといどんなに苦しいことや悲しいことが突然起こったとしても、絶対大丈夫という世界が、この世界のただ中にあります。それは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」とおっしゃるイエスさまと共に生きる世界です。イエスさまに友だちになってもらうという世界です。どうぞ、この私たちにとってもっとも大切な友だち、そして救い主でいらっしゃるイエスさまのみ言葉を信じて下さい。そして、私は、こんな頼りがいのある友だちになってもらったのだと、そこから人生を始めて下さい。あるいは、やり直してください。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」この確かな、揺るぎない神のみ言葉が皆さまをしっかりとお支え下さり、琴の音色にまさって、元気を与えて下さいますように。

名古屋岩の上教会ウェブサイト

教会の公式ホームページもご覧ください 
名古屋岩の上教会ウェブサイト">http://iwanoue.com/

「今、誰を信じて行けばよいのか?」

「今、誰を信じて行けばよいのか?」
主日礼拝式 2017年6月11日
聖書朗読  ヨハネによる福音書第10章7−21節
【イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」】


ようこそ、私どもの教会にお越しくださいました。生まれて初めてキリスト教会に来て下さった方がいらっしゃれば本当にうれしく、心から歓迎致します。あるいは久しぶりにお越し下さった方もいらっしゃると思います。心から歓迎致します。

日曜日の礼拝式の中心は、聖書の朗読を聴くことと、聖書から神さまのみ言葉の説き明し、語りかけである説教を聴くことにあります。今朝もまた、いつものように聖書を学び、そこから響いてくる神の御声を聴き取って礼拝を捧げます。今朝は、特に、イエス・キリストというお方の実に不思議な自己紹介を学びます。

さて、そもそものお話しです。このイエスが活躍された紀元1世紀のイスラエルという社会、時代とは、どのようなものだったのでしょうか。当時の世界は、ローマ帝国の最初の皇帝としてアウグストゥスが即位した時代です。皇帝の絶対的権力によって帝国の統治が安定化し始めたのです。いよいよ、支配の地域、領土が拡大されるようになった時代です。彼らは、周辺の国々や民族を前にして、圧倒的軍事力や経済力を誇っていました。イエスさまが誕生なさったイスラエルという国家は、ローマ帝国を前にして極めて小さな、力のない国家でしかありませんんでした。しかし、ローマ帝国は基本的には、暴力的ではありませんでした。きちんと税金を納めてさえいれば、自分たちの自治権をある程度認めていました。とても賢い政治を行っていたと言えると思います。そして、イスラエルという国の指導者たち、それは同時に宗教指導者を意味しましたが、彼らは積極的にローマの平和、ローマ帝国の安全保障の傘の中に入ったのです。こうして、ローマ帝国の支配を受けつつ、一定の自治権を持ちつつという微妙な立ち位置の中で国を運営していました。そのようなイスラエルの指導者たち、いわゆる体制側の人々、国家を代表する人々が、エルサレム神殿に仕えていた祭司たちの一大グループでした。この人たちこそ、当時のイスラエルの特権階級、エリート政治集団、政治家であり官僚でした。さてそれに対して、多くの庶民は、決して快く思っていませんでした。多くのユダヤ人たちは、二重の税金に苦しめられていたからです。自分たちの国に納める税金とローマ帝国に納める税金です。しかも、自分たちの苦しみはよそに祭司たちの利権集団は、みんな贅沢な暮らしを楽しんで、庶民の暮らしなどかまっていなかったのです。このようにお話ししていると、今の日本の国の深い闇の部分とそっくりだったということがお分かりになるのではないでしょうか。日本とアメリカの関係、日本の為政者たちと一般の人々との関係です。

さて、それに対して、ユダヤ社会にはもう一つのグループがいました。その人たちは律法学者と言います。聖書を解釈し、教える指導者です。そもそもユダヤ人は、聖書の民です。ですから、聖書の解説をする宗教指導者である律法学者つまり聖書学者たちが多くの人々の尊敬を勝ち得ていたのです。そして、その聖書学者たちを中心にして宗教集団を構成していたのがファリサイ派と呼ばれる人々でした。

実は、新約聖書の福音書には、繰り返し、この人々が登場します。どのように登場するのかと言いますと、パターンがあります。それは、イエスさまに対して一貫して批判的、攻撃的ということです。逆に言えば、イエスさまもこのファリサイ派の人々と激しく対立せざるをえませんでした。

