名古屋岩の上教会

わたしはこの岩の上に私の教会を建てます。 -マタイによる福音書第16章18節-

「永遠のいのちを得るために ークロネコロゴマーク−」

「永遠のいのちを得るために」
2018年7月22日
聖書朗読  テモテへの手紙機‖茖蕎錬隠院檻隠鏡瓠  ´ 伸
【 しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。】

本日はいつものように、テモテへの手紙気旅峅鮴盒気北瓩蠅泙后いよいよ、この手紙の結論部分を学びます。今朝は、お読みしましたテキストを二回に分けて学びます。今週は前半を学びます。

この手紙の著者であるパウロは、愛弟子である若き伝道者テモテを励まし、慰めるために手紙を書きました。彼は今、エフェソにある教会をキリストの教会として堅固に建てあげるために牧師として働いています。しかしテモテは今、教会の中に大変困難な課題を抱えています。実は教会の中で、これまで教えられてきた聖書の正しい教え、それを福音と呼びますが、福音とは異なる教えを堂々と語って教会を自分たちの主張へと引っ張って行こうとする伝道者たちが何人も現れたからです。パウロにとってもテモテにとっても、まさにいのちより大切なのはエフェソの教会です。イエスさまの教会がちゃんと教会として成長するということなのです。そのためにパウロは、この手紙によってピンポイントでエフェソ教会の課題を克服するための道筋を指導するです。

さて、今朝の箇所は、まさに結びの箇所です。いよいよここで、テモテ牧師個人への直接的指導がなされます。信仰の指導ですが、指導という言葉では足らないほど重々しい命令がなされているように思います。

パウロは先ずこう言います。「神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。」神の人というのは、ここでは神に直接的に仕える人、つまり伝道者、牧師のことを意味しています。しかし、これを牧師に限定して考えるのは、早とちりであり、もったいないことです。神に仕える人、神に属している人とはすべてのキリスト者のことだからです。さて、直接、命じられた伝道者テモテは、いったい何を避けるべきなのでしょうか。簡単に申しますと、あの異なる教えを語る伝道者たちのような生活をするなということです。彼らは、信心を利得の手段にしていました。表面的にはそのように見えなかったと思いますが、心の深い所では金銭の欲望の虜となっていました。だから、そのようなことを避けなさいと言うのです。そこから離れなさい。逃げ出しなさいという意味です。 
さて、これまでが消極的な命令だとすれば、次に積極的な命令が記されます。それは、本来の人間の生き方を追い求めなさいということです。とりわけ神の人、つまり神と共に生きる人間らしい生き方とそれをつくりだす源になる価値観が提示されます。パウロはそれを6つ数えます。キリスト者は、この6つのことに集中しなさい、六つのあり方を追い求めなさいと命じるのです。それが「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」です。

さて、一つひとつを簡単に確認してまいりましょう。最初に挙げたのは「正義」です。もちろんこれは、人間の正義、社会正義のことではありません。神の正義、神の正しさのことです。私どもの神は、正義の神でいらっしゃいます。不正や不義、偽りを神は嫌われます。神の中にはまったく存在しないものだからです。したがって本来、この世界にもあってはならないものなのです。しかし、言うまでもなく世界に不正、不義、偽りは、はびこっています。そして神の正義を知る人こそ、実は、この世界の真実を見抜けるようになるのです。社会のウラ側が見えて来るだろうと思います。テモテは、透き通った眼差しで世界となにより教会の現実を見る必要があります。そうすると見えて来るのです。教会を混乱させ、社会を腐敗させるものがいったい何かが見えて来るのです。その上で、キリスト者は神の正義が地上にも現れるように働くのです。それがキリスト者の責任なのです。そしてそれは教会の中で先ずなされるのです。私どもは、どこまでも神の正義を追い求めましょう。

次に信心です。これは敬虔、パイエティと訳せます。敬虔とか信心というのは、要するに自分が神の前に生きているということを弁える能力のことです。確かに私どもは、目をつぶってしまえば目の前に何があっても見えません。確かに目を背ければ、本当は見つめるべき課題をやり過ごせてしまいます。わたしどもは、見つめることができるのです。見つめなければなりません。私どもはもし、神に目を背けなければ、自分が神さまの前に生かされているということが分かるはずなのです。そのことを気づかせてくれるものが信心なのです。敬虔なのです。神さまを畏れ敬おうとする思いです。信心を追い求めましょう。

次に、信仰です。信心と似ていますが、ここではきちんと分けています。何故なら、信仰こそがここに記されている六つの事柄を生み出す源だからです。そしてここが大切な真理ですが、そしてこの信仰こそは、聖霊なる神さまからのギフト中のギフトです。究極の贈りもの。天からの賜物なのです。6つがすべて信仰を通して与えられる聖霊なる神の賜物です。聖霊なる神の結んでくださる実りです。ちなみに、聖書の言う信仰とは、神さまに対する確かな知識と神さまへの心からの信頼のことです。

次に愛です。神を愛し、自分を愛するように人を愛することです。これも神からの贈り物です。私どもが持っていないもの、失ってしまった能力です。なぜなら、ひとりの例外もなく私たちは罪人だからです。罪人というのは神を愛することもできず、人を愛することもできない者だということです。事実、心の動きを真剣に考えてみる時、いつも自分中心、自己本位の考え方をしているのではないでしょうか。ですから、愛、愛するということは、先ず神から愛されているという事実から始まるのです。神の愛が心のコップに注がれ、それがあふれるまで注がれてはじめて、神と隣人へと向かう愛となるのです。神の愛が、私達の愛のみなもとです。ですから、神さまからこれでもかと愛してもらうことからしか愛は始まりません。そして神さまは、求める人にはこの愛を注いでくださるのです。

それゆえ次に忍耐が必要となるのです。忍耐とは、読んで字のごとく、耐え忍ぶことです。苦しくても、つらくてもへこたれないことです。それが忍耐です。愛と恋愛とは違います。相手のことが好きだとか、相手が自分にとって価値があるからだとか、相手が自分にとって役だつだとかということとは違います。神の愛とは、私どもを神の敵であったときに愛しぬいて下さったその愛のことです。そうなるとこの愛に生きようとすることは、まさに信仰の闘いのど真ん中のことです。信仰の闘いとはことばを変えれば愛する闘いなのです。だからこそ忍耐が必要不可欠なのです。愛さなければならない相手は、自分に都合のいい人だけではないからです。恋愛なら、すぐに別れればよいでしょう。しかし、愛はそこで発動するものです。だから忍耐なしに一歩も前進できません。忍耐を求めましょう。そうすると必ず希望が生じます。今朝は、これ以上は語れませんが、神さまが希望を見せて下さった人は、忍耐のかぎりを尽くせ、へこたれない強い心が養われます。どうぞ、忍耐を追い求めて下さい。

最後は、柔和です。これは、イエスさまご自身の品性を現すもっともふさわしい言葉だろうと思います。パウロは戦う人です。一切の人間的な妥協はしません。異なる教えを説いてまわっていた異端の伝道者のことを「精神が腐っている」と言いました。しかし他ならないそのパウロがこう命じるのです。「柔和を追い求めよ」テモテをはじめ皆さまはこう思われるでしょうか。「パウロ先生、先生こそ、異端の伝道者たちにもう少し優しく、愛のある態度で接せられてはいかがでしょうか。先生こそ、柔和さが必要ではないでしょうか。」この柔和は、人間的な妥協とは一切関係がありません。イエスさまは柔和の王様です。しかしそのイエスさまはなんでもかんでもにこにこ、「そうだね。いいね」と仰いませんでした。律法学者やファリサイ派の人々への対決の姿勢はパウロの比ではないと思えるほど、厳しいものでした。ですから、柔和とは、弱弱しい事ではないのです。ただ黙って、理不尽なこと、不正に対して我慢する、おかしな忍耐を重ねるということでもありません。柔和とは、これまでの5つのことを身に着ける人に与えられる姿なのだろうと思います。

さて、これまで六つの事柄を簡単に見て参りました。言うまでもなくこれらのことを追及すべきです。しかし、今から申しますことは、もう次元が異なる位の命令、言わば大命令、究極の命令だと私は思います。何故なら、パウロはまさに語調を変えて言うのです。ネクタイを締め直すというか、深呼吸を入れるというか、明らかに空気が変わってしまう発言です。使徒パウロはこう厳かに命じます。「万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。」これは、何を命じるのでしょうか。12節だと思います。「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。」です。

