名古屋岩の上教会

わたしはこの岩の上に私の教会を建てます。 -マタイによる福音書第16章18節-

「福音から律法へ:物語から掟へ㉘」

「福音から律法へ:物語から掟へ㉘」
                      2024年5月26日
テキスト 出エジプト記 第20章1節−11節
【神はこれらすべての言葉を告げられた。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
 8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。】
                              
  今朝は、1節と2節から、特にイスラエルの主なる神の自己紹介である2節を中心に扱います。1節で「神はこれらすべての言葉を告げられた。」とあります。これを厳密に訳せば、冒頭に「そして」「それから」を付けることができます。英語で言えば、andです。つまり第19章をきちんと受け留めて十戒が示されるということであります。第19章で主なる神は、シナイ山からモーセに語り掛けられました。そして、その神の語りをそのままイスラエル、神の民に告げたのであります。山から主は彼に語りかけてこのように言われました。「あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。」あなた方は体験したでしょう。まるで鷲のつばさに乗せられるようにして、わたしの奇跡によってここに連れ出されたことを。あなたがたは、私の宝なのだ。神の愛の告白です。そして、神の民はこの神のプロポーズにこのように応じたのであります。8節「民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」

 十戒が与えられるのは、まさにこのような神と民との契約の絆としてのものなのであります。そして神は、あらためてこう宣言なさいます。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」この神の自己紹介こそ、十戒が十戒として正しく機能するか否かのまさに大前提です。この神の自己紹介は、出エジプト記の講解説教のすべてを含んだ上でのものです。さらに言えば、創世記50章全部を上に乗せた、その重みをもっています。もし、十戒をこの自己紹介から切り離して、理解しようとするならそれは、もはや無意味と言っても言い過ぎではありません。

 たとい今朝の説教の内容をお忘れになられても説教題だけは心と頭に刻んで欲しいと思います。改革派信仰、改革派の聖書理解を一言で纏めることができると考えるからです。「福音から律法へ」です。副題は「物語から掟へ」です。今朝の説教はその意味で、聖書を読む読み方の基本中の基本を確認するものでもあります。そもそも、聖書全体は福音と律法の二つに区分することができます。福音とは、神さまが私どものためにどのようなことをして下さったのかという、神ご自身とそのお働き、御心のことです。律法とは、神が人間に与えて下さった義務です。確かに義務と言われて嬉しくなる人はいらっしゃらないと思います。しかし、この福音の神が私どもに義務を与えて下さるのです。もし福音とその神が分かれば、この義務は必ず嬉しいものとなる、喜びとなるのであります。そこに救いの恵みのすばらしさがあります。これが、言わばキリスト教のすばらしさです。聖書は確かに人間が記しました。多くの人々がこれを編纂し遂に完成したものです。

 これは前の説教のおさらいですが、実はキリスト教会の中で、この二つの相互関係について意見が分かれています。実は、ローマ教会やルター派等多くの教会は「律法から福音へ」という方向性を保持しています。実は、ヨーロッパの改革派の代表的な信仰告白であるハイデルベルグ信仰問答は、福音の神のすばらしさ、救いの慰めを知るためには、第一に自分の罪とその悲惨さを知ることと冒頭で確認します。次に、どうしたら自分の罪から救われるのかを知ることと言います。言わば、律法から福音へという論理です。このような特徴から、ある人は、これはルター派のような信仰問答で改革派のものではないと言われることもある程です。詳しいことはまた祈祷会などでと思います。その意味では、律法から福音へという方向性が聖書的ではないとまで断言できるかどうかは微妙です。

 しかし、少なくとも私どもは福音から律法へという論理こそ、聖書の基本的論理、明らかな流れであると信じ、理解しているのであります。何故なら、これはごく単純素朴な事実だと思うからです。聖書は、私どもが今学んでいる通り、決して十戒を、神の救いの物語から切り離して提示していません。いかなる意味でも、十戒は単なる法律文書、一般社会、世界に向けた法律ではないのであります。十戒は、聖書の神からのこの上なく尊い贈り物なのです。

 たとえば改革派以外の多くの教派では、十戒を唱えるときに、いきなり「あなたはわたしの他に何ものをも神としてはならない」この第一戒から読みます。十戒ですから当然と言えば当然かもしれません。しかし、私どもは常に神の自己紹介を読んでから唱えるのです。それは、つまり、福音から切り離して読まないということです。神の救いの壮大な出来事、神の物語から決して切り離して読まないということです。聖書の読み方をここで告白しているとすら思います。

  私は十戒を唱えるとき、胸が熱くなります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」いったい、この神の自己紹介ほど、神の私どもへのまっすぐな愛の告白があるでしょうか。

「わたしは主」これは、イスラエル、神の民に示された神の御名です。神さまのご本質です。わたしはヤッハウェである。それは、アブラハムからイサク、ヤコブ、ヨセフに相対された神の本質、そして決定的にはモーセが燃える柴の中から、教えていただいた「わたしはある。わたしはあるというものだ」という響きが込められています。しかも、それはひとりモーセだけに啓示された神のご本質、神の御名ではありません。この掟を聴くすべての人のために明らかにされたのであります。

しかも、このヤッハウェは、「あなたの神」と畳み込んで下さいます。天地創造の神でいらっしゃる神が、あなた方つまり神の民の神であり、同時に、あなたつまりわたしの個人的な神でもあるのだと仰るのです。聖書の神理解の中で、これは神の言わば大冒険です。何故なら、神と顔と顔を合わせるように近づく者は死ぬ、滅ぼされるという神理解が旧約聖書の前提とされているからです。それにもかかわらず、神の方から私どもに近づいてくださり、あなたの神とおっしゃるのです。これは、人は死んだら仏や神になる、権力者はだいたい神になって祀られるといような日本人の多神教の世界観からはピンと来ないかもしれません。しかし、いかなる像をも刻んではならないと命じて下さるこの神が、言わば、その危険を自ら冒すかのようにして、私どもの神となって、近づいて下さるのです。ごく親しい関わりを持ってくださるのです。

