Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2006年08月

オルガンの祝福と奉献の祈り

 息あるすべてのものは主をたたえよ‖ ハレルヤ
                        詩編150:6

 永遠の命の神である主よ、あなたは私たちのうちに良き願いを起こし、この教会に新しいオルガンを備えてくださいました。どうかこれを主の栄光のため、また多くの人々の救いと平和のために祝福してください。これを弾くとき、あなたの命の息である聖霊の風が吹き、これを聴くとき、またこれに合わせて歌うとき、私たちのうちにあなたの慰めと励ましが与えられ、あなたへの祈りと賛美が起こるようにしてください。
 今、私たちはこのオルガンをあなたの器としてささげます。これを祝福し、あなたのみ業のために用いてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
 父と子と聖霊なる神が、このオルガンを主の恵みと平和の器として用いてくださいますように。アーメン

 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが私たちとともにありますように。アーメン


 京都聖ステパノ教会では2006年8月20日の主日礼拝の初めに、新しいオルガンの祝福と奉献の祈りを献げました。


スポーツドリンク

 健康診断に行きました。
 「水分を取っているか」と聞かれ、スポーツドリンクを勧められました。
 水やお茶だけでは細胞の内部にまで水分が浸透せず、体は水ぶくれでも細胞は渇いた状態になり、夏ばての原因になるとのこと。
 多いほどよい、1日500ml はとるといいそうです。
 ポカリスエットとアクエリアスを1本ずつ買ってきました。

 阪神が危ういところで勝利! 対中日8-7。久しぶりに良い場面をテレビで見ました。藤川11S。

 私はもう半世紀近く阪神を応援していて、にわかファンではありません。南海がなくなったのは残念。

日ごとの聖句227  2006/9/3〜9

日ごとの聖句227

2006年9月3(日)聖霊降臨後第13主日
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。エフェソ6:10

9月4日(月)
こう祈りなさい。「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇(あが)められますように。」マタイ6:9

9月5日(火)
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせられた。マルコ6:41

9月6日(水)
邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。エフェソ6:13

9月7日(木)
救いを兜(かぶと)としてかぶり、霊の剣(つるぎ)、すなわち神の言葉を取りなさい。エフェソ6:17

9月8日(金)
どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、根気よく祈り続けなさい。エフェソ6:18

9月9日(土)
これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。マタイ18:14


 今週の使徒書からエフェソの信徒への手紙を選び、他に福音書から「天」に関わる言葉を選びました。
 幼稚園の礼拝では主の祈りを連続して取り上げ、今週は「天(のお父さん)」について話すことにしています。

「もうひとつの故郷」

  尹東柱「もうひとつの故郷」を訳してみました。

 尹東柱を広く日本に紹介したのは伊吹郷氏で、全詩を訳されたのは大きな貢献です。
 伊吹氏の訳は、日本語として読まれることを重視したものです。
 私としては可能な限り原詩を尊重し、単語レベルまで直訳に近いものにしたいという願いがあります。

 1941年9月の詩。ごく短い解説をいま書いているところですが、まずは訳だけ。


  もうひとつの故郷 
 
ふるさとへ帰ってきた日の夜に
わたしの白骨がついて来て ひとつの部屋に横たわった。

暗い部屋は 宇宙へ通じ
天からか 音のように 風が吹いてくる。

闇の中で きれいに風化作用する
白骨をのぞきこみながら
涙ぐむのは わたしが泣くのか
白骨が泣くのか
美しい魂が泣くのか

志操の高い犬は
夜を明かして 闇に向かって吠える。

闇に向かって吠える犬は
わたしを追うのだろう。

ゆこう ゆこう
追われる人のように ゆこう
白骨の知らぬまに
美しいもうひとつの故郷に ゆこう。

永遠の命の言葉

永遠の命の言葉

ヨハネ6:60−69

 イエスさまが人を思われる思いは、とても深かった。イエスが弟子たちを愛される愛は、この上なく深かった。

 イエスはただ人の一部分を救おうとされたのではなく、人の全部、全体を救おうとされました。そのためにイエスは、ご自分の一部だけではなく、自分の全部を提供しようとされました。

 人々は渇いていました。そのゆえにイエスは、自ら命の水になって人を潤そうとされました。
 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」ヨハネ7:37

人々は飢えていました。そのゆえにイエスはご自分が命のパンとなって人を生かそうとされました。
「わたしは命のパンである。」ヨハネ6:35
「わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」6:51
 これはイエスが人々を、弟子たちを極限まで愛されたがゆえの言葉です。

 しかしこの言葉は、多くの人々のつまずきとなりました。
「弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』」6:60
ひどい話。受け容れがたい言葉。そんな言葉は聞いていられないと言うのです。しかもそう言ったのは、イエスさまの敵対者ではなく、イエスの弟子たちです。

 これは、イエスの言葉がむつかしくて理解できない、ということではありません。そこまでイエスに介入してもらう必要はない。そこまで自分たちは救いを必要としていない。あなたは(=イエスのこと)必要なときに私たちを支えて助けてくれればいいのであって、それ以上は必要ない。私たちの生き方を変えようとか、私たちを造り変えようなどと考えているとすれば、余計なことだ。まったく不愉快だ。──これが多くの弟子たちの反応でした。

