Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2005年05月

シューベルト 合唱曲「詩編第23編」

 1820年12月作曲 D.706
 フランツ・シューベルト(1797〜1828)は多くの宗教曲を作曲しました。
 これは旧約聖書の詩編第23編(モーゼス・メンデルスゾーンによるドイツ語訳)に曲を付けたもので元は女性四部合唱用です。
 美しく清らかな曲です。

 モーゼス・メンデルスゾーンのドイツ語詩編第23編を直訳に近い形で日本語に移してみました。


神はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主(彼)はわたしを緑の牧場に伏させ
主はわたしを静かな小川にともない
主はわたしの苦しむ魂を生き返らせてくださる。
主はわたしを正しい道に導かれる
その御名があがめられるように。
そしてわたしは死の陰の谷を行く
そのようにわたしは恐れなしに行く。
なぜならあなたがわたしを守ってくださるから。
あなたの杖とあなたの支え
それはわたしにとっていつまでもわたしの慰め。
あなたはわたしのために喜びの食卓を整えてくださる
敵を前に見ていても。
あなたはわたしの頭に油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
救いと喜びはわたしにともなう
この命のある限り。
いつかわたしは憩う、永遠に
そこに、永遠の家に。


1.詩編は旧約聖書の中にある詩歌集。第23編は150ある詩編の中で最も愛されてきたもの。

2.この詩編が作られて数百年の後、「主」はイエス・キリストを指す言葉となった。主イエスが私たちを守り、養い、導いてくださる羊飼い。

3.このドイツ語歌詞で印象的なのは、神を Du(あなた)と呼んでいること。家族、恋人、親しい友人の間でのみこの言葉は使われる。普通の改まった関係では Sie が使われる。私たちも主イエスを、愛する方、慕わしい方、心の安らぐ友として呼ぼう。

4.「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」ヨハネ10:11
「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」ヨハネ10:14


 モーゼス・メンデルスゾーンのドイツ語訳は次のとおりです。 

Gott ist mein Hirt, mir wird nichts mangeln.
Er lagert mich auf grüne Weide,
Er leitet mich an stillen Bächen,
Er labt mein schmachtendes Gemüt,
Er führt mich auf gerechtem Steige
Zu seines Namens Ruhm.
Und wall' ich auch im Todesschattens Tale,
So wall' ich ohne Furcht,
Denn Du beschützest mich,
Dein Stab und Deine Stütze
Sind mir immerdar mein Trost.
Du richtest mir ein Freudenmahl
Im Angesicht der Feinde zu,
Du salbst mein Haupt mit Öle
Und schenkst mir volle Becher ein;
Mir folget Heil und Seligkeit
In diesem Leben nach,
Einst ruh' ich ew'ge Zeit
Dort in des Ew'gen Haus

シューベルト「連祷(諸魂日のための嘆願)」

 シューベルトの「連祷」という名で知られる歌曲の原題は、
Litanei auf das Fest Aller Seelen
「諸魂日のための嘆願」です。すべて世を去った人々のための祈りです。D.343

 原詩はヤコービー (Jacobi)。ヤコービーの元の詩は9節までありますが、フィッシャー・ディースカウは「2節ほどを注意深く選んで歌うにとどめたほうがよい」と言っています(『シューベルトの歌曲をたどって』)。

 英国の若手テノール、イアン・ボストリッジは次の3節を歌っています。
 「シューベルト歌曲集」EMI

 CD付属の西野茂雄氏のものを参考にしながら、できるだけ原文に近いかたちで訳してみました。

1 憩え、平和のうちに、すべての魂よ
  恐ろしい苦しみを経た者
  甘い夢を見た者
  生きることに疲れ、生まれてすぐに
  この世から去った者
  すべての魂よ、憩え、平和のうちに!

2 そして太陽がほほえんだこともなく
  月の下、茨の上で夜を明かした者
  神を、清らかな天の光のうちに
  いつかは顔を合わせて仰ぎ見るであろう
  すべて世を去った者
  すべての魂よ、憩え、平和のうちに!

