Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

2006年10月

聖公会平和ネットワーク 聖公会新聞

61f6e4b4.jpg聖公会平和ネットワーク 聖公会新聞2006年11月号

聖公会平和ネットワーク 聖公会新聞記事

 きょう(10月27日)届いた聖公会新聞11月号の1面トップに、聖公会平和ネットワーク発足の記事が掲載されています。

(以下、記事内容)

教会の新生も視野
 聖公会平和ネットワーク
  名古屋で発足集会開催


 京都教区では、約2年前から京都伝道区を中心に聖職・信徒有志たちが集まり、月2回定期的に「平和を求める夕の祈り」の集いが続けられてきた。また東京では「五本木9条の会」等の活動が継続されている。その願いと思いを同じくする人たちが連携するために、聖公会内のネットワークの必要性が認識され、今年2月ごろから準備が進められてきた。

 そして9月22日(金)、名古屋聖マルコ教会で発足集会が開催され「聖公会平和ネットワーク」が正式に発足し、以下の趣意書を採択した(写真は発足集会の様子)。当日の参加者は16名で、日本聖公会正義と平和委員会委員長・谷昌二主教のほか多数の賛同メッセージも届いた。
 今後の活動として当面、このネットワークを各教区に広げていくこと、青年層にも呼びかけること、来年宿泊の研修会を開くことなどを考えているという。

 聖公会平和ネットワーク 趣意文[紙面では一部省略されていますが、ここには全文を掲げます]

 私たちは、主イエス・キリストがそのいのちを通して示された愛と正義にもとづく平和がこの世界に実現することを願い、互いに祈りはげましあい、行動するために、このネットワークに連なります。
 神に愛され神に仕える者として、この国や社会、そして私たちの教会をも呑みつくそうとする闇の力に対して、次のことを大切にしつつ、共に立ち向かいます。

1)急速に進みつつある日本の国や社会の軍事化、管理化、非人間化に対して、正義と平和を実現するための取り組みをすすめます。ことに、日本国憲法第九条に表された平和の実現を広く世界に求めます。
2)それぞれの考えや活動を大切にしながら、より多くの人々に平和の願いを広げるため、伝えあい助けあいます。
3)願いを同じくするさまざまなグループや組織との協力を大切にしつつ自由に活動します。
4)「日本聖公会95宣教協議会宣言」および1996年の日本聖公会第49(定期)総会における「日本聖公会の戦争責任に関する宣言」を継承しつつ、それぞれの課題を担います。

 私たちはキリスト信仰の告白としてこの働きに加わります。

   2006年9月22日
    

 同ネットワークの呼びかけ人のひとりである井田泉司祭(京都聖三一教会牧師)は、次のように話している。

「私たちはただ社会的・政治的な運動をしたいと考えているわけではありません。日本聖公会は教勢が下降し、また深刻な問題がいくつも起こっています。霊的枯渇や腐敗とも言うべき現実があり、国や社会の誤りを正すだけではなく、私たち自身の清め、新生が必要だと感じています。教会が自由な空気を呼吸できるところとなり、礼拝が神との生きた出会いを経験できる場所になってほしいと願っています。

 韓国の讃頌歌に『主イエスと共に行くので、そこはいずこも神の国』という歌がありますが、今日における主イエスの神の国運動につらなりたいという思いです。憲法9条を焦点としながら、信仰に基づいた平和と人権の具体的な取り組みを進めたいと願っています。

『人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もないと、万軍の主の口が語られた。』このミカ書第4章4節の言葉を思い浮かべています」。
聖公会平和ネットワーク発足集会

日ごとの聖句235 2006/10/29〜11/4 アーメン


 主の祈りの最後、「アーメン」の出る箇所を新約聖書から選びました。


2006年10月29日(日)聖霊降臨後第21主日
「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」ローマ1:25

10月30日(月)
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」ローマ11:36

10月31日(火)
「平和の源である神があなたがた一同と共におられますように、アーメン。」ローマ15:33

11月1日(水)諸聖徒日
「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように、アーメン。」ガラテヤ6:18