 イエスは人々の生き方を変えようとされたのか。弟子たちを造り変えようとされたのか。そのとおりです。地上の損得によってではなく、神の国を目指して生きる者となってほしい。私たちの中にある濁ったものが清められて、歪んだものが正されて、神の言葉と神の霊が私たちの中で生きてくださるように。──それをイエスは弟子たちの中に実現しようとされました。それがほんとうの幸福だからです。私が経験しているいちばんすばらしいものを弟子たちと分かち合いたい。それがイエスさまの願いでした。しかし多くの人々はそれに激しく反発しました。自分たちの濁りや歪みがあらわにされるのが耐えがたかったからです。

「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」6:66
イエスは十二弟子たちに言われた。「あなたがたも離れて行きたいか」
もしこのイエスの問いかけに十二弟子たちのだれもがあいまいな態度をとったり沈黙を守って答えなかったとすれば、イエスはただひとりになって弟子たちの群れは壊滅していたでしょう。

そのとき、一人の弟子がはっきりと言いました。
「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。』」6:68‐69

この言葉をシモン・ペトロがはっきりと口にしたので、皆の前で彼がイエスに向かってはっきり言ったので、ペトロとその仲間に大きな変化が起こりました。イエスを信じて告白したとき、そこに命が通いました。イエスを中心とする弟子たちの集まり(教会の原型)は新しく強くなりました。

「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」
ほかのだれでもないあなた、イエスさまが、それを持っておられる。私たちがそのために生き、そのために死ぬことのできる永遠の命の言葉をイエスが持っておられる。人がそれを聴いて、それを自分の心とからだに宿してそれで生きていける言葉。あなたの持っておられる言葉が私たちを守ってくださる。あなたから来る永遠の命の言葉が私たちを救ってくださる。

イエスさまから弟子たちに流れ込んでいた命の言葉は、今、少数の弟子たちの中に宿り、弟子たちの心に溢れて流れ出します。

今の時代、特に日本においては、信仰と宣教の困難が続いています。新しい弟子はなかなか増えず、古い弟子が離れていく。ある人はイエスさまの命の言葉に出会うことなしに。ある人はイエスさまの言葉を「ひどい話」だと思って。

ぐちを言うことも不満を言うことも嘆くことも心配することも私たちにはあってよい。けれども私たちに必要なのは前向きにする言葉、勇気ある信仰の言葉です。

「あなたがたも離れて行きたいか」
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
これが私たちの言葉となるように。勇気ある信仰の言葉、告白の言葉が、自分と周囲の人々に希望を与えます。

イエスさまを信じるのは幸せなことです。元気なときばかりではなく、困難なとき、危ういとき、孤独のときに、「あなたは一人ではない。あなたにはわたしがいる」と、イエスが言ってくださるからです。イエスを信じるとはそういうことです。

この教会、幼稚園の庭になぜアンパンマンがあるのでしょうか。アンパンマンは危うい人に自分を食べさせてその人を生かし、自分は弱っていきます。「わたしは命のパンである」と言われたイエスさまと同じです。アンパンマンは自分を食べさせても、不思議とまた新しく回復する。イエスさまは神さまと通じ、またご自身が神さまですから、その命は無限なのです。

イエスさまは永遠の命の言葉を持っておられます。私たちの生きる力、エネルギー、私たちの命となる言葉を、イエスは私たちに与えてくださる。私たちはその命の言葉を食べて生きる。イエスが願われたとおりに、その言葉が今日、私たちのものとなりますように。
私たちをとおして、イエスさまの命の言葉が私たちの周りの人々に希望を与えますように。

(2006/08/27 京都聖三一教会)

日ごとの聖句226 信仰告白

日ごとの聖句226 信仰告白

2006年8月27(日)聖霊降臨後第12主日
見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。イザヤ12:2

8月28日(月)
主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった。イザヤ12:2

8月29日(火)
あなたたちは喜びのうちに、救いの泉から水を汲む。イザヤ12:3

8月30日(水)
ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」ヨハネ6:68

8月31日(木)
「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」ヨハネ6:69

9月1日(金)
「わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」24:18

9月2日(土)
民はヨシュアに答えた。「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」ヨシュア記24:24

星をかぞえる夜

 尹東柱の詩の訳を試みました。



  星をかぞえる夜

季節が移りゆく空には
秋でいっぱい 満ちています。

わたしはなんの憂いもなく
秋の中の星々をみな数えられそうです。

胸の中の ひとつ ふたつと 刻まれる星々を
今すべて数えきれないのは
すぐに朝が来るからで、
明日の夜が残っているからで、
まだわたしの青春が尽きていないからです。

