Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2005年10月

音楽の思い出(1)

 いま私の頭の中にはシュ―ベルトの即興曲D.九三五(作品一四二)の第一番ヘ短調が鳴っている。いつの間にか低音が旋律を奏で、高いところで音の粒々がきらきらと輝きながら舞い上がり舞い降りる。

 音楽はなくても生きられる。しかし、もし仮に音楽を失ってしまったとしたら、私にとってそれが「生きている」人生と言えるかどうか。

 音楽がいつからどのようにして自分の中で位置を占めるものとなったのか、思い出すままに綴ってみたい。

 幼い頃から私の周りには歌があった。「ゆうやけこやけの赤とんぼ……」「ねんねこさっしゃりませ……」「春は名のみの風の寒さや……」……。その多くは母から私の耳に、そして体に入ったものである。

 父はよくレコ―ドをかけていた。SPの重いレコ―ドである。蓄音機は手巻き。あるとき父の知人が来て、ハンドルを巻きすぎてぜんまいがちぎれてしまった。「大前さんが回しすぎて蓄音機をこわした」。気の毒にその「大前さん」はずっと「こわした人」として記憶された。

 木製の棚があり、そこにはぎっしりとレコ―ドが入っていた。やがて私ひとりでもレコ―ドをかけるようになった。引き出しを開け、紙袋から盤面に触れないようにレコ―ドをそっと取り出し、タ―ンテ―ブルに載せる。回転しているレコ―ドの縁に針をそっと下ろす。針が溝に落ち、しばらくしてから最初の音が鳴るまでの緊張感。サラサ―テの「ツィゴイネルワイゼン」、クライスラ―の「愛の喜び」「愛の悲しみ」などのヴァイオリン曲が私の心に渦を起こした。メニュ―インというヴァイオリニストだった。

 私は歌が好きでよくひとりで歌っていた。しかし特にうまかったというわけではない。小学校の三?四年くらいの時だったか、学年で選抜して合唱隊を作ることになり、ひとりひとり歌わされた。今ならオ―ディションというのだろうか。「秋の夕日に照るやまもみじ……」。私は受からなかった。

 小学校六年の時の音楽の先生には面白くない思い出がある。合唱曲をやっていたとき、「主旋律以外は飾りだ」とか言われて、腑に落ちなかった。「あまり価値がない」というように聞こえたのである。先生の意図は違ったのかもしれない。

 中学に入ってからだったか。時折「音楽鑑賞」の時間があった。音楽室の大きな装置でレコ―ドを聞かせてもらう。これが楽しみだった。最初に心を奪われるほど感動したのはメンデルスゾ―ンのヴァイオリン協奏曲だったと思う。ミ―ミミ―ドララ―ミドシラファラミ―……。この世にこんなに美しいものがあるのか。甘く切なく悲しく幸福だった。

 中学のときにソニ―からテ―プレコ―ダ―なるものが発売され、家で買ってもらったときの興奮は今でもよく覚えている。オ―プンリ―ルと言ったか、カセット型ではなくて、左のリ―ルから右のリ―ルに磁気テ―プを巻き取っていくタイプである。ラジオの前にマイクを置き、息を凝らして静寂を保ちながら音楽を録音する。だれかが戸を開けて入ってきたら台無しである。

 やがてテ―プレコ―ダ―もカセットの時代になり、ラジオから直接録音できるようになった。メンデルスゾ―ンのヴァイオリン協奏曲はすり切れるほど聞いた。聞きながら「指揮」をしていた。大学に入ってからはLPのレコ―ドを買い、宝物のようにして聴いていた。アイザック・スタ―ンのものだった。耳になじみ体がおぼえていた演奏とは違い、従来の「指揮」とは合わず、演奏者によってずいぶん違うものだと分った。

 しばらく前に読んだエッゲブレヒトの『ヴァイオリンの巨匠たち』(アルファベ―タ、二〇〇四)の中にこの曲に関して次のような記述があった。

「リクエストに応えて気軽に弾かれることの多いこの曲を、スタ―ンはこの曲本来の壮大さ、美しさ、そして、痛ましい事件のなかで奪われた何千人もの尊い命への鎮魂の思いを込めて歌い上げている。」

