名古屋岩の上教会

わたしはこの岩の上に私の教会を建てます。 -マタイによる福音書第16章18節-

「正義と信仰、愛と平和を求めよう」

「正義と信仰、愛と平和を求めよう」
2018年12月9日 

聖書朗読  テモテへの手紙供‖茖仮錬横伽瓠腺横鏡瓠  
【  若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。愚かで無知な議論を避けなさい。あなたも知っているとおり、そのような議論は争いのもとになります。主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。】

待降節、アドベントの第二の主日です。今朝は、いつものようにテモテへの手紙の講解説教です。
先週のおさらいから始めます。この手紙を読んでいるエフェソの教会は、使徒パウロの伝道によって始まった教会でした。パウロの3年余りの開拓伝道のすばらしい実りが結ばれました。そしてこの教会は、それ以降もいよいよ成長を遂げ続けました。既に、アジア州の諸教会において、その名は広く知られるようになっていたと思われます。しかしそうは言っても、歴史の浅い教会です。若い教会です。今まさに、神がキリストにおいて堅固に据えてくださった土台の上に、まっすぐ伸びる柱を建てることが求められています。そのために立てられ、任職されたのがテモテその人です。彼は、長老です。彼は、今日の牧師です。パウロからみれば息子のような年齢の牧師です。パウロは、テモテに強くなれ、グノーシスの異端の教師たちに負けるな、と励まします。少なくない教会員が彼らの教えになびいてしまって、信仰の破滅に陥らされている状況を目の当たりにしています。テモテはいのちをかけて、このような異端の教えから教会を守らなければなりません。パウロは殉教の死を目前にしています。命がけということがまさに口先だけではない状況の真っただ中にいます。しかし、自分のいのちが長らえられるかどうか、そんなことより、次の世代の教会の指導者であるテモテに、もっとも大切なことを告げたい、その思いが溢れるのです。それが、この言葉です。「真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい」神の言葉の説教に打ち込みなさい。正しく豊かな教理教育に打ち込みなさい、それが最大のアドバイスです。
 
さて、今朝はその続きです。22節です。「若い頃の情欲から遠ざかりなさい」と勧めます。先ずは、素朴に読めばよいと思います。パウロは、若い男性がとりわけ性的な誘惑に弱いことを知っています。おそらくテモテじしんも深く自覚していただろうと思います。性欲の問題は、青少年のキリスト者はもとよりおよそすべての若者にきちんとした教育が必要です。この点、まさに日本におけるキリスト教教育の責任を覚えています。教会の中の教育で言えば、子どもの教会の責任、なにより私自身の責任を思わざるを得ません。ちゃんと、正面から、この問題に取り組むこと、聖書から学ぶことは、本人にとってまったく不要な闘い、悩みから解放する場合も少なくないと思います。教会学校教案誌は、子どもの教会の教師だけが講読して下さっています。しかし、71号そして最新号の巻頭説教では、いずれも若い牧師たちが性の問題、夫婦の問題について真正面から語って下さっています。ぜひとも、すべての方々に読んで頂きたい、そう願い、この機会にご紹介したいと思います。実は、情欲の問題、性の誘惑は年齢を問いません。壮年の方々も当然、この誘惑から遠ざかることが必要です。
さらに掘り下げましょう。この情欲は、何も性の問題、性欲の問題に固定することはできません。思春期、青年期、人は誰でも自分の力を試したいと思います。人間の発達段階、成長段階にとって当然のことなのです。若いそのときこそ、まさに自分の思うまま、自分の決断をもって生きて行こうとの思いが強くなるはずです。

ここは若い仲間達とその親の皆さまにとって注意して頂きたいのです。それは、未信者の方々は、まったくの善意をもって、私どもの契約の子らに教育し、アドバイスされると思います。「あなたは、若いのだから、教会という宗教の、その小さな世界だけに留まらない方がよいですよ。何も、親が決めた家の宗教の枠の中だけではなく、自分の心に素直に生きて行く方がよいのですよ」そう仰います。学生のキリスト者であれば、大人のしかも尊敬する先生から、間接的ではあっても日曜日の教会生活を否定するような発言や具体的な行動がなされることが起こります。そのような時、まさに若い教会員に、パウロははっきりと言います。どんと、背中を押してくれます。「そうじゃない。違う。あなたを神さまから離そうとするもの、教会生活から離そうとするものだったら、それが情欲なのだ。止めなさい。近づいてはなりません。遠ざかりなさい。」悪魔はいつでも、私たちに、最初は紳士的な態度で、上品に近づいて、まことに説得力があるように語りかけるのです。

さて、そこでパウロはこのように積極的な指導、アドバイスします。「清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」要するにこう言うことです。「キリスト者の仲間達と離れてはよくないよ。教会に来て、特に教会の同じ世代の仲間たちといっしょに交わり、いっしょにお祈りしなさい。」パウロは、ここで、清い心で主を求める人々と言いましたが、つまり、キリスト者のことです。教会員のことです。テモテがテモテであるためには、主にある兄弟姉妹がどうしても必要なのです。

確かに、教会に集うことはすばらしこと、大切なことです。しかし、もし一人で礼拝式に来て、誰とも交わらず、祈り合うこともなく帰って行く、これでは、あまりにも、あまりにももったいないと私は思います。確かに、礼拝式は共同体で捧げられ、先週の聖餐の礼典はまさにここに教会共同体を建てあげるための礼典に与ったのですから、誰と、言葉を交わさなくても、兄弟姉妹の絆は結ばれたのです。決して、間違いありません。しかし、だからこそ具体的な交わりが欲しくなるのではないでしょうか。

40年近く教会に生きて来て、30年余り牧師として生きて来て、私どもの信仰を支えるのは、教会の仲間たちの存在だと思わされます。清い心で主イエスを呼び求める人は自分の他にもこんなにたくさんいる。これが、信仰を支える力となるのです。とりわけ若い時には、同年齢の信仰の友の存在が決定的に重要です。親の責任が、教師たちの責任があります。中会や大会のキャンプや交わりに送りだす責任です。

次に進みます。覚えやすい御言葉です。覚えて帰りましょう。「正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」正義と愛と平和と信仰、この事柄の一つひとつを観て参りましょう。

先ず「正義」です。正義とは、何でしょうか。教会の外でも、耳にタコができるほど、用いられます。この世においても「正義」は絶対的な価値を持っているだろうと、思います。これは、人間の社会を成り立たせる、根本の価値観だからです。どのような悪人も、決してこのようなことは申しません。「私たちは「不正」な者です。不正だけど、自分の得になるから「不正」なことを堂々とやります。」そんなことを言えば最初から「反社会的勢力」というレッテルを貼られて、多数派には決してなれないからです。だからこそ、大勢の人々を自分たちの都合のよいように動かすためには、それを目論む人々は、必ず正義を高々とかかげます。正義を口実にしないと、大勢の人たちを納得させられないのです。神が人間にそのような良心のかけら、破壊されてはいますが感覚を残しておられるからです。しかし、だからこそ悪賢い者たちはそこを見逃しません。利用するのです。ですから、この社会で、これが正義だと声高に言う人たちを簡単に信用することは愚かなのです。

さてそれなら、聖書における正義とは、何でしょうか。それは、主の正義です。キリストにある正義です。神の正義のことです。イエスさまは、あの山上の説教で、神の民にこう教えて下さいました。「先ず、神の国とその義を追求しなさい。」神の国と神の正義を第一にしなさい、そうすれば、あなたの生活、あなたの人生に必要なものは必ず満たされるから、これがイエスさまのお約束、祝福でした。

