2012年02月08日

修学院離宮/上の御茶屋

中の御茶屋の次は、いよいよ修学院離宮のハイライト、上の御茶屋へ。


中の御茶屋の門を出ると雪が降り始めました。


松の葉に積もる雪。


上の御茶屋に続く松並木の道。


登りきったところから振り返るとこんな感じ。


工事中の門を潜ると急な石段。


石段脇の刈り込みはちょうど人の背丈ほど。上がっている途中は景色をみちゃだめよ、という高さ。


上がるとこの景色。写真などで知っていても、やっぱり実際に見ると感嘆の声が上がってしまいます。


隣雲亭。縁側に腰掛けることができます。


赤や黒の鴨川や鞍馬の小石を使った一二三石。


沓脱石。


隅木。ちなみに隣雲亭は延宝年間(1673-80)に焼失し、その跡地に文政七年(1824)に再建したもの。


松皮菱に花菱の透かし、丸太の長押に釘隠し。


四帖の洗詩台。生憎雨戸は開けられておらず雄滝を眺めることは出来ず。江戸初期に描かれた修学院離宮図屏風を見ると、隣雲亭の横に「洗詩堂」と描かれた柿葺き入母屋らしき建物が懸け造りで描かれています。上皇が座られている絵も描かれていて、床は緑色でどうやら畳だったようです。修学院離宮図屏風がどこまで当時の姿を忠実に描いているのかわかりませんが、文政の再建の時には、あまり参考にされなかったよう。出来ればやっぱり上皇の造られた建物が見てみたかった。


柱は根石ではなく、砂利敷きと三和土を分ける葛石の上に乗っている。


洗詩台の手摺。懸け造りだったら、眺めも随分違っただろうなあ。


屋根の見上げ。寄せ棟の屋根と庇の連なり。


捨柱の支える桁と建物本体との間に、もう一本丸太の母屋が渡されて、角材の梁で支えられています。本来なら、いれずにすっきりと納めたいところ。


濡れ縁は、柾板四枚。


雨戸を留める金具?


縁側に腰掛けたときの眺め。


左を向けば京の街が遠くに見えます。


直線的な樋受け。


補修された小丸太の垂木。


垂木が細い。もう少し太い垂木で、梁間をもう少し短くすれば、真ん中の母屋はいらなかったのでは。


入母屋部分の懸魚、鬼瓦。


寄せ棟部分の大屋根と庇はくっついてしまっている。


中の島の見下ろし。千歳橋と舟屋。


三帖と六帖の畳の間と、四帖の板の間。


創建当初の隣雲亭はどんな建物だったのでしょうか。


まるっこい灯籠と雄滝。


浴龍池にせり出す松。


千歳橋。文政七年(1824)に京都所司代の内藤紀伊守が寄進したもの。


楓橋。浴龍池に掛かる三橋(木橋、土橋、石橋)のひとつ。


窮邃亭。宝形造り柿葺き。創建当初唯一の遺構。


葛石の上にのる柱、縁側、三和土。隣雲亭の再建は、ここを参考にしている様子がよく伺えます。それにしても葛石の上にのる柱は、その多くが根継ぎされていました。やはり水が溜まりやすく腐りやすいのでしょうか。こちらの三和土は一二三石になっていないので、隣雲亭の一二三石のアイディアは上皇のものではなく、文政七年に再建に携わった人によるものなのかもしれません。


