岩 崎 建 築 研 究 室 ・ 日 誌

〜京都で数寄屋を学び、建築設計を考える〜

岩崎建築研究室

行之行台子

お茶のお稽古、着物を着て研究会。お軸は「瑞雲繞石臺」ずいうんせきだいをめぐる。花は春咲秋明菊とアワモリショウマ。花器はコンプラ瓶。コンプラの語源 conprador はポルトガル語で“仲買人”。オランダ人に日用品を売る特権を与えられた商人をコンプラ商人とよび、その組合をコンプラ仲間といいました。コンプラ瓶はコンプラ仲間が作っている「金富良商社」ブランドの瓶。鎖国の江戸時代、出島でオランダと清のみを相手に行われた輸出で、主要品目だったという醤油。長崎港から輸出された大量の醤油瓶は今もヨーロッパの古道具屋で目にすることがあるようです。ルイ十四世は伊万里焼の醤油差しを使って九州の醤油を料理にかけて愛用したとか。また徳富蘆花がモスクワの南200kmのヤースナヤ・ポリャーナに住むトルストイに逢いに行ったとき、書斎にはコンプラ瓶に花が生けてあったとも。

今日は行之行台子。前日に寝る前と朝起きてから、ノートを見返す。最初の記録は2008/07/26。もう八年も前。先週の台天目のお稽古もあって、少し整理出来てきて、わりあいスムーズにいったつもりですが、先生からは「もう少し勉強して、うまく点前の流れにのれるとよいですね」まだまだです。先代の先生の頃、下宿をしていた京大生は行之行台子の点前を一度見ただけでスラスラとやったそうな。京大生にも色々います、、、。その後は、今日初めて行之行台子をするという方のお稽古を見させていただく。困った時には先生にお聞きしますが、出来るだけ教えられる範囲で。おかげではっきりわかっていないところがよくわかりました。

蓋置の「ほやこうろ」。その音から、海のパイナップルを想像してしまいますが、「海鞘」ではなく「火舎」。火舎は、火屋・穂屋とも書き、香炉・手焙・火入などの上を覆う蓋のことで、蓋のついた香炉のことを火舎香炉と呼びます。火舎蓋置は、七種蓋置のうち、最も格の高いものとして扱われ、主に長板や台子で総飾りをするときに用います。


シチダンカ(七段花)。シーボルトが「日本植物誌」にスケッチで記録したにもかかわらず130年間日本国内で確認されず「幻の名花」とされていたところ、昭和三十四年に六甲山で発見されたとか。

からいた

お茶のお稽古、造園班。お稽古前に配布した資料は「手水鉢」について。四畳半の座敷の前には小さな手水鉢を据え、一畳半の座敷の前には大きな手水鉢を据えるほうがよい(茶譜)」と利休は言ったとか。手水鉢には筧をつけるべきかどうか、や、手水柄杓の種類や置き方、使い方などの話をする。

お稽古は先月に引き続き盆略点前。細かく指導をすると一回三十分ほどかかってしまうし、まだまだ動きがぎこちない。今日から新しく女性の方も加わる。造園の仕事も経験者、お茶も一年ほどお稽古したことがあるとのことで、綺麗なお点前で盆略点前もスムーズ。全員初心者の男性陣をあと半年でこの状態にできるかどうか、というとちょっと不安。教え方がいけないんだろうか、、、指導方針を改めて考えなきゃいけないなあ。


お稽古のお菓子を買いに水田玉雲堂へ行って来た。創業文明九年(1477)。平安時代神泉苑での御霊会で神前に供えられた「唐板」を、応仁の乱後、復興し、上御霊神社境内の茶屋でだしたところ、厄よけのせんべいとして広まった。以来500年、現在でもこの店ではこの商品のみ、一本勝負、というところがすごい。


よくみると建物はなぜか洋館風。窓は両開きでガラスはダイヤガラス。


「からいた」の扁額とのれん。「唐板」は遣唐使が持ち帰った菓子の技法のひとつをそのまま伝えたものだとか。建具も焦げ茶のペンキ塗り、内部の天井も漆喰塗りで中心飾り、と洋館風でした。


