Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2005年12月

エゼキエル書 第6講

                  2005/12/20

1.「わたしが主であることを知るようになる」エゼキエル6:7、14
 この言葉はエゼキエル書の中で数十回繰り返される。
「主を畏れることは知恵の初め。」箴言1:7

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。……弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。」イザヤ11:1-5

 主を知らない、知ろうとしないところから、堕落と悪が支配するようになった。エゼキエルはその実態を目撃させられる(8‐11章)。

2.「第6年の6月5日わたしは自分の家に……」(8:1)
 神のエゼキエルに対する働きかけは極めて具体的に(特定の場所と時間において)起こった。それは、ユダの長老たちとともに困難な現実を憂えている時であった。
 神はエゼキエルに、人の目には隠されたもの、人が隠しているものをはっきりと示される。神が見ておられる現実を預言者は見なくてはならない。

3.「霊はわたしを地と天の間に引揚げ、神の幻のうちにわたしをエルサレムへと運び」(8:3)
 世界と人間の闇の現実が厳しくなったとき、神は人間の予測可能性、合理性を越えた仕方で働かれる。「神の霊」は人間の限界を越えて働き、人に見るべきものを見させ、救いの現実をもたらしていく。
 エゼキエルは霊においてエルサレムに連れて行かれ、そこにある忌まわしい現実を撃させられる。

4.エルサレムの偶像(8:3?)
(1) 北に面する内側の門の入口に「激怒を招く像」(8:4) おそらく女神アシェラ像。
 この像を拝むことは「わたし(神)を聖所から遠ざける」「はなはだ忌まわしいこと」。

(2) 神殿の庭の入口、秘密の壁の穴(8:7)
 密室で行われている「地を這うものと獣の憎むべき像、あらゆる偶像」エジプトの偶像。
 しかも偶像礼拝を行っているのはイスラエルの長老(指導者)70人。ヤアザンヤの父シャファンは ヨシヤ王の時代、宗教改革の重要な推進者のひとりであった。

(3) タンムズ礼拝(8:14)
 季節の巡りに関わる植物神(男性)。女神イシュタル(アシュトレト)によって春に復活させられる。

(4) 太陽礼拝(8:16)
 神殿の庭の玄関と祭壇との間。聖なる領域。25人とおそらく祭司(24人の祭司と大祭司。歴代誌上24:7?18)。信仰の指導者たち自身が主に背を向けて太陽を拝む。
「木の枝」はおそらく儀式の行為。これは主なる神を直接侮辱・冒涜する行為であり、神への背信はここで頂点に達した。

5.神の裁きの実行(9:1‐)

6.主の栄光が神殿を去る(10:1‐7、18‐19、11:22‐25)
 極度の不法、暴虐、背信の神の栄光(神の臨在を間接的に表現する言葉)はエルサレムを去らざるを得ない。
 エルサレムを愛しつつ去って行かれる神の悲しみをエゼキエルは見る。
 神の栄光が何度もとどまるのは神がエルサレムを愛しておられるから。愛惜。
 都の東の山とはオリーブ山。それ以上のこと(神の栄光がオリーブ山を去る)は、悲しすぎるので聖書記者は書けなかった。

7.新しい霊の約束(11:19)
「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を取り除き、肉の心を与える。」

 神の民の堕落は極限に達し、神はその地を去って行かれる。神の裁き(具体的にはイスラエル王国の滅亡)は必至。しかし異国に捕らえ移された人々と共に神はおられ、将来の再建に備えられる。(11:16‐)
 目に見える神殿はなくてよい。神みずからが神殿(聖所)となってくださるから。

 エゼキエルはこれらのことを、ユダの長老たちに、そして捕囚の民に語り聞かせた。

エゼキエル書 第5講

           2005/10/18

1.「横たわり、イスラエルの家の罪を負いなさい」エゼキエル4:4
 エゼキエルは民の罪を自ら負う(引き受ける)こと、民の罪と連帯することを、具体的な仕方でさせられる。預言者はただ神からの言葉を伝えるばかりの存在ではない。神と人、天と地を結ぶために、地の現実、人々の過ちを自らのものとして引き受けさせられる。人の現実を引き受けてその場所から神に訴え、また反対に神の思いを人に届ける。これが祭司、預言者である。

