名古屋岩の上教会

わたしはこの岩の上に私の教会を建てます。 -マタイによる福音書第16章18節-

「何故、神が分からないのか ヨセフ物語」

「何故、神が分からないのか ヨセフ物語」
 2023年6月4日
聖書朗読 創世記第43章      469(1・5):403
【この地方の飢饉はひどくなる一方であった。エジプトから持ち帰った穀物を食べ尽くすと、父は息子たちに言った。「もう一度行って、我々の食糧を少し買って来なさい。」しかし、ユダは答えた。「あの人は、『弟が一緒でないかぎり、わたしの顔を見ることは許さぬ』と、厳しく我々に言い渡したのです。もし弟を一緒に行かせてくださるなら、我々は下って行って、あなたのために食糧を買って参ります。しかし、一緒に行かせてくださらないのなら、行くわけにはいきません。『弟が一緒でないかぎり、わたしの顔を見ることは許さぬ』と、あの人が我々に言ったのですから。」 「なぜお前たちは、その人にもう一人弟がいるなどと言って、わたしを苦しめるようなことをしたのか」とイスラエルが言うと、彼らは答えた。「あの人が、我々のことや家族のことについて、『お前たちの父親は、まだ生きているのか』とか、『お前たちには、まだほかに弟がいるのか』などと、しきりに尋ねるものですから、尋ねられるままに答えただけです。まさか、『弟を連れて来い』などと言われようとは思いも寄りませんでしたから。」
ユダは、父イスラエルに言った。「あの子をぜひわたしと一緒に行かせてください。それなら、すぐにでも行って参ります。そうすれば、我々も、あなたも、子供たちも死なずに生き延びることができます。あの子のことはわたしが保障します。その責任をわたしに負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。こんなにためらっていなければ、今ごろはもう二度も行って来たはずです。」
すると、父イスラエルは息子たちに言った。「どうしてもそうしなければならないのなら、こうしなさい。この土地の名産の品を袋に入れて、その人への贈り物として持って行くのだ。乳香と蜜を少し、樹脂と没薬、ピスタチオやアーモンドの実。それから、銀を二倍用意して行きなさい。袋の口に戻されていた銀も持って行ってお返しするのだ。たぶん何かの間違いだったのだろうから。では、弟を連れて、早速その人のところへ戻りなさい。どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」

今朝でヨセフ物語の第10回目となります。いよいよヨセフ物語は佳境に入ってまいりました。今朝は、兄たちが再びエジプトに食料を買い出しするために訪ね、言わば人質となっていたシメオンを取り戻すためにヨセフと再会する場面です。今朝は、時間の関係で、残念ながら、まさに感動的なシーンを朗読できませんでした。「ヨセフは同じ母から生まれた弟ベニヤミンをじっと見つめて、「前に話していた末の弟はこれか」と尋ね、「わたしの子よ。神の恵みがお前にあるように」と言うと、ヨセフは急いで席を外した。弟懐かしさに、胸が熱くなり、涙がこぼれそうになったからである。ヨセフは奥の部屋に入ると泣いた。」父ヤコブの健在を確かめ、目の前にいる同じ母から生まれたたったひとりの弟ベニヤミンが元気に成長している様をみて、こらえきれなくなってしまうヨセフに読者もまた心動かされるだろうと思います。旧約の物語の中でおそらくもっとも感動的な場面の一つだろうと思います。

さて、私どもはすでにこのヨセフ物語をどのように読むのかについても学んで参りました。それは、ヨセフを主イエス・キリストをまざまざと証しする人、イエスさまのモデルとして見るということです。私どもは既に、ヨセフの言動の中にイエスさまのお姿を重ねるような読み方を始めています。ここでも、母を異にする兄たちを見、そして同じ母から生まれた唯一の弟を見て胸を熱くするヨセフとご自身を完全に否定し、裏切った弟子たちをご覧になってなお深く憐れみ続け、愛し続けて下さったイエスさまが一つに重なるだろうと思います。

ただしヨセフはここでなお心を鬼にして、自分が弟ヨセフであることを隠し通します。それは、ひとえに彼らを真の悔い改めと信仰に導くために他なりません。そしてその究極の目標、目的は、兄弟の和解を成し遂げることにあります。イスラエルを名実共に、愛と平和の家族、神に対する信仰と暖かなお互いへの愛が宿る理想的な家族、信仰共同体へと形成するために他なりません。そのためになおヨセフは身を隠し続けるのであります。

一方、ヨセフを殺そうとした兄たちは、そのようなヨセフの心の中をまったく知るよしもありません。むしろ、いよいよ恐怖心が強まるのです。何故、ヨセフに対する恐怖心が強まって来たのでしょうか。それは、神さまが、自分たちの弟殺しの犯罪を今もお忘れになっておられないことを深く意識し始めているからです。兄たちは、既に、第一回のエジプト訪問によって自分たちの弟殺しの罪に向き合うようにはっきりと導かれ始めているのです。

ただし、彼らはそれでもなお明白な罪の告白と悔い改めに導かれているとまでは言えませ。その明らかな証拠こそ、彼らが抱く恐怖心です。彼らの良心は自分たちが犯した罪によって傷つき、痛んでいるのです。それは、しっかり赦されなければ癒されません。恐怖心を完全に拭い去り、良心の呵責と罪を赦すことがおできになるのはひとり神のみであります。

この場面を先ほど申し上げたような読み方、霊的な読み方、キリスト証言的な読み方でみるとき、はっきり見えて来ることがあるだろうと思います。それはまさに、主なる神と罪人である私どもとの関わり方です。関係性です。実に、私どもは罪によって心が捻じ曲がっているので、真実の神さまのお姿をそのまま見ること、理解することができなくなっています。まさにその悲惨な私どもの姿を兄たちの姿の中に見るのであります。私事でまことに恐縮ですが、スピードを出し過ぎたところでパトカーを発見するとドキドキます。何も悪いことをしていなくても、警官が近づいてくると何かそわそわします。

実に、罪人である私どもは、罪を抱えたままでは、神ご自身のまことのお姿が分からないのです。はっきり申しますと怖くなるのです。神の前に良心の呵責をもっているので近づけないのです。神のお姿をご自身の正義によって厳しく私を審判する神としか見えないのです。どれほど神が愛であり恵み深いお方でいらっしゃると教えられても、恐怖心がまさるのです。だから、近づこうとしないのです。これこそ、罪がもたらす禍に他なりません。