帯戸のデザイン。


窮邃亭内部。十八帖と附属する水屋一間。


扁額は上皇の直筆。やや横長の八角形を重ね連ねて真ん中を水引で結んだ斬新なデザイン。


直角に折れて畳を一段高くした上段の間。直射日光を浴びた雨戸のヘギ板がほんのり赤く光っています。御肘寄は文政の再建時に追加されたもの。窓からの景色が見たかったあ。


こちらの庇は間に母屋なし。垂木も少し太めかな。やはりこれがあるべき姿のようにも思います。


板に囲われた外観。


菊花紋のある大きな瓦の露盤と切籠形の宝珠頭を載せている。


土橋。欄干は栗のナグリ。


船屋。叶わぬ希望ですが、船に乗ってみたい。


西浜の景色。沈む夕陽も見てみたい。


木々の間から、向こうの街が見える。天上の池。


木々の伸びる中島。


土橋からの眺め。


石船。


手前の直線的な石の部分が船着き場。


中島の腰掛と隣雲亭。


土橋。

後水尾上皇は、造営に際して御自ら陣頭指揮を執られたこの離宮に、八十五歳で崩御されるまでの間、少なくとも年に一回、多い場合は三回も清遊されたとか。今回はとても寒かったですが、ちょっとだけ雪景色が見れました。また季節と時間を変えて訪れてみようと思います。
  
Posted by iwasakiyasushi at 21:49Comments(0)TrackBack(0)建築探訪

修学院離宮/中の御茶屋

修学院離宮の見学、下の御茶屋の次は中の御茶屋です。


下の御茶屋の出口。車門の控え柱の足下。


垂木は吹き寄せ。


門を出るとこの景色。


車門。戸は網代。


松並木の松。明治十六年に宮内省所管の離宮に編入されたときに、道幅を広げて赤松の若松を植えたとのこと。


真っ直ぐな松並木の道。突き当たりが中の御茶屋。


畑の向こうに京の街。


山側は長閑な風景。田んぼ、畑は今でも実際に耕作されていて、リアリティのある農村の景色。


上の御茶屋に続く松並木。


中の御茶屋の門。


竹の木賊張り。なんでこんなに黒くなってんだろ。


扉の腰は網代風に彫り込み。


ツキ鑿を使った栗のナグリ仕上げ。


参観者は脇の戸から。


ゆるやかな階段。櫟の土留め。


直角に左に曲がると、今度は石の土留め。


最後に短い石段を登れば、中の御茶屋の門。


中の御茶屋の門。中の御茶屋は創建当時の山荘には無かったもので、後水尾上皇崩御の後、第八皇女光子内親王(朱宮)が住持して林丘寺となっていたものを、明治十七年に上皇の遺構を皇室に返還して中の御茶屋となりました。


右手前の瓦葺き入母屋の建物が楽只軒、奥の桧皮葺きの建物が客殿。


楽只軒は光子内親王の朱宮御所として最初に建てられた建物で、寛文八年(1668)かその前年の創建とされる。


客殿へ至る小さな石段。


客殿の北側外観。


網干の欄干。たしか白井晟一も初期の作品で写しをしていました。


端部の納まり。切りのよいように割り付けるのではなく、半分とちょっとを端部に持ってくる、というバランスとデザイン。


欄干の束と刳り貫きと、飾り金物。


遠くにちょっとだけ見えた逆波の欄間。


楽只軒の縁側。板は釘打ち付け。


鋭角なデザインの樋受け。


楽只軒の扁額。


正室六帖には吉野の桜、次の間八帖には竜田川の紅葉。狩野探幽の子、探信の筆。


北側は入母屋、南側は寄せ棟、瓦葺きの楽只軒。


楽只軒の南東に接続する客殿。


網干の欄干。割り付けの妙。


客殿の杉戸。祇園祭の放下鉾と岩戸山図、住吉具慶の筆。


鯉魚図。網は円山応挙の後筆。


客殿一の間。張り付け壁には金泥の雲形、腰張りは金箔に群青の菱形文様。客殿の建物は、東福門院が徳川家から入内されたときに造営された女院御所の奥対面所を移したもの。宮殿風な格調と女性らしい華やいだ意匠。