手紙の最後にパウロが心を込めて言うのは、テモテじしんのことです。テモテは、言うまでもなくよいキリスト者、すぐれた伝道者であることは疑いのないことです。テモテ牧師は、常に教会員に心を配っていたはずです。そのようなテモテに、パウロはテモテの魂を深くふかく配慮して言うのです。「永遠の命を手に入れなさい。」人に道を説きながら、自分自身が救いの道から漏れ出るようなことがあってはならないからです。思い出して下さい。使徒言行録の第20章で、パウロは指導者である長老たちにこう呼びかけました。「どうかあなた方自身と群れ全体とに気を配って下さい。」最初に自分自身の魂に気を配りなさい。自分の信心の養いをちゃんとしなさい。放出するだけではだめですよ。充電しなさい。伝道者自身が霊的な栄養をよく摂りなさい。休息しなさい。リフレッシュしなさい。そのようなお父さんのように、母親のように細かに配慮するのです。それがここにもにじみ出ています。「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。」教会員が永遠のいのちを受けるために一生懸命するのは当然だけれども、自分の救い、じぶんの魂の配慮、霊的なケアが必要なのです。まことにパウロのテモテへのやさしい心が現れています。

さて、今朝の説教は実はここからが本題です。「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。」この御言葉は聖書の中でも特に危険な言葉だと言っても言い過ぎではありません。一歩、解釈を間違えたらとんでもないことになります。しかし、素朴に読めばどう読めるでしょうか。口語訳や新改訳では「永遠の命を獲得しなさい」と書かれています。もしかすると、永遠の命というのは、信仰の闘いを立派に、最後まで戦いぬいて、ついにゲットしうるものだという風に読めると思います。パウロは要するにここで「テモテよ、永遠の命は、自ら獲得しなければならないのだから、あなたは自分が落伍者にならないように気を付けなさい」という風に読まれる危険性があるのではないでしょうか。

しかし先週私どもは、学んだばかりです。私どもは、聖書の正しい教えに徹底的にこだわっている教会です。教会の改革者たちの伝統をまっすぐに継承する教会、つまり改革派教会なのです。私どもは、人が救われるのは「信仰と善い行い」が必要なのではなく、信仰のみ、恵みのみ(ソラ・フィデ)であると徹底的に主張したのです。そうであれば、先ほどの聖書の読み、聖書解釈は明らかに間違っていると言わなければならないはずです。永遠の命は、信仰によってのみ受けるもの、恵みによってのみ頂くもの、ではなく自ら獲得すべきもの、課題、目標となってしまいます。そうするとローマ・カトリック教会がおっしゃるようにやはり永遠の命をえるためには、つまり救われるためには、神さまの恵みは大切だけれど最後はやはり人間の努力、よい行い、がんばりが必要だということになります。そこで、実は、多くの聖書学者たちがこの手紙はパウロが書いたのではないという研究がたくさん出てくるわけです。しかし、私どもは、この手紙をパウロの手紙だと信じて読んで参りました。
それなら、この御言葉は、単純に言って翻訳の間違いなのでしょうか。違います。パウロは確かに「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。」と言ったのです。さて、この御言葉を正しく理解するために、フィリピの信徒への手紙第3章の12節以下のパウロの言葉を思い出したいと思います。「わたしは、  何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」パウロはここで神さまに捕えられているからこそ、自分でも捕えようとしているのだと言うのです。神に捕えられているということは、救われているということです。永遠の命を与えられているということです。パウロがここでも明らかにする真理とは、神は、ご自身の主導権をもってパウロを救いのうちに捕まえて離さないということです。そして、そのことを知ったパウロは、こんどは、自分もまたありったけの努力をはらって神さまに応えようとする、応えたいと言うのです。それだけです。もしも、永遠のいのちを自分の努力や行いで獲得できるのなら、何もイエスさまが十字架で死ぬほどまでもなかったはずです。しかし、私どもはイエスさまに代わりに死んで頂く以外に救われないのです。

クロネコヤマトの宅急便のマークをいつも思い出します。それは、信仰の真理の一端を象徴しているなと思うからです。そのマークは黒い親猫が黒い子猫の首を加えて歩いているのです。企業のロゴマークの中でもとてもメッセージ性が強く関心してしまいます。親猫は子猫を運びます。落とすわけにはゆきません。子猫は、首を捕まえられると動けなくなるそうです。ですから、じたばたしないで、かわいく、動きを封じ込められて運ばれるのです。人間の赤ちゃんより、聞き分けが善いと言うか、便利です。それに比べて、猿の親子は正反対です。子ザルは自ら親ざるの背中やお腹にしがみつきます。しがみついて、落とされまいとするのです。親ざるを、びゅんびゅん歩いたり、木から木へと飛び移ったりするのです。神と私どもとの関係は、猿型なのでしょうか。猫型なのでしょうか。厳密に言えば、どちらでもありません。しかし、絶対違うというのはこの猿型です。私どもは自分の握力で神を捕えて、永遠の命の世界までしがみつけません。まったく可能性はありません。

そうです。私どもは神の前に子猫でしかありません。神が御子イエス・キリストを通して私どもに出会って下さり、わたしどもを救いのうちに捕まえて下さいました。永遠の命を一方的に与えて下さったのです。私どもはただ驚く以外になかったのです。ただただ、この圧倒的な恵み、絶対的な愛にびっくりする以外になかったのです。

ただしかし、そこから子猫と人間との違いがあります。私どもはしっかりと捕まえられると、体が硬直しません。大人しく、運ばれるまま、親猫になされるがままではないのです。ここで私どもは自らの意思で、自らの努力と言ってもよいのです、自分でもこの驚くべき恵みに対して、ギュッと握り返したくなってしまうのです。

わたしは、子どもたちに何度も信仰の素朴な真理を手を組んで祈るそのポーズで説明してまいりました。私どもには、お祈りに特定の姿勢、決められたポーズというものがありません。自由です。しかし、多くの方が右手と左手を組んで祈られます。そうであれば、私はそこでこのように自覚してくださいと言うのです。私は利き腕が右手なので、右手はイエスさま。左手が自分だというのです。お祈りとはイエスさまと祈るその人とがひとつに結び合わされることです。お祈りとはイエスさまとの交わりの手段なのです。方法なのです。しかしいつでも主導権はイエスさまにあります。イエスさまが主となって導かれます。私どもを捕まえて下さるのです。それにびっくりして、そしてイエスさまを聖書の御言葉によって知るとき、私どもも握り返したくなるのです。そして何と握り返せるようになるのです。この握り返すことを信仰と呼びます。この信仰によってなんと私どももまた親猫ならぬ親なる神、イエスさまに応答できるのです。つまり、握り返せるのです。しかし、この握り返す力、能力こそがイエスさまの強い握りしめる力のおかげでしかないのです。あなたも今朝、このイエスさまの愛の力で捕えられています。

そして、パウロはそのところでこそ、この現実を踏まえてのみ、テモテに厳かに命じるのです。「それなら、私達もちゃんと握りしめようではないか。あなたは、伝道者として、そのあらんかぎりの力で握り返そうではないか。それはあなたにとって嬉しいことだろう。永遠のいのちを、イエスさまによって与えられたのだったら、これ以上にない宝物だとわかったのだったら、あなたもこれを最高の宝物であると認識した者らしく大切にしなさい。」そう呼びかけているのです。

私どもは、永遠の命を得るために生まれてきたのです。おぎゃあと生まれた肉体の命は、この神からのいただく命、つまり神の命、言い換えれば永遠の命を得るためなのです。今朝、ここに招かれた方々はみな、この永遠の命を受けるべく招かれています。洗礼を受けた方々はいよいよ、握り返しましょう。まだ聖書を読んだことのない方々は、どうぞ今朝、新しい思いで、自分もまた救い主イエスに握りしめられているのかどうかを、聖書によって、説教によって確かめて下さい。そして、いっしょに、イエスさまにしっかり上から捕まえて頂き、この人生の旅路を共に歩んでまいりましょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あなたが私どもを一方的に信仰を与え、救いを与え、永遠のいのちを与えて下さいました。この世にこれ以上に大切なもの、尊いもの、宝はありません。どうぞ、この救いを私どももこの上なく、大切に守り続けさせて下さい。そのためにも聖霊の力を注ぎ、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めさせ、豊かに与えて下さい。 アーメン。

7月22日


★  先週は、教会全体研修会を開催致しました。一週間の通常の時間があれば、なんなく準備できると思っていました。何故なら、語ることは新しいことは何一つなく、これまでのおさらいでしかないとおもったからです。しかし、被災地支援のことでバタバタしてしまい。準備不足は否めませんでした。申し訳なさと共に悔しさもあります。ここで語った事々は、これまでの名古屋岩の上教会で学んだことのおさらいでしかないものです。ただ、福音主義教会の「五つのソラ」と言われる特徴を今回のように並べたのは初めてかもしれません。