3 また平和を知らぬまま
  しかし勇気と力のゆえに
  しかばねの満ちた野原の上
  半ば死にゆく世界に送られた者
  すべて世を去った者
  すべての魂よ、憩え、平和のうちに!


 原詩は次のとおりです。 

1 Ruh'n in Frieden alle Seelen,
  Die vollbracht ein banges Quälen,
  Die vollendet süßen Traum,
  Lebensatt, geboren kaum,
  Aus der Welt hinüberschieden:
  Alle Seelen ruhn in Frieden!

2 Und die nie der Sonne lachten,
  Unterm Mond auf Dornen wachten,
  Gott, in reinen Himmelslicht,
  Einst zu sehn von Angesicht:
  Alle die von hinnen schieden,
  Alle Seelen ruhn in Frieden!

3 Auch die keinen Frieden kannten,
  Aber Mut und Stärke sandten
  Über leichenvolles Feld
  In die halbentschlaf'ne Welt:
  Alle die von hinnen schieden,
  Alle Seelen ruhn in Frieden!

シューベルトの弦楽五重奏(D.956)

 かなり前にシューベルトの quintet(弦楽五重奏D.956)のCDを買って何度か聞いたものの、もうひとつよく分からないでいました。

 ところがこの春の初めくらいからまた取り出して聞くうちに、次第に引き込まれるようになってきました。きっかけは、アンスネスによるシューベルトのピアノ・ソナタ21のCDのライナーノーツ(解説文)です。両者の共通性が書かれてあったからです。

 各楽章の印象は……

1. 厳しく、温かく、豊饒

2. 祈り、崇高(見てはならない、人の祈っている姿を見たときに起こる感情です)
  後半にはすすり泣きが聞こえる

3. 終わりの切迫

4. あまりの美しさ。
 あなたは後に良いものを取っておかれた(ヨハネ2:10)。 
 なぜ4楽章になってこのように美しい音楽を書けるのか。美しいことは必然的に宿命的に悲しいことなのか、シューベルトにおいては……


 美しいものはかくまで悲しく、悲しいものはかくまで美しい
──これが曲全体の印象です。

 楽譜に、重要なところをマーカーでしるしをしたりしています。好きなことをして時間をなくしているのですが、これが私にとって生きている!!ことなのです。生きることを失えば説教はできなくなり、礼拝はルーチン・ワークになるでしょう。

アンスネスによるシューベルト「ピアノ・ソナタ第21番」

 今日(2005年3月13日)、JEUGIAでアンスネスという人のシューベルト最後のピアノ・ソナタ(第21番変ロ長調=B Dur、D.960、輸入盤)を買いました。『レコード芸術』で紹介されていたものです。



 寝ころんで聞いていたのですが、第1楽章の終りのほうのあまりの美しさに涙が流れました。



 このどうしようもない世の中と……と自分の抑圧も濁りも怒りも不満も、すべて洗い流されていくようでした。



 第1楽章、第2楽章は、音楽が響いている限りはこの世に天からの光を受けてとどまっていられる感じ。第4楽章になると、シューベルトは天国に向けて駆け抜けていったという気がしました。



 この曲を完成させて2ヵ月もならないうちに、シューベルトは世を去りました。



 ピアニストのレイフ・オヴェ・アンスネスは、1970年にノルウェーのカルメイで生まれ、ベルゲン音楽院でチェコ人の教授、イーリ・フリンカに師事したとのこと。



 詳しくは→

http://www.toshiba-emi.co.jp/classic/artists/andsnes/profile.htm




バレンボイム/サイード『音楽と社会』

 バレンボイムとサイードの対談『音楽と社会』(みすず書房)を読み、非常に教えられ、また共感しています。

 ダニエル・バレンボイムはユダヤ人でピアニスト、指揮者。エドワード・サイードパレスチナ人の文学者(2003年9月に逝去)。

バレンボイム
「指揮者になろうと決めたその日から、人に好かれたいという自然な本能は捨てなければならない。何か個人の主張をしようとすればそのとたん、一部の人々とは調和するが、他の人たちとは不協和音を奏でることになるのは当然だ。物議をかもすことがないのは平凡な意見だけだと思う。だが、今日の世界では「物議をかもす」というのはほとんど悪口になっている。『彼は物議をかもす人物だ』ってね。」