霞棚。桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに天下の三棚と称される。地袋には友禅染張物図に羽子板の引手、中棚の小襖には更紗文様、ブリブリの引手。飾り金具には葵の紋があり、皇室に嫁いだ東福門院の背後にある幕府の権勢を示している。フランスのデザイナー、シャルロット・ペリアン(1903〜1999)はこの違い棚を見ての棚《Nuage》を造ったとか。海外のアーティストがインスピレーションを受けるのも良いのですが、現代の日本人にとっても先達の仕事をしっかりと受け止め、新しい創作に繋げることが重要のように感じます。


織部灯籠。


楽只軒の前の池と客殿。


楽只軒の南縁の沓脱石。


  
Posted by iwasakiyasushi at 20:33Comments(0)TrackBack(0)建築探訪

修学院離宮/下の御茶屋

修学院離宮の見学に行ってきました。修学院離宮の見学をするには、往復ハガキで申し込み、最近はインターネットでも申し込めるようですが、手っ取り早いのは御所にある宮内庁京都事務所に行くこと。朝の散歩をかねて御所に行ってみると、「明後日?はいはい、いけますよ。」ということで、申し込み用紙を記入して身分証明書を提示したら、思い立って二日後の見学、となりました。


表総門。民家の集落の中を抜ける道の突き当たりにある。丸太の門柱の間に竹を縦に並べた扉を付けただけの簡素な造り。桂離宮の表門とほぼ同じ形式。


石垣と木賊張りの塀。延ばされた頭繋ぎ。


扉も木賊張り。


木賊張りは釘二本を見せている。本木賊は釘を見せない納まり。聞いた話によると桂離宮の木賊張りは改修工事の時に慣れない北陸の大工さんがしたらしく、相端合わせに苦労して、結局、建仁寺垣みたいな薄っぺらいものになってしまったとか。色々な事情で、文化財の修復だからといって、すべてが一線級の職人が担当している、というわけでもないようです。ちなみに本木賊については、縄手通りにある川魚屋さんの店内に素晴らしい仕事があります。有名な文化財だから、とか、小さな店だから、といった先入観なく、本物を見る眼を養っていければ、と思います。


受付を済ませたら参観者休所へ。参観者休所は入母屋瓦葺き腰柿葺きの建物。


丸太の桁と柱の交差する捻組。脇の穴は、たぶんイタチの出入り口。


起くりのついた瓦屋根。薄い一文字。


いよいよ見学。まず下の御茶屋から。御幸門。


石段。中央で互い違いに継がれています。


目板の板塀。


御幸門の棟瓦。


花菱模様の透かし彫り。


こちらは寿月観前の中門、七宝の透かし彫り。


門の屋根は杉皮竹押さえ。


御輿寄。寿月観の玄関。


寄せ棟の屋根。松の落ち葉。


見学者の列。


袖型灯籠(鰐口灯籠)の本歌。


蛭釘がついていて、そこに行灯を吊るす。台石は白川石びしゃん仕上げ。他は和泉石タタキ仕上げ。


寿月観は東向きの斜面に建てられていて、南東角には石垣。寿月観は文政七年(1828)に改築されていて、創建当初のものではありませんが、後水尾上皇の好みが残っているとされています。


石垣の足下に立つ朝鮮灯籠。優美な曲線の笠の上には切籠形の宝珠。笠と一体に彫り出されていて、落ちて欠けることがないようにという作り手の思い入れ。また切籠形と言えば、上の御茶屋の窮邃亭の切籠形の宝珠頭を連想させます。後鳥羽上皇は幕府の皇室に対する政治統制に抗しきれず、悲憤から諦観へと達し、その情熱を離宮の設計と実現に費やされたとか。計画の際には設計図はもとより、模型まで自ら造り、一木一草にいたるまで、上皇自ら選んだそうです。壮大なスケールの構想をディテールまでこだわりぬき作り上げる、設計者が目指すべき仕事。