 わたしは、毎主日、司式者の特権のようにして、この箇所を読ませて頂いています。「あなたの神」のところで、胸が熱くなります。「わたしはあなたの神、主である」礼拝式でこの神からの愛の告白、プロポーズを聴けたら、たといその日の説教が何も心に響かなくても、一週間、生きて行けるのではないか、これは、説教者の怠慢とか逃げではなく、心からそう思うのです。

わたはあなたの神、主とそれだけでも十分な恵みです。ところが神はその証拠まできちんと明示なさいます。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」歴史的な事実を告げられるるのです。このみ言葉は、言わば出エジプト物語の要約です。ここで救いの御業を御自ら語られるのです。「ほら、わたしは口先の愛ではなく事実に基づく愛である」そういう意味です。

  ここで少し横道にそれます。十戒がシナイ山で与えられたという物語を歴史的根拠とするなら、この時点でイスラエルは確かに、奴隷の家、エジプトから脱出しましたが最終的な約束の地には到着していません。モーセじしんはその地に入れませんでした。ここで、悟るべきことは、神の民は、愛してくださる神、救って下さる神を、将来に渡って信じることが求められているということであります。今、目の前に起こっていなくても、必ず約束は実現するという期待、信頼が求められているのであります。

 これも第19章のおさらいですが、もう一点、確認しましょう。そもそもイスラエルは、十戒の内容、掟の内容を教えてもらう前に、「私たちは、主が語られたことをすべて、行います」と誓約しています。実に、神と人との関係とは、愛と信頼の関係なのです。神と人との関係性を契約と申します。

これは地上におけるもろもろの契約とは異なっています。私どもは契約書にサインをするとき、少なくともそこに何が記されているのかを確認するはずです。互いの条件がおりあうそのところで契約は交わされ、成立するはずです。しかし、神と人とのこの十戒における究極の愛の契約は、神の民は、その内容、その文書をつぶさに検証して、さて、これを守れるかどうか、これは自分たちに正しくふさわしい掟かどうか、何も知らないまま、契約を結ぶのです。神も示されない、人間も求めないのです。

しかし今、イスラエルは知っているのです。信じています。エジプトの国から、あの十の驚くべき奇跡、最後の最後にファラオが海の藻屑と消え去ったこと、さらに直近で言えば、荒れ野のただ中で飲み水が与えられたこと、食べ物がなくなったときに天からマナが与えられたことです。このような驚くべき恵みと愛と力と正義をもって自分たちを愛し、顧みて下さる神が、神ご自身の栄光を傷つけたり、神の民である自分たちに不利益になったり苦しめたりするような掟と法を与えられるはずがないという確信であります。

その意味で、この自己紹介は言わば十の言葉のすべてにかかっています。これは家に帰った実際にやってみて下さればと思うのですが、一つひとつを唱える前に、この神の自己紹介を繰り返し唱えてみるのです。そうすれば、この十の言葉の甘さ、すばらしさ、その愛に感動するはずです。 

逆に、主よ、憐れんで下さいと、私どもが挿入した式文の言葉も、一つひとつに加えてもよいかもしれません。いずれにしろ、福音の神からの掟と法が私どもの利益、祝福にならないはずはあり得ないのであります。掟と法、律法から福音へと論理は、単純化すれば私どもを罰する神から、救う神へと逃げ込ませる機能を持つだろうと思います。福音から律法へは、救う愛と恵みの神から、この救いと愛の中に留まらせて頂く祝福の道標、祝福の憲章なのです。奴隷から自由な身となった者が、いつまでも自由な存在、神と共に歩む真の自由を生きるための道標、自由の憲章、自由の取り決めなのです。ですから礼拝式の中で毎週唱えて、神に感謝と賛美を捧げるのであります。

 さて、最後に十戒は昔の神の民に与えられた御言葉です。神の要求です。しかし、私どもはこれを主イエス・キリストの救いの御業に置き換えて読むこと、置き換えるというのが言い過ぎなら、この御言葉を透かして主イエス・キリストの御業にこそ、注目して読むこと、聞くことができるし、そうすべきです。

 神はイスラエルをエジプトから救い出されたのは、その1,000年後の御子なる神、主イエス・キリストにおける十字架と復活の予告、預言としての機能を持たせられたのです。はっきり言えば、昔の神の民はエジプトの奴隷から解放されて再び、偶像礼拝へと転落し、奴隷に戻りました。しかし、契約の神は、そのイスラエルへの約束を捨てられませんでした。お捨てにならないどころか、異邦人を含む、全人類を罪と死の恐怖の奴隷状態から解放してくださったのであります。ヘブライ人の手紙第2章15節「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」主イエスの十字架の贖いこそ神の究極の目標だからであります。

 ですから、この自己紹介は父なる神から御子主イエス・キリストを通して語られ、私どもは聴くのです。イエスさまが、あなた方はわたしの宝だと、だからあなた方は祭司の王国、聖なる民として生きて行きなさいと、祝福して、生きる道標を新しく、十の言葉のなかで示されるのであります。一つひとつの言葉の前に、「私はあなたの神」を父なる神が主イエス・キリストと共に聖霊によって語り掛けて下さる自己紹介として唱えて下さい。十の言葉の一つひとつを主イエス・キリストからの御言葉、主イエス・キリストの十字架とご復活の罪と死の恐怖の奴隷から解放された神の子として、聴き取り、唱えて下さい。そうすれば、礼拝式での十戒の唱和に感謝と喜びの涙が流れるかもしれません。万一、十戒を唱えるとき暗い気持ちになるのなら、それは間違っているのです。そしてもし、間違っているな、間違っていたなと示されたら、気づけたらむしろ素晴らしいです。その人は、明日から、いえ今日から変えられるからであります。信仰の姿勢、方向性が明るくなるはずだからです。主イエスをただしく親しく、お呼びできるからであります。