☆  まったく枝葉のことでしたが、ある方には初めての暴露話になったかもしれません。24年の中でまだまだ「秘密」があるかもしれません。私は、説教や通信などの文書で、クリスチャンは使ってきませんでした。「キリスト者」です。なお、ここで初めて記しますが、私はお祈りにおいて、教会内では、「神さま」とはあまり呼ばずに参りました。「御神」「神」と呼んでいます。その理由も同じことです。前任地の「集会」を「教会」にしようとする戦いがその背景にあったからです。牧師になって今さら、「キリスト教ってなんだろう?」と考えさせられるまでの体験を重ねたのでした。しかし、この根源的な問いを問わないまま、牧師になってしまったということにこそ、重大な欠陥があるのだと思います。そして、もしかするとそれは私一人の課題ではなく、いわゆる「福音派」の神学校を卒業した方々の少なくない課題なのかもしれません。

★  本日も25周年記念誌編纂委員会が開催されます。「異なる教え」の反対は「受け継がれてきた教え」です。私どもは、信仰と生活の唯一の源泉を「聖書のみ」におきます。「聖書と伝統」の「と」以下を削除し「のみ」(ソラ、ソルス、ソリ)によって、福音主義教会の主張は明示がされます。一人の兄弟が個人的に質問をして下さいました。【改革教会や名古屋岩の上教会は「伝統」を強調していますが、ローマ教会の「伝統」との違いは何ですか】と。急所になる問いの一つです。録画ご参照。人間の営みは年を経れば慣習となりやがて伝統にもなります。ローマ教会は、聖書にもとづかない、言わば人間的な伝統(言い伝え)をも「教理」にした教会です。その典型が、神の母でいらっしゃる「マリア」への崇敬です。確かにマリアは神の母ですが、決して祈願の対象ではありません。諸聖人の「通功」には何の力もありません。全て聖書に支持されません。つまり教会改革者たちは、聖書が生み出した伝統(ニカヤ信条等の基本信条)とそれ以外のものを、聖書によって検証し、峻別したのです。使徒たち(=聖書)の教えを「受け継がれてきた教え」として、受け継ぎ、展開するのです。

★  それは、いかなる意味でも「聖書だけ」主義とは異なります。聖書と聖霊さえあれば、聖書の正しい解釈は可能だと主張して、独自の「伝統」をつくってしまった今日のいわゆるプロテスタント教会であれば、今日のローマ教会の方がはるかに、正統的だと言わざるをえません。

★  先週の朝の祈祷会は、出席者が三人。とても寂しかったのですが、逆にさまざまな学びもできたように思います。聖書から外れた教え、間違った聖書解釈によってこそ、世界史は混乱を生じている・・・。この現実を確認しました。その実例をここには記しません。しかしあれもこれも、教会の責任、世界のそれぞれの地域、国家におかれている教会の責任が極めて大きいことを確認しました。ですから、私どもはたといどれほど少数派を強いられたとしても、この道を、この狭く険しい道を、創立宣言を批判的にしかし大真面目に真剣に継承して行くのです。この原点、この志を、会員のひとり御一人に、聖霊が点火して下さいますように。そのようにして、25周年を迎えたいと願います。

★  教会学校教案誌第71号の校正に目を通しながら、しみじみ、これは教師のみならず会員全員に読んでもらいたいという原稿が目白押しでした。教会は、さまざまな委員会や室、また小会、執事会等で情報を共有されます。一番、人数が多いのは教師会です。しかし、それでも会員の三分の一でしかありません。そして「教案誌」は教師にしか行き渡っていない現実があります。教会図書にも置いていません。皆で、教会的な知識を共有するためになお工夫と努力が求められています。公教育の教師の声、長く日曜学校で奉仕した会員の声、他教会の実践、そして中学生の声(〇〇君!)・・・も。

☆  猛暑の中、豪雨被災地の復旧が進みません。この地にやがて必ず来る巨大地震の前に、日本はこのまま進むのでしょうか。誰も責任を取らない日本というシステムは、もはや第三の敗戦を待つ以外にないのでしょうか。教会は、少なくとも私どもはここで抵抗して参りましょう。

記事タイトル「健全な言葉による改革」

「健全な言葉による改革」
2018年7月15日
全体研修会開会礼拝式説教
聖書朗読  テモテへの手紙機‖茖蕎錬横癲檻祇瓠  ´◆伸
【これらのことを教え、勧めなさい。
異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。】

本日は教会全体研修会の開会礼拝式という位置づけで説教を準備しました。テキストは先週と同じ箇所になります。ただし先週は、今朝お読みしませんでした後半部分を扱いました。先週は、真の信仰こそ、食べもの飲みものが与えられているということで満足して生きて行く方法、その道について学びました。信仰生活とは、信仰による生活です。生活を生むのは信仰です。満ち足りることを知るという正しい信仰の実りをもたらすものは、信仰なのです。それならその肝心要の信仰は何によって育まれるのでしょうか。正しい信仰生活を生む正しい信仰について学びます。イエスさまはこう教えられました。「「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」(マタイ7章16−17節)正しい信仰は良い実を結ぶと主イエスは断言なさっていらっしゃいます。信仰生活の要となるのは何か。最初にもうしあげれば、それこそが「正しい教え」です。正しい教えの反対言葉は、「異なる教え」です。

そもそも、このテモテへの手紙気書き送られた手紙は、要するに、異なる教えと闘って、これをエフェソ教会に入り込ませないようにという指導の手紙です。テモテは、エフェソ教会の監督つまり牧師でした。そこにグノーシスと言う哲学にかぶれてしまったキリスト者たちが自らを説教者、指導者のようにふるまい始めて、教会を混乱させていたのです。そこになびいてゆく教会員も少なくなかったわけです。それを聞き及んだパウロは、テモテに断じて「異なる教え」を語るキリスト者たちに負けてはならないと激励したわけです。テモテは、彼らを論破し、教会員を正しい教えによって養い、キリストの教会をたてる務めを負っているのです。こうしてついに教会員自ら、異なる教えを見破る力を獲得して、テモテ牧師と一緒になって偽の教師を教会から追放しなければならないのです。

それなら異なる教えとは具体的にはどのような教えなのでしょうか。実は、残念ながら、ほとんどはっきりとは分かりません。しかしもしかすると、具体的に書いていないことは、むしろ今日の私どもには幸いと言えるかもしれません。つまり、いつの時代の教会にも、異なる教えは繰り返し侵入して来たり、内側から湧き出てくるものだからです。これは、ごく基本的な真理ですが、教会が地上に存在する限り、教会の内外で真理に対する攻撃はやむことはありません。だからこそ、聖書を読むべきです。このような手紙が決定的に重要なのです。そして、教会は常に神の教えを学ぶ家、御言葉の学校でなければならないのです。キリスト者は生涯、この学校を卒業しません。

さて、今朝はまさに学びの家である教会の全体研修会の日です。予告通り、異例中の異例のことですが、ここからはテキストから離れます。

先程、正しい教えの反対言葉が「異なる教え」であると申しました。それならその正しい言葉とは何でしょうか。それは「教会に伝えられた教え」だと思います。それなら、その源はどこにあるのでしょうか。それれずばり、イエスさまご自身とその語られた説教にあると思います。そもそも、イエスさまはご自身が生きておられる神のみ言葉そのものでいらっしゃいます。しかも、ついに人間となられました。それは、人間に伝わるように、人に伝えるために、人そのものとなる必要があったからです。神は、神の言葉を人の言葉で語られました。そしてここが急所です。イエスさまは、その言葉を実際に生きて、実行されました。こうして、語られた言葉をまさにいのちの言葉、力ある言葉となさったのです。それが十字架とご復活の意味でありその目的であります。

次に、進みます。このイエスさまの言葉を直接に聴いたのは誰でしょうか。その人たちこそ使徒です。この使徒たちこそ、教会の土台となり柱となった人たちです。イエスさまはまさにそのために彼らを弟子として訓練して下さったのです。そして使徒たちは、イエスさまが天に戻られた後、約束の聖霊を受けて、キリストの証人として地の果てにまで派遣されました。こうして今度は彼らを通して、イエスさまは御言葉を語り続けてくださったのです。

まとめますと、キリストの教会はイエスさまを土台にし、イエスさまを出発点とし、言わばそのバトンを使徒たちに渡し、そのバトンが2000年間、受け渡され、受け渡されて、今日の教会に届いたのです。ですから、教会の土台とは、イエスさまの教えを受けこれを教会に告げた使徒たちだとパウロは言ったのです。(エフェソ2:20)さて、これらの真理を一言で表すのが、ニカヤ信条のこの言葉です。「我らは使徒よりの唯一の聖なる公同の教会を信ず」です。この「使徒よりの」という言葉は、「使徒の教えを受け継ぐ」ということです。使徒的な福音の真理、つまり正しい教えを継承するということです。異端の教会かキリストのまことの教会かを分別するのは、要するに、そこでどのような教えが語られ、そして信じられているかが判別のポイントになるということです。