星ひとつに 追憶と
星ひとつに 愛と
星ひとつに 寂しさと
星ひとつに 憧れと
星ひとつに 詩と
星ひとつに お母さん、お母さん、

お母さん、わたしは星ひとつに美しい言葉をひとことずつ呼んでみます。小学校のとき机を並べた子らの名まえと、佩(ペ)、鏡(キョン)、玉(オク)、このような異国の少女たちの名まえと、すでに赤ちゃんのお母さんとなった娘たちの名まえと、貧しい隣人たちの名まえと、鳩、小犬、兎、らば、鹿、フランシス・ジャム、ライナー・マリア・リルケ、このような詩人の名まえを呼んでみます。

これらの人たちはあまりにも遠くにいます。
星がはるかに遠いように、

お母さん、
そしてあなたは遠く北間島(プッカンド)におられます。
わたしは何か恋しくて
この星の光が降る丘の上に
わたしの名まえの字を書いてみて、
土でおおってしまいました。

夜を明かして鳴く虫は
恥ずかしい名を悲しんでいるからです。

けれども冬が過ぎて わたしの星にも春が来れば
墓の上に青い芝草が萌え出るように
わたしの名まえの字がうずめられた丘の上にも
誇らしく草が生い繁るでしょう。

1941.11.5

自画像

 「キリスト新聞」9月の号に4回、コラム「橄欖」に短文を寄せることになり、私の愛する詩人・尹東柱が9月に書いた詩を四つ紹介することにしました。

 その一つ、「自画像」の私なりの訳です。


  自画像

 山の麓をめぐって 田んぼのそば ぽつんとある井戸を ひとり尋ねて行っては、そっとのぞいて見ます。

 井戸の中には、月が明るく、雲が流れ、空(天)が広がり、真っ青な風が吹き、秋があります。

 そして ひとりの男がいます。
 なぜかその男が憎らしくなって、帰って行きます。

 帰ってから考えると、その男がかわいそうになります。ふたたび行ってのぞいてみると、男はそのままいます。

 またその男が憎らしくなって、帰って行きます。
 帰ってから考えると、その男がいとおしくなります。

 井戸の中には、月が明るく、雲が流れ、空(天)が広がり、真っ青な風が吹き、秋があり、追憶のように 男がいます。

                    1939.9


 彼の詩を読むと時々、たまらなく悲しくいとおしい感情が溢れてきます。これもその一つです。
 こうした詩の中に自分を感じてしまうからでしょうか。

 「井戸」は聖書の中でも大事な言葉。大切な出会いがいくつも井戸、泉のほとりでありました。

 「追憶のように 男がいます。」

 井戸の中に映った自分を見ながら、彼はいつの間にか将来の自分になり、そこから過去の自分を見つめています。
 まるで現実から遊離しているようですが、おそらく逆に、これは時代の困難と自分自身の内なる困難に深く関わっているところから来るのではないかという気がします。

靖國神社の大燈篭

246f55ad.jpg 靖國神社がどのようなものかについてひとつご紹介し、合わせて私の意見を書きます。

 靖国神社の本殿の前には二つの大燈篭があって、参拝者はその間を通ることになります。左右それぞれに八つの図とその説明が刻まれています。近現代において日本がアジアで行った戦争の場面を示すレリーフで、合計一六枚あります。一方は陸軍の戦争、他方は海軍の戦争場面です。

 そのうちの1枚には、大燈篭とそのレリーフ全体の趣旨を説明した言葉が刻まれています。 この大燈篭を靖国神社に奉納したのは富国徴兵保険相互会社ですが、ここにこれを献げた趣旨がこう述べられています。

 軍国内外多事の秋
 我社創立十周
 年に値ふ我等は此の際皇運の進展に
 寄与せる尽忠靖国の士を追慕し
 其の遺烈を景仰するの情
 轉た切なるもの有り
 乃ち社員胥謀り
 石灯台雙を祠前に献納して神恩を敬謝し
 更に宝祚の無窮を守護し奉らむことを祈請す
 若し夫れ礎石に鐫せる・戦奮闘の図を観て感憤興起し
 義勇奉公の念を新にすべきは
 竊に之を後勁の士に望むありと云爾
         昭和十年十一月二十二日
          富国徴兵保険相互会社
            取締役社長 根津嘉一郎謹記

(一部文字が正確に出ていないところがあります。)


 現代語訳しますと

 天皇と日本国家のために忠義を尽くして戦って死に、靖国にまつられた人々を追慕して、その後世に残る功績を慕い仰ぐ思いはいよいよ切なるものがある。 そこで社員たちが考え相談し、石の燈篭二つを社の前に献納して靖国の神々(戦争で死んでここにまつられた人たち)の恩を敬い感謝し、さらに靖国の神々が天皇陛下の位が窮まることのないように守護し奉ってくださるように祈願する。
 もし、石に彫りつけた皆殺しの戦いの奮闘の図を見て感激発憤して立ち上がり、天皇とお国のために忠義を尽くし勇を鼓して奉公しようとの念を新たにしてくれればと、後に続く強い兵に期待する。