サイード
「彼らが言いたいのは、この人物は、自分たちが至上の目的としている『現状維持』を邪魔するやつだということなのだ。」

バレンボイム
「芸術的な創造が今日これほど重要な理由の一つは、それが無難であることの対極に位置するものだからだと思う。」

サイード
「人を気持ちよくさせるだけのようなものを書いても、何の意味もない。……提起すべき疑問があり、問題にすべき態度がある。」

 バレンボイムはフルトヴェングラーをとても尊敬しているようです。オーケストラ各人の固有の響きを奪う権力的指揮(およびみずから指揮者の奴隷となってしまう楽員)を強く批判しています。

 サイードが亡くなったとき、バレンボイムはこう書いたそうです。

「パレスチナ人は自分たちの願いをこのうえなく雄弁に擁護してくれる人物を失いました。イスラエル人は公正できわめて人間らしい相手を失いました。わたしは心の友を失いました。」

フルトヴェングラーとカラヤン

 日本語に訳されたヴェルナー・テーリヒェンの本は次の2冊です。いずれも音楽の友社。
『フルトヴェングラーかカラヤンか』
『あるベルリン・フィル楽員の警告──心の言葉としての音楽』

 ベルリンフィルの元ティンパニー首席奏者テーリヒェンが、フルトヴェングラーを強く支持した後、第二の著書で名前は明示しないもののおそらくはカラヤンのことを痛烈に批判しています。

 テーリヒェンは、人間とって何より大事な心の問題が踏みにじられている現代のありさまを鮮明にえぐっていてとても刺激されました。

 「自分の響き」がいかに大事であるか。モーツァルトは浪費癖があったと非難されるけれども、「それは自分の響きになるからいいのだ」と。私の浪費癖?も擁護してくれているようです。

 私にはCDを聞いてもまだよく分からないのですが、テーリヒェンによれば、カラヤンはこの上ない美しい響きをつくりながら人を不自由にし奴隷化する指揮であり、フルトヴェングラーは人を自由にする指揮だそうです。テーリヒェンは非常に厳しくカラヤンを拒否します。「人間蔑視」とまで言います。

 テーリヒェンは実際は長年にわたってカラヤンに協力しつくしてきた人です。
 カラヤンがあまりに大音量を要求するので、自分のティンパニーから自分の耳を守るために耳栓をしなくてはならなかったとか。

指揮者と司祭

 2004年12月5日、モーツァルトの「レクィエム」を聞いて感じたことのひとつは、自分が司祭職にあることをありがたいこと、光栄あること、充実として感じたことです。オーケストラ、合唱、指揮者を聴いて見ていてそういう気がしたのです。

 このところ音楽に凝ったせいで指揮者の本をかなり読みました。それで思うのは、司式司祭は指揮者と共通しているところがあるということです。指揮者は声を出さず、音も出しませんが、司式者は声を出し通しで、説教までしますので、指揮者兼ソリスト(協奏曲の「弾き振り」)以上に役割は大きいものがあります。

 指揮者には大きくふたつのタイプがあるそうです。強い力でオーケストラを統率し、自分が求めるところに従わせるものがひとつ。もうひとつは、自分のイメージを持ちながら楽員それぞれから固有の音を引き出すようにし、同時に全体の調和をつくっていくタイプ。

 前者の典型はカラヤン、後者の典型は(意外にも?)フルトヴェングラーだそうです。これはベルリンフィルの元首席ティンパニー奏者テーリヒェンという人が数十年の経験から詳細に論じています。