祈祷
 私共が自由に生きるために十の言葉を、新しくお与えくださいました主イエス・キリストの父なる御神。自由から奴隷へと転落しやすい私共を、あなたの自由のなかに引き戻し続けてください。あなたの救いの御力のほうが私共の肉の力、罪に傾く力よりはるかに強いことを信じさせてください。そのためにいつも、あなたの御言葉を正しく聴き取らせてください。

5月26日

★☆ 24年度の教会の目標 ☆★
   週報に必ず記載しているだけに、もしかするとあまり意識されない項目(文章)があるかもしれません。ソレハ、「伝道に心を燃やす教会 −隣地取得の年 掘檗廚任后その下に、祈祷文として、「隣地取得委員会と取得のために!」さらに「隣人となれ、福音を告げよ!」と続きます。 同じ標語を3年掲げる教会を他に知りません。いかにも岩の上教会らしいと思います。私どもは、主の御心と信じるゆえに標語をかかげ、達成するまで祈りを重ねるのが、真実なる神に対するキリスト者の真心、誠実と信じているからです。

  確かに、この二つは確かに達成すべきものですが、混同してはならないとも思います。 伝道に心燃やす教会となること、聖霊による神の愛に満たされて隣人となり、さらに福音を告知することは、どこまで到達すれば達成したというレベルはありません。地上にある限りいわば未踏の到達目標であり続けるからです。しかしそこに甘えが入り込むこと危険性についても、わきまえておきましょう。具体的な祈りの目標を掲げない限り、つまり特定の〇〇さんのために祈ることがなければ具現することはかなわないということです。

  もう一つは言うまでもなく、達成するかしないか、だれにでも分かります。ですから、 必死にもがき続ける祈りを続けています。そして先週は、報告の折、わたしから「日に三度お祈り下さい!」と心の底から訴えさせていただきました。

最近、会堂建築の時のことをよく思い出します。中会との折衝は、容易ではなかったのでした。そしてそのことを、当時の会員方には悟られまいとしていました。隣地建物取得準備委員会から始まって今、私どもの予想もしえなかった門が開かれようとしています。同時に、 その門が閉ざされかねない状況にもあります。

  今回の名古屋岩の上教会への神からの問いかけは、これまで以上に厳しいものです。それは、私どもが成熟しているからだと受け止めています。「神からの試練」!は、信頼されているから与えられるのです。さらに成熟、成長させ、ご自身の栄光を現そう、現すための器として磨き上げようという御心のもとになされます。きちんと受け止めることが成熟の鍵です。

  モーセはアロンとフルに支えられ、祈りの手と杖を掲げました。シナイ山のふもとでモーセは神の民の代表とされて主なる神に近づいて祈りました。確かに、旧約時代をそのまま、ここに模倣することは危険です。同時に、私どもは旧約物語を今ここで、神の御言葉として聴いています。「世界はわたしのものである」このように宣言なさる神を信頼し、ひたすらに祈ること、この祈りの試練を、きちんと受け止めて、「思い煩わないで」!しかし主にくらいついて離さないあのヤコブの祈りをモデルに、主の御前で赦しを求め、主の栄光と主の教会の将来のために、皆さまと祈りたいと願ってやみません。今週も日に三度、共に祈りましょう。

★☆ 6月16日 特別礼拝式のために ☆★
   伝道委員会そして先週の教師会でも16日の準備が進められ、本日、ハガキを配布いたしました。お友達に「声」!をかけて参りましょう。教会LINEデータも転送利用下さい。

  総主題は「今知りたい、キリスト教の死生観」 (何故、キリスト教の葬儀は明るいのか)
  ●特別礼拝式10:00〜11:15
 ●軽食 11:30〜12:15(当日は、子どもランチもあります。)
●講演・質疑応答 12:30〜13:30(茶菓子付き)
講演は、キリスト教の死生観と葬儀について40分ほど牧師が語ります。当初、葬儀の個別相談も考えましたが、別の機会に譲ります。礼拝から続けての講演出席者のための配慮として間隔を短くしていますが、礼拝式か講演、どちらかに出席して下さることも可能です。
なお、未信者のご遺族またはご本人が希望されれば教会での葬儀を執り行うことを小会で確認する予定です。このためにも「日に三度の祈り」を共に祈りましょう。

★☆ ヤコブの祈り 隣地取得 ☆★
先週の祈祷会でヤコブのペヌエルの祈りの格闘を読み直し祈りました。神の攻撃!感謝!!