それは、まるで兄たちが目の前にいる最高権力者が弟のヨセフだと気づけないことと似ています。しかも、万一、そのヨセフが生きてエジプトにいるとすれば、ヨセフは自分たちに対する怒りと復讐に燃えているだろうとしか思えないのです。ところが実際のヨセフは、どこまでも心優しく、父ヤコブのことを案じ続け、弟ベニヤミンのことを案じ続け、そして自分をわずかの銀貨で売り飛ばした兄たちの健在すら喜んでいるのです。ところが兄たちにはまるで分かりません。それはまさに、人間が聖書の神に造られているにもかかわらず。聖書の神が今、ここにおられ、生きてはたらいていらっしゃることが分からない罪人の現実に重なります。二重写しになります。これが罪の禍の結果なのであります。 

だからこそ、預言者イザヤはこのように語りました。第55章6節以下です。 「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。」ヨセフの兄たちは今、まさにヨセフを通して神に取り扱われ始めています。今こそ、兄たちは神に立ち帰るべきですし、それができるはずです。ヨセフの思いは一つなのです。どうにかして兄たちが神の前に悔い改め、真実に信仰の家族となって再出発し、愛と平和が支配する信仰の家庭を再形成するように願っているのです。

実に、我々罪人である人間は今なお、兄たちがヨセフに抱いたと同じように、神に対して恐怖心に縛られ、神さまを捻じ曲げて考えているのであります。それをご存じの神は、預言者たちを通してはっきり「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なる」と仰って、我々の誤解、我々の先入観を払われるのであります。聖書の神の御思いは、私どもが良心の呵責によって勝手に抱く、厳しく、いかめしく、冷たく、裁きに急ぐようなものとは違うのです。主イエス・キリストの父なる神は、いかなる意味でも我々人間が、人間関係を上手に進めて行くための世間的な知恵や気遣いで応対しなければならない気難しいお方ではいらっしゃいません。父なる神は、そのご本質そのものである愛と赦しをもって、まっすぐに私どもに向き合ってくださる神、誠実、真実で優しい神でいらっしゃるのです。

さてしかし、人間ヨセフは、時に厳しく、時に策略と言ってもよいほどの方法をもって兄たちに向き合います。彼らの良心の呵責を深めて責めるのです。それなら、イエスさまもまた、時に厳しく、時に策略をもって私どもの良心の呵責を深め、罪を御責めになられるのでしょうか。違います。主イエスは、なんとご自身が傷つくという方法で、彼らの罪がもたらす恐怖心を払い飛ばすのです。主イエスは、ご自身を裏切り、見捨てて十字架から逃げ出した弟子たちを徹底的に愛し抜かれるのです。もはや完全に敵とすらなってしまった弟子たちをなお極みまで愛されたのであります。その愛が、彼らの身代わりに十字架でおひとりだけ苦しまれる方法を選び取られた理由であります。何故なら、それ以外に、私ども罪人が神に近づく道が切り拓かれないからです。主イエスは今もなお、あの時のイエスさまです。その愛もご計画も変わりがありません。私どもは聖書を通して、聖書を読み、説教を聴いてこのイエスさまの真実に出会い、こうして真の悔い改めへと導かれ、神との間に平和が与えられるのであります。

さて、今朝も第43章をたった一回で読みます。全体を丁寧に扱えませんので、それは祈祷会にゆずります。しかし最後に短く、今朝のテキストの御言葉そのものを一か所だけ扱います。

私どもはヨセフ物語をずっと学んで参りました。そしてここにあらためてヤコブが登場します。ある学者はヨセフ物語も大きく言えば、ヤコブ物語の中に入ると言います。それはさておき、主なる神からイスラエルと呼ばれたヤコブは決定的に重要な位置を占めているのは事実であります。

父ヤコブは今、とうとう自分たちの食料が底をついてしまうことを知ります。息子たちに再び、エジプトに下るように命じます。ただし、息子たちは父親に、下の弟を連れて行かなければエジプトの権力者の前に再び、立ちおおせないことをちゃんと告げていました。もし、ベニヤミンを連れて行く許可さえ得られたら、すでに何度もエジプトに下って行ったはずなのです。これまでヤコブは頑なに、下の弟のベニヤミンをエジプトに行かせることを拒みました。しかし、とうとう切羽詰まってしまったのです。許可するのです。この行為を表面的に見れば、「ああ、相変わらずだ。どこまでもわがままで、自己中心だ」とため息をついてしまうかもしれません。自己中心だけではなく、弟だけを特別扱いするのです。そのようにヨセフやベニヤミンを特別扱いしたことこそ、兄たちを苦しめて来たヤコブの闇なのです。しかし、遂に、兄のユダの説得を受入れて、ベニヤミンを連れてエジプトに行くことを許可します。

さて、ここもまたヤコブの面目躍如たるゆえんです。ヤコブは知恵を尽くして、どうしたらエジプトの権力者の気持ちを宥め、おかしなことにならないかを考えて、最善の配慮をして送り出すのです。その場面のこの一句だけに注目します。ヤコブはこのように言って送り出します。「では、弟を連れて、早速その人のところへ戻りなさい。どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟 つまり シメオン と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」ヤコブは神に祝福を祈り求めます。第一に、人質のシメオンのいのちが守られること、そして何よりも末の子のベニヤミンを神の摂理にゆだねる祈りをささげるのです。「どうしてもベニヤミンを失わなければならないのだったら、もう、神さまにすべてをゆだねます。たとい、ベニヤミンを失っても自分の責任とします。決して、神さまにもお前たちにも恨み言は言わない」

ヤコブとその家族にとって選択肢は、二つに一つになっています。家族全員がそこで飢え死にするか。あるいはヤコブにとって今や最愛の特別の息子ベニヤミンひとりを犠牲にしてでも、一家全体が生き延びる道を選ぶか、です。そしてヤコブは後者を選ぶのです。確かに、この選択は、例のようにヤコブの自分勝手の延長と理解することができるかもしれません。しかし、私はこのように解釈したいと思います。それは、とうとう父ヤコブが神の御前に、まさに一切をゆだねたということです。「このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」とは、確かに「もう、どうにでもなれ」というような投げやりの言葉のようにも聞こえます。しかし、そうではありません。ヤコブは信仰者です。神の祝福を信じ、それ以外のすべてをかなぐり捨てても、ただ神の祝福に全存在をかけて来たのです。さらに、あのペヌエルで、神からイスラエルと呼ばれたほどの信仰者なのです。