11月2日(木)諸魂日
「わたしたちの救い主である唯一の神に、栄光、威厳、力、権威が今も、永遠にいつまでもありますように、アーメン。」ユダ1:25

11月3日(金)
「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」黙示録7:12

11月4日(土)
「わたしたちを王とし、神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。」黙示録1:6

日ごとの聖句234 2006/10/22〜28 タリタ・クム

日ごとの聖句234 タリタ・クム

2006年10月22日(日)聖霊降臨後第20主日
会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。マルコ5:22‐23

10月23日(月)
「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」マルコ5:23

10月24日(火)
そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。マルコ5:24

10月25日(水)
イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。マルコ5:36

10月26日(木)
イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。マルコ5:40

10月27日(金)
イエスは子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、起きなさい」という意味である。マルコ5:41

10月28日(土)使徒聖シモン・聖ユダ日
少女はすぐに起き上がって、歩きだした。マルコ5:42

主を求めよ、そして生きよ

主を求めよ、そして生きよ

アモス5:6‐7、10‐15

 旧約聖書は、必ず読まなければなりません。

 私たちの救いと、この人生を歩むための導きは、主イエス・キリストから来ます。イエス・キリストから私たちの救いと導きは与えられます。新約聖書はそのイエス・キリストを私たちに示しています。その意味では、私たちにとっては新約聖書で十分と思われるかもしれません。

 けれども旧約聖書は必要なのです。神さまを知るために、イエス・キリストを知るために、神の救いの大きさ、深さを知るために、旧約聖書は大切なのです。

 私たちは信仰上、ひとつの間違いを犯しやすい。それは、神の救いを小さく狭く考えてしまうことです。もう少し言いますと、神さまの救いは、魂の救いのことだけだと考えてしまうことです。
 神の救いの働きは、私たちの魂の救いだけではなく、世界の救いなのです。

 こう言ったからといって、私は魂の救いを軽んじる訳ではありません。反対に、私は魂の救いを切実なものと思っています。私はこれまでに3回、神さまを見失いました。神を見失ったとき、私の魂は暗闇でした。何を失っても、神を得たい。神がこの魂を救ってくださることを願いました。これはただ過去のことではありません。最近も、心の調子の悪いときがあって、外出中にかばんに聖書が入っているかどうかとても心配で探したことがありました。幸いかばんの中に新約聖書が入っていました。取り出して読みました。

 「神よ、守ってください。あなたを避けどころとするわたしを。」詩編16:1

 この言葉に私の魂はすがりつくのです。この言葉で私の魂はかろうじて保たれます。詩編がなければ自分は生きることができない、とさえ思います。

 その上でこのように言いたいのです。──神さまの救いは、この私の魂のためであり、隣人のためであり、この社会、この世界全体のためである、と。

 ほんとうは新約聖書もそうなのですが、旧約聖書、特に預言書は、隣人のこと、社会と世界のことが神さまのことであり信仰のことであることを、はっきりと知らせてくれます。

 今日の旧約聖書日課はこう始まっていました。アモス書第5章6節です。

 「主を求めよ、そして生きよ。」

 神は、私たちが生きることを願っておられる。主なる神さまを求めて見出すこと。そうしてこそ、私たちは生きることができるのです。神さまを見出さないと、生きることが危うい。
 けれどもその続きに何が書いてあるでしょうか。

「主を求めよ、そして生きよ。
さもないと主は火のように
ヨセフの家に襲いかかり
火が燃え盛っても
ベテルのためにその火を消す者はない。
裁きを苦よもぎに変え
正しいことを地に投げ捨てる者よ。」5:6‐7

「彼らは町の門で訴えを公平に扱う者を憎み
真実を語る者を嫌う。
お前たちは弱い者を踏みつけ
彼らから穀物の貢納を取り立てるゆえ
切り石の家を建てても
そこに住むことはできない。
見事なぶどう畑を作っても
その酒を飲むことはできない。お前たちの咎がどれほど多いか
その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。
お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り
町の門で貧しい者の訴えを退けている。」5:10‐12