寿月観の石垣。


寿月観、入母屋の屋根。写真では見にくいですが、「蔵六」の扁額。蔵六庵は別棟にあった現存しない建物。蔵六とは、頭、尾、四足の六つを隠し持つという意味で、亀の異称。蓬莱山を背負う霊獣。


櫓型灯籠。白川石びしゃん仕上げ。下の御茶屋には湾曲閣という建物もあったとか。


寿月観の扁額は後鳥羽上皇の宸筆。


一間半の床と、脇床(琵琶床)と飾り棚。


花菱の欄間、丸太の長押、釘隠し。


飾り棚。天袋には鶴、地袋には岩と蘭の絵、原在中(1750〜1837)の筆。


濡れ縁。柾板。


竹の軒樋と木製の樋受け。


光格天皇お好みの杉戸。仙洞御所から移したと伝えられるもので、夕顔の絵で筆者は不明。


七宝の透かし彫りの欄間。


天井は竿縁天井。雨漏りの跡が見える。


柱は面皮。畳は上段の間は紋縁、他は黒縁で、上段横に三畳並べた残り、九畳は畳を長手方向に三列に敷き込み。


沢飛びから続く飛び石。大型の石、派手な配列は、江戸末期の手法。


雨戸は出隅を廻るタイプ。


襖絵は虎渓三笑、岸駒(がんく/1756〜1839)の筆。ちなみに上皇の構想による離宮では、ほとんど襖絵は使用されなかったそうです。


縁先の手水鉢と袖垣。


白糸の滝。

  
Posted by iwasakiyasushi at 17:53Comments(0)TrackBack(0)建築探訪

2012年02月04日

長緒と大海

お茶のお稽古。お軸は備前焼の作家、藤原楽山の色紙、椿の絵と「人生日々新」。備前焼では絵付けはありませんが、それでも絵が上手。お花は伊賀の耳付きに曙椿と柊の葉。

二月は大炉。隣の六帖には大炉が開けられていましたが、二月にあるお茶会でお点前をしないと行けないので、混乱するでしょ、ということで、今日はお茶会に向けて、棚付き薄茶のお稽古。二回目は長緒のお稽古をお願いしました。『嬉遊笑覧』には、「茶壷に口の大きなるを大海といふ、小きを内海といふ。万宝全書にむかし大海は茄子或は肩衝 茶入に一ツヽ添置て、茶臼より大海に茶をうつして後、茄子へも肩衝へも茶を入替るなり、然れば大海は挽溜の器にして、古へより小座敷へは出たる法なし、自然広間書院の台子には飾り置也、宗易作意にて大海を挽溜に用ては、やきものとやきものとあぶなき事なりとて、引ためには吹雪を用ひられしと也。」とあり、大きなものが大海、小さいものが内海で、もともとは茶臼でひいた抹茶を入れておく「挽溜(ひきだめ)」として水屋で使っていたものだったようです。長緒については、一説には戦国時代に使われていた時に、武士同士で毒を盛るという可能性があるので、長緒のような結び方にして、結んだ人しか解けないようにして、毒がいれたかどうかわかるようにした、とのことですが、では肩付の茶入などが短緒なのはどうなのか、という気もします。形態のバランスという点では、扁平な茶入に短緒では、ずんぐりむっくりなので、長い緒にしてバランスを取っている、というのが自然な理由のような気がします。

  
Posted by iwasakiyasushi at 14:38Comments(0)TrackBack(0)お茶のお稽古

2012年02月02日

曼殊院

現在進めている住宅や茶室の計画案を再検討するために、朝の散歩をかねて曼殊院へ。一乗寺まで自転車で行って、そこから徒歩。堀口捨己の言葉より。「創作をやっていると、相談する相手は古典しかないよ。それ以外に、右にも左にも相談する相手はいない、古典だけ。」