ヤコブは今、ついに、神が信仰の旅路をここまで祝福をもって守り導かれたことを信じ、感謝するのです。たとい、自分の意に反したことが起こったとしても、神がそれをゆるされるのなら、主がそれを良しとなさるのであればその結果をすべて受け入れよう覚悟を決めるのです。言わば、信仰者として突き抜けた信仰をもって前に進むのです。

そもそもヤコブの祖父は誰でしょうか。アブラハムです。彼は父イサクを全焼のいけにえとして捧げました。父イサクは、息子ヤコブにもこの神の試練について語り聞かせたはずです。このときのヤコブは、そのことを思い出していたのかもしれません。確かに、ヤコブはあのアブラハムにははるかに及びません。しかし、イサクをわたしに捧げよとの命令を真正面から受け止め、従った祖父アブラハムの神に徹底的にゆだねることこそ信仰者の道であることを彼も理解していたはずです。確かに、三代目ヤコブは人間的に言えば欠点だらけです。しかし、ただ一点、信仰だけは、神の祝福にすがることだけは優れています。そうであればこそ、神の使いとペヌエルで格闘したのです。祝福してくださるまで、あなたを離しませんと、神とその祝福にすがりついたのです。こうして、既に、杖なしには歩けない体になって歩んでいます。ヤコブにとって杖をつくとは、神が杖となっていて下さるということを自覚することであります。そうであればこそ、ヤコブはベニヤミンを神にささげるのです。神に一切をゆだねてしまうのです。

このようにして神の夢は完成へとまた一歩、近づいて参ります。今朝、私どももまた、信仰によって生きて参りましょう。そのために、神との間にあるわだかまりをきちんと告白し、しっかり赦して頂きましょう。第二に、ヤコブのように神にゆだねることを身に付けましょう。たとい自分の願い通りにならなくても信仰によって決断して神に従って歩みましょう。神は私どもに与えて下さった夢、ご計画を必ず、完成へと導いて下さいます。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、二つのことを祈り求めます。あなたとの間に横たわるわだかまりを示し、それを取り除いて下さい。いつまでも自分にこだわって生きる幼い信仰を脱ぎ捨てて、神にゆだね、任せて生きる信仰と体験を与えて下さい。

6月4日

★☆ 誰が福音を宣べ伝えるのか ☆★
   先週の説教で、いつものように原稿に全くないことが語られていました。復活されたイエスさまは異邦人伝道をなさらなかったこと、その責任は弟子たちに完全にゆだねられていたこと、その意味等についてです。福音の心臓部は、罪の赦しです。したがって、福音伝道は罪赦されたキリスト者の特権です。イエスさまは、「伝道はあなた方の仕事ですよ。わたしにはできないのです。だから、わたしの代わりに、わたしの福音を伝えなさい」私どもは、罪を赦された喜びを知っています。だから、夢中になって、自分のこととして福音を証しし語れるのです。

★☆ 説教することと聴くこと ☆★
   説教原稿を整えるために、ぎりぎりまで考え抜きます。しかし実際の説教では、原稿にないことをどれほど多く語っていることでしょうか。理由の半分は、準備不足です。もう半分は、聖霊なる神がそこで私自身を「興奮」させ、語るべきことを語らせておられるからです。聖霊は、説教者をして目の前にいる会衆の「現実」を用いて動かしてしまわれるのです。実に、説教とは「説教者と教会員と皆様に注がれる聖霊」とによる共同作業なのです。その意味で礼拝中の「姿勢」(祈りの備え)が大切になるのは言うまでもありません。

★☆ 25周年史編纂委員会 ☆★
   先週の委員会で、実に、5年余、50回をはるかに越えた委員会が開催されたと知りました。また、この熱量を外へ注ぐべきときが近づいていると思います。完成した暁には、この記念誌は、名古屋岩の上教会が今後、右にも左にもそれないためのまさに指針を示すものとなると確信します。そして、委員方は岩の上の霊的伝統のありか等について掘り下げ、神学的な力量、霊的な感性を磨かれたはずですから、委員方の今後の奉仕が、これからの25年を左右するだろうとも思い、期待しています。編纂委員会は謙遜で、あまり皆様に発信されていない気もします。いよいよお祈り(あるいは奉仕も?)下さい。内側の奉仕から外側の奉仕へと。

★☆ 主日のお誕生会 ☆★
  先週は愛餐会こそ行えませんでしたがよきお誕生会ができましたことを本当に嬉しく思いました。〇〇兄より初めて伺ったのは、教会に導かれる直前の学生運動のこと。何度伺っても、洗礼に導かれる直前のことは感動です。2年間牧師から学んでなお十字架のイエスさま、自分の罪に眼が開かれないままで「もうこれでおしまい」と牧師に告げた最後の伝道集会でのこと。心のコップに恵は溢れかかっていたものの、最後の一滴が足らなかったのです。しかし、そのまま主イエスから去ろうとする青年に、主イエスは牧師(名前も忘れられた岐阜からの説教者)の説教を通して愛を注がれたのです。そして「決壊」!聖霊降臨祭にふさわしい証しではないでしょうか。心身の体調が祝福され、いよいよ教会の真ん中で賜物が豊かに用いられますよう。

「聖霊と聖餐による悔い改めの恵みと自由 ヨセフ物語」

「聖霊と聖餐による悔い改めの恵みと自由 ヨセフ物語」
 2023年5月28日 聖霊降臨祭
聖書朗読 創世記第42章29〜36節   204(1・2・4):343(1・2)
【一行はカナン地方にいる父ヤコブのところへ帰って来て、自分たちの身に起こったことをすべて報告した。 「あの国の主君である人が、我々を厳しい口調で問い詰めて、この国を探りに来た回し者にちがいないと言うのです。もちろん、我々は正直な人間で、決して回し者などではないと答えました。我々が十二人兄弟で、一人の父の息子であり、一人は失いましたが、末の弟は今、カナンの地方に住む父のもとにいますと言ったところ、あの国の主君である人が言いました。『では、お前たちが本当に正直な人間かどうかを、こうして確かめることにする。お前たち兄弟のうち、一人だけここに残し、飢えているお前たちの家族のために、穀物を持ち帰るがいい。ただし、末の弟を必ずここへ連れて来るのだ。そうすれば、お前たちが回し者ではなく、正直な人間であることが分かるから、お前たちに兄弟を返し、自由にこの国に出入りできるようにしてやろう。』」
それから、彼らが袋を開けてみると、めいめいの袋の中にもそれぞれ自分の銀の包みが入っていた。彼らも父も、銀の包みを見て恐ろしくなった。父ヤコブは息子たちに言った。「お前たちは、わたしから次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上ベニヤミンまでも取り上げるのか。みんなわたしを苦しめることばかりだ。」】