 世の中の現実のことを預言者は訴えています。不公平な裁判。弱い者、貧しい人への虐げ。法外な税金(貢ぎ物)の取り立て。人が物のようにたやすく売り買いされること──神はこれをご覧になって悪とされる。神が悪と見ておられるのに、黙っていることはできない。それが預言者アモスでした。

「それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。
まことに、これは悪い時代だ。
善を求めよ、悪を求めるな
お前たちが生きることができるために。
そうすれば、お前たちが言うように
万軍の神なる主は
お前たちと共にいてくださるだろう。」5:13‐14

 沖縄に新しく巨大な米軍基地が建設されようとしています。そのために莫大な税金が使われます。放置すると、美しい沖縄の海は汚され、その基地によって多くの人の血が流されることになるかもしれません。自分たちは戦争の被害者にも加害者にもなりたくない、と切実に願った沖縄の人たちのひとりが、基地構内に入ろうとした車の前に立ちはだかってけがをしました。その人は逮捕され、拘束されました。平良夏芽(たいら・なつめ)という牧師です。2日後に釈放されました。預言者アモスなら、巨大な軍事基地を造ろうとする大きな力を決して支持せず、それを止めようとして逮捕されたこの人を支持するでしょう。

 世の中の不義不正に同調しているなら、私たちは生きることにはならない、というのがアモスの訴えでした。

「善を求めよ、悪を求めるな
お前たちが生きることができるために。」

 ところで新約聖書に、世の中の間違いを直視して、虐げられた人の側に立って行動し、不当に逮捕された人がいました。だれでしょうか。イエスさまです。
 ヨハネによる福音書の、イエスさまが捕らえられるところを読んでみます。

「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『だれを捜しているのか』と言われた。彼らが『ナザレのイエスだ』と答えると、イエスは『わたしである』と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
……そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛った。」18:4‐6、12

 イエスは、神を信じ善を行おう、正義を行おうとして断乎として立っておられます。イエスを捕らえに来た人たちのほうがおびえています。
 「だれを探しているのか」
 「ナザレのイエスだ」
 イエスが「わたしである」と言われると、捕らえに来た人たちが衝撃を受けて地に倒れてしまいました。イエスの存在が、イエスさまの声が力を持っているのです。

 イエスさまが不当に逮捕され、不義の判決を受けて死なれたのは、私たちの魂を愛されたばかりではなく、私たちの心と体と、私たちの精神と私たちが生きることと、その全体を、私たちそのもの全体を愛されたからです。
 誤った世の中に同調して私たちが滅びるのを、イエスさまは願われなかったのです。

 イエスさまは最後の晩餐の席でこう言われました。
 「わたしが生きるので、あなたがたも生きる。」ヨハネ14:19

 かつてアモスはその時代を「まことに、これは悪い時代だ」と嘆きながら、「主を求めよ、そして生きよ」と訴えました。
 その声はイエスさまに届いて大きく反響しました。
 イエスはこう言われました。
 「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」マタイ17:17
けれどもイエスさまは、私たちがよこしまな時代に押し流れてしまうことを願わず、私たちに呼びかけておられます。
「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」と。

 私の魂が生き、隣人が生き、社会と世界が生きることが、主イエスさまの願いです。そのために「わたしは生きる」と言われます。
主を求め、善を求めて、私たちもイエスさまに生かされて生き、イエスさまとともに生きましょう。
   (2006/10/15 京都聖ステパノ教会・京都聖三一教会)

インマヌエル──「マタイによる福音書」

インマヌエル──「マタイによる福音書」

新約聖書の最初の書物、「マタイによる福音書」を、私は「インマヌエルの福音書」と呼びたいと思います。福音書の最初と最後に「神は私たちと共におられる(インマヌエル)」「わたしはあなたがたと共にいる」という言葉があり、その約束がこの福音書全体を包んでいるからです。