さて、ここでもまさに、同じことが起こっています。6節は読みませんでしたが、はっきりと記されています。イエスさまは、ファリサイ派の人たちのために心を込めて、心を砕いてたとえ話を語られました。主イエスは、何とかして神さまの真理を、正しい信仰の道を悟って欲しかったからです。ところが、ファリサイ派の人々は、イエスさまのお話しをまったく理解できませんでした。「彼らはその話が何のことか分からなかった」とあります。

先程お読みました19節以下には、やはりファリサイ派の人々がこう言っています。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。」もはや、イエスさまの説教を聴く耳を持たないということです。むしろ、こんな男の話は聞いてはいけないし、語らせてはいけないということです。

イエスさまは神の御子でいらっしゃるのに、そのイエスさまに向かって、自分たちの理解を持てあますような教えや発言をしたからと言って、悪霊に取りつかれているとは、恐ろしい冒涜です。しかし、それこそが彼らの本心、本音でした。逆に申しますと、彼らは、一つだけはっきりと理解していることがあるのです。それは何か、このお話しは結局、自分たちに対する決定的な、根本的な批判だということです。そして、その理解は間違っていません。

さて、キリスト教の教えの中でもっとも大切なテーマがあります。聖書66巻、旧約聖書と新約聖書を貫いている大きな主題があります。それは、「神の国」です。神の国とは、天と地を創造された神さま、この世界、宇宙と地球を創造された神さまがご支配くださるいわゆる天国のことです。すばらしい、これ以上にない世界、想像を絶する完璧に美しく、楽しく、すばらしい神さまと私たち人間と動物とすべてのものが愛をもって結ばれ、秩序をもって生きて行く世界のことです。それが神の国です。神の国は神によって造られています。その世界の主人公はしかし、わたしたち人間なのです。神は、私たち人間を神さまの形に似せて創造してくださいました。もともと人間ほどすばらしい、尊い、大切ないのち、存在はないのです。神よりほんのわずか低く創造されたのです。それほど神さまにとって尊い、大切な人間なのですから、神は、この人間をご自身と共に生きるように、ご自身と共に暮らせる完璧な場所を造って下さいました。しかし、その国で生きるためにはたったひとつの条件がありました。それは神さまは神さま、人間は人間、その違いを弁えることでした。ところが、最初の人間アダムは、自分たちを神さまのようになれるとうぬぼれて、神さまの愛と信頼を裏切り、神さまのみ言葉を投げ捨て、神とそのみ言葉に背いたのです。その時から、人間はこの神の国から追放され、さまよい歩くようになりました。その末裔が私たちです。その子孫が私たちなのです。そして、人間の国に生まれ、この国は神さまの愛と支配が完璧に及ばず、人間の悪と罪、それを利用して悪魔が不義や不正によって、闇のような、暗黒の世界になっているその世に生を受け、今の生活を造っているのです。これが、ざっとした聖書の世界観、歴史観です。

この世界、この社会は簡単に言えば、弱肉強食の世界になってしまいました。人間が自分が一番、自分が第一となって、お互いに愛し合い、信頼し合い、尊敬しあうことができなくなったのです。本来の人間の姿を、神の前に犯した罪によって破壊したからです。そもそも、自分自身が信頼に値しないような人間になってしまったのです。愛されるに値しないような自分になってしまったのです。ですから、自分以外の相手ともまた本来の、最初の人間の美しさを失ったので互いに利用し合い、奪い合い、ぶつかりあってしまうのです。そして、力の強い者が、自分たちのその力を拡大し、保存し、優先させる仕組みを造り続けているのです。わずかな権力者やいわゆる成功者に対して、弱くされた人々、小さくされた人々は大勢になります。そして、じぶんについて来るといいことがありますよ、自分の側にいれば、悪い事にはなりませんよということを、言いふらして、多くの人たちを連れて行くのが、昔も今も、人間の世界の現実だろうと思います。

祭司たちのグループは、ユダヤの民衆を税金によって苦しめていました。ファリサイ派のグループたちは民衆を自分たちが勝手に造り出した宗教によって苦しめていました。そして、この現実は今日もまた、日本だけではなくまさに世界の現実に他ならないだろうと思います。経済力、軍事力、宗教等によって人々は虐げられているように思います。

さて、今朝のイエスさまの説教を読みました。私は何度読んでも、このときのイエスさまのお怒り、悲しみはどれほどのものだったのだろうかと思わざるを得ません。何より当時の、庶民、民衆に対する愛はどれほどのものだったのかと、胸が熱くなるのです。この時のイエスさまの激しい愛を思うとき、涙が出ます。

イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。」皆さん、誰からか、「泥棒」とか「強盗」と呼びつけられたことはあるでしょうか。おそらくないのではと思います。また、泥棒とか強盗と叫んだことのある方も、おそらくないのではないかと思います。しかし、ここで神の御子でいらっしゃるイエス・キリストが、泥棒、強盗だと吠えておられるのです。いったい誰のことなのでしょうか。それは、これまでの世代の民の支配者たちのことでしょう。そして何よりも今、目の前にいる政治の世界、経済の世界、宗教の世界の指導者、支配者たちのことです。本当は、この人たちはイエスさまの下に、つまり神のもとに身を低くして、神によって造られた人間の安全な暮らし、健康な暮らしが維持できるように力を与えられた人々なのです。ところが、彼らは思い上がって、神によって造られた大切な、かけがえのない一人ひとりを自分の幸福や自分の権力や自分のもうけのために利用しているのです。だから泥棒と叫んだのです。強盗だと指摘なさったのです。そして、ここは少し深い聖書の教えですが、このように批判できるのは、本来、この世界のまことの創造者でいらっしゃり、統治者でいらっしゃる主イエス・キリストただお一人だけです。これは、イエスさまだからこそ言える言葉、批判なのです。そのことを、知った人たちは、イエスさまの真似をして、ああ、あなたたちは強盗だぞ、泥棒だぞ、それは、神さまから受けた力、権力を自分のために横取りしているからだ。そして、この私は、神さまによって命を与えられたのだから、この私を自由にできるのは、神さまだけ、イエスさまだけなのだ、だから、私を盗むな、わたしの自由を奪うなと言えるのです。         

そして、イエスさまは、こう仰いました。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。」すばらしいですね。羊とは、ここにいる私たちのことを指しておっしゃったのです。弟子たちのことです。  
        
次に進みます。イエスさまは、私たちの門でいらっしゃると自己紹介なさいました。なんとも不思議な、聞いた事もない自己紹介です。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」         

 門というのなら、何の門でしょうか。先程の聖書の大テーマのことです。神の国の門です。天国の門です。イエスさまは、この世の国家の王さま、大統領、総理大臣になろうとなさいません。民衆は、ものすごく興奮しながら、イエスさまを王にしようと支持しました。ところがイエスさまは最初から最後まで、ご自分の国はこの世の国、そのようなちっぽけな国ではないと語り続けられました。そうです。イエスさまは、この世の、限りある、どこかの大統領だとか皇帝だとかとはまったく異次元の方でいらっしゃいます。

人間が自らの罪、神の言葉に背いて、神の国から追放され、さまよい歩いて、偽の王に騙され、偽の権力者に奪われていた人々、つまり羊たちのために、もう一度、本来の場所に招き返す、その羊の群れの安全な囲いの中に戻し入れるために、天から下って来られた真の王、王の王、救い主でいらっしゃるのです。そして、人間とは、この救い主のもとでのみ、人間にとってのまことの食物、命の糧である牧草を食べることができるのです。人間にとっての本当の食べ物とは、ごはんや味噌汁ではないのです。確かに、それは、体の健康のために絶対的に必要です。しかし、人間の本当の健康、健やかさのために必要なのは、この羊の門を通って、この牧草から受ける栄養です。それは、神さまのみ言葉のことです。聖書のことです。聖書の主人公のイエス・キリストご自身のことなのです。このイエス・キリストと言うお方は、ご自分のことを、命のパン、いのちのごはんなのだとも自己紹介なさったのは、その意味です。
  
 さて、次の主の御声を聴きましょう。「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。」 また羊泥棒である指導者、権力者たちに対してこう語られました。「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」イエスさまの目には、祭司たちのグループもそして今目の前にいたファリサイ派のグループも、羊のためだ、人間のためだ、国家のためだと言いながら、結局、自分たちのために人々を利用しているのだということが、はっきりと、見抜かれていらっしゃったのです。本当に羊たちが狼に襲われるときには、一目散に逃げるというのです。何故なら、もともと、彼らは羊の、つまり人間のまことの羊飼いではないからです。偽りの羊飼いだからです。偽りの導き手です。そのような人々にこれも、私たちのたかだか70年前の歴史を少しでも調べてみればただちに分かります。

 さて、それだけに、主イエスは、ご自身の羊にほかならない私たちのことをご覧になられたとき、心ばかりか内臓にまで激動が走られました。全身を震わせられるようにして、あの泥棒どもに苦しめられ、弱くされ、小さくされている人々を前に語られたのです。「わたしは彼らとはまったく違うのだ」そう語らずにおれなかったのです。それがこのみ言葉です。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。」私こそが、ただ神の国の王の王、天国の主であるこのわたしこそが、このわたしだけが、ごはんやパンを与えて、養うばかりか、人間にとってなくてならないただ一つのもの、神のいのち、イエスさまのなかにある永遠のいのち、死んでも死なないいのち、復活のいのち、何度倒れても、立ち上がれるいのちを与えるのだ。