北側のファサード。きちんと鍾馗さんがいらっしゃいますが、、


欄間は正方形の格子にダイヤガラス。建具のガラスも石目硝子で洋館の意匠。


場所は御霊神社の目の前。


御霊神社と言えば、応仁の乱勃発の地。


お稽古で出した「からいた」。小麦粉と上白糖、塩少々、卵を混ぜてこね、薄く延ばして短冊に切り、銅板で焼いた淡白で風雅なお菓子。



藤井厚二の障子

書道教室が一緒のYさんから連絡があり、藤井厚二設計の家が取り壊される!見学できるよう手配しました!というので、見せていただきに行ってきました。一時は保存の話もあったようですが、結局取り壊しに。とある方がほぼ再現するような形で部材を使うということで、二度目に現場に伺うと硝子戸、天井、階段などが根こそぎ撤去されていました。ただ障子は大量に残されていて、誰も貰い手はなく、このままでは処分してしまうとのこと。


自宅に置き場所はなく、既に大工さんの作業場にたくさんの古建具を置いてもらっている身ではありますが、勿体ないので、厳選をして写真に映っている背の高いもの4枚、低いものを4枚だけいただいて来ました。YさんとYさんのご主人にも手伝っていただいて(有り難うございました)、えっちらおっちら石段を登ってYさん宅に仮置きしていただき、後日大工さんに引き上げていただき、作業場で現在保管中。

大きな枡のシンプルな障子、内法の高さの違う障子ながら横桟が揃えてあるあたり建築家の設計した障子らしい。背の低いほうは、一番上の枡が少し低く、意図的に横桟を揃えた様子が伺える。各四枚ずつあるので、部屋の角に折り矩に使うのも良さそう。これを使って、藤井厚二のような数寄屋住宅を建てたい!という方がいらっしゃいましたら、是非ご連絡ください。

西川一草亭と木村清兵衛と民藝建築

藤井厚二や堀口捨己を調べていると名前が出てくる西川一草亭。一体どんな人なんだろうと思っていたら、ブログを見てくださっている方から、こんなシンポジウムと見学会がありますよ、と教えていただき、行ってきました。(しんさん、いつも有り難うございます!)


シンポジウムを聞きに京都工芸繊維大学へ。発表は「歴代木村清兵衛にみる数寄屋大工の近代」「風流道場主・西川一草亭」「民藝運動の建築への視座とその源流」「杉本文太郎のこと」。建築設計を仕事にしている自分にとって、西川一草亭以外の発表も非常に興味深いものですが、シンポジウムの主催は建築学会ではなく、小泉和子氏が会長の家具道具室内史学会。

木村清兵衛は、裏千家出入りの数寄屋大工。江戸時代後期から昭和戦後まで四代に渡って活躍した。代々続いた大工と言えば表千家の平井家も有名、住友の八木甚兵衛も三代に渡って活躍していますが、数寄屋棟梁が代々続くというのは珍しいのかも。宮大工は、世界最古の企業として有名な金剛組があるように、組織として継続して事業が行われるのに対して、数寄屋大工はどちらかと言えば個人の能力に負うところが大きく代を継ぐのが難しいのでは、というのは、現代の数寄屋棟梁を見ていても感じる。初代留次郎(-1864)は若狭出身、東本願寺の仕事のため京都に出てきたらしい。東本願寺と裏千家の関係もあってか裏千家に認められ、利休二百五十回忌の増築に関わり、花入「棟梁」を送られたり、玄々斎考案の大炉の炉縁を製作したりした。二代目幸次郎(1845-1915)も初代とともに裏千家の仕事に携わり、玄々斎好みの立礼式用具を製作。三代目芳次郎(1871-1955)は柏木貨一郎(淡古斎)に導かれ東京へ進出、鈍翁の弟、益田克徳とも知り合い、数寄の世界と繋がって行く。三代目から数寄屋師を名乗りはじめ、最も茶室建築で活躍した。三代目の長男幸一郎は早稲田大学に進学、建築学科の主任教授となる。四代目は弟の喜三郎(1900-1970)が継ぐが、晩年数寄師の面影は失せてきたらしい。


民芸運動の建築に関する発表もとても興味深かった。発表をされた方は鳥取民藝美術館の理事の方で、民芸運動とその建築の歴史を概説してくださり、とても勉強になった。また鳥取には河井寛次郎が「民芸の母」と呼んだ吉田璋也(1898-1972)がおり、本業の医師の傍ら、柳宗悦の見出した民藝の美を生活の中に取り入れるため、新たな民藝品を生み出し、自邸、吉田医院、鳥取民藝美術館、湖山池阿弥陀堂など素晴らしい建築を残している。見てみたい。これまでに見学できた民藝建築は、河井寛次郎記念館、土橋嘉兵衛邸、東京の日本民芸館や柳宗悦邸、松本•池田三四郎のまるも旅館などですが、上田恒次の保田與重郎邸「身余堂」、大阪の三国荘(現存?)、浜松の高林家、倉敷民藝館、濱田庄司記念益子参考館、奈良の富本憲吉記念館(公益社団法人ソーシャル・サイエンス・ラボが取得。体験型宿泊施設としての活用をめざしているという)、宮地米三の美濃吉心斎橋店、リーガロイヤルホテル大阪のリーチバーなどなど、見てみたい建築がたくさん。また依頼があれば、いつか民藝建築の設計もしてみたい。