私ども名古屋岩の上教会は1994年に産声を挙げました。それは、自給開拓伝道という、教会にとっては言わば特殊なあり方、危険なあり方の出発でした。この危険性とは何でしょうか。そもそも教会は、単独、独立で存在するものではないからです。ひとりの伝道者が、一念発起するようにして独力で教会になろうとすることは、まさにキリスト教的ではありません。聖書的ではありません。その意味もあり、私どもは最初の礼拝式からニカヤ信条を唱えたのでした。教会が教会として存立するための言わば最低限の信仰告白がニカヤ信条だと考えていたからです。今朝は、ニカヤ信条の学びはしませんが、その理由の一つを挙げます。ニカヤ信条には、教会とは「使徒の教え」によって立つことが明白に告白されているからです。使徒の教えを素朴に言うとこうなります。「聖書の教え」です。ニカヤ信条は、使徒信条にはない、イエスさまは「聖書にしたがって三日目によみがえ」られたと告白します。ニカヤ信条のまさに特別のすばらしさはここにもあります。これは、現代の私どもの信仰告白の基礎になるものです。つまり、「聖書とは、神の言葉である」という信仰が明白にされているのです。イエスさまのお働き、つまり神の救いの御業は旧約聖書にもとづいて確証できるのだと告白するのです。後から申しますが、これこそ改革派信仰の基盤、土台、要なのです。さらに言えば、「聖霊は預言者を通して語りたまえり」と告白します。この条文は、「教会とは、言わば説教する神によって立てられる」という信仰です。16世紀の先輩たちは、教会とは、御言葉が正しく語られるところに存在すると言いました。それは、このニカヤ信条に基づく真理なのです。ですから、私共、改革派教会は説教にこだわり続けているのです。

さて今朝、開会礼拝として、あらためていわゆるプロテスタント教会とはどのような教会なのかをきちんと確認しておきたいと思います。それは、1517年にローマ教会のひとりの修道僧、ローマ教会によって立てられた神学博士であったルターに始まる運動です。教会を改革しようとする運動です。結果として、ローマ教会から追放されてしまいました。彼らは、この運動を取り込むのではなく断固拒絶しました。こうして、私どもの先輩たちは「やむを得ず」新しい教会として出発したわけであります。一般的にはローマ教会から離脱した教会のことをプロテスタント教会と呼びます。しかし私ども自身としては、この呼び方に違和感を覚えます。覚えるべきだと思います。私ども決して、単にプロテストする、つまり抗議する教会、抵抗する教会で終わるものではないからです。いわゆる野党のように政策を批判して終わる教会ではないからです。私どもこそ、歴史を担う主体、神の教会の本来あるべき教会だと自負しているのです。ちなみに私自身は私どものことをこれまでプロテスタント教会と牧会通信などで書いて来たことはありません。福音によって立つ教会、つまり福音主義教会と記して参りました。

さて、それなら私どもの先輩たちは、どうしてそこまで厳しくローマ教会を改革しなければならなかったのでしょうか。それは、まさにこの教会が「異なる教え」を語っていると判断したからです。ここはとても大切な理解です。改革者たちは、実にローマ・カトリック教会をカトリック教会に非ずと断罪したのです。カトリック教会とは公同の教会という意味です。つまり、異なる教えを説く教会は教会に非ずと言ったのです。21世紀の私どもこそ、この時の彼らの認識をきちんと受け止めることが大切です。確かに今は、お互いを認め合い、協力し合ってまいりました。その一つの目に見える実りは、この新共同訳聖書の存在です。共同で翻訳されたのです。ただし、だからと言って、16世紀の先輩たちが問題にした点を反故にしてはなりません。「500年も昔のことだから、もう忘れましょう」などというわけには決してまいりません。私どもはしていませんが、実は、多くの福音主義教会は毎年10月31日の週の主日に宗教改革記念礼拝を行います。それは自分たちの教会の原点を確認することが極めて大切だと考えているからだろうと思います。

さて、ローマ・カトリック教会、短縮してローマ教会と呼ばせて頂きますが、ローマ教会と私どもの教会はどこがどう違うのでしょうか。もとより、ここは確認しておきます。確かに教会の改革者たちは、ローマ教会を異なる教えを説く教会であると断罪しました。カルヴァンのキリスト教綱要を読めば、繰り返して、教皇のことを反キリストと呼び、ローマ教会のことを断罪しました。これは、当時の状況から仕方ないことだと思います。ただし今日、少なくとも私どもはローマ教会を異端などとは考えません。むしろいわゆるプロテスタントを自称する無数の教会の方が危険だと、私自身は考えています。

その上で、お互いを比較してみましょう。それは、私どもの信仰と教会の特特徴を明らかにするためです。
ローマ教会の方に、このように質問してみるとどうお答え下さるでしょうか。「教会とキリスト者の信仰と生活の規範、規準はどこにありますか?」彼らはこうお答えになられます。「聖書と教会の伝統」です。
もう一つの質問してみましょう。「救いの確かさはどこにありますか?」「信仰と信仰にもとづく善い行い」によります。

さらに質問してみましょう。「救いの恵みは、どこからもたらされますか。」「はい。キリストとマリアや諸聖人から恵みは注がれます。彼らは、地上でそのすばらしい生き方の功績によって豊かな恵みを受けています。信者たちはミサを通してこれにあずかれます。」これがローマ教会の救済論、救いの教え、救いの教理です。

丁寧に聴いて下さればただちにご理解いただけると思います。ローマ教会には○○と○○、つまり「二つ」のことが大切にされているわけです。「聖書と教会の伝統」「信仰と信仰にもとづく善い行い」「キリストとマリアや諸聖人」などです。これに対して、とりわけ私どもの直接の先輩にあたるカルヴァンたちは徹底して、この○○と○○の間のこの「と」の部分を捨てることを主張しました。この「と」に続く部分を捨てなければ、教会はキリストの教会として建たないのだと主張したのです。言わば「と」の教えに対して、私どもは「のみ」の教えをもって対抗したのです。この「のみ」(ソリ・ソラ)にこそ「唯一の聖なるカトリック教会」に連なる一本道があると主張して譲らなかったのです。

つまり改革派教会は、教会の教えの源泉、信仰と生活の唯一絶対の基準はどこにあるのかという問いに対して「聖書と伝統」ではなく「聖書のみ」(ソラ・スクリプチュラ)と主張しました。
私どもは救いの根拠を「信仰と行い」ではなく「信仰のみ」(ソラ・フィデ)と主張しました。
私どもはまた救いをもたらすのは「キリストとマリアや諸聖人」ではなく、「キリストのみ」(ソルス・クリストゥス)と主張しました。要するに「信仰のみ」とか「キリストのみ」というのは救いにあずかるには「恵みのみ」(ソラ・グラティア)であると主張したのです。人が救われるのは100%、徹底的に人の側にはなく、神の恵みのみによってもたらされるものだと言ったのです。まさにこれが聖書の信仰なのです。だから聖書は救いは恵み、賜物だと主張したのです。

しばしば教科書等で言われますが、当時の教会は大聖堂を建てる経費を賄うためにあろうことか贖宥状というチケットを販売しました。この贖宥状とは救われるための功績を積む一つの手段とされていました。信仰のみでは救われないという教理は、よい行いを実践して自分の功績にするという余地を残しているのです。そこで、良い行いをする便利なチケットを販売したのです。言わば信仰生活のコンビニの提供です。これに対し、改革者たちは、救われるのは「恵みのみ、信仰のみ、キリストのみ」だと言ったのです。これが私どもの教会の原点なのです。

そしてこの教えの中で、ローマ教会とは異なった教会職務の制度や礼拝式を構築して行ったのです。これがなければ、歴史を形成する真の教会になりえないからです。言うまでもなく私どもは、長老主義政治をもって地上においてカトリック教会、公同教会を具現しようとしたのです。もとより、私どもはこの長老主義政治そのものも絶対化しません。そのおかれた国の状況によって幅を持つ制度として受け止めたのです。厳密に言えば、受け止めるべきなのです。

これは余談です。しかし、プロテスタンの者どもにとっては重要な認識です。この教会の改革運動は、実は教会の改革に留まりませんでした。結果として、世界全体を揺り動かしてしまいました。余談の余談ですが、私どものこの国の憲法もまたこの運動の実りだと、わたしは確信しています。
反対に、教会が聖書の教えを間違えるとき、世界史にも悲しい影響を及ぼしました。今、南アフリカ教会が生んだベルハー信仰告白を祈祷会で学んでいます。教会が聖書の解釈を間違えれば奴隷制度を容認さえしてしまうのです。