神の義と神の国はほとんど同じことだと言っても言い過ぎではありません。神の義が支配する場所のことを神の国と申します。神の国は、すでにイエスさまによってこの地上に始まっています。教会こそ、神の国の地上における最高の現われです。ですから、私どもは神の国に招かれたキリスト者、教会員として神の義を求めるのです。それは、神の国を地上に拡大する事、つまり教会形成に参与することとまったく同じことです。これが、私どもの決定的課題です。この世が掲げる正義ではなく、主の正義こそまことの正義です。この正義の基準の中で、この世の正義は判定されるのですし、しなければなりません。

さて、この点が押さえられたら、後は、簡単です。まさに芋づる式のように繋がってまいります。次につながるのは、信仰です。何故なら、信仰がなければ、誰も神の義を求めないからです。信仰によってこそ、神と神の国を求める思いが与えられるのです。それなら、そもそも信仰とは何でしょうか。それは、先日も丁寧に学びました。器のイメージをもって説明することができます。信仰とは、信心ではありません。信心、信じる心は信仰の実りであって、信仰そのものとは分けて考えなければなりません。信仰がもしも、私たち自身にそなわっている信じる心であれば、すべての人に神の言葉の知識が与えられたら、信仰者になる、救われるだろうと思います。しかし、イエスさまを信じることは、誰にでも出来る事ではない現実があります。そもそも、自分自身を振り返って下さい。ひとり一人違いはあるでしょうが、多くの方はこのような経験をしているだろうと思います。イエスさまのことを知ったのは、洗礼を受けるずいぶん前であったと言うことです。初めて聖書を読んだとき、初めて教会に行ったときには、ちっとも分からなかった、なにも思わなかった。ところが、ある日ある時、分かった、信じられていたということです。そのとき、いったい何がどうなったというのでしょうか。それは、聖霊なる神が私どもの心に信仰を与えて下さったということであります。言わば、私どもをご自身の器として、この器の中に信仰が注がれたこと、福音のいのちが盛られた瞬間です。つまり、神の賜物です。ですからこの上なく尊いのです。まさに至宝、宝の中の宝です。

さて、それだからこそ、こう言わなければなりません。信仰は求めるべきものです。私どもはすでに信仰が与えられています。しかし、放っておけばどうなるのでしょうか。私は、信仰が崩れる、破船する、道を踏み外す、聖書はいろいろと表現している通りになると思います。ですから、一度、ためしに、信仰を求めるのをやめてみてください、信仰がなくなってしまうことがわかりますから、などとは死んでも言えません。信仰を求め続けること、それは神を求めることと一つのことです。イエスさまが、心を込めて、私どもに訴えて下さったことがあります。「求めなさいそうすれば与えられる、探しなさい、そうすれば見つかる、叩きなさい、そうすれば開かれる」です。山上の説教で教えてくださったこと、命じて下さったのです。私どもは、信仰を求めなければ、信仰の内を歩み抜くことができないものだという者でしかないことを、いつも謙虚に弁えていたいのです。

日々、信仰を求めないとき、おそらく私どもは、神の大きな御業に期待しなくなるだろうと思います。そうすると、キリスト者は、自分の可能性のなかでしか働かなくなるのです。そこで具体的に起こることは、神に奉仕するのではなく、自分たちの出来る範囲でとか、自分たちの好き嫌いでとか、自分たちの関心の範囲のなかでとか、とにかく、神への奉仕ではなく、生ける神を自分の手のひらの中にいれてしまう、乗せてしまって、この程度でよかろうという思いあがり、自己満足に陥るのです。信仰を求めましょう。

次に「愛と平和」です。さて、私どもは講解説教を通して聖書のメッセージを聴き取ることを志としています。それこそが、もっとも神の御心に肉薄できる姿勢であると確信しているからです。すべての言葉は文脈から、その真意をくみ取ることができることは、およそすべての文章を正確に読み解く鍵だからです。そうであれば、ここでの愛と平和もまた同じように学びとりたいと思います。

パウロはテモテに真理のための闘いを求めています。パウロじしんがそのように使徒の務めを理解し、果たしてきたのです。さて、そもそものことですが、テモテへの手紙蟻1章5節において、パウロは、グノーシスの異端の教えとの闘いの目的についてこのように語りました。「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。」教会の交わりが愛によって結ばれ、愛にもとづいて建てあげられること、それをこそ目指してすべてをなしているわけです。それこそ、そもそものお話しをしましょう。キリストの教会の形成と言い、神の国の伸展と言い、ようするにそれは何ですか。聖書の中で、とりわけ新約聖書のなかで、至るところに記されている言葉があります。散りばめられているとすら言えます。それは、愛です。神の愛です。神の愛が充満する、満ち満ちる、それが、キリストの教会の本来の姿なのです。この目標を目指して、パウロもテモテも主と教会に仕えています。そうであれば、教会員もしっかりと自分たちの目標を過たないようにすべきです。聖書の御言葉、その命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰から生じる愛を目指すのです。この愛とは人間の愛情ではなく、神の愛を指し示す言葉が用いられています。キリスト者が愛情深くなって行くことを目ざしているというわけではない、少なくともここではそれが言われているのではありません。神の愛が、教会に満ちることを目ざすのです。そのために、テモテは「真理の言葉を正しく伝える者となるように努め」ているのです。まさに、神の愛は正しい教理、福音のまっすぐな教えの実りだということがここでも明らかになります。ですから教理教育が正しくなされているかどうか、カテキズム教育が正しく実っているのかどうか、何によって見分けるのでしょうか。説教の結ぶ実りを、長老が注意深く見守ることが、私どもの政治規準でいえば、長老のまさに最大級の務めなのですが、その実りとは何でしょうか。それが愛です。神の愛がここに満ちる、この愛によってキリスト者が存在させられ、慰められ、互いを慰め合っていること、そこです。

そもそも、神の愛はどのようなものでしょうか。そもそも、教会はどのようにして地上に堅固な基礎が据えられたのでしょうか。すべては、父なる神が御子のいのちを犠牲にするという極みまでの愛のおかげです。父と子と聖霊の神とは、愛の交わりのうちに存在する神です。それは、大胆に、もっとも短く言えば、こうなります。神は愛である。父と子と聖霊の交わりが愛です。この愛の実りが、神の教会です。キリストの教会です。その教会の中に、私どもは信仰によって、洗礼を通して入会させていただいたのです。教会員とは、この愛の交わりの内に永遠に生きるものとされた者であります。

ですから教会はこの愛を求めるのです。神の愛を求めるのです。神の愛が私どもの交わりを生むことを教会は知っているからです。ですから、神の愛を祈り求めるのです。そのためにパウロはテモテへの手紙気遼粗で、「清い心と正しい良心と純真な信仰」をテモテに求めたのです。

さて、最後は「平和」です。これも、この世において用いられる平和と同じ意味ではありません。丁寧に申しますと、それを含みます。しかし、ここではあくまでも「神の平和」の真理が言われています。私どもが9月の中部中会の信徒研修会で学んだ平和づくりのディアコニアについて祈祷会でも丁寧に学び続けました。ここではさらりと触れるにとどめます。実に、神の平和こそ、旧新約聖書の究極の主題です。何故なら、神の平和とは、神の愛が完全に支配することだからです。そしてその場所のことを神の国というのです。神の国の内実、中身こそ平和です。平和とは、そこでキリストの主権が確立し、すべてがキリストの愛の統治が貫かれることです。それは、天の世界の現実です。しかも、それだけではありません。天の平和は、この地上において始められています。神の国の地上における砦、神の平和のこの世における橋頭保、天の支配が地の支配に映し出される共同体、それこそ教会です。ですから、私どもは切に、正義と信仰、愛となにより平和を心の底から祈り求めるのです。