翌日の見学会は並河靖之七宝記念館(旧並河靖之邸)と去風洞(西川一草亭旧居/非公開)。午前中に並河靖之七宝記念館を見学した後、昼食、移動して去風洞。


岡崎界隈のお店は観光客で長蛇の列なので、地元に愛されるサイフォンコーヒーと愛煙家の店で、サンドイッチを食べてから浄土寺へ。


去風洞、西川一草亭旧居は浄土寺。学生時代はすぐ近く東天王町に住んでいたのですが、こんな家があったとは全然知らなかった。西川一草亭(1878-1938)は、華道去風流七世。門下には浅井忠、都鳥英喜(画家/浅井忠の従兄)、九条武子(女流歌人/二十一世大谷光尊の次女)、藤井厚二•壽子夫妻、幸田露伴、高安月郊(劇作家詩人)など有識者が多く、文化サロンを形成した。実弟の津田青楓は夏目漱石に洋画を教え「道草」「明暗」の装丁を手掛けている。季刊で発行された「瓶史(へいし)」は、生け花にかぎらず、伝統文化を論じる機関誌で、後に白洲正子は次のように述べている「私はいけ花を習ったことはない。しいて先生があるとすれば、好きで集めた器の類と、西川一草亭の編纂による「瓶史」とよぶ冊子かもしれない。「瓶史」から学んだのは、いけ花は一種の総合芸術であるということだった。花は花だけで孤立するものではなく、周囲の環境と生活の中にとけこんではじめて生きるという意味である。」


門を潜って左前方に玄関。上河宗寧(って誰?)から送られたという蒲団飛石は丸い川石。その奥にノミ跡の残る四角い沓脱石。玄関戸はなく、沓脱石から障子を引き分けて四帖の間に上がる。四帖の間には鐵齋筆の扁額「去風洞」。八帖の床柱は赤松皮付虫喰のベンガラ塗り。床の間の中、向かって右の壁中央あたりに花生釘(一草釘)が打たれる。庭玉軒の花明窓との関連が説明されたが、ただ単純に床柱の花生釘では大きな花入が掛けられないから、というような気もする(実際見学時に大きな籠の花入が掛けられていた)。奥には花のお稽古に使われたとされる九帖の間。二間床は花を飾る場、畳一枚大の松板(鬼節には埋木)が入れられ、道庫のような建具も準備され、茶道の点前のように花を生けたようだ。北側には一間床も設えられ、その西側の一帖が上げ台目切りの点前座。天井は落天井だが、垂れ壁から塗り廻しされた土天井。柱を見ると壁留を入れた跡があり、工事中か施工後に変更したようだ。

一草亭は建築家との交流も盛んだったようで、交流があった建築家は、 武田五一、藤井厚二、堀口捨巳、谷口吉郎、吉田鉄郎、天沼俊一、岡田孝男、本野精吾、大林義雄(大林組二代目)などなど。藤井厚二は昭和二年(1927)に入門、実際にここに夫婦でお花を習いに来ていたらしい。堀口捨己は門弟ではないが、「瓶史」の編纂に携わったり、西川が請け負った仕事で、堀口捨己が洋風の応接間を担当したり、逆に堀口が請け負った仕事で座敷を西川にお願いしたりしている。村野藤吾と泉岡宗助のように、堀口は一草亭から和風建築を学んだのかもしれない。

施工は北村捨次郎ではないかと言われている。たしかに八帖と六帖の間の欄間は、碧雲荘と四君子苑に共通する桑が使われているが、一文字の孔があけられた欄間は色づけがされていないからか、かせた雰囲気。また四君子苑のようにあて丸太も多く使われているが、八帖の天井板は割れてしまっているし、床框は成が低く、はつり目に切れがない。おそらく一草亭の考えで高価な銘木は使わずに、ということだったのだろうと思うが、名匠による仕事という感じはしない。一流の文化人と文化サロンを形成した、というには、簡素で素朴な建物。建物そのものよりも、そこでどう生活するか、どう生きるか、ということが重要なのかもしれない。