 テーリヒェンによれば前者は現代文明の致命的な病を示しており、世界が救われるには後者しかないというような趣旨を述べています。

 これでわたしはすっかりフルトヴェングラーのファンになりました。司祭はフルトヴェングラー的であるべきだと思うのです。イエスのリーダーシップはまさにこれであったと思います。自分の方針をしっかり持っていてそれを貫くと同時に、一人ひとりの固有性を発揮させるように助け促し、全体の協力関係をつくっていく。

 礼拝、特に聖餐式(ミサ)の司式者として、指揮者から学ぶものが多くあります。

 神学教育に取り入れるべきものの大切なひとつは、「メンバーシップとリーダーシップ」だと思うようになりました。教師をやっているときはここまで明確でありませんでした。

 今日の司祭職は危ういものになっているのではないかという気がしています。司祭職に生き甲斐と喜びを持てるようにしたい(なりたい)のです。

 神さまのメッセージを伝えることと、人の現実を神に伝えること。これを聖餐式を中心に担うのが司祭職です。

 司祭職の理解には、旧約聖書の祭司職から学ぶことと、さらに重要なのはイエス・キリストの司祭職を知ることが必要です。教会はイエス・キリストの司祭職を継承する。教会全体に託された司祭職を具体的にひとつの形をもって表現するのが<按手された司祭>ということになります。

 主イエスのいのちと死とよみがえり(聖歌289)を職務をとおして経験させていただくこのような素晴らしい職務に召される人が増し加えられることを願います。

モーツァルト「レクィエム」

 2004年12月5日(日)、教会委員会の後、モーツァルトのレクィエム(死者のためのミサ曲)を聴きに行きました。前夜突然チケットをいただいたのです。京都コンサートホール。何と今日がモーツァルトの逝去記念日でした。彼はこの曲を自分の死を意識して書いたと思われます。

 大学4年の時、友人からモーツァルトを吹き込まれました。私のモーツァルトのイメージを一変させたのがレクィエムでした。絶望の淵からの切なる祈りを感じ、それまで「明るく軽やかな」としか思っていなかったモーツァルトがまったく違う姿で立ち現れました。

 12月5日のコンサート。
 前半は重い曲が続きます。このようにソロがバス、テノール、アルト、ソプラノの順に立っていくのかとか、コントラバスは体全体で弾いているが力がいるの
だろうかなどと思いながら過ごしていました。

 少しまどろんで(前夜寝たのは午前3時半)、サンクトゥスからベネディクトゥスで天国の明るみに入りました。以前からベネディクトゥスがとても好きです。

 弟子のジュスマイヤーがつくったこのあたり(モーツァルトはレクィエムを完成できずに死に、ジュスマイアーが補筆しました)はダメだとこき下ろす人がいますが私はそうは思いません。本物を聴いていっそうすばらしいと感じました。

 しばらく天国の光が射した後、アニュス・デイで一転しました。「神の小羊、世の罪を除く……」で感動して涙が流れました。洗礼者ヨハネがイエスを見てこの言葉を発したとき(ヨハネ1:29)、彼はやがてイエスが流される血を見ていたのでしょう。

 そして終曲。冒頭と同じ旋律のこの曲は、救われていない(かのように思われる)者の切なる祈りですが、この祈りをイエスが、救われていない者の場所に立って祈っておられるように感じました。

 モーツァルトのレクィエムは永遠の恵みの光を直接感じさせる曲ではないと思いますが、その恵みから離れたように思われる場所にイエスが立っていてくださるがゆえに、このレクィエムの調べもまた天国をあらわしていると理解しました。

エゼキエル書第4講 怒りに燃える心

                   2005/05/17

略年表

 622 ヨシヤ王の宗教改革
 597 バビロニア帝国による第1回バビロン捕囚(エゼキエルもその中にいた)
 593 エゼキエルの召命(「エゼキエル」は「神は強めたもう」の意味)
 587 エルサレム陥落、神殿破壊、ユダ王国滅亡
 586 第2回バビロン捕囚