1. 1:23 「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

 ヨセフは、婚約者マリアが自分の知らぬまに身ごもったことを知り、苦しみ迷った末に離縁を決意しました。しかしヨセフの夢に天使が現れて、「あなたの[ギリシア語原文]妻マリアを」受け容れるように、またその子をイエスと名づけるように、と言います。

 神の子イエスが人の子として誕生したことによって、「神は私たちと共におられる(インマヌエル)」ということが、私たちにとって確実な具体的現実となりました。

2. 2:11 「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」

 東の博士たちがイエスを拝んだこと、特に黄金を献げたことは、イエスを真の王、救い主として求め信じて受け容れたことを示します。イエスは私たちを守り、治め、導く王であり、この方のもとで私たちは他のものを恐れることから解放されます。イエスというただひとりの方が臨在し(インマヌエル)私たちを統治されることにより、私たちは他のすべてのものから自由にされます。

3. 5:11 「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」

 イエスを信じ、あるいはイエスの精神にならって生きようとすることで自分の身に困難が降りかかるとき、この困難の中で私たちとイエスは一体となります。インマヌエルが事実となります。

4. 6:9 「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。』」

 「主の祈り」は、こことルカ11章に記されています。イエスご自身の祈りを私たちも一緒に祈るのが主の祈りです。主の祈りを祈るとき、私たちは祈りにおいてイエスとひとつとされます。

5. 8:16 「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』」

 イエスは単に病の治療を行われたのではなく、人の病と重荷をご自分に引き受けられたのでした。

 引用は旧約聖書・イザヤ書53:4から。イザヤ書第53章は「苦難の僕」の歌として知られます。当時のだれかの姿を描きつつ、同時におよそ500年後の救い主の姿を予見したものです。

6. 8:23 「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、『主よ、助けてください。おぼれそうです』と言った。」

 嵐の中でイエスは私たちと共におられます。その事実を私たちはしばしば知らないでいますが、それをはっきり知るとき、私たちの嵐は静められます。

7. 11:28 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 イエスは疲れた私たちを招き、ご自身のもとに私たちを休ませてくださいます。労苦において私たちはイエスと一つとされ、休息においても私たちはイエスと一つになるのです。

8. 17:6 「弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることはない。』彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。」

 3人の弟子たちは山の上でイエスの真の姿を見、神の声を聞きました。神を畏れてひれ伏すことと、起こされて立ち上がることの中で、弟子たちは「イエスが一緒におられる」というもっとも大切なことをはっきりと知りました。

9. 18:12 「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

 イエスは、失われた私を探し求め見出してくださる私の羊飼いです。

10. 26:31 「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。『今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。“わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう”と書いてあるからだ。』……するとペトロが、『たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません』と言った。イエスは言われた。『はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。』」

 弟子たち、とりわけペトロは、どのようなときにもイエスと一緒にいることを願いました。しかしそれはできませんでした。しかしそのような弟子たちのために、その弟子たちの羊飼いとして、イエスは彼らと一緒にいようとされます。

11. 28:8 「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」

 イエスのほうが待っていて、彼女らに声をかけられました。彼女らは喜び、イエスを礼拝します。

12. 28:18 「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」

 イエスの弟子となり、イエスから教えられ、イエスに守られ導かれること、そしてイエスの願い(神の国)を広げる働きに参加することは最高の幸せです。

 私たちを統治する王として、また守る牧者として、イエスは私たちと共におられます。
(2006/10/8 京都聖三一教会での聖書の会)

