Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2004年11月

失敗

 このlivedoorのサイトでさっき日記を書いていて、その画面を保存せずに画像を新しく挿入しようとしたところ、せっかく書いた日記本文が失われてしまった。もう書き直す気力がない。
 livedoorの画面に直接書き込むのではなく、エディタで書いて保存しながら進めないといけない。痛い教訓。

音楽関係の新書2冊

48138147.jpg 11月11日(木)、日本キリスト教団近江平安教会(滋賀県野洲市)で開かれた神学校等人権教育懇談会に出席。礼拝を担当した。帰りにアルプラザの書店で音楽関係の新書を2冊購入。
 大町陽一郎『クラシック音楽を楽しもう!』角川oneテーマ21
 高木裕・大山真人『スタインウェイ戦争──誰が日本のピアノ音楽界をだめにしたのか』洋泉社
 後者は、ニューヨーク・スタインウェイのピアノをめぐる大手楽器輸入代理店との個人の戦い。

第38編

                2004/11/10

  わたしを責めないでください 38:2

1.主よ、怒ってわたしを責めないでください 38:2
この詩編の主題。祈り求めの中心。
この祈りを心に抱いていた人(あるいはこの祈りを必要としていた人)
──ルカ5:17-26(マルコ2:1-12)
この中風の人は体を動かせなかったばかりではなく、自分を責める罪の思いで動けなかった。

2.あなたの矢はわたしを射抜き 38:3
苦しみの生々しい表現。自分の罪が耐えがたい重荷となっている。

3.わたしの願いはすべて御前にあり 38:10
自分の願いを神の前に広げる。
神の自分を差し出し、見ていただく、聴いていただく。

4.主よ、わたしはなおあなたを待ち望みます 38:16
唯一の希望である神。
この詩編は贖い主イエス・キリストを待ち望む。

「人よ、あなたの罪は赦された。」ルカ5:20
イエスはこの人の苦しみを知り、この人がもっとも必要としている言葉をかけられた。それが罪の赦しである。「あなたはもはや自分を責める必要はない。それはわたしが引き受けたのだ」と主イエスは言われる。私たちも洗礼において罪の赦しを決定的に受け、また礼拝ごとに自分の現実を差し出して赦しを受ける。

「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。」エフェソ1:7

聖歌402 罪の重荷をイエスの肩に
 置きてぞ われは やすらわまし
聖歌453 いともかしこし イエスのめぐみ
     罪に死にたる 身をも生かす

シューベルト交響曲第9番「グレイト」

メニューイン
 この数ヵ月はバッハを中心に聞いていた(「聴いていた」と書きたいのだが実際はほとんど仕事をしながらなので「聞」のほうが正確)。自分が死んだときは、通夜の祈りの開始前にミサ曲ロ短調冒頭の「キリエ」をかけてほしい、などと人に言ったりしていた。このキリエは地の底からの祈りである。深い祈りの中から生まれた曲である。

 ところが11月1日に久し振りに三条の十字屋に行ってみたら前田昭雄の『フランツ・シューベルト』(春秋社)があった。発行日は10月30日。出たてである。3日ほどで読んだ。非常に良かった。

 死の少し前に書かれたピアノ連弾曲イ長調のロンド(D.951。「D」はドイチュが作曲順に整理した番号)について、19歳のシューマンが手紙でこう書いているという。

「こんなに静かな嵐の予感、あるいはとてつもない静かな、圧縮された、叙情的な狂気、そしてこんなに全体的な、深い、ひそやかな、エーテルのようなメランコリーと比べられるものがあるでしょうか。」

 シューマンのこの曲への愛には心から共感する。
 ミーファソーミードーラーソー、ラーソファー、ソーファミー…… この単純な音のつながりが天国を映し出している。

 この本のおかげでシューベルトへの関心がふたたび高まってしまった。シューベルトに関する本なら手当たり次第に買いそうな気分だが、幸か不幸かシューベルトの本(日本語の)はそれほど多くない。バッハの本は多すぎてそんなには買えない。

 しばらく前にボックス・セット5枚組で買ってあったメニューイン指揮の交響曲全集を取り出して聞いた。第9番ハ長調、通称「グレイト」(今は数えなおして「第8番」らしいが9番でとおっている)がすばらしい。これも死の年に作曲されたものである。

 冒頭のホルンはとてもテンポが早い。最初は驚いたが、この率直、簡素、端的なのも良い。何か自分で表現できればよいのだが、吉田秀和氏が適切に語っているのでそれを引用する(『吉田秀和作曲家論集』第2巻「シューベルト」)。

「これは大河の流れのように、悠々として迫らず、しかも絶対に後戻りを許さない。こんなに、手垢のついてないきれいな音楽の運びは、この音楽の書かれるまで、かつてなかったものである。」
「枯れ草で蔽われていた野原に緑が芽生えてく……」
「最高の単純さ」
 