1.「大地よ」 エレミヤ22:29

「大地よ、大地よ、大地よ、主の言葉を聞け」
 エゼキエルとほぼ同時代に、エルサレムで活動したのがエレミヤ。「大地よ」という言葉を3回も叫ぶのは何ゆえか。

 「地」「大地」は、一方で、神に背き無実の人を虐げてみずから滅びようとする人々の住む所であり(9:11-12)、他方では、罪なき人の血を受けたことによって苦しむ人々の嘆きを知っている存在である(創世記4:10、エレミヤ4:28)。
 「大地」は相反する二つのイメージを持つ。大地は神への背きの象徴であるとともに、エレミヤの嘆きに共感・共鳴してくれるはずの存在でもある。エレミヤは人々に「神に立ち帰る」ことを願い求め、その結果憎しみを受け、迫害された。

 エレミヤは神の民イスラエルに臨もうとする悲劇(国の滅亡と外国への強制連行)を予見し、それを告げざるを得なかったが、そのことは耐えがたい苦しみであった。その中からはらわたを裂くようにして発せられたのが、 3回繰り返される「大地よ」の訴えである。

 預言書を読むことは、このような真実の人の悲しみに触れ、呼びかけを聞くことである。

 エゼキエルは、はるか東の異国で、このエレミヤの慟哭を聞いた。

「鎖を用意せよ。この地は流血の罪に満ち/都は不法に満ちているからだ。」エゼキエル7:23
「それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。
 わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。」37:12
 「墓を開く」の預言は、イエスの死に際して実現した(マタイ27:51-52)

 預言者は過去と現在の人々の罪を指摘しながら、なお将来の救いを告げる。
 このように、エレミヤ、エゼキエルは深いところで通じ合い、響き合っている。


2.「額も硬く心も硬い」 エゼキエル3:7

 神の言葉を聞こうとしないかたくなな人々、反逆の民に、なお語るべき使命を神はエゼキエルに与えられた。
 神はエゼキエルを強くされる。人々が反逆するからといって、たじろいではならない。


3.「すべての言葉を心におさめ、同胞のもとに行き、言いなさい」 3:10-11

 「主なる神はこう言われる。」これが預言者の務めであり、また今日の教会・聖職の務めでもある。


4.「霊がわたしを引き上げた」 3:12

 エゼキエルがケバル川のほとりでうずくまり、また神から言葉を受け、使命を授けられる時は終わった。使命を果たすために今や彼は出発する。しかしそれを
実行する主体は神の霊である。


5.「苦々しく、怒りに燃える心」 3:14

 この社会の現実、この人々の背きと虐げの現実に対して憤りを激しく感じる。これがエゼキエルの預言者としての出発にあった。
 容認すべきではない社会の現実を直視するところから生じる怒り。
 悪しき現実に直面して怒ることは、不信仰なことではなく、信仰的なことである。
 神の憤りがエゼキエルの中に燃える。彼の心と体において神の憤りが(しかし実は愛が)うずく。

「主の御手がわたしを強く捕らえていた。」
 エゼキエルは神によって保たれている。

「茫然として」3:15
 事態のあまりのひどさにどのように関わり合えばいいのかわからない。


6.「イスラエルの見張り」3:16

 茫然自失の中にあったエゼキエルに対して、神はより具体的にエゼキエルの使命を明確に示される。悪人への警告責任である。


7.イエスの中に燃えていたのも同じ憤り

 貧しい人々の犠牲の上に成り立っている当時のエルサレム神殿の宗教をイエスは許せなかった。宮清め ヨハネ2:13

マルコ3:1-6
 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

エゼキエル書第3講 巻物を食べる

                   2005/04/19

1.「反逆の家」 2:5、6、7、8

 エゼキエルが神から派遣されるのは「恥知らずで、強情な人々」(2:4)、「反逆の家」である。
 「神の家」であるはずのイスラエルが「神への反逆の家」になってしまっている。
 エゼキエルは厳しい覚悟を求められる。しかし「恐れてはならない」(6)。
 神がエゼキエルを遣わされるのは、神がイスラエルを見捨てておられないから。