 これが靖国神社の精神であり、目的です。

 テレビに出て来て首相の靖国参拝について語る人々は、この恐ろしさを知っているでしょうか。

 日本国家は侵略戦争ために多くの青年を駆り出しました。そして戦死した人々を「神」としてこの靖国神社にまつりました。 「その尊い功績を覚えて、天皇と国家のために後に続け」と、命を差し出すように教育してきた機関がこの靖国神社です。

 戦没学生の手記を読むとき、彼らが自分たちの死について疑問を抱きながら、なお「この死には意味がある」と、自らを無理に納得させて死んでいったことが感じられます。あまりにも悲しく無念です。

 1993年8月、第5回日韓聖公会宣教セミナーが東京・川崎を会場として開かれた際、私たちは大韓聖公会からの参加者と一緒に靖国神社に行きました。

 実は、行く前は韓国の参加者の中にも「今更そんな昔のものを見て何になるのか」と疑問を投げる方も多かったのです。ところが実際に行ってみると、韓国人も日本人もひどいショックを受けました。

 「自分たちをあれほど苦しめた日本の侵略戦争を、今もこのように美化・正当化し続けるとは何たることか。一体日本はどうなっているのか。日本の教会は何をしているのか」というのが大韓聖公会の人々の叫びでした。 今もあの戦争の傷は癒されていない。大韓聖公会の中にも「軍隊慰安婦」として徴用された方がおられると聞いています。

 このようなことは絶対に繰り返してはならず、正当化してはなりません。戦死者の追悼はまったく違う仕方でしなければなりません。軍隊、戦争、暴力ではなく、平和を実現するという明確な姿勢をもって亡くなった人々を記憶・記念するのがほんとうの追悼です。

 靖国は「戦死した人を尊んでまつる」ということで、人の心を縛ります。これがもっとも危うい点です。国家が自己の目的のために国民の魂を縛るのです。しかしこれは戦死者を尊ぶどころか、もう一度ひどい目に遭わせることです。

 私はこれを「呪縛」と呼びたいと思います。偶像崇拝とはこういうことを言うのであって、キリスト以外の宗教全体を偶像崇拝と呼ぶべきではありません。

 預言者エゼキエルは、その時代の「呪縛」をはっきりと認識し、明確に神の言葉を伝えました。

 エゼキエル書第13章18〜23節

「あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。災いだ、人々の魂を捕らえようとして、どの手首にも呪術のひもを縫い付け、どんな大きさの頭にも合わせて呪術の頭巾を作る女たちよ。お前たちはわたしの民の魂を捕らえ、自分たちの仲間の魂を生かしておこうとする。

 お前たちは、ひと握りの大麦とひとかけらのパンのゆえに、わが民の前でわたしを汚し、欺きの言葉に聞き入るわが民を欺くことによって、死ぬべきではない者を殺し、生きるべきではない者を生かしている。

 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしは、お前たちが、人々の魂を鳥を捕らえるように捕らえるために、使っている呪術のひもに立ち向かい、それをお前たちの腕から引きちぎり、お前たちが鳥を捕らえるように捕らえた魂を解き放つ。

 また、わたしはお前たちの頭巾を引き裂き、わが民をお前たちの手から救い出す。二度と、彼らがお前たちの手に捕らえられることはない。そのときお前たちは、わたしが主であることを知るようになる。

 お前たちは、わたしが苦しめようとはしていないのに、神に従う者の心を偽りをもって苦しめ、神に逆らう者の手を強め、彼らが悪の道から立ち帰って、命を得ることができないようにしている。

 それゆえ、もはやお前たちがむなしい幻を見ることも占いをすることもなくなる。わたしは、お前たちの手からわが民を救い出す。そのときお前たちは、わたしが主であることを知るようになる。」

 「わたしは、……呪術のひもに立ち向かい、それをお前たちの腕から引きちぎり、お前たちが鳥を捕らえるように捕らえた魂を解き放つ。」

 神さまは呪縛から人を解放してくださるのです。

小泉首相の靖国参拝

454361fe.jpg
 2006年8月15日、日本の敗戦61年記念日の今朝、小泉純一郎首相は靖國神社を参拝し
ました。
 私は頭に血が上ってくる気がして苦しいです。

 これでまたマスコミは大騒ぎになり、感情的な対立が渦巻いて、そうしてもつれながら結局この国はある方向へと突き進んでいくのではないかと危惧します。

 冷静に事実と事態を見極めるのではなく、人と社会にたまっている漠然とした肯定的否定的感情が燃え上がり、ほんとうに見つめるべきものを見えなくさせてしまうのではないかと恐れます。

 私は次のようなことを願います。

1. 靖國神社そのものを知ること
 靖國の創立事情、目的、実際に靖國がしてきたこと、果たしてきた役割を知ること。また実際にそこに何があり、今、どのような展示がなされ、それに触れる人がどの方向へと導かれるかを考えること。

2. 15年戦争(満州事変1931〜太平洋戦争1945)についてしっかりした認識を持つこと。
 私が重要と感じた本の中から三つを挙げます。いずれも岩波書店。
 家永三郎『太平洋戦争』
 野田正彰『戦争と罪責』
 奥平康弘『治安維持法小史』

