2005/12/20
1.「わたしが主であることを知るようになる」エゼキエル6:7、14
この言葉はエゼキエル書の中で数十回繰り返される。
「主を畏れることは知恵の初め。」箴言1:7
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。……弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。」イザヤ11:1-5
主を知らない、知ろうとしないところから、堕落と悪が支配するようになった。エゼキエルはその実態を目撃させられる(8‐11章)。
2.「第6年の6月5日わたしは自分の家に……」(8:1)
神のエゼキエルに対する働きかけは極めて具体的に(特定の場所と時間において)起こった。それは、ユダの長老たちとともに困難な現実を憂えている時であった。
神はエゼキエルに、人の目には隠されたもの、人が隠しているものをはっきりと示される。神が見ておられる現実を預言者は見なくてはならない。
3.「霊はわたしを地と天の間に引揚げ、神の幻のうちにわたしをエルサレムへと運び」(8:3)
世界と人間の闇の現実が厳しくなったとき、神は人間の予測可能性、合理性を越えた仕方で働かれる。「神の霊」は人間の限界を越えて働き、人に見るべきものを見させ、救いの現実をもたらしていく。
エゼキエルは霊においてエルサレムに連れて行かれ、そこにある忌まわしい現実を撃させられる。
4.エルサレムの偶像(8:3?)
(1) 北に面する内側の門の入口に「激怒を招く像」(8:4) おそらく女神アシェラ像。
この像を拝むことは「わたし(神)を聖所から遠ざける」「はなはだ忌まわしいこと」。
(2) 神殿の庭の入口、秘密の壁の穴(8:7)
密室で行われている「地を這うものと獣の憎むべき像、あらゆる偶像」エジプトの偶像。
しかも偶像礼拝を行っているのはイスラエルの長老(指導者)70人。ヤアザンヤの父シャファンは ヨシヤ王の時代、宗教改革の重要な推進者のひとりであった。
(3) タンムズ礼拝(8:14)
季節の巡りに関わる植物神(男性)。女神イシュタル(アシュトレト)によって春に復活させられる。
(4) 太陽礼拝(8:16)
神殿の庭の玄関と祭壇との間。聖なる領域。25人とおそらく祭司(24人の祭司と大祭司。歴代誌上24:7?18)。信仰の指導者たち自身が主に背を向けて太陽を拝む。
「木の枝」はおそらく儀式の行為。これは主なる神を直接侮辱・冒涜する行為であり、神への背信はここで頂点に達した。
5.神の裁きの実行(9:1‐)
6.主の栄光が神殿を去る(10:1‐7、18‐19、11:22‐25)
極度の不法、暴虐、背信の神の栄光(神の臨在を間接的に表現する言葉)はエルサレムを去らざるを得ない。
エルサレムを愛しつつ去って行かれる神の悲しみをエゼキエルは見る。
神の栄光が何度もとどまるのは神がエルサレムを愛しておられるから。愛惜。
都の東の山とはオリーブ山。それ以上のこと(神の栄光がオリーブ山を去る)は、悲しすぎるので聖書記者は書けなかった。
7.新しい霊の約束(11:19)
「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を取り除き、肉の心を与える。」
神の民の堕落は極限に達し、神はその地を去って行かれる。神の裁き(具体的にはイスラエル王国の滅亡)は必至。しかし異国に捕らえ移された人々と共に神はおられ、将来の再建に備えられる。(11:16‐)
目に見える神殿はなくてよい。神みずからが神殿(聖所)となってくださるから。
エゼキエルはこれらのことを、ユダの長老たちに、そして捕囚の民に語り聞かせた。
1.「わたしが主であることを知るようになる」エゼキエル6:7、14
この言葉はエゼキエル書の中で数十回繰り返される。
「主を畏れることは知恵の初め。」箴言1:7
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。……弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。」イザヤ11:1-5
主を知らない、知ろうとしないところから、堕落と悪が支配するようになった。エゼキエルはその実態を目撃させられる(8‐11章)。
2.「第6年の6月5日わたしは自分の家に……」(8:1)
神のエゼキエルに対する働きかけは極めて具体的に(特定の場所と時間において)起こった。それは、ユダの長老たちとともに困難な現実を憂えている時であった。
神はエゼキエルに、人の目には隠されたもの、人が隠しているものをはっきりと示される。神が見ておられる現実を預言者は見なくてはならない。
3.「霊はわたしを地と天の間に引揚げ、神の幻のうちにわたしをエルサレムへと運び」(8:3)
世界と人間の闇の現実が厳しくなったとき、神は人間の予測可能性、合理性を越えた仕方で働かれる。「神の霊」は人間の限界を越えて働き、人に見るべきものを見させ、救いの現実をもたらしていく。
エゼキエルは霊においてエルサレムに連れて行かれ、そこにある忌まわしい現実を撃させられる。
4.エルサレムの偶像(8:3?)
(1) 北に面する内側の門の入口に「激怒を招く像」(8:4) おそらく女神アシェラ像。
この像を拝むことは「わたし(神)を聖所から遠ざける」「はなはだ忌まわしいこと」。
(2) 神殿の庭の入口、秘密の壁の穴(8:7)
密室で行われている「地を這うものと獣の憎むべき像、あらゆる偶像」エジプトの偶像。
しかも偶像礼拝を行っているのはイスラエルの長老(指導者)70人。ヤアザンヤの父シャファンは ヨシヤ王の時代、宗教改革の重要な推進者のひとりであった。
(3) タンムズ礼拝(8:14)
季節の巡りに関わる植物神(男性)。女神イシュタル(アシュトレト)によって春に復活させられる。
(4) 太陽礼拝(8:16)
神殿の庭の玄関と祭壇との間。聖なる領域。25人とおそらく祭司(24人の祭司と大祭司。歴代誌上24:7?18)。信仰の指導者たち自身が主に背を向けて太陽を拝む。
「木の枝」はおそらく儀式の行為。これは主なる神を直接侮辱・冒涜する行為であり、神への背信はここで頂点に達した。
5.神の裁きの実行(9:1‐)
6.主の栄光が神殿を去る(10:1‐7、18‐19、11:22‐25)
極度の不法、暴虐、背信の神の栄光(神の臨在を間接的に表現する言葉)はエルサレムを去らざるを得ない。
エルサレムを愛しつつ去って行かれる神の悲しみをエゼキエルは見る。
神の栄光が何度もとどまるのは神がエルサレムを愛しておられるから。愛惜。
都の東の山とはオリーブ山。それ以上のこと(神の栄光がオリーブ山を去る)は、悲しすぎるので聖書記者は書けなかった。
7.新しい霊の約束(11:19)
「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を取り除き、肉の心を与える。」
神の民の堕落は極限に達し、神はその地を去って行かれる。神の裁き(具体的にはイスラエル王国の滅亡)は必至。しかし異国に捕らえ移された人々と共に神はおられ、将来の再建に備えられる。(11:16‐)
目に見える神殿はなくてよい。神みずからが神殿(聖所)となってくださるから。
エゼキエルはこれらのことを、ユダの長老たちに、そして捕囚の民に語り聞かせた。