武田薬品の薬草園の横の坂道を上がると正面に曼殊院門跡の門。曼殊院は天台宗に属し、代々皇子皇孫が入寺される門跡寺院。明暦二年(1656)に良尚(りょうしょう)親王の時に、御所の近くから、この地に移築。良尚親王(1622〜1693)は桂離宮を造営した智仁親王の子、智忠親王の弟。天台座主を勤めたのち、34歳で曼殊院を移築。後水尾院の設計による修学院離宮は、前年にほど近くに完成していますので、大きな影響を受けているようです。ちなみに同時期に活躍した文化人、芸術家は、茶の湯は千宗旦・金森宗和・小堀遠州・片桐石州・藤村庸軒、生け花は後水尾天皇・池坊専好、文学は烏丸光広など、儒学は石川丈山・林羅山、禅僧では沢庵宗彭、寛永の三筆は近衛信尹・松花堂昭乗・本阿弥光悦、書は角倉素庵・近衛信尋、絵画は俵屋宗達・狩野探幽、陶芸は野々村仁清などなど。寛永年間(1624-1645)を中心とした宮廷文化の華やかな高まりは日本のルネサンス。桃山時代からの文芸復興の動きの完成期。数寄屋建築についても、この時期が一つのピークと言えるように思います。


石垣の角の石の納まり。


曼殊院小書院。屋根は瓦葺きになっていたものを、改修時に柿葺きに。大屋根の下に庇が取り付いた単純なものですが、これほど美しい佇まいの建物も少ないのでは、と思います。学生時代に見た時もなんとなくこの美しさに惹かれましたが、今見てもやっぱり美しい。この美しさを現代の創作に繋げるためにちょっと実測。


縁側に付けられた手摺の高さは、手前が一尺四寸、奥はちょっと低くなって、一尺。地面から縁側の床の高さは約二尺。


桁天は縁側床から七尺七寸。縁側床から敷居天が二寸、内法は五尺八寸、鴨居一寸七分、長押三寸七分、小壁二尺、垂木掛が四寸。縁側の巾は柱芯々で三尺五寸。垂木の出は柱芯から二尺八寸。作図して屋根勾配を求めると約三寸七分五厘。


氷の張った梟の手水鉢。


ユーモラスな梟。


垂木は一寸五分×一寸八分@一尺五寸五分。小舞は一寸二分×七分@六寸五分。


出隅は縁側から外れて独立柱が建っている。


桁は丸太、柱は角柱。


地面からの反射光で照らされる軒裏。


庭木越しに射し込む陽射しが映す格狭間の影。


平たく圧縮された格狭間。


富士山の釘隠し。たなびく雲は七宝。


襖の引手は長方形の角形。


端から桟が一、二、三の、一二三(ひふみ)の舞良戸(勝手に命名)。


起くりのある柿葺きの屋根。


小書院の茶立所。書院へ点て出しの茶を点前するところですが、一帖台目の小間としても使えるよう、床の間や道庫も設けられている。


逆蓮擬宝珠、格狭間の透かし。


道庫。


御座の間の控え室の水屋、丸炉。巾六尺三寸。丸炉面の高さ四寸。開口内法二尺九寸八分。天袋敷居見付一寸三分。天袋内法二尺二寸一分。床から天袋敷居天は三尺五寸五分。引手は襖のセンターではなく、床から四尺五寸。奥行きは柱芯々で二尺。


丸炉の前には障子窓。丸炉の大きさは直径一尺。


丸炉の縁には唐草文様。


簀子部分は巾二尺二寸六分。棚板は九寸×三尺一寸×厚三分五厘。


茶室へは縁側の東側、手摺の切れ目から庭へと降ります。


正方形に丸孔が穿たれた手水鉢。


刀掛け、下地窓。


茶室内部は別途拝観料1000円を支払って見学。撮影禁止なので、いただいた絵はがきから転載。茶室、八窓席は三帖台目。床柱は、はつり目付きの赤松皮付(はつり目付きは珍しい)、相手柱は櫟。床框は真塗り(は小間では珍しいかも)。中柱は桜の皮付、勝手付きに二重折の小さな袋釘。床の間の天井高さは七尺二寸五分と高め。壁は外の光に直接照らされる面は黒色、それ以外は土色室の壁、四面は必ずしも同じ色でなくてもよい、ということ。垂木は、竹と皮付丸太。交互ではなく取り混ぜ。真菰(と説明されましたが蒲葉?)の平天井が点前座から床前まで延長されることや、雲雀棚は織部の手法。連子の上の横長の下地窓は遠州の手法。