使徒言行録第1章3〜11節
【イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」


今朝は、聖霊降臨祭を祝う主の日です。教会にとって特別の礼拝式です。聖霊降臨祭とは、神の救いの歴史にとってまさに歴史を画する出来事が起こった日を記念するお祭りです。何故なら、父なる神が、御子イエス・キリストの救いの御業の完成を受けて、天から御子イエス・キリストを通して聖霊なる神を地上の弟子たちに注がれた日だからです。

さて、十字架について三日目にご復活されたイエスさまは、40日の間、裏切った弟子たちにそのお姿を現し続けて下さいました。主は、弟子たちとなお40日間、共に歩まれ、3年余りの間になされたすべての教えを中心に、改めて旧約聖書の正しい解釈をおさらいして下さいました。

同時に、主イエスが何よりも心を配られたのは、他でもありません。ご自身を裏切った弟子たちの罪を悔い改めに導かれることでありました。さらに丁寧に申しますとイエスさまを裏切ってしまったという魂の生々しい傷口を癒されることであります。主イエスは、十字架とご復活という人類の救いのお働きを完璧に成し遂げられました。しかし、それだけではなく、弟子たちのヒリヒリ痛む傷をも完璧に癒されるのです。救いと癒し、そして暗い顔つきでうつむくばかりの弟子たちを良心の咎めから解放し、明るく喜びと力に溢れて、立ち上がらせるのです。そこまですべてを含んで、イエスさまの地上における救いのお働きは完了されたのであります。

僅か50日前まで、弟子たちは主イエスと共に三年間も寝食を共にしながら、主イエスの教えの深い意味、真理についてはおろか、主イエス・キリストがどなたでいらっしゃるのかについて、実は、まったく分かっていませんでした。その結果、さらに悲惨なことかもしれません。弟子たちの共同体は、人間の共同体の模範、理想からかけ離れたものでありました。彼らは、主イエスの弟子としての生活を重ねて行けば行くほど、なんと、いよいよ「自分たちの中で誰が一番偉いのか、誰が一番なのか」ということを競い合うようになっていました。つまり、弟子たちの中には、一致も平和もなかったのです。愛しあう共同体、平和の共同体ではありませんでした。自分たちは、イエスさまのすばらしい働きのお手伝いをするために選抜された優れた人材だとうぬぼれ、そればかりか比べ合って競い合っていたのでした。愛ではなく権威を求めていました。自由ではなく能力を求めていました。平和ではなく競争を求めていました。弟子たちを出し抜いても、自分が一番になりたい、自分が優れていると認められたいと競争心を燃やしていたのです。

それは結局、イエスさまがどのような救い主でいらっしゃるかを誤解していたからです。その誤解の上に、イエスさまの教えを理解しようとしたからです。その誤解の上に、イエスさまの奇跡を理解していたからです。すべては誤解に基づく、信仰生活、宗教生活でありました。

その当然の帰結が裏切りです。弟子たちの裏切りは一瞬、心の闇にサタンが入り込んでしまったからなのではありません。つまり、あの瞬間だけ、間違ってしまったからではありません。おかしな言い方ですが、弟子たちの裏切りは、実に3年間の誤解の積み重ねの当然の結末なのであります。

ただし、歴史的に言えば、弟子たちがイエスさまのためになしえたこと、イエスの救いの御業の助けたことは、ただ一つ、裏切り、逃げ出し、イエスさまの敵となることでありました。このような方法で、主イエスは神の永遠のご計画通り、十字架にはりつけられたのであります。しかも、神は主イエスの信仰の従順によって、弟子たちの裏切りの罪を益に変えて下さいました。実に、彼らの裏切りという悪を自身の救いばかりか全人類の救い、私どもの救いの道が切り拓かれたのであります。こうして、あのヨセフが創世記の結びにおいて語ったあのセリフこそ、イエスさまのこのときの預言に他なりません。「あなたがたは100%、わたしに、神に悪を企みました。しかし神はそれを益に変えて下さったのです。あなた方は今、救われました。赦されました。安心しなさい」

復活された主イエスは、徹底的に弟子たちを赦し、とことんまで愛し、限りなく優しく向き合われます。そのイエスさまの愛の中で、氷のように冷え切ってガチガチに固まっていた彼らの心は、溶かされて行きました。自分たちが期待していた救いと神のまことの救いと、言わばボタンの掛け違いのように外れていたことに気づかされるのです。何よりも、自分たちは主の弟子たちで、自分たちが主イエスの救いのお手伝いを成し遂げられるのだというとんでもない自己理解、この罪の思いを完膚なきまで壊して下さったのです。悔い改めへと導いて下さったのです。

ならば、その方法は何でしょうか。どのようにして弟子たちは悔い改めることができ、正真正銘のイエスさまの弟子とされて、立ち上がることができたのでしょうか。それは、ただ一つです。イエスさまが、彼らの罪を赦し、彼らへの愛を、契約の愛を貫かれたからです。契約の愛とは、相手がどのように出ようが、神さまの方で一方的に愛する愛のことです。この愛が、弟子たちを、正真正銘、自分こそが罪人の頭であって、イエスさまの弟子とされる資格など何一つ持ち合わせていない人間であるとの自己理解へと導かれたのです。神の愛、イエスさまの愛が彼らの心を砕いて下さったのであります。
こうしてご復活から50日目、悔い改めと信仰とが芽生え始め、育ち始め、深められた罪人たちの集団のただ中に、あの約束の聖霊が注がれたのであります。主イエスは約束されました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」正に、悔い改めと信仰に導かれ、一同、心を一つにして、赦しあい、愛し合うその集団の真上に天は開かれました。父なる神は、約束された聖霊を豊かに注がれたのであります。