2.「わたしが与えるものを」 2:8

 神はエゼキエルを遣わすにあたって、必要なものを与えられる。使命を与える方は、その使命を行う力を同時に与えられる。

 イエスが弟子たちを派遣されるときも同じ。
 「イエスは十二人を集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり……」ルカ9:1-2


3.「見ていると、手が……」 2:9

 <神ご自身が><具体的に>働かれる。エゼキエルはそれを見つめている。
 私たちは、神が働かれるのを待って見ている時間が必要。全部を自分で背負い込まないようにしよう。


4.「巻物──表にも裏にも文字が」 2:9-10

 長い歴史の中で嘆き、苦しみ、祈ってきた人々のおびただしい言葉を神は記憶し、記録しておられた。神はそれを巻物にしてエゼキエルの前に差し出される。
 神は巻物を開き、これらを自分のものとするように彼に求められる。


5.「食べなさい」 3:1

 神はその巻物を食べて自分のからだの一部としてしまうことをエゼキエルに命じられる。巻物を飲み込むとき、彼はそれに記された人々の嘆きと悲しみを自分
のものとすることになる。こうして昔の人の呻きがエゼキエルの中で呻き、過去の人がエゼキエルの中で生きることになる。

→これは新約聖書に通じる。コリント 4:10
「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体現れるために。」
 イエスの苦難が私の中に生きて働き、イエスの命とわざが私たちを通して現される。


6.「行って語りなさい」3:1

 エゼキエルは、食べた巻物を自分の中に留め置くばかりではなく、「行ってイスラエルの家に語る」ことを神から命じられる。
 人々の記憶から忘れ去られ、あるいは消し去られた苦難を負った人々の歴史を呼び覚ますことが預言者の使命。

→戦争体験を風化させず、平和への願いと決意として再生させることが今の私たちに必要。


7.「食べると、蜜のように甘かった」 3:3

 人の嘆きを食べさせられるのであるから、苦く苦しいはずであるが、しかしその巻物は、嘆く人々とエゼキエルを愛される神の愛のいのちが形となったもので
あるから、甘かった。

 神の巻物を食べたエゼキエルの中に、神の思いと言葉、人々の思いと言葉が宿った。神とのいのちの交流、苦しんできた人々との交流はエゼキエルを力づけ、生かす。


8.私たちにとっての神の巻物

<聖書>
 私たちにも神の巻物──聖書が差し出されている。それを食べて自分のいのちとするように神は促しておられる。

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」
マタイ3:4
 イエスは、神の言葉、聖書の一つ一つの言葉を食べて生きておられた。それはエゼキエルと同じであり、その徹底である。神の言葉はイエスを生かす甘いいの
ちであった。同時にそれは、人々の苦難を自分のものとすることであった。

<聖餐>
 私たちも、神から手を差し伸べられて、受けて食する。いただくのは主イエスのいのち。
 聖餐を受けるのは、イエスの願いと祈りといのちが私の中で生きるため。

 礼拝は神の言葉と霊をいただき、同時に人々の嘆きと祈りを自分のものとする
場(祈りと代祷)

 私たちも聖餐において神の巻物(いのち)を差し出されて受けて食べる。そうして主イエスが私たちの中で、私たちをとおして生きて働かれるようになる。

エゼキエル書第2講 「自分の足で立て」

                   2005/02/15

聖歌増補版8「神の息よ」

1.彼はわたしに言われた 2:1

 神は語りかける主体である。
「神について」考え語ることは大切だが、それ以上に「神が語られる」ことに耳を傾ける姿勢が信仰の根本。神は漠然とではなく、具体的に、それぞれの事情の中にある私(たち)に対して語りかけられる。


2.「人の子よ」 2:1

 これは人類一般や、後に「メシア(救い主)」の意味で用いられる「人の子」ではない。
 「アダム(アダマ=土)の子」、危うく、はかない、死すべき者という意味合い。神は私たちが立派であることを前提にしておられない。私たちのありのままの姿を受け入れつつ神は語りかけられる。