残念ながら、時間が足りません。もしかしたら次回に語り直すかもしれません。後半の部分をあらためて読んでみます。「愚かで無知な議論を避けなさい。あなたも知っているとおり、そのような議論は争いのもとになります。主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。」パウロは、ここでグノーシスの異端者やそれになびいて行ってしまった教会員たちのことを思っています。ここで言われていることは、決して神学の議論はするなということではありません。前回でも学んだ通り、教会の生命的営みが神学的な議論だからです。ここで言われているは、愚かな議論、つまり、異端者たちの議論に深入りするなということです。悔い改めを拒否する人と、私どもは議論しなくてもよいのです。すべての人を、キリスト者にしようと、説得したりすること、そのような議論は伝道とは違います。むしろ、そのような時間はもったいないでしょう。けれども、テモテをはじめ伝道者たちが、心に刻むべき一句があります。パウロがエフェソの信徒に直接送った手紙の第4章15節です。「愛に根ざして真理を語る」ことです。

祈祷
天のお父さま、私どもを教会員としてくださいましたことを心から感謝致します。あなたの極みまでの愛の実りである教会において、私どもはあなたの愛を知りました。あなたの愛に生かされ、主の正義を求め、信仰を求め、愛を求めそして平和を求める者とならせて頂きました。しかし、まことに中途半端な者です。どうぞ、私共の教会こそがこの地において正義と信仰、愛と平和を徹底的にあなたに祈り求める者とならせてください。そして、まさに、主の平和の拠点とならせて下さい。欠けたる器ですから、愛を注ぎ、溢れさせて下さい。

12月9日

★   先週で三回目となりましたが、長久手伝道所との合同祈祷会を毎年、この時期に開催しています。開拓伝道への協力をと祈り、考えながら、ほとんど体を動かすことができずに至っています。  少なくとも、隣にある兄弟教会として、祈祷課題を共に祈りたいとの思いではじめた祈祷会です。  確かに、土地建物等すべてが整えられ、中会と高神派老会との協力というまさにこれ以上めぐまれた開拓伝道は稀かもしれません。しかし、「韓国人」の伝道者とそのご家族の愛の労苦、犠牲的献身なしに長久手伝道はありません。その困難さを少しでも共有できればとこれからも祈ります。

☆  先週の第二回定期会で、中会としても天皇の代替わりに関する諸行事について、国費をもってこれをまかなうことを、憲法違反、つまり信教の自由への侵害、政教分離原則への公然たる挑戦と理解し、抗議声明が採択されました。その前週には、秋篠宮から「大嘗祭は、天皇家(皇室)の私的な費用である「内廷費」をもって支出すべきである。宮内庁長官は、自分の(天皇家を意味しているのだろうと思います)意見に耳を貸さなかった」と異例の踏み込んだ発言、政府批判を展開しました。既に、宮内庁長官もアベ政府から送り込まれた官僚です。天皇家が何を言おうとも、天皇ヲ政治利用スルという意思表示です。一方で、天皇(皇族)が政治的発言をすることは憲法違反です。今、両者のせめぎ合いが表面化しています。私はずっと主張していますが、天皇家は自分たちのDNAのようにその存続をこそ(おそらくどなたも自分の親族の安泰を望んでいるはずですから、同じことかもしれません)すべてに優先しています。そのために、明仁天皇は、「象徴天皇像」をじぶんなりに描きだして見せています。これは、圧倒的に多くの日本人に受け入れられていることをご自身も理解されているのだろうと思います。だからこそアベ改憲に大きな危惧を抱いていらっしゃるのだろうと推察します。何故なら、自民草案のように「元首」にされてしまうなら、将来、天皇制の存続そのものが根本的に問われる事態を招来することを案じていらっしゃるからではないかと、推察します。いずれにしろ、日本に組み込まれた「天皇」の問題こそ、教会の宣教課題のど真ん中です。「ヤスクニ問題」こそ、取り組まなくてはならない課題です。

★   イザヤは、神の民を「土の器のかけら」(イザヤ書45章9節)に過ぎないものと呼びました。そもそも人間は、土の塵で作られました。同時に、神の息を吹き入れられて人間となりました。まさに神に僅かに劣る者(詩編8編6節)、つまり、ほとんど神のような高貴な尊厳ある存在なのです。ところが人間は、自ら(本来の)人間でなくなりました。神と御言葉に従わない存在となろうとして、禁じられた木の実を食べたからです。そのとき、アダムにおいて全人類は「土の器」の「かけら」になってしまいました。粉々のかけらです。まことに惨めです。もはや、器の機能を果たせません。

  しかし、神はそれでもなお、土の器のかけらをお見捨てになりませんでした。彼らに忍耐の限りをつくして救いの御業をなし、教え、諭し、導かれました。そしてついに、永遠の御子を、永遠の人とならせて下さいました。神の御子が同時に土の器となられたのです。それは、このお方によって人間を再創造するためでした。イエスさまを救い主と信じ、洗礼を受けた者は、「土の器」とされたのです。さらに、この新しい土の器には、神の福音が盛られることとなりました。それをパウロは、「金の器、銀の器」と呼びました。神が所有し、使用なさるからです。確かに、私ども自身で見れば、土の「かけら」としか思えません。使用に耐ええないものだと思われます。ところが神は、私どもに「福音」を盛ってくださいます。注いでくださいました。この福音のおかげで、土の器のかけらは、器とされ、金の器としての「務め」が託されたのです。務めに生きよ!

☆  先週、久しぶりに〇〇ちゃんが礼拝式に出席。女子中学生の仲間達の嬉しそうだったこと! 教会学校教案誌に、当教会の信仰告白者、受洗者の証しが連続掲載されていました。どれほど大きな喜びだったでしょうか。ただし、次々号からの予定はありません。礼拝堂の一番前、わたしの正面で説教を聴く男子中学生と言い、大人の私どもこそ、「背中」を見せるべきですが、むしろ、皆さんこそ、背中から励まされていらっしゃるのではないでしょうか。説教者は大きな励ましを受けています。

と同時に、高齢の大先輩たちも、主日を決して休まれません。先週は、臨時総会にも出席されました。肉体的に、大変であると、何度も伺っています。どれほど、背中で励まされていることでしょう。

★  出張クリスマス!完全、アウェーでした。しかし今、大きな感謝と責任が心にこだまします。

「神が据えられた堅固な基礎」

「神が据えられた堅固な基礎」
2018年12月2日 

聖書朗読  テモテへの手紙供‖茖仮錬隠浩瓠腺横雲瓠  
【  しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。】

本日より、待降節、アドベントが始まりました。いつものようにテモテへの手紙の講解説教です。同時に聖餐の礼典を祝います。そして本日は礼拝式後ただちに臨時会員総会を開催致します。そのために、今朝は、テキストを短くしました。