○これは、イエス・キリストの存在と働きそのものである。

「キリストは十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」ペトロ一 2:24

「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」ペトロ一 3:18

○教会はイエス・キリストの祭司的働きを継承する。

「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」ペトロ一 2:5
「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」ペトロ一 2:9

○礼拝における代祷とざんげはこれを具体的に行うもの。私たちの現実を携えて神の前に出る。

2.「わたしが主であることを知るようになる」エゼキエル6:7、14
 この言葉はエゼキエル書の中で数十回繰り返される。
 人々が神を知らない、主を愛することも畏れることも知らない。それが人の罪と世界の悪の根本である。この結果、偶像崇拝、不法、虐げ、流血が起こっている。
 神が切に願っておられることは、人々が神を主なる神としてほんとうに知ることである。そのとき、悔い改めと赦しと清めと解放が起こる。

3.「神の幻のうちにわたしをエルサレムへと運び」8:3
 エゼキエルはバビロニアにいながら、神の霊に運ばれてエルサレムに連れて行かれ、そこにおけるおぞましい現実を見せられる。8‐11章。
 精神と生活の腐敗・堕落
 この故に神の栄光(神の臨在を間接的に表現する言葉)はエルサレムを去らざるを得ない。
 エルサレムを愛しつつ去って行かれる神の悲しみをエゼキエルは見る。

わたしの魂は主をあがめ

  わたしの魂は主をあがめ

                                                   ルカ1:47

「わたしの魂は主をあがめ……」
 マリアはこう歌い始めました。マリアの魂から、思いと言葉が溢れてきます。それは神への賛美と感謝です。
 「わたしの魂は」とマリアは言います。「魂」とはどのようなものでしょうか。

 「魂」と訳された元のギリシア語は「プシュケー」という言葉です。



 息が口から、体から外に出て行くような響きがあります。
 そうなのです。「魂」という言葉は息に関係しているのです。

 マリアが天使ガブリエルのお告げを聞いたとき、マリアの魂は、マリアの息は詰まりました窒息しそうになりました。マリアの魂は苦しみました。しかし……

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生れる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」ルカ1:35
 神の言葉が彼女の中に入り、神の霊が彼女を包んだとき、彼女の魂には変化が起こり始めました。神が、この自分をとおして働かれる。自分の身ごもりと出産と、その子の養育をとおして、神の救いの業が進んでいく。恐ろしい、あり得ない、信じがたいことを、しかし祝福と信じて、彼女は「お言葉どおり、この身になりますように」と言って受け入れました。

 マリアは遠い道を急いで、親戚のエリサベトに会いに行きました。
 マリアが挨拶し、エリサベトがマリアの挨拶を聞いたとき、エリサベトの胎内の子が躍りました。神の救いの業の器となった、それを受け入れ決意した者どうしの間に、心の交流、命の溢れが起こりました。
 マリアは息を吹き返します。マリアの魂は、今や命と祝福に満たされ、大きな深い息が通って、マリアの魂から神への賛美が溢れ出ます。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

 私たちの経験する魂の苦しみをとおして、神が救いの業をなさいます。魂の苦しみをとおして、私たちが神を信じて神の御業を引き受ける者となりますように。私たちの魂が神の命に動かされ、解放されますように。
「わたしの魂は主をあがめ」
この祈りと賛美を、神が私たちの魂にも与えてくださいますように。
                                        (2005/12/18 京都復活教会)

必ずそのとおりにしてくださる神

   必ずそのとおりにしてくださる神

                                         ルカ1:26‐56    
                                         テサロニケ一 5:23‐24

 降臨節第3主日を迎えました。
 今日は、クリスマスに必ず思い出すマリアのことをお話ししたいと思います。イエスの母となる前のマリア、イエスの母となるマリアです。

 「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」ルカ1:28
 マリアは天使ガブリエルのお告げを聞いとき、非常に戸惑い、恐れました。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」

