音楽はなくても生きられる。しかし、もし仮に音楽を失ってしまったとしたら、私にとってそれが「生きている」人生と言えるかどうか。
音楽がいつからどのようにして自分の中で位置を占めるものとなったのか、思い出すままに綴ってみたい。
幼い頃から私の周りには歌があった。「ゆうやけこやけの赤とんぼ……」「ねんねこさっしゃりませ……」「春は名のみの風の寒さや……」……。その多くは母から私の耳に、そして体に入ったものである。
父はよくレコ―ドをかけていた。SPの重いレコ―ドである。蓄音機は手巻き。あるとき父の知人が来て、ハンドルを巻きすぎてぜんまいがちぎれてしまった。「大前さんが回しすぎて蓄音機をこわした」。気の毒にその「大前さん」はずっと「こわした人」として記憶された。
木製の棚があり、そこにはぎっしりとレコ―ドが入っていた。やがて私ひとりでもレコ―ドをかけるようになった。引き出しを開け、紙袋から盤面に触れないようにレコ―ドをそっと取り出し、タ―ンテ―ブルに載せる。回転しているレコ―ドの縁に針をそっと下ろす。針が溝に落ち、しばらくしてから最初の音が鳴るまでの緊張感。サラサ―テの「ツィゴイネルワイゼン」、クライスラ―の「愛の喜び」「愛の悲しみ」などのヴァイオリン曲が私の心に渦を起こした。メニュ―インというヴァイオリニストだった。
私は歌が好きでよくひとりで歌っていた。しかし特にうまかったというわけではない。小学校の三?四年くらいの時だったか、学年で選抜して合唱隊を作ることになり、ひとりひとり歌わされた。今ならオ―ディションというのだろうか。「秋の夕日に照るやまもみじ……」。私は受からなかった。
小学校六年の時の音楽の先生には面白くない思い出がある。合唱曲をやっていたとき、「主旋律以外は飾りだ」とか言われて、腑に落ちなかった。「あまり価値がない」というように聞こえたのである。先生の意図は違ったのかもしれない。
中学に入ってからだったか。時折「音楽鑑賞」の時間があった。音楽室の大きな装置でレコ―ドを聞かせてもらう。これが楽しみだった。最初に心を奪われるほど感動したのはメンデルスゾ―ンのヴァイオリン協奏曲だったと思う。ミ―ミミ―ドララ―ミドシラファラミ―……。この世にこんなに美しいものがあるのか。甘く切なく悲しく幸福だった。
中学のときにソニ―からテ―プレコ―ダ―なるものが発売され、家で買ってもらったときの興奮は今でもよく覚えている。オ―プンリ―ルと言ったか、カセット型ではなくて、左のリ―ルから右のリ―ルに磁気テ―プを巻き取っていくタイプである。ラジオの前にマイクを置き、息を凝らして静寂を保ちながら音楽を録音する。だれかが戸を開けて入ってきたら台無しである。
やがてテ―プレコ―ダ―もカセットの時代になり、ラジオから直接録音できるようになった。メンデルスゾ―ンのヴァイオリン協奏曲はすり切れるほど聞いた。聞きながら「指揮」をしていた。大学に入ってからはLPのレコ―ドを買い、宝物のようにして聴いていた。アイザック・スタ―ンのものだった。耳になじみ体がおぼえていた演奏とは違い、従来の「指揮」とは合わず、演奏者によってずいぶん違うものだと分った。
しばらく前に読んだエッゲブレヒトの『ヴァイオリンの巨匠たち』(アルファベ―タ、二〇〇四)の中にこの曲に関して次のような記述があった。
「リクエストに応えて気軽に弾かれることの多いこの曲を、スタ―ンはこの曲本来の壮大さ、美しさ、そして、痛ましい事件のなかで奪われた何千人もの尊い命への鎮魂の思いを込めて歌い上げている。」
一九六八年、ソ連の戦車がチェコの民主化を踏みにじった「プラハの春」の際の演奏のことである。