「神を畏れる畏れを求めよう  ㉗ 」

「神を畏れる畏れを求めよう  ㉗ 」
                   2024年5月19日 聖霊降臨祭
    342番・341番 
テキスト 出エジプト記第20章18〜21節
【 民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」民は遠く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った。】

使徒言行録第2章37−38節・43節
【人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
〜〜〜   すべての人に恐れが生じた。】
    
 本日は、聖霊降臨祭を祝う主の日であります。そのための説教となりますが、基本的には出エジプト記からの講解説教の続きとしています。その第27回目となります。聖霊降臨についての説教としてこのテキストから学びたいと願っています。

先ずは、出エジプト記から始めましょう。先週は第19章の前半を学びました。そして今朝は第20章の後半に飛びました。その真ん中に何があるのかと申しますと十戒が神の民イスラエルに付与されたことが記されています。そしてその決定的に重要な出来事の前後を囲む形で、今朝学びたい、驚くべき自然現象について詳細に報告しています。

さて、イスラエルの人々はシナイ山のふもとで神に向き合おうと備えていました。到着して三日目に、イスラエルの神、つまり主、ヤッハウェがご降臨なさると言う予告がモーセを通して告知されました。そしてついに、神は彼らにご自身のご臨在を示されます。まるで休火山が噴火したかのような印象を持たれるような事象が起こります。

第19章10節以下を読みます。主なる神は、モーセに三日間の準備を命じられます。これを聖別と言います。神さまのために普段とは違って特別なことをするということです。そこでまず、礼拝にふさわしい身だしなみが要求されました。「衣服を洗う」 ことです。旅で汚れた衣服は今、さっぱりしたものとして纏い直したのでしょう。   

また、山に登るのはモーセのみに限定されます。男性は、「女に近づいてはならない」と言われました。徹底して普段の暮らしを聖別すること、違うことが要求されたわけであります。そして遂に、三日目の朝にこのような自然現象が起こったのです。「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いた」 

 そして、今朝の御言葉、第20章18節はこうでした。「民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。」おそらく当時の人々はもとより現代人にも、この表現は日常生活とはまったく異なった状態、先ほどの言葉を用いれば聖別された空間、聖別された時間となったことがよく分かるものだろうと思います。何よりも、当事者たちは、神ご自身がこの言わば恐怖心すら起こされるような現象に圧倒されただろうと思います。神が降臨なさった事実を十二分に理解できたのだと思います。ですから、第19章でこのように報告されています。「宿営にいた民は皆、震えた。」体が震えたのだと思います。しかし、心ばかりか魂までが揺り動かされ、恐怖心に震えたということだと思います。 

そして、今朝の第20章は、まさに最後の報告としてこう記されています。「民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」民は、最後に「このままでは、わたしたちは死んでしまいます」とさえ訴えました。実は、旧約聖書の信仰において、神が人間に直接、ご降臨され、そのお姿を現されるならば、罪に穢れた人間は、生きることができない、聖なる神に滅ぼされる以外にないという確信が何か所にも出て参ります。モーセですら、最初に神に直接まみえたのは、燃える柴の中からの声だけでした。神ご自身を見ることは、およそ人間には許されていないのであります。この時の神のご臨在がどれほど鮮やかであったかを思わされます。旧約の歴史の中で、神の顕現、神の臨在を示す場面として空前絶後の出来事とさえ思います。

さて、民は、生ける神さまにから後ずさりして、震えています。恐れ慄いているのです。それに対し、モーセはこのように語り掛けます。「恐れることはない。」です。つまり、「怖がる必要はありません。大丈夫だ」と言う事であります。聖書の神と神の民との正しい関係性とは、恐怖心に駆られ、神さまの前から逃げ出してしまうよう間柄ではないということです。

ところがモーセは、このように続けるのであります。「神が来られたのは〜〜あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」「恐れるな」と語ってただちに、「あなたたちの前に神を畏れる畏れを神さまがおかれた」と、こう言うのです。「恐れるな。しかし畏れなさい」と言うわけです。いったいどちらが真理、本当のことなのでしょうか。

この矛盾と思われかねない内容について、新共同訳は漢字を上手に使って翻訳していると思います。最初の恐れるなは恐怖の「恐」です。次の畏れは畏怖の「畏」です。
ただし、ここがややこしく、難しいところなのですが、実は、聖書のもとの言葉は、一つの同じ言葉「ヤーラー」が用いられています。ですから例えば口語訳や新改訳の聖書では、恐怖の「恐」の恐れと訳して、最初の「恐れるな」にも最後の「恐れよ」にも、恐怖の恐の文字を当てています。おそらく、訳者は、「罪を犯させないようにするため」という御言葉を大切にして、言わば、神の民の顔の前において恐怖心を抱かせて、言わば、威嚇されるというように理解したのだと思われます。ここは、丁寧に聴いていただきたいと思います。例えば、警察官が犯罪を起こしそうな人にピストルを所持して向き合っていれば、それは、相手を威嚇しているということになるだろうと思います。決して悪い意図ではないのですが、目の前で犯罪をおかさせないために脅しているわけです。旧約聖書を読めば、神はシナイ山をさらには大地までを震え動かして、その圧倒的な力を示されます。そのご目的は、民が罪を犯さないためだ、神に従うことを試すためだ、つまり、民を威嚇しておられると、読むことができるかもしれません。この後、十戒が与えられるのですから、そのような理解も当然、成り立つだろうと思われます。

しかし、新共同訳は、神を畏れる畏れを畏怖するの畏という漢字をここに当てはめています。畏怖の畏は、「畏まる」と読みます。畏まって尊敬する思いが畏怖の念です。それに対して、恐怖はまさにそこから逃げ出したいような恐ろしい感情です。逃げ出したいけれど、怖くて腰が抜けるということもありましょう。いずれにしろ、通常の自分の力が発揮できない極度の緊張に縛られてしまう感覚だろうと思います。ですから、真の神に恐怖感を抱くことと畏怖の念を抱くこととはまったく違っていると思います。この問題は、来週からの伏線になって行きます。そこであらためて扱いたいと思います。

