2011年03月11日

友への追悼文

某年鑑誌の一コーナーへ寄せたその一部より。

柳澤氏が1973年4月に文・登・研の専門職員として赴任した同時期に
私も講師の委嘱状を手にし、彼とはそれからは最も多くの時間を山で
過ごすことになり、また最も多くの喧嘩をすることとなった。
喧嘩と言っても研修会のあり方等で、議論が一時間二時間と続くうちに
熱くなり物別れとなるのが常であったが、そんな時に限り彼は職宅に
帰る途中S氏宅に立ち寄り
「山本はこのように言っているがお前さんはどう思う?」
と、意見を求め、S氏もその都度よく付き合っていたようだが、
その後は必ず論理的に反撃をしてきたものだった。
この様な二人だけの「遊び」は、延々と三十数年も続いたのだ。

彼は大町山の会に入会すると、後立山を中心に登り、特に唐沢岳幕岩
に魅せられて新ルートの開拓に汗を流し、何十本ものルートをトレースした。
冬期初登攀として左岩稜や大町ルートがあり、幕岩を訪れるクライマーなら
一度はお世話になるビバークサイト「大町の宿」の名を高めらしめた
のであった。

頼れる岳兄、岳界の大親分と言っても過言ではなく先輩や後輩からも
「柳さん」と慕われていた。
そんな彼との数々の山行にはこんな武勇伝もあった。
唐沢岳幕岩大町ルートの冬期初登攀でのこと。 最終ピッチの1メートル
ハングにアブミでぶら下がっている時、アブミの掛かったハーケンが
じりじりと抜けるのが下からでも見て取れた。
彼は、やおらハンマーを取り出し自分の全体重が掛かったそのハーケンを
叩き込み乗っ越しにかかるが、もう一歩の所でまた元のアブミへと下りて
来た。そしてハーケンが再び抜けかかってくるとハンマーで叩くこと二回
繰り返してオーバーハングを抜けて行ったのだ。
下から大笑いをしながら彼が上部に消えて行くのを見上げていたものだが
このような磊落な一面は彼が愛されて止まない所以を良く表している。
また彼は優秀な山岳画家でもあった。その多くは後立山と剱岳であったが
我が家にも彼の力強い筆跡が飾ってある。きっと今頃は天上でも
キャンバスに向かい合っているのではないだろうか。




再度、中国詞華集の訳書本 隋時代無名詩人の「別れの歌」を。
      <随筆集 別れの歌(福永武彦著)より>
     
   しだれる柳の枝  
  
   葉は緑に 地を掠めてそよぎ

   花は白く軽やかに 風のままに飛び去る

   いつか枝はすべて形見に折られ

   花はすべて尽きる日に

   旅人よ 旅人よ 君は帰るか