3.「自分の足で立て」 2:1

 神は倒れ伏しているエゼキエルにこう命じられる。「自立すること」、人に合わせて様子をうかがうのではなく、自分で考え判断し行動する「主体的に生きる
者となる」ことを神は求められる。
「主体性の喚起」──神は私たちのうちに主体性を呼び起こされる。


4.霊がわたしの中に入り 2:2

 自立を求められてもそれができないエゼキエルの中に神の霊が入る。
 神の霊がエゼキエルを自分の足で立たせる。
 神の霊は私たちに注がれ、私たちの中に入り、私たちの中で生きて働く。
 聖霊は私たちを自分の足で立たせ、主体的に積極的に生きる者とする。
 このことは日本のキリスト教が長く見失ってきたこと。

 聖霊は人間の力の限界を乗り越えさせる。
 神の<霊>と<言葉>。この両者が大切。


5.主イエスと神の霊

 神の霊は洗礼の際に主イエスに注がれた(マタイ3:16)。
 神の霊は40日の荒野の試みにおいてイエスを<聖書の言葉>と共に守り支えた(マタイ4:1)。
 復活のイエスは弟子たちに聖霊を吹きかけられた(ヨハネ20:22)──自立できない弟子たちを自立させる。

 40日の試練の後、イエスは「“霊”の力に満ちて」ガリラヤに帰られた(ルカ4:14)。

 そしてナザレでの会堂礼拝でイザヤの巻物を開いて「主の霊がわたしの上におられる」と朗読されたとき、そのとおりのことがそこで起こった(ルカ4:18)。


6.礼拝は神の言葉と霊をいただく場

エゼキエル書第1講 ケバル川のほとり

                      2005/01/18

聖歌472「幻を見る」

略年表(BC)
1000 ダビデ王即位
 922 イスラエル王国の分裂(北・イスラエル/南・ユダ)
 722 アッシリアにより北イスラエル王国滅亡
 622 ヨシヤ王の宗教改革
597 バビロニア帝国による第1回バビロン捕囚
 593 エゼキエルの召命(「エゼキエル」は「神は強めたもう」の意味)
 587 エルサレム陥落、神殿破壊、ユダ王国滅亡
 586 第2回バビロン捕囚

1.ケバル川のほとり

「ケバル川」はユーフラテスの支流(運河)
 第1回バビロン捕囚の民(約3000人と言われる)の中にエゼキエルはいた。彼は祭司ブジの息子。祭司になるための訓練を受け、自分もその希望を抱いてきたが、異国に連行されて捕囚の身となり、失意のうちにあった。神の臨在の場所と信じられたエルサレムから遠く離れた異国での望みなき現実。川辺で祈り、うなだれていたエゼキエル。

「第三十年」はおそらくエゼキエルの三十歳のこと。これは本来なら祭司に任職されるはずの年(民数記4:1)。しかし彼は思いもかけず預言者として召される。主の新しい働きの開始。

2.「神の幻を見た」(神の顕現に接した)1:1

「神の幻」(視覚)1:1、「主の言葉」(聴覚)1:3、「主の御手」(触覚)1:3
「わたしが見ていると」1:4
 「激しい風」「火」「光」
 エゼキエルは神の現れに圧倒されている。ひとつひとつの幻の理解、解釈は必ずしも必要ではない。

3.注目される三つの言葉

 「人間のようなもの」1:5、8、10「人間のように見える姿をしたもの」1:26
 「霊」1:12 神の霊が動き、動かす
 「全能なる神(の御声)」1:24

 これは「三位一体の神」(人となった神=イエス・キリスト、聖霊、全能の神)につながる。

4.「恐ろしかった」1:18

 不可解な恐ろしい幻の中で次第に何かがはっきりしてくる。
 →「これが主の栄光の姿の有様であった。」1:28
 エゼキエルはひれ伏す。

 しかしここから、神の呼びかけが始まる。
 神をおそれ、ひれ伏したエゼキエルに、神は働きかけ、彼を預言者として任命する。

○同じことが、イエスの弟子たちにも起こった。ルカ5:8‐11
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