2014年04月24日

しばらく投稿遅れます。

2014年04月02日

今書いています。近日中に投稿したいと思います。

2014年01月26日

内村鑑三は日本を代表するクリスチャンで、著書『代表的日本人』は岩波文庫永遠のベストセラーとされていますが、立花隆著『天皇と東大・大日本帝国の生と死』P189によると、内村と嘉納には一高不敬事件に関連して軽い接点があったようです。

一高不敬事件というのはこういう事件。

「内村鑑三不敬事件は、内村鑑三が、不敬を理由に第一高等中学校の教職を追われた事件である。第一高等中学校不敬事件とも。

内村鑑三は、1890年(明治23年)から第一高等中学校の嘱託教員となったが、その年は10月30日に第一次山県内閣のもとで教育勅語が発布された年でもあった。翌年1891年(明治24年)1月9日、第一高等中学校の講堂で挙行された教育勅語奉読式において、内村鑑三が天皇晨筆の御名に対して最敬礼をおこなわなかったことが同僚教師や生徒によって非難され、それが社会問題化したものである。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけなのだが、それが不敬事件とされた。この事件によって内村は体調を崩し、2月に依願解嘱した。

東京帝国大学教授の井上哲次郎が激しく内村を攻撃したことで有名である。日本組合基督教会の金森通倫は、皇室崇拝、先祖崇拝は許されると主張したが、日本基督教会の指導者植村正久はこれを認めなかった 」

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この事件以降、一部生徒が暴徒化し、下富坂の内村邸を訪れてはその住居を襲い、瓦石を投げつけ、玄関に小便し、中には短刀をもって内村を傷害しようとするやからまで出て来たようです。

しかし内村邸のあった近所には講道館があり、嘉納が内村邸の傍をたまたま通りがかったことから、二人に接点が生じることとなったのです。

「諸君!わが輩は内村君とは面識はないが、内村君が真の愛国者であることを知っている。今日偶然ここを通りがかったが、もしも諸君が内村君をやっつけるというのなら、よろしい、わが輩が諸君のお相手をしよう!」

嘉納は口から出任せを言っているのです。内村に会ったことがない嘉納にどうして内村が愛国者であるとわかるのか。

しかし嘉納には嘉納なりに内村を救う十分な動機があったのでしょう。

1自分も学生時代にひどいイジメにあっていたので弱いものイジメが許せなかった。

2嘉納はかようなイジメ問題の本質を日本伝統の自由放任教育のせいだと考えていた。一高校長の木下廣次が始めた学生自治の考え方にも強く反対していたので、その自由放任教育のターゲットにされた内村に同情の念を禁じ得なかった。

3嘉納は三ヶ月間とはいえ一高の校長をしたことがあったので、幾ばくか当事者意識を感じていた。

理由はどうとでも考えられますが、当時、内村鑑三をこのように表立って庇(かば)えた人間というのはほとんどいなかったはずです。だから一高の生徒も誰の目はばかることなくこのような犯罪を犯していたのです。

しかし嘉納は我が身に火の粉が降りかかるのもおそれず、見ず知らずの内村を助けた。



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