最後に、今日は、異例中の異例ですが、あと二つのことだけを学び、心に刻みたいと思います。ソラというラテン語、のみというラテン語で言い表される改革派教会の信仰、聖書の信仰を総合的にまとめる一言があります。それが教会堂の正面に刻んだ文字「Soli Deo Gloria!」です。「ただ神の栄光のために」「神の栄光のみ」です。神の栄光のみでは満足できず、信じる私の栄光も認めてもらいたいと思うのが人間の罪深さです。自分が顔を出さなければ、いやなのが人間なのです。罪人の姿です。それに抗うことができるのは、ただ聖霊の力のみです。聖霊と御言葉が私どもをご支配くださるとき「すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」(ロマ11:)ことを信じることができるのです。そしてそのとき、思わずまた心の底からこう叫んでしまわざるをえないのです。献金のときの言葉です。「栄光が神に永遠にありますように、アーメン」このように思わず言ってしまう、言わされてしまうところが神の恵みの力なのです。私どもの教会は、この聖書の信仰の神髄、改革派信仰の神髄をいつも正面に掲げて信仰の旅を一足一足進めて参りたいと願います。

最後の最後に確認します。そもそものことです。もしかすると最も大切なことかもしれません。私どもの教会はルター派教会ではありません。カルヴァン教会でもありません。私どもは、人間の指導者の名を教会の名前に付けたくないのです。それが改革派教会の心です。私どもは「聖書のみ」の主張を徹底します。その心を17世紀の先輩のこの言葉がみごとに言いあらわしています。「御言葉によって改革された教会は、常に御言葉によって改革され続ける」これが私どもの教会名の由来です。私どもは徹底的に聖書にこだわります。ただし500年前に聖書によって改革されたのだと言ってそこに留まることはできません。何故なら神は今生きておられるからです。神は今朝ここで、御言葉を語り続けて下さるからです。教会はまさにその言葉を聴き続けるところによってのみ成り立つからです。ですから、神の教会は、常に御言葉によって改革され続ける以外に存続できません。改革されるとは、新しくされるということです。それはつまり生きているということです。信仰を生きるということです。

そうするとそこで一つの決定的な真理が見えて来ると思います。この教会に生きること、教会員であるということは、実は、ただこの教会に属していれば十分とは言えないということであります。会員のひとり一人が大人のキリスト者になって行かなければならないということです。神父様や主教様、教皇様に任せておいてはならないのです。まさに信徒ひとり一人が自覚的にならないと、改革派教会は真実の改革派とは呼べないのだと思います。難しいことは牧師と長老に任せてよいということではありません。みんなが自覚的に聖書を読み、説教を聴くことが求められています。

今朝のテキストに戻ります。パウロは、グノーシスの異端の説教者たちのことを痛烈に批判しました。その教えが間違っていたからです。しかしそれだけではありません。彼らが高慢であり、真理について何も分かっていないと言います。聖書を巡ってただ哲学議論や口論に病みつきになっているだけだと指摘します。そしてその根本原因を暴きます。彼らには真理を愛そうとする愛、真理であるキリストを愛する愛がないからだと言うのです。パウロは、彼らは要するに説教の務めをお金を得る手段、生活の手段と考えていたからです。精神が腐っていると恐ろしいほど非難しました。グノーシスの優秀な人々、賢い人々は結局、神と真理のために命を懸けないからです。

それなら、私どもはどうでしょうか。死に至るまでSoli Deo Gloria!を求めましょう。中学生の仲間達に難しければ、こう言ってもよいのです。「イエスさまが一番」です。二番はありません。イエスさまは、他のすべてのものと比べられません。それが一番という意味です。イエスさまだけが大切。これこそ、正しい使徒たちの教えなのです。これが改革派信仰の心です。私達はこの教えをここで受け継ぎ、そしてこれをさらに受け渡して参りましょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あなたのいのちの言葉、いのちをかけてくださった救いの御言葉を、しっかりと聴き取らせて下さい。そして、私どもの生活と教会をその力によって導いてください。そのようにしてここに神の教会を、ここにキリストだけを主と告白する教会を建てあげさせて下さい。
アーメン。

7月15日

★  本日は、教会全体研修会を開催致します。三週前から告知を重ねて参りました。今年は、通年10月の全体研修会を「お楽しみ会」なるものとし、―多いに期待しています!―、この日に変更したからです。

☆  私どもは来年2019年を開拓から25周年を記念する年として覚えます。そしてその年に、25周年記念誌を刊行するために委員会が組織され、熱心に準備が重ねられています。その意味では、今年はすでに25周年の歴史を、委員のみならず会員全員で顧みるべき「時」であると思います。

★  何故、今、もう一度、創立宣言なのでしょうか。それは、この宣言に共鳴したからこそ日本キリスト改革派教会中部中会に加入を志したからです。この宣言は私どものもう一つの原点なのです。名古屋岩の上教会とは、創立者たちが標榜した教会観を まじめに、 本気で、ここで実現しようとする教会なのです。

☆  もとより歴史的文書はすべからく批判的に継承すべきです。一方で、日本キリスト改革派教会の強みは、歴史(=伝統)を継承しうる教会であるという点にこそあります。だからこそ、道を失うことがないのです。つまり、聖書と信仰告白に導かれる教会だということです。どうぞ、午後、あらためて確認しましょう。そして、私どもの教会がこれまで何故、このような細く険しい道を自覚的に選び取ったのかを再確認しましょう。もしかすると、もはや歴史の長い教会、伝道所は創立宣言を学ばないかもしれません。しかしそこに誘惑、危険性があります。各個教会の なんとわなし のやり方が「改革派」らしさと勘違いするなら、そのとき、道を見失ってしまいます。

★  本日の説教は、開会礼拝として行うと言う特例をお許し下さい。1517年は、いわゆる宗教改革が起こった年です。受験のとき「イゴイナ」と覚えました。イナとは「否」です。これまでの宗教を「否!」と宣言してできたのが「プロテスタント」(抗議する)教会だと学びました。当時は、「新教」と旧教というようにも学んだ記憶があります。このような教科書的な知識がいかに危ういものかを痛切に思います。今や、新教という言い方は一般でもなされなくなりました。それは、ローマ教会側からみれば差別表現となるからです。と同時に、私ども自身をも間違わせてしまいます。つまり、私どもは何も、新しい宗教、新しい教えを標榜したわけではまったくないからです。徹底的に聖書に即した教会に立ち戻ろう、壊れた教会をリフォームしようという教会だからです。それは、私どもがプロテストする教会という、うっかりすると「無責任な野党」のように、「批判」や「抗議」ばかりするというイメージを植え付けかねません。ローマ側からみれば確かにプロテスタントかもしれませんが、当事者である私どもは、自分たちこそ「カトリック教会」であるという確信と自負を持っているのです。ですから、私どもは自らを「福音主義教会」と呼ぶのです。私じしんは、ローマ・カトリック教会を基本的にはローマ教会と、いささか申し訳ないですが呼び、記して参りました。上記のことから私共は基本的に「宗教改革」という表現そのものも用いたくないのです。いつか教会にもこれが「教会改革」と表記される日が来ることを願います。教会改革、具体的には礼拝改革となりました。その結果として、新しい制度を持つ教会の改革となったのでした・・・。

☆  先週は長老全員が午後不在となりました。心の中に、申し訳ない思いもありました。しかし、  帰ってみて長老方と深く感謝致しました。倉庫は信じられないくらい整理されていました。確かに、教会堂は教会員のものですから皆で掃除、整理をするのは当然でしょう。しかし、本当に感謝し、  心強く思いました。休職長老のリードで進めてくださったのだと思います。感謝いたします。

★  先週、高齢会員のための肘付きの椅子二脚が入りました。これで四脚になります。すわり心地がとても良かった・・・との声を漏れ聞きました。肘つき、だけではなく背もたれにクッションがはいり、座面も二倍の厚みなのがよいのだと思います。さらに導入を検討すべきでしょうか。  
  
★★  報告に記した通り、関市の被災地に伺いました。関教会を中心にした上之保、下之保地区他の被災者支援のディアコニアが始められました。初動としてすでにおそらく10万円近くの物資、交通費が支出されていると思われます。なお、私的感想ですが、実はあらためて亘理・山元町の被災の悲惨さを思い起こしました。先日の太田伝道所への飲料水送付と言い、豪雨の被害の危険性をも突きつけられています。可能な限り、関教会のディアコニアを支援できればと祈り願います。