3. 戦争当時の記録、証言が読まれること。
 例として
『きけ わだつみのこえ──日本戦没学生の手記』について私の次のホームページに記してありますので、よろしければご覧ください。
http://www002.upp.so-net.ne.jp/izaya/Tsuito.htm

 フランス文学者渡辺一夫はこの書の巻頭に次のような感想を寄せています。

「……しかし、それでも本書のいかなる頁にも、追いつめられた若い魂が、自然死ではもちろんなく、自殺でもない死、他殺死を自ら求めるように、またこれを『散華』と思うように、訓練され、教育された若い魂が、若い生命のある人間として、また夢多かるべき青年として、また十分な理性を育てられた学徒として、不合理を合理として認め、いやなことをすきなことと思い、不自然を自然と考えねばならぬように強いられ、縛りつけられ、追いこまれた時に、発した叫び声が聞かれるのである。

 この叫び声は、僕として、通読するのに耐えられないくらい悲痛である。……」

「僕は、……二、三枚読んだ時、黒い野原一杯に整然と並べられた白い木の十字架を見た。そして、読んでゆくうちに、その白い十字架の一つ一つから、赤い血が、苦しげに滲み出るのを見た。
 このような十字架は、二度と立ててはならぬはずである。たとえ一基でも。」

「……若くして非業死を求めさせられた学徒諸君のために、僕は、心から黙祷を献げたいと思う。」

(『新版 きけ わだつみのこえ』岩波文庫860円)

 今や書店でもネットでも、中国、朝鮮に対する憎悪ともいうべき感情が溢れかえっています。個人も社会も国も、自分が責められることには長く耐えられません。

 私は長年にわたって日本のキリスト教の(自己)批判的検証に関わってきましたが、「罪責を引き受けることはいかにして可能か」ということを考えるべき時期に来たと思います。

 キリスト教の信仰箇条には「罪のゆるし」があります。人の悔い改めと神のゆるしが、人と社会の再生の道であることを、個人のレベルでも社会的なレベルでも明確にしていくことができればと考えています。

 「罪のゆるし」は、人は罪を犯してもなお生きることをゆるされ、意味と祝福のある人生を生きることができる、ということです。孤立ではなく、信頼・連帯・協力の道です。

ハガルの神──あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)

 これは日本聖公会京都教区センターで開かれた日本聖公会人権セミナーの聖書研究で話したものです。 

                     2006/08/07

 新約聖書の最初に置かれたマタイ福音書は次のように始まります。

「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを……」

 この系図によれば、イエスの祖先はアブラハムであり、次いでその息子イサクの名が挙げられて、はるかに下ってマリアの夫ヨセフに至っています。
 けれども創世記は、アブラハムにはもう一人の年上の息子があったことを記しています。イシュマエル。アブラハムの正妻サラの女奴隷ハガルが産んだ子どもです。

 アブラハムとその一族の物語は長い物語です。創世記第11章27節から始まります。アブラハムの父テラはチグリス・ユーフラテス川のほとり、カルデヤのウルに住んでいましたが、何か理由があって家族を連れて川を西に遡り、ハランで亡くなりました。アブラハムはそこで主の声を聞いて、家族、一家を率いてカナンの地にやってきます。

 神は二つの約束を彼に与えておられました。一つは定住の地を与えるということ。もう一つは子孫を増し加えるということ。しかしいずれも容易には実現しませんでした。アブラハムとその家族を何度も天幕を移し、ようやく、今のエルサレムからずっと南西の方、ヘブロンの北にあるマムレという所に一応の落ち着き場所を得て暮らしていました。

 異民族の間に暮らすことになったさすらいの一アラム人(「滅びゆく一アラム人」申命記26:5)であるアブラハムと妻サラにとっての深く重苦しい悩みは、いつまでたっても子どもが与えられないということでした。神の約束はほんとうに確かなのか。自分たちはこのような異国に来て、ここで滅びてしまうのではないか、という不安がたびたび夫婦を苦しめました。サラはそこで当時の習慣に基づいてある決心をし、夫に提案します。

 創世記第16章1-5節。

 「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです」(5)とサラは夫に訴えています。「不当な目」と訳された言葉はヘブライ語の「ハーマース」という言葉で、「暴力」「暴虐」とも訳されます(エレミヤ51:35)。violence! と、助けを求めて叫ぶときに用いられる言葉だそうです。

 サラは自分が受けたことを不当な暴力と感じ、夫アブラハムに、また神に正当な裁きを要求しました。

 16:6-12

 しかしここから、聖書記者の関心は家を飛び出したハガルに注がれます。ハガルはサラの仕打ちに耐えられなくなって逃亡しました。お腹に赤ちゃんを身ごもったまま、ただひとり遠くまで行きました。「シュル街道に沿う泉のほとり」とあります。シュル街道はエジプトとの国境に至る道です。ずいぶん遠くまで行ったのです。疲れ果てました。だれも知った人はなく、何のあてもありません。のたれ死にの危険があります。