さて、次にそのざっと1,000年後の物語に入ります。主イエスが十字架について死んでご復活され、そして弟子たちの目の前で父なる神のもとに戻られました。これが、天に昇ると書いて昇天と言われる御業です。昇天するのは、地上での役割を完成されたので、次のお働きへと移るためであります。主イエス・キリストは父なる神のもとに戻られて、救い主としてのお働きを継続し、発展させられるのです。その決定的な御働きこそ、昇天後50日目の約束の聖霊を、弟子たちに注ぐことでした。あの日、遂に聖霊なる神は御子が成し遂げられた救いの御業を、この地上に実らせるために来臨なさいました。聖霊でいらっしゃる神が降臨されたのです。これを私ども教会は聖霊降臨と呼びます。ペンテコステのお祝いと呼んで、大切に記念してまいりました。

もとより聖霊は、この日初めて降臨なさったのでは決してありません。旧約時代においても、先ほどのように降臨の事実は、枚挙にいとまがありません。しかし聖霊なる神はついにこの時、御子イエス・キリストの成し遂げられた御業を地上に実らせるために降臨されたのです。御子イエスさまの十字架の救いを、私どもに信じさせ、その信仰によって適用するためです。信じるだけで、十字架による完全の救いが私どものものとなる。適用される。授けられるのであります。

聖霊なる神は先ず、聖霊降臨の約束を祈りつつ、待っていた使徒たちに降りました。すると聖霊は、直ちに彼らの口を大きく開かせられました。聖霊は、十字架と復活の意味を悟らせて、使徒たちは主イエスの救いの説教を語り始めたのです。その結果、「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ」彼らの心が震えたのです。神の極みまでの愛、神の圧倒的な愛、燃え上がる愛によって激しく動き始めます。それは、シナイ山で神の降臨に震えた昔の民以上のことでした。心の底の底から、魂の深みにおいて、神の愛に震えたのです。感動等と言う言葉では足らないだろうと思います。

説教を聴いた人々は、聖霊なる神に心激しく震わせながら思いました。「ああ、今までの生き方、考え方は間違っていたのだ。イエスを処刑したことは神の正義、神の聖性を守るためだったと考えていた。しかし、とんでもない間違いだった。私は神の救い主を拒否し、殺してしまったのだ。おそるべき罪を犯してしまった」まさに説教を聴いて心を刺され、神を畏怖する畏れに満たされたのであります。

確かに、この出来事では、シナイ山でのあの震え上がるような恐ろしい自然現象はまったく生じませんでした。聖霊降臨の日にあったのは、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」のです。言わば、大きな音がしただけです。敢えて付け加えれば、真っ赤な火、真っ赤な舌のようなものが彼らの頭の上に注がれたと見えたことだけです。1000年前と比べれば、まるで静かで穏やかなものだと思いませんか。

ただし、そこで起こった出来事の内面的な事実は、そうではありません。説教を聴いた人々は、心打たれ、心震え、なんと悔い改めたのであります。悔い改めとは、自分にではなく、神に向きを変えて生きることです。こうして男性だけでも3000人がキリストを信じ、キリストと一つに結ばれる洗礼を受けたのであります。こうして、エルサレムに教会共同体が、新しいイスラエルとして出発したのであります。実に、新しい神の救いの歴史の幕が開いたのです。これを終わりの時代と聖書は呼びます。

最後に確認して終わりましょう。この驚くべき内的な出来事、信仰的な出来事、神を畏れる畏れが与えられるためになされたのは、ただ、説教だけでした。説教とは、聖書のみ言葉を解き明かして、今ここでどのような意味を持つのかを語ることです。それはとても知的なことだと思います。しかし、説教を聴いて、神の臨在に触れるなら、シナイ山の出来事をはるかにしのぐことがそこで起こるのです。主イエス・キリストに罪赦され、永遠のいのちが注がれ、今ここで神の新しい民に加えられ、毎週、神にまみえる礼拝式を捧げられるからであります。

イスラム教の方々の礼拝のスタイルは、頭を地面や床にこすりつけて礼拝します。神に向き合うのに、椅子にずっと座っている礼拝など考えも及ばないだろうと思います。しかし、私どもは、この姿勢で何の問題もないと信じています。ただし。万が一。あのシナイ山の出来事、聖霊降臨の出来事から離れてしまうならどうでしょうか。神を畏れ敬う心の姿勢、神の御前に近づかせて頂くこの驚くべき恵みに、慣れきってしまっているとしたら、話は別です。今朝、新たな思いで、聖霊によって悔い改めの心を常に新しくさせられましょう。聖霊によって、燃え上がるように神を愛し、人を愛する思いを抱きつつ礼拝を捧げましょう。

確かに、このような小さく質素な私どもの礼拝堂であります。しかし、主イエスがマタイによる福音書第18章20節で約束された通り、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」天地のあるじでいらっしゃるイエス・キリストは、今、聖霊によってここに臨在しておられるのであります。この驚くべき約束によって30年の教会の信仰の旅路は守れてまいりました。主イエスは名古屋岩の上教会とも、共に歩み続けて下さいます。聖霊降臨祭の今朝、今一度、神を正しく畏れる、聖なる畏れを祈り求めましょう。そしてそのような主日礼拝式を毎主日ごとに捧げられますように、全身全霊の準備、そして当日を迎えたいのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、聖なるあなたは聖霊によって御子イエス・キリストの臨在を約束し、事実、臨在していて下さいます。何の自然現象も神秘的現象も起こりませんし、私どもは決してそれを求めません。しかし、あなたの臨在の前に、畏れ畏む、真の畏れを常に新しく感じさせて下さい。御言葉の朗読そして説教の内に、そして今祝う、主イエスのいのちの食卓の内に、聖霊の豊かな注ぎを信じます。どうぞ、溢れるように礼拝堂を満たし、ひとり一人の上に注ぎ、満たし、溢れさせて下さい。そのようにして神が生きて働いておられること、神の国が今ここに力強く始まっていることを証させて下さい。最初の教会のように互いに愛し合い、主から受けた恵みを共有して、共に生きるキリストの教会をここに建て上げて下さい。

