Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2005年11月

目を覚ましていなさい

  目を覚ましていなさい

マルコ13:33−37

 今日は降臨節第1主日。クリスマスを迎える準備をする季節となりました。 この京都復活教会の礼拝堂はそのために衣替えをしました。何が変わったでしょうか。

 まず、布の色が紫に変わりました。紫は慎みの色、待望の色、また高貴な存在、王や皇帝を現す色です。 イエスさまの生涯の中で紫をまとわれたことがありました。 イエスが捕らえられ、死刑の判決を受けたとき、兵士たちはイエスに紫の服を着せ、茨の冠をかぶらせて、「ユダヤ人の王、万歳」と言いました。兵士たちはイエスさまをあざけってこうしたのですが、それは実はイエスさまの本質をあらわしていました。イエスは私たちのほんとうの王です。富と権力を握りしめて人を苦しめる王ではなく、自分の命を捨てて私たちを守ろうとされるまことの王。東の国の博士が幼子イエスに黄金をささげたのは、そのしるしでした。 私たちの心と生活を、イエスさまを迎えるのにふさわしく整えて、クリスマスを待ちましょう。 貴い神の子、私たちを守り治めてくださるまことの王であるキリストを待ち望みましょう。

 第二に、祭壇の花が撤去されました。中央の十字架の下、左右のろうそくの間は何も置かれていません。空間ができました。12月24日のクリスマス・イブまでそのままです。なぜそこが空けてあるのでしょうか。それは、イエスさまに来ていただくために場所を空けたのです。 この世界も私たちも、あまりにも忙しく、あまりにも多くのことがあって、余裕がない。いつの間にかイエスさまを迎える余地までなくしてしまっています。礼拝堂の祭壇の上だけではなく、私たちの心の祭壇に、イエスさまを迎え入れる空間を空けましょう。

 第三に、聖卓の前に四つの小さなろうそくが用意されました。今日、降臨節第1主日はろうそくを1本つけました。第2主日は2本、第3主日は3本、そして第4主日は4本つけて、そのように光を増やしていってクリスマスを迎える。なぜそのようなことをするのでしょうか。それは、まことの光、恵みと命の光であるイエスさまを迎えるためです。ろうそくを増やすごとにイエスさまが近づいて来られます。イエスさまが放たれる光が強くなってくる。私たちも祈りを深めていきましょう。

 今お話ししたことは、私たちの姿勢、私たちが心に大切にしたい信仰の思いです。けれどもそれ以上に大事なことがあります。それは、事実イエスさまが来てくださる、ということです。 今日の福音書マルコ13:33以下です。「気をつけて、目を覚ましていなさい。」「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、あなたがたには分からないからである。」「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」 2000年前に、赤ちゃんとして来られたイエスさまは再びおいでになる。はっきりした明確な姿をもって、おいでになります。目を覚ましてお迎えしましょう。(2005/11/27 京都復活教会)

シューベルト「連祷」


フランツ・シューベルト「連祷(諸魂日のための嘆願)」


Litanei auf das Fest Aller Seelen, D343 (1816)


 英語ではLitany(リタニー)、聖公会用語では「嘆願」。詩はJacobi。

 逝去者を記念する11月、ヤコービのドイツ語の詩を新しく訳してみました。

1
平和のうちに憩いますように、すべての魂が。
恐ろしい苦しみを終えた人々
甘い夢をまっとうした人々
もう十分に生きて、生まれてまもなく
この世から去って行った人々。
すべての魂が、平和のうちに憩いますように!

2
満ちた少女たちの魂
数えきれないほど涙を流し
偽りの友に捨てられ
見る目を持たないこの世界に追い出された
すべてここから去った人々
すべての魂が、平和のうちに憩いますように!

3
そして、太陽に向かって笑ったことがなく
月の下で、茨の上で夜を明かして
神さまを、清らかな天の光のうちに
いつか顔を合わせて見ようとした人々。
すべてここから去った人々
すべての魂が、平和のうちに憩いますように!


