2007年03月27日

プロへのこだわり・・続

プロと言っても・・・


ホンの形ばかりのプロではあるが、パラパントにも凝ったことがある。
パラグライダーとも言い、長方形のパラシュートのようなものを着け
大空を鳥のように飛び、ゆったりとした景色を楽しめるスポーツの一つだ。
一度はそれを体験してみたいと、誰もが憧れのようなものを抱いているの
ではないだろうか。

20年ほど前になるだろうか、まだ今ほどの人気を博してなく一般的にはそん
なに浸透してはいなかったが、各山用品のメーカーがこれをヨーロッパから
輸入し全国に展開をし始めた。当店も販売をするに当たり、先ずパラパント
を知らなくてはと、早速に身近な者達とあちこちの飛ぶポイントを求めて
熱心に勉強(?)を始めた。最終的にはインストラクターの資格を取り
小さな講習会も開いた。だが、これには大きなリスクもあった。

始まったばかりということで、色んな規約規制等が割と緩やかであったと
思われるが(勿論直ぐにきちんと整ったが・・・)何せ足の着かない高い所へ
未体験の方を案内する訳だし、自分自身も含め怪我、事故等は当然起こり得
る事象で、非常に危険なことでもあった。またその道具としてのパラパント
もかなり高価な物であり、ちょっとやってみたけど「ヤ〜メタ!」と終らせ
てしまえるほど簡単でもなかったので、一般的に浸透させるには相当時間と
労力が必要であった。
趣味の延長ではフォロー出来るべくも無く、大変な気苦労を背負い込まねば
ならず、何より自分自身が怪我をすると「山に行けなくなる」と言うことが
最大の一因となり、パラパントからも身を引くことにしたのだ。
実際に、多数の山仲間が骨折したり事故ったりというニュースを頻繁に耳に
したし、私も大打撲や捻挫で何回となく病院通いをした覚えがある。

それにしても、前回のスキューバ・ダイビングもこのパラパントも実に楽しく
愉快で、体感した者は間違いなく虜になるであろう素晴らしいスポーツだった。
これら空と海のスポーツには、人間の憧れの原点に通じるものがあると感じる
のは私だけだろうか・・・

  

2007年03月26日

プロへのこだわり

趣味が高じて・・・でも結局は・・・


私が「山とスキーの専門店」を始めて今年で丸31年になるが、
当初はゲレンデのスキー用品もばんばん扱っていた。
その頃に気の好いスキー仲間でダイビングをしているT氏が居た。
彼と話しをする内に、元々海の近くで育ち小さい頃は漁師になるのが
夢だった私が、潜水の世界に惹きこまれて行くのは想像に難くない。

単なる趣味としてではなく、やはりプロにこだわった。
即、JUDF(全日本潜水連盟)のインストラクターの資格を取り、用品を
販売しながら講習会を開催するようになり、何人かと一緒に潜った。
それまで経験したことのない海底や湖の中は素晴らしい別世界であった。

その頃、スノーケーリングが一般的に流行し始めており取っ付きも良く、
店のショーケースには厳つい潜水道具が黒光りをしていた。
だが山と海の用品を販売するのはあまりにも両極端であった。
自分自身の山行きも半端ではないので、結局2〜3年でダイビングは
趣味の一つに留まり、本来の山に専念することになってしまう。


・・・・・続く・・・・・


  

2007年03月24日

ちょっと残念・・・

素晴らしき仲間達は暫しの休憩タイム・・・(^^ゞ


残念と言えば、先頃ニュースで知った京都のある事件。
その現場に残された足跡が、軽登山靴等に使用されるソールパターンで
当店でも馴染み深いメーカーの物らしく、警察より聞き合わせがあった。
ナイフに関しては昔から注意の喚起があったのだが、対象になるような
大きな部類は元々扱ってないので、さほど気にならなかったが、今回の
ように普段の生活にも割と浸透している靴が関係あると知り、ちょっと
残念な気持ちが否めない・・・