日ごとの聖句233 2006/10/15〜21 誘惑

2006年10月15日(日)聖霊降臨後第19主日
「主を求めよ、そして生きよ。」アモス4:6

10月16日(月)
「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」マタイ6:13

10月17日(火)
いかに幸いなことでしょう。弱いものに思いやりのある人は。詩編41:2

10月18日(水)福音記者聖ルカ日
幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。ルカ2:40

10月19日(木)
イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。マルコ1:13

10月20日(金)
「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」マタイ26:41

10月21日(土)
しかし、神はわたしの魂を贖(あがな)い、陰府(よみ)の手から取り上げてくださる。詩編49:16

イエスは私たちを兄弟姉妹と呼ばれる

「事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
『わたしは、あなたの名を
わたしの兄弟たちに知らせ、
集会の中であなたを賛美します』と言い、……」ヘブライ2:11‐12

 今日の使徒書、ヘブライ人への手紙第2章の言葉です。
 イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。イエスさまは私たちのことをご自分の兄弟姉妹と呼ばれる。私たちはイエスさま弟であり妹である。──これは普通のことでしょうか?

 ふと思いついた兄弟の例を挙げます。湯川秀樹。物理学者でノーベル賞を受賞。その兄に貝塚茂樹という東洋史学者がおられ、弟には小川環樹という中国文学者がおられます。いずれも「樹」が付く京大名誉教授でほんとうの兄弟です。地位や名声、業績を論じることは福音的でなくなる危険があるのですが、「樹」の付く京大の兄弟ということで兄弟としてイメージしやすいので例として挙げました。

 しかしイエスさまと私たちはそんなふうに共通しているでしょうか。

 イエスさまは神のことを思っておられた。しかし私たちはたいてい神さまのことではなく、人間のことを思っています。
 イエスさまはまっすぐであったのに私たちは曲がっています。イエスさまは清かったのに私たちは清くない。
 もし私たちがイエスさまの兄弟であるとしたら、まったくの不肖の兄弟であって兄弟の名に値しない。普通、人間の世界では、そんな弟や妹がいるとしたら恥になるので、兄弟であることを隠すのではないでしょうか。

 ところが今日の聖書はこう言います。
 「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」
 私たちがどうであっても、イエスさまは私たちのことをご自分の兄弟姉妹として公然と受け容れられる。イエスは私たちを大事な弟、妹としてかばい、私たちをご自分の傍らに引き寄せ、引き立てられるのです。イエスがそのようにされる。

 イエスさまが私たちのことをご自分の兄弟姉妹とされるとは、どのようなことなのでしょうか。

 本気で私たちのことを心配される、ということです。
 私たちが元気でいるかどうか。私たちがまっすぐに生きているかどうか。私たちが人から抑えつけられたり、自分で自分を抑えつけたりしていないか。人を抑えつけたりしていないか。私たちが困っていないか悲しんでいないか。イエスはそれを心配してくださるのです。

 本気で私たちのために憤られる、ということです。自分の大事な弟や妹が不当に傷つけられたり、辱められたりしたら、ただではおかない。イエスは私たちのために憤られるのです。
 イエスが憤られる、ということを理解してください。私たちにはひょっとしたら固定観念があるかもしれない。キリスト教は愛の宗教である。イエスさまは愛の人である。愛の人は憤ったりしない。すべてを受け容れ、すべてを赦す。──このようなイメージは一般に持たれているようですし、私たちもそのように思いやすい。けれどもこれでは大切なものを見失います。

 イエスが憤られたことは聖書にはっきり書いてあります。
 
 ある町の会堂に入られたとき、イエスは片手の不自由な人に出会われました。安息日で、働いてはいけない日でした。人々はイエスを訴えようと思って、イエスがその人を癒すかどうかを見ていました。イエスのうちには、その人に対する愛が燃えていました。しかしとりまく人たちは、その人のことなどどうでもよくて、ただ口実をとらえてイエスを陥れようとしてねらっていました。その心の冷たさ、汚さをイエスははっきりと感じられた。