 「日本キリスト改革派教会創立宣言に学ぶ 名古屋岩の上教会の第二の原点について」

教会全体研修会
主 題  「日本キリスト改革派教会創立宣言に学ぶ  
名古屋岩の上教会の第二の原点について」
2018年7月15日13:00~15:00 (発題60分)

はじめに
本日の主日礼拝式は、テモテへの手紙気旅峅鮴盒気任呂△蠅弔帖△靴し全体研修会の開会礼拝式として位置付けて語った。テモテへの手紙気鯤儿垢垢覯椎柔もあったわけであるがテキストの前後を移動させるだけで、ふさわしいテキストとなったことに驚きを禁じ得ない。摂理である。説教題を「健全な言葉による改革」とした。新約時代、教会のまさに揺籃期、第二世代の伝道者たちは、すでに教会内から沸き起こったグノーシス主義の教えをもとにして聖書を解釈する者ども、つまり「異なる教え」を語る者との厳しい戦いを強いられていたのである。パウロは、異なる教えを教会から排除するため、テモテ牧師を励ます。牧会するエフェソ教会の教会職制を整えさせる。つまり、教会を御言葉の教えのなかにふさわしく整えて配置する。もってキリストの主権に服する教会を建てあげようとするのである。この手紙をそこで編まれたものなのである。

名古屋岩の上教会の原点とは
名古屋岩の上教会の創立の原点は、「ここに神の教会を、ここにキリストだけを主と告白する慰めの共同体を形成させてください」との祈りにある。それは、前任地での6年間にわたるキリスト教「集会」での厳しい試練と闘いを背景にしている。その闘いとは、「キリスト教的な集会をどのようにしてキリスト教会として形成できるのか・・・」にあった。そこではまた、正しい教えにもとづかない「クリスチャンなるもの」の危うさを身をもって経験した。ただし6年もの間、一応 牧師として働いたわけである。したがって、その責任を彼らにのみ転嫁してすます
ことはできない。

その「教会」は、再洗礼派(アナ・バプテスト)を背景にするという教派であると言う。ただしその本部ミッションは、そもそも再洗礼派の神学を継承しているわけではない。「四つの伝統」(相互に無関係)が流れ込むゆるやかな交わりであるというのが本当のところ。しかし前任の一部の方とその指導者には、再洗礼派伝統へのつよいこだわりがあった。ところが、その前任地を開拓した宣教師じしんの出自は、再洗礼派でも、そのミッション団体でもなかったのである。

再洗礼派は21世紀、学問的な見直しがさかんになされるようになった。言わば再評価の試みが各分野(教会内外)でなされ始めている。しかし、16世紀、教会の改革者たちは、彼らを異端と断定し徹底的に批判した。カルヴァンの「キリスト教綱要」を読めば、ローマ教会を異端とし返す刀で再洗礼派を切り捨てる。決して改革
教会の範疇に入るものではないとした。また、再洗礼派じしんも、みずからを福音主義教会(プロテスタント)とは呼ばず、第三の道と称したのである。従って今日、再洗礼派の伝統を自覚する諸教会であれば、みずからをプロテスタント教会と名乗ることは、自分たちの伝統そのものにも不誠実となるであろう。

それなら何故、わたしは赴任したのか。宣教師が帰米され、すぐに牧者を欠く群れとなってしまうという開拓伝道中の群れだという。当時、会堂はなく、スーパーマーケットの二階の部屋を日曜日の午前だけ間借りしての礼拝。空前絶後の開拓伝道?(昼12時になると従業員がお昼ご飯をとりに、礼拝中の部屋を横切る!一階のスーパーからは拡声器を用いてセールの呼び声。二回ほど?いわゆる「お見合い説教」、牧会者がいなくなる群れでありながら求道者が大勢いらっしゃる。何としても来てほしいとの声。「若気の至り」か「召命」か。しかし、何とか助けたいとの思いが勝ったのである。後日談・・。かの宣教師は1年後なんと戻って来られた。
6年間にも及ぶさまざまな経験については、貴重な時間の妨げになるので控える。25周年記念誌編纂委員会には、質問に答える形で分かちあっている。おそらく文書化されるのではないか。

ここでの悲しくも厳しい貴重な経験によって「キリスト教とは何なのか?」という素朴かつ根本的な問題意識を植え付けられた。こうして開拓1年目から徹底的にまなびはじめたのは、キリスト教とキリスト教会の土台についてであった。
教会成立の三要件としての
【正典】(キャノン=聖書)
【信条】(クレドー=聖書の解釈の基準、教えの要約)
【職制】(オルドー=教会職制)
と その相互関係であった。

洗礼入会志願者にも、必ずこの関係について説明した。徹底的に土台を据えた。確かに、日本キリスト改革派教会加入後は、これらの学びの必然性は弱くなった。当然のことである。しかしいっぽうで、キリスト教と教会とは何かを考える上で、まさに大前提であり、土台である。教会を建てあげる神学的思索の筋道を整え、鍛える上で必須。成人会員で、もしこの学びをされないで洗礼入会なさったと仰る方は、あとでこっそり、教えて頂きたい。(笑)

確かに、これらの事々は、16世紀以前の教会人のための学びとしては必須である。しかし、21世紀を生きるキリスト者と教会、改革者たちの伝統を継承する者であれば、これらことでは足らない。

残念ながら、いわゆる日本の福音派と呼ばれる教会の中には、なお信条や制度についてきわめてナイーブかつ主観的理解に留まる教会もある。教会が教会であるための、教会を建てるための、最低保持すべき信仰告白をも持たなかったり、また教会政治やその職務制度を整頓していない群れもある。残念ながら結局、牧師の聖書解釈によるキリスト教集会とならざるを得ないであろう。たといどれほど誠実かつ高度な学問研究を経たものであるとしても、結果としては個人的かつ主観的なキリスト教でしかなくなる!問題の急所は、彼らが非歴史的な教会理解に留まっているから。彼らは、必ず信条を軽視する。何故なら、信条こそ、教会の歴史的営み(神学的な遺産、教会伝統)の言わば精華に他ならないからです。教会の総決算、総合作品を軽視するとき、指導者の聖書理解、信仰理解がやがていわば「信条」の代わりになって行く。
 
名古屋岩の上教会の原点とは、
ここにまことの神の教会を、
キリストの主権を確立する教会を建てあげようとするもの。
教会のなかに人間中心を徹底的に排除し、キリスト中心、キリストの主権を確立することを目ざすもの。

この道は、単に自給伝道、開拓伝道という以上に厳しいものである。教理・神学アレルギーの問題もあった。人間は徹底的に自己中心。キリスト者といえども気を緩めればただちに「自己主張」を始める。人間的な知恵の誘惑を克服して聖書からの知恵のみで立ち上がる教会。それが「この岩の上に」という教会名に込められている。徹底してキリストのみ!キリストへの信仰告白!が牧師と信徒に問われる教会。狭く険しい、ただ聖霊と御言葉によってのみ歩続けることが出来る道を求めたのである。我々の開拓伝道とは、会員を増やすことを第一には意味しない。むしろ、キリストの体である教会をこの地に堅固すえること。土壌を耕し、土台を据えることを意味したのである。

まとめ
 名古屋岩の上教会の開拓伝道の第一の原点とは、ここに歴史的キリスト教、真の教会を建てる挑戦であった。

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名古屋岩の上教会の第二の原点
こうして開拓3年目頃には、高いギアを入れ改革派の伝統を継承する方向、そのような教団に所属する方向を模索しはじめた。その試行錯誤の中で、創立宣言との出会いがあった。まさか自分が日本キリスト改革派教会に心惹かれるとは!!身近に知り合いは誰一人もおらず、よいイメージはもっていなかった。
16世紀以前であれば、第一の原点でも十分であったかもしれない。しかしそれ以降の教会は、自分たちの教会をどのような教会であるのかを、明瞭にする責任、歴史的必然がある。岩の上教会とは、神の教会である。使徒的・唯一・聖・公同的教会であると自負するだけではまったく足らない。福音主義教会を志向するなら、どの立場であるのか。つまり、どの「教派」に連なるのかが決定的に問われる。

その前に、福音主義教会の確立についてはごく短く、本日の説教で、改革教会の特徴を再確認した。おさらいとして記す。

改革派の特徴としての「5つのソラ」

聖書のみ  (ソラ・スクリプチュラ)       【教会改革の形式原理】
信仰のみ  (ソラ・フィデ) 
キリストのみ(ソルス・クリストゥス)       【教会改革の内容原理】
恵みのみ  (ソラ・グラティア)         
神の栄光のみ(ソリ・デオ・グロリア)       【教会改革の目的】