4
また、平和を知らずに
勇気と力によって
しかばねの満ちた野の上に
半ば眠りに落ちた世界に送られた人々。
すべてここから去った人々
すべての魂が、平和のうちに憩いますように!


(注)

1 「もう十分に生きて」は苦心の訳です。「満ち足りた」という意味と「飽きた」という意味と両方があり、普通は「飽きた」「倦んだ」と訳されています。けれどもそれだけに意味を限定しない方法をとってみました。

2 少女ないし乙女が歌われます。
 またさまざまに、この世から追放される人々のことも思わせられます。

3 「茨」はイエスさまの茨の冠を連想させます。またエゼキエル2:6を思わせます。
 私たちもそのような人々とつながり、しかし笑うことを許されて生きたいと願います。


4 これは戦場で亡くなった人々です。勇気と力によって鼓舞されて貴い命を奪われた人々。戦没学生の手記『きけ わだつみのこえ』を思わせます。

 これらすべての人々の苦しみと悲しみと死とひとつになり、永遠の憩いを与えてくださる方、イエス・キリストが、この歌を歌ってくださるでしょう。


→ドイツ語・日本語対訳はこちら

澄んだ歌を神に

 京都教区のホームページのメッセージ担当が回ってきました。 今度の主日2005年11月6日(聖霊降臨後第25主日・特定27)の旧約聖書にもとづくものです。

   澄んだ歌を神に

           司祭 ヨハネ 井田 泉

「お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。
正義を洪水のように恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ。」
     アモス5:23?24

  神は私たちの声を聞こうとしておられます。私たちのささげる礼拝の中におられて、一緒に喜ぼうとしておられます。私たちの歌を神は待っておられます。

 ところが、神が礼拝を喜ばれない、ということが起こりました。その歌を神が拒まれる、ということが起こりました。紀元前8世紀、北王国イスラエルの首都サマリア、あるいは王室聖所のあるベテルでのことです。

 神はその歌を「騒がしい」と言われました。なぜか。 その歌は人間の自己満足、自己正当化の歌だからです。その歌は祈りではない。神に呼びかけようとするものではない。その騒がしい歌、騒音でしかない礼拝においては、神の声は聞こえない。神の声を聞こえなくさせる歌を、神は喜ばれるはずはありませんでした。

 紀元前8世紀、北王国イスラエルはヤロブアム2世の統治の下、繁栄を誇っていました。政治、経済、軍事にわたって国力は増大しました。盛大な礼拝がささげられていました。

  しかしその繁栄の陰に、弱い者は踏みつけられ、貧しい者はかろうじて持っているわずかなものまで貢納として取り立てられました。裁判は富と力を持った人たちのために行われ、虐げられた人々は放り出されました。悪徳商人は不正な分銅と天秤を使って肥え太り、貧しい者は「靴一足の値で」(アモス8:6)買い取られて行きました。

  この圧政、この不公平、この不義を見過ごすのが礼拝なのか。この間違った現実をおかしいと感じさせないようにするのが礼拝なのか。貧しい人の嘆きは、盛大な礼拝の立派な歌の中でかき消されている。 「お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。」  あなたがたのささげる礼拝をとおして、私の声を聴き、世の中の間違いを正し、見捨てられた人たちを見出し、いのちを回復させよ。そうしてこそあなたがた自身も生きるようになる──そのように神は言われたのです。

  礼拝は神の声を聴く場所、弱った人の思いを聴いて神に届ける時です。騒がしくてはそれは不可能です。心が静かになってこそ、それを聴きまた届けることができます。  私たちのささげる礼拝がほんとうの祈りとなり、歌が澄んだ歌となりますように。そうして神の愛のいのちが私たちの魂に浸透し、私たちをとおして神のわざが行われますように。 聖霊がそのことをしてくださるように、主イエスの御名によって祈ります。アーメン

日本聖公会京都教区
 http://www.nskk.org/kyoto/message/index.html

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