そしてここでついに決定的な、聖書の中でもまさに根本的に重要なイエスさまの自己紹介がなされます。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」皆さん、この世界の中で、この人類の歴史のなかでいったい羊のために、羊飼いが命を捨てたという例はあるのでしょうか。確かに、似たような出来事や人物はいました。しかし、悲しいことですが、結局は、狼に命を奪われた人でしかなかったかと思います。つまり、命を捨てるのではなく、命を奪われるということです。これも、丁寧にお話しすべき大切な真理です。全人類の中で、ただこの真の羊飼いお一人だけが命を捨てる力をお持ちなのです。そして、それは、その捨てた命を、再び、天の父なる神からお受けになることができるからなのです。

みなさん、このイエスさまは、私たちのために、私たちを罪とその支配から解放するために命を十字架に捨てられました。私たちに永遠のいのちを与えるためにご自身の命を、贖いの代価、身代金として十字架の上で支払って下さいました。犠牲になられたのです。このイエスさましか、そのような犠牲を払って、羊を取り戻すことがおできにならないからです。

今、私たちは、誰を信じて、誰について行っているのでしょうか。今朝の説教の題をご覧になられて、ある方は、私は、宗教に頼って、神を信じて、ついて行くような生き方はそれこそ、本来の理性的な、きちんとした人間のすることではないと、大きな声では言わないまでも心の中で考えている方は少なくありません。しかし、まじめに考えれば、それはまったく当たらない、誤解でしかないだろうと思います。理性的で、意思もしっかりして、健康でもある自分は、自分の心の思うままに生きるのだと、考えているでしょうが、しかし、本当でしょうか。結局、自分を神にする、まさに、あの最初の人アダムそのままの生き方でしかないのです。そして、ほとんどの場合は、この世の価値観に絡め取られているのではないでしょうか。

私どもも、確かに、あの祭司グループや律法学者グループになど、ついて行ってはならないと考えているかもしれません。先週、中国や韓国の大学受験の競争はすさまじいとテレビを観ました。しかし、日本も同じだろうと思います。大きな会社、安定した立場に立ちたい、今だけ、自分だけ、お金だけ、そのような価値観が実は、私たちの支配者になっていないでしょうか。私たちはそのような支配者になびいて、ついて行って良いのでしょうか。

主イエスは、私たちのために命を十字架でお捨てになられるほど、私たちを愛しておられます。この愛の囲い、この神の国の中に生きることこそ、この世を生きるもっとも確かな道です。今朝、この羊飼いを信じ、この羊飼いの招きに応えて生きて参りましょう。

皆様の上に、このイエスさまの愛と恵み、父なる神さまの愛と祝福、聖霊なる神さまの愛と力が豊かに注がれますように。

祈祷
私たちの羊の飼い主でいらっしゃる主イエス・キリストの父なる御神、今朝、あなたの教会に招かれました。既に、私たちは羊飼いイエスさまの命の恵み、祝福にここであずかっています。どうぞ、初めて来られた方、求道の友の上に、子どもたちの上に、あなたについて行きたいとの願いを起こさせ、イエスさまを信じる信仰を与えて下さい。既に、羊とされたキリスト者たちもまた、この信仰に溢れさせ、命と元気に満たして下さい。 アーメン。

6月11日


★  先週は、臨時会員総会を開催し、満場一致で墓地関連の三提案が一括して受け入れられました。予定終了時間は超過しましたが、閉会後、議場から渡辺長老(委員長)への労いの言葉が掛けられ、大きな拍手が沸き起こりました。グッときました。2年の歩みのなかで、委員会も小会も試行錯誤を重ねた面は否めません。小会はきちんと総括し、今後に生かす決意です。教会の頭イエスさまが、ご自身の聖霊によって委員会の議論を導き、会員懇談を導き、2度の会員総会をも導かれました。その導きに、私どもが従えたこと、それが何より嬉しいことでした。確かに、私どもは、政治規準にもとづき最終的には票決(多数決)をもって、教会の意思を決定いたします。しかし、決して多数決を優先しないのです。復活祭での献墓を断念してでも、このような決議を祈り願ったわけです。主キリストの御名を賛美し、栄光を帰します。