「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。」マルコ3:5

 ここにイエスさまが憤られたことがはっきりと書いてあります。その怒りと悲しみはひとつです。それは愛から来るのです。

 私たちが不当に傷つけられたり辱められたりするとき、イエスは本気で憤られる。それはイエスが私たちを愛しておられるからです。

 私たちのことを心配し、私たちのために憤られるイエスの願いは、私たちが成長して自立することです。そして私たちが一つの願いを持って、一緒に歩むことです。イエスが私たちと共有したいと願っておられる一つの願いとは、神の国を目指して歩むこと、神の国をたとえ断片的ではあってもこの世界に実現することです。

「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」マルコ3:34‐35

 「ここにいる」と言われるのは、私たちのことです。尻込みしてはいけません。イエスさまと一つになって神さまの御心を行うために私たちは招かれたのです。何を遠慮することがあるでしょうか。何を臆することがあるでしょうか。
 私たちは同じひとりの神さまから出たのです。

 イエスさまの弟、妹、主の兄弟姉妹としていただいたこの光栄を大切に現していきましょう。
(2006/10/08 京都聖三一教会)

10月の説教予定

 10月中の説教予定を次のように決めました。

10月1日 「主が霊を授けて」民数記11:29
10月8日 「イエスは私たちを兄弟姉妹と呼ばれる」ヘブライ2:11
10月15日「主を求めよ、そして生きよ」アモス5:6
10月22日「わたしが飲む杯を飲み」マルコ10:38
10月29日「主は熱情を上着として」イザヤ59:17

 10月15日のみ京都聖ステパノ教会、他は京都聖三一教会です。10月15日の京都聖三一教会ではステパノと同じ内容のメッセージ朗読になります。

日ごとの聖句232 2006/10/8〜14 ゆるし

2006年10月8日(日)聖霊降臨後第18主日
イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。ヘブライ2:11

10月9日(月)
わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから。ルカ11:4

10月10日(火)
幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。ルカ1:76‐77

10月11日(水)
しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。
わたしは主に望みをおき、御言葉を待ち望みます。詩編130:4‐5

10月12日(木)
イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」ルカ23:34

10月13日(金)
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。ヨハネ一 1:9

10月14日(土)
主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。ヤコブ5:15

森井眞『ジャン・カルヴァン──ある運命』

2006年9月24日(日)

 森井眞『ジャン・カルヴァン──ある運命』(教文館、3300円)を読み終えた。
 カルヴァンの全書簡に目を通した上で書かれた最新の伝記。
 非常に良かった。
 
 スイス、特にジュネーヴにおける宗教改革について、時代状況、内容、人物、精神等にわたって非常に深く教えられた。フランスにおける宗教改革について知ることができたのも有益。すさまじい労苦と闘い。
 
 彼がギリシャ・ローマの古典を重視していたこと、ジュネーヴに本格的な研究・教育機関であるアカデミーを設立したことも印象的。
 
 広辞苑は次のように説明。
 
 「カルヴァン【Jean Calvin】フランスの宗教改革者。カルヴァン派の祖。1541年以後ジュネーヴで改革を遂行。聖書をキリスト教信仰と教義の唯一最高の基準とする立場から、教会の制度・儀式だけでなく一般市政と市民の風習・生活を改革し、一種の神権政治を行なった。主著『キリスト教綱要』はスイス・フランスのカルヴァン派にとって聖書に次ぐ規範。(1509〜1564)」
 
 「神権政治」という言葉で括るのは誤った印象を与える。
 
 彼が死ぬひと月前に牧師たちに語った別れの言葉。

「私は取るに足りない者なのに、ジュネーヴで起こった騒動を3000件も押さえてきたのです。」

「私の為したことは何の価値もなかったし、私は惨めな被造物なのだと。でも言ってよければ、私の願ったことは正しかったと。」

 カルヴァンの生涯は55年。
 遺言には自分のことを「ジュネーヴにおける神の言葉の仕え人」と記している。

 彼の生涯は誤りなき生涯ではなかった。致命的な罪を犯したと思われる出来事もある。しかし彼は主の証人として、今日の私たちに呼びかける。私はカルヴァンによって魂の底から揺さぶられる経験をした。
  
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