さて、今朝は先週に引き続いて創世記第42章の後半から学びます。聖霊降臨祭とどのような関係があるのかといぶかられる方も少なくないと思います。しかし、今朝もまた、旧約と新約とがどれほど密接につながっているのか、同じ一つの神の物語だと、そのことを今朝、あらためて確認できれば幸いです。

ヨセフは自分の見た20年余り前の夢、兄たちが自分に向かって伏し拝むというあの夢が目の前で実現し始めていることをまざまざと目撃します。何よりも、自分を殺そうとした兄たちの心の中に、神の罰を受けているのだという、神への悔い改めの思いが湧きおこっていることを目撃します。それはヨセフの心の琴線に触れるものともなりました。兄たちの心の思い、兄弟を思いやる思い、家族愛に激しく心打たれたのです。神が兄たちの心に罪を認め、悔い改めようとする思いを起こしていて下さることを知ったヨセフは、彼らに隠れてひとり涙を流しました。

実に、神はヨセフの企てを用いて、兄たちの悔い改めを真実なものとならせようとするのです。そしてその目標は、ヤコブの家族の救いです。兄弟同士の和解です。愛し合う家庭、愛し合い許しあう家族を作るためです。そこで、ヨセフは言わばなお心を鬼にして、兄たちにつらく当たりました。
今朝のテキストの中に「正直な人間」という言葉が三度用いられます。鍵となる言葉です。ヨセフは兄たちに本当の意味で「正直な人間」となってもらいたいのです。それなら、正直な人間となる方法、正直な人間となるために何をどうすればよいのでしょうか。それが神の御前に悔い改めることです。そして、それは同時に、人に対する具体的な罪を謝罪することです。償うことです。それが、神の御前に正直になるということに通じるのです。それは神の御顔の光を浴びて生きると言うことです。神を信じて生きること、日々、悔い改めて生きるとき、そこに人間の正直な姿が浮かび上がってまいります。実に、ヨセフは今、ヤコブの家、神のイスラエルを修復させようとしているのであります。それはまるで、復活された主イエスが互いに反発しあい、出し抜き合うよう弟子集団を愛と一致と平和の集い、本来のあるべき神の共同体、新しいイスラエル、イエス・キリストの教会として形成しようとしたことと同じです。実に、主が弟子たちを悔い改めに導き、信仰に導き、傷を癒そうとお働きくださったことと、ヨセフが兄たちを正直な人間へと深めようとしたことと重なるのではないでしょうか。

ここで先週のおさらいです。つまり、ヨセフはここでもイエスさまのまさにひな型、モデルとなっているのであります。ヨセフは心を鬼にして、兄たちに向き合います。一方、主イエスは、罪を憎み、罪と戦われました。律法学者やファリサイ派の人々、宗教指導者たちの不信仰、不従順、妬みの罪に向き合う態度は、鬼気迫るものがありました。命をかけて、彼らの罪と過ちを糾弾なさいました。エルサレム神殿から商人たちを縄で鞭を結わいで追い出したほどの憤り、怒りを表されたのであります。

またヨセフは涙を流しました。一方、主イエスは、しばしば涙を流されたお方でいらっしゃいます。マタイによる福音書第23章37節の叫びです。「ああ、エルサレム、エルサレム」と、エルサレムの崩壊が目前に迫っていることを知り、慟哭なさったのです。さらにヨハネによる福音書第11章35節には、マリアとマルタの兄弟ラザロの死を知ったときのことが記されています。「イエスは涙を流された。」とあります。

さて、ヨセフは今、信仰の知恵によって兄たちの悔い改めを助けようとします。もとより、神に向かって心を向けること、つまり、悔い改めは人間の企てや働きでもたらすことはできません。神に心を向き直すことは、ひとえに神の救いの恵みであり、神からの救いの賜物だからです。しかも人は誰も、イエスさまのように徹底的にどん底まで罪人を愛することなどできません。しかしそれなら、私どもは、人々が悔い改めるために、何もしないで、待っているだけでよいのでしょうか。違います。そこに、私どもキリスト者、伝道者、説教者の出番があります。奉仕が求められています。私どももまたヨセフのように、神の御心を知らされた者として、神がその民をご自身のもとに帰って来るようにと、悔い改めるように招き、説得するのです。その働きを伝道と申します。そして今私がしている説教もまたその道具であります。

聖霊降臨祭のとき、弟子たちは罪人でしかない自分たちの上に、聖霊が注がれたことを知りました。自分の罪が完全に赦され、罪の赦しの実りである愛と平和、赦しと喜びに満たされたのです。満たされるとどうなるのでしょうか。あふれ出ます。決壊してしまいます。もはや、内部固め、もはや内向きの集団ではいられなくされたのであります。こうして、聖霊は、彼らを世界伝道へと立ち上がらせて下さったのであります。イエスさまと同じように、外に出て行き、「悔い改めて福音を信じなさい」と説得を始めるのです。これこそ、聖霊降臨の実りなのであります。そして、そのようにしてこの町にも、ここに岩の上教会が誕生したのであります。

今朝は、聖餐の礼典を祝います。私どもは聖餐の食卓の主から、そのいのちをもってもてなされます。私どもはこの食卓の席につくことで、主イエスに最も喜ばれることを知っています。私どもは、主イエスがそのいのちをもってふるまってくださるこの食卓を前にしてこそ、真実に悔い改めることができるようになります。この一方的で、徹底的な愛の中でのみ、あの弟子たちのように、あのヨセフの兄たちのように、自分の愚かさと罪を認め、悲しみ、悔いることができるのであります。そして、主の聖餐の食卓においてこそ、その赦しを確信して立ち上がることができるのであります。
ですから、教会は聖餐の礼典を祝う前によき準備を求めてまいりました。それを、自己吟味と申します。自分を振り返る中で、私どもは、あの復活前の弟子たちの中に自分を見ることになるはずです。あのヨセフの兄たちのように妬みや恨み、怒りや憎しみの心を持っていることを認めざるを得なくなるだろうと思います。今こそ、悔い改めの恵みを祈り求めましょう。そして罪の赦しを確信させて頂きましょう。あの聖霊降臨のときのように、「自分たちのことでいっぱいいっぱいだ」と開き直らず、隣人のための自分、我を忘れて主と隣人のために生きる自由を取り戻させて頂くのであります。こうして、この聖餐の礼典を真実のいのちの祭りとして祝うのであります。