☆   伝道月間が始まりました。確かに毎主日、毎月、伝道(宣教)の「時」ですから、本来、「伝道月間」などおかしいのです。しかしそれでも、新しい方をお誘いしやすい礼拝式と集会を企画するのは意義があると思います。説教とは、神の言葉の説き明しです。聖書と同様、それが「分かる」のは、ただ聖霊のお働きのみです。それを信じない場合に、説教はむしろ罪を犯します。聖霊のお働きを祈って下さい。家族、知人のためにも。次主日は、他派の山口陽一教授(牧師)をお迎えします。異例のことですが「同志」なのです。

☆★☆                      <沖縄ディアコニア>
◆ 今回のディアコニアの決定的な意義は、小会の決議(発議)と総会の承認、教会からの献金と皆様からの募金によって、まさに教会を代表し、沖縄に派遣していただいたことにあると思います。
会計よりの3万に募金を合わせて10万円が与えられ、右記に用いました。4泊5日。なお、講師謝礼は、献金致しました。

◆  そもそも、私どもは既に「教会のディアコニア(愛の業・奉仕)」として、東北被災地支援を教会を挙げて取り組んでいます。「支援室」は、徹底的に教会の委託を受けて働く「機関」です。つまり、私どもは、  単に個人的、有志のキリスト者のボランティア活動を、教会が「側面」から支援するというあり方ではなく、「正面」から、つまり教会の「働き」として担ってまいりました。たとい現地に赴く者はわずかであっても、  奉仕者は、当教会を代表し、その意思と祈りを体現する器として奉仕してまいりました。ちなみに、政治的ディアコニア室もまた、信仰告白の事態を迎えたという小会の共通認識の下、始められました。

 ◆  今回も、本質は同じです。しかし、これまでは、やはり私の主導という事実があります。ところが今回の沖縄ディアコニアは、言わば「不意打ち」でした。年間計画を整える責任を負う小会議員が提案されたのです。戸惑いました。しかし、私どもは祈祷会で、フクシマ・オキナワに象徴される日本の差別の構造の改善を祈り続けてまいりました。その祈りへの、神からの一つの応答のようにも思えました。

 ◆  被災地ディアコニアのために作った緑のビブスをここでも着用して、座り込みました。それは、極めて象徴的な姿だと思います。そこには、単に政治や平和、公平や正義等に関心の強い個人としての牧師がいるのではありません。名古屋岩の上教会から派遣された牧師がそこにいるのです。同時に、思います。キリスト者でありしかも牧師であるわたしがそこにいるということは、まぎれもなく!主イエス・キリストがそこに共におられるということです。正確に言うべきです。既に、イエスさまはずっとおられました。私は、 主を追いかけに行った(ものすごく遅刻したとの感が否めませんが!)ということでしかありません。

◆ ちょうど隣に座られたのは、辺野古にある日蓮宗の僧侶でした。この宗派は、国会前に行ったときにもお見受けした知る人ぞ知る宗派の方々です。わたしはこのようにご挨拶させていただきました。「歴史の現場には、いつも皆さんがいて下さいますね。すばらしいです」地上には、言わば歴史の「先端」のような場所と時があると思います。左右に別れる道です。そこに「宗教者」が立つことの意義を思います。彼らから、キリスト教会は問われているだろうとも思わされました。(修行の大切さ・・・。キリスト者は修練!!)

  ◆  本日のスタンディングも同じことです。神の教会の生命は主の日の礼拝式にあります。礼拝式の生命はキリストの臨在です。そして、今ここにキリストが臨在しておられるということは、紛れもなく、この町にもキリストが聖霊において臨在し、働き続けておられるということです。主と共に座り、立つのです。


☆  先週、ご紹介した教団上地教会では、役員会でウェストミンスター大教理問答を、家庭集会で「子どもと親のカテキズム」を学び始めているとのこと。まさに望外の喜び、出来事です。感謝致します。
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名古屋岩の上教会
〒458-0021
名古屋市緑区滝ノ水2-2012
TEL&FAX:052-895-6701 
メール:iwanoue■me.ccnw.ne.jp
※■を@に変えてください。
牧師紹介
□牧師 相馬伸郎□
下記の定例集会にどなたもお気軽にお越しください!心から歓迎いたします。
求めるあなたに、かならず、救いが与えられます。


□主日礼拝式□
毎週日曜日
10:30〜12:00

□子どもの教会□
毎週日曜日 
嬰児から高校生まで
9:00〜10:00

□祈祷会□
毎週水曜日 
朝 10:00〜11:30
夜 19:30〜21:00

個人的学び会 随時 牧師にお気軽にお問い合わせ下さい!

【子供と父母のハートステーション】が始まっています。 詳しくは、ニュースをごらんください!

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