先週のおさらいから始めます。テモテが監督するエフェソの町にある教会は、外からは迫害、内側からは異端の攻撃を受けています。確かに外からの迫害は、時にいのちの危険が伴うほど厳しいものがありました。しかし、聖書を読む限り、ローマ皇帝からの迫害よりは、むしろ内側からの攻撃の方がより深刻であったように思わされます。つまり、福音の真理、教理の問題を破壊してしまう異端の問題です。ヒメナイとフィレトという説教者がエフェソの町の教会で、活躍していました。大都市エフェソには、いわゆる小さな家の教会が散在していました。彼らは、異端であるグノーシスの教えを語りました。もとより、ただ単にグノーシスの教えを語っていたのなら、エフェソの教会がそれを受けいれるはずはありません。彼らは、グノーシスの教えに基づいて聖書はこう言っている。イエスさまは実はこのようなお方でいらっしゃったと話していたのです。だから危険なのです。教会には、信仰に導かれたばかりの初心者もいます。さらには求道者もいます。あるいは信仰的に成熟していないキリスト者も少なくなかったはずです。生まれたばかりの異邦人教会は、ここに示されているような厳しい教理的闘い、神学的闘いの真っただ中にあったわけです。パウロをはじめテモテたち教会の長老たちはまさに、教会が立つか倒れるか、おそらくギリギリのせめぎ合いのような真剣さで異端の教師たちと闘っていたのです。

さて、そのようなテモテたちに、実に深い慰めの言葉が与えられています。「しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。」何と慰めに満ちた御言葉でしょうか。圧倒的な宣言です。今朝、私じしん改めてこの御言葉の重さを感謝をもって受け止めています。

先週、25周年記念誌委員会が開催されました。委員たちは、教会の歴史を、特に年報に記された24年間の牧師の回顧と展望を丁寧に読みこまれました。多くの委員たちは開拓当初のことをリアルタイムでは知りませんが、その時代がどれほど大切であったのかを深く受け止めてくださるようになりました。

名古屋岩の上教会は、神の不思議な導き、摂理によって単立、独立での開拓伝道で出発しました。前任地の6年間、そこで苦しみ抜きました。何と闘ったのかと言えば、要するに人間中心の教会のあり方でした。教会とは徹底的にキリストの教会、神の教会です。それにもかかわらず、人間が、そのメンバーたちが教会を私物化してしまうという現実のただ中にいたのです。少し想像してみたいのですが、もしも、名古屋岩の上教会が自給開拓した私じしん自分の理想の教会、自分の思い描く教会像で、教会をつくろうとしたならどうでしょうか。まるで、自分が教会のすべてを決める、運営する、そのような教会だったら、それはもはやキリストの教会とは呼べないはずです。そもそも、わたしの神学的理解から言えば、その群れは、教会未満、キリスト教の「集い」でしかなかったのです。当たり前のことですが教会は、この世の商売のように数年出店してみて、もし採算が合わなければ撤退すればよい。そのようなことは断じて許されません。

さて、そのような私自身が1994年の復活祭から、「ここに神の教会を、ここにキリストだけを主と告白する教会を」とまさに神に引きずられるように出発しました。自分で申し上げるのもおかしいですが、本来、わたしの神学的な立場から言えば、開拓伝道のようなある冒険を伴わざるを得ない奉仕には、不向きな者だと言えるかもしれません。

今申したように、教会は徹底的に神中心、キリストの主権に服す教会でなければなりません。しかし、言うまでもありませんが、教会形成を担うのは他ならないキリスト者です。誰がその開拓伝道の奉仕者となるのか、指導者、開拓者となるのか、それは、決定的な意味を持ちます。つまり、もし、開拓伝道者である私が霊的にそして神学的に倒れてしまったら、そのときには教会自身が倒れる事になってしまいます。その緊張感、つまり、神の前に最大の罪を犯すことになってしまうという緊張感が、毎日、私を襲いました。

開拓後、3年目だったでしょうか。顔面麻痺をわずらいました。今も引きずっています。いわゆるストレスが原因だったのだろうと思っています。この緑区では、これまでに複数の群れが、開拓伝道しました。その意味で、地上の教会は、25年、そして半世紀、100年と歴史を継ぐことは、当たり前のことではありません。実は、日本の教会は、あと10年、20年すれば8割以上の牧師たちが引退し、もしくは召されます。それは巨大地震が起こる確率どころではなく、確実な事実なのです。このまま推移すれば、多くの教会が閉鎖されるか統合されるという事態が起こります。私どもはこの現実に向き合って、正しく備えるべきなのです。今、自分たちだけがよければなどと言う無責任は許されません。先輩たちの財産を少しずつ食いつぶすような教会であってはなりません。私どもは、その点、財産のない教会ではありましたが、私どもの課題は、将来の世代に借金を遺してはならないということです。

この日本のキリスト教会の現実と、私があの25年前、日々、緊張感、ある意味では恐怖感をもって生きていた現実と、おそらく重なる部分があると思います。そのような現実の中で今朝、主の御言葉、主の宣言を改めて聴きます。「神が据えられた堅固な基礎は揺る」がない。

それなら、神が据えられた堅固な基礎とは、何でしょうか。それは、マタイによる福音書第16章18節にあります。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」この主イエスの御言葉、宣言にすべてがあると言ってもよいと思います。そもそも、キリストの教会とはわたしの教会と仰ったキリストのものである教会です。この岩とは、イエスさまを主、神の子、キリストと告白する神の民のことです。そして、そのキリスト者たちが岩であるのは、ただご自身こそがまことの岩でいらっしゃるからです。神がキリスト・イエスという、この上ない堅固な、盤石な基礎を据えられたからです。神ご自身が教会の基礎、御子なる神ご自身が教会の基礎、土台、岩なのです。

そして、これはとても不思議な表現になりますが、ここに集められた私どもひとり一人をその岩のなかに入れ込んで、いよいよ巨大な一つの岩にしてくださる、そのようなイメージです。私どもも又、この岩の一部分になっているのです。もう一つ、この御言葉の真理を説き明かすために、決定的に重要な聖書の箇所があります。パウロがエフェソの信徒への手紙です。少し長いですが読みます。第2章19節以下です。「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」エフェソの信徒たちはもともと異邦人です。旧約聖書からみれば、彼らは、神の民、イスラエルからみれば、単なる外国人でしかありません。イスラエルに寄留していた者でしかなかった者なのです。つまり、神とその祝福の部外者です。神の救いの契約の外にいた者です。ところが、その異邦人たちは、主イエスさまの十字架とご復活によって、主イエスを信じる信仰によって聖なる民に属す者、神の家族とされました。それは、ここにいる私どももまったく同じことです。私どもこそ、本来、神と救い、イエスさまと希望とは無縁のものでした。ところがなんということでしょう。私どもは今や、使徒や預言者という土台の上に教会として建てられているのです。パウロはここで、教会の土台を使徒や預言者たちであると言います。使徒と預言者たちとは新約聖書の著者たちを指す言葉です。つまりパウロは、教会の土台は聖書にある。旧新約の聖書にあると言いたいのです。そして、その聖書の要石、聖書の中心こそ、イエス・キリストです。そうなれば、要するにキリストこそが教会のまことの土台なのだということがいよいよ分かって来るはずです。

そうであれば、すでにこの基礎は、完璧に据えられたことも分かって来るのではないでしょうか。この基礎、この土台とはイエスさまご自身のことです。ですから、パウロが「神が据えられた 教会の 堅固な基礎は揺るがない」というのは、当たり前のことなのです。私どもは、ここをしっかり押さえるべきです。

いずれにしろ、教会の基礎はすでに完璧に据えられました。これは人間のいかなる罪によっても、悪霊がその総力を結集しても教会の堅固な基礎を揺るがせることはできません。破壊することなど絶対にできません。同時に、この地上に新しい教会を開拓しようとするとき、このキリスト以外の基礎を据えることはありえないということです。教会の堅固な基礎はキリストであり、それは、神ご自身がおすえになられたのです。これが、教会です。これが名古屋岩の上教会です。