「聖書のみ」はルター派と一致している。しかし我々はさらに徹底する。その標語が「エクレシア・レフォルマータ・センペル・レフォルマンダ」(ecclesia reformata semper reformanda)つまり、「改革された教会は、常に改革され続けなければならない」という有名な言葉。ルター派は「改革された教会」。改革派は「改革され続ける教会」として自己規定する。言い換えれば、信仰告白し続ける教会、信仰告白を再生産する教会。ちなみに、ルター派の信仰告白は16世紀の7つのみ。我々は、無数・・・・。

何故、日本キリスト改革派教会に加入したのか。それは上記「教会成立の三要件」を今日において徹底し、豊かに展開する教会となる道を保持する教会だから。

創立宣言を読んだとき、これこそ、自分の開拓の志である。同志を発見したとの思いが与えられた。ここに集まれ!との鐘の響きのよう。その意味で、創立宣言は、第二の原点であると言える。

「見えない教会」は「唯一の聖なる公同教会」として存在するが、それは地上において可視化、つまり「具現」されなければならない。「これ日本キリスト改革派教会の主張の第二点」これこそ、名古屋岩の上教会の開拓の志と方向性。前述の「三要件」こそは、教会がその存立のために生命的に保持すべき本質であるからして、下記のようにこれをふさわしく展開しているのが日本キリスト改革派教会の創立宣言にも示されている。
つまり、

1、「改革派教会は 最も聖書的教会である。聖書66巻を誤りなき神の言として 信仰と生活の唯一の基準と信じる。」(岡田稔 10か条より)
つまり、日本キリスト改革派教会は、この異教の地にあって、改革者カルヴァンたちの主張にもとづいて聖書を徹底的に重んじ、聖書に即した教会であろうとする教会。    (キャノン)

2、「改革派教会は 最も教理的教会である。神の言である聖書を正しく体系化し正統教理に依拠して聖書の教えを明示する。」(岡田稔 10か条より)  
創立宣言では「一つ信仰告白」という言葉が該当
つまり、聖書解釈の基準となる最高の信条として17世紀のウェストミンスター信仰告白、大小教理問答を保持し、これを徹底的に重んじる。
信条・信仰告白とは聖書の教理の体系。改革者たちの30数個の諸信条と【共に】ウェストミンスター信仰規準を採用した。(ここが要。過去の信条をさらに発展、展開する。すなわち、新信条は過去の否定とはならない!)信仰告白(教理)を徹底的に重んじる教会。   (クレドー)

3、「改革派教会は もっとも神中心的な教会である。神の主権を高調しその栄光を唯一の目標とする。」(岡田稔 10か条より)  
創立宣言では「一つ教会政治」という言葉が該当
「長老主義政治」をもって「キリストの主権の確立」(↑「神中心的教会」と同意義)を目指す教会。その筋道を有する                           (オルドー)
 
 第二の主張としての
「一つ信仰告白」・「一つ教会政治」・「一つ善き生活」(この部分が最も貧弱!)を具備することで「神の教会」を地上に具現化するとの宣言。創立宣言のキモ。岡田先生がなされた講演音声データによれば、第二の主張こそもっとも言いたかったことで、第一の主張である「有神論的人生観、世界観」は補足・・・。(第一の主張の執筆は、記憶が薄れているのであるが、常葉牧師??)つまり実は、この辺りは創立者どうしの間でも温度差があった。それだけに、この第一の主張である「有神論的人生観、世界観」をどのように捉えるかは、日本キリスト改革派教会の行く末を「占う」意味では、重要であろう。ただし、岡田先生のように第二の教会形成論こそが教会の創立としての宣言の要であるという理解は重要であろう。これなしには、まったく第一の主張は空回りとなる。同時に、第二の事柄だけであれば、内向きの教会となる危険性がある。第一の主張と第二の主張とを対立的に捉えるとき道を誤る。第一の主張は対世界、対社会においての拡がり。第二の主張は、教会が教会となるための筋道であり、その結果として第一の拡がりを生む方向で教会形成を捕えるべきだということでしょう。

 なによりその講演を聴いてびっくりし、あらためて同志としてかんがえさせられたことがある。てもとにデータがないので記憶に頼るが、「我々は、当時、日本基督教団を教会として認められない。日本には純正なキリスト教会はないとの思いから創立したのである」つまり、日本基督教団に残留した諸教会は教会未満だということ。実に目が覚めるような主張と認識ではないか。しかし、教理を、教会論をちゃんと学んだ者であれば、実は誰しも認められる主張ではないか!

 創立宣言の中でまさに秀逸な言葉は、「日本基督改革派教会信仰規準の前文」であろう。すなわち、「神ガ己ノ教会ニ与へ給ヒシ神ノ言ナル旧新両約ノ聖書ハ教会ノ唯一無謬ナル経典ナリ。聖書ニ於イテ啓示セラレタル神ノ言ハ教会ニヨリ信仰告白セラレテ教会ノ信仰ノ規準トナル、是教会ノ信条ナリ。教会ハ古[いにし]へヨリ使徒信条、ニカヤ信条、アタナシウス信条、カルケドン信条ナル四ツノ信条ヲ教会ノ基本的、普遍的信条トシテ共有シ来レリ。宗教改革時代ニ至り、改革派諸教会ハそれら諸信条ノ正統信仰ノ伝統ニ立チ且ツ是等ニ止[とどま]ラズシテ純正ニ福音的、否全教理ニ亘リ更ニ純正ニシテ且ツ優レテ体系的ナル信条ノ作成ニ導カルルニ至レリ。其ノ三十数個ノ信条ノ中ニテウエストミンスター信仰基準ハ聖書ニ於イテ教へラレタル教理ノ体系トシテ最モ完備セルモノナルヲ我等ハ確信スルモノナリ。我等日本基督改革派教会ハ我等ノ言葉ヲ以テ更ニ優レタルモノヲ作成スル日ヲ祈リ求ムルト雖[いえど]モ此ノ信仰規準コソ今日我等ノ信仰規準トシテ最適ノモノナルヲ確信シ讃美ト感謝ヲ以テ教会ノ信仰規準トス。」
 名文かつ見事な解説!

聖書と信条との相互関係、規範する規範としての聖書。規範される規範としての信仰告白。古代の四つの基本信条の上に教会改革者たちの30数個の信仰告白が生産され、そのなかでウェストミンスター信仰基準が最も完備したものと表明。タダシ!改革派たる教会は必ずや自分たちの言葉で信仰を告白しなければならない(センペル・レフォルマンダ)と自らに楔を打ち込む。同時に、日本キリスト改革派教会は幼い教会なので今は、ウェストミンスター信仰告白大小教理問答を学ぶことが先決だとわきまえる。

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あらためて創立宣言をつまみ食いしてみる (第一の主張を中心に)
・「終戦後既に9か月」の日本の状況・・・。すべからく歴史文書を読み解く要となるのは、歴史情況、背景の把握。

・「新日本の建設」は、当時のいわば流行語となっていた。 

・「敗戦祖国」という言葉はよい。「終戦」か「敗戦」かの理解や表記で、戦後の出発に決定的な差が生じる。戦後日本史における決定的歴史認識。敗戦をなかったことにしたいグループが「日本会議」であり安倍政権。「ポツダム宣言を(つまびらかに)読んだことがない」!という恐るべき総理が我らの総理大臣。同時に、「アメリカへの徹底的、自発的隷属」こそ、戦後の「国体」(白井聡史「国体論」)の正体。(戦前の国体は言うまでもなく国家神道、天皇制。この天皇制を歪んだ仕方で残しつつ、現天皇よりアメリカに寄り添う。天皇、明仁氏は憲法を擁護して「象徴天皇制」を)

・「宇宙と人類を主宰し給う・・・」この神を信じるのでなければ国が善く建つことはできないという確信。

・「宗教の自由は甚だしく圧迫せられ・・・」宗教の自由とは信教の自由のこと。言うまでもないことであるが、ここには被害者としての意識とその表明が強い。30年後の教会と国家に関する信仰の宣言を待たなければ、加害者としての罪の悔い改めはなされたとは言い難い。

・「食ふにも飲むにも、何事をなすにも凡て神の栄光を顕はす事」を以つて至高の目的となさゞる可からず。」(汽灰螢鵐10:31) Soli Deo Gloria!という本日の説教で学んだ改革教会の特質の言葉が冒頭にあることは興味深い。  
   
・「この有神的人生観ないし世界観こそ新日本建設の唯一の確かなる基礎なり」とは

・「日本基督改革派教会の主張の第一点にして我らの熱心ここにあり。
  神を信じる国と民、しかも神の栄光を目指す信仰こそが国家の基盤。
   教会創立の宣言でありながら、これを主張の第一としたところが日本キリスト改革派教会のおそらく強みであり、将来の可能性をひらく方向性。同時に「教会の自律性」を強調したことは、キリストの統治が教会と国家の双方に及びつつ、国家は教会の主権に干渉してはならないと言うこと、日本におけるキリスト教の将来の困難さを予測し、防御の楔を打っておくことが狙われていたのかもしれない。
                        