祈祷
聖霊なる神の恵み、聖霊の導きと説得によってのみ、私どもは自分自身の罪を認め、悲しみ、憎むことができます。どうぞ、聖霊を注いでください。そして私どもを神の子にふさわしい者とならせて下さい。悔い改めの恵みの中で、ここに神の教会をいよいよ形成させて下さい。本物の罪人の集いとならせて下さい。偽善的で仮面をかぶった者としてではなく、正真正銘の罪人たちの集いとならせて下さい。そのようにして福音の慰めに深く、豊かに生きる教会として形成させて下さい。

「聖霊と聖餐による悔い改めの恵みと自由 ヨセフ物語」

「聖霊と聖餐による悔い改めの恵みと自由 ヨセフ物語」
 2023年5月28日 聖霊降臨祭
聖書朗読 創世記第42章29〜36節   204(1・2・4):343(1・2)
【一行はカナン地方にいる父ヤコブのところへ帰って来て、自分たちの身に起こったことをすべて報告した。 「あの国の主君である人が、我々を厳しい口調で問い詰めて、この国を探りに来た回し者にちがいないと言うのです。もちろん、我々は正直な人間で、決して回し者などではないと答えました。我々が十二人兄弟で、一人の父の息子であり、一人は失いましたが、末の弟は今、カナンの地方に住む父のもとにいますと言ったところ、あの国の主君である人が言いました。『では、お前たちが本当に正直な人間かどうかを、こうして確かめることにする。お前たち兄弟のうち、一人だけここに残し、飢えているお前たちの家族のために、穀物を持ち帰るがいい。ただし、末の弟を必ずここへ連れて来るのだ。そうすれば、お前たちが回し者ではなく、正直な人間であることが分かるから、お前たちに兄弟を返し、自由にこの国に出入りできるようにしてやろう。』」
それから、彼らが袋を開けてみると、めいめいの袋の中にもそれぞれ自分の銀の包みが入っていた。彼らも父も、銀の包みを見て恐ろしくなった。父ヤコブは息子たちに言った。「お前たちは、わたしから次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上ベニヤミンまでも取り上げるのか。みんなわたしを苦しめることばかりだ。」】

使徒言行録第1章3〜11節
【イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」


今朝は、聖霊降臨祭を祝う主の日です。教会にとって特別の礼拝式です。聖霊降臨祭とは、神の救いの歴史にとってまさに歴史を画する出来事が起こった日を記念するお祭りです。何故なら、父なる神が、御子イエス・キリストの救いの御業の完成を受けて、天から御子イエス・キリストを通して聖霊なる神を地上の弟子たちに注がれた日だからです。

さて、十字架について三日目にご復活されたイエスさまは、40日の間、裏切った弟子たちにそのお姿を現し続けて下さいました。主は、弟子たちとなお40日間、共に歩まれ、3年余りの間になされたすべての教えを中心に、改めて旧約聖書の正しい解釈をおさらいして下さいました。

同時に、主イエスが何よりも心を配られたのは、他でもありません。ご自身を裏切った弟子たちの罪を悔い改めに導かれることでありました。さらに丁寧に申しますとイエスさまを裏切ってしまったという魂の生々しい傷口を癒されることであります。主イエスは、十字架とご復活という人類の救いのお働きを完璧に成し遂げられました。しかし、それだけではなく、弟子たちのヒリヒリ痛む傷をも完璧に癒されるのです。救いと癒し、そして暗い顔つきでうつむくばかりの弟子たちを良心の咎めから解放し、明るく喜びと力に溢れて、立ち上がらせるのです。そこまですべてを含んで、イエスさまの地上における救いのお働きは完了されたのであります。

僅か50日前まで、弟子たちは主イエスと共に三年間も寝食を共にしながら、主イエスの教えの深い意味、真理についてはおろか、主イエス・キリストがどなたでいらっしゃるのかについて、実は、まったく分かっていませんでした。その結果、さらに悲惨なことかもしれません。弟子たちの共同体は、人間の共同体の模範、理想からかけ離れたものでありました。彼らは、主イエスの弟子としての生活を重ねて行けば行くほど、なんと、いよいよ「自分たちの中で誰が一番偉いのか、誰が一番なのか」ということを競い合うようになっていました。つまり、弟子たちの中には、一致も平和もなかったのです。愛しあう共同体、平和の共同体ではありませんでした。自分たちは、イエスさまのすばらしい働きのお手伝いをするために選抜された優れた人材だとうぬぼれ、そればかりか比べ合って競い合っていたのでした。愛ではなく権威を求めていました。自由ではなく能力を求めていました。平和ではなく競争を求めていました。弟子たちを出し抜いても、自分が一番になりたい、自分が優れていると認められたいと競争心を燃やしていたのです。

それは結局、イエスさまがどのような救い主でいらっしゃるかを誤解していたからです。その誤解の上に、イエスさまの教えを理解しようとしたからです。その誤解の上に、イエスさまの奇跡を理解していたからです。すべては誤解に基づく、信仰生活、宗教生活でありました。

その当然の帰結が裏切りです。弟子たちの裏切りは一瞬、心の闇にサタンが入り込んでしまったからなのではありません。つまり、あの瞬間だけ、間違ってしまったからではありません。おかしな言い方ですが、弟子たちの裏切りは、実に3年間の誤解の積み重ねの当然の結末なのであります。

ただし、歴史的に言えば、弟子たちがイエスさまのためになしえたこと、イエスの救いの御業の助けたことは、ただ一つ、裏切り、逃げ出し、イエスさまの敵となることでありました。このような方法で、主イエスは神の永遠のご計画通り、十字架にはりつけられたのであります。しかも、神は主イエスの信仰の従順によって、弟子たちの裏切りの罪を益に変えて下さいました。実に、彼らの裏切りという悪を自身の救いばかりか全人類の救い、私どもの救いの道が切り拓かれたのであります。こうして、あのヨセフが創世記の結びにおいて語ったあのセリフこそ、イエスさまのこのときの預言に他なりません。「あなたがたは100%、わたしに、神に悪を企みました。しかし神はそれを益に変えて下さったのです。あなた方は今、救われました。赦されました。安心しなさい」