さて今朝私どもは、この聖書の御言葉にかたく立って各個教会のことを考えるべきです。わたしどもにとっては、名古屋岩の上教会のことを考えるべきです。そうすると、これはたとい万一のお話しですが、岩の上教会があと25年後、100年後になくなってしまったとしましょう。もしそれが、自分たちが誠実に熱心に神の導きに従い、教理にふさわしい奉仕が捧げられたその結果であれば、それは決して無駄ではなかったと思います。少なくとも全体の教会の前進に用いられたと受け止められることができると思います。今年、中部中会でも大垣伝道所は閉鎖されたのです。

このようなことを申しあげるのは、決して日本の教会が極めて難しい局面にあるので現状を甘んじて受けいれようとするためではありません。

さて、そのことを深く掘り下げるためにこそ、次の御言葉に進みます。パウロはここで、この神の教会の基礎には、このようなプレートが刻まれているのだと言います。「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。」これは、民数記第16章からの引用です。この箇所は時間の関係もありますので、祈祷会であらためて読みたいと思います。一言言えば、ここで引用されている文章は、パウロが自分流に民数記第16章の物語を要約したものです。神は、神の人モーセとアロンに反抗したコラ、ダタン、アビラムの家の者たちをお怒りになられました。彼らを、神の民から除外なさったのです。

私どもは今、名古屋岩の上教会の会員です。「主は御自分の者たちを知っておられる」のです。つまり、私どもは偶然にここにいるのではありません。私どもが主を知っていたからここに集えたのではありません。むしろ、私どもは私共をよく御存じでいてくださったのです。つまり、私どもは、主に召されてここに集められたのですこうして、名古屋岩の上教会とされたのです。ですから、主は、私どもひとりひとりをよくご存じでいらっしゃいます。教会とは、主なる神、キリストに選ばれた民によって成り立つのです。そしてだからこそ、パウロはこう言うのです。「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」神の民は、主イエスの御名を唱えます。その人は、聖なる主の民なのです。不正と罪から救い出されています。であれば、現実においても不正と罪から、遠ざかった歩みをすべきです。信仰を実践しなさい。教理を生きなさいということです。

確かに私どもの教会堂には予算の関係上、御影石の板、プレートをつけられませんでした。しかし、後からもっとすごい、もっとすばらしい言葉を正面の壁に記しました。それが、Soli Deo Gloria!です。ただ神の栄光のために、です。これは、言わば、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」を、私ども流に言い換えた言葉だと言えると思います。私どもの救いは揺らぐことがありません。神が据えられた教会の基礎は揺るぐことがありません。そしてまさにだからこそ、私どももまた、自ら、
不義から、罪である不信仰からきっぱりと離れるべきなのです。

先週、25周年記念誌委員会がありました。そこで、つくづく思わされたことがあります。この24年間、毎年、全力疾走してきたのだということです。手を抜かずに生きて来られたのです。同時に、私は、説教準備中にこのような思いが与えられました。できることなら20年前の自分に、「大丈夫。もっとリラックスして安心して励みなさい。聖書をよく学んで、信仰の理解を深めなさい」このようにアドバイスしてあげたいと思いました。しかし決して、このようなアドバイスはしません。「そこまでしなくてもよい。牧師の生活や働きは「ほどほどで良い。犠牲を払う必要はない」
25年の歴史は、子どもから大人にまさに成長を遂げるべき歴史のはずです。今の世代をさらに主の器として
訓練すること。同時に、次の世代をしっかりと育てることに力を注がなければなりません。
 
さて、次に進みます。「さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。」これまでは教会を建築物になぞらえていましたが、ここでは、部屋の中にある言わば生活必需品になぞらえて語ります。ここではキリスト者ひとり一人についてのお話になります。エフェソの家の教会にも、やはり大きな家があったのでしょう。裕福なキリスト者もいたわけです。そこでは、金の器や銀の器が置いてありました。

 パウロはテモテを励ましたいという意味でこれを記していることを忘れないで解釈したいと思います。自分の自己像が低い方、あるいは低くなっているとき、これを読むとキリスト者であっても劣等感を持ってしまうかもしれません。「どうせ、わたしは木の器です。どうせ僕などは土の器だ、金の器や銀の器になんかなれない。」そのように、人間に、キリスト者にランクをつけることをパウロが推奨していているわけでは決してありません。テモテのように福音のために忍耐して闘う人、教会の奉仕のためにまさに孤軍奮闘のように労する人たちを、パウロは励ましたいのです。テモテは金の器なのです。銀の器なのです。神の聖なる福音の器です。しかし、それは、最初から定まっているものではありません。パウロが言わんとすることは、福音のために奉仕をする器になりなさいということです。その人が金の器であり、銀の器になるのです。グノーシスの異端からきっぱりと離れるなら、キリスト者は誰でも金の器、銀の器なのです。要するに、神が用いて下さる、神のための器になるということです。

世間的にいえば、何々賞とかの表彰や勲章を授与されたりする人こそ金の器であり銀の器だと言われます。しかし、パウロはここで言うのです。そうではないと。彼らは、木の器でしないのですよ、土の器でしかないのですよ。なぜなら、彼らは神が用いたもう器ではないからです。逆に言えば、表彰されている人同時に神に用いられる器であるなら、まさに名実ともにすばらしい器です。若い方はこれを目指して下さい。

 パウロがキリスト者のことを器になぞらえた箇所に競灰螢鵐箸凌徒への手紙第4章7節があります。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」私ども人間は、創世記にありますように、土のちりからつくられたということを前提に語られているのだろうと思います。もともと、誰もが土の器なのです。しかし、この土の器、陶磁器そのものに意味や価値があるのではないということが、ここでの眼目です。この器の中に、何が納められているのかです。

 さて今、ただちに、聖餐の礼典を祝いましょう。私どもは杯を受けます。主イエスの御血を飲みます。今朝、このようにイメージしてください。聖餐の杯を飲むとき、私どもは福音の宝、福音のいのちを盛られています。福音を治める器とされたのです。詩編第23編は歌います。「主は、わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせて下さる」聖餐の礼典はまさに、そのような主の祝福を注がれるときです。溢れるまでに注がれるのです。こうして、私どもは神の器とされるのです。つまり、金の器です。銀の器かもしれません。そうであれば、聖餐に与る時、いよいよ、献身の志を固くすべきでしょう。わたしはイエスさまに贖われた者です。買い取られました。わたしの主はイエスさまです。ただ、神の栄光の道具としてください。神の器として用いて下さいと祈りましょう。

祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、あなたの教会を地上に据えるために御子イエス・キリストを人として肉体を摂らせ、御子の贖いの死とご復活によって、地上にあなたの新しいイスラエルを呼び集めて下さいました。そしてその中に、2000年後の今、私どもを加えて下さいました。名古屋岩の上教会の会員にして下さいました。このようにして今、私どもを教会とし、また教会に奉仕するあなたの金の器また銀の器としてくださる光栄を感謝致します。どうぞ、ここに盛られた福音の宝、いのちの祝福を持ち運び、平和の道具、教会の奉仕者としていよいよ用いて下さい。