5月19日

★☆ 西山誠子氏を迎えて 供 ★
  「ほうっておけない!」これが西山さんの入管問題、被収容者支援の原点であると教えて頂きました。すぐに「ああ、同じなのだ!」と思いました。主イエスが善きサマリア人のたとえ話で、サマリア人が強盗に襲われ倒れていたユダヤ人を「かわいそう!」(=スプランクニゾマイ)と思って手当した、あのキーワードに限りなく近いものを思わされたのです。

  お話を聴いた方々をはじめ私どもの教会は今後、どのようにこの課題にかかわるのか、かかわらないのか。問われたはずです。ただし、これは私どもの「自由」です。しかし同時に私どもは、主イエスから死すべき命を救っていただいた当事者です。しかも、その方から「行って、行え」と招かれています。その前提には、エレミヤ書第22章3節で「寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。」との規定があります。今日で言えば、外国人労働者・困窮したひとり親世帯と子ら、貧困高齢者となるでしょうか。ただし説教で強調されたように、それでもなお「福音から律法」です。つまり、行おうとしない人は福音の神の恵みと愛からこぼれ出ると、脅されるようなことはありませんし、事実、神はそうなさいません。

  あのサマリア人は、その日、どうしてもしなければならない自分の仕事があったことが分かります。もしかすると祭司やレビ人も同じだったのかもしれません。ただし、サマリア人は立ち止まり、「自分のできること」をしました。ここが味噌です。オリーブ油を塗って応急手当をなし、宿屋まで運び、お金をもってできる限りの処置をしたわけです。わたしの想像ですが、その後、彼はその人と離れ、再び自分のなすべき務めへと戻ったと思います。 
 
  西山さんをはじめ多くの市民の方(団体)が入管の「人権監視人」として行動されたことが、被収容者への待遇の改善という実りを結びました。今週、入管法改悪が国会を通りました。あきらめずに声を出し続けることができますように。

最後に・・先週、期せずして二人の男性執事がそれぞれ能登半島のボランティア報告をして下さいました。「さすが・・・岩の上教会・・・」、そのように誇らしい思いを抱きました。同時に、問いは繰り返されます。「隣人となるべき人は、あまりに大勢で、小さな教会としてどうしたらよいのか・・・」奉仕と安息のバランスの課題です。安心しつつ明るく悩みましょう。祈りつつ、主に示されたことを、主により頼みつつ行いましょう。

★☆ 信仰告白・学生ランチ ☆★
  本日の聖霊降臨祭にて、4月より熱心に礼拝出席してくださっている大学生の〇〇〇姉が〇〇教会にて信仰告白をなさいます。おめでとうございます!学生ランチにもすでに2度、参加して下さっています。

最近の学生ランチは〇〇兄の影響か、信仰の分かち合いが当たり前のように始められるようになっています。説教者は、ここがポイントと言う箇所を明瞭にしている「つもり」です。ところが皆さまは「そこ以外のところから」「も」恵みを受け止めてくださいます。その日は、彼女が「三つの点」が教えられた・・・と。最初に「イスラエルが神に選ばれたのは彼らが弱い民だからだという点が、自分に重なりました・・・。」なるほど、信仰告白を控え、神の恵みの選びという聖書の救いの教えの根本の認識を深めていただけたことは、望外の幸いでした。若い時に、信仰の恵みに導かれる人の大いなる特権を思います。結語。若い仲間たちをどのように神の働き人として育てるのか、牧師そして先輩キリスト者たちの恵み深い責任です。

★☆ 声が出ない ☆★
先々週、温暖差が影響か鼻かぜ症状。土曜日午後、週報と説教の見通しが経ったと同時に横に。明日は、何とかなると思って早く寝たものの、当日、急遽、司式交代となりました。 牧会祈祷中、せき込み、声が出ず。その場で聖書朗読も担って頂き、事なきを得ました。先週は、またまた想像を越えた外的な出来事が起こり、今回は夫婦で冷や汗をかきながら対応し、日に三度の祈りを継続しています。求めよ、叩け。世界は主のもの。主が門を開かれます!

「何のための自由なのか /2 ㉖」

「何のための自由なのか /2 ㉖」
                    2024年5月12日
テキスト 出エジプト記第19章全体(1−8節) 番・番 
【 イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した。彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。
モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。
   あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと。
また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。
   今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、
あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。
世界はすべてわたしのものである。
  あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。」
これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言った。


先週に続いて同じ箇所から学びます。説教題は「何のための自由なのか」と致しました。
神は、イスラエルの民をエジプトの奴隷から自由な身へと解き放ってくださいました。ここで、私どもがいつも覚えておくべき一つのことがあります。それは、神は何のためにエジプトから脱出させてくださったのか、つまり、その目的についてであります。この目的こそ、イスラエルの将来とイスラエルの存在理由とさえいえるほど決定的に大切なことだからであります。それは、真の神を礼拝することであります。彼らがエジプトの奴隷の家から解放される目的は、神の僕として神に仕え、礼拝するためであります。つまり、人間にとって真の自由とは、ただ一つの状態にあるということが分かります。真の自由それは神を礼拝することであります。礼拝するとは神と共に歩むことです。神と共に生きることであります。神を礼拝することと人間らしい尊厳に生きることとは切り離せないのです。したがって神は、イスラエルに対してつまり人間に対して、どうしても自由を与えたいと求めておられるのであります。人間が人間であること、まっとうな人間らしい生き方をするために絶対に必要なもの、それは神を礼拝することだからであります。神礼拝とは決して特別宗教的な人、キリスト者だけがすればよいというのではありません。したくない人は別にしなくてもよいというようなものではないのであります。