登山やハイキング等は、無理せず自然に親しむ良い機会だと思うし、健康
にも良く心身ともにリフレッシュ出来る趣味の一つだと思っている私には、
そういう話しを聞くと、「スポーツ=健全」などと考えている訳ではないが、
やはりもっと汗を流し、自然の中に入って行くべきではないかと声を大に
して言いたくなる。(元々大きな声だと外野がうるさい・・・^^;)
昔人間を自負している当方には、何ともやるせない話しであった。

  

2007年03月23日

山のお便り

滋賀在住のTさんより2回めのお便りをいただきました。


         ★  ★  ★    

’07年3月3日(土)に上谷山に行きました。
広野のお寺から歩いて歩いて4時間55分後ついに山頂に着きました。
そのピークに着いた時 上谷山の手書きの標識があったので
ヤッター、ついに登ったぞー、今度こそ滋賀で一番むずかしい山に登ったぞー
そう思いました。そして「ヤッターヤッターヤッター」と何度も何度も言いました。
標識の横に僕も上谷山1197mの標識を付けました。
この下に三角点があるんだろうな・・・と思いましたが、雪を掘り返してでも確認
しようとは思いませんでした。
天気は晴天、360度のパノラマ、しかし景色よりも何よりも上谷山に登れたこと
が、ものすごくものすごく嬉しかった。
広い山頂は僕1人、誰もいなかったので1人ではしゃぎ回りました。
30分休憩して下山しました。下山時、何度も何度もふり返り、上谷山もおそらく
これが最初で最後だろう・・・と思いました。
お寺に着いた時、七面大明神様に「無事下山できました。ありがとうございまし
た。ありがとうございました」とお礼を言いました。
これで滋賀の山は、196座登ったことになります。
 
追伸: 11月4日(土) 滋賀の最北 音波山(オトナミヤマ)873mに行きました。
    ヤブが深くて大変でしたが、何とか三角点にたどり着きました。
 
         ★  ★  ★
  

2007年03月17日

素晴らしき仲間達11

続き・・・

1988年、日本・中国・ネパール三国合同チョモランマ交差縦走時のこと
である。ネパール側(南側)隊長は湯浅さんだった。
第一次隊は交差に成功した。私は第二次隊としてローツェフェースの第3
キャンプで、中国とネパールの隊員と一緒に夜を迎えていた。明日はサウ
スコル第4キャンプ、明後日には頂上の予定であった。その夜、湯浅隊長
と北側(中国側)との交信を傍受した。相手は日本隊総隊長である。
総隊長の「三国合同登山隊として目的を達成した。これで登山を終結する。
ただちに南側も終結に向け撤収しなさい」と言う声が聞こえた。湯浅隊長の
必死に説得する声も流れた。「二次隊は第3キャンプで待機しています。
後3日間の時間を下さい」 
私達の気持ちを代弁するかのように数十分に渡りその説得は続けられた。
交信の内容に耳を澄ませていた私達に、湯浅隊長からの問いかけがある。
「総隊長との交信を傍受していたと思うが、あなた方はどのように考えて
いるのか聞かせてほしい」
「私達が上に行けば隊長に迷惑を掛けます。明日下山をします」
私はすかさず、そう答えた。
この様な形で私のチョモランマは終わった。

何時だったか、教え子のT氏を正座させ叱りつける姿を見たことがある。
ハイハイと小さくなっているT氏を見て感じたのは、厳しいが人の気持ちを
思い遣れる非常に優しい方でもあるということだった。
湯浅さんは、実に素晴らしいリーダーである。  

2007年03月16日

素晴らしき仲間達10

ある出会い

1974年3月大学山岳部リーダー研修会冬山前進基地裏はブナ林の
急斜面である。この急斜面を登り切ると平坦となるが、直ぐにまた
急斜面となり、スキー登行では連続キック・ターンを強いられる。
斜面が緩やかになると、尾根に出てルートは大きく90度左に曲がる
地点が「雪見平」である。この場所は後々何十回も行き来すること
になるが、話しはこの雪見平からの下りのことである。