12月2日


★   夜の祈祷会で、〇〇執事にCafe de FUKUSHIMAの働きに参加された報告と証しを伺いました。執事として今年は行くつもりだったとのこと。被災者の方々と出会い、触れあう中で、被災地ディアコニアのあり方について様々なことを考えられたとのことです。確かに、わずかな滞在言えるかもしれません。しかし、その体験を、掘り下げて行かれれば、大きな益を受けるだろうと思います。

☆  先週の火曜日、日本キリスト改革派教会メディア伝道局の山下正雄牧師とPBAスタッフの〇〇氏が、「わたしの街のこの教会」という動画収録のために来会してくださいました。主日の夜、念入りに掃除。さらに火曜日の朝から、家内と共に特に外回りを中心に掃除、整理。一番、きれいな会堂を紹介したく思ってのことです。当日、なんとクリスマスの飾りつけはNGと言われました。急きょ、そっけない礼拝堂や玄関ロビーに。当日、奏楽練習に来られた〇〇姉に、BGM収録を要請。スタッフにもご本人にも了解を得、よきオルガン演奏が撮られたと思います。

   さて、肝心の牧師の挨拶動画・・・、カンペを用意してしまったのが災いしました。結局、カンペなしで収録。音声なら、編集は簡単です。皆さまに、申し訳ないほど、ぼろぼろ・・・でした。

★   ですから、牧師の大失敗を皆さんで取り返して下さい!伝道委員会では、会員のひとこと、20秒ほど(カンペは必要ないハズ!!)を撮られると思います。御願いされたら、ぜひ、教会の伝道のためにご参加ください。未信者の方に、親近感をもってもらうために、関心のある方には、背中を押すために、なにとぞ、宜しくお願い致します。みんなでPR動画を作って行きましょう。プロの編集者がいますから、素材をたくさん提供しましょう!

☆   先週の読書会は、教会の防災をディアコニアとして考えようとの小会の提案決議にもとづき、直人執事がご奉仕下さいました。お仕事でもしておられ、すでにいくつもの他教会でも奉仕をしておられるので、「立て板に水」のすばらしいリードを頂きました。
    わたし自身は、教会の防災力をやはりもう最低ひとまわりバージョンアップする必要性を覚えさせられました。と、同時に、教会堂内で震度7を越える大地震に遭ったとき、落下物や窓、蛍光灯などからの被災を完璧に抑え込むことは、もはや不可能なのだろうな・・・と思ってしまいました。巨大地震には減災しかない・・・。しかし、減災すれば三倍以上の生命が助かる・・・。防災より「減災」という言葉の方が、真実のようにも思えてきました。

★   同時に、地域への教会の防災ディアコニアについて、また、この地が被災地になったさいのディアコニアについては、時間切れとなりました。ここが、わたしどもの「眼目」でした。宿題が残りました。もう一回、この印象を残せるうちに、皆さんで、考えることが出来たら幸甚です。そのためにも、執事会には、この点での整備整頓をブラッシュアップして頂く事が期待されていると思います。

★  12月に入りました。早い。18年も信じられないペースで時間は進みます。各委員会は、そろそろ年報作成の記録の準備に入っていただく必要があると思います。考えるのは、先ずは、伝道です。今年も新来者を得ることが極めて少ない年だったのではないでしょうか。もとより、待降節こそ、大切です。それだけに、この3週間、まさに祈りを集め、声掛けをしてまいりませんか。チラシは、2万枚、新聞屋さんにお願いしての配布です。

   豊明市にある配送センターで、「これは、問題になります。次回からはご注意ください」と言われました。政治と宗教に関する広告は、基本的に受け入れないという内規があります。厳密に適用すれば、そもそも教会の宣伝(集会案内)もアウトになるかもしれません。このような状況を覚えて、いよいよ、そうです!ひとり一人が、人格的な関係のなかで手渡しすること、伝道の王道、基本です。

☆  先週は、下校時の子どもたちに、チラシを配りました。ここでは、本来、子どもたち自身が伝道の最大の主体、器です。子どもたちを励ましたいと思います。

★  祈祷会での「平和の宣言」の学びも次回で最終。「祈りかつ行動すること」を誓うと。キリスト者の行動はすべて祈りの果実です。祈りのない行動は、自己満足になります。行動のない祈りは、まだ祈りが足らないのだろうとも思います。同時に、そこで行動を急ぐ必要はありません。急いではならないとすら思います。祈りを重ねれば、必ず、溢れて来る・・・。これがキリスト者の体験です。ですから、祈りを真実に積み重ねることが、すべての源、要です。

「真理の道に進ませることば」

「真理の道に進ませることば」
2018年11月25日 

聖書朗読  テモテへの手紙供‖茖仮錬隠汗瓠腺隠言瓠  
【  これらのことを人々に思い起こさせ、言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい。そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです。あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。俗悪な無駄話を避けなさい。そのような話をする者はますます不信心になっていき、その言葉は悪いはれ物のように広がります。その中には、ヒメナイとフィレトがいます。彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています。】
      
今朝は、予定したテキストの区切りを変更しています。18節までを学びます。説教題もまた「真理の道を正しく進ませる言葉」と致しました。来週は、今朝の箇所から21節までを含んであらためて語る予定であります。

さて、今朝与えられた御言葉「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。」は、牧師である私のためにこそ与えられた御言葉のように思います。まるで神さまがパウロを通して私を名指しで指導してくださるような感覚を持ちます。およそ神学校とは、この15節を実現させるための教育機関だろうと思います。そうしますと、もしかすると今朝の説教は、いわゆる牧師、伝道者でない皆さまにとってはなんだか疎外感を持っていただいてしまう危険性があるかもしれません。しかし、聖書に記された御言葉はすべて神の民、キリスト者にとって有益なものです。大切な御言葉のはずです。

そもそも教会員の皆さまにとりまして牧師って何をするひとなのかを知ることは教会生活をきちんと送る上での言わば大前提ではないでしょうか。皆さまにとって説教者とはどのような働きをする人なのか。彼らはそもそもどのような器であるべきかを知ることは、教会をともに建てあげる上で必須の知識であります。私ども既に長老や執事について学びました。同じように今朝は、説教者である牧師の務めについてあらためて学びましょう。
そもそものことですが、教会員は牧師であろうが信徒であろうが同じ務めを教会の頭なるイエスさまから委託されていますね。結局、究極の務めはただ一つのものなのです。私どもの言葉で言えばこれです。「ここに神の教会を、ここにキリストの教会を建てあげる」そのためです。この目的のために、私は牧師として召されたのです。皆さまは信徒として召されたのです。

かつて、テモテへの手紙気旅峅鮴盒気里覆で、執事とは、キリスト者のあり方、奉仕の模範なのだと学びました。確かに執事は、執事としての特別な召しを受けるべきことをわたしは常に強調して参りました。しかし同時に、結局執事職とは、キリスト者としての生き方を徹することでしかないのだとも学んだはずです。そして、それは牧師においてもまた当てはまるものです。牧師はキリスト者のモデルであるべきなのです。ですから、今朝の説教はわたしにとってはもとより、皆さまにとっても大切です。牧師と信徒は、言わば同志であります。同志となるべきです。その意味でも、ごいっしょに今朝の御言葉を心して共に聴きましょう。

さて、14節です。「これらのことを人々に思い起こさせ」です。これらのこととは、何でしょうか。8節から13節までのパウロの福音、パウロから聴いた教えのことです。イエスさまの十字架とご復活の福音です。ただしそれはテモテにとって今初めて聴く内容ではありません。2章2節にありますように「多くの証人の面前でわたしから聞いたこと」なのです。パウロはテモテに対して、このように呼びかけ、命じました。「次の世代を育成しなさい。あなたは、自分が聴いた私の説教、私の福音というバトンを、次の世代にしっかりと手渡しなさい。そのような能力と忠実さを持った人たちに、どんどん委ねて行きなさい」これがパウロのテモテに対する指導でした。