復活された主イエスは、徹底的に弟子たちを赦し、とことんまで愛し、限りなく優しく向き合われます。そのイエスさまの愛の中で、氷のように冷え切ってガチガチに固まっていた彼らの心は、溶かされて行きました。自分たちが期待していた救いと神のまことの救いと、言わばボタンの掛け違いのように外れていたことに気づかされるのです。何よりも、自分たちは主の弟子たちで、自分たちが主イエスの救いのお手伝いを成し遂げられるのだというとんでもない自己理解、この罪の思いを完膚なきまで壊して下さったのです。悔い改めへと導いて下さったのです。

ならば、その方法は何でしょうか。どのようにして弟子たちは悔い改めることができ、正真正銘のイエスさまの弟子とされて、立ち上がることができたのでしょうか。それは、ただ一つです。イエスさまが、彼らの罪を赦し、彼らへの愛を、契約の愛を貫かれたからです。契約の愛とは、相手がどのように出ようが、神さまの方で一方的に愛する愛のことです。この愛が、弟子たちを、正真正銘、自分こそが罪人の頭であって、イエスさまの弟子とされる資格など何一つ持ち合わせていない人間であるとの自己理解へと導かれたのです。神の愛、イエスさまの愛が彼らの心を砕いて下さったのであります。
こうしてご復活から50日目、悔い改めと信仰とが芽生え始め、育ち始め、深められた罪人たちの集団のただ中に、あの約束の聖霊が注がれたのであります。主イエスは約束されました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」正に、悔い改めと信仰に導かれ、一同、心を一つにして、赦しあい、愛し合うその集団の真上に天は開かれました。父なる神は、約束された聖霊を豊かに注がれたのであります。

さて、今朝は先週に引き続いて創世記第42章の後半から学びます。聖霊降臨祭とどのような関係があるのかといぶかられる方も少なくないと思います。しかし、今朝もまた、旧約と新約とがどれほど密接につながっているのか、同じ一つの神の物語だと、そのことを今朝、あらためて確認できれば幸いです。

ヨセフは自分の見た20年余り前の夢、兄たちが自分に向かって伏し拝むというあの夢が目の前で実現し始めていることをまざまざと目撃します。何よりも、自分を殺そうとした兄たちの心の中に、神の罰を受けているのだという、神への悔い改めの思いが湧きおこっていることを目撃します。それはヨセフの心の琴線に触れるものともなりました。兄たちの心の思い、兄弟を思いやる思い、家族愛に激しく心打たれたのです。神が兄たちの心に罪を認め、悔い改めようとする思いを起こしていて下さることを知ったヨセフは、彼らに隠れてひとり涙を流しました。

実に、神はヨセフの企てを用いて、兄たちの悔い改めを真実なものとならせようとするのです。そしてその目標は、ヤコブの家族の救いです。兄弟同士の和解です。愛し合う家庭、愛し合い許しあう家族を作るためです。そこで、ヨセフは言わばなお心を鬼にして、兄たちにつらく当たりました。
今朝のテキストの中に「正直な人間」という言葉が三度用いられます。鍵となる言葉です。ヨセフは兄たちに本当の意味で「正直な人間」となってもらいたいのです。それなら、正直な人間となる方法、正直な人間となるために何をどうすればよいのでしょうか。それが神の御前に悔い改めることです。そして、それは同時に、人に対する具体的な罪を謝罪することです。償うことです。それが、神の御前に正直になるということに通じるのです。それは神の御顔の光を浴びて生きると言うことです。神を信じて生きること、日々、悔い改めて生きるとき、そこに人間の正直な姿が浮かび上がってまいります。実に、ヨセフは今、ヤコブの家、神のイスラエルを修復させようとしているのであります。それはまるで、復活された主イエスが互いに反発しあい、出し抜き合うよう弟子集団を愛と一致と平和の集い、本来のあるべき神の共同体、新しいイスラエル、イエス・キリストの教会として形成しようとしたことと同じです。実に、主が弟子たちを悔い改めに導き、信仰に導き、傷を癒そうとお働きくださったことと、ヨセフが兄たちを正直な人間へと深めようとしたことと重なるのではないでしょうか。

ここで先週のおさらいです。つまり、ヨセフはここでもイエスさまのまさにひな型、モデルとなっているのであります。ヨセフは心を鬼にして、兄たちに向き合います。一方、主イエスは、罪を憎み、罪と戦われました。律法学者やファリサイ派の人々、宗教指導者たちの不信仰、不従順、妬みの罪に向き合う態度は、鬼気迫るものがありました。命をかけて、彼らの罪と過ちを糾弾なさいました。エルサレム神殿から商人たちを縄で鞭を結わいで追い出したほどの憤り、怒りを表されたのであります。

またヨセフは涙を流しました。一方、主イエスは、しばしば涙を流されたお方でいらっしゃいます。マタイによる福音書第23章37節の叫びです。「ああ、エルサレム、エルサレム」と、エルサレムの崩壊が目前に迫っていることを知り、慟哭なさったのです。さらにヨハネによる福音書第11章35節には、マリアとマルタの兄弟ラザロの死を知ったときのことが記されています。「イエスは涙を流された。」とあります。

さて、ヨセフは今、信仰の知恵によって兄たちの悔い改めを助けようとします。もとより、神に向かって心を向けること、つまり、悔い改めは人間の企てや働きでもたらすことはできません。神に心を向き直すことは、ひとえに神の救いの恵みであり、神からの救いの賜物だからです。しかも人は誰も、イエスさまのように徹底的にどん底まで罪人を愛することなどできません。しかしそれなら、私どもは、人々が悔い改めるために、何もしないで、待っているだけでよいのでしょうか。違います。そこに、私どもキリスト者、伝道者、説教者の出番があります。奉仕が求められています。私どももまたヨセフのように、神の御心を知らされた者として、神がその民をご自身のもとに帰って来るようにと、悔い改めるように招き、説得するのです。その働きを伝道と申します。そして今私がしている説教もまたその道具であります。

聖霊降臨祭のとき、弟子たちは罪人でしかない自分たちの上に、聖霊が注がれたことを知りました。自分の罪が完全に赦され、罪の赦しの実りである愛と平和、赦しと喜びに満たされたのです。満たされるとどうなるのでしょうか。あふれ出ます。決壊してしまいます。もはや、内部固め、もはや内向きの集団ではいられなくされたのであります。こうして、聖霊は、彼らを世界伝道へと立ち上がらせて下さったのであります。イエスさまと同じように、外に出て行き、「悔い改めて福音を信じなさい」と説得を始めるのです。これこそ、聖霊降臨の実りなのであります。そして、そのようにしてこの町にも、ここに岩の上教会が誕生したのであります。