緩斜面よりいきなり壁状の斜面に踊り込んだ講師がいた。
5〜6mは飛んだであろうか、後は雪ダルマとなって急斜面を転がり
落ちていった。曲がろうと思ったが、意志と行動が伴わず思いがけない
大飛翔になった訳だが、後にも先にもあのような盛大なダイブは、私は
見たことがない。
そのヒーローとはもう一方の師、主任講師の湯浅道男さんである。
1980年と1984年のガウリサンガール遠征で、私はこの湯浅隊長と一緒に
登山をすることになる  

2007年03月11日

素晴らしき仲間達9

ある出会い

1974年5月大学山岳部リーダー春山研修会は、私にとっての
2人の師との出会いの場でもあった。

その1人は松永敏郎氏である。国学院大学山岳部のOBで幾つかの
著書があるが、「空にただよう峰」は氏の集大成である。序章に、
「僕はいま天と地の接する位置に立ち、吹き過ぎる風に身をまかせ
ながら、山々との無言の語らいを愉しんでいる。見はるかす剱、
立山の山稜は一日の残照の中に浮かび、僕の心は、充足した感動の
ま々、悠々とそれに対峙している」とある。
氏の山に対する敬愛の念がひしひしと伝わってくる。
また、山に対する気持ちと同じように、出会った仲間に対しても、
先輩後輩の分け隔てない接し方には、本当に敬服する。
私は今日まで松永氏を師と仰ぎ、山一筋の氏を心から崇拝してきた。
何時の頃からか仲間中では、氏のことを「鬼の松永」と親しみを
込めて呼んでいた。

1994年、インドガンゴドリ山群の日本バギラッティ登山隊が出発の
時を迎えた矢先に、残念ながら氏は身体不調で断念をした。
急遽、私が隊長の代役を務めることになった。


  

2007年03月07日

素晴らしき仲間達8

ある出会い

関西登高会の西前四郎さんに初めてお会いした時、優しそうな方だな
という第一印象を持った。
西前さんはデュプラの詩「いつかある日」に曲を付けた作曲者であるが、
1967年デナリ峰冬季初登頂登山国際隊員としてご存知の方も多いだろう。
そして30年後の1996年に「冬のデナリ」を書き上げ、その本書は登山家は
もとより小・中学生にも理解できる、記録でもあり物語でもある、文学的な
内容になっている。是非一読してほしい一冊である。
草稿中に西前さんから「山本さんどう思う?雪表面の描写で子供に理解して
もらうためには、<堅い雪>か<堅雪>のどっちがいいと思う?」と質問
されたのを憶えている。

残念なことに西前さんは、書き上げた「冬のデナリ」の刊行を目の前にして
急逝された。  

2007年03月05日

素晴らしき仲間達7

ある出会い

早稲田大学山岳部OBの村井葵さんは、1965年ネパールヒマラヤ・ローツェ
シャール山頂まで200mに迫りながら、断念して下山中に突然意識不明に
陥り、以後1ヵ月間、昏睡状態を続けた。村井葵著「幻想のヒマラヤ」に
その時の記録が書き記されている。

彼は当時、登山用具の三大メーカーの一つで大いに辣腕を揮っていた。
その彼の独特なアイデアと閃きから創られた斬新な登攀用具は、後に私の
店でお目に掛かることになる。

  

2007年03月04日

素晴らしき仲間達6

ある出会い

この冬山研修会の初日は私の大失態から始まったが、気持ちを切り替え
先ずは頂上を目指した。
鍬崎山は、時の富山城主 佐々成政が黄金を7つの壷に入れて埋蔵したと
言われる伝説で有名である。

研修会のチーフ・リーダーは元日本山岳会会長の斉藤淳生さんで、私とは
十数年後にナムチャバルワへ一緒に遠征をすることになる。

私と同年代の井上治郎さんは、斉藤さんの後輩で京都大学学士山岳会会員
であったが、1991年中国メイリ・シュエシャンの初登攀を目指し、現地で
キャンプ中に、仲間11人と共に雪崩遭難により亡くなってしまった。

1990年11月だったと思う。井上さんは私の店でLOWAプラ・ブーツを購入して
くれた。「治郎さん、靴買って何処へ行くの?」と私が尋ねると、「実はね、
明日出発や」「え〜?どこどこ?」「メイリ・シュエシャンに行くことにねぇ」
まるで他人事のように話していたのを憶えている・・・