 そこで人に出会いました。誰かが「彼女と出会って」(16:7)。これは偶然であったともとれます。しかし「出会って」と訳された言葉には「見出す」という意味もあります。「探し求めて見出した」とも読める(ヨハネ9:35。イエスが生まれつき目が見えなかった人を探し見出されたのと同じ「ヘウリスコー」が旧約聖書のギリシア語七十人訳で用いられている)。主語は「主の御使い」です。

 主の御使いは彼女を捜し、見出し、出会われた。9、10、11と3回連続で「主の御使いは言った」と繰り返されている(7-8節も含めれば4回)ことに注目しましょう。
 「主の使いは彼女に言った。」
 「主の使いは彼女に言った。」
 「主の使いは彼女に言った。」
 神はハガルを絶対に放置せず、彼女が生きる道をはっきりと示し、約束を与え希望を示されるのです。
 ところで「主の御使い」とは、ここでは人の姿で現れた神ご自身です。それは10節で分かります。
「わたしは、あなたの子孫を……」

「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。
その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから。」16:11

 ここでは、人間の姿をした神ご自身が存在して語っておられます。

 主人からその存在を軽んじられ、否定される扱いを受けたハガルのおなかの子を、神が愛し、その存在を貴いものとし、その子の将来を祝福しておられます。
 「エル」とは神の意味。イシュマエルとは「神が聞かれる」という意味です。神がハガルの嘆きと祈りを聞かれたのです。
 この子イシュマエルの存在そのものが、神が人の嘆きを聞かれるということを証しするものです。

 ところでイシュマエルの将来について語られた言葉は、それにしては異様な気がします。
「彼は野生のろばのような人になる。
彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので
人々は皆、彼にこぶしを振るう。
彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。」16:12
これはひどいと感じられるかもしれません。

 しかしクラウス・ヴェスターマンというドイツの人はここをこう訳しています。
「彼の手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らうでしょう。そして彼は、その兄弟すべてに向かい合って住むでしょう。」

 これは幼子イエスについて言われた言葉と通じていないでしょうか。
 イエスさまの生後1ヵ月前後、あるいは40日後でしょうか。マリアとヨセフはイエスをエルサレムの神殿に連れて行って礼拝し、神に献げました。その時、シメオンという老人に会いました。シメオンは幼子を抱いて神を賛美して言いました。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」ルカ2:29-30

 その後、シメオンはマリアにこう言うのです。
「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。』」ルカ2:34-35

 幼子イエスは、やがて成長して、多くの人を倒したり立ち上がらせたりする。反対を受けるしるしとして定められている。人(軽んじられ、抑圧された人々)を愛されたイエスは、そのことによって人(力を持った人たち)に逆らい、人の反感と憎しみを受け、抹殺されることになりました。「反対をうけるしるし」。

 イエスさまはファリサイ派に逆らった。律法学者に逆らった。神殿警察に逆らった。大祭司に逆らった。ローマ総督に逆らった。民衆を愛し、その人権(その人の貴さ)を擁護しようとしたからです。
 イシュマエルは人に逆らい、人は彼に逆らう。見ようによってはイエスとまったく一致しています。

 キリスト教は愛の宗教であり、世界と人々の間に和解と平和をもたらすはずのものだと言われます。まったくそのとおりであり、そのとおりにしたいと願います。しかし、愛や平和や和解という言葉の陰で、不当な現実が黙認されてしまうことがあり得ます。ここはよく注意しなくてはなりません。言葉、態度、振る舞いその他によって、ある人が深く傷つけられ、押しつぶされるようなことが起こったとします。そのような人にとっての正義、そのような人にとっての平和を正面に据えず、単に双方に和解を求めるとすれば、それは被害者を沈黙させ、抑圧する暴力です。正義の回復を棚上げにして「和解」を強いるのは暴力です。正義が回復されてこそ和解が現実になる。安易な和解はイエスがもたらそうとされるものではありません。

 ハガルの話に戻ります。
 16:13-16
 ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言いました。「顧みる」はその通りなのですが。「見る」という直接的な行為がここには含まれています。神はハガルの現実を、ハガル自身を、イシュマエル自身を見た。ご覧になったのです。直接にはっきりと見た。見たから、ハガルとイシュマエルを守ろうされた。希望を約束してその人生を前に向かって歩み出すようになさったのです。「顧みる」という大事な言葉があいまいにならないように、抽象的にならないようしたい。事実を見る、現実を見る。神が見られたのだ、ということを記憶しましょう。

 神がハガルを見られた。そしてハガルも神を──人の姿をした神を見ました。見続けていました。ヴェスターマンはこう訳しています。
 「本当に、私は神を見た、彼が私をご覧になった後に!」

 神を見るということが、葛藤、迫害、孤独、危機の中で起こったのです。
 ハガルは御使いの言葉に従ってサラのもとに帰りました。


 それから時が流れ、サラは子どもを産みました。イサクです。アブラハムとサラにとってこの上ない幸福が訪れました。しかし一家の中に新しい問題が生じました。イサクの乳離れの日に、アブラハムは盛大な祝宴を開きました。イサクは3歳前後でしょうか。
 ハガルの子、イシュマエルがイサクと戯れているのをサラは見ました。