憲法第20条には「信教の自由は、全ての人に保障する。」と謳われています。私たちは何を信じようが、また信じまいが自由なのです。この権利はすべての人間に生まれながらに与えられているものつまり人権なのですから、国家もその法律もこれを保障しなければならないということです。出エジプトの神、それは、今日の言葉で言えば、信教の自由を侵されている人を解放する神、人間の自由を何よりも大切にする神、そのために神の全力を注いでこれを実現する神、そのように言うことも許されると思います。ただし、出エジプトの神は、政治的な自由、肉体的自由を与えてそれでよしとはなさいません。確かに、憲法第20条がどれほど重要な権利であるか、強調しすぎることはありません。ただし、聖書が告げる真理は、人は神を礼拝して初めて本来の人間となれる、つまり自由な人間となれるということであります。つまり、神に向かう自由です。罪と死の支配から神と命へと解き放たれる恵みのことです。したがってもしエジプトから脱出しても神さまから脱出してしまう、神から離れるなら全く意味がなくなるのであります。いわば、憲法20条だけでは、本当の意味で人間の尊厳は確立できないのです。真の自由に生きることはできないのです。

先週、名古屋入管でひとりの男性とひと月ぶりに再会しました。入管の中は正しく身体的自由を拘束されています。大抵の方は、精神的そして肉体的に不調を来されるようです。しかしその方はキリスト者なのです。入管の中でいよいよ信仰の真理と恵みを味わわれたようです。ニコニコしながら、私たちは幸せですねと、互いに確かめ合いました。彼は、トイレの中で声を出して祈る幸いについて語って下さいました。神と共に歩むこと、礼拝する、つまりお祈りすることができれば人は、深いところで自由だということの強烈な証しだと思います。同時に、深く問われるだろうと思います。入管の外にいる我々が、神と共に歩む日々を知らなければ、それは惨めではないかと言う事であります。

さて、今朝は大きな流れで言えば、二つの点に分けてお話します。第一に、神の宝であるイスラエル、エジプトで奴隷であったヘブライ人についてです。旧約のテキストから学びます。第二に新しいイスラエルである私ども教会について、使徒ペトロから学びます。  
                                                                                                                                                              
第一のことです。先週私どもは、神が荒れ野のシナイ山において、このようにモーセを通してイスラエルに語り掛けた御言葉に集中しました。先週も学びましたが今朝も、この御言葉をさらに丁寧に学びましょう。「あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。」です。もし、今朝この御言葉を深く味わうことができれば、もう何もいらないという思いに満たされるだろうと思います。これほどまでに真っすぐな愛の告白があるかと思います。ストレートな愛の表現、プロポーズです。あなた方はすべての民のなかで、わたしの宝物だと、宝の民だと宣言されました。礼拝式の究極の喜びとは、この神の愛の言葉を魂のもっとも深いところで聴き取ることにあります。「あなたはわたしの宝。あなたがわたしの宝物」それを謙虚に、アーメンと受け入れることが信仰です。この上ない幸福であります。

あまりに大切で尊い真理ですから、なお、おさらい致します。神の民が、神の宝と言われたのは、律法を守ったからでしょうか。違います。神は、最初から、彼らにこう呼びかけられたのであります。「ヤコブの家・イスラエル」です。アブラハム・イサクそしてヤコブの時から、神はこの小さな部族をイスラエルと呼ばれたのであります。つまり、エジプトにいる前から、そしてエジプトの奴隷であったそのときから既にイスラエル、つまり神の宝なのです。神がイスラエルと呼ばれたのは、神の掟と法の順守を条件にしておられません。一方的に、神の宝とされたのであります。

実に信仰の謙虚さとは何でしょうか。またこれと反対の言葉のようにも思われがちですが信仰の大胆さとは何でしょうか。それは、神から「あなたはわたしの宝である」と言われて、それをそのまま受け入れることです。「いいえ神さま、わたしはどこをどうみても、あなたから宝物と呼ばれるようなものではありません。ただの路傍の石ころです。そのように呼ばないでください」このよう思うことは、謙虚ではなくむしろ傲慢です。神の常識はずれの愛の評価を、そのまま信じ、感謝して受け入れること、ここに信仰の大胆さがあります。キリスト者とは、「わたしの宝物」と言われて、自分自身をもはや価値の劣る人間だとは決して考えず、神の宝として自分を受入れ直し、この尊い価値を誇りにして、大胆に生きる人のことです。宝とされている自覚を日々、深めて生きる人、それが謙虚にして大胆なキリスト者の生き方であります。この神の愛と御言葉を謙虚にそして大胆に受け入れ、神のみを誇りとして歩んで参りましょう。

さてしかし、神の民の歴史、旧約をひもとけば、そのように呼びかけられたイスラエルは謙遜になるどころか高慢になってしまいました。実は、主なる神は、そのような愚かさに転落することを見越して、申命記第7章6節以下で、はっきりとこのように語られました。「主が心引かれてあなたたちを 宝の民として 選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」神がヘブライ人を選ばれたのは、他のどの民よりも貧弱であったからだと仰るのです。そこまで言われてしまうと確かに、ちょっと、気分を悪くさせられてしまうかもしれません。しかし、彼らを高慢の罪に陥らせないためです。

そしてそれは、事実そのものだったはずです。つまり聖書の神は、弱い者の味方なのです。いわば、判官びいきです。弱い者に肩入れする神です。そのような神の心の動きの理由がここにはっきりと示されます。「ただ、あなたに対する主の愛のゆえ」です。イスラエルが選ばれた理由は、ただ神の愛にあります。理由は神にのみ、神の愛にのみあります。愛のゆえにアブラハムから始まる先祖たちに誓われたからです。愛の誓いを神が果たされるからです。こうして「イスラエルはエジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出された」のであります。