  
Posted by iwasakiyasushi at 15:30Comments(0)TrackBack(0)建築探訪

2012年01月29日

和顔

お茶のお稽古。大工さん、植木屋さんも二回目のお稽古。お軸は色紙で「和顔」善光寺の管主の筆。仏教では「和顔施(わがんせ)」という言葉があるそうです。お金や物で人に施しができなくても、和やかな笑顔で人に接していれば、それだけで施しになるという意味。確かにそういう人はいるし、子供の笑顔なんてのも和顔施になるのでしょうか。いつもニコニコするというのはなかなか難しいことですが、それでも他人から見られる表情を少し意識することも必要なのかも。お花は伊賀の耳付きに椿・曙とボケの枝葉。

一回目は、先生から「貴人清次薄茶をしなさい。」突然の指名、久しぶりで記憶は朧げ、でしたが、千鳥茶巾の畳み方や千鳥板の扱いを先生が細かく教えてくださいました。あとは落ち着いてできたように思いますが、思い出してみれば、以前は、特に出来ないお点前の時には、舞い上がって随分緊張しました。最近は、良く言えば、落ち着いて出来る、悪く言えば、緊張感がない?。お稽古場には「初心生涯」の額が掛っていますし、利休百首には「稽古とは一より習い十を知り、十より帰るもとのその一。」改めてお茶への取り組み方、お稽古への向き合い方を考え直さないといけない時期に来ているように感じます。二回目は、筒茶碗を使って洗い茶巾。夏は涼しさを感じるように平茶碗に洗い茶巾、冬は温かさを感じるように筒茶碗で絞り茶巾。


帰り道の鴨川で、早咲きの桜を見つけました。


他の桜も蕾を膨らませています。おそらく今が寒さのピーク。これを過ぎれば、段々と温かくなっていくはず。春の気配が少しずつ感じられるようになってきました。

  
Posted by iwasakiyasushi at 16:46Comments(0)TrackBack(0)

2012年01月26日

鶴林寺/太子堂編

鶴林寺の中でも太子堂は特に美しかったので、別記事でご紹介したいと思います。太子堂は平安時代、天永三年(1112)に法華堂として建立。現存する最古の法華堂。念仏を唱えながら本尊の周りを巡る三昧行(ざんまいぎょう)を行うための仏堂。後に太子信仰の高まりにより、聖徳太子の肖像を内壁に描いたことから太子堂と呼ばれています。一間四方の身舎の四面に庇を設けた方三間の仏堂だったのですが、前面一間通りを付加して礼堂とし、屋根も元の宝形屋根に縋破風(すがるはふ)の孫庇を付けています。


縋破風のツンとつり上がった屋根の下に設けられた入り口の両開き戸は内法五尺五寸でちょっと低め。既存の長押の下に長押を取付けたことによって生じた寸法ですが、小さ入り口はこぢんまりとしたかわいらしい印象を与えます。


柱は大きな面を取った角柱。面巾は一寸七分、柱自体は六寸二分角、平部分は三寸。


舟肘木も大きな面がとってあって、ふっくらとして優雅な印象。


本堂側の濡れ縁は、長手方向に三枚の板で。


細か目に入った垂木の間に柾板の化粧野地板。


垂木にも大きな面がとってあり、先にいくほど細くなりながら、ゆるやかに弧を描いています。


垂木を支える桁も、ゆるやかに跳ね上がっています。


方形のお堂の隅木にかけられて、真っ直ぐ正面に伸びる垂木。


垂木は下端のみ大きめの面取り。


組み物、法華堂であった部分は大斗肘木、礼堂部分は簡素な舟肘木。


隅木の上に板。桁の鼻先は取替可能?