 21:9-13

ハガルとイシュマエルは家から追放されます。

21:14-16

 ハガルが背中に負ったのはパンと水の革袋であったのか。新共同訳ではもうひとつ明確ではありません。ある訳を見ると、アブラハムは「子どもを彼女の肩の上に乗せて別れを告げた」となっています。
 ヘブロンのマムレからハガルはイシュマエルを背負ってあてもなく南の方、ベエル・シェバの荒れ野をさまよいました。水はなくなり、道に迷い、助けてくれる人はおらず、子どもは渇いて死のうとしています。
 ハガルはイシュマエルを灌木の下に寝かせました。この子が死んでいくのを見るに耐えられなかった。
「『わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない』と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。」
ハガルが泣き、子どもが泣きました。
 その時、声が聞こえました。

21:17-20

「神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。
『ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。
立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。』
神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。
 神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。」

 かつてハガルをご覧になった神は、今度はイシュマエルの泣く声を聞かれました。泣く声を聞いて神は黙していることができない。ハガルに呼びかけ、その子の命と将来の責任を神が引き受けると言われます。神が立ち上がって働いてくださるので、ハガルはイシュマエルを抱き上げて、腕でしっかり抱き締める。勇気を出して、この絶望的と思われた現実を引き受けるのです。神を信じて、現実を引き受けて生きる。主体的な信仰の生き方がここで始まります。
その時、目の前に水のある井戸があるのにハガルは気づきました。神がハガルの目を開かれたのです。ハガルはイシュマエルに水を飲ませ、彼女も飲み、息を吹き返しました。

 物語の最後、20節に注目しましょう。

「神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。」
神がその子と共におられた。
マリアが天使のお告げを聞いた最初。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」ルカ1:28

 神はハガルと共におられた。神はマリアと共におられた。神はイシュマエルと共におられた。神はイエスと共におられた。


 私はアブラハムとサラという私たちの信仰の祖先の意味と価値を軽んずるものではありません。しかし、その陰にあって苦しみ、死ぬ寸前であったハガルとその子イシュマエルの存在を貴いものとしたい。神がハガルとイシュマエルを貴いものとし、そのいのちを守り、生きる道を開かれた。そしてハガルとイシュマエルも、神の守りのもとで自らの人生を切り開いて歩んでいったことを記憶したいと思います。

 「イシュマエルは荒れ野に住んで弓を射る者となった。」

 今の社会も教会も荒れ野になりつつあるのではないでしょうか。憲法と教育基本法の改悪、共謀罪新設の危険。教会の中に起こる痛ましい出来事。人の心の荒廃。
荒れ野に住んで、この大地と社会と教会と人の魂を荒廃させる力に対して、その核心にねらいを定めて弓を張り、矢を射ることは、私たちのすべき大切な働きです。

エリヤの霊がエリシャの上に

エリヤの霊がエリシャの上に

                     列王記下2:1−15

 自分の協力者はいないのか。自分が弱って死んだ後、だれがそれを引き継いでくれるのか。疲れ、失敗しつつも、懸命に自分をささげてしたきた働き、神のためのわざを、だれが継承してくれるのか。それが預言者エリヤの悩みであり、祈り求めでした。

 時は紀元前9世紀、北王国イスラエル。アハブ王の治世でした。

 エリシャの時代の王、アハブも、軍事力と富と権力を拡大し、イスラエルは繁栄を誇るかに見えました。しかし事実は、潤っているのは一部の貴族と金持ち。多くの人々は重税と労働と戦争に苦しめられていました。しかも、イスラエルの信仰的指導者である祭司、預言者と言われる人たちがそれを批判せず、自分たちの保身と安泰のために王と国家に迎合する態度をとりました。そういうなかで、神に対する真実の信仰は衰退し、道徳的退廃が生じました。

 エリヤはこのような時代に、イスラエルに正義と信仰を回復しようとしてほとんど孤立無援の戦いをしてきたのです。

 地中海に面するカルメル山という山があります。エリヤはカルメル山で、王と民の前でただひとりバアルの数百人の預言者と対決しました(列王記上第18章)。カルメルには主の祭壇がありましたがいつのまにか壊され、すでに荒廃していました。神の民の現実を象徴するものでした。エリヤは嘆きつつ、主の祭壇を修復しました。祈り求めるエリヤに、主なる神は火をもって答えられました。だれの目にも、エリヤの神がまことの神であることが明らかになりました。

 ところがかえってエリヤは命を狙われ、遠く逃亡したのです。道で彼はもう疲れ果ててえにしだ木の下にすわり、「主よ、私の命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありません」と死ぬことを願いました。

 しかし神は御使いによって彼に水とパン菓子を与え、眠らせ力づけられました。エリヤは立ち上がってシナイ山まで行き、そこで祈りました。シナイ山で彼は、「静かにささやく」(列王記上19:12)神の声を聞き、再び使命を受けてイスラエルに戻って行きました。