さて、二番目のことです。新しい神の民教会、新しいイスラエルである教会の使命についてです。   
出エジプト記を学びながら、うっかりすると聖書の神さまは、あのヘブライ人、奴隷状態のイスラエルだけを愛されるのかという誤解してしまうかもしれません。違います。神は「あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。」と語られてただちにこう宣言なさいました。「世界はすべてわたしのものである。」「世界はすべてわたしのもの」つまり、世界はすべて神の作品です。神の被造物です。どの民族も、誰一人も、ひとしく神の作品です。この世界は、紛れもなく唯一の創造者なる神の作品、つまり神のものなのです。神がすべての民族、すべてのひとりひとりにいのちを与え、生かしておられるそのご目的は、ただ一つです。それは、すべての民族、すべてのひとり一人が等しくご自身の祝福、等しく神の愛を受けるためです。その意味ですべての民族、すべての人は神の宝物なのです。ここに神の平等、神の公平があります。今、キリスト者こそ、この真理を弁えなければなりません。このことは、旧約聖書においても徹底的に強調されている神の御心、真理なのであります。

ただし、この神の平等、公平の御心が実現して行くためには順序があります。ここにいわば、神の隠されたご計画があります。それは先ず、アブラハムひとりから始まるものでした。そしてイサク、ヤコブへと小さな家族から小さな部族へと育てられました。そして遂に、イスラエルには、この使命が与えられるのであります。「あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。」祭司の王国とは、世界のために祈ることです。とりなすことです。仲立ち、仲介者となることです。イスラエルが神の前に祭司の働き、祭司の奉仕に励むことによって、世界中の人々が自分たちが神の宝とされるべきものだという主なる神とその御心が示され、悟るのです。彼らが自分たちは、神に選ばれた特別な人種だとうぬぼれるような暇、高慢な思いになることは本来、あり得ないのです。彼らは、自由を謳歌できる人間、神にとりなし祈ることができる人間として、奴隷の家から解放されたのです。ところが、残念ながら歴史においてイスラエルはこれに失敗しました。祭司の責任を自覚せず、その働きを担わなかったのであります。

それなら神のご計画は頓挫してしまったのでしょうか。違います。神のご計画は、私どもが思いもしない形で成就します。それを成就させたのがユダヤ人の中のユダヤ人、イスラエルの末であるイエス・キリストです。そして、私どもつまり、主イエスのご降誕、そして十字架とご復活によって贖われた新しいイスラエルであるキリスト教会であります。このキリスト教会という新しい神の民によって、この永遠の神のご目的は広げられ、具現されるのです。もとより、まだ終わっていません。達成したと完了形では語れません。

だからこそ、新約聖書において、使徒ペトロは言いました。だからこそ、私ども異邦人キリスト者の重みがあります。使命が与えられているのであります。「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。」かつて、異邦人はエルサレム神殿の中に、たとい割礼を受けても聖所の中に入れませんでした。神殿の庭まででした。しかし今、私どもは割礼を受ける必要もなく、ただ主イエス・キリストのおかげで、この主なる神を信じるだけで、神の民とされています。この礼拝堂で、何の隔てもなく御子イエス・キリストを礼拝し、父なる神を礼拝させて頂いているのであります。そしてその目的は、出エジプトの宇宙的な出来事をはるかに越える救いの御業、主イエス・キリストの十字架とご復活による力ある救いの御業を宣べ伝えるためであります。そして、この特権、この祝福がこの町中の人々にも招かれていることを告げ、そのために祈ること、祭司のディアコニアに励むことであります。

 この御言葉が分かれば、教会がもし伝道に心燃やすことなく歩んでいれば、それは、かつてのイスラエルと同じになってしまうはずです。伝道しないこと、それはその本質において高慢になっているということを意味するのです。つまり、「自分が神の救いにあずかったのは、自分が神に選ばれ、優れているからだ。」と思い上がることなのです。私どもに与えられた自由、神を礼拝する自由、その実りとして神の子とされた事、この自由の特権をもし自分のためだけに使うとしたら、私どもは親不孝者になるのではないでしょうか。この自由は他者のために利用すべき自由なのです。神を礼拝し、この神の御言葉を広げに広げて奉仕ること、それが自由の目的であります。

今朝、生けるまことの神は、私どもにもまた、このような自由を謳歌してこの世の旅路を主イエスと共に、隣人のために、隣人となるために生きるように招いておられるのであります。自分の弱さや小ささにこだわらず、神の宝とされたことをこの上ない誇りとして、今週も神さまと共に歩んでまいりましょう。

祈祷
天の父よ、私どもを祭司の王国、聖なる民としてくださいましたことを心から感謝致します。この特権、宝の民と呼ばれる誇りを胸に、礼拝を捧げ、キリストの福音を広げに広げて、歩ませて下さい。あなたの御心の実現を祈り求め、祈りを生きて行く者とならせて下さい。
目次
名古屋岩の上教会
〒458-0021
名古屋市緑区滝ノ水2-2012
TEL&FAX:052-895-6701 
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牧師紹介
□牧師 相馬伸郎□
下記の定例集会にどなたもお気軽にお越しください!心から歓迎いたします。
求めるあなたに、かならず、救いが与えられます。


□主日礼拝式□
毎週日曜日
10:00〜11:30
※2019年4月より

□教会学校□
毎週日曜日 
嬰児から高校生まで
11:30〜12:00
※2019年4月より

□祈祷会□
毎週水曜日 
朝 10:00〜11:30
夜 19:30〜21:00

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