 マリアは恐れました。二重の恐れがあります。
まず、神に触れた、神に出会ったという恐れです。自分を生かすことも滅ぼすこともできる神がここにおられる。恐ろしいことです。
 同時に、もうひとつの恐れがあります。それは、天使が言うとおり子どもを身ごもるなら、大変なことになる、という恐れです。マリアには婚約者がいます。ヨセフです。そのヨセフとは関係のない子どもを身ごもるなら、マアはどのようなことになるでしょうか。「不義を犯した女は石撃ちの刑に処する」という掟がのしかかってきます。ヨセフを失い、社会的信用を失い、場合によっては命まで失うことになるかもしれません。心も体も魂も破れるほど恐ろしい。苦しみの極限をマリアは経験します。

 しかし天使は言います。
「聖霊があなたに降(くだ)り、いと高き方の力があなたを包む。」
神の霊があなたに降る。いと高き神の力があなたを包む。あなたのうちに神の霊が入り、神の力があなたを包む。神さまがあなたを包み、神さまがあなたに宿るのです。
「だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」
すでにこの世界を救おうとされる神の計画は実行に移されました。マリアの親類のエリサベトは、もう子どもができない年齢になってたのに子どもを身ごもって6か月になる、とガブリエルは告げました。「神にできないことは何一つない。」

 マリアは決意します。この身に降りかかった、人間的に言えば恐ろしい運命を受け入れることを。しかし天使が言うとおりなら、信じがたい恵みを受け入れることを。神の救いの働きをこの自分の身に引き受けることをマリアは決意しました。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」

 しかしこのようなことを誰に打ち明けられるでしょうか。婚約者ヨセフにも言えません。ただひとり言えるとすれば、天使が告げた、身ごもって6か月になるという親類のエリサベトだけです。マリアは急いで出かけました。ガリラヤのナザレからはるか南のユダの山里まで、何日も山道を歩いてたどり着きました

 出会ってマリアがエリサベトに挨拶したとき、エリサベトがマリアの挨拶を聞いたとき、エリサベトの胎内の子がおどりました。喜びが満ちました。マリアとエリサベト二人に。いや、二人だけではなくてエリサベトとその胎内の子と、マリアとその胎内の子と、4人に喜びが溢れました。神が救いの業を始められた。自分たちの魂と体をとおして神の計画が実現していく。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 そのとき、マリアの口から溢れ出た歌が「マリアの賛歌」です。
 ♪「わが心、主をあがめ、わが霊はわが救い主なる神を喜びまつる。」
 今の新共同訳では「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

 天使のお告げによって心も体もも破れるほどの苦しみを経験したマリア。しかし神の力が自分を包むことを信じて主の言葉を受け入れたマリアは、今は喜びと感動をもって神を歌います。
 ここに何が起こったか。それは、主を信じる人マリアが誕生したのです。主の言葉を信じて、神の業に自分を差し出しゆだねる、神の救いの器マリアが誕生したのです。救い主イエスの誕生の前に、信仰者マリアの誕生があったのです。

今日の使徒書を聞いてみましょう。
「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」テサロニケ一5:23

 人の計画や努ではない、平和の神御自身があなたをまったく聖なる者、神にふさわしい清い者としてくださるように。神があなたの霊も魂も体も守ってくださるように。主イエスが来られるとき、救い主がお生まれになるときは、心も体も魂も整えられた良き器となって迎えることができるように。

 こう語るパウロの言葉は、まるで天使がマリアに語っている言葉のように聞こえます。ほんとうにマリアは、ここに記されたように、神によって全く聖なる者とされ、霊も魂も体も良きものとして守られ、主イエスが来られるとき、いろんな心配も躊躇も満たされ、整えられた。あたかもマリアのためにパウロは語っているかのように聞こえます。

 しかしパウロの言葉はマリアのために書かれたものではありません。私たちのために書かれたのです。マリアをとおして救いの業を実現された神は、この私たちをとおして救いの働きを進めていこうとしておられます。私たちも神の救いの器とされる。そのためにあなたがたが、聖なる者、神さまのものとして清められるように、身も心も守られるように、神さまの働きにふさわしく整えられるように。

「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」5:24
 神が決意し、救いの業を実現して行かれます。

 主なる神さま、私たちがマリアと共にあなたを信じ、あなたの救いの業をこの自分の身と心に引き受ける者となるように、私たちを祝福してください。主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン
                                        2005/12/11 京都復活教会)

バッハ「カンタータ147番」(心と口と行いと生活)