前一間が増築であることを物語る段差。


柱、桁、垂木、と各部材に大きな面が取られて、和様の蔀度とともに全体に柔らかい印象。


増築部分は角柱、仏堂部分は丸柱。


三重塔と太子堂。


東面は建具一枚のみ、あとは板壁の寡黙な表情。


北東から見ると、方形屋根の仏堂。


学術調査中で内部は見学できず。堂内に安置されていた本尊釈迦三尊像は宝物館に移されている。堂内の壁画も平安時代絵画の稀少な遺品。東側壁面に描かれた聖徳太子像は、中世から厨子で覆われ、秘仏扱い。来迎壁(本尊背後の壁)の表裏には九品来迎図と仏涅槃図が描かれているが、黒ずんでいて肉眼では図柄を確認できず、赤外線写真で全貌が確認された、とのこと。


仏堂の隅木や垂木は面取りされておらず、きりっとした表情。


床下はツウツウ。


床板を固定するカスガイ釘。


正面からみたところ。


南からの陽射しで照らされる鼻先。


屋根のてっぺんに載せられた宝珠。


縋破風のラインと宝珠。

  
Posted by iwasakiyasushi at 11:28Comments(0)TrackBack(0)

鶴林寺/全体編

加古川へ行く用事があったので、ちょっと早めに行って、西の法隆寺とも言われる鶴林寺を見学してきました。


川が流れているため、斜めになったアプローチ。


高句麗の僧、恵便法師が物部氏ら排仏派の迫害を逃れてこの地に身を隠しておられたので、聖徳太子は法師の教えを受けるため、この地を訪れ、のち、秦川勝に命じて精舎を建立し、刀田山四天王寺聖霊院と名付けられたのが、鶴林寺のはじまり。


三重塔と石碑。


仁王門。三間一戸の楼門形式。屋根と縁の張り出しがよく、下層は高く、上層は低く、均整がとれて美しい。


門正面に本堂。


縁下には渦を彫った木鼻が出た絵様肘木。室町時代に本堂の細部にならって建てられたものを、江戸末期に大修理、改造されたと思われる。


仁王像、金剛力士。仏教の護法善神(守護神)である天部のひとつ。サンスクリットではヴァジュラダラ。原語は「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」の意。向かって右の阿形像は、怒りの表情を顕わにして、、、


向かって左の吽形像は、怒りを内に秘めた表情を示すものが多いとか。


延べ段は不整形な石を敷き詰めてある。


鶴林寺本堂。室町時代、応永四年(1397)和様・大仏様・禅宗様の折衷様式。桟唐戸を多用する点が特色。本尊は薬師如来。


鶴の文様。彩色のはげ落ちた軒裏。


本堂内部。


格天井。


海老虹梁。


本堂の左右には太子堂と常行堂。写真は向かって左、西にあるの常行堂。常行堂は平安時代初期に比叡山延暦寺に建立されたのを嚆矢としますが信長の焼打ちにより焼失したため、この堂が平安時代後期の建築であり、最も古い常行堂


色斑のある古い瓦。


方三間の仏堂+礼堂を、太子堂と違って、寄せ棟の大屋根の下にまとめてしまっているので、ずっしりとした重量感、安定感はありますが、太子堂のような優美さ流動感はありません。


太子堂、本堂、常行堂、新薬師堂。お堂の連なり。


見学のあとは、せっかく加古川に来たので、「かつめし」。駅前のトンカツ屋さんで。

  
Posted by iwasakiyasushi at 11:10Comments(0)TrackBack(0)