その上で14節があります。次世代を育てるためにも、今、エフェソ教会を襲っている異端の教師たちとの闘いのためにも、この福音の真理を教会員に思い起こさせること、それこそがテモテの主から委託された第一の務めです。「これらのことを人々に思い起こさせ」と言います。すでに8節でも同じ事柄を丁寧に学びました。「イエス・キリストのことを思いおこしなさい。」です。黙想するということでした。イエスさまのご生涯について、そのお働きについて、そしてそのご生涯とむすびついたイエスさまの教えをいつも思い巡らしなさいというわけです。
そしてそのためにこそ、教会には説教があるというわけです。教会には説教が必要であるというわけです。

さらに言えば、第7節の「わたしの言うことをよく考えて見なさい」というみ言葉もここで改めて響いてまいります。しみじみ、パウロという伝道者は、いわゆる宗教家、宗教の宣伝家のような人ではないということを思わされます。つまり、パウロは、キリスト者が信仰の内に歩むということを決してなにか熱に浮かされるかのような、感情的に走って行くようなあり方を目指していないということです。むしろ彼は、出来る限り直にそのキリスト者に接して、膝をつきあわせるようにして信仰の指導をしたのだろうと思われます。

もとよりパウロは、大勢の教会員の前で説教したこともあるはずです。さらには大勢の未信者の前で、あるいは大法廷においても、福音の証しをしたことがあります。しかし、それでも、大衆を言わば扇動するような仕方で福音を説いたのではないのです。おそらくパウロの心にある思いは、「みなさん、熱に浮かされるようにではなく、むしろじっくりと、よく考えでごらんなさい。イエス・キリストを静かに黙想してごらんなさい」と呼びかけたいのだろうと思います。主とその教えを、じっくりと思い巡らすことこそ、力であること、力となることを知っていたからです。私どもの教会もまた、これからも牧師とマンツーマンで学ぶときを大切にすべきだと思います。

次に進みます。ここで、教会員全員への言葉が告げられます。「言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい。そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです。」言葉をあげつらわないようにということは、何を意味しているのでしょうか。これは、決して説教を聴いた後、その説教について議論する必要はない、とにかく信じなさいという意味ではけっしてありません。ここで、言葉をあげつらわないというのは、16節の「俗悪な無駄話」のことです。要するに、グノーシスの異端者たちの聖書から逸脱した宗教的オハナシのことです。パウロは、グノーシスの異端者たちが、「自分たちは深い宗教的知識を持っている。広い教養を身に着けている、その上で聖書を深く知り正しい理解に到達している」とうぬぼれていることを間近で観ていました。彼らは、こう言ったのです。「パウロの教えはあまりに素朴で、あまりに幼稚だ」しかし、それに対してパウロは断言します。彼らの宗教の話は「何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです。」

教会は聖書の解釈をめぐって常に論争を繰り返してまいりました。まさに神学議論を重ねてきたのです。ところが、日本の愚かな政治家たちがときどき、「神学議論はやめて、もっと具体的な話をするべきだ」等と発言することがあります。まことに無教養をひけらかしていると思っています。正しい神学議論は、教会が教会であるために、教会が教会となり続けて行くためにまさに生命的な営みです。最も大切な営みだと言っても言い過ぎではありません。

ただし、同時に、今朝あらためて確認しましょう。その神学議論が俗悪な無駄話に転落してしまうことがあるということであります。そのような議論は「聞く者を破滅させるのです。」破滅と訳されています。滅びに至らせるということです。異端の教えは、それに聞き従う人を滅びに至らせます。ですから、教会はまさに徹底的にこの異端者との論争を避けられません。

私どもは、ここでパウロがどれほど教理の純正、純粋な聖書の教えに徹底的にこだわるのか、どこかついて行けないくらいの思いを持たれる方もいらっしゃるでしょうか。人間は感情や意志もとても大切だからです。教理の学びばかりしていて、冷たい感情、暖かなキリスト者のスピリットがないがしろにされるのは、よくないと言う議論です。わたしも、その意味では、まったく同感です。しかし、キリスト者としてふさわしい感情や意志は、何によって生まれるのでしょうか。そうです。教理です。真理以外からは、正しい実践も生まれないのです。パウロは、自分の原体験を持っています。あまりに悲しい体験です。彼は、かつて迫害者だったのです。誰よりも神を信じ、誰よりも聖書を正確に信じ、だからこそキリスト者を迫害したのです。良心の呵責などありません。正しいことをしていると確信して揺るがなかったのです。しかし、復活のイエスさまに教えられました。パウロの教理は間違いなのです。自分を破滅させるばかりか、まわりの人々をも破滅させるほど悪しき教え、まちがった教理を保持していたのです。ですから、パウロは、真理に徹底的にこだわります。主イエス・キリストや神、救いに関する間違った教えを見過ごすことはできないのです。パウロはテモテを通して、エフェソの信徒たちに神の御前で厳かに命じます。俗悪な無駄話を教会の中で、礼拝式の中で、集会で決して語らせてはならないのです。

さらに「俗悪な無駄話」つまりグノーシスの異端の教えについてのパウロの言葉を学びましょう。そのような教えを教会では、一ミリたりとも受けいれてはなりません。伝道者たる者は、自ら避けなさいと言います。何故なら、「そのような話をする者はますます不信心になっていき、その言葉は悪いはれ物のように広が」るからだと言うのです。「ますます不信心になる」を直訳すれば、「不信心に成長する」となります。異端者たちは自分たちの教えを聞けば、幼い信仰から大人の信仰へと成長できるようになると主張していました。それに対する強烈な皮肉です。

さらに、パウロはエフェソの信徒であれば誰もが知っていた「ヒメナイとフィレト」を名指しで断罪します。ヒメナイはテモテへの手紙気任眦仂譴靴討い泙后フィレトはここだけです。有名な説教者だったのでしょう。どれほど、あるヒメナイとフィレトの人間性や教えに魅力があっても、彼らについて行くキリスト者たちは、容認すべきではないのです。それによって教会員が減ろうがどうしようが、そのようなことはまったく考えるべきではないわけです。昔から言い交わされて来た格言です。「教会は神の御言葉によって立ちもし、倒れもします。」ですから、教会の牧師たちはこの点で甘くなってはなりません。

さて、ここでとても珍しい事ですが、グノーシスの教えの具体的な事例があげられます。「彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています。」彼らは様々な偽りを聖書から語りましたが、「復活はもう起こった」と主張したわけです。私どもは、毎主日、ニカヤ信条を唱えています。それは、特別な祝福であると確信しています。ニカヤ信条では、「我らは死者の復活を信じる」と告白しています。使徒信条では、「体の甦りを信じる」です。ここで、何がポイントになるのでしょうか。それは、死者の甦りだということ、つまり、肉体の復活を信じるということです。

今朝、グノーシスの教えをあらためて丁寧に語る暇はありません。彼らは、ギリシャ哲学にもかぶれて、肉体を軽んじました。魂の牢獄でしかない、肉体が復活するなど、彼らにとっては救いでも何でもないことだったのです。肉体の復活は21世紀も何より第1世紀の知識人たちにとって、嘲笑の的だったのです。