 幼稚園の保護者を主な対象に、礼拝堂でクリスマスCD音楽会をしました。
 以下はそのためにつくったメモです。

 歌詞は杉山好先生の文語訳を参考に、大急ぎでドイツ語から訳してみたものです。時間がなくて途中とばしてあります。間違いもあるかもしれません。

 第6、10曲は有名な「主よ、人の望みの喜びよ」。
 これとともに私は第5曲のソプラノのアリアがとても好きです。 ヴァイオリンの響きに心が泣きます。この初めのほうのドイツ語の解釈はむつかしくて、専門家の礒山雅さんがご自分の理解と訳を出されています。けれども私はそれにもまだ十分に納得していないところがあって、検討せずに暫定的に今回の訳を記しました。この曲の言葉と音楽にバッハの魂を感じます。このドイツ語がまた何とも言えずいいのです。


バッハ「カンタータ147番」(BWV147)について

・ 「カンタータ」 器楽伴奏をともない、ソロや合唱など多部分から構成され
る声楽曲。カンタータとはソナタ(「演奏される曲」)に対する「歌われる曲」
を意味する。教会カンタータと世俗カンタータに区分され、前者は教会での礼拝
のためのもの。
 J. S. バッハ(1685?1750)は長くドイツ・ライプツィッヒの音楽監督として
活動し、同市の聖トマス教会、聖ニコライ教会の礼拝のために膨大な教会カンター
タを作曲し、演奏した。
・ カンタータ147番はマリアのエリサベト訪問の祝日(5月31日、元7月2日)の
礼拝のための曲。
 ルカによる福音書1:39-56が朗読される。天使ガブリエルから、神の子を宿す
ことを告げられたマリアは、親類のエリサベトを訪ねる。エリサベトの胎内の子
は躍る。二人は喜びに満たされる。
・ BWV(Bach Werke Verzeichnis)バッハ作品目録。
・ 礼拝の中で演奏され、第1部と第2部の間に説教がなされた。
・ 「レチタティーヴォ」朗読調の独唱歌曲。アリアなどの抒情的・旋律的な部
分に挟まれ、筋の説明や対話のために用いられる。叙唱。
・ 「コラール」ドイツのプロテスタント教会ルター派の賛美歌。ゆったりした旋律の合唱曲。


 歌詞概略


(第1部)
1 合唱
心と口と行いと生活は、キリストをあらわすものであるべきだ。
恐れることなく偽ることなく、キリストが神であり救い主であることを示そう。

2 レチタティーヴォ(テノール)
祝福された口よ!
マリアは自分の心のもっとも深いところを、神への感謝と賛美をもって言いあら
わした。
マリアは語り始めた。救い主の不思議を。神が、ご自身のしもべである自分に何
をなさったかを。
おお、人よ、サタンと罪のしもべよ、
あなたはキリストの慰めに満ちた出現によって、この重荷と隷属から解放された!
けれどもあなたの口とあなたのかたくなな心は、その恵みを隠し否定する。
知れ、聖書によれば、あなたはきびしい裁きにあうことを。

3 アリア(アルト)
恥じることなかれ、おお、魂よ、あなたの救い主を言いあらわすことを。
もし救い主が、父なる神の御前であなたをご自分のものと呼ばれることを願うな
ら!
……

4 レチタティーヴォ(バス)
かたくなさは権勢を持つ者らの目をかすませる。
ついには、いと高き方の腕はかれらをその座から引き下ろし
貧しい人々を引き上げ、救う。
おお、高き幸いを受けるキリストの者たち
備えせよ、今こそ喜びの時、今こそ救いの日。
救い主は言われる、「あなたがたのからだと魂を、恵みの賜物をもって整えよ」と。
切なる願いをもってキリストを呼び求め、彼を信じて迎え入れよ!

5 アリア(ソプラノ)
備えてください、イエスよ、なおその道を。
わたしの救い主よ、選んでください、この信じる魂を。
そして恵みのまなざしをもってわたしをご覧ください!

