新潟、新発田の清水園へ。

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左は足軽長屋。堀の右側が清水園。

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萱葺の大門。新発田藩主三代宣直の時、寛文六年(1666)に清水谷の下屋敷が棟上げされ、四代重雄の時には江戸より縣宗知が招かれ、庭園が作れられた。縣宗知(あがたそうち/1656-1721)は、遠州流の茶人、上柳莆斎(かみやなぎほさい)の門人で、幕府の御庭方をつとめた。小堀遠州作といわれる庭には宗知の作が多いとも言われる。

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門から中を見る。

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雨落ちに詰められた石。

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中門は藤村庸軒が京の黒谷、淀看の席の入口に建てた門を、新発田に運んだものとのこと。

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書院の入り口。

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繊細な彫刻のある井戸の井筒。

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囲炉裏の間は琉球畳。

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舞台の間。畳を上げると、畳下は春慶塗りになっていて、能舞台として使われたとか。ゆったりとした床の間。

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床柱には鴨居のメチの跡。

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床の間の畳に龍鬚表ではなく普通表が使われているところに、時代の古さあるいはお茶を感じる。

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縁側の掛け込み天井。小舞は一、二の繰り返し。

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欄間は五階菱。

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襖。雪が降っているようにも見えるが、詳細は不明。

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書院の床の間と上段。華美でなく簡素、質実。新発田藩は四代重雄(しげかつ/1633-1708)が、怡渓宗悦(いけいそうえつ/1644-1714)に茶を学んで以来、怡渓派で、十代直諒(なおあき/1799-1858)は特に茶道に傾倒し、怡渓の弟子、伊佐幸琢の流れをくむ阿部休巴に茶道を習い奥義を極め、石州流越後怡渓派を樹立、自ら宗匠となった。「翠濤」と号し、「西の不昧、東の翠濤」とも称されたという。

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相手柱のはつり目。

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シンプルな釘隠し。

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真塗りの框に高麗縁に普通表。

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書院の欄間は五階菱。藩主溝口家の家紋。ちなみホテルオークラの大倉喜八郎も新発田出身で溝口家とは親戚関係にあり、ホテルオークラの意匠にもこの五階菱が頻繁に使われている。

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書院の天板は杉。柱も杉で簡素。

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錆びの出た土壁。

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床柱は節多めの面皮。刳り貫きはケヤキの木瓜。

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左が上段の間、右が床の間。畳は京間サイズ、これも茶の影響だと思うが、東日本の古い建物で、珍しいのではないだろうか。

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一間毎に立つ柱は節だらけの杉、三寸五分角。大名の書院にしては極めて素朴、これも石州の茶の影響なのかもしれない。

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縁先には石畳。

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縁側の柱は四方柾。こちらは時代が下がってからの改修かもしれない。

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令和元年、石州流全国大会のため、書院の畳の総表替えを行ったところ、畳床の端(頭板)に文化十二年(1815)七月十一日総表替えという墨書が発見されたとのこと。清水谷の下屋敷は一度も火災に遭わず、204年間床替えをしていなかったことになる。頭板に残された源年政なる人物については現在調査中とのこと。

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古い記録によれば、書院の腰高障子は、寛文八年(1668)の城内全焼の火災の際、搬出して焼失を免れた城中大書院腰高障子を、当時の藩主重雄は「古きを残さんと思し召して清水谷へ御用い給い」と残したものとのこと。上桟は薄桟になっている。

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書院のガラス障子。ゆらゆらしたガラス。

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シンプルな欄間障子。

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次の間から舞台の間を見る。

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書院の続き間。

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玄関の土間。良い味の出た三和土。

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屋根は葺き替えられているらしいが、高さを抑えた美しい建築。

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石畳。