 あまりの美しさに心が泣く。

 第2楽章「アンダンテ・コン・モト」はハ調のミの四つの音の繰り返しで始まる。スコアを見ると、第一ヴァイオリンは5小節20回同じ音を鳴らす。進むうちに懐かしさがこみ上げるような気がする。

 第3楽章スケルツォは「目くるめくような転調の戯れ」、終楽章に至っては「芸術の完成」と吉田氏。

 この曲は「天国的長さ」と評され、この言葉はしばしば揶揄の意味で使われるようだが、私はこの長さには必然性があると思う。いつまでもいつまでも終わらないでほしい……

 シューベルトは、自分の作品を理解しない人に向かって主張したり説明したり説得したりはしないだろう。彼はベートーヴェンとは違うのだ(私はベートーヴェンも好きなので誤解のないように)。分かってくれる人が分かってくれればよかった。

 この曲の初演は1939年で、シューベルトの死から11年後である。未完成交響曲に至っては作曲から43年も経ってから演奏された。

 ところでこのボックス・セットの5枚目は、メニューインへのインタヴューである。メニューインはアメリカ在住のユダヤ人と思っていたので、ドイツ語で話し始めたのでびっくりした。ドイツ語はよく分からないが英訳を見ると彼は次のようなことを言っている。

「シューベルトは人類のすべての感情を知っていました。彼は人類と共感しました。しかし自分自身とは折り合いがつかないでいました。」

 第9番については
「これは知的な音楽というのではありません。これは、もろもろの感情と考えを結び合わせる──ちょうど子どもがそうするように。ここには知性と感情の違いはありません。この違い、隔たりに今日私たちは苦しんでいるのです。私たちは聖なるものを持たない。私たちは自分が知っているものしか持たない──数学、計算、科学、……。」

「私たちが<感じる>ものは、知識といったものとほとんど関わりを持たないのです。私たちは、今や聖なるものに触れそれをとおして、<全体的なもの>になることがなくなってしまいました。それが、人類がこのように悲しい状況にある理由です。なぜなら、ひとつの<全体>をつくりあげるのは、聞くこと、聴くことだからです。見ることではありません。」

「シューベルトは控えめな人でした。……彼には不安がありました。なぜなら彼は謙遜な人だったからです。彼は、自分が演壇に駆け上がって人々の前で演説するなど想像もできませんでした。」

 メニューインのヴァイオリンを、私は子どものころ、父がかけるSPレコードでよく聞いた覚えがある。メニューインは過去の人だと思っていたので、最近のしかもシューベルトを指揮したCDを見つけて驚いた。

 彼は、ヒトラー・ドイツへの協力を理由に活動を禁止されていた指揮者フルトヴェングラーの復帰に尽力した。被害者の立場にあるユダヤ人である彼が、ユダヤ人を虐殺したナチへの協力者を援助したのである。メニューインは1999年3月ドイツでなくなった。

モーツァルト「リンツ」

クライバー「リンツ」のジャケット 1週間ほど前に買ってあったDVD、カルロス・クライバー指揮モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」k.425を開封し、初めて見た。
 リンツは私には特別な曲である。今から30年前の1974年初夏、聖職志願を決意したときに出会った曲だからだ。たまたま小澤征爾がテレビでこれを指揮していて、第3楽章メヌエットを「ティーヤン、ティーヤン」とやっていた。この曲は私の新しい人生の始まりを励ましてくれた音楽なのである。

 カルロス・クライバー。この人の名を知ったのはそれほど以前ではない。石原俊主筆の「クラシック・ジャーナル」で特集記事を読み、すっかり気に入ってしまったのだった。
 それで購入したCDの1枚はシューベルトの交響曲第3番と第8番(未完成)。第3番の冒頭の1音だけで感動した。
 カルロス・クライバーは今年7月13日に逝去した。音楽雑誌は彼の特集を組んだ。許光俊氏がMOSTLY CLASSIC10月号でこう言っていた。
「溌剌としていて、敏感で、柔らかで、時には強引で、すぐに機嫌を損ねた。そして、聴き手をうっとりさせてあげる代わりに、愛されることを欲していた。」
 リンツとブラームスの第2番が入ったDVDが例にとって語られていたので、これは何としても手に入れなくてはならないと思ったのだ。

 リンツを指揮するクライバーは実に柔らかい。指示は要所にしか出さず、自分が音楽を楽しんでいる感じ。ある時は指揮棒を手の中に収めてゆったりと過ごしている。何という至福の時間。
 私は聖餐式の司式についてずいぶん指揮者から学ばされてきたが、このクライバーからすると私の司式はいちいち力が入りすぎているようだ。

 ライナーノーツを見ると、このリンツは1783年11月4日にリンツで初公演。何と今日は11月4日。この偶然の一致に驚き、感謝する。
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井田 泉
奈良基督教会牧師
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富坂キリスト教センター・日韓キリスト教関係史研究会主事
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