6 コラール(合唱)
なんとわたしは幸いなことか、わたしがイエスを持つことは。
おお、どれほど堅くわたしは彼を保っていることか。
イエスはわたしの心を力づけてくださる
わたしが病のときも、悲しみのときも。
イエスをわたしは持っている。
イエスはわたしを愛し、ご自身をわたしに与えてくださった。
ああ、そのゆえに、わたしはイエスを離さない、
わたしの心が破れても。


(第2部)
7 アリア(テノール)
助けてください、イエスよ、助けてください。わたしもあなたを言いあらわせる
ように、
幸いのときも災いのときも、喜びにも悲しみにも。
わたしはあなたをわたしの救い主と呼ぶ、信じて、落ち着いて。
いつもわたしの心があなたの愛によって燃えているように
助けてください、イエスよ、助けてください!

8 レチタティーヴォ(アルト)
 (マリアとエリサベトが挨拶を交わしたとき、エリサベトの胎内のヨハネ(洗
礼者=イエスの先駆者)がおどった。)
いと高き全能者の不思議な手は、地の隠れたところで働かれる。
……

9 アリア(バス)
わたしはイエスの不思議な御業(みわざ)を歌おう。
イエスに唇の供え物をささげよう。
……
10 コラール(合唱)
イエスは変わることのないわたしの喜び。
わたしの心の慰め、わたしを潤すもの。
イエスはすべての病と苦しみを防いでくださる。
彼はわたしの命の力、わたしの目の喜びにして太陽。
わたしの魂の宝、この上ない喜び。
そのゆえにわたしはイエスを離さない
わたしの心と目から。

 第6、10曲は「主よ、人の望みの喜びよ」(Jesu, Joy of Man's Desiring)と
して知られる曲。元の歌詞はマルティン・ヤーン<Jesu Meiner Seelen Wonne>。

詩編第46編

  詩編第46編                2005/12/07

  主はわたしたちと共にいます 46:8

1. 「神はわたしたちの避けどころ」46:2
 この詩の作者と歌い手は、強い力に脅かされ、苦しめられて、危うい。
 しかし神はその人々の避難所になってくださる。
 私たちを守ってくださるのは神。この方のもとに身を隠す。

2. 「必ずそこにいまして」2
 この詩編は特に「神がおられる」ことを強調して繰り返す。
「必ずそこにいまして」2
「いと高き神のいます聖所」5
「その中にいまし」6
「わたしたちと共にいます。」8、12
 モーセに示された神の名は「ヤハウェ」(「主」と訳されている。かつて「エホバ」と読まれた)。その意味は「わたしはある」ということ。

3. 「万軍の主はわたしたちと共にいます」8、12
 力をもって働き、戦ってくださる神が、遠方にではなく、「わたしたちと共に」おられる。
 このことが具体的に実現したのがクリスマスの出来事。神が人となって私たちのところに来られた。イエス・キリスト=人となられた神。

「地に来たまいし神 わが救い主」聖歌224

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。
この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」マタイ1:23

○神が生きて私たちと共におられる。その事実を信じて生きるのが信仰。

○この詩編はルターの「われらの神は堅き城」(聖歌389 神はわがやぐら)の元になった。
 バッハはこれにもとづいて教会カンタータ第80番を作曲した。

○祈り
 神が、危険の中、苦しみや悲しみの中にある人々と共にいてくださいますように。

御腕をもって統治される神

   御腕をもって統治される神

                                       イザヤ40:9─11

 今日は降臨節第2主日。クリスマスに向けて準備をする2番目の日曜日です。

 降臨節(待降節)のことを「アドベント」と言います。「アドベント」とは「ここに来る」、「到来」という意味です。今日の特祷の言葉では「来臨」です。神の独り子イエスさまはすでに来られました。2000年前、ユダのベツレヘムに人の子として肉体を取っておいでになりました。すでに来られたイエスさまを私たちの中に、私の中にしっかり迎え入れるためにリスマスの備えをする。これがアドベントの第1の意味です。

 アドベントにはもうひとつ、大切な第2の意味があります。それは、イエスさまが再び来られる、第2の到来(再臨)に備えて準備することです。
 私たちは、後ろから主イエスの第1の到来によって支えられ、前からは主イエスの第2の到来によって希望を与えられている。前と後ろから囲まれて、私たちはクリスマスを祝うのです。

 さて今日の旧約聖書日課を心にとめましょう。イザヤ書第40章9節の終わりから読みます。

「見よ、あなたたちの神
見よ、主なる神。
彼は力を帯びて来られ
御腕をもって統治される。
見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前を進む。
主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め
小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