 一九六八年、ソ連の戦車がチェコの民主化を踏みにじった「プラハの春」の際の演奏のことである。

杜甫「石壕の吏」

石壕の吏

 中国・唐の詩人、杜甫の「三吏三別」の詩のひとつ。759(乾元2)年、杜甫48歳の作。
 当時、上流階級は奢侈に走り、他方貧しい民衆の生活は窮迫していた。そのような中で戦争のための徴兵、徴発、徴税が絶えなかった。
 岩波文庫『杜詩』第3冊の鈴木虎雄、黒川洋一両氏による訳を元に手を加えて日本語訳を記す。

 石壕(せきごう)の吏

私は日暮れに石壕村に投宿した。
役人が、夜、人を捕らえようとしている。
おじいさんは捕まらぬように垣を越えて走り
おばあさんが門から出て外を見ている。
なぜあのように役人は怒っているのか。
なぜあのようにおばあさんは泣いて苦しんでいるのか。

おばあさんが進み出て役人に言うのを聴く。

「私には三人の男の子がありますが
皆、業卩城(ぎょうじょう)の守りに行きました。
そのうちの一人は人に手紙を預けてよこしました。
他の二人は最近戦死しました。
生きている者も仮に生きているようなもので、いつ死ぬか分かりません。
死んだ者は永久に帰って来ません。

奥の部屋にはだれもおりません。
ただ乳飲み子の孫がいるだけです。
この孫には母がおります。
その夫は戦死しましたが里には帰らず
ぼろぼろの袴しかない状態です。

私は老いて力は衰えてはいますが、お願いいたします。
お役人様に従って今夜参りましょう。
すぐに河陽(かよう)のお仕事に加わりますなら
朝の食事の飯炊きには間に合いましょう。」

夜は長く、人の話し声は聞こえなかった。
ただ、かすかにむせび泣く声が聞こえたようであった。
夜が明けて私が旅立つとき
ただおじいさんとだけ別れの挨拶をしたのであった。


○杜甫がこの宿を旅立つとき、すでにおばあさんは、軍事拠点である河陽の役に出かけ、残ったおじいさんとだけ別れの挨拶を交わした。夫を戦争で奪われた若い母親とその乳飲み子は姿を見せなかった。
○詩の中の「業卩」は、正しくは偏(へん)が「業」、旁(つくり)が「おおざと」であるが、表示できないのでこの形にしてある。

杜甫「新婚の別れ」

 今夜、ふと中国、盛唐の詩人・杜甫(712-770)の「三吏三別」と総称される六つの詩を
思い出しました。その中の一つ、「新婚の別れ」は、結婚したてで夫を兵に取ら
れる妻の心情を歌ったものです。

 これらの詩は政府の政策を批判としているとして、杜甫は華州司功参軍事の官
を免ぜられてしまいました。杜甫48歳の秋。

 関心のある方は→
http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/sanbetu1.htm
 石九鼎という方のサイトから「新婚の別れ」後半の一部(訳)を紹介します。

──
 あなたは,ともすれば死地に往くとのこと,それを思えば沈痛中腸に迫る様で
ございます。心に誓ってあなたに随い着いて行こうと考えますが,それでは余に
も慌てた様子にも見えましょう。
 お出かけのうえは新婚の念を為すことなく,せいぜい務めて戦仲間のお仕事を
なさって下さい。……

 私は貧しい家の娘でございますのに,嫁の来たてとは言え,久し
く薄絹の袖なし上着や,した絹を身に付けていました。今後はその薄絹の上着な
どは二度と施しません。あなたのご覧の前で紅粧もすっかり洗い落としてしまい
ましょう。
 空を仰いでさまざな鳥の飛ぶを看てみると,大きな鳥も小さな鳥も必ず雌と雄
とが双び翔ています。それに,どうした事か,人間の事がらは,侭にならぬ縺れ
の多いものでございます。お別れするのは是非もございません。この上はただお
互い心を変えず,お会いするときまで,あなたを永く相い望んでいます。
──

 杜甫が良いのは、民衆への愛が社会批判とつながっていることです。
 これはハイネとも尹東柱とも通じています。
 そしてその根幹は旧新約聖書、イエスさまとつながっています。

 三吏三別の詩は次のとおりです。

「新安の吏」
「潼関の吏」
「石壕の吏」
「新婚の別れ」
「垂老の別れ」
「無家の別れ」

 徴兵によって人が奪われ、家族が引き裂かれる悲劇を歌っています。これを読
んで私は涙が溢れ、同時に戦争に人を追いやる悪魔的力に対して憤激が起こって
います。

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井田 泉
奈良基督教会牧師
親愛幼稚園園長
富坂キリスト教センター・日韓キリスト教関係史研究会主事
聖公会平和ネットワーク共同代表

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