さて、実は、「復活がすでに起こった」ということは、ときどき、わたしもしているだろうと思います。このような言い方ではありませんが、わたしの説教の中にもたびたび、私たちはキリストと共に復活している。復活の力にすでに今ここで与かっているというようなメッセージは、何度もしています。つまり、主イエスのご復活によって、主から信仰を与えられ、洗礼を受けたそのとき、私はまったく新しい人になったということです。誰でもキリストを信じ、洗礼を受けているなら、新しい創造が起こるからです。新しい人間とされているからです。復活の力は今ここで、起こる、始まるのです。そもそも、復活と言う言葉じたいは、「立ち上がる」という意味です。まさに主イエスを信じ、主イエスと結ばれたキリスト者たちは、一瞬一瞬、立ち上がる力を上から与えられています。復活の力に今すでにあふれるほど与かっているのです。その意味で、わたしはすでに復活の力を受けています。
しかし、私どもにとってそこで終わってしまうなら、まったく不完全です。この復活の力は今すでに、私どもを包んでいます。支えて頂いています。しかしそれは、ほんのわずかな言わば前菜、前味のようなものです。ニカヤ信条で今朝も告白したとおり、「我らは死者の復活を信じる」のです。「体の甦りを信じる」のです。ここでの復活とは、「死者の復活」です。その復活が既に起こったと言うとき、それは、死者の復活を否定し、単に精神的なものに閉じ込めることでしかありません。

私どもは希望を与えられています。わたしの肉体が死によって朽ちてしまい、もはや遺骨だけ、灰になってしまっても、このわたしの喪われた肉体は、この世に存在しなくなっている体は、主イエス・キリストの再臨のときには復活させられるのです。

グノーシスの異端者たちは、「もう、復活は起こっている。イエスさまを信じた人は復活している」そう主張することによって、肉体の復活という教えを隠してしまうです。その最大の理由とは、何故でしょうか?それは、あまりにも当時の知識人、文化人、教養をもった人から馬鹿にされる教えだったからです。そもそも彼らにとって、体の復活など、救いでも何でもありませんでした。むしろ、霊的な深い知識、グノーシスを得た人は、もはや、永遠に不滅である魂は肉体という牢獄になどとらわれず、むしろ、肉体を失うときこそ自由になれるなどと考えていたのです。ギリシャ哲学は、体は永遠ではなく魂のみが永遠、不滅だとずっと語ってきたからです。その教えを知っていたギリシャ人からキリスト者になった人、あるいは、キリスト者になってから、そのような哲学を学んだ人が、残念ながら体の甦りなどということは幼稚だと考えてしまったのでしょう。こうして、意図的であるのか結果としてだったのか、断定するのは難しいと思いますが、いずれにしろキリスト者の「ある人々の信仰を覆し」してしまったのです。パウロは、決してこれを見過ごしません。パウロもテモテもも、すべての説教者たち、牧師たちは正しい福音の信仰のために、まさに矢面に立って、闘わなければならないのです。

最後に、本日の説教題の、言わば積極的な真理を学びましょう。「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。」いつの時代でも、今朝、学んで参りました異端の攻撃を教会は受けて来ました。その意味で、もっともこの闘いが深刻になっていたのは、他ならないテモテたちの時代です。この最初の教会、アジア州のエフェソの町の教会の土台が座るかどうか、そのためにここに挙げられていることを実行できる説教者、牧師が育つかどうか、これらは決定的、生命的に重要な課題だったはずです。そして、ここでパウロが勧めたことを、体現していたのがテモテだったのだろうと思います。テモテは、パウロのこの激励をおそらく何度も何度も聴いたと思います。こうしてもはや、この御言葉は、若い伝道者テモテの言わばモットーになっていたのではないかとすら思います。寝ても覚めても、「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。」この御言葉を自らに言い聞かせるようにして、修練を重ねたのだと思います。パウロのように、自らもまたエフェソの信徒たちのために、忍耐の限りをつくして教会のために真理の言葉を正しく伝えたのだと思います。そのような伝道者、牧師になろうと心に誓い、常に祈りもとめながら、奉仕に励んだのだと思います。

さて、ここで新共同訳とこれまでの訳との違いについて、一言します。新改訳聖書はこう訳しました。「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」ずいぶんニュアンスが違います。「恥じることのない働き手」が「熟練した者」となっています。最大の違いは「神の前に立つ者」としたところを「自分を神にささげるよう」に努め励むことです、としたところだと思います。どちらの翻訳も可能と言われます。そうすると、自分を神にささげることと神の御顔の前に立つ者とは、同じ事柄だと言うことが分かります。神に身を献げると書いて献身と言います。うっかりすると、献身者とは牧師のような伝道献身者にのみ当てはめて考えられがちです。しかし、キリスト者はみな、神の御前に立てる者です。つまり、神の御前に適格者、ふさわしい者としていただいているはずです。そうでなければ天国に入れません。

私どもは、献金のたびにローマの信徒への手紙第12章を朗読しています。私どもは、自分を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしていただいていることを、毎週、そこで確認しているわけです。礼拝式に出席できる者とされたこと、それが救われたということであり、キリスト者の証拠なのです。私どもは、神の御前に立てる奉仕者とされています。

その上で、テモテのような牧師、監督、長老は、特別に自分が真理の言葉を正しく伝えられるように修練に励むことが厳しく要求されているのです。まさに、御言葉を正しく語ること、御言葉をまっすぐに説き明かすことこそ、わたしの固有の務めです。この働きを良心に恥じないように担うことが求められています。それは、この働きを神さま以外の誰かが正当に評価されることは難しいからです。そもそも、牧師にはタイムレコーダーがないのです。この世の労働基準局の管理の外に生きているような者です。ですから牧師は、良心を磨かなければなりません。今、ただちにお祈りしますが、今朝、自らに問いたいと思います。今朝、私は、真理の道に正しく進ませる神の言葉を語ったでしょうか。皆さまは、今朝、真理の道に進ませる神のみことばを聴いたでしょうか。 

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、正しい教理を教えることの大切さを思います。そして何より教理を体得すること、教理を生きることの大切さを教えられます。教理を擁護する長老の働きを用いて下さい。教理を説き明かす牧師の働きを祝福してください。そのようにしてキリストの教会の土台を堅固に据えることが出来ますように。そのために、教会員ひとり一人が、いよいよ牧師のために祈り、牧師と共に働き、説教の実りを結ぶことが出来ますように。みんなで、励ましあいながら、ここに神の教会をいよいよ堅固に建てることが出来ますように。教会員全員を、そのひとり一人の喜ばしい責任を自覚し、ここに神の教会を建てるために、お互いに献身することが出来ますように。
アーメン。
目次
名古屋岩の上教会
〒458-0021
名古屋市緑区滝ノ水2-2012
TEL&FAX:052-895-6701 
メール:iwanoue■me.ccnw.ne.jp
※■を@に変えてください。
牧師紹介
□牧師 相馬伸郎□
下記の定例集会にどなたもお気軽にお越しください!心から歓迎いたします。
求めるあなたに、かならず、救いが与えられます。


□主日礼拝式□
毎週日曜日
10:30〜12:00

□子どもの教会□
毎週日曜日 
嬰児から高校生まで
9:00〜10:00

□祈祷会□
毎週水曜日 
朝 10:00〜11:30
夜 19:30〜21:00

個人的学び会 随時 牧師にお気軽にお問い合わせ下さい!

【子供と父母のハートステーション】が始まっています。 詳しくは、ニュースをごらんください!

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