「我々は実生活の他に芸術を求め、 趣味を求め、 芝居を見たり、 音楽をきいたり、 書を味わったりしているが、 毎日の生活をその侭芸術として味わひ楽しむことが出来たら、 どれほど人間は幸福だろう。 茶碗土瓶が芸術であり、 椅子卓子が芸術であり、 机硯が芸術であって、 行住座臥、 随時随所それぞれ鑑賞して楽しむことができたら、 それほど便利なことはない」(西川一草亭「風流生活」1932)

台天目

お茶のお稽古。いつもは朝一ですが、今日は都合で夜に。お軸は紫燕受風斜。杜甫の「春帰」より。七十二候では卯月の清明の第一候が玄鳥至(燕が南からやってくる)で四月四日頃。お花は柏葉紫陽花やアザミなど。お稽古は二週目で、来週は台子をするということで、台天目をみていただく。久々の風炉で、お約束のように湯加減の水を忘れる。それでも台天目のおおまかな流れや帛紗捌きは、少しは身についてきて、迷うポイントがフォーカスされてきた。悩むのはやはり茶杓に関すること。まず象牙か留節か。行の茶杓といえば漠然と「留節」と思っていたが、正確には「留節」と「元節」とがあり、「留節」にも二種類があるとのこと。留節は節の位置で留めたもので、第一の節で留めたものと、第二の節で留めたものがある。元節は第二の節の山を下りたあたりで留めたもの。あとは、茶杓の清め方、茶を入れたあとの預け方、茶をさばいたあとどのように打つか、あとの清め方など。四ケ伝と台子の点前の詳細をマトリクスにしてまとめておきたい。なかなか攻略が難しい知的ゲーム。


お稽古の帰り道。鴨川ではもう床が出ている。気持ちよい季節、夜のお稽古もよいものです。


鴨川と月。リッツカールトンの前のみそそぎ川には蛍が出ていました。いま家で生けているのは、近所で摘んできたホタルブクロ。鴨川を美しくする会の方には、みそそぎ川にもホタルブクロを植えて、是非光るホタルブクロを見れるようにしてもらいたい。
 ホタルブクロ型の照明器具というのも作ってみたい。前々から思うのは、季節毎にあるいは茶事の趣向に合わせてペンダント照明のシェードを変えるということ。春は梅やサクラ、夏はホタルブクロ、秋はモミジなど、季節に合わせたものに変えるのも素敵。襖の柄や引手も季節のものや茶事の趣向に合わせて変えるというのも面白い。

料亭まつむら

大阪天王寺にある料亭まつむらへ。


天王寺駅から歩いてすぐ。大きなマンションの足下、取り残されたような一角。住友不動産のマンション、あんなに大きな垂れ幕どうしても必要なのかな。


入り口は路地を進んだ奥。マンションが出来たせいか、袋小路になっている。


玄関正面。もともと住友家本家の大阪別邸として建てられたもの。施主は住友家15代当主、住友友純(ともいと)。号は春翠。東山天皇からの家系、徳大寺公純の第六子で、西園寺公望は実兄。住友家十二代、十三代が相次いで死去し、住友総理事広瀬宰平と伊庭貞剛によって後継者に選ばれ、29歳で住友家の養嗣子となった。


漆喰の懸魚。「丸に左違い鷹の羽」の家紋。ちなみに住友の家紋は現在商標にもなっている「菱井桁」。


網入りの照明。


門の欄間と照明器具。


吹き寄せの垂木、凝った腕木。施工は八木甚兵衛。八木甚兵衛は三代にわたる住友家お抱えの大工棟梁。南禅寺の有芳園、百万遍の清風荘(京都大学所有)、石山の住友活機園(伊庭貞剛別邸)、新居浜の広瀬宰平邸などを手がけた数寄の名匠。


門から玄関までのアプローチ。


玄関。設計は日高胖(ゆたか)。野口孫市とともに、住友春翠の美意識を具現化するべく、住友の臨時建築部で茶臼山本邸などの設計にあたった。宝塚には大正十一年築の日高自邸があるらしい。見てみたい。住友の臨時建築部は、その後長谷部竹腰建築事務所を経て、現代の日建設計へと繋がってゆく。