・「世界は将に転換しつゝあり、近世は既に終止符を打たれたり。新たなる世代は最早胎動を開始せり。さらばこの来らんとする時代の精神的指導者となる者は誰ぞ。宗教は既に実力を喪失し無神論的唯物史観に処を譲れりと断じて可なりや。否。」(p4) 当時の日本は、共産主義者への警戒がすでに現れていた。占領軍は民主化を推し進め国家神道、神国日本の幻想を破壊しようとした。マッカーサーは米国の教会に聖書と宣教師を派遣することを要望し、それに教会は応えた。その政治的意図は、共産主義勢力を封じ込めることであったであろう。

 そもそも、大日本帝国政府および天皇は、最後の最後まで「国体護持」にこだわった。それなしにはまさに破滅まで進んだかもしれない。彼らが敗戦後の日本のあり方「国体」としてもっとも恐れたのは共産主義化すること。その時には、革命がおこり天皇の生命と天皇家も存続できなくなることを恐れた。アメリカもまた日本を共産主義への防波堤として国土すべてを「不沈空母」化しようとした。(その縮図がオキナワ)こうして、敗戦後の新日本は象徴天皇制を残しつつ、民主化を実現するという本来、ほとんど不可能な企ての細い道を進むこととなる。しかし、今、歴史が明らかにしたことは結局、立憲主義国家としての日本は幻想で、アメリカとの地位協定という小さな法律こそが、憲法よりはるかに優位になって、日本の占領統治を顕在化しないカタチで行われている・・・・。

  痛恨の極みであるのだか、これらの「背景」を、当時の教会指導者たち、キリスト者たちはおそらく見抜けていなかっただろう。

キリスト教国アメリカの民主主義を日本に根付かせるという当時の占領軍の意向(多くの国民は大歓迎)とキリスト教との親和性は極めて高かった。
  戦後のいっとき、空前のキリスト教ブームが起こった。日本はキリスト教国となり、天皇までキリスト教になると「夢」みた人もいた。皇太子の家庭教師は、女性宣教師。聖書を読む皇室!(☞天皇<家>の体質。 天皇の存続がDNA、天皇裕仁氏もまた象徴天皇制を自分のイメージで構築し、今日、多くの日本人は憲法を擁護し、安倍政権を批判する天皇個人に親しみと尊敬を持つ。だからこそ、見抜くべし!)

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あらためて日本キリスト改革派教会の特色をつまみ食いしてみる 
(創立者、岡田稔の神学をもとに)
※先日、望月先生より四国の教会でなされた晩年の岡田稔師の講演テープを聴いた。確認しようとしたが現在手許にないので、記憶を根拠に語ることをおわびする。

★改革派教会の特色 十か条
1、 改革派教会は 最も聖書的教会である。聖書66巻を誤りなき神の言として 信仰と生活の唯一の基準と信じる。

☞日本キリスト改革派教会は実は、日本の「福音派」の基礎をつくるために貢献した。聖書論、聖書信仰についての神学的貢献。「新改訳聖書」の翻訳等を担い、当時の日本基督教団の「リベラル派」に対抗した。しかし言うまでもなく、聖書さえあれば、聖書の正しい解釈さえすれば正しい信仰に至り、教会を建てあげられるというような非歴史的な立場と一致できるはずもない。今日は、福音派陣営も我々を同志としてはみないであろう。
  リベラルな立場は、聖書を唯一の規範としない。結局、ローマ教会の聖書と人間の知恵のように「と」を大切にする。「誤りなき」という言葉は当時の福音派のアイデンティティーのほとんどすべて。神の言葉として信じる者にとって「誤まりがない」というのは当たり前の前提。しかし、ここを強調したばかりに、記述の表現、表記他細々にいたるまで文字通りに受け止めるというとてつもない文字主義の弊害に陥ったことも事実であろう。        

2、 改革派教会は 最も教理的教会である。神の言である聖書を正しく体系化し正統教理に依拠して聖書の教えを明示する。

  ☞これは、前述した通り。教理的教会であろうとする努力は、絶えず牧師と会員が自覚しなければ内実を伴わなくなる。自戒が必要。教理的教会であることは確かであるが、神学的教会であるとは言い難いと個人的には思う。自分で考える!ことをしない危険性・・・のこと。神学的教会とは、神の言葉によって改革されるための営み。よって、神学的教会であることを止めれば、改革派デハナイ。牧師こそ自戒せねばならない。              

3、 改革派教会は もっとも神中心的な教会である。神の主権を高調しその栄光を唯一の目標とする。
  ☞開拓の第一の原点、「ここに神の教会を」が「神中心的な教会」のこと。「キリストの主権に服す教会を」が「神の主権を高調し」のこと。Soli Deo Gloria!を目標にした教会形成!

4、 改革派教会は 最も霊的な教会である。儀式や人為的工夫を排して、霊と真をもって神を礼拝する。

 ☞「最も霊的」というのは、??であろう。確かに、我々は「人為的工夫」を神礼拝に導入することを断固阻止する教会である。しかし、その結果、霊的になるとは言い難い・・・。岩の上教会は、加入後、集中的に標語としたのは実は20周年記念宣言の言葉であった!「聖霊の力溢れる教会!!」これこそ、未獲得の体制ではないか。もとより、水曜朝夕の祈祷会を、求道者時代から出席する方が半数以上であったはず。しかし、祈祷会とともに、集会としてではなく礼拝後、あちらこちらで小さな祈りの輪を見ることはできない・・・。そのような教会にあこがれる。日本キリスト改革派教会ではほとんど見たことがない・・・。浜松伝道所の御言葉の分かち合い・・・。
       
5、 改革派教会は 最も民主的な教会である。キリストのみが我ら罪人の唯一の仲保者として預言者、祭司、王でいましたもうと信じるゆえに教会の世俗化、階級化、教権に強く反対する。

 ☞ 民主的とは、民を主とすると言う意味ではない。キリストのもとに平等。信徒職務者を重んじる。信徒を整える奉仕者、牧師の責任、長老の責任。執事の模範としての責任。
  
6、 改革派教会は 最も自由、自律を主張する教会である。教会の国家的支配を排して、ただ首(かしら)なるキリストにのみ服従する。

 ☞「30周年宣言・教会と国家に関する信仰の宣言」参照。信教の自由、教会の自律性は教会の存亡にかかわる。教会の預言者的見張りの務めと共に我々の政治的ディアコニアの展開が大切   

7、 改革派教会は 文化的活動に寄与する能力を有する教会である。人生あらゆる部面に向かって、救いの実現を希望する。

 ☞第一の主張のこと。文化的活動に寄与する能力・・・は現在、大いに疑問・・・。
  
8、 改革派教会は 厳格な生活の清潔と道徳の実践を高調する教会である。

 ☞「一つ善き生活」の高調。しかし、ここが弱点ではないか? 厳格な生活。生活の清潔、道徳の実践・・・。岩の上で、語った事がない・・・?   
    
9、 改革派教会は 信条主義に立ち、他教会との交友を重んじて各教会の信仰と行動の自由を尊びつつ協力することを望む教会である。

 ☞「70周年宣言」で主張された、他教会、他教派、思想信条を越えての共同!
  
10、 改革派教会は 長老制を聖書的制度であり、教会の純正を保持するに最も有効な制度をとり、各個教会は中会に、中会は大会に属することを建前とする。    「
 ☞制度なき教会、政治なき教会は歴史形成は不可能。長老制を「神定」とは主張していないことに留意を!! 

 過去の歴史が実証するように聖書のみがあらゆる迷信と無神論に対する有効な破砕力を持つことを改革派キリスト者は確信する。 
                      岡田稔
 ☞もう一度聖書に戻る。創立者、神学者岡田先生の強烈なこだわり!神学的営為の大前提!!


時間切れ・・・
結語:神の教会を地上に建て、もって御国を伸展させるために救われたことを心から喜び、感謝と光栄をもって、これからも「この一事」に献身して参ろうではないか。
Soli Deo Gloria!

目次
名古屋岩の上教会
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TEL&FAX:052-895-6701 
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□牧師 相馬伸郎□
下記の定例集会にどなたもお気軽にお越しください!心から歓迎いたします。
求めるあなたに、かならず、救いが与えられます。


□主日礼拝式□
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10:30〜12:00

□子どもの教会□
毎週日曜日 
嬰児から高校生まで
9:00〜10:00

□祈祷会□
毎週水曜日 
朝 10:00〜11:30
夜 19:30〜21:00

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