 ここで注意をしたいことがあります。それは「見よ」という呼びかけが3回繰り返されていることです。
 目を上げて神を見る。目を開いて神がなさることを見つめる。これが信仰です。
 イエスさまの誕生以前も、誕生以後も、今の私たちもその周りも、あらゆる難しいこと、納得しがたいこと、安心できないことに取り囲まれています。

 ある詩人は「地上の角逐(争い)は果てしがない。しかしそこに神がおられる」と歌いました(ヘルダーリン「パトモス」)。
 この果てしない現実から目を上げて神を見る。私の中をいくら探求し、分析してもそこには救いはない。神に救いがあるのです。

 はるか昔、エジプトを脱出したイスラエルの民は、前は海、後ろは追い迫るエジトの軍隊、という絶体絶命の危機に陥りました。人々の間に湧き起こる恐怖、不満、絶望に対してモーセは言いました。
「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」(出エジプト記14:13)。
 その時、海は左右に分かれ、イスラエルの人々は海の中の道を通って行くことができたのです。

 昨日、この礼拝堂でその出来事が再現されました。昨日のチャーチ・コンサートの後半、ゴスペルのグループ、黒い衣装に赤の縞模様のストールをつけた約20名の女性がこの礼拝堂チャンセルの上で歌い、踊り、手拍子を打ちタンバリンを鳴らしました。静かな礼拝を特徴とする聖公会の礼拝堂には極めて異例のことです。京都復活教会の歴史上初めてでしょう。しかしこれは聖書に記された出来事です。

 今からおよそ3300年前、モーセに率いられて「奴隷の家」エジプトを脱出したイスラエルの民は、神の奇跡によって海を渡ることができました。そのとき、モーセの姉ミリアムはタンバリンを取って打ち鳴らし、多くの女性たちがこれに和して歌い踊りました(出エジプト記15:20)。これが神の救いを経験した人々の礼拝でした。ゴスペルの内容は神への賛美、あれはほんとうの礼拝のひとつの大切な姿です。それがここで行われたことは大変意味がありました。

 聖書に戻ります。目を上げて神を見る。神は何をなさるのでしょうか。預言者の言葉を聴きましょう。

「見よ、主なる神。
彼は力を帯びて来られ
御腕をもって統治される。」

 神は来られる。力ある方としておいでになる。これが神の業の第一です。その方を「見よ」預言者は告げています。
 第二に、神は御腕をもって統治される。神には腕があるのです。神の腕は伸ばされて私たちに触れる。神の腕は私たちを捕らえる。捕まえて私たちを治める、統治されるのです。

 神は私たちを支えたり助けたり慰めたりされる。これも必要です。しかしそれだけではまだ人は完全には救われません。別の力がしばしば私たちに影響を与え支配してしまうので、私たちは危うい。

 神が御腕を伸ばして私たちを捕らえて統治される。神が私の中で生きてくださり、神の思いが私の思いとなる。神が私たちを治めてくださるので、神の救いの働きが私たちを、この私を通して前進していく。

 このことが私たちの間に現実となることをイエスさまは切に願われました。それでイエスは主の祈りの中で「み国来ますように」と祈るように私たちに求められました。「み国」とは「神の国」のこと。神の国とは神が治められる、統治されることです。神が私を、私たちを、この世界を治めてください、統治してくださいと私たちは祈るのです。

「見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前を進む。」

 「主のかち得られたもの」とは何でしょうか。それは私たちのことです。神は私たちを捕らえ、獲得された。私たちは神のみ腕に捕らえられて神のものとなったのです。神のものとなった私たちは神に従って進んでいきます。

「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め
小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

 私たちを愛してくださる主なる神は、その御腕をもって私たちをご自身のもとにめられる。幼い者は主のふところに抱かれ、成長した者も一緒に導かれる。神の御腕は私たちを集め、守り、導かれます。

 祈りましょう。
 主なる神さま、今日私たちは預言者の言葉を通して、あなたの御腕の働きを聴きました。あなたの御腕が私たちを集め、統治し、導いてくださいます。どうかそのとおりのことを私たちの間でなさってください。あなたが私たちを治めてください。私たちをあなたのものとして、あなたに従い行くものとしてください。主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン
                              (2005/12/04 京都復活教会)
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