いただいたのは、ひょうたん弁当。一日限定30食。


中はこんな感じ。天ぷらも揚げたてで美味しかった。これで1700円。


受付は元洋室だったよう。天井には中心飾り。残念ながら照明器具はなく、火災報知器が取付られ、蛍光灯が増設されている。


暖炉跡。


建物の見学をお願いすると快く見せていただけた。離れもどうぞ、ということで、ナグリの渡り廊下を渡る。


竹に雀の杉戸。


杉戸の引手金物。


芙蓉の間、内部。窓の組子が中国風。


天井は皮付葭の黒糸編、竿縁はナグリ。


腰は籐網代、円窓にスリガラスの書院障子。


杉戸部屋側は牡丹に蝶。


腰の籐網代詳細。


建具の腰も藤網代。右はおそらく後の補修で竹の網代に変わっている。


洋室の窓硝子には装飾の入ったスリガラス。


廊下のブラケット照明。


廊下突き当たりの坪庭。


坪庭の下地窓。


坪庭のペンダント照明。


廊下のブラケット照明。こちらは松の刳り貫きの装飾。


離れの間の前庭。


邪鬼の石像。


主座敷の縁側。お客さんがいるので主座敷の見学は遠慮した。またの機会にみたい。


芙蓉の間の屋根。


宝珠詳細。


玄関の蹲踞。


吊り灯籠。


塗込められた破風板。



































社中の茶会と葵祭

葵祭当日、息子二人を連れて社中のお茶会へ。長男は久しぶりの二回目、次男は三回目。出かける前に、お菓子を頂き方、お茶の頂き方を教えて、扇子と懐紙をもたせて。社中の茶会は、内輪だけの茶会なので、気軽に子供を連れていけて有り難い。息子達も、割と嫌がらずについて来てくれる。せっかく素晴らしいお稽古場で学ばせていただいているので、息子達にはその雰囲気だけでも体験してもらえればと思う。小六の長男は「まんが日本の歴史」と「中国の歴史」を熟読する歴史好き、利休を通じて日本の戦国時代や、漢詩を通じて中国の歴史にも話題が広がって楽しい。次男はお菓子好き(笑)。まだ六歳ですが、薄茶も好きなようで、ゆっくりながら、すべて飲み干していました。普段畳の部屋で食事をしたり生活をしているので、正座も抵抗はないみたい。これからも、お茶を特別なものとしてでなく、日常の延長として触れさせてゆきたい。


帰り道、鴨川の飛び石でちょっと道草。


気持ちのよい五月晴れ。「五月晴れ」は本来旧暦五月、梅雨の合間の晴れのことのようですが、新暦五月の晴れの日にも使ってよいようです。


河原で石投げ。


帰宅後、子供達は遊ばせておいて、締め切りの迫った仕事を少し進め、一段落したら、北大路へ買い物に出かける。途中ちょっとだけでも葵祭の行列が見られるかなと思ったら、既に行ってしまった後。行列は見られず、ただ混雑しているだけという最悪の事態。すごい人ごみでなかなか前に進まない。


賀茂街道。最後尾がちらっと見える?

カツラとキジバト

朝の散歩。いつものように下鴨神社から高野川、賀茂川へ。


流鏑馬が終わった糺の森の馬場。


朝日を受ける桂の葉。葵祭の時、髪につける飾りは、葵と桂の葉をからませて作ったもので、葵桂(きっけい)と呼ばれます。葵は女性で桂は男性、ヒコホオデミとトヨタマ姫に由来するとも、天にむかってそびえる桂が陽、男性で、地表近くにある葵が陰、女性をあらわすとも。


キジバトのつがい。首にある縞模様がキジバトの特徴。群れているドバトに対して、キジバト(ヤマバト)は単独かつがいで行動。「デデッポッポ」と鳴くのは繁殖期に結婚相手を求めている時、縄張り宣言をしている時。


こちらはいつものドバト(カワラバト)。もともと日本にはいない外来種、一説には飛鳥時代に飛来したとも。平安時代の記録に、「いへばと(鴿)」の語が見られ「やまばと(鳩)」とは区別されていて、1000年以上前から、すでに身近に存在していた。


朝日のなか水草を啄むカモ。


葵橋の下には葵祭の解説展示。


葵橋を渡る行列(路頭の儀)


下鴨神社、牽馬の儀。


葵祭古絵図。鴨社公文所絵所の絵師による絵図。


賀茂祭図屏風。雪堂。下鴨神社を出発した行列が上賀茂神社へ向かうところ。


今年の葵祭はちょうど日曜日。天気予報は晴れ時々曇。





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岩崎建築研究室
岩崎 泰

住宅,茶室,店舗の設計等について
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