今朝は、聖餐の礼典を祝います。私どもは聖餐の食卓の主から、そのいのちをもってもてなされます。私どもはこの食卓の席につくことで、主イエスに最も喜ばれることを知っています。私どもは、主イエスがそのいのちをもってふるまってくださるこの食卓を前にしてこそ、真実に悔い改めることができるようになります。この一方的で、徹底的な愛の中でのみ、あの弟子たちのように、あのヨセフの兄たちのように、自分の愚かさと罪を認め、悲しみ、悔いることができるのであります。そして、主の聖餐の食卓においてこそ、その赦しを確信して立ち上がることができるのであります。
ですから、教会は聖餐の礼典を祝う前によき準備を求めてまいりました。それを、自己吟味と申します。自分を振り返る中で、私どもは、あの復活前の弟子たちの中に自分を見ることになるはずです。あのヨセフの兄たちのように妬みや恨み、怒りや憎しみの心を持っていることを認めざるを得なくなるだろうと思います。今こそ、悔い改めの恵みを祈り求めましょう。そして罪の赦しを確信させて頂きましょう。あの聖霊降臨のときのように、「自分たちのことでいっぱいいっぱいだ」と開き直らず、隣人のための自分、我を忘れて主と隣人のために生きる自由を取り戻させて頂くのであります。こうして、この聖餐の礼典を真実のいのちの祭りとして祝うのであります。

祈祷
聖霊なる神の恵み、聖霊の導きと説得によってのみ、私どもは自分自身の罪を認め、悲しみ、憎むことができます。どうぞ、聖霊を注いでください。そして私どもを神の子にふさわしい者とならせて下さい。悔い改めの恵みの中で、ここに神の教会をいよいよ形成させて下さい。本物の罪人の集いとならせて下さい。偽善的で仮面をかぶった者としてではなく、正真正銘の罪人たちの集いとならせて下さい。そのようにして福音の慰めに深く、豊かに生きる教会として形成させて下さい。

5月28日

―牧 会 通 信 ―
★☆ 聖霊降臨「祭」を覚えて ☆★
  私どもは毎週の主日礼拝式を「祭り」と意識してまいりました。
(初めて聴かれる方はいらっしゃるでしょうか。このようなことが、時々起こります・・・。牧師は、会員はあまねく理解してもらっていると、ついつい考えやすいのです。これは、本当に自戒し、時に皆様から厳しくご指摘頂く必要があります!今更、聴けないと言わずに…)
  「祭り」の語源は、カミを「祀る(まつる)」にあります。神社や仏閣でなされます。お神輿(みこし=カミが宿っている)を担いで、練り歩くことが中心にあるだろうと思います。

私どもは一年に一度ではなく、毎週、主イエス・キリストを礼拝し、主との豊かな交わりにあずからせていただいています。その意味で、一年に一度、様々なストレスを発散させるためのお祭りは無用になりました。ただし、それでも特別の主の日があります。その一つが本日です。私は聖霊降臨祭ほど、世の祭りに対抗し、それを凌駕する祭りはないだろうと思うのです。この日、使徒たち、弟子たちの上に、約束の聖霊が注がれました。その時彼らは、聖霊に満たされました。彼らの内には、喜びと力が満ち溢れたのです。その日、聖霊は、主イエス・キリストの贖いの御業が成就したので、ついに、主イエスの救いと主イエスご自身を弟子たちに、信じる者に適用する働きを始めて下さいました。聖霊なる神は、ご自身を信じる者に注がれたのです。その時、彼らはついに内に留めていた感謝や喜びがあふれたのです。貯水池から水が溢れ出してしまったイメージです。もはや、誰もこの溢れ出す命の水をとどめることができません。こうして教会は、ついに伝道を始めたのです。そして、聖霊はその神の言葉の伝道を用いて、信じる者を起こし、彼らを主イエスの弟子に加え、新しい神の民である教会に加えて下さったのです。

  今朝、確かに歴史的な出来事を記念しています。しかし、それだけならほとんど意味がありません。今朝、私どもにも同じ聖霊の神が臨在しておられます。あの日に起こったことは、主の日の度に繰り返されるのです。だから真実のお祭りとなるのです。かつて主イエスは、ユダヤの仮庵の祭りの最終日にこのように叫ばれました。【祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。】(ヨハネ福音書第7章37-39) 仮庵の祭りでは満たされなかった人々をご覧になって、心痛めておられるイエスさまを思います。私どもは主の日の礼拝式をどのように捧げているでしょうか。生きたお祭りとして、飛び上がるような喜びをもってでしょうか。

★☆ 「6月のコンサート」 ☆★
  聖霊降臨祭後、教会は、まさにコンサートを伝道の手段として用いようとしています。あとひと月、自分のために祈りましょう。チラシ(中学生のため)と個人の「招待状」のために祈りましょう。出来上がる前に、声掛けも有効のはずです。今回は、人数ではなく、お友達を誘えるか、そこに祈りの課題を置いています。

★☆ ヒロシマ原爆資料館 ☆★
   先週、G7広島サミットが開催されました。これを岸田総理のリーダーシップによって大成功との報道があります。内閣支持率も急上昇しました。一方で、被爆者たちの声は正反対です。 日本原水爆被害者団体協議会の木戸事務局長(83)は「核抑止論をもって、戦争をあおるような会議になった。いちるの望みを打ち砕かれ、怒りに震えている」と。そこで、核廃絶ではなく、抑止論を語るとは、戦没者への冒涜ではないでしょうか。小学生の頃、資料館を訪ねた記憶は一生の財産(トラウマ)です。契約の子らの沖縄平和旅行、あるいは広島訪問、大切かと。
目次
名古屋岩の上教会
〒458-0021
名古屋市緑区滝ノ水2-2012
TEL&FAX:052-895-6701 
WEB:http://iwanoue.com
牧師紹介
□牧師 相馬伸郎□
下記の定例集会にどなたもお気軽にお越しください!心から歓迎いたします。
求めるあなたに、かならず、救いが与えられます。


□主日礼拝式□
毎週日曜日
10:00〜11:30
※2019年4月より

□教会学校□
毎週日曜日 
嬰児から高校生まで
11:30〜12:00
※2019年4月より

□祈祷会□
毎週水曜日 
朝 10:00〜11:30
夜 19:30〜21:00

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