 エリヤにとって協力者、後継者を得ることは緊急の課題でした。そして彼は、畑を牛によって耕していたエリシャにそれを見出したのです。

 数年を経て、弟子のエリシャは次第に成長してきました。けれどもエリヤはもう自分には時が残されていないのを感じていました。エリシャもそれを知って、恐れていました。自分には力がない。今エリヤを失ったら自分は立てなくなる。

 エリヤは自分が世を去る時が来たことを知りました。エリシャもそれを感じ、どこまでもエリヤについて行こうとしました。それが今日の旧約聖書日課です。

「エリヤはエリシャに、『主はわたしをベテルにまでお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい』と言った。しかしエリシャは、『主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません』と答えたので、二人はベテルに下って行った。ベテルの預言者の仲間たちがエリシャのもとに出て来て、『主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか』と問うと、エリシャは、『わたしも知っています。黙っていてください』と答えた。エリヤは、『エリシャよ、主はわたしをエリコへお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい』と言った。しかしエリシャは、『主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません』と答えたので、二人はエリコに来た。」列王記下2:2‐4

 エリシャはエリヤから絶対に離れたくなかった。エリヤを去らせまいとして、どこまでも一緒に行ったのです。

 エリヤは別れにあたって、自分に与えられている神の力をエリシャに与えたいと切に願いました。
 エリヤは言いました。
 「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい。」

 エリシャは言いました。
 「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください。」
 神のわざをするためには、ただ知識と技術と経験では足りない。神の霊が必要なのです。二つの分とは、正式の後継者としての力という意味です。弟子たちがエリヤの霊の遺産の均等割を受けるというのではなく、特別に神からエリヤに与えられている力を自分にいただきたい。

 エリヤは言いました。
「あなたはむずかしい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない。」
「彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。エリシャはこれを見て、『わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ』と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。」2:10‐12

 エリシャが自分の衣を引き裂いたのは、悲嘆と絶望からです。エリヤを失い、自分は無力なまま取り残された。もう自分は何をすることもできず、この国には未来はない。

 天から外套が落ちてきました。エリヤの外套です。
「エリヤの着ていた外套が落ちて来たので、彼はそれを拾い、ヨルダンの岸辺に引き返して立ち、落ちて来たエリヤの外套を取って、それで水を打ち、『エリヤの神、主はどこにおられますか』と言った。エリシャが水を打つと、水は左右に分かれ、彼は渡ることができた。
エリコの預言者の仲間たちは目の前で彼を見て、『エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている』と言い、彼を迎えに行って、その前で地にひれ伏した。」2:13‐15

 これはイエスさまとイエスさまの弟子たちが経験したことと同じです。

 この世界に神の国を実現するために、イエスさまは協力者を求められました。後継者を求められました。イエスはそれを願い、弟子たちもそれを願いました。しかしイエスは去って行かれ、弟子たちは無力でした。弟子たちは悲嘆にくれました。
 エリシャがエリヤが天に昇っていくのを見たように、弟子たちもイエスが天に昇られるのを見ました。

 エリヤの外套がエリシャに与えられました。エリヤの外套を受けることによって、エリシャはエリヤの霊を継承した。エリヤに働いていた神の霊を受け継いだのです。

 弟子たちはイエスさまの何かを得たのでしょうか。エリヤの外套以上のものを弟子たちは与えられたのです。それは聖霊、イエスの霊、イエスの愛の力です。

 パウロの言葉を聞きましょう。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」ガラテヤ3:26

 これは最初の弟子たちだけのことではありません。私たちのことなのです。私たちはエリヤの外套以上のもの、キリストそのものを着せていただいた、あるいはいただくのです。身を守る、柔らかくて温かい外套です。キリストが私たちを包み、キリストが私たちの中で、私たちをとおして生きてくださいます。

 エリヤの外套を手にしたエリシャは、ヨルダン川に来ました。水が多くて渡ることができません。エリシャはエリヤの外套を持って水を打ちました。すると水は左右に分かれて道ができ、向こう岸に渡っていくことができました。

 私たちもキリストという外套によって、進んで行けないと思う不可能なところを越えて、先に進んでいくことができるのです。

 エリコの預言者の仲間たちは目の前で彼を見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言いました。

 私たちの上には、イエスの霊がとどまってくださいます。
                 (2006/07/30 京都聖三一教会)
最近の記事
Archives
最近の関心

 『日韓キリスト教関係史資料』第3巻の編集
 リコーダーの世界
 音と響き
井田 泉
奈良基督教会牧師
親愛幼稚園園長
富坂キリスト教センター・日韓キリスト教関係史研究会主事
聖公会平和ネットワーク共同代表

Mail
izaya*da2.so-net.ne.jp
(*を@に変更してください)

カウンター
最新刊
『これが道だ、これに歩め
──イザヤ書による説教』
かんよう出版
213頁 1500円+税

ここをクリックして
  ←左本文をご覧ください
ブログ内検索

WWW を検索 http://blog.livedoor.jp/izaya/ を検索